睾丸の繭
SFファンタジー、奇妙な小説です。縦書きでお読みください。
繭の中には死骸が入っている。
蚕は大人になるために自分で糸をはき、自分を閉じこめ眠りにつく。
自分のつくった白い繭の中で、日の光がぼんやりと射し込む、それこそまどろむのに気持ちのよい部屋の中で、大人になったら、恋をして卵を産んで、と思いながら、思春期前の蚕の子供たちは目を閉じる。しかし途中で命を落とした蚕は繭が棺になる。
先日、二泊三日の手術を受けた。手術をするしか治しようのない病というか、年をとった体にそういう異常が生じた。
男には鼠径管という管が股のところにある。男にとって特に大事な管で、中には精子を運ぶ精管、精巣に出入りする動静脈や神経、それに筋肉などが通っている。四から五センチほどのものらしい。何でできているかというと、周りの筋肉を包む繊維、筋肉などであり、年をとると押し潰されるようになるという。人によるのであろうが、七十を過ぎると、通る精子も少なくなり、張りがなくなるのだろう。
年をとると裏寂しい道ということになる。ところが困ったことに、そこに入り込んできてしまうやつがいるのである。
四月に入ってからである。右の腰がたまに痛くなった。右足が痛くなることもあった。退職してからであるが半年間週一回講義をしている。九十分の講義で後半になると腰とともに右足の付け根が痛くなった。
かなり頻繁に起こるようになり、一度経験のある尿管結石を疑った。しかしだんだん足腰が痛くなるとともに右の股間がプックリ膨らんだ。触ってもわかる。
講義期間が終わり夏休みになり、高血圧でかかりつけの循環器内科の医師に相談すると、
「そりゃあ尿管結石じゃありませんよ、鼠径ヘルニアあではありませんか」と言う。
どうしたらいいのかと尋ねると、サポーター等もあるが、手術しかないでしょうという。男がなりやすい異常だそうだ。
膨らんでくると痛くなるので、何とかした方がいいと思い、先生を紹介してもらった。その日のうちに見てもらうことにした。
大腸肛門外科であった。虫垂炎すなわち盲腸、大腸ガン、痔などの手術をする部門なのだろう。鼠径管ヘルニアは腸が飛び出す訳で、やはりこの部門だそうである。
若い医師は膨らんだところを触れて、よくあるものと見えて、ヘルニアですねと言う。どのくらい入院でしょうと聞くと、だいたい二泊三日ですねと、いとも簡単に答えた。私もこういうことは、早くしてしまった方がいいと思うほうなので、すぐできますかと尋ねると、できますよ、ということで、その日のうちに血液検査、心電図、お腹のCT,呼吸機能の検査を受け、一週間後に手術日の詳細を決めることにした。
一週間後小腸が入り込んでいますねと言われ、入院を十日後に決めた。
その十日の間に食事をすると膨らんで痛くなり、横になって手で押し込んだ。手荒くすると腸に傷を付けるので気をつけなければならないが、基本的には押し込んだほうがよいようである。それにしても気持ちのよいようにぽこりと、膨らみが体の中に押し込まれ痛みもなくなる。そんなことで手術が待ち遠しくなった。
予定では二日入院し、手術の次の日には退院できる、命に関係のない手術だそうである。
手術二日前より禁酒に入った。久しぶりである。
入院をするとすぐにパジャマに着替えさせられ、血液を再び採られもろもろの検査をさせられた。
担当医からの手術の説明もあった。腹腔鏡下の手術で、右と左のわき腹と臍に穴をあけ、そこから腹腔鏡をいれて、メッシュという繊維でできた網のようなものを、鼠径管壁に張り付けるという。二ヶ月もすると網に肉が入り込み丈夫な壁になるそうである。その医者にマジックで右側の患部あたりに黒丸をつけられた。それにもし中をのぞいてみて、左側も弱っているようなら、そちらもやってしまいますと言うことである。料金は同じだそうで、それならやってもらった方がいい。
夕方、看護婦さんがDVDの再生装置を見ておくようにと置いていった。麻酔の方法のDVDである。見ると麻酔の種類や全身麻酔の場合、確実にするために気道に直接呼吸装置をつけて、人工呼吸をすると言うことである。この年になるまで受けた手術は小学生六年の時の盲腸、すなわち虫垂炎だけである。盲腸の手術では動かないように背中を押さえつけられて、背骨のところに駐車針を差し込まれ、麻酔液を入れられた。半身麻酔である。取り出した盲腸をお医者さんが、意識のある僕に盲腸をピラピラ見せてくれたのを覚えている。
