あの未曾有の大災害から一か月ほど経ち、世の中が少しだけ落ち着きを取り戻していた頃のことだ。今年も、やがて暑い夏が来る。そんなことを感じさせる日だった。
 その日、自転車に乗り、リフォーム工事広告のポスティングなどという慣れない仕事をしていた私は午後の三時頃になるとすっかり疲れて果ててしまっていた。なので、スーパーマーケットなどが併設しているショッピングモールを視認し、そこに通りかかると、モール内で見つけたベンチで一服することにした。スーパーマーケットの端にあったそのベンチのまわりには他に誰も居らず、私は一日中自転車を漕いで疲れきっていた脚を遠慮なく投げ出した。
(ああ、疲れた)
 脚をマッサージしながら前面に広がる駐車場を見渡すと、ほぼ満車の状態で買い物客がひっきりなしに行き来している。あの後、しばらく続いた慢性的な商品不足はどうやら解消したように思われた。
(なんで、俺がこんな仕事をしなけりゃならねえんだ。営業の仕事じゃねえか)
 缶コーヒーを飲み煙草を一本吸い終わると、人心地ついた私はブツブツと今日の仕事の文句を言っていた。普段の私は現場監督を生業としていて、今日のような仕事はまったくといっていいほど不慣れだったからだ。
 するとそこへ、ひとりのおばあさんが突然、私に向かって声を掛けてきた。
「すみません、バスの停留所はどこにありますか?」
 何年か前まで仲良くしていた同僚に福島県出身のひとがいた。元々、大工だったそのひとは現場監督の仕事は自分には向いていないと常々言っていて、結局辞めてしまったのだが、おばあさんの話し方のイントネーションはそのひとにとてもよく似ていた。
「バスの停留所?」
「避難してきたんです。おじいさんが具合悪くなっちゃって」
 私は「バスの停留所」としか言わなかったのだが、おばあさんはそう答えた。
「避難? おじいさん?」
「震災で事故を起こしたあの町から避難してきて、いまはこの街にいるんです」
「へえー、大変ですね……。それで……おじいさん?」
「あっちにいるんです。座り込んで動けなくなっちゃって」
 それを聞いた私は、とりあえず、おばあさんが指差すほうに歩き出した。おばあさんは小走りに私を先導した。

 百メートルほど行き、店舗の裏にまわると、道が一本まっすぐに通っていた。反対側は、あたり一面に広がる畑で住宅などの建物は遠くのほうにしか見あたらない。車や人が通る気配はまったくといっていいほどなかった。つい先ほどまで、日常という喧噪のなかにいた私は異世界に足を踏み入れた錯覚にとらわれた。が、そんな訳はないと苦笑し、改めておばあさんの行くほうを見ると、畑わきの石の上に、おじいさんがポツンと座り込んでいた。腰を折り曲げて膝に顔をつけ、いかにも苦しそうにうずくまっている。
「おじいさん、大丈夫?」
 私は声を掛けてみたが、おじいさんは膝に顔をつけたまま少しだけ頷くだけで、まるで閉じた貝のようにその姿勢のまま動かない。おばあさんは苦渋に満ちた顔で立ち尽くしていた。
「バスに乗れるの? 救急車呼ばなくてもいい?」
 正直、めんどうだなと思った。普段車にしか乗らない私にはバス停の場所は分からない。ポスティングしなければならないチラシはまだ三百枚ほど残っていた。早々に再開しなければ、空が暗くなり、辺りがよく見えなくなっても、まだポストにチラシを入れ続けなければならない。ショッピングモールのなかを行き交う者はいくらでもいるのに、何故、私に声を掛けてきたのだろう。ズボンのポケットに手を突っ込み、煙草の箱を取り出そうとしたが無い。先ほどのベンチに置き忘れてきたようだった。
 そんな私の迷惑に思っている気配を察したのだろうか、おばあさんは一言、すみませんと言った。私はおばあさんを見た。おばあさんの、そのすがりつくような眼はだんだんと諦めの色へと変わっていった。何の感情も表さない、虚無の眼。何を見、何を経験したのだろう、すべてを自らの内側へ閉じ込めようとするその眼を見て、私は半年ほど前に亡くなった、自分の祖母を思い起こしていた。

 私は祖母、おばあちゃんが大好きだった。同じ市内にあるおばあちゃんちには、家族でしょっちゅう行っていたし、小学生の頃までは長い休みのたびに数日泊りにいっていた。おばあちゃんはいつでもやさしくて、不機嫌だったり怒ったりした顔など見たことがなかった。おばあちゃんちから帰るときは決まって夜で、暖色の門燈の下、遠ざかる車に向かい、いつまでも手を振ってくれるおばあちゃんの、さみしそうな、いまにも消えてしまいそうな脆さを感じる、すっかり腰の曲がってしまっている立ち姿は、いまでは私の眼に焼き付いて離れない。やがて私は中学生になり高校生になり、おばあちゃんちへ行かなくなっていった。たまに行ったときも、おばあちゃんの変わらぬやさしさが煩わしく感じた。夜、帰るときも、子供の頃はおばあちゃんが見えなくなるまで躰ごとうしろを向いて手を振っていたのに、申しわけ程度に手を振り、すぐに前を向くようになった。社会人になり実家を出たあとは、まったく疎遠になってしまった。
 おばあちゃんはおじいちゃんが死んだあと急激に落ち込んでしまい、やがて痴呆症を発症したのだという。ふくよかだったのが徐々に痩せ、躰をこわして入院したのだと聞いても私は仕事の忙しさにかまけて、なかなか見舞いに行かなかった。身内の者は皆、似たようなものらしかった。入院してずいぶんと経ってから、いちどは見舞いに行かなければと思い立ち、病室へと向かったのだが、久々に会うおばあちゃんを見て絶句した。おばあちゃんは痩せ衰え、頭も躰もすっかりしぼんでしまい、骨と皮だけしか残っていないように見えた。乾涸びていると形容するしかなかった。話しかけても何の反応もなく、私を見詰めるその眼は何の色も表さなかった。人間の残骸だと思った。もう、何もしてやれないのだと悔いた。何もできないということがあるのだと思い知った。

「わかった。俺、会社に戻って車に乗ってくるよ。ここからすぐだからさ、避難所でも病院でもどこでも送っていくよ。十分か十五分くらい、すぐ来るから。ごめん、待ってて」
 走って煙草を置き忘れたベンチへ戻り、すぐわきに停めてあった自転車を漕ぎだした私は、もういちどふたりに声を掛けようと、店舗の裏へまわった。
 なんでもいい。必要としているひとに、それをできる者がやってあげられることがあるのだ。私はペダルを踏む脚にちからを込めた。
「すぐ来るから──」私がそう言ったとき、おばあさんの眼に微かに宿った安堵の光を、私はいまでも忘れない。

(了)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-19

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