猫とラクリモサ

誰かが泣いた日。


「ねえ、先生」
 問い掛けるのは忠告だ。どうか雨に溶けて届きませんようにと願うのだけれど、彼は顔を上げてしまった。どうやら神様は空にはいないらしい。
 奪うように降り頻る雫が皮膚を串刺しにしていく。熱いような冷たいような、曖昧な針が肌を濡らして、Yシャツは不快なまでに張り付いた。
 校舎裏の、焼却炉の裏の、小さな林の中。呼ばれてもいないのに誰かの声が耳を擽った気がして、誘われるがままにふらりと林に入り込んだ。林といっても、長く頼りない木々が十本ほど生えているか生えていないかの集まりなだけ。たまに男女が甘やかな告白や唇を交わしたり、誰かを脅すにはうってつけの場所だった。
 灰色の林の、茂みの端っこで大きな蝸牛が背を丸めて縮こまっている。覚めるような紅色の殻だった。中央に向かうごとに曇りがかった青空のような、寂しい青を覗かせている。この時期には珍しくない紫陽花が彼の背中を侵食していた。
 木陰の隙間からも絶え間なく落ちる雫が殻を――否、小ぶりな(がく)を濡らす。四枚から構成される目映い萼が雫を受け止めては弾けて、小さく震えていた。
「せんせい」
 悪い夢が現実にならないようにと祈りを込めた。彼が生きる現実はいつまでも先生にだけ優しくないから、せめて夢は夢のまま覚めてくれたら、なんて期待していたのに。
「猫、食べちゃダメだよ」
 花の群衆を背負うその人は地に伏せ、重力に堪えるように辛うじて腹の下を浮かせている。彼の手元で大事そうに収まる黒い毛玉は柔らかそうな毛並みで、丸みが崩れないようにと長い指がそっと添えられるだけだった。
 それだけなら良かったのに。雨がすごいから早く帰ろう、と手を伸ばせたのに。こんなに近くにいても、自分は彼に触れるのを躊躇っている。何故なら彼の口許は鉄錆の液体に塗れており、不機嫌そうな瞳は自分を見ているのか見ていないのか、切れないナイフのように鈍い光を宿していた。
「食べてない」
「でも口、」
「…………勝手についただけだ。それにこの子は、もう」
 耳障りな羽音が雨に負けず纏わり付く。彼が続きを洩らさなくとも一目瞭然だった。オパールの遊色が冴える光沢の、緑がかってぴかぴかしたそいつらとはあまり出会いたくない。ぶんぶんと、雨にも関わらず先生の周りを――特に黒い毛玉の辺りを旋回していた。
 悪い夢を見たんだ。とびきりの悪い報せ付きで。
 若き美術教師はいつも悪い噂が絶えない。得体が知れないから宇宙人、髪が強い癖でうねるからワカメ、女生徒に言い寄られているところを目撃されたら売春。人と関わらないせいで、ありもしないことを言われる人だった。
 でも自分が見た夢ではとある女子がひそひそと声を顰めて笑うのだ。運悪く届いた噂話はあまりに根拠がないのに、自分は信じたくないのに、たかが夢の報せを信じてしまったのだ。
 ――園先生って、何が好きか知ってる? あのね、あの人、猫を食べるんだよ。だから顔が猫っぽいんだよ。きっとそうよ。
 ただの夢だと信じてやれない自分が、こんな土砂降りの中、しかも大雨警報で全校生徒が帰されたというのにひとり校内に残って先生を探していたなんて、とても馬鹿げているだろう。
 甘いものばかりを齧る先生。自炊ができないからいつもスーパーで半額のお弁当や冷凍食品を買い込む先生。……体から植物や鉱物、動物の一部を生やすような先生。猫を食べる根拠はない。でも、食べない根拠もない。きっと誰よりも彼を人として認知していないから。彼が自分だけの神様にしてしまったから。
 嫌なことだけれど、先生なら猫を食べるかもしれない。でも、食べてほしくもなくて。これはジレンマだ、願望だ、青い春にかまけた欲望だ。先生に神様でいてほしい自分と、人であってほしい自分との鬩ぎ合い。競り合いを物語るように雨脚は一層強まり、林の中は蝉の合唱の如く姦しいものとなった。
