melt down

石田大燿 作

いつから夢を見ていたのか、いつ目が覚めるのか、僕が起きたくないのか、入り口は確かにあったのに、出口が見つからない。

 僕は盾を持って前進する。
 途方もない行列を後ろから押し倒し、迫ってくる人を押しのけて駅のホームに向かう。これだけでも骨の折れる一大事なんだけれども、僕は盾がないとこの通勤電車の中でもみくちゃにされて、プレスされたようにぺったんこになってしまう。
 実際僕は押しつぶされたことがあって、紙一枚分くらいしかない僕の体は、コップ一杯の水を飲み干すと、なんとか元の形に戻ることができた。
 ものすごく乾いていたんだと思う。
 なんだかひび割れが起こるような乾燥した田んぼに、一気に水がひた走っていく感じ、とでも言えばいいのか、僕は元の体に戻ることに成功して、冷や汗を垂らしながらもなんとか元の生活に戻ることができた。
 これは、すぐにでも何か手立てを考えなければと思った。


 「だから、盾なの?」
 僕は盾ののぞき窓から向こう側にいる友昭を凝視した。
 「そうだよ。これは実際問題、洒落にならないんだよ」
 その盾は容易に僕の体を覆い隠すくらいの大きさだった。丁度、マンションの玄関にあるドアぐらいの大きさ。それでいて、軽い。
 「で、お前はいつもそれを構えて出社してるんだ?」
 「ああ。良いよこいつは。痴漢に間違われることは絶対にないし、要らないポケットティッシュも受け取らなくていい」
 「それって、暴力を振るおうとしてるの?それとも権利を主張してるの?」
 「どっちでもいいよ。僕は早く、効率的に家に帰りたいんだ」
 「で、お前、家に帰って何をするの?」
 「休むんだよ。それ以外に何かすることがあるの?」
 盾越しに聞こえる僕の声は少しくぐもっているらしかった。友昭は何度も僕の言葉を聞き返してきた。

 ちょっと暴力的、というか、ものすごく暴力的な勢いで、僕は目の前の背中を張っ倒す。時折、助走をつける。足を開いてがっしりと構え、その後で、闘牛みたいに右足をズリズリと後ろへやり、息を強く吸い込んで、一気に前に出る。
 この感覚は、すこし渋滞している時に車線を変更するときの感覚に少し似ていると思う。問答無用で電車の中に入り込み、盾の内側で膝を折る。
 


 友昭から電話が掛かってきたのはその日の夜中だった。
 僕は受話器を取って、大袈裟に耳に当てる。
 「昼間の話、続きなんだけど、その盾、どこで手に入れたの?」
 うん、と僕は言った。気怠い体から発せられる、何とも言えない、うめき声のような、取り留めもない、うん。肯定でも疑問でもない、溜息みたいなうんだった。
 「友達に機動隊に勤めている人が居てね、その人から貰ったんだ。」
 「じゃあそうすると、もう一個貰う事は出来ない訳ね」
 「いや、ああ見えて、機動隊は盾をすごい勢いで消耗してるらしいよ。もしまた廃棄が出るようなら、頼んでおこうか?」
 友昭は、それからしばらく無言になった。
 僕にはその無言の意味が、しばらく分からなかった。
 「盾を持つことって、暴力になるのか、それとも、ただ権利を主張しているだけなのか、どっちなんだ?」
 どっちでもいいじゃないかそんなこと、と僕は呆れたように言った。
 「それが気になって眠れない」
 弱弱しく、友昭は言った。
 「スパルタの兵士が持ってる盾と、機動隊が持ってる盾の意味って、ちょっと意味合いが違うじゃないか」
 僕は唇を噛みしめる。噛みしめて、また唇に血が戻ってくるのを感じる。真っ赤な血液が、砂漠に満たされていく感じ。
 「スパルタの兵士がもつ盾って、相手に勝つために持ってる。戦争だからな。けれども、機動隊は戦争をしてる訳じゃない」
 欠伸をする友昭が、とぼけた様に返事をした。僕もなんだか、普段使わない脳みそをフル回転させて言っているから、なんだか疲れてきた。
 「そういう事なんじゃないかな。だからどちらかと言えば、権利を主張してるんだろうと思うよ」
 「ああ、まぁ、そう言う事にしとくか。すっきりしないけれど。」
 友昭の不眠症は、かなり有名だった。目の周りは黒い。パンダなんじゃないかというほどに、黒い。ビタミン不足なのか、目が疲れているのか、定かではないけれど、多分一番の原因はその極端なまでの不眠症なのではないかと思う。
 その度に僕は付き合わされて、明け方まで電話が続くという事がざらにあった。非常にめんどくさかった。
 「酒でもすこし、やってみたらいいんじゃないか」
 僕がこれをいう時は大抵、もう勘弁してくれという意味合いも含まれている。本人が知ってるのか知らないのか、これで、不自然に話は終わる。ビデオの停止ボタンが押されたように。


