狼の血

狼の血

「本日より、私共は狼になります」
壇上に置かれたマイクの前で、仕立ての良さそうなスーツを身にまとった男はおごそかな口調で宣言した。かすかなハウリングの音が尾を引いて消えた後も、会場は静けさに包まれていた。その後の聴衆の反応は様々だった。口をぽかんと開けて瞬きをする初老の男性、首をかしげながら己の耳に指を入れる者、いかにもやり手といった不敵な笑みを終始顔に張り付かせていた外国人も、隣に座る通訳の声に眉をひそめている。
 無理もない。小学校の休み時間にお調子者が叫んだのではないのだ。世界シェアで常に上位を争うヨコタ自動車の株主総会で、名実ともにトップに君臨するヨコタ社長が開口一番、真剣な表情で言ったのだから。
ヨコタ社長は自身の言葉が浸透するのを待つように、首をぐるりと廻して聴衆の反応を伺った。その瞳は好奇心できらきらさせている小学生のようでもあり、その表情は、大きなことをやり遂げたという満足感に浸っているようでもあった。社長は、戸惑いからざわめきへと変化しつつある会場の雰囲気に満足したように頷くと、再び口を開いた。
「ご存じの方もいらっしゃると思うが、私は走ることに情熱を注いでおります」
ヨコタ社長がレーサーの資格を取るほど走りにのめり込んでいることは誰でも知っている。
「ところが、自動車製造大国でありながら世界で活躍する日本人ドライバーは数えるほどしかいない。いつの日か、日本人ドライバーが当然のように世界で活躍できる日を夢見ております」
ここで社長はコホンと咳をして居住まいを正した。
「我が社のAI自動車に対する評価は著しく低く、それはほとんど不当というレベルに達している。我々はそれに黙って耐えました。よい車を作りさえすればいずれは分ってもらえるという性善説を柱にした技術者の誇りは、誹謗中傷としか思えない言葉を吐く無責任な輩によって無残に引きちぎられ叩きつぶされようとしている。殴られて殴り返さないのは賢さの表れではなく、無力だからと考える連中にこれ以上我慢する必要は無い。私は決断しました。本日0時、全てのAI車に画期的なバージョンアップを行なった。ユーザーの皆様におかれましては、音声認識をオンにした状態でこう叫んで欲しい」
ヨコタ社長は口を結ぶと同時に目を閉じ、大きく息を吸った。しわぶき一つ聞こえない会場の緊張感が高まっていく。スポットライトに照らされた社長の周囲を漂うほこりだけが時間の止まっていないことを教えてくれた。ヨコタ社長はかっと目を開けると、妙に良い声で叫んだ。
「裏モード、ローンウルフ発動」
ヨコタ社長は恍惚とした表情で宙を見ている。光の中で両手を広げ微笑む姿は、善悪の隔てなく世界の全てを受け入れようとする慈母のようであったという。役員らしき関係者が、すっと寄っていって社長に何か耳打ちをした。そのまま社長の腕を取り、2人は壇上から立ち去ろうとしている。
 社長の後ろ姿を呆然と見送っていた聴衆は、その姿が消えると同時に我に返った。皆立ち上がり、口々に何かをわめきながら居残る役員達に説明を求めた。矢面に立たされた哀れな副社長は、殺到する質問に必死に対応していたが、聴衆の声にかき消され立っているのがやっとという状態に陥っている。追い込まれた副社長がまなじりを決して叫んだのは以下のような言葉だったという。
「狼は生きろ、豚は死ね」
この発言は会場に更なる混乱を引き起こし、警備上の理由から総会は中止になった。
こんな世の中である。社長の発言は、興奮した聴衆のツイートによってまたたく間に広がっていった。そして3分後、ついに最初の狼が誕生する。
「狼モードすげえ、最高」
このツイートを皮切りにして、ヨコタ社長を絶賛する内容のツイートが雪だるま式に増えていく。
翌日、朝のニュース番組はほとんどの時間をヨコタ自動車に割いた。ヒマネタで凌いでいたマスコミは滴るよだれを隠そうともせず我先にと狼に群がった。
その中には、実際にヨコタAI車を用意して実演する局もあった。
「裏モード、ローンウルフ発動」
ゆっくりと走行するAI車の運転席で叫んだ若いアナウンサーの顔は、いささか得意げであったが、次の瞬間恐怖に歪んだ。