 背負った植物が重いのかもしれない。pHで様変わりをする花は、爪の先にも満たない花弁を、大きすぎる萼の中央で咲かせている。あれを花だと知る人は意外と少ないらしい。
「私もとんでもない何かと勘違いされるようになったか」
「そんなことはないけど」
 それよりなら猫の型でくり抜いたクッキーの方がいいだろう。銀蝿より青林檎の飴が好きだろうし、毛玉よりおはぎの方を大事にするかもしれない。たとえ食肉家だとしても、流石に白いつぶつぶをあしらった腐肉は食べたいとは思わないだろう。
 腐臭は幸いにもぺトリコールで辛うじて誤魔化されているが、それにしても彼は猫だったものを手放そうとはしない。隙間から垂れる雨すら侵食を許さぬように、ひたすら抱き抱えていた。崩れないように手のひらに乗せて、生命を終わらせた塊に頬を寄せながら。
「燐、私は猫なんて食べないし、食べたくない。お前みたいに悪趣味じゃないから。でもこの子は、この子は死んだ。それはお前でも分かることだな、……そうだな?」
「分かるよ、うん……わかる。死んじゃったんだよね」
「…………そう、死んでしまったんだ。猫は生き物だから、死ぬんだ」
「ならどうしてこんなことに?」
「烏にやられたんだろう。でもどの道、この子は死ぬ運命だった。元々細かったし、恐らく餌を取るにも下手くそなんだろう」
「先生は……餌はあげなかったんだね」
「生命を預かるような真似はできないからな」
 私がそんな責任、負えるものか。いつになく饒舌に語った彼は口を閉ざし、もう一度小さな頭を撫でる。固く閉じられた目蓋の縁から小さく白い粒が無数に蠢いていて、感じ取れなかった臭いがここで初めて鼻腔に届き、あまりの悪臭に思わず手で口を塞いだ。この人は何ともないのだろうか。……そうでなければこんなことはしていないか。そうやって自分を納得させながら、驚いたままの胃を慰めるべく、もう片方の手で腹部を摩った。
 そういえば先生が生き物に触れたところは見たことがない。寄生ですら見向きもしなかった。美しいものが嫌いな彼は動植物、果ては人間にまで嫌悪感を丸出しにしていた。かといって不細工な生き物や人に興味を示すかと言えばそうではない。結局は生き物全般に興味がないのだ。
 それでも彼は猫であったものを優しく慈しみながら慰撫する。亡骸に蔓延る蛆虫ですら潰さず、ぱさついた毛並みを整えるようにして、毛の流れに沿ってひたすら。
 死んでいるから撫でてやっているのか。それとも猫は先生にとって心許せる存在だったのか。問いただせるほど、自分は彼のお気に入りでもないし、特別でもない。なんせ猫の死体よりは嫌われているもので。多少の付き合いのお陰で緩和されたと信じたいけれど。
「聞いても仕方ないことなんだろうけど……飼ってやろうとか、せめて餌をやろうとは思ったことないの」
「思わない」
 切り捨てるのは早かった。食い気味に答えたあと、猫にしか向けられなかった眼差しがようやくこちらへと向けられた。春にばっさりと切り落とした髪の毛はもう顎の輪郭に揃うように伸びている。畝った髪は湿って夥しい艶を浮かべており、細い束となった前髪の隙間ではアーモンド型の形良い瞳が細められていた。
「飼うつもりがないなら、尚更餌はやらない。燐は猫の生き様に、人生に、全てに責任が持てるのか。餌をあげるのは所詮、人間の自己満足だ。偽善を働いたことで己はこんなにも優しい人間なんだと勘違いする、愛されていると思い違う。そしてまた繰り返す。私は生憎、そういうものがないんでな」
 まるでお前とは違うのだと、生きる世界も立場も何もかもが異なるのだと断言された気持ちになった。自分ならきっと餌をあげてしまう。擦り寄ってくれたならもっとあげてしまう。でも猫のことをいつまで面倒見てやれるのだろう? 猫はずっとそこにいてくれるのか。いや、自分はいつまで猫のそばにいてやれる?