 この間、僕は友昭にウォッカをあげた。多分それも残ってるだろう。スカイウォッカ。青いビンの中に詰まっている液体は瞬時に体を駆け巡って、ぐらりと視界を歪ませるはずだ。
 僕はそう自分を納得させて、布団に入る。
 フィアットのパンダが帰ってくるのが見えた。
 いつもこの時間帯になると、うちの前の道路を走り去っていくフィアットのパンダ。一昔前の型式で、青い色をしている。
 僕は友昭がフランスへ出張すると言った時、脳裏にいつも、ヘッドライトを輝かせて走って行くフィアットのパンダが思い浮かんだ。
 この時間帯に、走り去っていくパンダは、低いエンジン音だけを僕の部屋に放り込んでいく。音という音のしない、寝る前の真っ暗な部屋の中で、それはどこか、流れていく川のせせらぎのようにも聞こえる。それが波のように、あるいは流れのように過ぎ去っていくと、僕の意識は次第に消えて行く。水が、僕の形に窪んで、ひび割れる大地みたいに大きく波打った後に、僕の体は、閉まる扉の向こう側のように瞬く間に水に包まれて沈んでいく、そんな感じ。


 朝の光は暴力的に眩しくて仕様がない。
 さっきまで見ていた夢の内容まで、がさごそとゴミ袋の中に入れられてしまって、僕はもう、気付いた時には服を着て、盾を持って出かける。
 そんな目もまわるような朝だったから気付かなかった。次第に僕を支えていた地面がマーガリンみたいに溶けていっている事、僕はつかの間、地面にしがみ付こうと土を手繰り寄せてみたが、蟻地獄に嵌って抜け出せなくなったように、ずるずると深い水の中に沈んで行った。まるで僕は、コーヒーの中に入れられた砂糖みたいにぐるぐると回転しながら、深い水の底に溶けていった。


 陸がどっちの方角にあったのか全然分からない。どっちに進めば水面があるのかもはっきりしない。
 息は苦しくない。えらでもできたんだろうか。はたまた、助けた亀に連れられているのか、不思議と、陸上にいるのと大差ない。
 そもそも僕は、もしかしてもしかすると、死んだのではないかと思う。いや、多分死んではないないと思う。死んでいるのなら、もっとこう、肩の荷が下りて、気分爽快だと思う。生きるのは過酷なことだったと、じんわり思い出して、軽くなった体にウキウキしている筈だと思う。それもない。
 ただ深い青と、徐々に深くなっていく黒が、視界の真ん中にあった。


 僕一人、スーツのズボンとネクタイを外して、昨日買った眞露を開けてグラスに注いだ。1.8リッター入りのそれは、酷く消毒液のような臭いを発して、どくどくと、血管から噴き出された血液みたいに、グラスに注がれた。
 そう言えばふと思った事があった。
 友昭とは一体誰だっけと、僕は一瞬考えた。
 仕事の同僚の友昭の事だろうか。いや。いやいや、彼奴は、この間フランスに出張に出かけたばっかりだし、おそらく半年は帰ってこないだろうとおもう。
 一瞬考えて、あれ、僕は一体、誰と泳ぎに行くんだっけ、と考えて、そうして次に、こんな季節に泳ぐのか、と自分自身を疑いたくなった。
 しかし僕自身は、誰かと約束していたようである。
 約束。
 「友昭さん、この間出張に行ったんじゃなかったっけ」
 僕はぎょっとなった。偶然、付けたテレビに映る俳優がそう言っていた。たまたま、このドラマに出てくる人が友昭という名前で、事あるごとにともあきともあき、連呼していた。
 心底面白くなくなって、眞露を飲み干す。その後、ぼうっと考える。
 約束。確かに僕は約束した。一体誰と、なんの為に?どうして?
 生きていくうえで必ず起こりうるであろうざわめきみたいなものが、始終僕の中で渦巻いていて離れなかった。背の低い台の前で胡坐を掻いて眞露を飲んでいるこんな時でさえも、ざわざわした感じは離れない。
 「やめろ!やめろ!やめろ!」
 僕は三回、そんなことを喚いてみたけれど、あるのは、だれ一人いない部屋と、僕だけだった。毒々しいまでの黄色い電球の光が照らしているだけの、薄暗い部屋だった。