ということで全身麻酔は初めてで、人工呼吸も初めてである。夜になると研修医という小柄の若い女医さんがベッドのところに来て、全身麻酔の説明をしてくれた。よほど麻酔は大事業なのだろう。確かに死ぬとしたら、麻酔の失敗しかない手術である。
もっと遅くなると、また看護婦さんがやってきて、まず歯の数を数えた。どうしてかと思ったら、人工呼吸の装置をくわえることになり、歯がとれてしまうことがあるようだ。それがすむと下の毛を剃ります、とバリカンのようなものを出した。なんだか恥ずかしいが、看護婦さんは気にならないようで、パンツを半分下げて、さっさと処理をして出て行ってってしまった。大した度胸だ。
そんなことで次の日、手術着に着替えさせられ手術室に運ばれた。手術室にはいる前にまた歯を数えた。どうも僕の歯はわかりにくいとみえる。
手術室の中では数人の看護師さん達がいた。担当医がはいってきた。目が覚めたら終わっています、終わったら声をかけますので返事をしてくださいといわれた。そんなこと覚えているのだろうか。
導入の麻酔をかけますとマスクをかぶせられ、あっと言う間に意識がなくなった。
手術中は夢のない眠りである。ということは死んでいるのと同じことになる。いつ目覚めるかも意識していないし、もし目覚めたら、それは死後の新しい世界なのかもしれないのである。
目が覚めた。薄い明かりが周りから射している。記憶があると言うことは必ずしも、死んでいないという証拠にならない、違う世界なのかもしれない。だが手術の前のことを覚えている。終わったら声をかけますと言っていたが、名前を呼ばれた記憶はない。しかし目があいている。
どうも手術台の上ではない。ベッドに戻されたから意識が戻ったのだろうか。ミルク色の光に包まれて、頭がはっきりしてくるに従って、周りの様子もぼんやり見えてきた。麻酔から目が覚めたなら、ぱっと周りが見えるだろうに。そうなっていない。それに周りには誰もいないようだ。
音がない。という大事なことに気がついた。大体名前を呼んでもらっていない。
自分のからだを見ると、なにもつけていないが、腹に二つの穴があいている。臍の穴も中がのぞける。のぞいてみると、白い腸がうねっている。
なんだか下腹部のところが寒い。なんだろうとみると、どうも睾丸が一つなくなっている。なぜだろう。
起きあがらなくてはと思って、上半身をもちあげると、頭に何かがつっかえた。上を見ると、白い紙のようなものが自分を包んでいる。
手を挙げて紙を破ろうとしてみたのだが、力が足りなくて、ちょっと押せただけだった。自分の身体を見て大事なことに気がついた。色が白いしあの男の大事なものもない。二本の足の間にはなにもない。残った睾丸が一つ垂れ下がっているだけである。これは困った。おしっこは出さなくていいのだろうか。ともかく若返っている。手術をしたときには六十九歳だった。今の肌は幼児のものだ。
くぐもった声が聞こえてきた。
「患者さん目覚めないじゃないか」
「麻酔の量は習った通りにやったのですが」
「それはわかってるけど、なぜだろう」
「あ、心拍が下がってます」
「こまったな、心臓マッサージだ、電気ショック持ってきて」
「はい」
なんだか周りが暗くなった。
「はい、やるよ」
なんだか飛び跳ねた。周りの音が良く聞こえるようになった。
「あ、臍の傷口から何か飛び出しました」
私の周りが明るくなって、ミルク色が取り巻いた。
「なんだこりゃ、玉じゃないか」
「患者さんの精巣です」
「睾丸なんて切っていないのだがな、それに傷口は縫ったつもりだが」
「不思議ですね、この睾丸どうしましょう」
「捨てるしかないだろう、もう一度ショックかけるよ」
「はい、患者さんのパルスが回復しました」
「それはよかったな」
そんな会話が聞こえるのだが、自分はなんだか丸いもののなかにいるが、どうなっているのだろう。
「睾丸が出てきた臍をもう一度縫わなきゃあ」
「あ、患者さんの頭が消えていきます」
