フルートとヴァイオリン(第8章)

フランシス・ローレライ 作

ミコノス島

 それから二週間も経っただろうか。
「イサム! 受かった、9月から団員だって!」とマミが電話口で叫んだ。
「へえ……良かったね! 信じられない!」
「シューベルトの隣人が楽譜届けてくれたし……」と言う彼女は頬ずりムードだった。
 そして一カ月後の7月末、二人で合格祝いを兼ねて南国へのバカンスを企てた。ギリシャのアテネまで飛び、小型機に乗り換えてミコノス島を目指したのだ。
 さんさんと輝く太陽。座席から見えるのは青空と、ホメロスが暗いワイン色と表現したエーゲ海だ。はるか上空から眺めると、とても穏やかな海だった。その昔、ダイダロスと息子のイカロスがクレタ島のミノス王から逃れるため、背中に翼をつけて飛んできた辺りに違いない。ダイダロスは、王妃の生んだ怪物、半人半牛のミノタウロスを閉じ込めておく迷宮をデザインし、自らも幽閉されていたのだ。
「何、考えているの?」と隣の彼女が小突いてきた。
「イカロスが太陽に近づき過ぎて、海に墜落する話」
「縁起でもない……この辺かしらね」
「知ってる? 変わった人がいて、ミノス王のクレタ島じゃ日本語話したはずだって、強く主張するんだ」
「エエッ、嘘でしょう?」
「当時の線文字Аってのが難解で未解読だけど、音だけ並べりゃ日本語そっくりで」
「そんなの、冗談よ」
「そうだよね……それにしてもよく受かったね、あのオーディション」
「若い女性に甘いのよ、きっと。それに伴奏のピアニストが知り合いで……」
「古いヴァイオリンも良かったんだろう?」
「1912年だと古くないわ。それより心って言うか……情感よ」
 そこで彼女の瞳に誘われ、思わずその手を握りしめてしまった。