 自分ならこの子を幸せにしてやれるのに。それ自体が驕りでしかないと――彼はそう告げたいのだろうか。
 やがて疲労が蓄積したのか、縮こまっていた体が伸び、地に寝そべるように平らになった。背中に咲く紫陽花は凛とした姿で咲き誇りながら、容赦なく彼を押し潰そうとする。少しずつ葉や萼を増やす紫陽花の体積は彼の胴体を覆い尽くしているのに、先生はぐうの音も出さず、何とか横になって猫を抱え直す。指の隙間では赤紫の細長い何かが零れていて、また胃の底が掻き混ぜられた。
「……帰れ。何のために早く帰されたと思っているんだ」
「うん、帰る。帰るよ、でもそれ……」
 紫陽花を引っこ抜いてやらなければ。自分のすべきことは寄生を剥がすことで、それが彼のためにも自分のためにもなる。道具ならある、今なら切り落とすくらいならできる。
 悴んだ指が動く気配はなかった。スクールバッグのファスナーを開けば鋏があるのに、多分できなかった。干渉を許さぬ楽園が此処にある。猛雨を潜り抜けてきた者にしか出逢えぬ楽園は、神様と、世を去った者、双方を繋ぐ架け橋でできていた。
 先生と、猫と、紫陽花と。隙間も切れ目もない世界に、自分が入り込める場所なんてなかった。無理矢理作ろうものなら、彼は激怒するから。ただでさえ嫌われているのに、これ以上何かあれば美術室への立ち入りも禁止されるかもしれない。それだけは嫌だった。今更彼のいない世界に放り出されるのは。(でも自分のことだから、けろっとしてなんでもない今日を生きている気もする)
「お前、本当にこれが好きなんだな」
「寄生なんか好きじゃないよ。先生のためだから」
「…………ふうん」
「切らなきゃ、先生は…………」
 本当に、死ぬのだろうか。蛆に齧られる猫みたいに。衰弱する様は目の当たりにしたことはあれど、彼が死に至るような寄生に出逢ったことはない。ただ、今は存在を主張する紫陽花よりも、先生の手に収まる塊にばかり目がいった。泥や枯葉、腐乱した体液で汚れた指は猫以外に触れやしない。先生が自らの意思で猫を抱く、守る。だけど自分には。
 死んだ猫に罪はないのだけれど、今ばかりは恨みたくなった。食べていようがいなかろうが、先生を異質な何かに思わせる猫がずるい。動植物が生えること自体可笑しいことなのに、それが当然となったせいか、死体と共にいるあの人は天使や神様という神々しいものではなく、漫画でよく見掛けるような不条理かつ陰惨な化け物に見える。彼には自分以外の血なんて似合わないのに。俺の血ですら汚れたことがないというのに。
 それでも彼は許す。猫はもう死んでしまったから。これ以上誰からも求められないから。雨に溶けて流れて真っ白な骨だけを残すだけで、後は何も残されていない。だから許されてしまうのだ、と。終わってしまった、から。
「切るなり抜くなり好きにすればいい。だがもう、これ以上は私の邪魔をするな」
 ざぁ、と雨は一層精力を増す。彼の怒号が天に届いたのかもしれない。静かな声音で自分を一蹴する背後で、雨の勢いは留まることを知らない。木の葉の隙間から落ちる雫が首筋にぐさりと刺さって、冷たくて痛くて、でも腑に落ちないことだらけで、と言うよりは、死んだ猫が羨ましいと思い始める自分に驚くばかりだ。
 そう。ずるい、どうして、と浅ましいことを息絶えた黒猫に向けている自分がいる。振り向いてしまえば彼が抱いている猫を振り払ってしまうかもしれない。果たして己はここまで最低な奴だっただろうか。ふやけた指を手のひらに押し込めて握り潰すと、爪が皮膚に食い込んで、少しだけ気分が楽になる。まだそこまで落ちぶれてはいないと、安堵が湿気に包まれて胃の腑に落ちるようだった。
「あのさ、先生」
 見ての通り、この豪雨だ。自分が抱えた思いも吐露されることなく雨に押し流されてしまえ。嘘と息を吐き出してしまえば雨が何処かに押し流してくれる気がした。
「その子のこと、埋めてあげよっか」
 強がりが声を震わせた。雨だから歪んで聞こえるのだという言い訳は既に用意している。薄紫の手毬は雫を着飾り、宿主である先生にすら気にも留めず、空からの落し物を受け入れた。
「…………そうか」
 跳ね除けられるかと身構えていたが、案外素直に話を受け止めると、重そうな背中を今一度丸め、肘と膝を地に付けてゆっくりと四つん這いになる。ぴし、と何かが割れる音がした。彼の手首には、血管にしてはいやに太いものが枝分かれして這っている。枝を切り落とすだけで彼を解放できるとは思えない。引き抜くには根が深すぎる。だが心配を余所に彼は起き上がり、何の苦痛もなさげに地べたへと腰掛ける。
