「花を観賞する品種の桜の実は大きくならないんだって。知ってた?」
 役場へと向かう車の中で、妻は突然そう言った。
「ふうん……そうなんだ。知らなかった」
 僕はぼんやりと、唯そう答えた。
「となりの空地の桜の木、切られて、もう無いの知ってた?」
 先程と同じ調子でサラリと妻は言ったが、その一言に僕は少なからず動揺してしまった。
「えっ、いつ? なんで?」
「去年の十月頃だったかな、家でも建つのかと思ったけど。今も空地のまま?」
「そうだと思うけど……意識してないから分からないな」
 そう答えると、僕は煙草を取り出して火を点け、車の窓を開けた。
 よく晴れた四月初旬、平日。この日を限りにして婚姻関係に終止符を打ち、別々の人生を歩む事に決めていた僕と妻は、けじめだからとふたりで役場の窓口へ行き離婚届を提出する事にした。既に別々に暮らしているふたりの、夫婦としての最後の共同作業だった。
 全然気づかなかったな……。僕は、後悔をしていた。

 その切られてしまったという桜の木は住宅街にある僕たちの家、今は僕だけが住んでいる家のとなりにある空地に一本だけポツンと立っていて、その生長した幹は、毎年、春になると満開の花を咲かせていた。そして、その満開の桜は夜になると白色に光る街灯の、ほのかな明かりの中に浮かび上がり、まるで異空間から現れ出たかのようであった。その夜の桜を見るのが僕たちは好きだった。部屋の灯りを消しカーテンを開け放つと、花びらの群れは幻想的に耀う。それをふたり並んで飽きもせず、いつまでも眺めるのだ。そんなときの妻の横顔は、とても幸せそうに見えた。その桜の木が切られて、もう無いという。僕は妻に、たった今それを告げられるまで、その事にまったく気づかなかった。
「これから、お花見に行かない?」
「……花見?」
 その唐突な提案に、僕は思わず聞き返してしまった。
「だって、これから離婚届けを……」
「いいじゃない、ふたりの新しい門出なんだから。門出の祝いの代わり」
 僕の言葉を遮り、妻はそう言った。僕は少し考えた。いや、考えるふりをした。
 心のうちでは既に行くと決めている。
 あの夜の桜は、もう見ることは出来ないが、今一度、妻と一緒に桜が見たい。
「そうだな、行こうか」

 地元の桜の名所、H山に着くと平日の為か、花見客の数はさほど多くはないようだった。車を駐車場に停め、ここへ来る途中で買い込んだノンアルコールのビールと、つまみの入った袋を持ち、満開の桜が咲き誇る並木道を歩いた。少し先を歩く妻は、とても上機嫌だ。桜は既に散り始めていて、風が吹くと無数の花びらが舞う。低い山なのだが、遮るものが無い為、少し風がつよい。
「寒くない?」
「ううん、だいじょうぶ。すごく綺麗だね」
 並木道の先には芝生が敷き詰められた広場があり、花見客がそれぞれ、思い思いに過ごしている。幸い、と言っていいのかどうか、ふたりが見知っている顔はいないようだ。僕たちは広場の隅に据えられた、頑丈そうな木製のベンチに腰を落ち着かせ、ふたりで乾杯をした。
「何の乾杯?」
 いかにも可笑しそうな妻に、
「門出の祝いなんでしょ」
 と言い笑った。そして、笑った事により僅かに心が融けたふたりは、最近あった出来事などをいくつか話しあった。他愛のない話だったが、こうして再び妻と話が出来ることがうれしかった。だが、やがて会話は途切れがちになる。
 この、あまりにささやかな宴が終われば、ふたりは明日から別々の人生を歩まなければならないのだ。
 ふと、僕は辺りを見渡してみた。広場では、あちらこちらで酔客が仲間と賑やかに飲み交わしている。そのうちの男のひとりは、となりにいる女性を口説き落とそうとしているようだ。うまくいくだろうか。子供連れの若い夫婦がいる。僕たちには子供が出来なかった。更に若い恋人同士もいる。ふたりは互いの手を固く握り合い、咲き誇る桜に見入っていた。
 それらの間を、桜の花びらがヒラヒラと舞う。花びらは、まるでこう言っているように思えた。来年も必ず会いましょうね。その次の年も、また、その次の年も──。
 そして、僕は妻と過ごした日々を思い出していた。