 約一時間飛行し着陸したミコノス島は、エキゾチックで風光明媚な島だった。ぬけるような空と海のパノラマ。乾ききった土地に、真っ白な平屋根の建物。
「ミコノスは、太陽神アポロンの孫だって」と予備知識を披露。
「アポロンは、音楽の神様よ」と彼女が答えた。
 空港から4輪駆動車でたどり着いた白いホテルは海岸のすぐ近くだった。ツアー・グループは屋上のルーフ・ガーデンに集合し、説明を受けた。白いテーブルとイスが並び、葡萄棚が日陰をつくっていた。褐色の大きな壺に派手な赤白のラン。周りはみな若い人たちだった。ミーティングのあとは自由行動。
 部屋は3階で、中に入ると冷房が感動的に良く効いていた。ドアを閉めた途端に旅の緊張がほぐれていく。白い壁と茶色い床、そしてラッタンの調度品がよくマッチし、窓から海が見えた。ザァーッ、ザァーッと潮騒が聞こえる。テラスには白いハンモックが掛かっていた。
 二人でほっとしてベッドに倒れ込み、抱きあった。もう人目を気にしなくて良いかと思うと、抑えてきた情熱が解放されるのだ。彼女は赤い花の髪留めをはずし、長い髪をふりほどいた。ギリシャ神話にもこんなシーンがあったかも知れない。美の女神アフロディーテと戦争の神アレスが生まれたばかりの姿になり、人知れず抱き合うのだ。
 ひと休みしてからシャワーを浴びた。Tシャツや短パンに着替えて一階のレストランに下りていくと、やはり若い人たちで一杯だった。ウェイターの案内でテーブルにつくと、慣れないギリシャ文字のメニューが待っていた。
「英語ありませんか」と言ったら彼がにやりと笑い、早速持ってきてくれた。
 土地の料理は素朴なりにも美味かった。串焼きの肉は熱々だったし、魚は新鮮で冷えた白ワインと良く合っていた。トマト、キュウリ、タマネギ、オリーブ等の、目にも鮮やかなサラダ。そしてスイカやメロン。太陽に恵まれた南国の食べ物が、とても嬉しい。食後のエスプレッソを飲みながらマミが、
「カトミリの風車を見に行かない?」と問いかけたので首肯した。
「そうだね」
 フロントで島の地図をもらい、タクシーで中心街まで行った。そして迷路の様な白い路地を歩き始めた。建物がみな角砂糖のように白く、窓や玄関、外階段がトルコブルーなどのパステルカラーだ。そこかしこに赤紫色のブーゲンビリアの花が咲いている。石畳のデコボコ道を抜けたところで、
「あっ、あれあれ!」と彼女が叫んだ。
 向こうの丘を見ると、青い空の下に大きな風車小屋が五つ並んでいた。白く丸い図体に三角形の藁ぶき屋根で、どことなくユーモラスである。風車の骨組みは放射状であり、帆を張ると海風でくるくる回るのだろう。
 そこから二人で坂を下りていった。息を切らせながら湾までたどりつくと、左手には白い堤防が伸び、たくさんの漁船が停泊していた。その周囲をよく捜すと白いペリカンがいて、大変のどかである。
 マミは近くのお土産物屋に入ると、黄色のビキニを見つけ、早速手に入れてしまった。
「ウィーンで選ぶより、説得的だね」と彼女がコメントする。
「確かに」
 そこからギリシャ正教の教会を訪れた。ドーム屋根も壁も真っ白で、中に入ると天井のフレスコ画や小さな宗教画「イコン」がエキゾチックだった。そして夕方の陽射しを浴びながらホテルに戻ると、そのままシエスタと称して爆睡に入った。
 その晩二人でタヴェルナと呼ばれる居酒屋を訪れてみた。奥に舞台があり、映画「その男ゾルバ」よろしく屈強の男達が肩を組み、強いビートに合わせて勇壮な踊りを披露してくれた。伴奏は金属的な音色の複四弦「ブズーキ」だ。みんな皿を床に叩きつけて粉々に砕きながらはやしたてる。 
 そのまま島の解放的な雰囲気に酔い、真夜中まで呑み歩いた。ディスコにも入り、世界中の若者に混じって踊りに興じた。まさに天国だった。

 次の日、僕達は朝食もろくろく食べぬまま、五時頃ホテルのロビーに下りていった。同じツアー・グループの参加者が、やはり短パンにTシャツ、リュックに帽子のいでたちで送迎バスを待っている。間もなくマイクロバスが到着し、添乗員が降りてきた。長身で体格の良い白髪の老人で、青白いくらいに色白。しかし捲り上げた黒っぽいシャツから伸びる腕が、とてもたくましい。鷲鼻の上のサングラスが凄味を加えている。
 彼は車内でマイクを握り、背の高い人特有の深く、低い声で挨拶する。
「私がこれから皆さんを世界遺産のデロス島にお連れする、政府公認ガイドのスピロスです。このかた30年ガイド稼業で、気がつけば八六歳。この通り色白なせいか、『幽霊スピロス』と呼ばれるが、決して幽霊じゃありません……どうぞよろしく」
 そこで拍手が沸き起こった。
「86歳でバスガイド、信じられない!」と絶句した。
「その年には見えないね」と彼女が同調した。
 スピロスによれば、キュクラデス文明の中心たるデロス島は今や無人島だが、昔は繁栄を極めていた由。
「ペルシャ戦争の終盤、海戦に勝利を収めたアテネを中心にギリシャの都市国家の間で紀元前477年に対ペルシャ同盟が結成され、デロス島に本部が置かれました。やがて海軍国家アテネと陸軍国家スパルタとの間にペロポネス戦争が起き、歴史家ツキジデスが詳しい記録を残しました。さて当時の御婦人方がペロポネス戦争を終結させようとした有名な小説がありますが、御存知ですか?」と彼が我々に問いかけた。
「リシストラタでしょう?」と英国人風の眼鏡の女性が答える。
「そのとおり。アリストファネスの喜劇でしたね。さて女たちは、どうやって男たちの戦争を止めたのでしょうか?」
「旦那方と寝るのを拒否した!」と若く背の高い男性が叫んだ。
「その通り!」とスピロス老人が目を輝かせて反応する。続けて曰く、
「あなただったら、戦争をやめますか?」
「耐えられず、真っ先にやめるでしょうね」と同じ男性が答える。
 バスの中は、笑いの渦となった。
「リシストラタって?」とマミが尋ねた。
「女の平和、だったかな……お互いに尖がってきて、男女の争いになる話」
「へえ、読んでみたい」
「女漬けにする方が、戦争できなくなると思うけどね」と適当に答える。
 やがてマイクロバスが港に到着し、そこでやや大型の観光船に乗り換えた。

