天空の庭はいつも晴れている

宮崎純嘉

  1. 周辺国地図
  2. ピスカージェン市街地図
  3. 第一章 辻占い
  4. 第二章 アビュー屋敷
  5. 第三章 雨季の兆し
  6. 第四章 頻伽鳥の歌
  7. 第五章 動き出した計画
  8. 第六章 アニスの探索
  9. 第七章 無明の闇
  10. 第八章 ミルテの枝
  11. 第九章 海
  12. 第十章 囚われの野
  13. 第十一章 慈愛と呪縛
  14. 第十二章 地上の庭
  15. あとがき

周辺国地図

周辺国地図

ルシャデールの出身カームニルの都カズクシャンは上の方です。その下(南)のナヴィータ王国を挟んで物語の舞台となるフェルガナがあります。

ピスカージェン市街地図

ピスカージェン市街地図

ルシャデールが暮らすアビュー屋敷はカシルク地区、北方丘陵地帯の南側です。

第一章 辻占い

    第一章 辻占い


 空はすっきりと青かった。
 ルシャデールはその青さを味わうように空気を吸い込むと、思い切りよく吐き出す。
礼拝堂の尖塔が、その空を突き刺すようにそびえていた。
 広場には一日の活動を始めた人々が忙しそうに往来する。
 野菜を運ぶ荷馬車、炭を摘んだロバ、ジュースを売る屋台。リンゴ売りのおばあさんは、今日も礼拝堂前の石段に座っていた。
 彼女はいつものように、噴水のそばで店開きの準備を始めた。あたりを見回し、商売を妨害してくる奴がいないか確かめる。
 広場は公共の場だから場所代など取られることはないが、時に嫌がらせを仕掛けられることはあった。何の憂さ晴らしか、通りすがりに「邪魔なんだよ」とつばを吐いて足を蹴っていく大人や、わずかな金を巻き上げようとする連中だ。とりあえず今のところ見当たらない。
「つじうらない 五タラ」と白墨で書いた小さな木の板切れを立て、噴水の縁石に半ば擦り切れた敷物を敷いて座った。
 枯草色の髪は無造作に麻ひもで縛り、やせっぽちの体にまとうチュニックは、汚れて元の色がわからない。裾からはつきだした足は真っ黒。一見、浮浪児の少年といった風だ。

「辻占か…当たるのかい?」
 気がつくと二人の男がルシャデールの前で足を止めていた。話しかけてきた男は三十過ぎくらいだろうか。
 ビロードのカフタンに長いコートを羽織る異国風のいでたちだ。もう一人は従者だろう。腰に帯びた剣に手をあて、抜け目なく周囲に目を配っている。
 子供だと馬鹿にされてか、冷やかしの客は多い。だが、目の前の男にからかいの色はなかった。いい意味での好奇心が優しそうな目の奥に明滅する。
 品のいい顔立ちだな、と彼女は思った。いばりくさった貴族連中とは違う。街中の修道僧によく見る人種だ。まるっきり清廉というわけでもなく、世事にも多少は通じているような。
 彼はルシャデールの前にしゃがみ込んだ。
「私がどこから来たか当ててごらん」
 ルシャデールは貫くような視線を彼に向けた。
 その瞬間、あたりの風景は陽炎のようにおぼろげなものとなる。目の前にいる男は、自らが放つ緑色の光に包まれていた。それは並の者よりずっと強い光だ。
(ユフェレンだ)
 ユフェレンとは、『ユフェリに属する者』を意味する。
 死者の魂、精霊、神霊……。それらが住む見えない世界はユフェリと呼ばれていた。『冥界』や『黄泉』といった言い方もあるが、それはユフェリを正確に表したものではない。
 死者が赴くところであり、始源の地ユークレイシスへの入口でもある浄福の地。普通の人間には見ることのできない世界だ。
 ルシャデールはユフェリにあるものを見たり、感じることができる。そういった者はユフェレンと呼ばれていた。呪術師や占い師、巫女、ユフェリの浄められた気を操って病を治す癒し手などである。
 自分と同類の者とあって、ルシャデールは少し警戒する。緑の光なら、たぶん癒し手だろう。
 再び、意識を現実の世界に少し戻す。彼を包む光は、その歩いてきた道に軸跡を残していた。彼女はその方角を黙って指さした。男はあいまいに|微笑(わら)った。
「なるほど。もう少し前のことはどうかな?」
 軽く流された。どうも彼女の能力をわかっていないようだ。来るところを見ていたとでも思っているのだろう。
(信じようと信じまいと、どっちでもいい。それよりも肝心なのは……)
 彼女はそばの看板代わりの板切れを指で軽く叩く。
「これは失礼した」微笑って男は銅貨を一つ出した。
 ルシャデールはもう一度男の顔をじっと見た。それから目を閉じ、自分の額の真ん中に意識を集中させる。ギリギリまで集中させて、今度はそれを一度に解放する。
「白い石の大きな屋敷…門のところに大きな木…ポプラかな?木が2本。とても広い庭があって、そこを小川が斜めに横切っている」
 彼女の意識は見知らぬ土地を、鷲のように上空から見下ろしていた。屋敷の南側で小川は別の大きな川に流れ込む。川は上流の山で大きく蛇行している。その山には城が建っていた。
 ふいに、その景色は消え、別の情景に切り替わる。粗末な藁屋根の家。貧相な男と身なりのいい三人の男、彼らの間に泣き叫ぶ男の子がいる。男の一人が小さな布袋を貧相な男に渡し、彼は男の子の手を取った。ルシャデールはその光景を説明し、最後に言った。
「アトール?……アタル?そんな名前のところ」
 男はもう微笑っていなかった。深い想いに沈んだ様子で立ち上がると、
「ありがとう」と彼は銀貨を彼女の手に握らせた。
 彼らはもと来た方へと立ち去った。
 ルシャデールは手の中の銀貨をうれしそうに眺めた。
(これで、四、五日はいいものが食べれる)


「そろそろ起きろ、ねぼすけめ」
 翌朝、狐顔の犬に起こされたのは陽も高くなってからだった。ルシャデールはむっくり起き上がった。|(ほこら)の入口に立てかけた扉代わりの板の隙間から朝の光が差し込んでいる。石の床に敷いたわらの先が首に当たってチクチクした。彼女は立ち上がって、わら屑をはらう。
 さびれた小さな祠(ほこら)だった。大人が寝泊まりするには頭がつかえる。子供ならば頭をぶつけることもなく、足を伸ばして横になれる。その程度の広さだ。石壁には苔が生え、屋根の朱い瓦の隙間からは草が伸びている。天井近くにはいつもヤモリが一匹張りついていた。
 かつては土着の神を|(まつ)っており、花や供物も絶えなかった。今では参拝する者もない。名残の祭壇には、犬型をした御神体の石に欠けた花瓶と皿が置かれていた。
「腹が減った、何か食わせろ」犬は横柄に要求する。
「おまえは精霊だろ、食べる必要はないじゃないか」
 髪をくしゃくしゃとかきながら、あくびをする。
「精霊ではない、神だ。神には供物が必要なんだ。ついでに言わせてもらえば、この祠だって俺のだ。居候のくせに態度がでかいぞ」
「神なら大人しく祭壇に鎮座してなよ」
 彼女はそう言い捨てて、辻占いの看板を手に外に出た。カズックもついてくる。
 
 父は生まれたときからいなかった。母を亡くしたのは四年前、六歳の時だ。住んでいた家を追い出され、橋の下をねぐらにした。 
 食べ物を調達するため、盗みは日常茶飯事だった。時々はつかまって鞭で打たれたり、殴られることもあった。寺院の前などで物乞いをしたこともあるが、縄張りがあるということを知らず、他の物乞いに袋叩きにされてしまった。
 生活が変わったのは、母の死から一年ほどたった頃だ。
 寝場所の橋の下を、他の浮浪者に奪われてしまった。数日さまよった挙句に、この祠を見つけた。すでに住人(カズックのことだ)はいたが、居候を許してくれた。
 彼女がユフェレンであることに気がついたのはカズックだ。彼は『ちょっとした才能』と評価してくれた。かつて神であった彼の『指導』のもと、ユフェリを訪れることもできるようになった。
 彼女が辻占いで日々の糧を得るようになったのは、ごく自然な成り行きといえた。

 日差しがまぶしい。畑はようやく種まきの時期だが、木々には柔らかな青さの若葉が風にそよいでいる。荷車を引かせた牛を連れた農夫とすれ違う。荷車は空だ。きっと野菜を市場に卸してきたのだろう。
 彼女は街への道を歩きながら、昨日の客のことを思い出した。
「あの客なら今日も来るぞ」
 カズックが周りに人がいないのを見計らって言った。
「うん」
 ルシャデールもそんな気がしていた。別に根拠があるわけではないが、彼女のそうした予感は滅多にはずれない。
 物心ついた時、ルシャデールには幽霊や精霊などが日常的に見えていた。それだけではない。過去や未来の情景が目の前に浮かんだり、御宣託のように突然言葉が降りて来ることもある。
 普通の子供なら、血だらけの幽霊など怖がって泣いてしまうが、彼女は平気だった。経験上、強く拒絶すれば彼らは手出しできないとわかっていた。
 空から寄せられる高貴な慈愛、地の底から湧く怨念、生きる者から発する悲しみ、喜び、怒り…さまざまな感情が風に乗って彼女のそばを通り過ぎていく。
 だが、周囲は彼女の能力に不審な顔をすることが多かった。とりわけ亡くなった母はその話を嫌っていた。

 ルシャデールは仕事を始める前に腹ごしらえをすることにした。肉とレタスをはさんだパンとチーズを買い、寺院の前の階段に座って食べる。肉は半分カズックにやった。彼はまだ足りなそうな顔をしているが、気づかないふりをする。
 大気は少し湿り気を含んでいた。西の方に少し雲が見えたが、すぐ降りそうな様子はない。
 朝食を終えた彼女は寺院前の広場の噴水で顔を洗う。古い木綿の首巻で顔を拭いていると、後ろに気配を感じて、振り返ると昨日の二人が立っていた。
「君に話したいことがあるのだが、少しいいかな?」
 ルシャデールはうなずいた。
 どことなく戸惑った表情で、彼は近くの茶店にルシャデールを誘った。
 パシクンというヨーグルト風味の飲み物と上げ菓子を食べる彼女に、男はトリスタン・アビューと名乗った。フェルガナ王国から来たという。南にあるナヴィータ王国をはさんでさらに南の国だ。
「私の家は代々|神和師(かんなぎし)を務める家柄でね、神和師というのは知ってるかい?」
 ルシャデールは首を横に振った。
「フェルガナの王様お抱えの呪術師、とでも言えばいいかな」
 フェルガナ王国の王が専属の呪術師を置くようになったのは千年ほど前のアルシャラード王の御世だった。カームニルの北に興ったグルドール帝国が周辺国を支配下に呑み込んでいった頃だ。
 軍備を増強する一方で、王はそれまで怪しげな者として蔑まれてきた呪術師のうち、力のある者十五人を身近に登用した。神和師十五家(今では九家に減っているが)の始まりだった。
 彼らは遠方の出来事を居ながらにして視ることができ、帝国の侵攻などを事前に察知したという。
 そのうち幾人かは帝国に派遣され、反乱軍を支援することとなった。彼らの尽力もあって、やがて、二百年続いた帝国は崩壊していった。反乱軍の参謀格だった魔術師サラディン・アズフィルとその弟子シヴァリエルスの物語は今でも楽師たちが歌っている。
 その後、お抱え呪術師は神和師と名を改め、功績を評され国内の寺院を統括する役割を担うようになり、各地の修道院が所有していた荘園を与えられた。今では大貴族並の家格を誇っている。
 ただ、一般の貴族と違い、神和師はユフェレンでなければならない。そのため、ふさわしい能力を持った子供を養子に迎え、跡を継がせるのが慣例となっていた。また、神和師は聖職者に準ずる者として、結婚を許されていない。そのため、実子による相続はありえないことだった。

「それで、もし君さえ承知してくれるなら、君に私の跡継ぎとして養子に来てもらいたいと思っているんだ……」
(跡継ぎ?)
 唐突な話だった。彼女は顔を上げずに、不信に満ちた視線を彼に向けた。
「なんで?」
「そう聞かれても説明しづらいんだが」困ったように彼はその端正な顔を歪めた。
 継嗣の選択と決定は『始源にして一なるもの』に委ねられていた。啓示は何らかの形で神和師に与えられる。夢見や遠視の術で、あるいは通りすがりの他人の一言だったり、どこそこへ行かなければという理由のない切迫感だったり。気をつけていなければわからないようなものだ。
 トリスタンの場合はカームニルから来ていた商人と会ったことだった。
 旅先で胃痛に苦しんでいた商人は宿の主人の案内で、アビュー家の施療所を訪れた。トリスタンの手当で痛みはさっぱりと解消したのだ。
 饒舌な親爺だった。治療が終わった後も、だらだらと彼のおしゃべりは続いた。その時に彼の口から、近所にいる小さなまじない師のことが出たのだ。
「年の頃は七つか八つってとこでしょうかねえ。今回の旅の吉凶を占ってもらったんですよ。なにせ、船で来ますからね、あたしは地に足をつけてないと、ひどく意気地がなくなるもんでして。そしたら、そのガキは『海はあんたを呑み込まないよ。でも、食い過ぎはやめときな』とね。『食い過ぎ注意』ぐらいの御宣託ならうちのかみさんにだってできますさね」
 彼の話から察するに、生意気な子のようだった。患者のおしゃべりが少しうっとうしくなっていたトリスタンは話の内容はあまり聞いていなかったのだが、
「会ってみたい子だね」と、適当にあいづちを打った。
 と、そばに控えていた侍従のイェニソール・デナンがはじかれたようにトリスタンを見た。
 侍従はそれを啓示だと疑わなかった。主人が困惑するほど速やかに旅の支度をし、すでに決まっていた予定の調整にあたった。そうしてフェルガナのバザルカナル港を出たのが十日前だった。
 そういえば、ひと月くらい前にそんな親爺が来たかもしれない。ルシャデールは記憶をたぐった。
 見てやった後ぐちゃぐちゃ文句を垂れて、わずかな見料も値切ろうとしたケチなおやじだ。そのおやじを介して自分のことが異国にまで伝わり、神和師とやらを連れてくる……。あまりに突拍子ないことで、かつがれているような気がした。
「漂う霧をつかむような、心もとない話と思うかもしれないがね」
 そう言って、たいして暑くはないのに、ハンカチで額の汗をふく。たぶん、彼が一番困惑しているのだろう。
 ルシャデールは答えなかった。この世に起こることに偶然はない。すべては始源にして一なる者がもたらす必然。カズックはよくそう言っている。
「急にこんな話を聞かされても、すぐには答えられないだろう。家族とか身内の人はいるのかな?」
「そんなものいたら、辻占いなんてやってないよ」
 鼻でせせら笑う少女にトリスタンは苦笑した。 
「しかし、考える時間は必要だろう。三日後に返事を聞かせて欲しい。私はカルソー通りの黒猫亭に泊まっている」 
 トリスタン・アビューはそう言って立ち去った。
 ルシャデールは椅子に座ったまま、しばしその姿を見送った。今日はもう商売を続ける気にはならなかった。立ち上がると、街の西へ歩き出した。
 
 丘の上の修道院の廃墟はルシャデールのお気に入りの場所だった。眼下に広がるカズクシャンの街。レンガ色の赤い屋根が連なり、広がっている。ところどころに寺院のドーム屋根と尖塔が突き出ていた。西へ向かうカラプト川の川筋が銀色に光っている。天気がよければ金開湾まで見えるはずだ。
 ルシャデールは廃墟の石積みに腰をかけて、その風景を眺めていた。
「いい眺めだ」いつの間にかカズックがそばに来ていた。「昔はすべておれのものだったんだが」
 カズクシャンとは『カズック神の都』という意味だ。街のあちこちにカズック神の寺院があったという。ルシャデールが辻占いをしている広場の寺院も、元はカズックが祀られていた。
「彼のことは聞いたことがある」カズックは風の匂いにふんふんと鼻をひくつかせていた。「腕のいい……そうだな、この近隣の国でも五指に入る癒し手だぞ」
「ふうん」そういう順位づけには興味がなかった。
「行くのか?」
 幸か不幸か、何のしがらみもない彼女は身一つで動ける。
「どうでもいいや」
 彼女は空を見上げた。
「おまえの親父はフェルガナから来たとか、前に言ってたよな」
 母はこの街の生まれだが、父はフェルガナ人だったと聞いたことがある。しかし、それ以上のことは知らない。彼女が生まれる前に父親は失踪。母のセレダは半狂乱になって捜したらしいが、行方はわからなかった。
 赤ん坊を抱えての生活が楽なはずがない。周囲からは里子に出すよう勧められたようだ。それを頑として聞き入れなかったのは、夫が戻ってくるのを信じていたからだろう。
だが、一年、二年と時は過ぎ、生活は|(すさ)んでいった。
 ルシャデールの記憶にある母は、振り乱した髪で酒を飲み、怒鳴り散らす女だった。最初に言われたのはいつだったか……『おまえなんか、産まなければよかった』と。
「親父の方の親戚とか、いるんじゃないのか?」
「関係ないよ。いたとしても、わたしのことなんか知らないに決まってる」
 別に会いたいとも思わなかった。
 再びトリスタンという男の顔を思い出す。
「養子ってことは、あの人が私の父親になるんだよね?」
「そりゃ、母親にはならんだろう」カズックは飄々と答える。
 孤児の身に降ってわいた福運なのだろうが、実感はない。それに、はい、そうですかとついていけるほど、彼女は人を信じていなかった。
 母ですら彼女に背を向けたのだ。母が想うのは行方の知れない父のことだけ。たまに、彼女に父の面差しを求める時だけ、振り向いてくれた。そして、最後には彼女のことを一顧だにせず逝った。だが、そんな母でも世間の荒波から守る防波堤の役割は果たしていた。その後に味わった辛酸を思えば。
 無関心な人、冷たい人、攻撃的な人、蔑んだ目を向ける人。わけのわからない怒りをぶつけてくる人。ルシャデールにとって世の中はそんな大人で溢れていた。たまに「かわいそうに」と言ってお菓子やお金を恵んでくれる人もいたが、中途半端な憐みなど、自分がみじめになるだけで不愉快だった。
  
 ルシャデールは翌日、翌々日と、いつも通りに辻占いに出た。
 フェルガナ行きについては、何も考えていない。行こうと行くまいと同じような気がした。今の生活は確かに不安定だが、豊かな落ち着いた生活を望んでいるわけでもない。死ぬまで、ただ生きるだけだ。
「売り上げをよこしな」
 気がつくと三、四人の少年が目の前に立っていた。彼女より少し年上の、浮浪児の一団だ。盗みや脅しを生業としており、ルシャデールも何度か金を巻き上げられたことがある。リーダー格のスラシュは身体も大きく、腕っぷしも強い。
 首から下げた頭陀袋をルシャデールはしっかりと抑える。六感をめいっぱい使って逃げ道を探すが、四人に囲まれるとあとは後ろの噴水しかない。いつもなら、もっと前に気がつくのに、とくちびるを噛む。
「いいからよこせ!」
 少年たちの中で二番目に年長のスラシュが袋に手をかけ、引っ張った。ルシャデールははずみで前のめりに倒れ込む。膝と、顔をかばった左ひじに衝撃を感じ、ひりひりと痛む。
 だが、袋はまだ取られていない。その時、「うっ!」という声とともにカシャンと何か割れる音がした。
「何をしているんだ!」鋭い声が響いた。
 顔を上げると、目の前の割れた素焼きの茶碗の向こうから、見たことのある男が近づいてくる。
「やばそうだ、逃げろ」少年たちはただならぬ気配に逃げ出した。
「大丈夫ですか」
 彼女の前に膝をついたのは、トリスタン・アビューの従者だった。話し方も表情も柔らかで気品を感じさせるが、その隙のない物腰は武術に秀でた者だけが持つものだ。
「血が出ています。|(あるじ)が近くの本屋におります。手当しましょう」
 こんなもん舐めときゃ治る。そう思ったが、またスラシュたちが戻ってくるかもしれない。きっと近くで様子を見ているだろう。ルシャデールはついていくことにした。
 金物通りの入口まで来た時、茶店のおやじが走り寄って来た。
「ああ、あんた。困るよ、客の飲んでいる茶を取りあげた上に、茶碗を放り投げてしまうなんて!うちの茶碗はコルヴェデから取り寄せた特注品なんだ。」
 怒っている割に、眉根は下がって、腰が引けている。彼の腰に下がる剣が気になるようだ。
「これで足りるだろう」
 トリスタン・アビューの従者は財布から銅貨三枚渡した。それから何事もなかったように「まいりましょう」と、ルシャデールを促した。
 金物通りの中ほどにある本屋にトリスタン・アビューがいた。本の値段について店の主人と交渉しているようだ。
「トリスタン様」
 呼ばれて彼は振り返った。そしてすぐ、ルシャデールをみとめた。
「どうしたんだ、ケガをしているじゃないか」
 彼の従者が仔細を説明してくれた。
「私の宿へおいで。手当をしよう」
 連れて行かれた黒猫亭は一階が酒場兼食堂になっており、二階と三階が宿泊用の部屋になっていた。宿屋の中でも貴族や大商人しか相手にしない|上宿(じょうやど)だが、その中でもいっとういい部屋に彼らは泊まっていた。
 木や草の彫り物をほどこした椅子にすわり、ルシャデールはきょろきょろと部屋を見回す。細かな編み目で花の模様を作ったレースのカーテン。かかっている窓はもちろんガラスが入っている。壁のタペストリーはオズレン織だ。狼と犬を従える月の女神をモチーフにしていた。
 トリスタンは血や泥を洗い、彼女の額に手のひらを当てた。
 彼を包んでいる光がぐん、と力を帯びてふくらんだ。
 一つの場ができる。大地の核と宇宙の深奥が癒し手を通してつながり、彼の中で強い一つの光の柱となる。黒猫亭の部屋は消え、真っ白い光の空間にいた。トリスタンの手からルシャデールの傷に暖かな気が流れ込んできた。それは彼女の額から入ってきて、首へ心臓へ、体の隅々へと循環し、今度は汚れた気を外へ排出させる。
 癒し手から治癒術を受けるのは初めてだった。掃き溜め小路で黒いマントを着た婆さんが、手を当てて小さい子を癒しているのは見たことがある。婆さんの頭上から光の柱が立っていたが、これほど太くはなかった。近隣の国で五本の指に入るのは嘘じゃなさそうだった。
 まもなく手当は終わった。さわってみると、血は止まり皮膚も元通りに治っている。すりむけた膝小僧も同様だ。
 トリスタンは水の入ったコップをルシャデールに差し出した。
「お飲み。手当のあと、頭がぼーっとする人もいるんだ」
 ごくごくと水を飲み干す。ルシャデールは目の前の男を見た。この人もまわりも、どれだけすごいことをやっているのかわかっているんだろうか。病気やけがを治す便利な人、ぐらいにしか思ってないんじゃないか?
 ルシャデールは体の中に注がれた暖かな力を思い起こす。この人が父さんになるのか。知らず知らずのうちに心が和む。だが、口から出る言葉は投げやりな口調だった。
「どっちでもいいよ」
「え?」
「行ってもいいよ、行かなくても」
 トリスタンは手を止め、彼女の正面に回った。
「それは来てくれると受け取っていいのかな?」
「言葉通りだよ、どっちでもいい」
 ルシャデールはぷいと、横を向く。たまに、こんな気まぐれもいいさ。もし、そこでの生活がうまくいかなかったら、また辻占いに戻ればいいだけだ。一人でも生きていける。
 
「行く事にしたのか、結局」
 その晩、祠に戻ったルシャデールにカズックが言った。
 出発はあさってだという。トリスタン・アビューはそのまま宿屋に一緒に泊まるよう勧めてくれたのだが、断った。雨漏りもする祠だが、三年も住むと愛着もわく。
「おまえはどうする?一緒に来るかい?」
 カズックとは別れたくなかった。といって、『心細いから一緒に来てほしい』と言えるような素直さは持ち合わせていない。
「食い物は間違いなく今よりいいはずだよ」さりげなく誘ってみる。
「そうだろうな」
 カズックは祠を見回し、感慨深げにつぶやく。
「俺もここは長いからな。街も、この祠も。何百年たったんだか……」
 ルシャデール以上に愛着があるのかもしれない。来ないというなら、それも仕方のないことと思っていた。
「潮時かもな」
「え?」
「ついてってやるよ」
 仕方ねえな、という口調でカズックは言った。
「別に来なくてもいいよ」
「明日もここに寝るのか?」
「午後に黒猫亭へ行くって言った」
「そうか。じゃ、御神体を頼むな」
 カズックは御神体がないと長くこちらの世界にいることはできない。もともとユフェリに属する者なのだ。御神体がこちらの世界に彼をつなぐ依代になっている。
「うん」
「船旅になるんだろ、海に落とすなよ」
「わかってるよ、うるさいな」
 祠で過ごす最後の夜だった。


 翌朝、市場の茶店で干し果物と米のスープを朝食代わりに飲むと、オストーク通りへ向かった。そこは酒場と怪しげな店が立ち並ぶ。夜は紅灯に彩られる通りも、朝は厚化粧がげた女のように汚れ、明かりに使った獣脂ろうそくの臭いが鼻につく。
 ほとんど人通りはなかったが、崩れかけたようなアパートの前で女が伸びをしていた。
シュミーズの上に派手なガウンを羽織り、焦げ茶の髪は飛び跳ねている。女はルシャデールを見て、あら、と声を上げた。
「ルシャデールじゃない?めずらしいわねえ。辻占いしてるんですってね。あんたはそういうこと向いてると思ってたわ」
 かつて、階下に住んでいたベニエラだった。
「うん。部屋は誰か入った?」
「入るわけないじゃない」ベニエラは眉をひそめ、声を低くした。「首括りのあった部屋なんてさ。セレダさんは可哀そうだったけどね……。でも、大家も因業だわ。どうせ人が入らないなら、あんた一人ぐらいおいてやってもよかったのにさ」
「見せてもらってもいい?」
「いいけど、何もないわよ。鍵は開いてると思うわ。」
 ルシャデールが住んでいた頃から鍵は壊れていた。金にしぶい家主は直していないらしい。盗人に入られるような物持ちはこんなところに住まないだろうが。
 狭くて暗い階段を上り、三階の二番目の部屋だった。ドアはギイイと陰気な音をたてて開いた。石の床がむき出しの、がらんどうの部屋がぽっかりと前にあった。追い出された時に少しばかりあった家財は、滞納した家賃のかたに、大家に取られてしまった。おそらく古物屋にでも売り払ってしまったのだろう。
 壁の落書きだけが、そのまま残っている。ルシャデールが三才くらいの時に描いた母の絵だ。長い髪の女性が笑っている。
 天井を見上げると、太くて黒い梁が一本通っているのが目につく。
「まだ……そこにいるんだね」 ルシャデールは虚空に向かって声をかけた。彼女の目には見えている。梁からぶら下がったままの母の姿が。
「遠くへ行くことにしたんだ。もうここへは来ない。……さよなら」
 ちょっとの間、母を見つめる。それから踵を返して部屋を出た。