 重量を無視した造形だった。彼の背中からはみし、と軋む音がする。背中が剥がれ落ちる痛みが襲っているはずなのに、彼は小さな塊をそっと降ろし、手のひらに乗せたまま呟いた。
「穴を掘ってやってくれ」
 水を吸って重たくなった髪の毛からはぽたぽたと雫が地面へと吸い込まれていく。容量過多の柔らかな土ではもう猫へと哀悼すら染み込むことはないだろう。嘆きか、叫びか、遠くで地を鳴らす。微々たる振動が水を含んだ靴底を震わせて、足の裏がむず痒くなった。
「うん」
 ショベルなんて持っていないけれど、ぐずぐずに溶けた土なら穴を掘るなんて造作ないことだろう。たとえ考えが甘かったとしても、先生の気が安らぐのなら。それであの人が帰ってきてくれるのなら。
 多分、今日ほど孤独な日はなかった。花に愛され、露に恋され、猫を慈しむ彼に一寸の隙間もないのだと思い知らされる。自分は花びらの一枚にも、土埃の欠片にも、猫の毛一本にもなれない。愛されたいわけじゃないのに。なのに。
「う、」
「先生?」
「いたい」
「えっ、あ、ちょ、先生」
 苦痛を訴える手を取ると、指の下ではぼこりと何かが蠢く。痛みに喘ぐ指はこちらの手をへし折るほどに強靭な力を入れてきて、骨を伝う軋みに恐怖が込み上げた。
 雨水でふやけた指先が縋る。爪が手の甲を抉る。突き放したい衝動を堪えて、先生の手を握り返してやった。痛みも取り憑かれる畏怖も受け止めてやれるのは自分だけだと言い聞かせながら。
「痛い。痛い、いたい、いたい」
 刹那。皮膚の凹凸が引いて、彼の背中が何倍にも大きく膨らむ。紫陽花の群れはざわざわと激しく葉擦れを起こし、先生から一気に乖離した。じゅるり、とぬめる音が背中を走り、引き抜かれた枝は先生の口元よりも明るい赤で染まり、先端を滴らせる。土を汚しても葉や花を汚すことはない。プラムのように瑞々しい赤をひたすらに守り、透明な雫を垂らした。根が剥き出しとなった紫陽花は、別の生き物のようにこちらの前へと座り込んだ。
「……先生から離れた」
 寄生自らが己の意思で、宿主から這い出すだなんて嘗てないことだ。彼を愛するが故に生まれて奪う者たちは、他者から引き抜かれるまで絶対に出て行こうとはしない。隅々にまで根を張り、侵食し、吸い取るだけ。だが紫陽花だけは違う。彼から逃げるように根っこを引きずり出すと、錆臭い赤を垂らしながら先生へと懐へと潜り込む。
「あ、」
 根が伸びて、先生が抱えている猫の頭を撫でる。先生の手付きを真似て、そろりと毛並みを整えながら。先端が幾つにも枝分かれした根は手のように広がり、やがて猫の体を包んでいく。たくさんの根が末広がりになって、猫にまとわりつく虫を追い払いながら極細の触手を絡ませた。
 先生の背中が赤く濡れていたが、手当てよりもひとりでに動き回る紫陽花に注視せざるを得ない。当の本人も呆気に取られていて、痛みなんてそっちのけと言わんばかりに痛々しく彩られた背中を晒す。この時の先生と来たら、滅多に見せないであろうぽかんとした顔をしている。目はかっと開くわ、唇は開きっぱなしだわで、蛆が張り付く指も空気を掴んだまま動かない。
「先生」
「ああ」
 思っていることは一緒だったのかもしれない。ふたりで肩を揃えて見守るしかできないでいた。猫を選んだ紫陽花の行く末を。紫陽花に選ばれた猫の行く末を。次第に根は糸が折り重なり、雨粒すら通さないほどに緻密に目が詰まっていく。
 すると猫は赤ん坊くらいの大きさの繭と化し、それからゆっくりと萎んで、しぼんで、ついには根の繭は解けていく。ここまでで数分も経っていない。風船をゆっくりと膨らませて、ゆっくりと空気を抜いていくような、ほんの僅かな出来事だった。
 そこに猫はいなかった。跡形もなく、猫の欠片も毛の一本もない。猫なんていなかったんだと言わんばかりに根は徐々に短くなった。そして四本ほどの束を作ると、紫陽花は根でできた足を静かに持ち上げ、水溜まりの上に乗せた。当然重力で水は跳ね返り、ちゃぷんと濁った飛沫が上がる。
 だが紫陽花は構うことなく、四本の根を交互に動かし、そろりそろりと歩いていく。気ままに歩く姿ときたら猫そのもので、彼から剥離し、猫を吸い取ったらしい紫陽花は自分と先生から距離を離した。時に振り返るような素振りも見せ、また向き直る。何処が頭なのだろう、前方にあるのが頭なのか。たまにこちらを見ては歩き、また振り返り、を数度行うと、やがて紫陽花は小走りで茂みの奥へと消えた。突然のことで、追い掛ける気すら起きない。ただ見送ることしかできなかった。