「なんだこれは、どうしよう」
「足しかなくなりました」
「あーあ、患者さん消えちゃったよ」
「臍を縫ったら、消えちゃいましたね」
「私の麻酔がいけなかったのでしょうか」
女性の研修医の声だ。
「そんなことはないよ、すべて正常だよ、その記録も残っているから心配ない、手術は成功している、大体、麻酔で人が消えてしまうことは無いだろう」
執刀医の声だ。
「あのおじいちゃん、なんだか不思議な感じだったけど、なにをしていた人なの」
「手品師じゃない」
「自分を消しちゃったのね、でも手品って種があるじゃない、ここじゃ無理よ」
「何で、睾丸が飛び出したの」
「種がなくなったって言うことね」
看護師同士で話をしている。なんとひどい会話だ。
「それにしても、このままじゃまずいよ」
医師が言っている。
「部屋にもどそう」
「いないのにどうやって戻します、先生」
キャリーベッドに布団を掛けて膨らませて、点滴用具をくっつけていけばいい」
「家族の方が待っているんじゃないですか」
「来ていないよ、一人暮らしのようだ」
「それじゃやってみますけど、後はどうなるかしら」
「朝になったら脱走したことにしておいたらいいよ、入院費が払えなかったとか」
「そうしましょう、今日の夜の見回りは私がやります」
一人の看護婦さんの声である。まだ、なにが起きたのか、自分でもわからなかった。少なくとも、私はここにいる。ただ楕円の中にいる。
「個室が空いているから、とっておいたよ」
医者の声である。
「睾丸捨てますね」
「ああ、いらない臓器の入れ物にたのむ」
私は持ち上げられて、どこかに着地した。変な匂いが入ってくる。捨てる臓器の入ったバケツかなんかのようだ。気持ちが悪い。
ここで自分の立場がわかってきた。私は自分の睾丸の中にいるのだろう。何せ、入っているところは楕円状のものの中だ。繭のようだと思ったが、睾丸だったのだ。ということは周りを取り囲んでいるつぶつぶは、精子や精子になる細胞だ。もうあまり精子はないようだ。男性ホルモンを出す細胞はどれかわからないが、少しはまだあるのだろう。しかし居心地は悪くない。
しかし、こんなことはありえない、そうか夢なのだろう。夢を見ているとすれば死んではいない、麻酔からさめていないだけなのだろう。
しかし、それからいくらまっても目が覚めなかった。やっぱり死んで、次の世に生まれ変わろうとしているのかもしれない。とすれば、なになるんだ。睾丸から何が生まれるのだ。
もし、死んだのなら私は死から逃れるために睾丸に逃げ込んだのだろう。睾丸は遺伝子をたくさん蓄えている、きっとそこに逃げたのではないだろうか。生まれ変わるためにこれから努力しなければいけないのだ。
睾丸の中で手足を動かそうと思ったが思ったように動かない。見る、聞くは大丈夫だ。舌を出してみた。何かが触れた。精巣の中の細胞の壁のようだ。ちょっとざらざらしている。味の素の味だ。ということはアミノ酸か。
鼻に集中してみた。虫の臭いだ。きっと精子の匂いだ。精虫ともいうじゃないか。
今は真っ暗で見えないが、明かりのあるときにはミルク色をしていた。睾丸の回りには白い膜が張っているということだ。きっとそれだ。私はここにいる。腹の手術の跡がちょっと痛かったりすることは確かだが、自分の手足や胃や腸の存在がはっきりしない。だから五感しかないような気がする。生き物から身体をなくしてしまえば死であるが、身体がないのに五感があるというのはどういうことなのだ。五感があるなら死んではいない。もし私が身体から抜け出して睾丸に入った魂なら、魂は五感なのか。魂というのは自由なはずである。どこに飛んでいこうがいいのだろう。しかし、今の私である五感は睾丸から出ることが出来ない。魂になったなら、なにも睾丸に入らなくてもいいだろうに、なんだか恥ずかしい。恥ずかしいと言う感情が残っている。もしかしてまだ死んでいない。いくら考えても堂々巡りだ。
ともかく、私は睾丸にの中にいる。こんな時に合理的な解釈など必要ないのである。
そんなことを考えていると、またいきなり持ち上げられた。
「このバケツの中のものは焼却炉ですね」
誰かが言っている。
「たのむよ、床の掃除は俺がやっとくから」