 
 二日後の朝、ルシャデールはカズクシャンの街を発った。
 カラプト川沿いの街道を西に向かい、金開湾を望む港町パウラで船に乗った。パウラからは沿岸の街に寄港しながら南へ向かう。泊まるのは港の宿屋だ。
 初めての船だったが、幸い彼女は船酔いをしない|性質(たち)らしく、航海中はほとんど甲板で過ごしていた。一方、彼の養父となる男は、海上ではひねもす船室にこもり、宿屋ではほとんど食事も取れずにベッドに伏せっていた。
 自分の体調不良ぐらい治せないのか、と思ったが、それは黙っていた。まるで拷問を受けた罪人のように哀れな姿だったからだ。侍従のイェニソールはたいていは主人のそばについていたが、時折、ルシャデールの様子を見に来ていた。
「何か、島でも見えますか?」
 ルシャデールは首を振った。海原は果てしなく広がっているだけだった。
 何があるんだろう、この海のずっと向こうには。ぼんやりと考える。
「ユフェリが空の果てなら、海の果てにあるのは地上の楽園かもしれないですね」
 ルシャデールはこの侍従の心がすっと、自分に添ってきたのを感じた。思わず、彼の顔を見上げ、
「考えていることがわかるの?」とたずねた。
「いいえ」彼は静かに答えた。「海を見た時に、誰もが考えることです」
 彼女はそっと服のかくしに入れた御神体に触れた。祠に祀ってあったカズックの御神体だ。彼は今この小さな石の中に入っていた。

 

第二章 アビュー屋敷

   第二章 アビュー屋敷

 ルシャデールたちがパルレ橋の船着き場で船を降りたのは、日も入相の頃だった。
 日没は礼拝の時間でもある。あちこちの寺院や礼拝所の塔から、ラッパを大きくしたような楽器シルクシュの音が響く。カームニルでも礼拝は同じ時刻だが、シルクシュではなく鐘が鳴らされた。
 船着き場ではアビュー家から迎えが来ていた。そこからは馬に乗って屋敷に向かう。ルシャデールはトリスタンの前に乗せてもらった。
「もう少しだからね。完全に暗くなる前には着くよ」
 トリスタンは彼女の疲れを気遣ってそう言ったが、ずっと船酔いに悩まされてきた彼の方が青い顔をしていた。
 一行は南北の国をつなぐ西街道を北に進んだ。半時ほど行くと、壁道と呼ばれる古い城壁沿いの道に出る。それを東に折れると、カシルク寺院の尖塔が見え、アビュー家の屋敷はそのすぐ隣だった。
 正面の門はカズクシャンで、ルシャデールが遠視したとおりだった。二本の大きなポプラの樹。アーチ型に石を組んだ門。
 門を入ると玄関まではまっすぐだった。玄関前に召使たちが並んで迎えに出ていた。その数四十人以上はいるだろう。
 ルシャデールは眉をひそめた。自分には似合わないところに来てしまったように思えた。
 玄関前の階段を上ったところで、トリスタンが執事のナランと家事頭のビエンディクを紹介した。ビエンディクは五十を過ぎたくらいの神経質そうなやせた男だった。執事のナランはやや小太りで鷹揚でおっとりした雰囲気を漂わせている。
中に入ると、壁は一面青い唐草模様のタイルで飾られていた。吹き抜けの天井から吊るされた何十個というランプで、暖かなオレンジの光に満ちている。
 ビエンディクが二階に用意された彼女の部屋へ案内してくれた。
「こちらが御寮様のお部屋でございます」
 部屋は二間つづきだ。居間と寝室だが、やたらと広い。貧乏人の家なら、居間だけで三、四軒分入りそうだ。
 茶店や酒場は別として、一般にフェルガナの家では椅子を使わない。豪奢な織りの絨毯(じゅうたん)に低いソファが壁二面に沿って置かれている。そのソファにあわせた高さの、螺鈿(らでん)細工を施した低いテーブルが二つしつらえてあった。
 七つの窓には赤と青で彩られたステンドグラスがはめ込まれ、床から天井近くまでの高さがあった。
 ビエンディクはルシャデール付となった侍女を引き合わせた。メヴリダという三十代半ばくらいの女だ。彼女は愛想笑いを浮かべてルシャデールに挨拶した。
ビエンディクは入浴の後トリスタンの部屋で食事だと言って、メヴリダに世話を言いつけ出て行った。
 侍女と二人になったとたんに居心地の悪さが押し寄せてくる。
「お食事の前にお風呂に入ってくださいまし。ほこりだらけでございますよ」
 言われるままに風呂場へ行く。魚を描いた白いタイルの浴槽からは、マジョラムのほのかに甘いかおりが匂っている。申し分のない風呂だが、ゆったりした気分とは程遠い怒号が飛び交った。
「じっとしてください!」
「やめろ、ひっぱるな!」
「暴れないでください!」
「さわるな! ババア!」
 髪や体を洗い終わった時には、侍女も服のまま入浴したかのような姿になっていた。
「人に触れられるのが嫌だとおっしゃるなら、ちゃんとご自分でなさってください!」
「出てけ!」
 ルシャデールは叫ぶと同時に、近くにあったオリーブの石鹸を投げる。それは侍女の額に当たり、青筋たてて侍女は出て行ってしまった。
 脱衣所には大判の体拭き用の布や替えの衣服が用意してあった。適当に拭いているうちにメヴリダが濡れた服を着替えて戻って来た。ルシャデールに服を着せつけてくれるが、今度は二人とも無言だった。
 部屋に戻ると、別の召使がベッドを整えていた。絹のシーツに羽の枕、布団カバーはやはり白絹で白と銀の糸で刺繍がほどこしてあった。召使は整え終わると、ルシャデールに一礼して部屋を辞した。入れ替わりに男の召使が食事だと呼びに来た。
 入浴、着替え、食事……。いったい、今日はあといくつの儀式があるのかと、ルシャデールはうんざりする。
 トリスタンの部屋は廊下の中央にある。当主の居室だからか、ルシャデールの部屋より若干広い。
 先ほどの入浴の時の怒りがまだ収まらず、ルシャデールは無言のまま席につく。浴室の騒ぎはきっとトリスタンにも聞こえていただろう。しかし、彼はそれには触れず、少しやつれてはいるものの、明るい目をむけて彼女をねぎらった。
「疲れただろう、今夜はゆっくり寝るといい」
 ルシャデールは黙ってうなずいた。
 薄いパンを二、三枚食べると席を立つ。
ふと、カズックのご飯のことを思いだし、骨付きの肉を一本持って出た。給仕係が呆れたように見ていたが、気にしないことにした。
 部屋に戻ると夜着に着替えさせられ、寝るように言われた。メヴリダはまだ機嫌が悪い。言葉のはしばしに棘がある。カズックの肉のことももちろん指摘された。曰く、食べ物をそのまま持ってくるなんて、良家のお嬢様のなさることではありません。乞食の子じゃないんですからね。
 『乞食の子』という一語がルシャデールの癇にさわった。失せろ、くそばばあ! と叫んで追い出す。
「えらくご機嫌じゃないか」
 カズックがどこからともなく現れた。眉根にしわを寄せ、への字口でルシャデールは彼を迎える。
「子供がずっといない家なんだろう。召使たちが珍獣のようにおまえを見ているぞ」
「注目の的ってわけか。ありがたいね」
「ま、仕方がないな。あのやかまし屋のねえさんはおまえの世話をすることで金をもらうんだから」
「ほっといてくれるなら、褒美でも出したいくらいだ」
 怒りが少しずつおさまってくると、疲れを感じた。
「おまえの餌、確保しておいたよ」
 ルシャデールは螺鈿のテーブルを指差す。無造作に肉が置かれていた。
「おまえなあ……カズクシャンのぼろい祠じゃないんだからな。この屋敷でこんなことしたら、あの姐さんにまた……」
 カズックは言い止めた。神は人間に介入すべき時を心得ているものだ。そして、そうでない時も。
「ありがとよ」犬は肉をくわえると、壁からすいっと出て行った。
 一人残ったルシャデールは、まだ眠る気にならなかった。部屋の中は静かだ。
メヴリダとは明日からも顔を合わせるのだろう。でも、うまくやっていくのは無理に思える。
 今までは毎日顔を合わせて付きあっていく人間はいなかった。少なくとも母が死 んでからは。これからはそういう人間が何人もいる。気が重かった。
 今日のことはすでに屋敷中に伝わっているに違いない。とすれば、まだろくに知らない召使も彼女のことはよく思わないだろう。
 トリスタンも今頃あきれているだろう。養女にしたことを後悔しているかもしれない。
(そのうち養子縁組はなかったことに、と言い出すんじゃないか。ま、それもいいか……)
 もう、どうでもよかった。ソファにもたれたまま、ルシャデールは意識を飛ばす。
屋敷の上空へ。満天の星の下、広がる街の灯りは小さく頼りなげだ。孤独な鳥のように彼女の意識は夜空をさまよう。就寝前の祈りだろう。石造りの家々の窓から人々の祈りが立ち昇ってゆく。
『子供たちが病気をしませんように』
『家族が幸せで暮らせますように』
『商売がうまくいきますように』
『あの人があたしを好きになってくれますように』
 他愛ない祈りだ。祈りは白やピンク、黄色、緑、さまざまな色で柔らかに煌めきながら柔らかな世界へと昇って行った。
 家族、親戚、友達……昔から手の届かない世界だった。トリスタンが養父になったと言っても、実感はまったくない。たぶん向こうもそうだろう。だが、カームニルからずっと、言葉や態度のはしばしに彼はルシャデールへの気遣いを見せていた。
 心さまよわせて、何を探しているのかもわからなくなる。やがて、ルシャデールは眠りの領域に入っていった。


「御寮様、起きて下さい」
 翌朝はメヴリダの苛立たしげな声で目が覚めた。
「なんてところでお休みになってらっしゃるんですか。朝ですよ。さあ、顔を洗ってお支度をしたら御前様のお部屋でお食事ですよ」
 洗顔と着替えまでは言われるがままになっていたが、寝起きのぼーっとした頭が冴えてくるに従って、彼女の高い声が気に障ってくる。うるさい。
(そういえばカズックの御神体は?)
 夕べ、肉と一緒にテーブルに置いたはずだ。
(ない!)
 テーブルの上にもソファの上にも、床の上にもなかった。寝室も慌てて探すが見当たらない。
「テーブルの上にあった石は?!」
侍女に掴みかかった。
「離してください」冷たい手でメヴリダは彼女を振り払う。「石ってあの黒っぽい石ですか?」
「そうだよ!」
「あの石なら捨てました。」
「捨てた?!」
「申し訳ございません。あのような汚い石、大事な物とは存じませんで。窓から投げただけですから、その辺に落ちていると思います。後で取って参りますわ」
 たいしてすまないという風でもなくメヴリダは答えた。給仕係が食事の用意が整ったと、呼びに来た。
「いらない!」
 叫んでルシャデールは飛び出して行った。
 あの石が割れたりしたら、カズックはもう彼女の前には現れないだろう。彼は唯一の話し相手だ。憎まれ口ばかり叩くが、母を亡くした後、彼女がかろうじて  心を安定させてこられたのは彼がいたからだ。
 玄関を出て庭の方へ回る。屋敷の南側は庭園が広がっていた。咲き匂う花の茂みのあちこちに薔薇のアーチや四阿(あずまや)が配されている。しかし、今はそんなものを眺めているどころではない。自分の部屋の窓を探す。
 が、自分の部屋がどの辺かわからない。夕べ着いたのは暗くなってからだったし、風呂だ、食事だと追い立てられて外を眺める暇はなかった。同じような窓が三、四十は並んでいる。といってメヴリダのいる部屋へまた戻るのは嫌だ。
 ルシャデールはあてずっぽうで位置を決め、探し始めた。
「おはようございます、御寮様」
 顔を上げると、ルシャデールと同じくらいの年頃の少年が木桶を片手に立っていた。
「何かお探しですか?」
 ルシャデールは立ち上がり、少年を見据えた。黒い髪に明るい褐色の瞳をして、たんぽぽの花のような笑顔を向けている。
「おまえは……ここの召使?それとも召使の誰かの子供?」
「召使です。アニスといいます」
 手伝ってもらうべきか、それとも一人で探した方が無難か。ルシャデールは考えを巡らす。しかし、御神体がどの窓から投げられたのかわからない中での探し物は不利だ。
「石……黒い石を探してる。私の部屋の窓から投げられた。」
「大きさはどのくらいですか?」
「手のひらに乗るくらい」
 それを聞いて、彼は東よりの方へ走って行くと、すぐに草花や木の茂みをかき分けて探し始めた。ルシャデールは少年をぼんやり見ていた。初めて会うはずなのに、知っているような気がした。
「これですか?」
 少年は黒い石を掲げて叫び、走ってきた。ルシャデールはひったくるように彼の手から取った。まるで盗まれでもしたものを取り返すかのように。そのふるまいにアニスは、はじかれたように目を見開いたが、すぐににっこり笑った。
「よかったですね、見つかって。失礼します」
 ぺこんと頭を下げ、少年は木桶を持って庭の奥の方へ行った。その後ろ姿から目が離せずルシャデールはそのまま見送った。
 カズックがそばに来ていた。
「おまえ、また癇癪(かんしゃく)起こしたらしいな。召使が話していたぞ」
「これ投げられたんだ」
 ルシャデールは石を見せた。
「大事にしてくれるのは嬉しいが……俺よりも周りの人間をもっと大切にしろ」
「大切にするほどの価値があるのか? 私も、私以外の人間も」
 癇癪はすっかりおさまっていたが、今度は冷え冷えとしたものが心を占める。
「あるさ。あるに決まってる」
「ふん、さすがに神様はご立派なことを言う。それなら、なぜ母さんは私をおいて、勝手に逝ってしまったんだ?」
「あれで、おっかさんはおまえのことを愛していたと思うぞ」
 とてもそうは思えなかった。
「おっかさんにとっては、あれがギリギリ精一杯だったのさ」
「私より、いなくなった父さんの方が大事だったんだ」
「おまえも大人になれば、少しはわかるさ」
「『大人になれば』なんて、そんなごまかしの慰めなんかいらないよ! 今、教えてくれることができないなら、黙ってろ!」
「ほら、おっかさんの代わりに構ってくれる姐さんが来たぞ」
 メヴリダがやってきた。明らかに機嫌が悪い。
「げっ」
 ルシャデールは即、逃走に移った。
 その姿を考え深げに見ながら、カズックはつぶやいた。
「人間は気短だな……。俺が宇宙の果てユークレイシスを発ったのは子犬の頃だったが。何千年、いや、何万年か前。しかし、一週間かそこらぐらいしかたってないような気がする」

「アニース!そろそろ終わりそうかい?お昼ご飯だよ」
 洗濯係のレイダが呼んでいた。
「うん、あと少し!」アニスは井戸端で叫んだ。まだ九歳の彼にとって水汲みは骨の折れる仕事だ。その日一日屋敷で使う水を汲み上げるには、三十回は往復しなければならない。
「あとどのくらい?」
「三回! 大丈夫、すぐ終わるから」
 頼めば手伝ってくれただろう。ちょうど彼の母親ぐらいの年の彼女は、アニスをよく可愛がってくれる。でも、甘えたくはなかった。屋敷の主人は、みなしごとなった彼を、簡単な仕事ならできるだろうと引き取ってくれた。とても感謝していたし、受け入れてくれた他の使用人のみんなにも迷惑はかけたくなかった。

 アビュー家の屋敷は大きく三つの棟に分かれる。本棟と西廊、それに東廊だ。
本棟はおもに主人やその家族、客が使用する部屋が大半を占めている。他には執事など上級使用人の部屋が一階の隅に、数は少ないが女性使用人の部屋が最上階にあった。
 東廊は舞楽堂などがある斎域だ。
それから使用人が出入りする西廊である。厨房や洗い場、日用品や調度品などの収納庫、男性使用人の部屋がある。
 水汲みを終えたアニスは西廊の半地下に向かった。そこに使用人の休憩室があった。
 ここでもテーブルは使われない。床には絨毯が敷かれ、中央には木綿の白布が拡げられて料理が並んでいた。今日のお昼はインゲン豆の煮物に、塩味をつけたヨーグルトの飲み物、酢漬けの野菜、それからトルハナという薄っぺらいパンだ。
 アビュー屋敷の召使は十一時頃から交代で昼食をとるようになっている。二時頃まで常時十人ぐらいが食堂にいた。アニスは一番隅に腰を下ろした。
「御寮様はどんな具合だ」
 庭師のバシル親方が言った。夕べから使用人たちの話題は、アビュー家の跡継ぎの少女のことばかりだ。
「ひどいらしいよ。メヴリダの話は聞いたかい?」レイダが答えた。
「ああ。それにトナヴァンの話もな」
 トナヴァンは給仕係だ。昨夜の夕食の時の話も、すでに使用人に知られている。
「行儀が悪いのはともかく、えらく無愛想で可愛げのない子だな」
 厩番のギュルップが口をもぐつかせながら言った。
「まあね、神和師(かんなぎし)は大貴族と同様の家柄だけど、みんな養子で来るから生まれはあたしたちと同じか、それ以下だからね」
「トリスタン様は漁師の息子だと聞いたな。兄弟姉妹がたくさんいて、口減らしで売られたようなもんだったって」
「その時、親に大枚払って養子にしたとか聞いたよ」
 そんな会話に、アニスはさっき会った御寮様を思い出す。警戒心の強い、野生のけもののようだった。
(でも……知らない大人ばかりのところで、心細いんじゃないかな)
 自分がこの屋敷にやってきた頃のことを思い、彼はひそかに同情した。

 アニスがこの屋敷に来たのは、一年半ほど前だ。雨の多い年だった。
 いつもの年なら夏の日差しが照り出す頃だというのに、雨季が終わる気配はなかった。フェルガナの各地で河の氾濫が相次ぎ、畑は水びたしになって麦も野菜も収穫前に腐り始めていた。
 ピスカージェンの北に位置するネズルカヤ山地の山奥、ハトゥラプル村も例にもれず、すでに不作が案じられていた。
 雨は十日も続いていた。
「アニス、薪を取ってきてちょうだい」
 母に頼まれ、母屋から少し離れた物置小屋へ行く。その直後だった。地の底から響いてくるようなゴゴゴゴーッという音。メキメキと生木が裂ける音。何が起こったのかわかず、物置小屋でただじっとしていた。
 音がおさまって、そっと物置の戸を開けた。むっとする土の匂い。すぐ眼の前は泥山だった。母屋は見えなかった。ところどころから木の枝が、根が突き出ている。
 呆然と立ち尽くしていたのは、どのくらいの時間だったろうか。泥の下に家族がいるのだと気がついて、あわててスコップを手に土砂をかきだす。そのうちに、村人がかけつけ、掘り起こしてくれた。
 家族四人の遺体が見つかったのは翌日だった。
「嘘だ……。母さん……父さん。エルドナ。おじいちゃん」
 アニスは一人一人の顔を見ていった。何か悪い夢の中にさまよいこんだような気がした。
「母さん、起きてよ!」母の体を強くゆするが、目を覚ますはずもない。
 誰かがアニスの横にしゃがみこみ、肩を抱いた。
 亡くなった家族は村の墓地に埋葬された。遺体は泥がきれいにぬぐわれ、マーガレットやひなげし、藪手毬などたくさんの花に被われていた。村の礼拝所を預かるオドレント師の祈りの後、棺に土がかけられた。
 そして時間が通り過ぎていく。
 土砂崩れの後、しばらくはペレニンさんの家で世話になっていた。しかし、この年は穀物も野菜も例年の三割程度しか収穫が見込めず、子供の多い家にやっかいになるのは難しかった。
「そりゃあ、あたしだって世話してやりたいよ。あの年でみなしごなんてあんまりだしねえ。だけど、うちは五人も子供がいるんだ、今年は麦の出来も期待できないじゃないか……」
「俺んとこだってそうだ。うちにゃ気難しい年寄もいるこったし」
「イスファハンさんはピスカージェンから来たって話だが、親戚とかいないのかねえ」
「駆け落ちしてこっちに来たんだろ。喜んで迎えてくれるとは思えないけどな」
「やっぱりこういう時は、お寺とかで面倒見てもらうのが一番かもな」
「大きい街なら、子供でも使ってくれる仕事もあるだろうさ」
「オドレント様に頼めば、紹介してくれるかもしれないよ」
「ここにいるのも辛いだろうしなあ」
 そんな大人たちの会話も他人事のようにアニスは聞いていた。
 ひと月ほど過ぎた頃から、アニスは雨降りを異常に怖がるようになった。布団をかぶって泣き,震える。ひどい時は悲鳴をあげて、雨の中をどこかへ走り出していく。世話をしていたペレニン一家も持て余すようになってしまった。
 葬儀から二ヶ月ほど経った日、礼拝所を預かるオドレント師がアニスのところに来た。「アニス、あさって私とパスローへ行こう。パスローの大きなお寺へ行って、これからの、君の身の振り方を考えてもらおう」
 アニスは困ったようにオドレント師を見た。
「僕……行きたくありません。だって、ここにいなかったら、お墓を守る人がいないし、冬至のお祭りには亡くなった人が帰ってくるんでしょ? ぼくがいないと、迎えてやれない……」
 いい子だね、とオドレント師は言った。アニスだってわかってはいたのだ。自分がここにはいられないということを。
 パスローへ移ってもアニスの落ち着き先は決まらなかった。ここもハトゥラプルと同様、農作物の不作で子供一人を引き受けるのも厳しい状況だった。
 半月もせずに彼は王都ピスカージェンのカシルク寺院へ送られた。そこなら子供でもできる仕事があるだろうと、パスローの寺では考えたのだ。それに隣には寺院を所有するアビュー家がある。その当主は癒し手として高名だ。
 カシルク寺院に来て二週間目だった。やはり雨の日にアニスはパニックの発作を起こし、アビュー屋敷の施療所に連れて来られたのだ。トリスタン・アビューは彼を寝かせ、目を閉じるように言うと、額に手を当てた。
「今、君がいるのは静かで何もないところだ。
誰も、何も君を傷つけたりしない。
恐ろしいもの悲しいもの苦しいもの、
何もここには入り込まない」
 不思議な声だった。少し低めで、剣呑なもの、尖ったものをすべて平らかにしてしまうような。しかも、その声に導かれるように暖かく柔らかな空気がアニスの体と心を包んでいく。
「雨はもう止んだ。
さあ、目を開けてごらん」
 気がつくと涙があふれていた。恐怖感は去っていた。
 それがトリスタン・アビューの治療だった。彼は発作が起こることを心配し、自分の屋敷で働くよう取り計らってくれた。その後、アニスは六回ほど治療を受けている。ここ半年は落ち着いているが、近づく雨季が少し不安だった。
 彼は年のわりによく働いた。ハトゥラプルにいた時から、親の手伝いはよくやっていたし、働くのは苦痛ではなかった。素直な性格で他の使用人たちにも可愛がられている。トリスタン・アビューは顔を合わせると、声をかけてくれた。
 それでも、家族を亡くした喪失感や深い悲しみは、そう簡単に消えそうもない。思い出して眠れない夜は多かった。

 翌日は、昼から薬草摘みだった。
アビュー家の施療所では身分の貴賤に関わらず、けが人や病人を受け入れていた。神和家は財政的にも豊かで、治療費はとっていない。そのため患者も多かった。
 トリスタンが行うのはユフェリの「気」を手かざしで患部に注ぎ込む手法の癒しだった。癒しの技を出し惜しみすることはないが、補助的に薬草も使っている。
薬草摘みはアニスの好きな仕事だった。今日摘むのはカミツレの花だ。心を落ち着かせ眠りを誘う花は少し甘い香りがする。一面に咲く白い花は母や妹を思い出させた。
(坊様がお葬式で言っていたように、父さんや母さんは天空の庭から僕を見ててくれているはず。もう抱きしめてくれることはないけど)
 そんなことを考えていた時、黒っぽい塊が足元に跳ねてきたと思ったら、彼の肩に飛び乗った。
「痛いよ、パシャ!」
 黒灰色の猫の爪が服の上から肌を刺す。猫の来た方を見ると、見たことのない犬がいた。円形状になぎ倒された草むらの真ん中、ふんふんと匂いを嗅いでいた。そして犬の向こうから枯草色の髪の女の子が歩いて来る。
 アニスはにっこり微笑み、一礼する。
 だが、ルシャデールはしげしげと彼の顔を見た後、むっつりした顔のままそっぽ向いた。
 アニスは再び花を摘み始めた。無愛想な可愛げのない子。確かにそうかもしれない。
 と、ルシャデールが再びアニスの方を見る。様子をうかがっているような目だ。餌を差し出した時の野良猫に似てる。そう思って、なぜかおかしく口に笑みが浮かぶ。少女は怒ったようにアニスをひと睨みして、倒れた草に視線を移す。
馬鹿にされたと思ったのかな?
 といって、言い訳するのも変だったから、彼はそのまま花を摘み続けた。
「クホーンだ……」少女が独り言のようにつぶやいた。
 アニスはちらりと彼女に目を向ける。
 円形状に倒れた草むらを庭師のバシルは「雨虫様の足跡」と呼んでいた。雨虫様は大きな蛇で雨を降らしに天から降りてくる。そして時々は柔らかな草地でとぐろを巻いて休むのだという。
 クホーンって何だろう?
「竜だよ」ルシャデールは顔を上げずに言った。
 え? 誰に言ってるんだろう……。犬に? あれは犬? 狐みたいだけど。
 黙っていると、今度こそルシャデールはアニスの方を向いた。馬鹿にしたような表情を浮かべている。
「雨を降らせる竜のことだよ。カームニルでは雨主(あめぬし)様とも言っていた」
 アニスは花を摘む手を止めた。ルシャデールは話しかけるきっかけを探していたのだ。彼女は『雨虫様の足跡』を横切ってアニスのそばにやってきた。「それはおまえの猫?」
「いいえ、迷い猫です」
ルシャデールは手を伸ばし、猫の額を撫でようとした。シュッ。猫は身をひるがえして草むらを走って行った。
「ふん、普通の猫だ」
普通じゃない猫っているのかな? どういう猫?
「あれは普通じゃない犬」ルシャデールは狐顔の犬を指差した。「半分精霊なのさ」
「えっ……精霊?」
 本当に? 母から聞いた昔話が、どくん、と脈打ち、アニスの頭に展開していく。召使としての礼儀作法より好奇心が勝ちをおさめた。
「じゃあ……じゃあ、一つ目の巨人に化けたり、山のような金貨を出したり、きれいなお姫様を連れてきたりできるんですか?」
 少女の口に浮かぶ冷ややかな笑みにアニスはちょっとたじろぐ。
「できるかい、カズック?」
 ルシャデールは犬の方を振り返る。
「大昔、おまえたちのひい爺さんのひい爺さんの、そのまたひい爺さんがまだ生まれてもいないような昔だったらできただろうな。精霊(本当は神なんだが)も浮き沈みがあるのさ、坊や。晴れる日もありゃ、土砂降りの日だってあるさ。がっかりさせて悪いが」
 しかし、アニスはがっかりするどころか、大きく目を見開き声を上げた。
「すごい! 犬の妖精がしゃべっている」
 好奇心丸出しでカズックの横にまわったかと思うと、後ろから見たりしている。その素朴な喜びように、犬は困惑気味でルシャデールを見る。
「単純だね。だから子供は嫌いだ」
 バカにしたような言いようだった。が、アニスの笑みは崩れなかった。
「おまえ、アニス……だったっけ?」
「アニスです。アニサード・イスファハンといいます」
 彼女は少し大仰にうなずくと、屋敷の方へ歩いて行った。精霊がその後を追いかけていく。
 アニスはその後、小一時間ほど花を摘み、籠をいっぱいにして表門の方へ向かった。施療所へ持っていくのだ。
「ロビナさん、カミツレ摘んできました。」施療所の裏で修道尼に籠ごと渡す。
「ありがとう、アニス。明日はたちじゃこう草とゼラニウムを採ってきてくれますか?」
「はい」
 屋敷へ戻ろうとして、侍女のメヴリダが施療院の方へ向かっているのが見えた。
「アニス、御寮様見なかった?」
「御寮様なら、さっき薬草園からお屋敷の方へ行きましたよ」
 メヴリダは深く溜息をついた。
「お部屋にいたと思ったら、急に走って出ていくし……。とても追いつけないわ」
 四十過ぎのメヴリダはアビュー屋敷での勤めも長い。
 しかし、もう二十年以上子供がいない屋敷で、その世話係になるのは、貧乏くじをひいたようなものだった。
「あんたみたいに、言われたことちゃんと聞くような子だったらいいんだけど……。汚い石をかたづけたら、えらい騒ぎを起すし。部屋に飾ってあった高価な壺を二つも投げつけてきたんだから! それに朝から追いかけっこばかり。勝手に出歩かれて迷子にでもなられたら、またあのハゲ執事に怒られるじゃない……」
 すでにメヴリダは執事から注意を受けているらしい。大きなしくじりをしでかすと、給料を減らされることもあるという。悪くするとお屋敷を出されるかもしれない。アニスにも世話係の大変さは察することができた。
「何か言っても、ろくすっぽ返事もしやしない。どういう育ちしてきたのかしら」
「はあ……」
「あんたに愚痴言ってもしょうがないわね」メヴリダは気を取り直して、屋敷正面の玄関ホールへ向かっていった。
 アニスは西廊へと歩きながら、また御寮様に精霊の話が聞ければいいな、と思っていた。皮肉っぽい目つきで見られると緊張するが、好奇心の方が勝った。
幽霊や妖怪などの話は好きだったが、彼にその類の体験はなかった。不気味な気配がするという、四階の女中部屋の一室に入らせてもらった時も、何も感じなかった。
 幽霊でもいいから見たかった。赤の他人の幽霊はどうでもいい。死んだ父さんや母さん、おじいちゃん、妹のエルドナに会いたい。もしできるなら、話もしたい。鼻の奥がつんとして、アニスは思いを振り払い、西廊棟へ走りだした。

