夕立の空気の淀みと甘い香り
ぬるい風とともにペトリコールが鼻を撫でた。湿気がべっとりと素肌を掴む。汗の逃げ場がなくなり、急に体が重くなった。
「ねぇ、もうすぐふりそうだよ」
少年は不安そうに言った。
「ほんとに? じゃあ、さっきのバス停に避難だ」
少女はそういうと踵を返して走り始めた。
「まってよ!」
少年は少女より歩幅が小さかった。
小さな木製のバス停に入った途端、見計らったように雨が振り始めた。大粒の雨が壁となり空気が重く淀む。ペトリコールは一層強く香っていた。
バス停は待ち人を想定していないかのような小ささで、蜘蛛の巣を避けて座ろうとすると強制的に二人がくっついてしまう有様だった。今にも咳き込みそうな空気に、ほのかに甘い香りが混ざる。
「ほんとに降ってきたね。こりゃすごいや」
「都会に夕立はないの?」
「いや、あるよ。あるけど、雨宿りできる場所は無限にあるからね」
「そうなんだ」
「私一人だったらだめだったかも」
「大丈夫だと思うけど」
「なんで?」
「足、早いし」
なにそれ、と少女は笑って返した。
「今回は君の手柄ってことで。素直にもらっちゃいなよ」
「何を?」
「ご褒美。なんでもいいよ」
「別に、何もいらないよ」
少年は左半身の暖かみに半分意識を持っていかれながら謙遜した。少女は謙遜の奥を見透かすように無邪気に笑っていた。
雨脚は更に強くなる。
「いつまで降るのかな」
少女は少し不安げに灰色の空を指で撫でた。
「夕立だから、すぐ止むよ」
「止みそうにないけど……」
「さっきだって降りそうになかったでしょ」
「それも、そっか」
すぐ、がだいたいどれくらい先のことなのか、少年も見当がついていなかった。
「……やまなくても、バスがあるから」
「来るの?」
「一日二回の二回目がもうすぐくるはず」
「あ、そうなんだ」
少女の表情が少し上向きになる。
「時間通りに来てるとこ、見たこと無いけど」
「あ、そうなんだ……」
少女の表情はまた曇りに戻った。けれど、心做しか先程に比べれば明るい気がする。
会話が一瞬止まり、トタンとコンクリートを叩く雨の音だけが空間に響く。少年は我に返ったように自分の存在を思い出した。手が震えている。
少年はそこで初めて自分の身体が冷えていること知った。空気が一気に冷え、張り付いていた汗が体温を一気に奪っていったからであろう。このまま死なせまいと体内が急ピッチで動いていることが手に取るようにわかった。
「……寒いの?」
えっ、と少年は思わず声を出してしまった。
「べつに、寒くない」
「手、震えてるもん」
「……」
黙りこくった少年に、少女は来ていた上着をかけてやった。少年の周りに甘い香りがまとわり付く。嫌な気は全くしなかった。
「強がりは大人の証だけど、年上の前で強がるのはただの嘘つきだよ」
「……ごめんなさい」
「偉い偉い。じゃあ、これでさっきのご褒美分ね」
真剣な顔になっていた少女は急に先程までのニヤつき顔に戻った。
「え?」
「上着と、人生教訓」
「なにそれ」
少年はそれに吹き出してしまう。上着には人肌の温もりがいっぱいに詰まっていた。震えも少し引いたように感じられる。
「それと……これも!」
少女は上着の上から抱きついた。冷え切って若干青くなっていた少年の顔はみるみる赤く染まっていく。
「ちょ、ちょっとまって!さっきのご褒美には釣り合わないよ!」
「んー? だって、上着脱いだら私も寒いし?」
「だからって……」
「それと、これは君のご褒美じゃなくて私のご褒美だから」
「それ、どういう……」
少年は、少女が見つめている方向に目を向けた。バスが燃費の悪そうな音を鳴らしながら近づいてきていた。少女はしたり顔で少年を覗き込んでいる。
「か、賭けてるなら先に言ってよ……」
少年は絡みついてきた手をどけた。自分の手より冷たいことに少し驚いたが、声にはしなかった。
「これが大人なのよ」
運転手は心做しかニヤついている。
夕立の空気の淀みと甘い香り