それからキャリーに乗せられたようで、がらがらという音とももに長い間揺れていたが、止まると少し明るくなった。バケツの蓋が開けられたようだ。これから焼却炉に投げ込まれるのだろう。焼かれたら私はどうなるのだろう。
そのとき、ばさばさばさと音がして、黒い影がさし、すーっと持ち上げられた。
「あ、烏のやつ」
そういう声が聞こえた。ということは私が入った睾丸は烏に持ち去られたようだ。しばらくするとぽとりと落とされた。そこでカーと言う鳴き声が聞こえた。やっぱり烏である。烏が私の入った睾丸を巣に持っていったようだ。巣に何がいるのか想像できる。
睾丸がツンツンという感じで動いた。突かれたようだ。小さな嘴が睾丸の中に突き出された。やっぱり烏の子供がいた。
嘴を差し込んで睾丸の中を食っている。馬鹿。また嘴が違うところに差し込まれた。別の烏のようだ。烏の兄弟で睾丸の中のものを食っている。同時に別のところに嘴が差し込まれた。子どもは何羽いるのだろう。まさか七羽じゃないだろうな。
とうとう睾丸の中はがらんどうになっちまった。烏の子が中身をみんな食っちまったようだ。ということは私は睾丸の中の組織に入っていたのではないようだ。
嘴が抜かれると小さな穴がぽっかりぽっかり開いた。ところが穴は真っ黒で外は見えない。私の目は睾丸の外を見ることができないことを認識した。私の五感は睾丸の中だけで働いている。音は睾丸の中に入ってきたものだけが聞こえるわけである。
黒い穴がだんだん縮まってふさがってしまった。また烏の子供が突っついて穴が開いた。しかし、中身が無いことがわかると引っ込んだ。その穴もすぐに閉じた。穴が閉じると睾丸の中は明るくなった。光が睾丸の膜を通して入ってくるようだ。穴が開けられると暗くなりなくなると明るくなる。なんと不条理なことだ。
睾丸は空の繭のようになってしまった。繭は蝶や蛾の子どもが作り、そこで眠り、夢を見て、大人になって飛び去っていく。私の入っている睾丸は私が作り、私が入っている。睾丸は繭になった。ということは私はいずれ飛び立つことが出来る希望が持てるわけである。きっとこの理論は間違っていない。しかしながら私はこの睾丸の繭の何処にいるのだろう。さっぱりわからない。いずれわかるときがくるだろう。
いきなり私の入っている睾丸が飛ばされた。ちょっと痛い。烏の子ども達が中身のなくなった睾丸を足で蹴っ飛ばしたのだ。
すーっと落ちていく。エレベーターに乗っているようだ。がさっと言う音が聞こえ揺れた。枝に引っかかった。また下に落ちていく。ぽちゃんという音とともに私の入った睾丸の繭は揺れはじめた。冷たい。水の流れが聞こえる。川の中に落ちたのだろう。水の上で漂っているようだ。
どのくらい流れていったのか、睾丸の繭の中の私はいくら時間が経とうとも、退屈というからだがあったときの脳の反応はない。苦しくも何でもなく、時間の経過はただ私の中に記憶されていくだけである。
川の中に落ち、海の中に流れてきたことはわかる。大きなうねりが私を揺さぶっている。からだがあったら船酔い状態になるだろう。睾丸の繭の中の温度が上がってきたのは暖かい地域に流れてきたからか。海面に浮いているようで、昼夜の太陽の動きがわかる。また、クチバシが刺さってきた。しかしすぐ穴はすぐに塞がった。海鳥が突いたようだ。
急に暗くなった。だがまた明るくなった。魚が飲み込もうとしたようだ。
そんなことが何度も何度も繰り返され、何年も海の上に浮いている。
私の感覚では数年がすぎた。周りはずいぶん暖かい。熱帯に近いところにまで流れてきたのだろうか。
すーっと持ち上げられた。鳥が私の入った繭を咥えて空に上ったようだ。日本に住んでいた私にはこの鳥の名前はわからない。しかしかなり大きい。上へ上へと上っていく。上るにつれて温度が上がってくる。普通は上に行けば空気は冷たくなる。ところが熱くなってくるということは、山の上のほうに飛んでいるのだろう。しかも火の山である。