第三章 雨季の兆し

    第三章 雨季の兆し

 開け放した窓から遠慮なしに入って来る風は湿気を帯びていた。今年も雨季が近づいている。
 窓辺に吊るされた青い薄絹の魔除けがはたはたと舞う。
 トリスタンがいる時、いつも食事は彼の部屋で一緒にとっていた。フェルガナでは大きな屋敷でも食事
用の部屋はない。居室に小さな一人用の座卓を運ばせ、それを食卓とする。今日の夕食はトルハナにトマトの農夫風サラダ、ひき肉を詰めたピーマン、仔羊の煮物、白カビのついたチーズ、蜂蜜漬けのミルクプディングだ。
 スプーンとナイフはぴかぴかの銀製で、柄に葡萄の枝の装飾がされている。カームニルではそういうものを使う食事など縁がなかったが、フェルガナに来る旅の途中で、トリスタンは彼女の手を取って使い方を教えてくれた。
 もっとも、まだうまく使うことができず、スプーンに乗せた肉団子を床に落とすこともしばしばだ。
 トルハナに料理を包む食べ方もうまくいかない。かぶりついた時に、中のおかずがぼとっと落ちてしまう。ルシャデールは膝の上にこぼれたトマトソースを見て、軽くため息をついた。
「すぐに慣れるよ」
 トリスタンはくすりと笑って、立ち上がるとルシャデールの横に座った。
「トルハナは四分の一くらいに小さくして、料理は少なめに包むといいんだ。一口で食べれる大きさにする」
 話しながら、彼はトルハナを取って、手で四つに切ると仔羊の手早く煮物を包んで彼女に渡した。
「ありがとう……」ぼそっとつぶやき、ルシャデールは渡されたトルハナを口に入れた。ちょうどいい大きさだ。
「私もここへ来た最初の頃はうまくできなかったんだ」自分の席に戻り、トリスタンは彼女に微笑んだ。「私が育ったアトルファではムハンという、小麦粉を水でこねて小さい粒にしたものを食べていた。それに魚のスープをかけてね。トルハナのようなパンはほとんど見なかった」
 それを聞いて、ルシャデールはカズクシャンで占ったときのことを思い出した。人買いに連れて行かれるかのように泣き叫ぶ男の子。
「実の親はどうしてるの?」ルシャデールはたずねた。
「うん」
 トリスタンの顔が少し陰る。アトルファという小さな漁村で漁師をしていると、彼は言った。
「私の家は家族が多くてね。母は一番下の弟が生まれた時に亡くなっていたが、子供七人に祖母や病弱な叔父もいた。食べていくだけでもやっとだった。だから父は、先代が私を迎えに来た時、迷わず養子に出すと決めた」
「恨んでないの、親を?」
「仕方なかったと、今は思っているよ」
 侍従がティーポットのお茶を取り換えて来るよう、給仕に指示した。ルシャデールはちらりと侍従の方を見て、再びトリスタンの方を向いた。
「それからずっと、親とは会っていないの?」
「いや、父は何度かここへ来て……養父に金を無心している。それが徐々に、金額も大きくなっていってね。アビュー家にとっては、さしたる額ではなかったが、漁にも出ず、博打ばかりしているという噂も聞こえてきたんだ。それでも養父は、実の親から引き離してしまったという負い目があったからだろう、手ぶらで返すことはしなかった。……代替わりした時に、私が引導を渡した」
 彼は笑ったが、その緑の瞳は寂しげだった。ルシャデールはそれ以上聞くのをやめた。
「少しはここの生活に慣れたかい?」
 侍女とケンカばかりしていることも、耳に入っているのだろう。黙って養父を見る。
「もし……何か困ったことや、嫌なことがあるなら、遠慮なく言ってほしい。君が過ごしやすいようにする」
 ルシャデールはうなずいただけだった。メヴリダのことは気に入らないが、侍女を替えてほしいと言うのは気がひけた。
 これ以上、何を話せばいいか思いつかず、彼女は立ち上がった。
「もう終わりかい?」
「お腹が空かないんだ」
 『ごちそうさま』もなしに、ルシャデールは出て行った。

 給仕が彼女の皿を片付け始める。トリスタンは深く息をついた。そして独り言のようにつぶやく。
「……少しは慣れてくれたんだろうか」
「最初に来られた時の、ひどく緊張した面差しは見られなくなりました。ここの生活自体にはすぐに慣れると思います。焦らぬことです」
 給仕が退出したのを見計らって、デナンが答えた。トリスタンは物言いたげなまなざしを侍従に向けた。
「子供というのはもっと、元気で素直で明るいものだと思っていたんだが……下働きのアニサードのように」
「守ってくれる大人を持たず、一人で生きてこられたのです。御前様やアニサードとは違うと思います」
 トリスタンは考え深げにうなずいた。ルシャデールは何かたずねてもあまり言葉を返さない。彼には少女が何を考えて過ごしているのか、見当がつかなかった。
「御寮様は年齢以上に老成しておられます。いささか斜に構えた物言いをなさいますが、見た目以上に賢い方です。今は、御前様の真情を見据えているといったところでしょうか」
「私の真情?」
「自分が単に跡継ぎとして連れてこられただけなのか、あるいは、跡継ぎなど関係なく実の子のように考えてもらえるのか」
 デナンはそう言って、主人を見つめた。
 十月もの間、子を宿す女と違い、男は実の子でも親子という実感が薄い。「これがあなたの子よ」と言われれば、「そうなのか」とうなずくしかない。まして養子、それもこの間まで見ず知らずの他人だった子だ。もし、跡継ぎのことがなければ、引き取っていなかったのは確かだ。
 トリスタンは黙ったまま侍従を見た。デナンは主人に厳しい目を向ける。
「ごまかしはきかぬものとお考えください。御寮様はきわめて勘のいい方とお見受けしております」

 部屋に戻ったルシャデールはソファに座り込んだ。
「疲れたよ、カズック」
 彼女の足もとに寝そべる狐犬は目を閉じたままフンと鼻を鳴らす。
「親父と飯食うのは、さぞ話がはずんで楽しかろう。」
「嫌味な奴だ」
 アビュー屋敷に来て一週間が過ぎていた。デナンが考えているように、この屋敷での生活には慣れ始めていた。
 余計な負担をかけまいとするトリスタンの配慮だったのだろう、最初の四、五日は何もせずに過ごした。そして、昨日から勉強が始まっている。とりあえずは読み書きということで、隣のカシルク寺院からパクス・ラーサ師が家庭教師として毎日午前に来ることになっていた。
 ラーサ師は寺院の指導僧を務めており、若い僧たちに学問を教えている。その穏やかで忍耐強い人柄はアビュー家の使用人からも敬意を受けていた。
「ああいう人は苦手だ」
「あの坊さんの静かでゆったりした話し方は、妙に人を丸め込む力があるからな。授業をすっぽかそうと思ってもできないだろう?ま、だからこそおまえの家庭教師にしたんだろう。適当な人選だな」
 カズックはそう言うが、ルシャデールは比較的真面目に勉強していた。そのことを褒めたラーサ師に、「暇だから」と虚無的に言った挙句に、「くたばるまでの退屈しのぎの一つさ」などと言い放ったのだ。
 だが、パクス師は驚きもせずに、
「『くたばる』などというお言葉は御寮様には不適当かと存じます。『彼岸に赴く』あるいは『幽明の境を越える』『逝く』などの言い方がふさわしいかと思われます」と、平静に述べた。
 メヴリナとは冷戦状態だ。彼女は最近では必要な時しか近寄ってこない。
 一度、何かの拍子に彼女が言ったのだ。
「どうせ、ろくでもない母親に育てられたんでしょうよ」
 ろくでもない母親……その言葉がルシャデールの胸に突き刺さる。
すぐさま、ルシャデールは彼女に飛びかかった。しばらくもみ合った後で、メヴリダのピンク色の頬には、爪でひっかかれた四本の赤い筋がひかれていた。それからルシャデールのそばには来なくなり、いくらか気が楽になった。
 他の使用人とはあまり関わることがなく、さほど気にならない。
 問題は養父トリスタンだった。
 どう考えていいのかわからない。顔を合わせれば笑顔で声をかけてくれる。戸惑っているのは彼も同じだろうが、それでもルシャデールのことを好きになってくれようとしているのは感じる。
(でも、そのうちきっと、がっかりするんだ。ひねくれ者で可愛げがないし、顔もみっともない……。人に好かれるような子じゃない。期待しちゃいけない)
 ルシャデールは薬草園で時々会う少年の顔を思い浮かべた。
(きっとあんな子だったら、トリスタンとの食事も話がはずむんだろう。その日あったこと珍しい蝶が飛んでたとか、きれいな石を見つけたとか、ありふれたことを宝物のように話すんだろうな)
 妙に気持ちが重苦しかった。アニスのことをよく知っているわけではないが、周りの人に好かれているのは間違いない。妬ましかった。といって、嫌いじゃない。邪気も打算もない、あの笑顔を向けられるのは正直うれしい。
「おい」
 気がつくと、カズックがじっと彼女を見ていた。
「おれの御神体はどうした?」
 ああ、と、ルシャデールは服のかくしに触れた。メヴリダに御神体を捨てられて以来、ルシャデールはそれをずっと持ち歩いていた。
「庭へ行こう、カズック。おまえの御神体を隠すところ探さなきゃ」
「隠すんじゃない、祀るんだ!」
 狐犬が吠えた。

 薬草園はあい変わらず花盛りだ。ジャスミン、生姜、タイム、オレガノ、タラゴン、ナスタチューム、バジルの香りがすがすがしい。名前も知らない草も多い。
 自然の野原のような雰囲気がルシャデールを和ませた。渡る風に髪がなびく。タンポポの綿毛が飛んでいく。それをカズックが追いかけて行った。
(今日は来ないのか……)
 そう思っていたら、ヒバの樹の影からアニスがひょいと顔を出した。
「御寮様、お散歩ですか?」
曇りのない瞳でまっすぐに彼女を見る。好奇心で彩りされた明るい笑みを浮かべて。
「うん」
 ルシャデールもつられて微笑う。
「それ何?」 
 ルシャデールは手提げ籠の中に入っている細長い草の葉を見てたずねた。
「石鹸草です」
 石鹸草はその名の通りせっけんとして使われる。洗濯係の召使に頼まれたのだろう。
 丸く光る樹霊が数個、アニスの周りを嬉しそうに飛び交っているのが見える。まるで、子犬が飼い主にじゃれつくようだ。
「木霊がまとわりついている」
「こだま?」
 アニスはきょろきょろと身の周りを見た。普通の人間には見えない。幽霊を見たことがある者はたまにいるが、木霊まで見える者はごくわずかだ。
「樹の精霊だよ。この庭はいっぱいいる。ほら、あそこにも」
 そう言ってルシャデールが指差したのはレンガ塀のそばだった。そこはシャボンの泡が噴き出すように光の玉が踊っていた。アニスは困ったような顔を振り向けた。
「どうしたの?」
「あの……内緒にしてもらえますか?」
「誰に? 何を?」
「御前様や庭師のバシル親方とかに」
 そして彼は光の玉の方へ歩きだし、振り返ってルシャデールを手招きした。
「あ……」
 小さな柳の木が植えられていた。周りのラベンダーの中で、目立たぬほどの若木だ。
「僕のザムルーズです」
「ザムルーズ?」
「子供が生まれると植える木です」
 カームニルでは聞いたことがなかった。ここフェルガナではそういう風習があるのだろうか。そう思ってすぐに、そんなもの植えるような親ではなかったと気がついた。
「僕が生まれた時に、父さんが柳の木を植えてくれたんです」
 しかし、土砂崩れで家族を失い、その時に彼のザムルーズもほとんど埋まってしまったことを彼は話した。わずかに泥から出ていた枝を持って来たのだという。
「柳は簡単に根がつきます。少し大きくなってから、こっそりここに植えさせてもらったんです」
 家族が楽しそうに食卓を囲んでいる風景が、ルシャデールの頭に浮かんだ。優しそうな母親と頼りがいのある父親……どちらもルシャデールには縁がなかった。
「御寮様はいいですね。トリスタン様のような方がお父様で」
「え……?」
 ルシャデールの顔に戸惑いが浮かぶが、すぐに皮肉めいた面持ちにとってかわる。
「向こうは迷惑してるよ、きっと。私みたいなのをしょうもない子を迎えてさ」
「しょうもない?」
「聞いてるんだろ、私がメヴリダとけんかしたりしてること」
「メヴリダさんは」アニスはちょっとあたりを見回した。「人の気持ちを考えてくれる人じゃないですから……」
 ルシャデールは少年を見た。ちょっと困ったように笑っている。
「根は悪い人じゃないかもしれないけど、何でも自分中心に進める人なので、その……他の人とうまくいかないことも多いんです」
 ルシャデールは頬を少し緩めた。侍女とのことでは、どうせ私が悪者にされてるんだ、とばかり彼女は思っていた。
「しょうもないなんてこと、ないです」
 ミントのすーっとした香りが風に乗って匂ってくる。
「でもトリスタンは、きっと私みたいなひねくれた子より、おまえみたいな子を養子にしたかったと思うよ」
「僕はユフェレンじゃないから無理です。でも、御前様は僕にも優しくして下さいます。具合が悪い時も治して下さいました」
 アニスは屋敷に来てからしばらく雨が降ると具合が悪くなったことを話した。
「ふーん。今年は大丈夫なの? もうすぐ雨季がくるけど」
「きっと大丈夫です」
 アニスは微笑んだが、ルシャデールには彼の心が陰ったのがわかった。きっとまだ不安なのだろう。それを隠して元気に振る舞おうとしている。自分にはない健気さが彼女を落ち着かなくさせた。
「ところで、この屋敷の敷地内でこれを安全に隠しておけるところないかな?」
ルシャデールはカズックの御神体を取り出して見せた。
「この前探していた石ですね。それは何ですか?」
「カズックの御神体だよ。一応こいつは神様だったからね。この御神体は祠にまつられていたんだ。今では拝んでくれる人もないけど。祠も雨漏りはするし、いつつぶれてもおかしくないくらいだった。それで、私がこっちへ来ることになった時、カズックも一緒に来たいって」
「来たいとは言ってないぞ。おれがついてないと、おまえはろくなことしでかさないだろう。お目付け役として来てやったんだ」
「ふん、ちっとはましな生活ができるとふんだからだろう」
アニスはそのやりとりを憧憬のこもった表情で見つめていた。そしておずおずと口を開く。
「あの……隠すところですよね?ドルメンはどうですか?」
「ドルメン?」
「卓状岩ってやつさ」
巨岩をテーブルのように組み合わせた、大昔の遺跡だと、カズックは説明した。
「カミツレ畑の近くです。林に囲まれているので、外から見たら気がつかないかもしれません」
 そういえばそんな林があったかな、とルシャデールは思い出していた。アニスが案内に立ち、彼女は後をついていく。
 庭を西南から東北へと横切る小川のふちにギントドマツが固まってそびえている。銀青色の枝の内側に影を抱き、周囲に植えられているナナカマドやクヌギ、楓などと明らかに違う色合いだ。そこだけ奇妙に静まっているように見える。
 枝の張った木々の中は薄暗かった。奥へ入ってルシャデールは息を飲んだ。
 巨大な岩二つを支えにして、上に平たい天井石を据えている。小さな家ほどもあるだろうか。中の空間は大人が楽に立てる高さがある。
「かなり古いな」
 カズックは巨岩の様子を見回し、鼻をフンフンいわせて匂いを嗅ぐ。
「祭事か儀式のために作られた場所だ。ギントドマツは結界樹といって、魔除け、あるいは魔封じの木だ。悪い『気』は浄化されたようだが、跡がかすかに残っている。わかるだろう?」
 ルシャデールは小さくうなずき、岩壁に触れた。ひんやりとした岩肌から、この岩の記憶が読み取れる。
 石切り場から切り出される大岩。それを運ぶ半身裸の男たち。氾濫した川が家々を押し流す。女の子が生贄にされている様子が見える。女の子の胸から剣を抜く少年。
 両側の壁には、向かい合うように窪みがある。ちょうど祭壇にでもするような大きさだ。波のような模様が刻まれている。
「……こんなとこにおまえの御神体を置いていいのかな?」
「そっちの小さい窪みなら大丈夫だろう」
 よく見ると灯り置き用だろうか、横に小さなくぼみが見えた。ルシャデールはそっと御神体を置いた。
「僕、もう行かないといけないので、失礼します」
 アニスは屋敷の方へ駆けて行った。
「おまえ、あの坊やとはわりと機嫌よくしゃべるんだな」
 カズックが横目でルシャデールを見て言う。
「……そうかな?」
 自分でも気づいていた。きまり悪いので、とりあえずしらばっくれる。
「しかも、皮肉や罵声なしで。どうした?」
 ルシャデールはアニスの去った方をまだ見ていた。
「何か言いたげだった」
 珍しいこった、と狐犬は胸の内でつぶやいた。他人のことを、そんな気遣わしげに見るとはな。

         
「女の子にはかわいそうよねえ」
 西廊棟近くを歩いていたルシャデールの耳に、女たちの会話が飛び込んできた。雪柳の茂みからのぞくと、井戸端で下女たちが洗濯をしていた。
「結婚できないんでしょ?」
 栗毛の髪の若い女がたずねた。
「そう、お坊さんと一緒だってさ。もし破ったら屋敷とか財産すべて没収。坊主頭にされた上で国外に追放されるんだって」
 少し年上の黒髪の女が答える。
「ええー! あたしだったら絶対耐えられない。きれいに着飾るのもなし、好きな男の子とお祭りでダンスすることもなし、幸せな結婚もなし、かわいい赤ちゃん抱くのもなし、なんてさ」
 結婚できないことは最初にトリスタンから聞いていたが、さほど気にしていなかった。自分が将来誰かと結婚して子供を産むなど、想像できなかった。暖かい家庭などはるか遠い世界の話だ。
「その代わり、ぜいたくな暮らしができるけどね。それに代替わりしたら結婚できるんだから」
「でも、その時には四十か五十くらいになっているでしょう?そんなお婆さんになってからじゃ、後添えの口だってあるかどうか……。御寮様だけじゃないわ、トリスタン様だって恋人も作れないんじゃお寂しいでしょうね。お優しくて素敵なのに」
「そこは……うまくやってるみたいよ。ここだけの話、御前様にも」黒髪の女はあたりを見回した。「奥様とお子様がいるって噂よ」
「えっ、そうなの?」
「噂よ。今日だってそこに行ったのかもね。でも、これ本当に内緒の内緒よ。御前様がそれで斎宮院から罰を受けるようなことになったら、私たち仕事なくなっちゃうんだから」
「そりゃそうね」
 二人の女は立ち上がり、洗い終わった衣服を籠に入れて干場に持って行った。

(ふーん……やっぱりそうか)
 別に驚きはなかった。トリスタンに好きな女性がいても、何の不思議もない。たとえ神和師かんなぎしであろうとも。驚きはしないが、急に世界が色あせたような気がした。
(どんな子だろう)
 何歳ぐらいなのか、男の子か女の子か、かわいい子なのか。
 彼女は目を閉じ、意識をトリスタンに向ける。薔薇の花が咲いている。薄いピンクや赤、白、オレンジ。つるばらのアーチもある。どこかの庭だ。
 ふくらはぎに柔らかなものが触れた。カズックのしっぽだった。
「トリスタンに子供がいるとさ……」
「踏み込まない方がいい領域もあることぐらい、おまえはわかっていると思ったけどな」
「うん、でも……」
 おれはついて行かないよ、とカズックは背を向けて去った。
 彼女はしばらくその場で考え込んでいたが、ふいに空を見上げた。雲の流れが早い。空気が湿っている。それは雨の予兆だったが、西側のレンガ塀の崩れへ向かった。

 ルシャデールは道に迷うことがない。カズクシャンの古い町は、迷路のように入り組んでいたが、どんなに遠くに行っても目指す場所へ行けた。というのも、彼女は直感的に道がわかるからだ。行きたい場所を頭に浮かべると、右へ行くか、左へ行くか、それとも直進するか、どこからか答えが降りてくる。
 どうしてわかるかと聞かれても、なんとなくそう思うという程度のあいまいなものだが、間違ったことはなかった。昔、カズックの祠に辿り着いたのも、その直感のなせる技だ。
 ピスカージェンの街を一人で歩くのは初めてだが、今度もうまくいくはずだ。カベル川を渡り、通りに沿って南東方向へ向かう。
 舶来市場の横を通り過ぎた時だった。
「御寮様」
 呼ぶ声に振り返ると、アニスがいた。お使いの途中だろう。青い小瓶を手に持っていた。
「どうなさったんです? お一人ですか?」
 供も連れない外出に不審を抱いているようだ。
「あ……あ、えーとね」
 こんな早く誰かに見つかるとは思っていなかった。しかも、子犬のようなアニスに。上等の服を着ていても、中身は『辻占いのルシャデール』のままだ。今の身分や状況に応じた自然なごまかし方が思いつかない。
「おまえ、秘密は守れるかい?」
『秘密』と聞いて、アニスの顔は真剣な表情に変わる。
「はい、守ります」
「これから秘密の場所へ行く」彼女はとても重大なことのように深刻な顔をしてみせた。「このことは屋敷の人にも、それ以外の人にもしゃべっちゃいけない。わかった?」
 アニスはうなずいた。
「ついておいで」
 茶店、酒場や宿屋などの並ぶクズクシュ地区の繁華街を抜け、ムスタハンの貧民街に入ると、すえた臭いが漂ってくる。薄暗い路地の隅には、ぼろ屑のように寝転がっている者もいる。生きているのかよくわからない。かつての自分のようなみすぼらしいなりの子供が小路を走っていく。絹ものの新しい服を着たルシャデールは明らかに目立ち、通りかかる大人が目を止めていく。
 彼女はちらりと太陽の位置を確認する。どうやらかなり南の方へ来ているようだった。アビュー屋敷はピスカージェンでも北の端に位置するので、街の正反対の方だ。
 ユジュルクに入ると、畑や野原が増えてきた。ロバに乗った老人や、畑作業から戻って来たらしい男などとすれ違う。
 ルシャデールが止まったのは高い土塀で囲まれた民家だった。周りは少し離れたところに農家が二、三軒ある程度だ。大きな道からも外れて人通りはあまりない。
 不安そうにアニスは彼女を見ている。
「御寮様、ここは?」
「聞いたことないかい? トリスタンの……」
 あっ、と、少年は小さな声を上げ、了解したようだ。
ルシャデールは塀沿いに裏の方へ歩いていく。ためらいはない。土塀の崩れたところを乗り越えていく。アニスもついて来る。
 中は薔薇園だった。白やピンク、紅、とりどりの薔薇が咲き誇っている。芝草にはたっぷり水がまかれているようだ。青々して、きれいに手入れがされていた。通路にはベージュ色のレンガが敷き詰められ、つるばらのアーチの奥には青い唐草模様のタイルを飾った四阿(あずまや)もある。
 瀟洒(しょうしゃ)なつくりの家が建っていた。そのテラスの前に、トリスタンがいた。子供を抱いている。まだ一歳になってないだろう。横には栗毛の髪を優雅に結った女性が立っている。彼女に向かってトリスタンが微笑みかけていた。
(まだ、赤ん坊なんだ)
 ほっとしたような、そうでないような。
その時、顔に水滴が当たった。雨が降り出した。
 家から出てきたイェニソールが二人の彼らに気がついた。次いでトリスタンも。
「まずい、行くよ」
 ルシャデールはアニスの腕をつかみ駆け出す。引っ張られるようにアニスもついていく。ルシャデール! と呼ぶ声が後ろで聞こえた。
 四半時ほど走り続ける。ピスカージェンの中央に位置するオデルス広場まで来た時、さーっと雨が降り出し、干し果物屋の店先に雨宿りした。
「あー、苦しい」息を切らし、ルシャデールは呼吸を整えながらアニスの方を振り向いた。「アニス……」
 彼は青い顔をして震えている。声も出さず、うつむきがちに泣いていた。ルシャデールは彼の手を取った。もう一度呼んでみるが、答えはない。というよりも、彼女のことも目に入っていないようだ。ここにない、何か別のものに捕らわれている。
(そう言えば家族を亡くしてから、時々具合が悪くなると言ってたっけ)
 とりあえず屋敷に連れて帰らないといけない。すると急に彼は膝をつき、両手で顔を覆って叫びだした。今までしっかり持っていた小瓶が石畳に落ち、カシャンと割れた
「うっ、ううっ、うわあああー!」
 周りの人が一斉にアニスの方を向く。いったい体のどこからこんな声が出るのかというような、高く響く声だった。
「誰か助けて! かあさん、父さん! ああー!」
 何度も繰り返される叫び。その張り裂けるような声にルシャデールは心臓が止まりそうだ。干し果物屋の太ったおやじも目を大きく見開き、口はあんぐりさせて固まっている。
 ルシャデールは横目で雨が小降りになってきたのを認めた。このぶんならまもなく止むだろう。
「おじさん!」ルシャデールは唖然としているおやじに向かって、高飛車に有無を言わせぬ調子で言った。「悪いけど、私の召使の具合が悪いの。この子を私の家まで連れていくのを手伝って!」
 男は驚いたようだったが、お、おう、まかせときな嬢ちゃん、とアニスを抱え上げて、屋敷まで連れてきてくれた。