アナウンサーの声に呼応するようにインパネが一瞬赤く光ったと思うと、ウインカーを出しながら猛烈に加速して前走車を荒っぽく抜き去った。アナウンサーは驚きの表情を顔に貼付けたまま硬直し、カメラの方をみる余裕さえないようだ。しかし、彼の不幸はまだ終わりではない。進行方向の歩行者信号が点滅を始めると、車はスピードを上げ黄色信号の点灯と同時に交差点に突っ込んでいく。更にそこから急ハンドルで右に曲がっていく。いつの間にかウインカーはちゃんと出ている。ハンドルがくるくると機械仕掛けのように(実際、機械仕掛けなのだが)回っているのだが、強烈な横Gに耐えているアナウンサーには面白がる余裕はない。よだれが飛び、カメラに付着したことも気が付かない。映画でしか聞いたことのない派手なスキール音に、気の早い歩行者が転びそうになった。交差点をクリアした車は、獲物を見付けた肉食獣のごとく更にスピードを上げていく。
「裏モード解除、レイジーピッグ」
アナウンサーの声は悲鳴のようだったが、ひどく小さかった。それでも車は理解したようだ。インパネが青く光ると、スピードを落とした。
アナウンサーのほっとした表情を最後に実演映像は終了した。
雄弁さが売りの番組MCは、カメラがスタジオに戻っても引き攣った笑顔を披露するのが精一杯で、永遠とも思える無音を打ち破ったのはありきたりのコメントだった。
「驚きましたね」
当たり障りのないコメントは血の気の引いた顔と釣り合っていなかった。次に発言した自動車評論家も歯切れが悪かった。
「元々ヨコタのAI自動車は、60kmで走行可能な状態でも50km程度に抑えて走行するなど、安全を重視しています。ところがこれを逆手にとり、渋滞の合流などでヨコタAI車の前に割り込む輩が増えました。これをやられるとAI車は延々と合流を許してしまいます。ドライバーの苛立ちは想像に難くありません。しかし、これは安全を重視するという姿勢の……」
突然、CMに切り替わった。よりにもよってヨコタ自動車のCMだ。テレビを見ていた誰もが何かしらモゾモゾする感情を抱いたという。
 もちろん警察も黙っていない。すぐに会見を行ない、AI運転時の違反でも責任はドライバーに帰するとの見解を発表した。しかし翌日には、AI車にわざと譲らせる運転にも責任はあるとトーンダウンした。そして、件の責任問題はうやむやになったままそれ以降報道されることはなくなり、賞賛の声が日増しに高まっていくこととなる。更なるバージョンアップが実装されたのだ。
 今度は乱暴な運転ではない。往年のレーシングドライバーの運転を忠実に再現されたレジェンドシリーズは、発表と同時に大変な人気になった。
繊細かつ大胆なアクセルワークや、しなやかなハンドリングに往年のファン達は陶酔したように魅力を語った。若い世代にも別のシリーズが受けた。
アイドルグループメンバーの運転を忠実に再現した、「私をドライブに連れてって」は、とくに女性に大人気となる。助手席に座り、モードを宣言すると、憧れのアイドルが運転してくれる。高価格でいまいち普及が伸びないAI車の普及に一役買った。この辺りまでくると、発表されていない隠しモードが次々に発見された。延々とウインカーを独特のテンポで点滅する「ニッポンチャチャチャ」モード。ひたすらバックで走行し後ろのドライバーと視線が触れ合う「にらめっこ」モード。そして、禁断の飲酒運転を忠実に再現した「バッカス」モードが発見されると、熱狂は最高潮に達する。信号の色など関係なくぐねぐねと蛇行を繰り返すこのモードは、別名「神モード」と呼ばれバカッターの心を掴み、同時に非AI車のドライバーは恐怖におののいた。
 業界の勢力図はヨコタ1強となり、ライバル会社はなすすべもなかった。しかし、技術を謳うヨッサン自動車がその牙城を崩すべく立ち上がる。カリスマ経営者を追い出した後、経営陣に次々と不正が見つかり自業自得の経営難に陥っていた同社は画期的な車を世に送り出した。ブレーキのない車。俗に言う「カミカゼカー」だ。この車、止まるにはぶつけるしかない。そのため超巨大なバンパーとショック吸収装置を備えており、ドライバーに衝撃はない仕組みだ。
だが、ぶつけられる方は悲惨なことになる。全国から悲鳴ように殺到する事故通報に警察は対応しきれず、無視するという英断を下した。
こうして日本の道路は、レーシングドライバーとアイドルと飲酒運転とブレーキのない車が我が物顔で走り回る阿鼻叫喚の世界となった。
 良いことも一つだけあった。
狂気のAI車が徘徊する道路で育てられた日本のドライバーは異次元の運転を身につけ、世界のレーシングドライバーの99%を占めるようになった。
ヨコタ社長の願いは成就したのであった。

狼の血

狼の血

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-18

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