 まだ付き合い始めの頃、些細なことから大喧嘩をして、僕は彼女からの電話に一切出ないときがあった。それが十日ほど続いたあと、真夜中にアパートのドアを激しく叩く音で僕は目覚めた。何事かと思いドアを開けると、そこに彼女が立っていた。何も言わず立ち尽くす彼女を、僕はそっと部屋の中へ招き入れた。
 やがて僕の妻となった彼女は、とても幸せそうに見えた。僕は彼女の為と思い、それまで以上に貪欲に働いた。出世し、稼ぎを増やす事が、彼女の幸せに繋がると思っていたからだ。必然的に、ふたりの時間は徐々に減っていき、年月を重ねるごとに彼女はあまり笑わなくなっていった。分かってくれている。と思っていた。甘えていた。仕事も年々、重要な内容のものを任されるようになった。仕事の面白さを知り、同時に自信も膨らんでいった。自信は僕を輝かせたのだろうか。会社の事務の女性に誘われた。断るべきだった。しかし誘いに乗った。秘事はやがて露見し、彼女は家を出た。去年の暮れのことだった。話し合いを続けた。赦されることではないのは分かっている。だが一度の過ちではないか、赦してほしい、償わせてほしい。彼女は意固地になっていた。まったく聞き入れてはくれなかった。やがて結論を出さざるを得なくなった。何が彼女をそんなに意固地にさせたのか。それは今日、分かった。あの桜の木は切られてしまったのだ。彼女は僕を試したのだ。
 あなたは気づいているの? あなたはわたしを見ているの?
 僕が気づくことはなかった。そして、彼女の気持ちは断ち切られてしまったのだ。あの桜の木が切られてしまったのと同じように。話し合いを続けている頃、僕は仕事で重大なミスを犯した。自信を失い、気力も萎えていた僕は、部署替えを申し出た。そして仕事は減り、平日であろうと休みを取れるようになった。
 僕には何も残っていなかった。そして、失うものの大きさを知った。
「桜の花は散るけど来年になれば、また咲くんだよね」
 その声で僕は我に帰った。妻を見ると、やさしく微笑んでいる。その何と慈愛に溢れている貌であろうか。何故、そんな貌をしてくれるのであろうか。
 僕は──堪らなくなった。堪らなく悔やんだ。しかし、くちから衝いて出たのは、
「もう、行こうか」だった。
 少しの間を置き、妻はちいさく、うん。と頷き、眼を伏せた。

 帰りも来た時と同じ並木道を何も話さず歩いた。妻は少し後ろを歩いている。
 すると、道の向こうから老夫婦が互いに寄り添いながら歩いて来るのが見えた。
 段々と近づくと、その老夫婦は僕たちの家の近所の顔見知りの方だと分かった。
「こんにちは」
「おお、こんにちは」
 老夫婦も気づいたようだ。
「仕事さぼって花見かい? 仲がいいねえ」
 そう言って冷やかすおじいさんに僕は苦笑いをしたが、
「そちらこそ仲がいいですね」
 と、返した。すると、一歩さがり微笑んでいたおばあさんが、しずかにくちをひらいた。
 それはまるで、僕たちを諭し、労わるかのように。
「そんなことないのよ。いろいろとあるのよ。お宅だってそうでしょ?」
 それは、なにげない一言だったのだろう。ありきたりな一言だったのだろう。
 しかし今の僕たちにとって、やけに意味深に聞こえるその一言は、桜の花びらが舞い散る景色と融け合い僕の心を打った。傍らにいる妻を見ると、ジッとふたりを見つめている。

 老夫婦と別れ、僕たちは再び歩き出した。
 妻は少し後ろを歩いている。
 もう、あと僅かで桜の並木道は終わりだ。
 僕は後ろを振り返り、そして、言った。
「あのさあ……」

(了)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-19

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