「大丈夫ですよ、御寮様」
 ビエンディクが言った。アニスは依然として泣いたり叫んだり、興奮の状態が続いていた。
「以前にもあったことです。今はそっとしておいた方がいいかもしれません。何かあったら御寮様にもお知らせします。わたくしがついておりますので、どうぞお部屋の方にお戻りください」
 アニスの部屋から出ようとしないルシャデールに、暗に、ここは御寮様が立ち入る場所ではありませんと言っているようだった。確かに、召使の部屋のある一角は主人やその家族が立ち入らないものだ。
 見上げると、部屋には天窓がついている。夜空を眺めるのに都合がよさそうだと彼女は思った。ふと、星に向かって祈るアニスの姿が思い浮かんだ。彼は何を祈っていただろうか。
 自分の部屋に戻ると、やかましい侍女もいなかった。カズックがどこからともなく現れる。
「よっ、遠足は楽しかったか?」
「薔薇がきれいだった……」
 カズックには何もかも見透かされているようで、ぶすっとして答えた。
「坊やと会ってしまったのが唯一の誤算か?」
「うん。……そんなに家族を亡くすってつらいものか?」
「家族といってもいろいろだけどな。普通はそうだろう。長い患いの後なら、ある程度覚悟はつくが、いきなり家族全員だ。おまえのおっかさんだって、亭主がいなくなって半狂乱だったんだろ?」
「かあさんが死んだ時、ぶら下がって何やってるんだろう、としか思わなかった。だって、白目むいてるのに、父さんの名前をずっと呼び続けてるんだ。」
 そして、それは今でも続いている。ユフェリにある『囚われの野』と呼ばれるところで。
「かあさんが死んだことはそんなに辛くなかった。私のことなんか、どうでもよかったようだし。面倒な同居人ぐらいのもんだろ。ただ、家を追い出され、寝るとこも食べるものもない生活はしんどかった。今、一応落ち着いた生活をしているから、特にそう思うのかもしれないけど。……だから、家族そろって幸せにくらすってのが、ひどく贅沢なことに感じるよ」
「二度と返らないものは、失う前の何十倍も大きくなるものさ」
 その時、玄関ホールで使用人たちの声がした。どうやらトリスタンが戻ったようだ。半時ほどして、彼はルシャデールの部屋にやってきた。
「ルシャデール、ちょっといいかな?」
 彼女はうなずいた。トリスタンはソファに座った。
「君とアニスがあの家へ来て、それから何があった?」
「何も。屋敷に戻るために歩いていただけ」
「ここ何ヶ月かあんなことなかったんだが」
「突然、思い出したんじゃない? 昔の幸せな頃を」
「……」
「妹がいたって聞いた。だったら、あんな光景を見たことがあるんじゃないかな」
 父さん、母さんが生まれたばかりの妹を抱いて、幸せそうに笑っている。そんな光景。トリスタンは考え込んでしまった。
「別にあなたが悪いわけじゃないだろ」
 まるで大人のような口ぶりでルシャデールは言う。
「それじゃ、君と彼があの家に来たのはどういうわけで?」
「それは、なぜ私があの家を知ったかってこと? それともどうしてアニスが一緒に行ったかってこと?」
「両方」
「そういう女の人がいるってことを、井戸で洗濯していたおばさんたちがしゃべっていた。あまり秘密ってわけじゃないみたいだね。場所は……自分が行きたいところを強く考えると、方角だけは見当がつくんだ。どのくらい遠いかはわからないけど。歩きながら次は右に曲がるとか、まっすぐ行くとか」
「それは便利な才能だね」
「かっぱらいして逃げる時、役立ったよ。アニスには途中でたまたま出会ったんだ。私が一人で外に出ているのを見て、ついて来た。……口止めはしてあるよ」
「ありがとう」トリスタンは深く息をついた。「いずれ折りをみて話そうとは思っていたんだが……」
「何て?」ルシャデールの口調が急に鋭く変わる。「実は内緒で妻と子供がいるんです、やっぱり養子よりは実の子供の方がかわいいです、養子は単に跡継ぎが必要だからもらいました、って?」
 ルシャデールは一気にまくしたてる。どうしてこんなに動揺しているのか、自分でもわからなかった。たかぶる気持ちを彼女は必死に抑える。
(この人にとって、私はただの跡継ぎでしかない。わかってたじゃないか)
「あのひとがあなたの一番大切な人なんでしょ? でも、結婚はしていない、できない」
「あー……」トリスタンはうめき、そして言いづらそうに口を開いた「表向きはイェニソールの妻、ということになっている」
 呆れたようにルシャデールは養父を見ると、冷ややかな笑みを浮かべる。
「仕方なかった。私は結婚できないし、といって独り身の女性の家に私が通うのは、あまりに不自然だ。しかし、いつも一緒にいる侍従の妻ということなら」
「それを、彼女もあなたの侍従も受け入れたんだ」
 トリスタンはうなずいた。
「二人にすまないと思っている。特にイェニソールには」
「ふーん。あなたにとって大切な人ってのは、その程度のものなんだ」
 不実をなじる彼女に養父は一言もない。とげとげしい沈黙が支配する。
(しょせん大人なんてこんなもの。きれいごとを言っても、うそばかりだ)
 ルシャデールは息をつき、いらだちを抑えようと話を変えた。
「アニスはもう大丈夫?」
「うん、鎮静の煎じ薬飲ませて、今眠っているよ。明日の朝にはきっとよくなっている」
「そう」
「適切な対応だったよ。周りの大人に助けを求めて、屋敷に連れて来たのは」
「そのまま捨ててこようかと思ったけど、さすがにそれは大ひんしゅくを買いそうだから止めた」
 皮肉な物言いの中に、微かにアニスへの好意が感じられて、トリスタンは少し微笑んだ。
「今度から外出するときは必ず、大人の使用人を連れて行きなさい。メヴリダじゃなくてもいい。屋敷内にいる従僕なら、忙しくない者が一人や二人いるからね」
「アニスは?」
「アニサードは大人じゃないよ」
「私のことなんか……何も考えていないんだ」
 ルシャデールは唇をかんで上目使いにトリスタンをにらむ。
「あんたは跡継ぎさえいればいいんだ。薔薇園の連中とさえうまくやっていければ、私がここで何を考えて過ごしているかなんて、思いもしないんだろう!」
 呆然とするトリスタンに、ルシャデールは手じかにあったクッションを投げつけた。
「出てって! あんたが出てかないなら私が出て行く!」
 ドアに向かおうとする彼女を養父は押しとどめ、速やかに自分から部屋を出た。
 ルシャデールはベッドに向かうと、布団にもぐりこんだ。

第四章 頻伽鳥の歌

 アニスが目を覚ましたのは夕刻を過ぎていた。部屋の隅に置かれたろうそくに火が点っている。部屋の小さなテーブルには夕食の盆が置かれ、その横でシャムが腕を組み、こくりこくりと舟をこいでいた。
 何が起こったのか少しずつ思い出す。御寮様に連れて行かれた家。幸せな家族の光景。雨。帰り道に襲ってきた恐怖。太った男のたくましい腕。御前様の手。それから煎じ薬。
 アニスはシャムの方を見た。彼はアニスより六、七歳上の庭師見習いだ。バシル親方の知人の息子という話だった。家業はパン屋だが、兄が二人いたし、草木の世話をする方が好きで、三年前に親方に弟子入りしたという。
「シャム」
 呼ばれて彼はビクッと体を震わせて目を覚ました。
「ああ、アニス」大あくびをしてシャムは思い切り腕を伸ばし、ひょいとアニスの方を向く。「大丈夫か?」
「うん。ついててくれたんだね、ありがとう」
「いいってことさ。晩飯はそこにあるぞ。食えるか?」
「うん」アニスはベッドから出てテーブルの前に座った。食欲はあまりないが、トルハナを手にとり、スープで煮た野菜をはさんで食べる。
「食べたら食器下げてやるよ。だから落ち着いてゆっくり食え」
「うん」
 話す気分にもならないアニスを気遣ってか、シャムは何も言わずにいる。いつもはアニスを弟のようにかわいがってくれるし、いろいろなことを教えてくれるのだ。新しく植えた花のことや、街で流行っている歌、どこの茶店の揚げ菓子がうまいか、そんなことを。
 やっとのことで夕飯を食べ終えたアニスから、食器ののった盆をシャムは片手で受け取った。そしてもう一方の手でアニスの髪をくしゃくしゃとなでる。
 「気にするなよ。おまえはすぐ他人に迷惑をかけるのを嫌がるけど、辛いときはお互い様だ」
 アニスはうなずいた。
「曇りでも雨でも、その上にお天道様は輝いてんだぜ。今日はよく寝ろよ」シャムはそう言ってドアを閉めていった。
アニスはもう一度布団に入る。
 時々眠り、時々目覚める。うつらうつらとした中で夢を見た。

 緑の芝草の庭で、逝ってしまった家族がみんなで手を振っていた。
 空が悲しいくらいに青い。

 誰かと手をつないで歩いていた。不穏な雲が低く垂れこめ、遠くに山並みが見える。
 風にザワザワ騒ぐ枯れ野。足元が暗い。

 岩肌の露出した山で黒い服を着た男たち。四つの棺桶を引いている。

 黒い塊が押し寄せてくる。呑み込まれ、押しつぶされる。苦しい。息ができない。
「助けて!」母さんさんの声だ!

 アニスは飛び起きた。汗びっしょりの体を恐怖が包んでいる。
静かだった。聞こえるのは自分の荒い息づかいだけだ。妙に明るいと思って見上げると、天窓から十三夜の月がのぞいていた。気持ちが落ち着くとともに、悪夢は霧が風に吹きちぎれるように薄れていく。その代りに襲ってきたのは、平穏に生きていることへの罪の意識だった。
(僕も一緒に死ねばよかったんだ……。お情けでここに置いてもらったけど、みんなに迷惑かけてしまう)
 発作を起こすたびに、周囲の人間が見せる、戸惑いと同情、嫌悪が入り混じった表情。『悪霊憑き』という心ない言葉。
両手で顔を覆い、アニスは暗い思いに必死に耐える。
(もう……嫌だ)
 黒い渦に呑み込まれていくような気がした。土砂崩れの後、彼の胸の中に小さく生まれた渦は時がたつほどに大きくなっていた。
(だめだ、こんなこと考えちゃ。こんな僕を父さんや母さんはきっと悲しむ。もう二年になるのに……。もっと、強くならなきゃ。思い出しても平気なくらいに。でないと……)
 ベッドから出て、薄い上着を羽織ると外に出た。眠れそうになかった。
アニスは水辺が好きだ。ハトゥラプルの家が川の近くだったせいだろうか。アビュー家の庭園にも小川が流れているが、夜、眠れない時に行くのは井戸端だった。屋敷の庭園は主人のものであり、召使が楽しむものではないからだ。用もなしに立ち入ることは禁止されていた。
 洗濯台に腰かけ、月を眺める。昔話に聞いたことがある。月の女神は冥界の番人でもあるのだと。しかし、月の出がない新月の日は番人がいない。いじわる爺さんはその隙を狙って、隠された宝物を求め、冥界へ忍び込んだのだという。
(僕もあっちへ行きたい。そしたら父さんや母さんに会えるのかな)
 その昔話では、いじわる爺さんは女神の怒りをかって、こちらの世界に戻れなくなったという。
(戻れなくてもいいや。向こうでみんなと一緒に暮らせるんなら)
 だが、冥界の入口がどこにあるのかわからなかった。
 何が不満なのかもわからない。みんなよくしてくれる。御前様も使用人仲間も。仕事もなんとかこなしている。今日みたいに具合悪くなっても、みんないたわってくれる。だけど……いや、だからこそ辛かった。自分だけが安穏と暮らしていることが許せなかった。
 ふと、横を見ると。井戸の口が黒々と開いていた。胸をわしづかみにされたように、アニスは固まった。あれは冥界につながっている? 今まで水を汲むだけだったが、今夜は妖しく手招きしているような気がする。彼は背中を押されるように立ち上がった。
「幽霊でも出てきそうかい?」
 驚いて振り返るとルシャデールだった。
「御寮様……」
「大丈夫?」
「はい、……昼間はすみませんでした」
「おいで、庭に何か来ている」
 ルシャデールは手招きした。アニスは立ち上がり、彼女についていく。
月の光の下、夜の庭園は幻想的だ。木々や草花は柔らかな風にそよぎ、藤の眩惑的な甘い香りが漂ってくる。糸杉の陰に半ば隠れた隠者小屋からは、月に誘われて本物の隠者が出てきそうだ。少し離れたところを流れる小川がちらちらと光っている。
 そして、そこに流れる銀の旋律。
「聞こえる?」少女がたずねた。
アニスはうなずく。小川の向こうで何かが歌っている。
頻伽鳥(びんがちょう)だよ。ユフェリに棲む鳥だけど、たまに地上に降りてきて歌うんだ」
 ルシャデールは石の長椅子に腰かけた。アニスもその隣に座る。
 この世のものと思えぬ、銀鈴を振るように澄んだ声。荒れた心も凪いでくる。聞いているうちに、その歌は何かを伝えようとしているように思えた。アニスはじっと耳を傾ける。
 コロコロと笑う赤ちゃんのような、それを見て微笑む母親のような。言葉にするのは難しい。
 さっきまでの暗い思いは消え、幸せな気持ちがアニスの胸に広がっていく。
「伝えたいんじゃないかな。みんなに『大好きだよ』って」
 ルシャデールは思わず彼を見た。頻伽鳥が降りてくるのは、着飾った貴族の娘が豪華な輿に乗って街を練り歩くようなもの、ぐらいに思っていた。気まぐれで、貧しい粗末ななりの人々に、自分の贅沢な衣装を見せびらかすように。
 彼女の眼にはオレンジの樹に止まる頻伽鳥が二羽見える。鮮やかで濃い空色の羽毛に被われ、頭部は金色の長い冠羽で飾られていた。一羽が主旋律を、もう一羽が副旋律を歌い、見事なハーモニーを作り上げている。悠久の調べは微かに哀しみを宿し、深い慈しみを降り注ぐ。
「ずっと遠い昔から、あの鳥はこうやって地上に降りてきて歌ったのかな」
アニスは聞くともなしにつぶやいた。
「そうかもね」
 人間がまだおらず、草木と動物しかいなかった太古。静かな夜の原で、それとも星を映す水辺で、頻伽鳥が鳴いている情景を二人は思い描いた。
「人はどうして死ぬんだろう」
 アニスは独り言のようにつぶやいた。
 ルシャデールが振り向く。少年もつられるように彼女の方へ顔を向けた。絡み合う眼差し。アニスはおずおずと問いかけるように。ルシャデールは何かを追究するように。
「何が……欲しい? それとも、何をして欲しい?」
 唐突な質問にアニスはとまどい、考え込む。欲しいもの? 一番欲しいものは、もう手に入らない。特に何も。そう答えようとしたら、ルシャデールが言葉を継いだ。
「前に、ドルメンで何か言いたげだった」
 少女の瞳がまっすぐにアニスを貫く。嘘はつかなくていい。そう主張していた。それは錐のように、強がりや諦め、やわな気遣いなどの層を突き抜けて、心の一番奥深くへ届いた。彼は唇を噛み、こみあげる想いを抑えようとした。
(いいのかな、言っちゃって。言ったからって、どうにもならないのに)
 そう思いつつも、心の奥底の望みが口から飛び出てくる。
「死んだ父さんや母さんを生き返らせてほしい。妹もおじいちゃんも。そして、みんなで一緒に村で暮らしたい」
 ルシャデールはそれを聞いて、首を横に振った。
「死んでないよ」
 アニスは理解できず彼女を見つめた。
「人は死なない」繰り返し彼女は言った。「うまく言えないけど、蛇が脱皮するような、芋虫がさなぎになって、蝶に変わるようなものだと思う。みんなが『魂』と呼んでいる目に見えないもの、あれが人の本体だから。体が使い物にならなくなっても、『魂』はちゃんと生きている。おまえの家族は今、『天空の庭』と呼ばれるところにいると思う」
「御寮様はその庭にいる人に会うことができるんですか?」
「うん」
「会いたい! 会わせて下さい!」
 アニスは泣きそうな顔で懇願する。ルシャデールの瞳に困惑が混じる。
「んーとね、それにはユフェリへ行かなきゃならないんだけど、ユフェリってのは、つまり、あの世みたいなところなんだけど」
 肉体を持ったままではユフェリへ行く事はできない。ルシャデールはかなり自在に、体から抜け出すことができる。抜け出ている間、体は睡眠状態だ。
 しかし、普通の人間にそんな器用なまねはできない。
 どうすればできるのかと聞かれても、説明のしようがない。それは呼吸するのと同じくらい、彼女には自然なことだった。
「今まで他の人を連れて行ったことはないんだ」
 アニスはうなだれた。
「ごめんなさい。無理言って」
 二人ともしばらく無言だった。

 アニスの姿に重なって、大きなひびの入った水晶玉が見える。このままだと壊れてしまうかもしれない。
(何とか……してあげたい)
 ずん、と重いものが胸に迫ってくる。 衝動と言ってもいい、強い思いがルシャデールの中にあふれ、波を打って広がっていく。誰かのために力を貸したいなどと、今まで思ったことはなかった。
 自分が必要とされている。それが単にユフェレンの力を求められているだけだとしても、今の彼女には十分だった。トリスタンに子供がいたことは、彼女を深く傷つけていた。跡継ぎとして以外に、自分がここにいる理由はない。ユフェレンなら、別に彼女でなくてもいい。
 だが、アニスに救いの手をさしのべられるのは、彼女だけだった。
 叫びだしたいような、ぞくぞくする気持をじっくりとなだめ、ルシャデールは慎重に言った。
「少し時間くれる?」
「はい!」
 希望をつなげたアニスはうれしそうだった。
喜びは素直に表し、悲しみや腹立ちはできるだけ見せまいとする。そういうところが、健気だと人に可愛がられるのだろう。ルシャデールの場合は反対と言っていい。喜びはあまり出さず、悲しみもあまり出さないが、腹立ちと憎まれ口は抑制することなど考えもせずに表す。
「おまえの母さんって、どんな人だった?」
「怒ると怖いけど、たいていは優しかったです。山地の出身だから肌が白くて、ハシバミ色の柔らかい髪にいつも小さな花飾りをつけてました。お祭りのときに焼いてくれるピランカがとてもおいしくて……。寝る前によくお話ししてくれました。御寮様のお母さんは?」
「私の母さんは……首括くくって死んだ。たいして構ってくれもしなかったけど、要するに、捨てられたんだろうね」
 あっけらかんとした口調で、ルシャデールは言うが、アニスは凍りついた。何と慰めていいかわからず、ただ小さな声で
「ごめんなさい」とつぶやいた。
「私はカズックに育てられたんだ。かあさんは一応食べさせてくれたけど、おまえがしてもらったようなこと、話をしてもらったとかさ、そういうことは……あったのかどうか、覚えてない。たぶん、なかった。カズックは、あれはするな、これはしろ、って、いろいろ教えてくれた。カームニルはここよりもっと寒いから、冬はくっついて寝たよ。犬が一匹いるだけで暖かいんだ。それじゃ足りないだろうって、毛布をどこからか拾ってきてくれたこともあった。きっと、カズックに会ってなかったら、私はとっくに死んでたかもしれない。……それでもよかったけどね、ふふっ」
 ルシャデールは乾いた笑いを口元に浮かべる。
「それでもよかったなんて、言わないでください」アニスは悲しそうに言った。自分が経験したことがない不幸は想像するしかないが、それでも『死んでしまってもよかった』なんて物言いは聞いていて辛い。
 頻伽鳥の歌がとぎれとぎれになってきた。もうそろそろ終わるのかもしれない。
「カズックは神様だから死なないんですか?」アニスは話を変えた。
「うん、そんなことを前に言ってたよ。何千年か、何万年か生きてるって聞いた」
「どんな感じなんだろう、そんなに長い間ずっと生きているのって」
「うん。……人間と関わるのは好きじゃないみたいだ。人間はたいてい数十年でこっちの世界から向こうへ還ってしまうし、次に生まれてくる時には違う姿をしてて、カズックのことを覚えていないんだ」
「カズックは生まれ変わってきた相手がわかるのかな?」
「神様だからわかるかもしれない。」
「だとしたら寂しいですね。自分はわかってても、相手は覚えていないなんて」
「戻ろう、風邪ひいちゃうよ」
 頻伽鳥はもう飛び去っていた。

 ルシャデールが部屋に戻るとカズックがベッドのそばに寝そべっていた。
「頻伽鳥が来ていた」布団に入りながら彼女は言った。
「ああ、聞こえていた。坊やと一緒だったんだろ」
 部屋の窓が開いたままだった。カズックは普通の犬と同様耳がいいから聞こえるのだろう。
「そういや地獄耳だったね」
「おまえ、あの坊やには真正面に向き合うんだな」
「……」
「いつもの斜に構えた調子がなかった。気に入ったか、あの坊やが」
「……頼みごとされた。ユフェリへ連れて行って欲しいって」
「で、何と答えた?」
「時間くれって。他の人間を連れて行ったことないもの」
「おまえにしちゃ、慎重だな」
 確かにそうだ。いつもなら、受けるか受けないか、即決する。
「安請け合いをしちゃいけないと思ってさ。期待させすぎると、だめだった時のショックが大きくなる」
もし失敗したら……アニスも彼女に愛想をつかすかもしれない。そう考えると怖かった。それに……きっと、役立たずの自分に嫌気がさす。
「どうしたらいい? 連れて行けるものなの?」
「できないことじゃないが」
「パストーレン一枚」
 ぼそっとルシャデールはつぶやいた。パストーレンは羊や牛の干し肉で、香辛料がよく効いて美味い。カズックの大好物だ。
「二枚だな」したり顔で犬はうなずいてみせる。
「わかった、二枚。明日、誰かに頼むよ」
 人がユフェリを訪れるには三つの方法があるという。
 一つは眠っている時に体を離れた状態で訪れる方法。これは夢という形で記憶に残っているが、目が覚めると向こうで見聞きしたことは歪んでしまったり、忘れてしまうことが多い。
「もう一つはおまえがやっているような、意識的に魂を体から離してしまう方法。これをできるヤツはめったにいない。そしてもう一つはある種の薬草を利用する方法。マルメ茸やヌマアサガオの種あたりかな、安全に使えるのは」
「それをどうやって使うの?煎じるとか…?」
「そのあたりはオレの守備範囲を超えてるな。ここの書庫に関連した本がありそうだが、おまえが読むには難しすぎるだろう。花守はなもりを探せ」
「花守?」
 初めてきいた言葉だった。
「専属の庭師が何人もいるような庭園は花守の守護がある。あいつらは草木のことを知り尽くしている。いい薬師や癒し手は花守に愛されているとよく言われてるぞ。トリスタンもたぶん、ここの花守に可愛がられているんだろう」
「どんな姿してるの?」
「オレがカズクシャンで、でっかい寺院に祀られていた時、出会ったのは若いねえちゃんだったぞ。でも、ああいう奴らは定まった姿を持たないからな」
 ルシャデールは腕を組んで考え込んだ。精霊の類はよく見るが、この庭で花守らしき者は見ていない。
「それじゃパストーレンは頼んだぞ。二枚だからな」
 念を押すと、彼はしっぽを左右に揺らして部屋を出て行った。 

 翌朝、朝食は気まずかった。養父はちらちらとルシャデールの方を見ていた。何か話しかけようと口を開きかけるが、彼女は知らんぷりして黙々と食べていた。
 給仕もその雰囲気に不安そうな顔だ。侍従のデナンだけが、瞑想でもしているかのような静穏さを保っていた。
 その日、授業は休みだった。ラーサ師に用事ができたらしい。暇になったルシャデールはアニスを探した。彼に、ユフェリへ行く計画を進めると、知らせたかった。きっと喜ぶだろう。
 一階大広間から庭へと出て、西廊の方へ行くと、アニスはすぐに見つかった。建物の南側で、何十個も集められた木桶をどこかに運ぼうとしている。
「御寮様」
 ルシャデールに気がついて、アニスの瞳に光が宿る。が、木桶の方をちらと見て、なぜか困惑の色がにじんだ。それに構わず、ルシャデールは用件を話した。
「本当ですか?」
「うん。いろいろ調べることもあるけど、カズックに手伝わせるから、きっとなんとかなると思う」
「ありがとうございます! 僕にできることがあれば、何でもします!」
 その時、ルシャデールは異臭に気付いた。
「何、この臭い?」
「え……と……」彼は言いよどむ。
「それ何?」彼女は木桶に視線を向けた。
「臭いものです」アニスはうつむいた。
 ルシャデールにはわからない。
「部屋に一個ずつあって……御寮様のお部屋にもあるはずです」
「あ……」
 おまるの中身だった。ルシャデールの寝室には隅に小部屋がついている。その真ん中に陶器製の便器が置かれていた。使用人の分を含めて、始末するのは僕童の仕事だった。屋敷前の道を越えて少し行くと、汚水溜めがあるのだという。
(そうか、彼はそういう人が嫌がる仕事もやらなきゃならないんだ)
薬草摘みばかりしてるわけではないのだ。自分のも片付けさせていることに負い目のようなもの感じた。
「手伝うよ」
「とんでもない!」アニスはあわてて叫ぶ。「こんなこと、御寮様にしていただくわけにいきません!」
「遠慮しなくていいよ」
 ルシャデールは木桶の取っ手に手をかける。それを見たアニスが一層あせる。
「だめです! 置いて下さい。僕が怒られます」
「怒られたら私が無理やり手伝ったって言えばいいんだ」
「だめですって!」
 アニスはなんとか彼女の手から木桶を取り返そうとした。ふたはついていたが、軽くかぶせている程度のものだ。ルシャデールが引っ張り返したはずみで、ふたが外れ、中の汚水が彼女の服に跳ねかかる。
「ああっ!」アニスは真っ青になった。
 泣きそうな彼の顔に、ルシャデールもとんでもないことになったのがわかった。
「井戸で、いや井戸はまずいね。庭の小川で洗おう。大丈夫、とれるよ。少し臭いけど」濡れているだけだけなら、小川に落ちたとでもごまかせる。
 メヴリダさえ来なければ、そうできたはずだった。
「御寮様! こんなところで何をなさっているんですか?」
 いきなり詰問調だった。おまるの木桶が並んだ中にいるのだから、何かおかしなことを始めたと思うのが当然かもしれない。
ルシャデールは答えず、ふん、とそっぽ向く。メヴリダはすぐに彼女の服の黄色い染みに気づいた。
「きゃあああ! 御寮様! 何です、その染みは!」
「見たらわかるだろ」
 ぶっきら棒に答える。侍女は何があったのか推し量るように、アニスとルシャデールの顔を見比べた。
「あの……御寮様は悪くありません」
 恐る恐るアニスが切りだす。
「僕が間違って……御寮様のお召し物にかけてしまいました。……ふたがはずれてしまって」
侍女の怒りが今度はアニスの方へ向いた。
「この間抜け!」メヴリダは少年の頬を打った。バンと重い音がして、彼は後ろによろけた。「御寮様の御召し物を汚してどうするつもりだい! おまえのみすぼらしい着古しとは違うんだよ!」
「このクソババア! アニスに何をするんだ!」
 ルシャデールはそばにあった木桶を取るや、メヴリダに向けてぶちまけた。正真正銘のつんざくような悲鳴が響き渡った。
 その後の結末は予想できる範囲内だった。ルシャデールはトリスタンの部屋に呼ばれ、お小言を頂戴する。それだけだ。
「そんなに怒られるようなことだったの?」
 彼女は口をひん曲げて養父を見据えた。
「あー、ルシャデール……」
 トリスタンは額に手を当てうつむきかげんで、嘆息する。
「私は暇だったし、忙しそうな人を手伝おうとして何が悪いの? メヴリダに汚物をひっかけたのは……確かにやり過ぎだったかもしれない。でも、あの女は事情をろくに聴きもせず、いきなりアニスを殴った」
「うーん……」
「牛みたいにうなっていないで、何とか言いなよ」
 トリスタンは額を手で支えて、困り果てていた。
「あんたそれでも」親なのか、と言おうとしたらデナンがさえぎった。
「御寮様」
 ルシャデールは侍従の方を向いた。いつも主人のそばに侍しているが、口を開く ことはあまりない。感情を出さず、いつも、鉢の中の水のように静かだ。彼は言葉を継いだ。
「人には役割というものがございます」
「役割?」
「はい。主人には主人の、召使には召使の役割がございます。他の者の仕事を手伝ってやろうというお気持ちは貴いものと存じます。ですが、そのお心遣いが軋轢(あつれき)を生ずることもございます」
「なぜ?」
「たとえば、御寮様はメヴリダの仕事を手伝うことはおできになりますか?」
「なんであんな女を手伝わなきゃならないんだ?」
「それはおかしいと思いませんか? アニサードもメヴリダも、御寮様から見れば同じ召使です」
 お気に入りの者には手を貸し、そうでない者には手を貸さない。それは召使の立場からすれば不正義であり、大きな不満を生む。アニサードにとっても、同僚に嫌われることになれば働くのが辛くなるだろう。辞めざろう得ないことも起きかねない。
「主人やその家族は召使に対し、公平でなければなりません。聡明な御寮様にはご理解いただけるかと存じます」
「別に好きでアビュー家の娘になったわけじゃない」
 デナン相手に勝ち目はない。ルシャデールは屁理屈をこねる。
「カズクシャンで、アビュー家の娘になることを決めたのは御寮様です。ご自分の言動には責任を持たねばなりませぬ。それは街の辻占いだろうと同じことです」
「……わかった」ルシャデールは仏頂面で答えた。