 太陽神アポロンや月の女神アルテミスの生地デロス島は、ミコノスのすぐ隣の小さな島だった。ツアー・グループが上陸すると、無人島のせいか、緑の少ない乾いた土地だった。昔、港を中心とする交易で栄え、3万人も住んでいた都会らしい。
 太陽がさんさんと照りつけ、肌に突き刺さるようだ。四角い石を積み上げた壁や白い円柱の残る遺跡がたくさんある。スピロスの案内でかつてのアポロン神殿まで行くと、参道に大理石のライオンが衛兵のように並び、今はなき神殿を忠実に護っていた。すっかり風化したライオンたちの表情は、雪だるまのようにユーモラスだ。
 そこから古代の住居跡を訪ねると、今度は鮮やかなモザイクの床が歓迎してくれた。中でも印象的なのは、アポロンの象徴、錨にまとわりつくイルカだった。
「すごいね、こんな美品が残っているなんて!」と言いながらマミがしきりにシャッターを切る。
「西洋美術の源流だね」とスピロス老人がにこやかに答えた。
「とっても素敵! 日本人には無い感性だわ」
「どこの国でも感性の鋭いアーティストはいるよ。みんな、心に葛藤があって……心の葛藤って、分かるかな?」
「ええ……多分」
「意識と無意識、その対立と葛藤だね。そこから創造性が……心に葛藤を抱えること、ありませんか?」
「私の場合は、音楽性の問題かな」とマミがつぶやいた。
「貴女は音楽家?」
「そうです、一応」
「実はそんな気がして……耳が素晴らしく良いんでしょうね」とスピロス。
「いいえ……音楽家は練習し過ぎで、耳悪いの」
「ワッハッハッ! そんなことないでしょうが。何か楽器を?」
「私、ヴァイオリニストで」
 そこで彼はサングラスを外した。なかなかハンサムな輪郭。左目がどうやら義眼のようだ。
「へえ……それは偶然…ヴァイオリンは、おいらの一番好きな楽器で」と言って彼は右目でウィンクした。そして、
「日本の方ですか?」と問いかけた。
「ええ、ウィーンで勉強しているの」と彼女がためらいがちに答える。
 そこで彼はサングラスをかけ直し、こうつぶやいた。
「たくさんの方が戦争で精神に異常をきたし、動物的な無意識に苛まれています。この世の地獄だね! でも音楽は良い。無意識さえもなだめ、癒す薬だね」
「無意識って、エスのこと?」とマミが僕に尋ねてきた。
「多分、そうだと思うよ」と無表情に答えた。
 日差しが強く風も強かったが、円形劇場まで行ってみる。何と5000人以上も座れたらしい。
 そこで昼食となった。クーラーボックスのサンドイッチが配られる。トマト、キュウリ、そしてチーズが挟んである。それをコーラで流し込むのだ。二人の日本人は木陰を見つけて腰をおろし、再び丹念に日焼け止めを塗った。
「ねえ、スピロスさんって不思議だと思わない?」と彼女が問いかけた。
「確かに……戦争体験が厳しかったみたいだね」
「それだけじゃないの。体があんなに大きいのに、陽の光に当たっても影が全然ないの」と彼女が得体の知れないことを言う。
「それは……太陽が真上から射すからじゃない?」
「それに左目がリアルでなく、義眼なの」と、彼女が続ける。
「へえ……だとしたら?」
「幽霊スピロスのあだ名、当たっているかも」
「そんなの根も葉もない、噂だよ」
「色白で、体が透けてみえるし……」と言う彼女は気色悪そうだった。
 この後、僕達のツアー・グループは島の考古学博物館に立ち寄り、多数の彫刻、モザイク画や装飾品・美術品を見たが、この小さな島から想像つかないほど大規模な展示だった。
「石の文明って、とんでもなく古い物が残るんだ」と漏らしたら、
「木の文明だってすごいじゃない」と彼女が応えた。京都や奈良を思い出すのだろうか。
 夕方、ミコノス島の港に戻ると皆、ほっとした。早くも住めば都なのだ。