「…………俺、紫陽花が走るところなんて初めて見たよ」
「私とお前以外いないだろうさ。これからどうなるか分からないけど」
 紫陽花はいなくなってしまった。供養しようとした猫の死体と一緒に、こんな土砂降りの中へと。先生から離れた紫陽花は何処へ行くのだろう。猫に寄生したのかされたのか、どちらにせよあれはもう二度と帰って来ない予感がする。猫は死ぬ前に飼い主の元をそっと離れると聞いたことがある。あれが紫陽花だろうが猫だろうが、先生の手から逃げた以上、きっと、もう。
 あれほど根が這い出たというのに、何故か先生の背中は生傷ひとつなくて、あるとすればシャツが破れて汚れてしまったくらいだ。彼の膝元では雨に溺れた蛆虫が浮かぶことも叶わず、水溜まりの底で息絶える。シャツには赤茶けた染みがいくつも残されていたが、長い指にも、頬の周りも猫が残したものは何ひとつ見当たらなかった。
 雨に濡れすぎて、腕や太腿の表面には感覚がなく、奥ではやわらかな疼痛が骨に沿って走っていた。制服も靴も髪もぐっしょりと濡れて、隣では片手の形を崩せないまま、片方の手で虚空を撫でる。猫の崩れそうな感触を忘れないようにと、彼は絶えず猫の形を思い描いていた。
「燐」
「なぁに」
「たまには私の話でも聞くか」
「いいよ。先生の話ならなんでも」
 猫の感触は先生の手のひらに染み込み、流れて消えていく。何もなかったんだ。何もなかったことにされたんだ。
 雨は無情だった。猫が生きて死んだことも、猫と先生が茂みの中で逢瀬をしていたことも、猫が死んでも離せないでいたことも無慈悲に流す。自分が猫に嫉妬したことや、寄生を剥ぎたい自分の欲望も一緒に何処かへ追いやってしまった。記憶は脳が見せた幻覚でしかないのかもしれない。それなら雨が降ってふたりで取り残されていたことも、いつかはなくなってしまう。いや、初めからないのかもしれない。先生との思い出も、出逢いすら。
「私はひとつ、嘘をついた」
 茂みがぱっと明るくなる。閃光に満ちた茂みには、地を割るような轟音が鳴り響いた。じんじんと痺れる皮膚を擦りながら、彼のシャツの裾を摘む。猫の体液が取れないまま、きっとごみ箱行きになるであろう白シャツは、彼の土気色を透かしながら大きく波打った。
 ――一度だけ、餌をあげてしまった。小さな悔恨は世界を呑み込む豪雨に攫われていく。そうか、と返すのが精一杯だ。先生らしくない、とも思う。神様らしい、とも思う。彼が餌をあげたことも、あげてないかもしれないことも、自分は見ていないから、嘘として覆されてもいい。彼が懺悔をしたいのなら、聞いてやれるのは自分だけ。その事実だけあればいいのだと。
 特に言葉は続かなかったが、ふと彼と手が繋いでみたくなった。ふやけてごわごわした手はあたたかくもないし、硬いし、人形の手のようだ。だが彼が軽く握り返してくれたのは、ほんの気紛れか、もしくは。
「先生」
 聞こえていないのかもしれない。先生は紫陽花と猫が去った遠くに夢中で、細やかな球を纏う睫毛をそっと閉じる。夜を彷彿とさせる暗がりで、ふたりは何処までもふたりぼっちで、ひとりぼっちだった。
「泣いてるの」
 きゅ、と握る力が強くなる。泣けない先生の代わりに空が泣いているのなら、やはり先生は神様だ。雷は嘆きだ、雨は落涙だ。ならこの手はどうして繋がれてしまったのだろう。
 甘いものばかりを食べる先生が、猫にあげた餌の正体を当ててみたい。当たった頃には学校も校庭も焼却炉も、果ては此処も水没するのだろう。そうしたらあの紫陽花と猫はどうなるのだろうか。
 先生の膝は根を張り巡らせたかのように断固として動くことはなかった。止まない雨と雷鳴の下、彼だけが置いていかれてしまった。何処にも行けない彼は、誰よりも嫌いな青島燐の隣で、静かに首を振る。
 猫を食べなかった神様は、地上に置いてけぼりにされてしまった。

猫とラクリモサ

猫とラクリモサ

猫が死んでいた。先生は猫を食べるのだと思っていた。

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-07-16

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