 それからしばらくの間、ルシャデールは自重して過ごした。ユフェリ行きの方策を練る必要があったし、カズックに教わった花守探しも進めねばならなかった。
 晴れている時は、たいてい午後から夕食直前まで庭を歩き回る。夕食を知らせに来るメヴリダは、その度に庭中を探すことになり怒ってばかりだ。
「最近真面目に勉強しているようだね。ラーサ師がほめていたよ」
 久々にトリスタンが声をかけてきたのは、汚水事件から四日後の夕食時だった。
「ヒマだからね」
 ルシャデールはそう答えたが、本で調べることを考えて、読み書きは前より熱心に勉強するようになっていた。
「そうか……何か始めるかい?神和師かんなぎしとしての勉強はもっと後にしようかと思っていたが、奉納舞なんかは身体の柔らかい子供のうちの方がいい。ミナセ家の先代様が奉納舞を教えておいでだ」
 ミナセ家はアビュー家と同じ神和家の一つだ。
「ふーん。恥ずかしくないなら行ってもいいけど」
 横目でちらりとトリスタンを見る。
「恥ずかしい?」
「あなたが。今度のアビュー家の跡継ぎは口のきき方もろくになってない、可愛げのない子だって、神和家全部に広まるんじゃない?」
「……いや、そんなことないよ」
「ちょっと考えたね」
 ルシャデールは冷笑を浮かべる。侍従が助け舟を出した。
「御寮様、ほどほどになさいませ。御前様がお困りです。」
 ルシャデールが彼を睨む。彼の方は涼しい顔で微笑む。侍従はやがて主人の方へ視線を戻した。ルシャデールは話題を変えた。
「……このまえ、頻伽鳥が庭に来ていたよ」
「頻伽鳥? 天界の果てに棲むという?」トリスタンは目を見開いた
「そう、見たことある?」
「いいや。頻伽鳥は……親を失くした子供だけがその歌を聴くことができるという。美しく、悲しげな歌声だと、人に聞いた」
 そうか、君には聴こえたんだね、とトリスタンは微笑んだ。
「アニスが言ってたんだ。頻伽鳥が地上に降りてきて歌うのは、みんなに大好きだよって伝えたいからじゃないか、って」
 それを聞いたトリスタンは不思議そうな顔で彼女を見た。何を思ったのかわからないが、きっと自分と似たようなことを感じたに違いない。アニスにその言葉を言われた時の自分と同じことを。ルシャデールはそう思った。
「アニサードがお気に入りなんだね」
「別に」
 ルシャデールはそっぽ向く。お気に入りは確かだ。でも、それを他人に言われたくない。心の中にずかずか入ってきて、かき回されるのは嫌だった。
「天気のいい時なら、彼を連れて外出してもいいよ」
 トリスタンの言葉にルシャデールは顔を上げた。
「ただ、アニサードは家族を亡くした時のショックがまだ癒えていない。雨の時は特に調子が悪くなる。そのことを頭に入れておいてくれ」
「そのくらいわかってる!」
 それならいいんだ、とトリスタンは力なくつぶやいた。

第五章 動き出した計画

    第五章 動き出した計画


 五月も末になると、さまざまな花が薫る。
 薬草園では早くもラベンダーが咲き乱れる。その香りはルシャデールの部屋にも届いていた。ベッドわきや居間のテーブルに大きく飾られている。心を落ち着かせ不眠に効果があるからだろうが、興奮して壺を壊すなどしているからかもしれないと、彼女は思う。
 この季節は雨の日が多く、花守探しは進んでいなかった。
「市場を見に行きたい」
 雨季のさなかの、珍しく雲のない日だった。ルシャデールは執事に言った。
「アニスを連れて行く」
「連れて行くのは構いませんが、御前様はお許しされましたか?」
 そんなこともいちいち許可をもらわないといけないのかと思ったが、素知らぬふりで、
「うん」と答えた。トリスタンは施療所だ。患者が四、五人来ていたから、すぐには戻らないだろう。
「アニスは子供ですし、せめてメヴリダをお連れ下さい」
「あの女の顔を見たくないから出かけるんだ!」
 メヴリダの名を出されて、ルシャデールは思わず大声を出す。
 ちょっと外出しようとするだけで、許しはもらったかだの、大人を連れていけだの、大事(おおごと)になる。このまえアニスには迷惑をかけてしまったし、少しでも仕事を休ませてやりたい。そう思ったのだ。もちろん、自分も屋敷を離れて遊びたいという気持ちがあった。
 やってきたアニスは、執事に呼ばれたとあって、不安そうな面持ちだった。
「ああ、アニサード。御寮様が市場を見たいとおっしゃられている。お前は供について行きなさい」
「僕がですか?」
「そうだ。気をつけて行くんだよ。必要なかかりは屋敷に代金を取りに来るよう、店の者に言いなさい」
「はい」
 玄関から出ようとした時、デナンが入ってきた。
「お出かけですか?」
 ルシャデールはうなずく。
「市場を見に行ってくる」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」そうルシャデールに声をかけてから、彼はアニスの方へ「事故のないように、御寮様をお連れしなさい。そして無事に帰ってくること。いいね」と注意した。

 門を出て、西の方へ歩いていく。アニスは後からついて来る。
「ごめん」
 しばらくしてからルシャデールは立ち止まって振り返った。
「え?」
アニスも止まる。
「このあいだ、怒られて食事抜きだって?」
「あ……いえ、後でシャムがこっそり持ってきてくれました」
「おまえまで怒られるなんて……そんなつもりじゃなかった」
「御寮様のせいじゃないです」アニスはにっこり笑う。「僕は間抜けだから、前はよく怒られていました。慣れてるから平気です」
「間抜けじゃないよ」ルシャデールはむっつりと言った。「あんなメヴリダばばあの言うことなんか真に受けるんじゃない」
 二人は再び歩き始めた。
 道沿いにところどころ、古い城壁の石積みが残っている。場所によっては、大人の背丈よりも高い石積みもあった。ラーサ師によると、千年ぐらい前のものだという。グルドール帝国の襲撃に備えて設けられたらしい。自然に崩れたり、家を建てようとする者が持ち去ったりして、今では三分の一程度しか残っていなかった。ただ、その名残として、城壁沿いの道は『壁道(かべみち)』と呼ばれていた。
 壁道は屋敷の西で、北のナヴィータ王国へ向かう西街道と交差していた。南に折れればピスカージェンの市街に出る。市場に行くなら、もちろん左折することになる。が、ルシャデールはまっすぐ進んだ。
「御寮様! 市場へ行くなら向こうですよ」
 アニスが足早についてくる。
「わかってる。市場には行かない」
 え? とアニスは聞き返した。
「人のいないところに行きたい」
 屋敷ではあれこれ干渉され、注目されている。市場でも好奇の目で見られるだろう。
「でも、執事さんやデナンさんは市場へ行くと思っていますよ。もし何かあったら……」
 彼は不安そうだ。
「デナンはわかっているよ。私が市場なんか行かないって。出かける前、おまえに『無事に帰ってくるように』って言っていたのは、私に聞かせていたんだ」
「そう……だったんですか」
「いろいろあってさ」
 ルシャデールはせんだってのデナンとの話を思い返す。彼は主人側の人間としてとるべき態度を注意したが、手伝おうとした仕事の内容の適否については問わなかった。品位に欠けるとか、上級使用人ならば言いそうなことだったが。
(なぜ、デナンじゃなくトリスタンが叱らなかったんだろう)
 部屋へ戻ってつぶやく彼女に、カズックは
「離れた方がよく見えるだろう? 景色も、もめ事も」と答えた。
 それだけじゃないだろう。要するに、トリスタンは本気で私と関わる気はないんだ。面倒なことは侍従や召使にやらせておけばいいと思ってる。
 アニスが執事にこっぴどく叱られ食事抜きになったことは、その時にカズックから聞いた。
 貧しくてもいいから、普通の親と普通の暮らしがしたい。親に甘えたり、叱られたりしたい。自分でも気づかずにいた密やかな望みだった。薔薇園の家に行った日に、それは彼女の心の奥の深い洞窟から飛び出してしまった。飛び出した後で、望みは行き場を失って右往左往している。
「御寮様? どうなさったんですか?」
 うなだれて考え込んでいる彼女をアニスが心配する。
 何でもない、と首を振りルシャデールは、道の傍らの石積みに腰をおろした。アニスもそれにならう。
「この前、どうして本当のこと言わなかったのさ?」
「本当のこと?」
「私が無理に手伝おうとしたって、メヴリダに言えばよかったのに」
「同じことだったと思います」
 アニスは哀しげに笑った。
「同じ?」
「メヴリダさんからすると、主人である御寮様を叱るより、下っ端の僕を叱る方が楽なんです。きっと、『御寮様のせいにするつもりかい、ずうずうしい!』とか言って、やっぱり怒ったと思います」
 アニスはメヴリダの口真似をして言った。その甲高い声とやや早口の言い回しがそっくりで、ルシャデールは笑ってしまう。ややあってから、ぽつりと言った。
「おまえは怒らないんだね、メヴリダにも私にも」
「御寮様のせいじゃないです。御寮様は僕の仕事を手伝ってくれようとしたんです。メヴリダさんに対しては、……悔しいと思わないわけじゃないけど。あの人はああいう人だから、怒っても仕方ないです」
 ルシャデールはおや、と思って彼を見た。子供っぽく感じることも多いが、仕事や周りの人間に対しては、諦めているのか達観している。 
 丘を走る壁道からは眼下にピスカージェンの街が見渡せた。ごちゃごちゃと建て込んだ建物は身を寄せ合っているようにも見える。道から少し降りたところにも、何軒かの農家らしき家が建っていた。
 振り返れば、道の背後には草が生えているだけの丘が連なっている。このところの雨で草は青々としていた。
「あれは何?」
 ルシャデールは道のずっと先の丘に見える白い神殿のような建物を指差した。
斎宮院(さいぐういん)です。斎姫(いつきのひめ)様の御住まいで、月の女神シリンデをまつっています」
「斎姫様って……巫女さんみたいなもの?」
「はい。斎宮院にはたくさんの巫女さんがいて、斎姫様はその長です」
 そう言えば、ファサードの列柱は神殿風だ。
 カシルク寺院をはじめとする、寺や礼拝所で行われているのは、シリンデとは違ったものへの信心だった。
 人はみなすべて光の子。ユークレイシスに発している。すべての魂は兄弟姉妹であり、愛し合い、許しあうことを第一とする。信仰というより処世への指針と言った方がいいかもしれない。フェルガナでは『ユクレス』と呼ばれている教えだ。千五百年前にオルソーズという者が始め、その弟子モドレーが広めた。
 シリンデへの信仰はユクレスが広まって、一時期衰退したが今は少し回復している。だが、神殿は斎宮院一つしかなかったし、人々のよりどころとなっているのはユクレスの寺だった。
「そういえば、メヴリダさんが辞めるらしいですよ」
「ほんと?」思わず声が高くなる。
 二、三日前の昼食の時に使用人たちが話していたのだという。執事にも辞めると話したらしい。
「どうやら次の仕事が決まっているみたいだって、誰かが言ってましたよ」
「やった!」
 代わりの人がすぐ来ますよ、と言うアニスも心なしか顔が緩んでいた。
「これも噂ですけど、デナンさんが次の人を見つけてきたらしいです」
「デナンが……」
 本来使用人の雇い入れは執事の権限だ。それをデナンが口出しするのは明らかに越権行為なのだ。
「デナンは……何か言われている?」
「まあ、いろいろと……」アニスは言葉を濁した。「デナンさんは人に何言われようが動じませんし、人の機嫌とるようなこともしませんから。……強い人です」
 ルシャデールはあいまいな笑みを浮かべた。彼が選んでくれた侍女なら少しはましかもしれない。
「雲が早いですね」
 アニスは空を仰いだ。
「雨になるかもしれない」雲と風の流れを読んで、彼女は立ち上がった。「戻ろう」
 屋敷の門が見えてきた時だった。
「あ……」
 ルシャデールは声を上げた。
「どうしたんですか?」
 彼女が急に止まったので、アニスは不審に思ったようだ。ルシャデールは門の上を指差す。右手に槍、左手に両刃の剣。飾りのない鎧と兜をつけたいかめしい姿で立っている者がいる。
「何かありますか?」
 重ねてたずねられ、ルシャデールはアニスの方を向いた。きょとんとした顔で彼女の方を見ている。
(ああ、そうか)
 彼には見えていないようだ。ということは人ではない。彼女は記憶をたぐる。カズクシャンで、似たような者を見たことがある。大きくて古い屋敷や寺院の、たいがいは門の付近にいる。
 守護精霊。栄えている場所にはたいていいると、以前カズックが話してくれた。
(彼なら知っているかもしれない)
「何でもない、行こう」
 ルシャデールは少年の方を振り返って言った。今まで、自分がユフェレンであることがうとましく感じたことはあまりない。しかし、アニスと共有できない世界があるのは、少し寂しかった。

 屋敷に戻ったアニスには、今度はいつもの薬草摘みが待っていた。御寮様のお供をしたからといって、他の仕事を免除してもらえるほど、僕童は楽ではない。
 執事に帰邸を告げ、物品庫の前を通り過ぎようとした時だ。腕をつかまれ、ぐいっと中に引っ張り込まれた。
 中は薄暗かった。細長い部屋に窓は小さいのが一つ。蜜ろうそくの匂いがする。アニスの好きな匂いだが、今はそれどころではなかった。目の前に威嚇的に立っている相手の顔は逆光でよく見えない。胸ぐらをつかまれたかと思うと、いきなり殴られた。床に崩れ落ちる。何が起こったのかわからなかった。
「おまえ、いい気になるなよ」
 従僕見習いのクランだった。アニスより四つ上だが、よく気がつく性格で、使用人の間では評判がいい。家事頭ビエンディクの甥だという。
「え……何が……何を……どういうことですか?」
 どぎまぎして舌がもつれる。彼にはなぜクランがこんなところへ連れ込んだか、理解できなかった。
「ふん、まともにしゃべることもできないのか。……最近、御寮様に取り入ってるようだな」
「取り入るなんて……」
「侍従にでもなろうってのか?ハッ!おまえみたいなのろまな奴に勤まるわけないだろう。身の程知らずもいいとこだ」
 どうやらクランは自分が侍従になりたいらしい。もちろん、ルシャデールの侍従だ。
 屋敷の召使はおおむね三種類に分かれる。汚れ仕事をする洗濯女や厨房の洗い場担当は最下級だ。今のところアニスはこの部類に入る。その次が庭師、厩番など外仕事の使用人、それから主人の近辺に侍る従僕、家事頭、その上に執事がいる。
侍従は執事よりもさらに上位に位置する。
 もともと、侍従は王からの『賜りもの』だった。グルドール帝国の弱体化に功績があった呪術師を神和師として取り立てた時のことだ。
 強い敵がいなくなった時に、一緒に戦ってきた強い味方が今度は敵になる。歴史の中ではよくあることだ。王は神和師たちを脅威に感じたのだろう。
 そして、反逆心がないか探らせるために、側近の侍従を彼らに下したのだ。神和師の方もそれを承知していたため、侍従とするにあたって、厳しい誓いを立てさせたという。
 そんな時代も過去となり、今の神和家はどこも、王に反逆などという気概を持つ者はいない。
 ただ、侍従が他の召使より抜きんでた立場にあることは、変わりなかった。宮廷にも出入りし、高貴な方々ともお近づきになれる。執事の約二倍の俸給。若くて多少気の利いた使用人が目指すのも無理はない。
「僕が侍従になんて……なれるわけないです」
 アニスはか細い声で言った。
「あたりまえだろ」クランは敵意を含んだ目でにらむ。「身の程をわきまえないと痛い目をみるぞ。この悪霊憑きのチビネズミ、おまえを追い出すなんて簡単なんだ。今後、御寮様とは口をきくな。用を言いつけられたら、他に仕事があるとか言って断れ。いいな」
「は……はい」
「今の話、他人に言ったりしたら……どうなるかわかってるな?」
クランはそう言い捨てて出て行った。
 アニスはその場にしゃがみ込んだ。
(ごめん、父さん。僕は弱虫の卑怯者だ)
 父イズニードなら、こんな時絶対にクランのような奴のいいなりにはならなかったろう。たとえ自分より強者であっても。口の中に金気が広がる。唇が切れていた。
 アニスは「いい子」だった。
 使用人の中でも一番の下っ端として分をわきまえる。生意気だと思われるから意見を言ってはいけない。いいことも悪いことも目立つことはしない。
 大人には大人の事情があるから、それも考慮する。例えばギュルップとメレダが茂みで話をしてても気づかない振りをする。
 噂話はすぐに忘れる。もし、話を振られたら「そうですね」で流す。
 いつも、とりあえず笑顔。間違ったことをしたらとにかく謝る。
 それが今のアニスの方針だった。ずっとアビュー家にいたいなら、他の使用人ともうまくやっていかなければならない。
 だが、その方針が最近揺らいでいる。ルシャデールは大人たちの顔色なんか伺わない。両腕を広げて向かい風を受け止める。
(かっこいいな)
 アニスは憧れにも似た気持ちで彼女を見ていた。もちろん、彼女はアビュー家の御寮様だから立場が違う。
 大人に秘密の計画を持つことは危険だと、『方針』は警告している。それは小さな棘のように胸に刺さっていた。
 アニスはよろよろ立ち上がると、目の周りをぬぐって出て行った。
 
 他の者の思惑をよそに、ルシャデールにとって当面の気がかりはアニスとの約束だった。とりあえずは、書物で例の植物について調べてみようと、午後から書庫へ向かった。
 廊下の突き当たりの書庫の扉が開いている。そこにデナンの姿があった。調べものでもしているのだろう。ルシャデールはまっすぐに書庫に向かう。
「これは御寮様、お勉強ですか?」
 デナンは彼女の姿を認めてたずねた。
「うん、植物とか薬草の本を見たいと思って」
「それでしたらこちらに」
 彼は書庫の奥の方へ案内してくれた。
「この二冊が適当かと思います」
 書棚から出して彼女に差し出した。植物図鑑と薬草の本だった。
「ありがとう」
「辞書はお使いになりますか?」
「ジショ?」
「わからない言葉を調べる本です」
 きまり悪そうにルシャデールはうなずく。
「聞いていい?」
 分厚い辞書を受け取りながら、意を決したように彼女は侍従を見上げた。彼は開きっ放しだったドアを閉めに行った。他の召使に聞かれてはいけない話題だと察したようだ。
「何でしょうか?」
「この前の女の人のことはトリスタンから聞いた。で、あなたと結婚していることになっているって?」
「はい、その通りです」
「……それでよかったの?」
 大人びた顔で彼女は侍従をじっと見つめた。デナンもまっすぐ見返す。
「はい」迷いなく彼は答えた。「御前様から打ち明けられた当初、認めることはできませんでした。三年近く議論した末、わたくしが折れました。普段は物事に執着なさらない方ですが、これだけは譲れぬと」
「それじゃ自分が結婚できないじゃない?」
 彼は微笑むだけだった。
「好きな女の人、いないの?」
「……わたくしには手の届かぬ方でした」
 ふうん、と気のない相づちを打つ。それから酒場でくだを巻くおやじのような口調で言った。
「ま、女なんかいない方が世の中平和だよ」
 デナンの目が笑う。
「でも、神和師の侍従は苦労が多そうだね。ユフェレンは変わり者が多いし、現実的な世渡りが下手だって聞いた」それはカズックに聞いた話だ。
「お嫌いですか、あの方が?」
「大人はみんな嫌いだ」
 するとデナンはクスクス笑った。
「何がおかしいの?」
「こんなことを申し上げると失礼かと存じますが、わたくしの子供の頃によく似ていらっしゃると思いまして」
「あなたの子供の頃?」
 ルシャデールはこの侍従に興味を持った。
「わたくしの家は貧しい貴族でした」
 働かなくても十分生活できるもの、それが貴族だ。しかし、貴族もさまざま。下級の貴族になると、荘園など持たず、働かねば食べていけなかった。
「父が早くに亡くなり、母は働くことなど考えられない女でしたから、幼少の頃よりわたくしが生活を支えておりました。荷車押しから使い走り、井戸掘りや畑仕事の手伝い、いろいろな仕事に手を染めました」
 そんな風には見えなかった。貴族的な物腰に、武人としての鋭敏さも備え、庶民のように体をこき使う仕事をしたような泥臭さはまったくなかった。
 ルシャデールは黙って続きを促す。
「貴族からは働くなど貴族の風上にも置けぬと蔑まれ、平民からはあれで貴族かと嘲笑され……。そんな頃のわたくしと、御寮様はよく似ていらっしゃると思ったのです」
「可愛げのなさならきっと私の方が上だ」
 ルシャデールは自慢にもならないことで威張る。
「はい。わたくしは品よく、突っ張っておりました」
 デナンはぬけぬけとそう言って微笑った。
 普段のデナンから察するに、そんな話など滅多に他人にしないのだろう。ルシャデールに話したのは、おそらくトリスタンのためだ。主人とその養女の仲がうまくいっていないのを見て、わずかでも二人の間をつなごうとしているように思えた。
「幸せだね、トリスタンは」ルシャデールはぽつりと言った。「あなたのような人がそばにいてさ」
「おそれいります」
 自分にも彼のような侍従がつくのだろうか。ルシャデールはデナンを見上げる。
「神和家では『侍従は召し出される』と、よく言われます。嗣子が成人の儀式を迎える十五、六歳までには、おそば近くに現れているそうです」
「あなたもそうだったの?」
「わたくしは当初、御前様の護衛としてアビュー家に参りました」
 その時トリスタンはまだ家督を相続していなかったが、侍従は他に決まっていた。しかし、翌年その侍従が急死したため、デナンがその後を引き継いだ。
「御寮様にも、ふさわしい侍従が必ず現れます」
「そうだといいね」他人事のような口調だった。そもそも、ずっとここにいるどうかもわからない。
 だが、デナンが彼女に向けるまなざしには、アビュー家の嫡子への敬意と信頼が見える。居心地が悪くなって彼女は本をぎゅっと抱きしめ、部屋に戻った。
 結果的に植物図鑑と薬草事典はあまり役に立たなかった。植物図鑑は絵入りだったが、肝心のヌマアサガオとマルメ茸は出ておらず、薬草事典には両方とも記載されていたが、処方については記述がない。
「デナンのやつ、私が悪さしないよう、わざと役に立たない本をよこしたんじゃないのか……」
 一人ごちて、門のところにいた守護精霊のことを考えた。
 精霊たちは時に気難しい。礼を失すると、何も教えてくれないどころか、かえってひどい目に合わせられる。
「カズックに相談した方がいいか……」
 ルシャデールはつぶやいた。
  