 その後の二日間は、都市文明とおさらばした。日光浴、海水浴、シエスタ、酒宴、そして官能的な高揚感と陶酔。これが二人の日課だった。久しぶりの開放感が青春の喜びとエネルギーをとり戻してくれた。
 
 島を離れる前日の午後、二人でホテルのプールサイドにいた。白いデッキチェアを二つ並べ、寝そべっているのだ。マミは初日に手に入れた派手な黄色いビキニ姿で、長い髪の毛をアップにしている。小声で彼女に、
「噂じゃ幽霊スピロスは土地の有名人で、第2次大戦で戦死した英雄の再来らしいね」と言った。
「やっぱりそうなのね。どことなく……」
「いまだに筋骨隆々で」
「そろそろ水に入って来よう。演奏家のスポーツって限られているのよ」と言いながら彼女がプールに向かう。そしてゆっくり水に入り、泳ぎはじめた。
 僕はデッキチェアから、周りで日光浴する仲間を眺めていた。若い女性らはこの時とばかり、水着のトップをはずしている。しかしマミは、ヌーディズムで有名なこのリゾートでも自信なさそうに慎ましやかだった。
「慣れていないと自意識過剰になるかも知れない、マミでさえ……」とつらつら考えてしまった。そこにマルチカラーのビーチボールが転がってきたのでやおら立ち上がり、タイミング良く持ち主の子供に、投げ返した。ところがデッキチェアの周りは、強い日差しで足が火傷しそうに熱かった。そこであわてて座りなおし、持ってきた「エスの研究」をナップサックから取り出し適当に開いて読み始めた。
 しばらくするとマミがあがってきた。彼女はタオルで身体を拭きはじめる。思い切り陽に焼けていて、半年はそのままの風情だ。
「気持ちいいわよ。イサムは泳がないの?」
「いい、もう充分堪能したから」と言って僕は読んでいたものを脇に置き、顔を上げた。そして隣のデッキチェアにかがみこみ、彼女の腰に腕を回した。
「邪魔だなあ、イサムは!」と彼女が抗議する。
「風が強いから、そろそろ戻らない?」
「いいわよ……」
 30分もたたないうちに二人はホテルの部屋に戻っていた。部屋に入ると冷房がよく効いていた。カーテンを閉め、そこで抱き合った。シャワーを浴びた彼女は、花の香りがする。
 その後ひと眠りして起きると、マミの眠るベッドを離れた。そしてベランダのハンモックにぎごちなく横たわった。海風に揺られながら、
「ここにずっといられたら最高だけど……」と物思いに耽ってしまう。
 すると突然、声がした。
「イサム、海岸の夕焼けを見に行かない? 最後の晩だし」
 ベッドの方を見ると彼女は起き上がっていた。
「分かった。そうしようか」
 そこで着替えることにした。そう言えば屋上のルーフ・ガーデンから土地のひなびた舟歌が聞こえてくるではないか。

フルートとヴァイオリン(第8章)

フルートとヴァイオリン(第8章)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-12

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