 砂浜で二時間くらい、現れては消えて行く白いヨットの帆を眺めていたのは覚えている。近くで見るといかつい顔をしているカモメの群れを凝視して、それから、覚悟を決めてよろよろ海の中に歩いて行ったのも記憶している。
 前に進むにつれてだんだん水位は僕の腰から首元、口のあたりまで来て、そこらへんまでは覚えているのだけれど、それから先の事が思い出せない。


 そうしていて気が付いたら、もうこんなところまで来ていた。ここまで深く暗いところまで来てしまうと、もうどこがどこでどっちがどっちだかわかったものではない。
 宇宙と表現すると、すこし違うかもしれない。
 かと言ってこれは水中の奥深くなのかというと、そうでもなさそうな気もする。
 こんなところまで来てしまったと、来てみてから後悔する悪癖があって、それがどうしても、治すことができなかった。
 しかしそれも今ではどうでも良かった。現に、おそらくは水の中なのに、呼吸が出来ている。


 「だから僕は多分、水中に居たんだと思うんだ」
 そんな話をすると、友昭は首を傾げた。コップに入った水を飲み干して、お冷おかわり下さいと頼んで、再び、僕に向き直った。
 「お前、半漁人だったの?」
 {半漁人}という単語が出て来た時に、僕はふと、さっき見た古いはかりを思い出した。古道具屋さんのウインドウの中に置かれていた黒い秤。天秤座のそれみたいに、棒の両端に皿が吊るしてある。その棒を支える様に、人魚の彫刻が施されていたのだ。
 それを使っていた人のことを想像しながら、僕は言った。
 「いや、恐らく、人の形をした袋に入れられた、水の塊なんだと思う」
 針を少しでも刺せば、僕の体は木端微塵に吹き飛んで、クリスタルみたいな透き通った水が一瞬、人の形をして、それを留めずに一瞬にして崩れ落ち、形もクソもない水溜りになっていく。僕はその様を想像した。
 「じゃあ、お前は、液体人間だったのか」
 「いや、なんだかんだ言って人間はみんな体内の60%くらいが水だっていうし」
 「人類すべてが、液体人間だって言いたいのか?」
 「いや、人間は半分が液体なんだよ。液体人間だなんて、差別するような言い方はやめてくれない?」
 僕はコップに注がれた氷水を見ていた。コップの周りには、水滴が沢山ついていた。


 絶対的に静謐で虚無な空間だった。カーテンを閉めて、寝る前に電気を消した部屋の中のようだった。それはまるで僕自身の体すら飲み込んでしまうくらい、真っ黒だった。
 しかし、僕は真っ暗にならなければ眠れない性分だったから、これはもう仕方がなかった。
 全身の水が僕を形取っているのか、僕が僕であるために水を使っているのか、確かに目をかっぴらいて、僕はその真っ暗闇の中で考えた。
 自分の姿すら全く見えない、暗闇の中で、僕はまた、耳の奥に水の流れる音が聞こえた。それが、徐々に近くなっていくと、僕の体は、ふっと軽くなって、そこから朝まで、僕の意識は無くなっていく。
 水。僕は、途中で目が覚めて、いそいそと起き上がり、コップに水を注ぎ、飲み干した。



 僕は、水を飲み干した。咳払いを一つして、立ち上がろうとしたときに、ふっと、僕のつま先に何かが当たるのを感じた。
 画びょうだった。僕は目の前にライオンが迫ってきているかのような顔をして、友昭を見た。
 何かを言おうと思った。それが口から、くっと傾いて滑り落ちる瞬間に、僕は破裂した。

 「お会計、お願いします」
 立ち上がる友昭の足元に、僕の水溜りがあった。薄い茶褐色をしていた。それが床の色を映しているのか、そもそも僕の体の中の水が濁っていたのか、それは当の僕にも分からなかった。

melt down

melt down

二、三年前に書いた掌編です。

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-14

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