 その晩、ルシャデールは屋敷の守護精霊を訪れた。彼はたいがい正面門の近くにいるらしい。そのそばには門番小屋がある。門番は三人いるが、一人は必ず不寝番にあたっていた。
 見つからないように体は寝室に置いてきた。今の彼女は幽霊のような状態だ。
〈こんばんは、守護精霊……様〉ルシャデールは声をかけた。
 守護精霊はあごひげをはやした顔をを彼女に振り向けた。
〈アビュー家の跡継ぎ、ルシャデールです。御挨拶が遅れもうしわけありません〉
 ぺこんと、頭を下げる。口上はカズックに教わった通りだ。
〈五十二代目じゃな〉
〈はい、いつも屋敷を守ってくだ……くだすってありがとうございます〉
〈アビュー家の者がわしと話をしに来たのは八代前の当主以来じゃ。しかし、挨拶のためにだけ来たのではなかろう?〉
〈この屋敷の庭の花守に会いたいのですが、どこにいるのか知りませんか?〉
〈花守か……あれは滅多に姿を見せぬ。人間嫌いな子でな〉
〈なんで……いえ、どうしてですか?〉
〈あの子は昔、人間だったらしいのだが、その時に酷い目にあわされたという話じゃ。会ってどうするのかね?〉
〈薬草の処方を教えて欲しいと思ったんです〉
〈何の薬草じゃな?〉
〈ヌマアサガオとマルメ茸です〉
 守護精霊は眉間にしわをよせた。
〈ふむ、ヌマアサガオとマルメ茸とな。その目的は?〉
 精霊をだますのは難しい。彼らはその場にいなくても、ものごとを知ることができるからだ。
〈屋敷にアニスという男の子がいます〉
〈おお、知っているぞ。毎朝夜明け前から門前や玄関前を掃除している坊やだな〉
 五月も末になると日の出はかなり早い。感心しつつルシャデールは続けた。
〈彼が亡くなった家族に会いたいと言いまして、『天空の庭』に連れて行くと約束しました〉
〈ふむ。それは確かに会いたかろうな。花守は……まあ別に花守に限ったことではないが、無礼な口をきいて機嫌を損ねさえしなければ、教えてくれるじゃろう。ただ、昔話をちょっぴり聞かされるかもしれないが〉
〈機嫌を損ねたらどうなります?〉
〈草花や木をすべて枯らせてしまうかもしれぬ。もっとも、あの子の力が及ぶ範囲はこの屋敷に限定されておるが〉
 薬草が全部枯れたとしても、アビュー家の財力ならば、どこからか買い入れることは可能だろう。しかし、枯れた庭にクホーンや頻伽鳥(びんがちょう)、その他の精霊たちが訪れることはないだろう。人間が気づいてなくても、草木や精霊の存在が与える影響は小さくない。ルシャデールはそう思っている。そして、それは当主であるトリスタンや彼を頼ってくるケガ人、病人にも作用しているはずだ。
〈しかし、まあ、天空の庭の本質を理解している者ならば、彼女の機嫌を損じることはあるまい〉
〈天空の庭の本質?〉
〈別に頭で理解していなくてもいいのじゃよ。心の奥深くでわかっていれば〉
〈ご機嫌を損じないようにしたいと思います〉
〈うむ、そうであるよう祈っておるよ。呼び出すのは簡単だ。『かわいいミディヤ、出ておいで』庭でそう呼べば姿を現す。できればアニスというその坊やの方がいいかもしれん。あれは男の子にそう呼ばれると喜ぶ〉
〈ありがとうございます、守護精霊様〉
〈エムルトと呼ぶがいい。『様』などと、こそばゆくてかなわぬ。たまに遊びにくるのはいっこうに構わぬぞ。現世(うつしよ)に生きる人間と話すのは久方ぶりじゃ。そのうち、わしの来し方を話して進ぜよう。精霊とてそれぞれに歴史があるのじゃ〉
〈長そうなお話ですね。〉ルシャデールは苦笑した。
〈わしがこの固い世界に来たのはざっと二千年ほど前じゃろうか。カズック殿に比べるとひよっこじゃがな。あの方は大地の核のように年古(としふ)りておる〉
〈そう……なのですか?〉
 カズックが神だったことは知っているが、どれほど長命か考えたことはなかった。まして、彼の過去など想像も及ばない。
〈よい子は寝る時間じゃな。またおいで〉
 ルシャデールは頭を下げると自分の体へ帰って行った。

 フェルガナの雨季は、それほどじめじめしていない。一日に二、三回、一時間程度さーっと雨が降り、再び陽が射す。それが五月の末頃からひと月程度続くのだ。
昼前に降った雨で庭は濡れていた。埃が洗われた草木は緑鮮やかだ。葉に置かれた露が陽光をはじき、小さな水晶玉と化している。
 アニスはかごを手に薬草園を歩きながら考え込んでいた。おととい、花守を探すよう言われた。もともと自分の頼みから始まったことだ。それをかなえてくれようとするルシャデールには感謝している。しかし……。
 彼はあたりに人がいないか見回した。誰かに聞かれたくはなかった。
「かわいいミディヤ、出ておいで」小さな声でつぶやいた。「かわいいミディヤ、出ておいで」
(うわあ、なんだか恥ずかしい)
 そんなことをやっているうちにかごはいっぱいになった。もう戻ろうとして、何かが聞こえた。
(え、風の音? それとも……)
〈ねえ、聞こえてる?ねえったら〉
「え? 誰?」
〈誰って、あなた呼んだでしょう〉
 高い声、いや、正確には肉声ではない。頭の中に直接女の子のような高い声が響いてくる。
「君はミディヤ?」
〈『ミディヤ』じゃないわ。『かわいいミディヤ』よ。間違えないで〉
 どっちだっていいじゃないか、と思ったが、ルシャデールからの注意を思いだす。精霊を怒らせるとひどい目に遭うらしい。ひどい目というのが、魔法で蛙に変えられるのか、魔物に食べられてしまうのかわからないが、ここは素直に言うとおりにするに限る。
「かわいいミディヤ、どこにいるの?」
〈いやだ、あなた見えないの。〉
 次の瞬間、何かが顔の前を通り過ぎ、彼のまぶたに触れた。
「うわあああっ!」
 目の前に大きな影が現れてアニスは後ろへのけぞり、尻もちをついた。目に入ったのは大きな葉っぱの形に枝のような手足がついたものだった。目鼻らしきものはない。背の高さは周囲のラベンダーに隠れるくらいだ。
〈そんな、お化けでも見たような驚き方しないで〉
 花守は気分を害したようだった。
(お化けでも見たような……って、お化けに見えるんだけどな。でも、ご機嫌なおしてもらわないと。
 アニスは立ちあがった。
「ごめんなさい、いきなりでびっくりしたから。君が花守のかわいいミディヤさん?」
〈そうよ。あなたは?〉
「僕はアニス。ここのお屋敷で働いているんだ。君は薬草のことを何でも知っているって聞いたから、教えてほしいと思って。御寮様がドルメンのところにいるんだ。一緒に来てもらえるかな?」
〈ドルメンはいや。昔、あそこでひどいことされたの〉
「じゃあ、ここに連れてくる。待ってて」

 すぐにアニスはルシャデールとカズックと一緒に戻ってきた。
 さすがに精霊慣れしているのか、花守の姿を見ても彼らは驚かなかった。平然と木の葉に挨拶する。
 四人は庭師たちに見つからないよう、彼らは薬草園のずっと南側へ移動した。この辺はあまり草花も植えておらず、自然の野原みたいになっている。庭師たちも寄りつかない。今はタンポポに似たコウゾリナと白いヒメジョオンが花を咲かせていた。この一角に半分壊れた物置小屋があるのだ。四人はそこへ入った。
「あなたはサラユルなの?」
 花守はルシャデールに向かってたずねた。
「サラユル? それは何? それとも誰?」
「知らないの? ずーっと昔のアビュー家の人。私は彼を待っているの。」
 ルシャデールの目には、彼女と同い年くらいの女の子の姿が重なって見えた。ぼさぼさの赤茶色の髪、ぽかんと開いた口。やぶにらみの目は焦点が合っていない。
「あたし、大昔にここのドルメンで生贄にされたの。オスニエ川、ああ今はカベル川だったわね、川が氾濫したの。たくさんの家が流されて、人がいっぱい死んだわ。畑もだめになって、食べる物がなくて、飢え死にする人も出てきて」
 生き残った人々は、月の女神シリンデの巫女にお伺いをたてた。すると、「生贄を捧げよ」との御宣託が下ったのだ。生贄にするのは若い娘か子供と決まっている。しかし、自分の子供を生贄に出したい親などいない。
「私は他の子より頭が弱かったの。五歳くらいになっても言葉がうまくしゃべれなくて。ご飯食べるとか、服を着るとか、他の子が一人でできることができなくて、父さんや母さんは怒ったり、悲しんだりしたわ。でも、可愛がってくれていた」
しかし、村長たちが役に立たない子だから、いい厄介払いになるぞ、と父親に迫ったのだ。村長から畑を借りていたこともあって、逆らうことはできなかった。それに、養わなければならない子供はミディヤの他にもいたのだ。
「黒曜石の大きなナイフが私の心臓に突き立てられたわ。とても恐ろしくて、苦しくて。そのままずっと、何百年か私はあのドルメンにいたの。ナイフを突き立てられたまま。
 だけど、ある日サラユルが助けてくれたの。もう大丈夫だよって。ナイフを抜いて、空のお庭に連れて行ってくれたわ。それはとても素敵なところ。だけど、あたしが何よりも嬉しかったのは、長い苦しみを終わらせてくれたこと。そして『かわいいミディヤ』と呼んでくれたことだわ。生きていた時、男の子はあたしを見ると石を投げたもの。サラユルはアビュー家の跡取りだったの。もちろん癒し手よ。銀色の髪に、青い目をして、水晶の精みたいに素敵なの。彼の役に立ちたくて、生まれ変わることはせずに、花守としてここに降りてきたの。サラユルと一緒にいたのは三十年くらいだったかしら。病気で死んじゃったわ。癒し手なのにね。だから、あたし待っているの。彼が生まれ変わってくるのを。でも、あなたたちの中に彼はいないみたいね」
「残念ながら」
 ルシャデールは他に言いようもなかった。生まれ変わりと言っても、同じ国に生まれて来るかはわからない。
「もし、会えたらどうするの?」
どちらかと言えば泣き虫のアニスは、ミディヤの話を聞いてすでに鼻水をぐしゅぐしゅさせている。
「お空の庭からたくさんの花の種を持ってきて、世界中を花だらけにする!」
「サラユルは喜ぶだろうね」そろそろ本題に持って行かなければ。ルシャデールは話題を変えた。「実はお願いしたいことがあるんだ。」
「ああ、そうだったわね。なあに、お願いって?」
「マルメ茸とヌマアサガオの処方を教えてほしいんだ」
「あれは心が体から抜け出してしまうわよ」
「うん。この子を天空の庭に連れて行きたいんだ」ルシャデールは親指でアニスを示した。
「そうなの。ちゃんと帰ってくるんだったら……マルメ茸は小さめを二個、ヌマアサガオは種を一掴み。水差し一杯の水で半日煎じるの。それをコップに一杯飲めばいいわ」
「ありがとう、かわいいミディヤ」アニスが言った。
「時々は呼んでちょうだい。あたし、またあなたとお話ししたいわ。お茶とお菓子も用意してくれるとうれしいわ」
 アニスは半ばひきつったような顔で、それでもにっこり笑って花守を見送った。

第六章 アニスの探索

 


「お利口さんのアニサードにやらせるといいぞ、そういうことは。おまえがやるんじゃ不審すぎる」
 この前、勝手に屋敷を出て行ってしまったこと、おまるの汚水捨てを手伝おうとしたことなどで、『何をするかわからない御寮様』の評判が召使の間に広がっていた。
『そういうこと』というのは、ヌマアサガオとマルメ茸を薬草園で栽培しているかどうか、庭師のバシル親方にたずねてみること、だった。アニスと親しいシャムに聞ければよかったのだが、あいにく彼は薬草園の方にはあまり出入りしていない。
「雨が降りそうだな、坊やは来るのか?」
 ドルメンの外に向かい、カズックは匂いを嗅いでいる。
「さあ、召使の動きについては私よりおまえの方が詳しいんじゃないか、キツネちゃん?」
「やめろ、その呼び方は!」
 カズックの本性を知っているのはルシャデールとアニスだけだ。それ以外の人間の前では、まるっきり普通の犬のふりをしている。彼は誰にでも尻尾を振るせいか、召使たちによく可愛がられていた。猫のようにすり寄っていっては、しばしば厨房の残りをもらっているらしい。
 ただ、「キツネちゃん」という愛称を賜ったことだけは不満のようだった。
その時、噂の主が駆け込んできた。
「御寮様、あ、キツネちゃんも」
「その呼び方はやめろ!」
「えーと、カズック様」
「『様』はいらない!」
 そのやりとりにルシャデールが笑う。
「雨が降ってきましたよ。お屋敷に戻った方がいいです」
 うん、その前に、とルシャデールは彼にヌマアサガオとマルメ茸のことを説明した。
 ユフェリへ行く計画が進んでいる。アニスは嬉しそうだったが、自分がバシル親方から情報を得ると聞くと、素直に尻込みした。
「僕が親方に? なんでそんなこと聞くんだって逆に聞かれますよ。僕はうまくごまかせないし、怒ったら、……いや怒らなくても親方は怖いです」
 ルシャデールは親方の姿を思い浮かべた。ごま塩頭の険しい顔つきで、小柄だがその怒鳴り声は心臓が吹っ飛びそうなくらい迫力がある。黙っていてもその厳然とした気は周囲を支配する。彼に対して気圧(けお)されないのはイェニソール・デナンくらいだろう。
「しかし、けっこうあの親爺はおまえのこと気に入っているぞ。しょっちゅう、バカヤロ、何やってんだ! とか言われてるようだが、あれはあの親爺の愛情表現だな」
 気に入られていると言われて、アニスは複雑な顔をしている。
「それで……どういう風に聞けばいいですか?」
「よし、耳を貸せ」

 翌日、アニスは朝からドキドキしながらバシル親方の動静を見守ることとなった。チャンスは庭の四阿(あずまや)の掃除をしていた時に訪れた。
「あの……親方」
 親方はにこりともせずアニスの方を振り向いた。
「ヌマアサガオとマルメ茸はここで栽培してるんですか?」
「何でそんなことを聞く?」
 もじゃもじゃ眉毛を片方だけ上げ、親方はじろりと、少年を睨む。
 その目線に負けないように、気持ちを落ち着けようと深く息を吸い込む。カズックから教えられた口上を思い出す。
「この前、お使いに出た時に……男の人が『おまえ、アビューで働いてるんだろ』って話しかけてきて、ヌマアサガオとマルメ茸はあるのか? って聞かれたんです」
 もちろん、この話はカズックが考えたでっち上げだ。
「植えてないな、そんなものは。あれはもっと南の乾燥したところでないと育たないぞ」親方は首をさすりながら、独り言のように言った。「で、そいつは初めて見るヤツか?」
「はい、初めてだと思います」
 そうか、と親方はうなずく。
「アビュー家は代々癒し手を当主に持つ家だ。素人が扱うには不向きな薬草もある。屋敷の外へ出た時は気をつけるんだぞ」
「はい」
(よし、これで聞くべきことは聞いた)
 アニスはさっさと掃除を終えてしまおうと、手を一生懸命動かす。
「最近、庭で御寮様とよく話しているようだな」
 親方が低い声でアニスに声をかけてきた。
「え……と、そうですか?」
 白い大理石でできた腰かけを雑巾で拭きながら、慎重にアニスは答える。
「おまえのことだから、振り回されているんじゃないのか?」
「いえ……そんなことはないです」
 振り回されているという感じはしない。自分の方が御寮様に頼みごとなどしてしまった。
「おまえがお気に入りだって話だが」
 それはクランも言っていた。使用人の間では噂になっているのかもしれない。噂話というのは、えてして当人の耳には入ってこない。
「年が近いから、おまえのことをいい遊び相手くらいに思っているのかもしれんな」
 トリスタンが成長してずっと、アビュー屋敷に子供はいなかった。昨年の秋にアニスが来たが、彼は自分の立場をよく理解しており、子供らしい『馬鹿げたこと』は一切しない。
 使用人たちの間でルシャデールは評判が悪い。たいがいの使用人は彼女と関わることが少ないから、情報源はほとんどメヴリダなのだが、彼女は愚痴をこぼさぬ日がない。それにルシャデールも子供らしい可愛さがなく、ひねこびているから、大人に愛される子とは言い難かった。
「おれたちの前では口をひん曲げて、毛を逆立てた猫みたいに反抗的な顔しか見せないが。おまえの前では少しは笑ったりするのか?」
「はい、少しは。本当は……たぶん、優しいんだと思います。」
 アニスは薬草園で会う時のルシャデールを思い出す。頻伽鳥(びんがちょう)の歌を聴いていた彼女は、はにかむような笑みを浮かべていた。
 見知らぬ人ばかりのアビュー屋敷に引き取られてきたルシャデール。家族を失って他人の中で働くアニス。親方のまなざしに憐みがにじむ。
「メヴリダはすぐヒステリー起こす女だし、ま、あいつの言うことは話半分に聞いておかないとな。御寮様も、もう少し愛想っ気があるとまた違うんだろうが。しかし……生意気じゃないか?」
 親方はにっ、と笑った。
「はい」アニスは苦笑した。
 親方はふたたび真面目な顔に戻った。
「言うまでもないことだが、御寮様はこのお屋敷のお嬢様だからな。生まれはどうあれ、俺たち召使とは身分が違う。そこんとこ、きちっとわきまえておきな。でないと、いらぬ(わざわい)を招くってもんだ」
 アニスは黙ってうなずいた。
 
 次にすべきことは、施療所にマルメ茸とヌマアサガオがあるか調べることだった。これもアニスの方が適任だった。毎日のように施療所に摘んだ薬草を届けているのだ。
「三蛇草持ってきました。」
 いつものように、施療所の勝手口から修道尼に声をかける。
「ありがとう、アニス。そこに置いて下さいね」
 表の方から返事がした。ドゥラセ修道尼はケガ人の手当をしているようだ。アニスはざっと中を見渡した。大小たくさんの引き出しがついたたんすが壁に沿って並び、棚には薬研(やげん)や乳鉢がいくつも置かれている。手前にはお湯をわかしたりするための、小さなかまどもあった。その横の水瓶はアニスがすっぽり入ってしまえるほど大きい。中の水はけさ彼が汲んだものだ。
 彼がいる裏口と対角の位置に、部屋の角を挟んでドアが二つある。右のドアは治療室へ。猫が通り抜けられるくらいの幅に開いていた。隙間から病人や尼さんたちが見える。左のドアは……薬草の保管庫だ。
 アニスは治療室の方をちらりと見た。尼さんが誰かと話している。忙しそうだ。忍びこんでも見つからないだろうか?
 その時、外で荷車の音がしてドアが開いた。
「尼さんはいるかね、坊や?」
 出入りの商人バフチェリだった。いろいろな種類の薬草の入ったつづらを抱えている。どれも遠方から取り寄せている薬草だ。それを横目に、アニスはドゥラセ修道尼を呼んだ。運んできた薬草は荷車に一杯ある。
「おじさん、荷物降ろすの手伝おうか?」アニスは申し出た。
「おお、助かるよ。」バフチェリは何も疑わず手伝わせてくれた。
 出てきた尼僧とバフチェリが話しこんでいる間に、アニスは運びながら箱や布袋に書かれた文字に目を走らせる。
 探し物が見つかったのは半分ほど荷物を下ろした時だった。ヌマアサガオとマルメ茸はそれぞれ小さな麻袋に入っていた。そこへバフチェリが戻って来た。
「坊や、悪かったな。他にも仕事があるんだろ? ほら、これは駄賃だ」
 そう言って5デケル銅貨を投げてくれた。
 ありがとう、と礼を言って、アニスは怪しまれないように、すぐ施療所を離れた。計画は着実に進んでいた。

 翌日の午後、ドルメンへ行くとルシャデールが険しい顔で待っていた。カズックはいない。
「どうしたんですか?」
「別に……遅かったじゃないか」
 ぶすっとしてルシャデールは口をとがらせ、軽くにらむ。
「ごめんなさい。料理長のケプトさんに引き止められていました。これを、御寮様にって」
 アニスは持っていた小さなふた付きの籠と真鍮製の水筒を差し出した。
「何、これ?」
ルシャデールは受け取ってふたをあけた。中にはハムや野菜を包んだトルハナが三つとチーズ、ゆで卵、それに干しあんずが三つ入っていた。
 さっき昼食を終えて仕事に戻ろうとしたアニスをケプトが呼び止めたのだ。
『御寮様に渡してくれ。最近、ほとんどお食事を召し上がらないんだ。健康な育ちざかりの子供が食べられないなんて、あるはずがないからな。御寮様は午後からたいていお庭にいらっしゃるんだろう? 持って行って差し上げてくれ』と。
「僕にも干しあんずをくれました」アニスはにっこりと、白い小袋を見せた。
 ルシャデールは口をとがらせてうつむき、上目使いに少年を見る。
「よけいなお世話だ」
「心配してくれているんです」
「……せっかくだからもらっておく」
 ルシャデールはその場に座りこむと、不機嫌な表情は崩さずにがつがつ食いつく。アニスはくすり、と笑みを浮かべた。御寮様が養父を嫌っているという噂はアニスの耳にも入っていた。そのせいか、養父の部屋での食事を嫌がって、ほとんど料理に手をつけない、ということも。
(あんなお優しい御前様なのに。御寮様だって、本当は嫌ってはいないんじゃないかな。ただ、あの薔薇園の家のことで、がっかりしたんだ)
 アニスは彼女の向かいにしゃがんで干しあんずをかじった。食べながら、彼は施療所に二つの薬草があることを話した。
「じゃあ、あとは忍び込んで、必要な分をちょうだいするだけだ」
 空腹を満たしてすっかり機嫌のなおったルシャデールはさらりと言った。
「……忍び込んで?」アニスは聞き返した。
「そうだよ。おまえ、まさか尼さんか誰かに、頼むつもりだったのかい? ユフェリに行くので、マルメ茸とヌマアサガオを少しわけてください、って」
「え……いや……」
 そうは思っていなかったが、『忍び込んでちょうだいする』とは盗みに入ることだ。
 彼の躊躇(ためらい)を気にもとめず、ルシャデールは言った。
「今日はもう病人は来ない。だから、今夜、取りに行っておいで。いいね?」
「今夜? えっ! 僕が一人で行くんですか?」
「他に誰がいるのさ」
 屋敷の本棟では、夜九時くらいまで従僕が急な来客に備えて玄関に侍している。ルシャデールが見つからずに抜け出すのは難しい。
「心配ならカズックを連れて行きなよ」
「はい……」アニスはつぶやく。
 心の準備ができていません、御寮様。
「邪魔は入らない。大丈夫、必ずうまくいく」
 そう言い切って、ルシャデールはうれしそうに、にっと笑った。初めて見る、楽しそうな顔だった。その表情にアニスの心はぽーんとはじかれた。胸の奥深くで軽快なメロディーが流れだすような感じだ。
(まあ……いいか)
 知らず知らずのうちに彼も笑みを浮かべていた。

 まあいいか、と思ったものの、実際に忍び込む段になると、怖気づかずにはいられなかった。見つかったら、最低でもご飯抜きは覚悟しなければならないだろう。幸いカズックがついて来てくれたから、不安のどん底というわけではなかった。
『おれは昔話の妖精や魔神じゃない。人間の手下になって働くなんてまっぴらだ。しかも、神が盗みを手伝うのか?』
 一緒に来てくれと頼んだら、カズックは渋い顔をした。結局パストーレン三枚で買収した。
 六月。陽の入りは遅い。夕食を早めにすませたアニスは、小さなランタンを手に人目を避けつつ施療所の方へ近づいていく。狐顔の犬も後ろからついていく。
 施療所で働く尼僧は三人いるが、二人は四時頃に、近くのモトレム修道院へ帰る。一人は急な病人やけが人にそなえて、七時頃まで残っていた。
 それ以降は翌朝まで無人だ。しかし、出入り口は施錠されてしまうし、その鍵は執事ナランの預かりだ。
 他人の部屋から鍵を持ち出すのは、アニスには無理だった。施療所に盗みに入るだけでも抵抗があるのに、他人の部屋へ鍵を取りに行くとなると、荷が勝ち過ぎた。それに見つかった時のことを考えると、あまりに危険だ。
 とすると、尼さんがいなくなる前に、忍びこまなければならない。そして、すみやかに目的の物を見つけ出し、脱出。うかうかしていると、尼さんがカギをかけて帰ってしまい、朝まで閉じ込められることになる。
 勝手口のドアの前で、そっと中の様子をうかがう。物音はしない。もっとも、尼さんの動きは静かで上品だから、ガチャガチャ音を立てたりしないだろう。
「よし、いいぞ」一緒に聞き耳をたてていたカズックがささやいた。
 ドアの取っ手をとり、そーっと開けてみる。誰もいない。アニスはもう少しドアを開ける。
 音をたてないようにドアを閉めた。心臓がバクバクする。治療室の方で音がした。
「あわてるなよ」
 そろりそろりと薬草庫へ近づいていく。体を動かすたびに、筋肉が音をたててきしむようだ。
 保管庫のドアをゆっくりと開け、中へすべりこむ。
「よし、探せ。おれは尼さんが来ないか見張っている」
 ドアは少しだけ開けたままにしていた。カズックはそこから治療室の方を見ている。
 アニスはランタンを掲げて棚の札を見ていく。サフラン、サントリーナ、生姜、賽の目、アルテミシア、丁子、ラバーミント……。札の字は薄くなっていて、小さなランタンの灯では読みづらく、上の方の棚は明かりが届かない。アニスは背伸びしてランタンを掲げる。その時、左袖が柱の燭台に引っかかった。
「うわ!」
 ガラン、ガランと音を立てて燭台が床に転がる。
「誰かいるの?」尼さんが治療室の方からやってくる。
「バカ、隠れろ!」
 カズックに言われるまでもなく、アニスは部屋の隅に置かれた大きなつづらの陰に隠れた。
 ドアが開いた。同時にカズックがウォン! と吠える。
「あら、キツネちゃん。どこから入ったの? いやだ、ドアが開いていたのね。いらっしゃい、そこにはおいしい物なんてないわよ」
 カズックと尼さんが出て行く。ガチャン、ビン! と鍵の重い音がした。
(え? ウソだろ?)
 あわててつづらの陰から這いだし、ドアにかけよる。取っ手を回そうとするが、びくともしなかった。
 治療室の灯りが消えた。
 しばし呆然とし、それからあたりを見回した。薬草の中には、貴重なものも多い。盗難防止のため窓もなかった。額から脂汗がにじんでくる。
 明日の朝、アニスが水汲みに出て来なければ……。厨房や厩、屋内の掃除、いろいろなところに支障が出る。いや、水汲みそのものは誰かがやってくれるだろう。とにかく、彼がいないことが屋敷の人間に知れ渡る。尼さんが施療所に来るまでは、ここから出られないだろう。
 アニスはためいきをつき、その場に座り込んだ。
「ひどいよ、御寮様。大丈夫って言ったじゃないか」
 お小言とご飯抜きじゃすまないかもしれない。暇を出されるなんてことは……。そしたら乞食みたいなことになっちゃう……。
 彼は頭をぶんぶんと横に振った。そんなことはその時になったら考えればいい。まず、ユフェリへ連れて行ってもらうことが先だ。まだ起こってもいないことにやきもきするのは馬鹿げている。それに、カズックがなんとかしてくれるかもしれない。
 しばらく黙ってランタンの灯りを見つめていた。すこしずつ気持ちが落ち着いてくる。「マルメ茸とヌマアサガオを探さなきゃ」
 アニスはランタンを手に立ち上がった。