この鳥は私をどこに持っていこうというのだろう。烏と同じように自分の巣に持っていって、子供たちの餌にしたいのだろうか。そんなことを考えていたときである、突如、あまりにも大きな音と衝撃が走り、私の入った睾丸の繭はぐーんと上に吹き上げられた。熱い風も一緒である。その勢いは私の思考より早そうで、あっと言う間に寒くなってきた。寒いというのは体があるときの感覚なのだが、私には皮膚感覚はまだ残っていて、寒いを通り越した冷たさである。マイナス何度という温度である。
いったいどうなったのか。昔、何かのテレビ番組で見たことがある。大きな火山の噴火は成層圏にまで達することがあるそうだ。成層圏は地上から50キロ、大気圏を抜けるにはさらに50キロと覚えている。火山の噴火ではそこまで届かない。それに、周りはまだ明るい。と言うことは成層圏に入ってはいないのではないかと思う。きっと重力で地上に落ちるのだろう。
そう思っていたところに強い衝撃が起こった。
股間を蹴っ飛ばされたときのように、痛たたたと思った。五感は私である。
私はその衝撃でまた吹っ飛ばされているようだ。何かがぶつかって上に向かって撥ね飛ばされた。こんな上空でぶつかるものといったら火山に噴き上げられた石ではないだろうか。
ますます速く上にあがっていく。どこまで行くんだろう。外の温度があがってきた。あきらかに成層圏より上にきて太陽の光に曝されているのだ。眼があれば明るすぎる。
「あーーーあ」
声はでていないのだろうが私は叫んでいる。
睾丸の繭が透けてきた。周りに星が渦巻いているのを見ることができる。きれいじゃないか。宇宙にいるのだ。まだ飛ばされているからこのままだと、宇宙の果てに行くのか、太陽の中につっこむのか。
何だ、下の方にSF映画で見たような奴が浮いている。あれがアメリカが作った宇宙ステーションだ。日本人もずいぶん滞在していた。スペースシャトル計画が終わってからはロシアのソユーズで人間が運ばれている。
だがずいぶん小さいものだ。それもどんどん遠ざかる。
この年になって、宇宙の旅行ができるとは思っていなかった。地球人で初めてだろう。
そういえば腹の手術から全く眠っていない。もう何十年経つ。いや当たり前か、眠るのは体と脳の為だから、それらがなくなった今は永久に眠ることはないのか。自分の睾丸の繭の中でこうやって宇宙を彷徨うのか。
目をつむりたくても目がない。否応もなく星の光が五感だけの私を刺激する。五感だけと言ったが、本当はそれは間違いだ。自分の記憶は持っている。五感はその記憶を元に判定している。感覚器が感じて脳がやっていたことを私がやっている。一体睾丸の中の私はどんな形なのか、どんな状態なのか。昔の人なら睾丸の抜け殻に宿っている気とでもいうのか。
私が睾丸に入ったとき、自分が見えた。片方の睾丸も見えた、手術の傷口も見えた。それは体から離れたからだ。落っこちた一つの睾丸に私が宿った。空になった睾丸にもこうしていることができるということは、睾丸の外側、繭に宿ったのだろうか。
私は目を凝らした。目はないがそうしてみた。見るという感覚がマクロレンズになった。睾丸の壁だけである。ということは私は繭を作る壁に宿ったわけではない。
もっと高倍にしろ。いや顕微鏡にしてみろ。睾丸の繭をつくる繊維の組織しか見えない。電子顕微鏡だ。だめだ目を考えるな、見たい物を見ろ。自分の感覚がそうつぶやく。目がないが、目をつむった。そうしたら見えた。睾丸の内側にへばりついている物が見える。
分子のつながりだ。二重螺旋だ。これが自分のからだか。睾丸の内側に張り付いているDNAだ。これが自分で五感を持っている私のからだだ。
今手術を受けてから何年経ったのだろうか。早考えたら時間が見えるようになった。すでに三千年の時が流れていた。DNAは時の目ももっていた。
その間、宇宙をすさまじい早さで、私のいる睾丸の繭は飛んでいる。赤くぼんやりとなってしまった恒星の脇を通ったときには、まだ体があったとき、お出来ができて膿がたまったときのような匂いがした。もうすぐ破裂して超新星になるのだろう。
そんなに長い間宇宙の中を飛んできたのに、生き物のいそうな星には出会っていない。
ガス雲が漂っている。このまま飛んでいくとその中に飛び込むことになる。どうなるのだろうか。その中は様々な物質が渦巻いているのだ。それはいつか星になるごみたちだ。何だか中に巻き込まれそうだ。巻き込まれてしまうと星の一部になってしまう。それも面白いかもしれないが。宇宙を、星星を眺めながら飛んでいくのは好きだ。好きという感覚を持っている。これもDNAの感覚だ。
やっぱり、ガスの渦の中にはいっていってしまった。真ん中あたりには真っ赤な固まりが見える。原始星がもうできあがっている。このままだとあの星が育っていく材料になってしまう。そうしたくないといっても自分で動くことはできない。睾丸の繭は宇宙では塵でしかない。星ができる材料になるのは光栄なことなのかもしれない。私自信はどうなるのだろうか。消滅か。
ガスが真ん中に集まり固まってきた。真っ赤に燃える星の赤ん坊ができてくる。熱い熱い。
とうとう私の入っている睾丸の繭も原始星の表面にくっついてしまった。燃えているのだから熱いのはあたりまえだが。それでも私には五感がある。
回転が弱まっている。新たな星の誕生だ。赤い光が生じ、私の入った炎の固まりははじき飛ばされて、原始星の周りを回る惑星になった。やがて原始星は安定した恒星になり、私は惑星の材料になっている。
私のいる惑星はだんだん冷えてきた。火山の噴火は続いているが、大気ができ水が生じた。習った地球の歴史を今、自分の睾丸の繭の中で見ている。
私はとうとう海の中に浮いていた。海の中でぬるぬるした物の中に取り込まれた。すごい熱にも、真空にも耐えてきた私の睾丸に何か浸み込んできた。ぬるぬるしている。睾丸の表面に穴があいた。私はぬるぬるの中に染み出した。あたりはどろどろとした物質だけだ。いきなり私が私を生んだ。新しい私が声をかけてきた。
「おーい、どんどんふやそうぜ」
私はどんどん増えていった。そうわたしはDNAである。このどろどろした物は言うなればコアセルベートだ。私はいきなり細胞膜を作り、核になり細胞をつくった。
コアセルベートの中で私がたくさん浮遊していた。だんだんとくっつきあった。形が出来た。海の中でいきなり人間ができた。海のなかで生活する人間が波間にただよった。
この星の海の中で生じた人間は私の意識を持っている。私は男だったが、女ができた。それは、Y遺伝子が二つくっついて大きな遺伝子になり、Xになったのである。
地球でも進化の過程で遺伝子は必要に応じて変化した。
この新しい惑星で海の中で暮らす人間になった私には尾鰭があり、だが手があって、物を作った。水の中でも空気の中でも酸素を取り込むことのできる呼吸器官を発達させ、背には折り畳み式の羽もできた。空中も海の中も自由に動けた。この星は海しかなかった。火山はすべて海底にある。水がおおってしまったのだ。
水の中にも空中にもこの星の人である私が考えた乗り物が動いている。
やがて、宇宙船を作るだろう。
子供たちに生命の誕生のことをこう教えている。
「遠い遠いところに地球という惑星があった、その惑星ができたとき宇宙のどこかの星でできたアミノ酸が宇宙のゴミとして混じっていた。それを材料として生命を作る物質DNAが偶然に生まれた。DNAは人を作った。それを宇宙に放った。それが私だ。私の記憶が宿ったDNAは、この星を作る材料になった、そこでこの星の生命が生まれた。人間は生きものの頂点ではない、人間からスタートしたのだから、進化の一番下等、いや初期の生き物なのだ。われわれはDNAの中に経験、記憶を蓄えることができる。DNAはこの星で新たな物に変るだろう」
「でも、宇宙は誰が作ったの」
子供たちの質問だ。
残念ながら、我々もまだこれに答えることができない。まだ進化の途上だからだ。
「わたちたちは、最後にはどんな生きもになるの」
これには少なからず答えることができる。
「この星の人間以上の生きものである」
我々の新しいDNAはいずれこの星を離れ宇宙に漂うだろう。私が地球から睾丸の繭に入って飛び出したように。そしてこの星で育った生命体がスタート点になって、新たな星に新たな進化した生命が発達する。
DNA同士の集まりは新たな暗号をもったものになる。これが宇宙の新たな生命を作るシステムである。最後には別の宇宙を作り出すことのできる生命体を作り出すためである。今、同時限では、宇宙は一つしかない。それを二つにしたいのである。第二の宇宙を作り出した生命はそこの神とよばれるだろう。
睾丸の繭