 今、何時頃だろう……。
 ルシャデールは寝返りを打った。アニスが施療所に閉じ込められたことを聞いたのは、ベッドに入ってからだ。カズックはそのことだけ伝えると、さっさと立ち去った。
(あいつ、最近冷たいな)
 以前のカズックなら、どうすればいいか、ヒントになることぐらいは教えてくれたはずだ。やっぱり、あいつは神なんだな、と彼女は逆説的に考える。人が助けて欲しい時には助けてくれないのが神だ。
 どうしたらいいか、さっぱり知恵が浮かばない。朝までに、施療所の鍵を手に入れるのは不可能に近い。そもそも、どこにあるのかさえルシャデールは知らない。
「絶対うまくいくような気がしたんだけどなあ」
 彼女の勘は十中八九、はずれないのだが。
 ルシャデールは布団から起き上がった。そろそろ玄関の従僕はいなくなっただろうか。
 そっと廊下に出てみる。階段の上からのぞくと、玄関に従僕の姿はなかった。
 ゆっくりと階段を降りて行く。最初の踊り場に着いた時だった。
「御寮様」
 後ろから呼び止められた。振り返るまでもなくデナンだ。
「どうなさいました?」
 だいぶん前にカズックが言っていたことを、唐突に思い出す。
『武術の達人ってやつはユフェレンに近いものを持っている。目に見えない気を感じ取る力が常人に比べて秀でているんだろう。人によっては、眠っていても気の乱れに目を覚ます』
 ルシャデールは振り返った。デナンは階段を降りて来る。
「お休みになれないのですか?」
「……」
 何と答えていいか、しばし考える。デナンなら、他の者(執事や家事頭、他の召使のことだ)よりうまく取り計らってくれそうだ。
「カモミールのお茶でもお持ちしましょうか?」
 ルシャデールは首を振った。今、お茶を飲んで寝てしまうわけにはいかない。アニスが閉じ込められたままになってしまう。
「……他の人には言わないで」
「何をですか?」
 彼女はアニスが施療所の薬草庫へ忍び込み、鍵をかけられてしまったことを話した。
「アニスを叱らないで」
 ルシャデールはデナンの前にまわり、彼を見上げて言った。
「そうはいきません。夜、施療所の薬品庫に忍び込んだ者を、そのまま放っておくことは本人のためにもなりません。なぜ彼はそのようなことを?」
「……薬草を取りに」
「何の薬草ですか? それに、何のために?」
「……」白状すべきかルシャデールは迷った。自分は叱られればすむが、アニスはそうはいかないだろう。
 答えない彼女にデナンが言った。
「では、交換条件を出します」
「交換条件?」
「御寮様が明日の朝から、お食事を御前様のお部屋できちんと召し上がること。話しかけられたときは、無視せず応えること。その二つです。」
「……わかった」
 しぶしぶ彼女はうなずいた。
「では、今回のことはわたくしの胸にしまっておくことといたします。」
 そう言って彼は部屋へ行き、鍵の束と明かりを持って来た。
「一緒にいらっしゃいますか?」
 ルシャデールは黙ってうなずく。
 施療所に向かいながら、もしかしたらデナンは知っているのかもしれないと思った。ユフェリ行きの計画のことだ。
実は頻伽鳥が来た翌日、デナンにたずねられたのだ。昨夜遅く庭を散策していたようだが、眠れなかったのか、と。庭で、アニスと話していたことを聞いていたかもしれない。
「知っているの?」たまらずにルシャデールはたずねる。
「何をでしょうか?」
「私とアニスが何かしているって、気がついているんでしょ?」
「はい」
「聞かないの?」
「お聞きした方がよろしゅうございましたか?」
「……何か悪さを企んでるかもしれないよ」
 ふっ、とデナンが笑った。
「たとえ悪さであろうと、仲間と何かを企むのは楽しいことではありませんか? ……わたくしにも覚えがございます」
「何をやったの?」ルシャデールは興味を持った。
 たいしたことではありません、と、いつもと変わらぬ顔で彼は答えた。
「あまり友好的とは言えぬ高貴な知人を、芳しき穴で入浴していただく。その程度のことです」
 生意気で鼻持ちならない大貴族の息子を、肥溜めに落としてやった、というところだろうか。
「友人の発案で、計画の細部はわたくしが練りました」
「ふーん、けっこうなことやってるんだ。その友達は今どうしてるの?」
「二年前に亡くなりました」
「え?」
「土砂崩れで家ごと埋まってしまいました」
 それは、と言いかけてルシャデールはやめた。もう施療所についていた。
 鍵を開け、真っ暗な中にデナンがランタンをかざす。棚やかまどが大きな影を作って浮かび上がる。彼は薬草庫のドアへ向かった。
 アニスは……床の上で足をかがめ、横向きになって眠っていた。
「アニサード、起きなさい。アニサード」
 デナンが少年の肩をゆするが、まったく目覚めようとしない。
 どうやら薬草のせいらしい。たくさんある薬草の中には香りだけで眠気を催させるものもあった。
「のんきに寝ているよ」ルシャデールはつぶやく。こっちはさんざん心配したのに。
 デナンはランタンを置き、少年を抱え上げた。
「おそれいりますが、鍵とランタンをお願いします」
 手のふさがった彼に代わってルシャデールが鍵をかけた。
「わたくしはアニサードを西廊棟へ連れていきます。御寮様はお部屋へお戻り下さい」
 
 部屋に戻ると、カズックが布団の上で丸くなって寝ていた。
「肝心な時はいなくて、事が終わってから現れるのか」
「おれは人間の使い走りじゃないからな」カズックは鼻を鳴らす。
 ルシャデールはベッドの端に座り込んだ。
「アニスがこの屋敷に来たのは偶然じゃなかった……」
「偶然なんてこの世に一つもないぞ」
「デナンはアニスの父親を知っていたみたいなんだ」
「そうか」
「アニスはそのことを知らないと思う。だけど、デナンはずっとアニスを気にかけていたのかもしれない」
 ルシャデールはため息をつき、そのまま後ろに倒れこむ。
「まともな親にはまともな知り合いがいる。ろくでもない親の周りにいるのは、やっぱりろくでもない奴ばかり。でなけりゃ、誰もいないか」
 ルシャデールはカズックの方に顔を向けた。
「『神様』はそういう奴らに何もしようとしないんだね」
「届かないことが多いな」カズックは少し顔をゆがめた。「おまえが言う『ろくでもない奴』に、おれやユフェリにいる連中の声は届かないことが多い。聞こうとしないしな。だから、坊さんや巫女さん、おまえのようなユフェレンが必要なのさ」
 カズックの口調には、どこか悲しげな響きがあった。

 次の日、アニスはドルメンでルシャデールを待っていた。
 けさ、目が覚めた時の困惑はまだ続いていた。昨夜、確かに薬草庫に閉じ込められていたはずなのに、いつの間にか西廊棟の自分の部屋に戻っていた。もしかしたら薬草庫に忍び込んだこと自体が夢だったのかと思ったが、小テーブルの上にはマルメ茸とヌマアサガオが布に包まれて置いてあった。
 とすれば、誰かが部屋へ連れてきてくれたのだろうか? 誰が?
 足音がして、振り向くとルシャデールとカズックだった。
「ばーか」開口一番、彼女は言い放った。それから、夕べ何があったか話してくれた。
「デナンさんが……」
「なんだ、何にも聞いてないんだ。デナンと話をすることはないの?」
 アニスは首を振った。食事の時ぐらいは顔を合わせるが、言葉を交わすことはなかった。
「デナンさんは御前様のおそばにいる方だし、僕なんかとは違います」
「ふーん……で、首尾は?肝心の物は手に入った?」
 アニスはかくしから布の包みを出し、開いてみせた。傘の真ん中に丸く黒い模様が一つ入っている白いきのこが二つと、黒いヌマアサガオの種だ。
「もしかしたら、デナンさんはこれを見たんでしょうか?」
「あの人、私たちの計画に気づいているよ。何をしようとしてるか、この二つを見ただけでわかったんじゃないか」
「……」
「でも、何も言わない。なんでだろうね」彼女は片頬を上げて笑った。
 アニスにはそれをどう受け取っていいのかわからなかった。僕童ふぜいが御寮様をユフェリ行きに利用したのだ。とがめられて当然に思えた。だが、ルシャデールはそれほどデナンのことを気にはしていないようだった。
「大丈夫、あの人は邪魔しないよ」
「大丈夫って、御寮様……昨日もそうおっしゃったけど」
 アニスは苦情を申し立てようとする。
「うるさい!」ルシャデールはさえぎった。「私は邪魔は入らないって言ったんだ。それは当たっていただろ。閉じ込められたのは、おまえがのろまだからだ。心配してデナンと迎えに行ったら、ぐーぐー寝てるし。それに、結果的には薬草も取ってこれたじゃないか!」
「はあ……」まくしたてられて、アニスは黙る。 
「あとは、いつ、どこで実行するかだ」
「ドルメテ祭の時はどうですか?」
 アニスが言った。夏至の日をはさんで五日間行われる祭りだ。
「その間、御前様はお祭の御用がありますから、お屋敷を留守にされます。もちろん、デナンさんも一緒です。それで、僕たち召使は少しのんびりした感じになるんです」
「気が緩むってこと?」
「はい」
 常日頃の生活態度については、家事頭がいつもうるさく使用人たちに言っている。酒は飲むな、たばこは体の毒だ、賭け事は人生を狂わせる、悪所通いは病気をうつされる……。どれも子供のアニスにはあまり関係ないが、それでもよく忠告やら戒めの言葉などをもらう。
『仕事は常に三歩先を考えて行わねばなりませんよ、アニサード。そうすることで、効率的に動くことができ、同じ仕事をしても疲れ方が少ないのです』とか、『物事は一つ一つ終わらせてから、次のことに移りなさい。ねずみの食べかけみたいなやり方はだめですよ』などと。
「普段厳しい家事頭さんも、ドルメテの時は大目に見てくれるんです」
「うん、じゃあ祭りの時にしよう。薬草はどこで煎じる?」
 アニスはちょっと考えた。人に見つからないところとなると、このドルメン以外に考えつかなかった。
「ここがいいと思います。ただ、煎じる時、まるっきり誰もついていないのは心配なんですが。僕は仕事がありますし、御寮様見に来れますか?」
「午前中は勉強がある。午後なら来れるだろうけど……。カズック」
 ルシャデールはそれまで黙っていた犬の方を振り返った。
「おれにやってくれっていうのか?」
「頼むよ」
「お願いします」アニスも手を合わせて頼みこむ。
 仕方ねえな、とカズックは承諾してくれたが、それほど嫌そうではなかった。
「必要な道具はそろえてくれよ。煎じるための土瓶やラペム、燃料は……とろ火にするなら炭団(たどん)だな」
 ラペムは携帯できる簡易コンロだ。土製で炭団や炭を入れて煮炊きをする。
「それは僕が用意します。心当たりがあります」
「土瓶は?」
「探してみます」
「うん」
「うまくいくんでしょうか?」
 少し不安になってアニスはたずねた。
「いくさ、きっと」
 ルシャデールは笑みを浮かべて言った。

第七章 無明の闇

 六月も初旬に入るとそろそろ雨季が終わる。夏至の祭りドルメテも近づいていた。
 ドルメテの発祥は定かではないが、高温乾季の雨乞いがもとになっているのは確かとされている。東から月の女神シリンデと雨の竜クホーンを迎え、豊穣を願う。そんな趣旨の祭りだ。
 毎年、斎宮院の斎司長が月の女神の役を担い、神和師九人がクホーンを演じる。月の女神は王宮から、クホーンは斎宮院を出発して街を練り歩き、ピスカージェンの中央広場で出会い、舞うことになっていた。
「それは賑やかですよ。お練り行列は国中から見物に来ますし、芝居小屋もあちこちに建つんです。楽師もたくさん集まります。」
 新しくルシャデール付きの侍女となったソニヤが言った。
 噂通り、メヴリダは先週アビュー家を辞めていた。代わりに来たソニヤは四十近いが、これまでにも貴族やお金持ちの子供の乳母をしてきた女だった。
「ずっといてほしいと言われたんですが、若旦那様の赤ちゃんまでお世話をするのは、この年になるとちょっと荷が重いですからね。」
 来た翌日、彼女はルシャデールにそう話した。
 赤ん坊は走り回って屋敷の外へ出たり、癇癪(かんしゃく)おこして壺を投げることはしないがな、とカズックが後でつぶやいていた
「御寮様はお祭りを見にいかれるんですか?」ソニヤはルシャデールを夜着に着替えさせながらたずねた。
「ううん、興味ない」
 まあ、と、ソニヤは、ちょっと驚いたようだ。たいていの子供は祭りが好きだからだ。
 もちろん、ルシャデールだってピスカージェンに来て初めての祭りだ。心ひかれないわけではないが、他に気がかりなことがあった。
「御前様のお許しがあれば、私でよければご一緒しますが」
「いや、いいよ。おまえたち召使は行くのかい?」
 私たちはお屋敷の仕事がありますから、とソニヤは言い置いて、でも、と続けた。
「仕事がひけてからは、ケシェクスに行ったり、街の方へ飲みに行ったりするのではないでしょうか。今までいたお屋敷ではそうでしたわ」
「ケシェクスって?」
「ドルメテの五日間、あちこちの広場で、夕暮れ頃からダンスがあるんですよ。それがケシェクスです。毎年五月くらいになると、若い人はダンスの相手を探すのに大変な騒ぎなんですよ」
 フェルガナの社会は若い男女の交際には厳しい。娘の父親の許可が必要だし、交際できても二人きりで会うなどできない。会う時は必ずもう一人、乳母や弟などがついてくる。服の上からであっても、体に触れるなど言語道断。
 だが、ケシェクスだけは例外だった。自由にダンスの相手を選んでいい。門限もなし。
 そのためか、ピスカージェンでは秋ごろに結婚する男女が多い。たいていは、祭りの後、娘がみごもっていることに気づいた親が、あわてて結婚させる、というケースだ。
「他に御用はございませんか?」
「うん」
 彼女は最後にろうそくを消すと下がっていった。
 残ったルシャデールはアニスのことを考えていた。この前ドルメンで決行の日や必要な道具のことを相談してから一週間が過ぎている。
 マルメ茸とヌマアサガオの煎じ汁さえうまく効けば、アニスのユフェリ行きはうまくいくだろう。心配することはない。
 気がかりというのは、ここ何日かアニスの様子が微妙に変わってきたように感じることだ。表面的には目立った変化はない。顔を合わせれば、にこっと笑ってくれるし、話すそぶりもこれまでと同じだ。だが、彼の方から漂ってくるのは不安、怯え、後ろめたさ、そんな暗い感情だ。
(ユフェリ行きが不安、という程度ならいいけど)
 ルシャデールは寝返りを打った。


 ドルメンには土瓶や楕円(だえん)形の携帯こんろのラペム、燃料にする炭団が持ち込まれていた。これらはみんなアニスが用意した。土瓶やラペムは、使っていない道具をしまいこんでいる倉にあったのを借用してきた。倉の正面扉は鍵がかかっていたから、高窓によじのぼって侵入したという。炭団は薪小屋にあったのを失敬した。
「こそ泥の修行をしているみたいだね」
 ルシャデールに言われてアニスは困ったような顔で応えた。
 遠くから植え込みを刈っている音が聞こえる。フェルガナの六月は暑い。ドルメンの中は幾分涼しいとはいえ、カズックは身を扇ぐように太いしっぽを動かしていた。
「決行するのは祭りの三日目にしよう。朝食の後ぐらいからカズックが煎じ始める。昼過ぎは私が見に来るよ。夕食の時にはいったん屋敷の中に戻らなきゃならないから、またカズックが一人で見張る。夜、八時頃には煎じ終わるんじゃないかな。」
「十分だ。ただ一つ問題がある」カズックが言った。
「何?」
「おれの飯は? あたるのか?」
「私が入る時に、厨房の方へ行けば何かもらえるだろ」
「ちゃんと交代に来るんだろうな?」カズックは念を押す。
「もちろんだよ。何疑ってるのさ」
 カズックなら二、三日ご飯をもらえなくても大丈夫そうだけど。女の人たちにすり寄ったりして、自分で調達できそうだ。アニスは二人の様子を笑みを浮かべて見ていた。それからふっと、シャムに言われたことを思い出して顔が陰った。

 昨夜、寝る前にシャムが部屋に来たのだ。彼の話によると、アニスとルシャデールのことは『ちょっとした噂』になっているようだ。大方はほほえましく見守っているが、批判的な目を向けている者もいるという。筆頭はもちろんクランだ。
「あいつは次の侍従の座を狙ってるって噂だぞ」
「そうみたいだね」
「何かされたのか?」
 ううん、と、アニスは否定した。この間、クランに脅されたことは、シャムにも知られたくなかった。
「あいつ根性悪いから、そのうち何されるかわかんねえぞ。気をつけろよ」
 それに、御寮様と遊ぶんなら、さぼっていると思われないようにしろ。シャムはそうつけ加えた。アニスがルシャデールとこっそり何かやっていることが、使用人の中にも広まっているようだ。
 
「どうしたの、考え込んで?」黙り込んだアニスにルシャデールはたずねた。最近、アニスは黙り込むことが多い。「何か心配?」
「いえ……どうしてこんなに、よくしてくれるんですか?」
「え?」
「僕なんかのために。御寮様はこのお屋敷のお嬢様で、全然身分が違うのに、心配してくれた上に、向こうの世界に連れて行って下さるなんて」
「別に心配なんかしてないよ。うーん、そう、暇だからかな」
ルシャデールは笑ったが、アニスの真摯な瞳に捕らえられ、黙った。彼女のように世間ずれもしていなければ、ひねこびてもいない。アニスの星空のような純粋さは、柔らかくふわりと彼女を負かす。
 最初から持たなかった子と、途中で失った子。アニスならわかってくれるような気がしていた。何を? 答えはない。胸をかきむしられるような焦り、痛み、苛立ち。でも、それをうまく言葉にできない。
「優しいですね、御寮様は。」
 初めて言われた言葉だった。だが、かえって心が波立つ。
「かわいそうだから」ぶすっとした不機嫌な顔でルシャデールは答えた。「親なしっ子で、身寄りもなくて。ビエンディクとかに怒られたりしながら、一日中コマネズミみたいに働いて、疲れ果てて、きっと夜はぼろきれみたいに眠るんだろう? 雨が降っても雨宿りするところすらなく、道路の端で寝てたら蹴飛ばされて。畑から盗んできた泥だらけのジャガイモをそのままかじって、ろくでもないガキと石を投げられて……」
 途中から自分の話になっていた。
 アニスもそれに気がついたようだ。哀しげに彼女を見つめた。
「御寮様」
 アニスはルシャデールの手を取った。気がつかぬうちにきつくにぎりしめていた手をゆっくりと少年はほどいていき、両手に挟んでぽんぽんと軽くまじないのように叩く。それだけのことなのに、不思議と少女の心は()いでいく。
「ごめんなさい、つらいこと思い出させて」
 別に彼が思い出させたわけではない。しかし、謝罪の言葉を受け取ることで、苛立ちをアニスが吸い取ってくれたような気がした。彼の手は暖かかった。
「もし、ユフェリへ行くのがうまくいかなくても、僕はいいと思っています。もちろん、父さんたちには会いたいけど、それより、こんな風に親切にしてくれたのがとても嬉しいから」
 そう言ってアニスはまだ仕事があるからと、屋敷の方へ駆けていった。
「けなげで素直な坊やだ」
「嫌味かい」
「つくづく可愛くない奴だな」カズックはつぶやいてドルメンから出て行った。
  
 その夜、アニスの部屋にふらりとカズックが入ってきた。屋根裏の窓から外を見ていたアニスは振り返り、笑みを浮かべた。
「カズック」
「なんだ、風流に星見か」
「お祈りしていた」
「何をだ? 父さん母さんに会えるようにか?」
「御寮様が幸せになりますように、って」
「……あいつは不幸に見えるか?」
「うん……真っ暗な夜の海をひとりで飛んでいる鵺鳥(ぬえどり)みたいだ。真っ暗な中を休むところもなく、ただ飛んでいくような。」
「でも、おまえの手なら止まりそうだぞ、鵺鳥でもなんでも。狼だって手なずけられないか?」
「狼は無理だよ」
 アニスは笑った。でも、小鳥やリスなどの小動物なら、できそうだ。村にいた頃、よくやっていた。それから彼は言いづらそうに口を開いた
「……僕……バシル親方とか……何人かに言われたんだ。あまり御寮様と親しくするなって。御寮様と僕は身分が違うから」
「親方はおまえがかわいいから、厄介な目にあわせたくないのさ。しかし、ルシャデールの立場で考えてみたらどうだ? おまえがあいつから離れてしまったら?」
「どうってことないよ、きっと。カズックだっているし、御前様だっている。それにソニヤさんも」
「おれは人間じゃない」カズックはつぶやいた。「だから、いるうちには入らないんだ」
「そうなの?」
「坊や、あいつはしょっちゅう、ユフェリに入っていくが、本来はこのカデリで生きていかなきゃならないんだ。」
「そうだね」
「こっちの世界で、いろんな人間と交わりながら、成長していかなきゃならない。なのに、あいつはそれを拒んでいる。使用人連中はもちろん、親父であるトリスタンにも、よそに家族がいることを知ってからは、閉ざしてしまった。おまえが今、一番あいつの近くにいるんだ。あいつを一人ぼっちにしてもいいのか?」
「それは……嫌だけど」
「大人の言うことは経験に基づいて、理想に近づく最短距離を示しているのさ。ま、世間一般の理想ってやつも、ろくでもないことが多いけどな。考えてみる価値はある。バシルの親爺にはおまえが使用人として分をわきまえているのが、正しいんだろうさ。あの親爺はおまえをかわいがっているからな。おまえにとってはどうだ? どっちが、何が正しい?」
 アニスは考え込んだまま答えなかった。
「せいぜい見捨てないでやってくれ」
カズックはそう言い残してアニスの部屋を出て行った。

   ※      ※       ※

真っ暗な中にいた。
闇の外から声が聞こえる。
むっとする箱の中は覚えがある。
もっとも古い記憶、衣装箱の中

退屈でうたたねしていたら、声で目覚めた
あれは母の声
心配になってそっと手と頭で衣装箱の(ふた)を持ち上げる
知らない男の人が母の首を絞めている

怖くなって(のぞ)くのをやめて、蓋をした。
オマエナンカ、イナケレバイイ
昼間言われた言葉がよみがえる。
オマエノセイデ、アノヒトハカエッテコナイ!
オマエナンカ! オマエナンカ!
ドコカヘイッテシマエ!

「かあさん!」
 ルシャデールは飛び起きた。
 静かで温かな闇の中。アビュー屋敷の自分の部屋にいるのだと、思い出すのに少し時間が必要だった。
 昔から何度も見る夢だった。母さんは私のことなんか振り向いてくれない。餓えて冷えた心だけがいつも残る。両腕で自身を抱くように、腕をさすった。
 黒々とした闇。
 暗く乾いたものが満ちてくる。いっそ何もかもなくなってしまえばいい。私も消えてしまえばいい。
 人は死ぬことはない。苦しかろうと、楽しかろうと、魂は想いを抱いたまま、生き続けるのだ。永遠に。
 永遠。恐ろしい言葉だった。終わることのない苦しみを意味しているような。
 ルシャデールは恐怖に支配されまいと、すべてを追い出していく。トリスタンもアニスもカズックも母さんも。胸に虚無が広がる。
 暗い感情が高ぶってくる。何もかも嫌いだ。母さんもトリスタンもソニヤも、みんな私のことなんか考えてくれない。私のことより大切な人や大事なことがある。アニスだって、『庭』に行きたいから笑顔作って私に近づいてくる。そうでなかったら……。
〈そんなことないよ〉
ふいに、穏やかな低い声がする。暖かで、柔らかなものが突然ルシャデールを包んだ。
〈誰?〉
〈アニスは君のことが好きだよ。彼からの贈り物を届けにきたんだ。ほら〉
白い光がはじけて、ミルテの白い花が降る。その一つ一つが「御寮様が幸せになりますように」という祈りでできている。
〈ふふ、ちょっと素敵な贈り物だろう?〉
〈あなたは誰?〉
〈また会おう。『庭』で待っているよ〉
 それは、もう一度ルシャデールを抱きしめるように包み込んで、消えた。
 再び彼女の心が(たか)ぶってくる。しかし、先ほどのような陰鬱なものではない。嬉しいというのでもなく、哀しいというのでもなく。何かが心を揺さぶっている。ひたひたと満たされていく。
 目からあふれるものを、押しとどめようとするかのように、手のひらを目にあてる。
 こんな時は寝てしまった方がいい。ルシャデールは薄い布団をひっかぶり、しばらくの間体を震わせていたが。ゆっくりと穏やかな眠りに誘われていった。

 祭りが近くなり、トリスタンの不在が頻繁になっていた。
 ソニヤがおやつにピランカを出してくれた。ピランカはピスタシオ入りのシロップ漬けのパイだ。とても甘いお菓子だが、ルシャデールは好きだった。
「御前様がちょっとお寂しそうでしたよ」
 ソニヤの言葉にルシャデールは振り向く。
「御寮様がドルメテに行かないのか、聞かれたものですから、あまり興味がないようだと、お伝えしたんですよ。」
 ルシャデールは答えなかった。ソニヤはどういうわけか苦手だった。いつもほがらかで、よく気がつく。礼を失せず、お嬢様扱いはするが、下手なことをしたらぶたれそうな厳しさも内側に持っている。
 もっとも、人を小馬鹿にしたような顔は見せないから、ルシャデールもメヴリダの時のように壺やら鉢やら投げるようなことはしなかった。ただ、話しかけられても、必要に迫られないと答えることはなかったが。
「御前様はもっと御寮様とお話ししたいようですよ。でも、何か聞いてもあまり答えてくれないと、残念がっておられました」
「ふーん……」
 気のない返事だった。
 デナンとの約束で、トリスタンとは一緒に食事をしている。話しかけられても、無視はしていない。といっても、口から出るのは『はい』『いいえ』『わからない』の三語だった。
 この前の悪夢からずっと重い気分が続いている。ソニヤの元気さがひりつくように痛い。
「ごちそうさま」ルシャデールは立ち上がった。「庭を散歩してくる」
「まあ、もうよろしいんですか?」半分残ったピランカの皿を見てソニヤも立ち上がる。「お散歩でしたらご一緒しますよ」
「一人にして」はねつけるように言って、ルシャデールは出て行った。
 後に残ったソニヤは溜息をついて、皿をかたづけた。

 庭に出たからと言って、特にすることもない。
 アニスとはここ一週間以上話していなかった。顔を合わしてはいるが、周囲を見回し、そそくさと姿を消す。
(どうしたんだろう……)
 そのとき、どこからか石がルシャデールの前に飛んできた。そちらを見るとドルメンの木立からアニスが手を振っていた。
「御寮様」小さな声で呼ぶ。
 なんとはなしにあたりを見回しながら、彼女は木立の方へ近づいていく。
「いやにこそこそと動いているじゃないか」つっけんどんな言い方になる。
「その……いろいろあって」
 二人はドルメンへ入って行った。
「最近なんだか無視しているような様子だから、もう向こうへ行くのはやめにするのかと思ったよ」ルシャデールは彼を睨みつけて言った。
「無視しているつもりはないです。ただ、僕は召使の中でも一番下っ端だし、それはちゃんとわきまえておかないと……」
「何、それ? わきまえるって?」
 軽い混乱がルシャデールを襲う。よくわからないが、アニスが自分から離れようとしているのは感じた。
「え……っと、自分の立場をよくわかって、それにふさわしく行動することです」
「言葉の意味なんて聞いてない!」
「え?」
「なんでわきまえなきゃなんないんだ?」
「それは……きっと僕が御寮様が親しくしてくれるのをいいことに、僕がわがままなことを言い出したり、無茶なことをしたりしないよう、みんな心配してくれているんだと思います」
「わがままとか無茶なことって?」
「えっと……仕事さぼったりとか、御寮様にお金出させて高価なものを買うとか……かなあ」他にもまだあるのだが、この年のアニスには考えが及ばない。
「そういうことを、おまえはするわけ?」
「しないと思います」
「ならいいじゃないか。わかっちゃいないんだ、みんな。」
「でも、世の中ってそういうもののように思います」
 アニスに母の顔が重なる。オマエナンカドコカヘイッテシマエ!
「おまえまで……そういうことを言うのか。」
 いつもと違う様子のルシャデールに、アニスは何も言えなくなった。
「おまえまで、私に背を向けていくんだ! もういい!」
 次の瞬間、ルシャデールはドルメンを飛び出して行った。
「御寮様……」
 アニスは彼女の背中を呆然と見送った。

 その日、夕食の時間になってもルシャデールは姿を見せなかった。屋敷は大騒ぎだ。
 ソニヤの話では、昼間、おやつを食べた後、庭を散歩すると言ってそのまま行方がわからないという。敷地内をくまなく探したが見つからず、男たちは、執事とデナンそれに子供のアニスをのぞいて皆、街へ探しに出払っていた。
 責任を感じたのか、ソニヤはひどく参ってしまっているようだ。
「一旦、引き上げて、夜が明けてからまた捜索を出した方がいいのではありませんか?」
 執事がトリスタンに提案した。陽が落ちてから半時以上が経っている。暗い中での捜索は効率が悪い。おまけに雨季のなごりの雨も降りだしていた。
「そうだな。戻った者から休むように言ってくれ。……どこかで雨宿りしているといいが……」トリスタンは侍従の方を向き、「カームニルへでも帰るつもりだろうか?」
「帰りたくなるほど、あの街に愛着があったようには思えませんが」

 夕食の後、アニスは自室へ戻っていた。
(最後に御寮様と会ったのはソニヤさんではなく僕だ。御寮様はきっと僕が言ったことに傷ついて出て行ったんだ。ソニヤさん……執事さんたちに責められたんだろうか。御寮様のおそばにちゃんとついていないから、とか)
 ソニヤはデナンが引き抜いてきた侍女だ。だから、執事は気に入らないだろうと、噂好きな洗濯女たちは話していた。
(僕は……卑怯者だ。最後に御寮様と会ったのは僕だって言うべきだったのに。言わなかった。ここを追い出されたくなかったから)

 五日ほど前のことだ。アニスは執事ナランの部屋に呼ばれた。そこにはビエンディクも待っていた。そして、ナランに問い詰められたのだ。
『最近、御寮様とよく遊んでいるらしいね。仕事をさぼって』
 えっ? と驚くアニスに、いつもは温厚な顔を崩さないナランは厳しい目を向ける。
『しかも、人のいない物置で何やらごそごそやっていたというじゃないか』
 土瓶を探していた時のことだろう。誰かに見られたのかもしれない。
『厨房からパストーレンを盗み食いしたとも聞いたよ』
 施療所に忍び込む時、カズックにやったパストーレンのことだ。しかし、それは厨房のドレフィルに頼んでもらったのだ。それは違います! と、抗議したが、聞き入れてはくれなかった。
『パストーレンは犬にやるようなものではない。あんな高価なものを厨房の誰が犬になどくれてやろうとするものか。嘘をつくのもいいかげんにしなさい。それに、下男のラタンじいさんが小銭の入った財布が部屋からなくなったと騒いでいる。まさか君のせいじゃなかろうね? まあ、ラタンじいさんは最近、物忘れが多くなったから、どこかに置き忘れたのかもしれないが。パストーレンのことも大目に見てやろう。だが、君のような子を御寮様と遊ばせるわけにはいかない。今後、挨拶以外で御寮様と口をきいてはいけない、いいね。もし、言いつけを破った時はこの屋敷から出て行ってもらう! 話はそれだけだ、行きなさい』
 僕、盗みなんてしていません、そう言いたかったが、薬草を施療所から持ち出した後ろめたさが、それを押しとどめた。ショックでうつむきがちに部屋を下がるアニスの後ろで、ビエンディクが執事に言っているのが聞こえた。
『今までは真面目でよく働く子だと思ってきましたが、こずるく立ち回ってそう思わせてきたってことでしょうかね。親を亡くした可哀そうな子と思って、甘やかしてきたのがよくなかったんでしょう』
 ショックだった。お金まで盗んだと疑われたことが。しかし、ばれてはいないが、薬草を盗ったのは間違いない。
 ルシャデールと口をきいたら、屋敷を出されてしまう。だから、ドルメンに行く時もこそこそとした態度になってしまった。彼女には、執事に呼び出されたことは話したくなかった。話せば、ルシャデールは執事に怒りをぶつけるだろう。アニスをかばってくれるとわかっているが、彼女の立場がさらに悪くなる。
 それにアニスもお屋敷を辞めたくなかった。

 部屋の戸を叩く音がした。
「デナンさん……どうしたんですか?」
「ナランやビエンディクにも聞かれただろうが、御寮様の行先に心当たりはないか?」
 アニスは首を振った。
「行ってみたいところがあるとか、カームニルに帰りたいといったことは?」
「何も……おっしゃっていません」
 そうか、と彼は出て行こうとして立ち止まった。
「アニサード」デナンは振返り言った。「揺らぐな。周りのことばかり気にすると、真実が見えなくなる。他人のそしりを受けても、自分が正しいと思ったことは信じろ」
 それだけ言ってデナンは立ち去った。
(デナンさんは知ってるのかもしれない。僕がクランに脅されていることや、……もちろん、執事さんに厳しく叱られたことも。正しいと思ったことは信じろ、か。カズックも似たようなこと言っていた。そうだ!)
「カズック!」
 神様なら御寮様の居場所がわかるに違いない。
 
「カズック」
アニスは西廊棟の廊下を小さな声で呼んで歩く。
「呼んだか?」壁から彼は出てきた。
「御寮様を探さなきゃ」
「おまえの部屋で話そう。ここはまずい」
かわいがられている『キツネちゃん』とはいえ、飼い犬ではない。屋内をうろつくわけにはいかなかった。
「帰りたくなったら,帰ってくるさ。あいつは動物の帰巣本能に近い方向感覚を持っている」
 アニスのベッドで気持ちよさそうに寝そべり、カズックはあくびしながら言った。
「そうかもしれないけど、このままだと、御寮様の立場が悪くなる」
カズックはくいっと、顔を巡らせて振り向いた。
「それを心配してくれるか、坊や? 立場なんてあいつにはアリの死骸ほどの価値もないのに」
「御寮様がもうここにいたくないと言うなら別だけど……そうでないなら、気分よく暮らした方がいいよ。そういうことは大事だと思う」
「あいつは無理してアビュー家にいたいとは思ってないぞ。あいつが欲しいものは、おまえが欲しいものと一緒だ」
「何?」
「鈍いな。それじゃ侍従は務まらんぞ」
 アニスは嫌そうな顔をした。最近、時々言われるのだ。嫌がらせに近いからかいのキーワードとしてだが。
「僕なんかに務まるはずないじゃないか」
「まあいい、とにかく行ってみよう。あいつが何て言うか知らないが。北だな。丘陵地帯だ」
 カズックは起き上がった。

 ピスカージェンの北方に広がる丘陵地帯には、人家はほとんどない。羊や馬を放牧させる時の牧人の小屋がたまにあるが、夜は無人だ。雨降りの今夜は真っ暗闇だ。
 アニスは後ろを振返った。アビュー屋敷やその先のピスカージェンの街の灯りが、雨でおぼろに浮き上がっている。先の方へ様子を見に行ったままカズックは戻らない。
 ランタンを掲げてみるが、照らすのは彼の周囲だけで、その先には全き闇が広がる。カズックの姿はもちろん見えない。ろう引きのマントは強い雨に、あまり用をなさず、ただ重いだけだ。
「カズック」
 応えがない。少し遠くまで行ったのだろうか。
 暗闇にぎゅっと締め付けられるようだ。心細い。握りしめた両手を胸に当て、動くこともできなかった。背後から、何かが迫ってくるような気がする。何か恐ろしいもの。けむくじゃらの化け物とかじゃない。
 その時、闇からカズックが姿を現した。アニスはほっと息をつく。
「もう少し向こうだな」
 どっちの向こうだかわからないが、アニスは犬についていく。
「ねえ、カズック」
「何だ?」
「闇の中って、どうして怖いんだろう」
「素に戻るからじゃないか?」
「す?」
「闇の中ってのは、自分しかないんだ。他に誰かいても、何かあっても見えない。見えないってことは、ないことと同じになる。自分を作っていたあらゆるものが取り払われていくんだ。名前、生まれ、職業、身分、友人、知人、性別、年齢、好きなこと、嫌いなこと。身を守ってくれたものもなくなって、残るのはちっぽけな自分だ。だから、たいがいの人間は素の自分となんか向き合いたくないのさ。そうだろう?丸裸なんだ。しかも、丸裸になった時に、心の奥底にがっちりと封じ込めておいたものが噴き出してくる」
「御寮様もそうなのかな? 不安になっているんだろうか?」
「あいつは違うな。あいつは闇の中でこそ自分を感じている。あいつは他の人間と仲よくつきあうなんてこと、してこなかった。実の母親にさえ、振り向いてもらえなかったからな。だから、素のままだ。そのことに不安も何も感じない。むしろ、今のように大勢の人の中にいる方が孤独を感じて、混乱しているかもしれないな。自分の今の立場で、どうすれば周囲や社会に認めてもらえるかなんて、あいつには理解の範囲を超えているだろうよ」
 ばさっと、音がしてカズックは止まった。アニスが転んだのだ。ランタンの灯りが消えた。
「大丈夫か?」
「うん、何かにつまづいた。うわあ!」
「どうした?」
 アニスが答える前に呻き声がした。
「痛い。どけて……。」
 ルシャデールだった。
 カズックはひと吠えして灯りを宙に浮かべる。青い鬼火はゆるゆらと漂い、のろのろと体を起こすアニスと、その下敷きになって顔をゆがめるルシャデールをほのかに映し出した。
「この不良娘、屋敷中が大騒ぎだぞ」
「トリスタンは?」
 ようやく体を起こしたが、ルシャデールは立とうとはしなかった。全身ずぶ濡れだ。顔色も青い。
「お屋敷に戻っています」アニスが答えた。「帰りましょう、御寮様」
 深く息をつき、彼女は濡れて額に張りついた髪をかきあげる。何かここにはないものを見ているような虚ろな目をしていた。
「風邪をひきます」
 ルシャデールは答えない。
「みんな心配しています」
 ルシャデールは乾いた笑みを浮かべる。
「はは……。『アビュー家の御寮様』だからね」
 ただのルシャデールだったら、誰も雨の中探したりしない。彼女はそう言っているのだ。アニスの脳裏に、暗い海を飛ぶ鵺鳥の姿がよぎる。
「あなたが御寮様でなくても、こんな雨の中にいるとわかってたら、誰だって心配します」
「一時の同情や哀れみならいらない。身過ぎ世過ぎのうわべだけの心配も」
 きっと、さっきのことを言っているんだ。『わきまえる、わきまえない』の話だ。アニスはどう答えていいものか、考え込んだ。ドルメンでのことを。
「御寮様……」
 先ほどの自分の態度にルシャデールが傷ついたのはわかるが、だからと言ってどうすればいいか、アニスにはわからない。
「頻伽鳥が来た夜に、御寮様は僕に何をしてほしいかと、たずねたけど、御寮様はどうだったんです? 何が欲しかったんですか?」
「……誰かの一番になりたかった。アビュー家の養女だからじゃなく、ユフェレンだからでもなく。誰かにおまえが一番大切だって言って欲しかった」
(父さんや母さんは、きっと僕を一番と思ってくれてるだろう。御寮様のお母さんはきっと違ったんだ。一番にはしてくれなかった……。御前様は?)
 アニスはユジュルクの家で見た女性と子供を思い出す。
(先着順なら向こうかな?)
「僕……一緒に探してあげることならできるかもしれません。御寮様を世界で一番好きだって言ってくれる人を。それじゃだめですか?」
 ルシャデールはけだるそうにアニスを見つめていたが、
「わかった」と一言答えた。
 アニスは手を差し出した。
「帰りましょう」
 ルシャデールはその手をつかもうと手を伸ばしかけ、横に倒れた。
「……起きれない」 
 熱が出ているようだった。
「坊や、おまえおぶってやれ。俺が負わせてやるからしゃがめ」
 アニスはカズックの言うとおりにした。犬の前足で、どうやったのかわからないが、彼はルシャデールをうまくアニスの背中に負わせた。
 ルシャデールは思ったより軽かった。下り坂で足がとられ、三、四回ほど前のめりになって転んでしまったが、ケガはなかった。
 屋敷の門の近くまで来て、カズックが二人に言った。
「さ、ここからは俺は手助けできない。がんばれよ」
 えええー! 心の中でうめくアニスだったが、溜息一つついて、覚悟を決めて進んだ。心の中のもう一人のアニスがそれを制し、背中を押した。さらに門の中へ入って行くと、二人を見た門番が驚き慌てて屋敷の中へ連れて行った。
 熱があるルシャデールはすぐに部屋へ連れて行かれた。残ったアニスは、執事と家事頭に不審な目を向けられ、すくむ思いだった。彼もびしょ濡れということもあり、解放されたが、明日、執事の部屋に呼ばれることとなった。
 
「やれやれ」
 自分の部屋にもどったアニスは溜息をついた。
「一緒に探すって言ってしまったけど、実際にどうすればいいんだろう……」
 でも、海に落ちそうな鵺鳥に手を差し伸べずにはいられなかった。それが、彼女の嫌がる同情や哀れみだとしても。
「それだけでも上出来だ」
 いつの間にかカズックがいた。
「うん」濡れた服を着替えながら、アニスはうなずいた。
「おまえも冷えたろう。一緒に寝てやるよ」
 一緒に雨の中を歩いたはずなのに、彼の体毛は日向ぼっこでもしていたかのように、ふかふかに乾いている。
「お日様の匂いだ」
「蹴飛ばすなよ」
 犬の体温で暖められ、アニスは風邪をひかずにすみそうだった。
「ねえ、カズック……」
「何だ? さっさと寝ろ」
「御寮様は寂しくないのかな?」
「おまえと同じだ」
「カズックは寂しくない? 御寮様や僕や知っている人が死んでしまっても? だって、たとえ僕らが生まれ変わるとしても、その時にはカズックのこと覚えていないんだよ」
「あのな……」
 低く深みある声音だった。カズックが普段はあまり見せない『神』の一面だ。
「覚えてないとしても、それは表面的なものだ」
「そうなの?」
「心のずっと奥深いところでは、覚えている。俺はその部分と会話することができるから、少しも寂しいことはない。誰でも、心の奥ではすべての魂とつながっている。孤独とかいうのは、単なる思い込みだぞ。くだらんこと言ってないで、寝ろ!」

第八章 ミルテの枝

    

 翌朝、水汲みをしているアニスのところにトリスタンが顔を出した。もうすでに斎宮院に出仕するための礼服を身につけている。厚地の生地で仕立てられ、裾に銀糸の刺繍が入ったものだ。重そうな上に暑そうだ。
 普段ならこんな早くに出仕することはないが、祭りが近いので忙しいのだろう。
「御前様……おはようございます」
 西廊には滅多に顔を出さない主人の訪れに、アニスは少し驚いた。トリスタンはちょっといいかな、と井戸端から少し離れた方へ彼を呼び寄せた。
「昨夜、君がルシャデールを見つけた時、彼女は何か言ってたかい?」
 アニスはトリスタンを見ながら、考え込んだ。
「えっ……と、お迎えに行った時、僕はみんな心配していますって言ったら、どうでもいいよ、って仰っていました。御寮様は、もし自分がアビュー家の養女でなかったら誰も心配なんかしないと、仰られて。」
 トリスタンは眉をひそめた。その時、イェニソール・デナンが現れた。
「御前様、こちらでございましたか」
 トリスタンは侍従にちょっと待て、と言うように手の平を向けて押しとどめた。
「それで?」
「誰かに自分のことを一番に考えてくれる人が欲しいんです。でも、御前様はそんな風に考えてくれていない、と御寮様は思っています」
「一番か……言ってやるのは簡単だ。だけど、あの子は嘘を見抜く。嘘を言ったら、その後は二度と信じてもらえないだろうな」
 トリスタンは独り言のようにつぶやいた。
「一番でなくてもいいから、大切なら大切だと言ってあげてください」
「うん、そうだね」
「御寮様は投げやりというか、どうでもいいような感じでした」
「それでも、屋敷に戻ってくれたんだ」
「はい」
「その他には?」
「その後は、だいぶ具合が悪くなっていて。動けなかったようでしたので、カズ……いえ、一人で負ぶってきました」
「君はすぐに彼女がどこにいるかわかったんだね?」
「え……それは……」
カズックのことは言っていいのか判断がつかなかった。
「他の人の秘密に関わることなので……ごめんなさい、僕の口からは言えません。御寮様にお聞きになってください。御寮様はよくなられたんですか?」
「うん、まだ眠っているが、熱は下がったよ。……君はルシャデールのことを大事に思ってくれているんだね」
「はい」アニスはにっこり笑って答える。「御寮様は……本当は優しい方だと思います。ただ、きっと、怖いんです。また、見捨てられてしまうんじゃないかと……。それに、自分の気持ちをうまく言えなくて。本当はとても寂しいんだと思います」
「ありがとう、アニス。それから、執事の部屋には行かなくていいよ。私が直接聞くと言ったからね。事情聴取はなしだ」
 アニスの顔がぱあっと(ほころ)んだ。朝からそれが心配で落ち着かなかったのだ。ありがとうございます、と頭を下げて、正門へ向かう主人を見送った。

「いい子だ」正門へ歩きながらトリスタンは言った。
「はい」侍従がうなずく。
「ルシャデールにも近いうちに侍従を決めてやらねばならない」
「……彼をと、お考えですか?」
「うん」
「アニサードは多少、心根の弱いところがございます」
「わかっている。侍従は辛い役目だ。見た目はいいが、何を置いても主人大事。主人のために泥をかぶり、非難を受けることもある。犠牲にしなければならないことも多い。そうだろう?」
 デナンは答えなかった。
「主人の方もそれを理解していなければならない。主人と侍従、互いの間に信頼がなければやっていけない。しかし、ルシャデールが信頼できる者となると、そう多くはないだろう。あの子は人の心を見抜く。だから、むしろ純な子の方がいい。強さはあとで身についていく。そう思わないか?」
 トリスタンの言葉に、侍従は黙ってうなずいた。
 
 ルシャデールはベッドの上に起き上がっていた。
トリスタンの手当で熱はすっかり下がっていたし、少しだるさは残っているものの頭もすっきりしていた。
 一晩中ついていてくれたソニヤは朝から元気に、彼女の世話を焼いている。体を拭き、寝具を取り換え、今はルシャデールの食事を取りに厨房へ行っていた。
 ルシャデールはそっとベッドから出て、窓に寄った。夕べの雨はすっかり上がり、きれいに晴れあがっていた。アニスが庭の水盤のところにいた。足元に木桶が二つある。水盤の水を取り換えるのだろう。
 雨の中、彼は迎えに来てくれた。本当は待っていた。アニスでなくても、誰でもいい、探し出してくれるのを。
(私を一番にしてくれる人を一緒に探してくれるって言ったけど……一緒に探すってどういうことをしてくれるつもりだろ? いや、あいつもわかってないかもしれない)
 わかってないけど、何かしてくれようとしている。それが、うれしくて、おかしくて、ルシャデールの口に笑みが浮かぶ。
 その時、アニスが振り向いた。よくなったんですね、と言うように、笑ってルシャデールに向かって小さく手を振る。彼女も振り返す。
 立場をわきまえなければならない、と彼は言っていた。そういうものかもしれない。王子と乞食が友達とは聞いたことがない。王子と乞食は友達になれないのか?
トリスタンと話さなきゃならない。ルシャデールはそう思った。開かない扉の前で、駄々をこねる幼児のようなまねをするのは、そろそろ終わりにしよう。鍵をくれと、言うだけでも言ってみよう。
「あら、ベッドから出て大丈夫ですか?」
 ソニヤが戻って来た。彼女の後ろに二人の従僕が食事を運んできていた。彼らは居間の方に手早く、食事の用意をする。ルシャデールはガウンを羽織り、食卓の前に座る。今日はトルハナではなく、そば粥があった。ミルクとはちみつ入りだ。それを彼女はゆっくりと味わって食べる。
「トリスタンは?」
「今日はドルメテ祭の準備で早くから、斎宮院にお出かけです。先ほど屋敷を出られたかと思いますわ。」
「帰るのはいつ?」
「ドルメテまであと三日ですから、終わるまでお帰りにならないかもしれませんね。」
 そう、と答えて、ルシャデールはオレンジジュースに手を伸ばす。
「ラーサ師は?」
「今日はいらっしゃいません。御寮様のお加減が悪いと伝えてあります」
「それなら、ソニヤ、私はご飯の後しばらく横になっているから、おまえも少し休んでいいよ。夕べ、ほとんど寝てないんだよね?」
 ソニヤは驚いて大きく目を見開いた。それから「大丈夫ですよ」と、うれしそうに微笑んだ。ルシャデールがそういう気遣いを見せるのは初めてだった。
食後は再びベッドに入る。部屋の中は静かだった。
 遠く街の方から、ハカリという弦楽器を奏でる音が聞こえる。祭りのために楽師や芝居の一座がたくさん来ているという。暖かな風が開けた窓から吹き込んでくる。
 気持いいな。ユフェリみたいだ。ルシャデールは思った。
昨夜、ソニヤはルシャデールのそばで手を握っていてくれた。ときどき、額に乗せた濡らした手ぬぐいを取り換えていたのも覚えている。
 母にそういうことをしてほしかった。かまってほしくて、わざと風邪を引いて熱を出したこともあった。ベッドの近くで吐いてしまって、ひどくぶたれたのを思い出す。そして、吐いたものを自分で始末しなければならなかった。それからだったろうか、母には何も求めないようになったのは。
 ルシャデールの胸の中奥深く、その頃の小さな彼女がまだ泣いている。ずっと無視してきたのだが。
 突然、そばでポンと音がして、振り返ると花守のミディヤがいた。木の葉の姿で立っている。
「なあにぃ、泣いてるの?」
 ミディヤはルシャデールの目じりに濡れた跡を見つけて言った。
「泣いてないよ。あくびが出たときに涙がでたの!」
 あわてて目をこする。
「何の用?」
「アニスからよ、はい、これ」
 ミディヤが差し出したのはミルテの枝だった。
「何、これは?」
「アニスがあたしに頼んできたの。いちばんきれいな花を持って行ってあげてって」
 しかし、枝には葉ばかりで花も花芽も見えない。
「花なんかついてないよ」
「いやねえ、風流がわからない人は」ミディヤは軽蔑したようにルシャデールを見た。「わからない?これから花の芽が出てくる枝なのよ」
 そう言われると、肉眼にはとらえられないが、枝の付け根にところどころに光る部分があった。ミディヤは誇らしげに言った。
「『咲けなかった花が一番美しい』のよ」
「何、ことわざ?」
「そう、あたしが今作ったの。それに、ミルテは祝福の花よ。」
ルシャデールは受け取り、礼を言った。
「そうだ、庭に戻ったらアニスに伝えて。『予定通り、ドルメテの中日』って」
「えーっ、あたし使い走りじゃないのよぉ」
 カズックと同じことを言う、とルシャデールは思った。しかし、カズックと違ってミディヤは下手に出た方がよさそうだ。
「かわいいミディヤ、お願い」
「わかった。ついでに言っとくわ。下品でぶっきらぼうでひねくれ者の御寮様が人恋しくて泣いていたって」
「そんなこと言わなくていい!」
 思わずベッドから飛び起きるが、花守はぴょんぴょんと跳ねて窓から出て行った。
 だから精霊は嫌だ。つぶやきながらルシャデールはベッドに戻った。きっと、アニスは咲いている花の中で一番きれいな花を、と考えてミディヤに頼んだに違いない。精霊の考えることは変にずれていることも多い。その一方で要点をぐっさり突いてくる。
「咲けなかった花が一番美しい」
 ルシャデールはつぶやいた。折られた枝に出てくるはずだった花は、もう芽を出すこともなく終わるのだろう。彼女は白い花びらを覆うようにたくさんの白い雄しべを広げる、繊細な花を思い浮かべる。
 ルシャデールは枕元のコップに水差しの水を注ぐと、ミルテの枝をさした。根がつけばいいなと思いつつ。
〈ありがとう、アニス、ミディヤ〉
 布団に入ると、彼女はもう一度眠りについた。

「枝?」
 アニスはほうきの手を止めた。午後からは庭に二十五軒もある四阿(あずまや)の掃除だった。散らばっていた枯葉はひとところに集められ、白大理石の床に山盛りになっている。
「そうよ、ミルテの枝。まだ花の芽が出てきてない枝よ。『まだ咲いてない花が一番美しい』そうでしょ?」
 ミディヤはルシャデールに言ったのとは少し違うことをアニスに言った。今の彼女は十二、三歳くらいの女の子の姿をしている。くるくるとカールした金髪に小生意気(こなまいき)そうな青い瞳だ。
「何、それ? 花はついてなかったの?」
「ええ、一個も。素敵でしょ?」
「あ……あ」
 まあ、いいや。きっと気持ちは伝わったはずだから。
「それから伝言よ。予定通り、ドルメテの中日に、って」
 何のことかはすぐにわかった。このところ御寮様の機嫌が悪く、その話は半ば捨て置かれたようになっていた。
「あたしは伝令じゃないのよ。お礼は?」
「お礼? ありがとう」
「馬鹿じゃないの、あなた! あたしみたいにかわいい女の子に、男の子がするお礼と言ったら、ほっぺにチュッ、しかないじゃない!」
「えーっ?」
 思いっきり嫌な顔をしてしまったのだろう。ミディヤは頬を膨らませ、顔を赤くして
「あなたなんか嫌い!」と叫んで消えた。次の瞬間、大きなつむじ風が四阿を巻くように荒れる。おさまったあと、アニスが掃き集めた枯葉はすっかり散らばっていた。
「あーあ……」
 自分の不調法をほんの少し後悔したが、やっぱり掃除をやり直す方がいいや、と思い、再び掃き始めた。その時、ふたたびミディヤの声が耳元で聞こえた。姿は見えない。
「そういえば、彼女泣いていたわ。」
「え? なんで?」
「知らない」
 それきりだった。
 何か、辛いことを思い出したのだろうか。アニスは昔、父とした話を思い出した。それは、どこかへ出かけた帰り、夜道を歩きながらした話だった。
『昔、森に一羽の鵺鳥(ぬえどり)が住んでいた。食べ物も多く平和な森だったが、ある日、嵐が森を襲ったんだ。とてつもなく大きな嵐で、激しい風に森の木々はごうごうとうなり、根こそぎ倒れてしまいそうなくらいだった。鵺鳥はねぐらに帰ろうとしているところを、嵐に巻き込まれてしまった。強い風にほんろうされ、羽ばたくこともままならず、何時間も鵺鳥は嵐の中にいた。そして、嵐が去った時に、鵺鳥は広い海の真ん中にいたんだ』
『海ってなあに、父さん?』
『そうか、おまえはまだ見たことがなかったな。ケレン湖へ去年行ったろう?あの湖をもっともっと広くしたようなものかな。東の果てから西の果てまで、ずっと大きくて深い水たまり、とでも言えばいいかな。そうだ、エルパク山に登ったとき、頂上から雲海が見えただろう?』
『うん、一面に雲が広がっていた。すごかった』
『あの雲が全部水になったような感じかな。ところどころ雲の間から山の頂上が突き出ていただろう、ああいうふうに、海にも小さな陸地があったりするんだ。さあ、話の続きだ。どこまで話したかな?』
『鵺鳥が海の真ん中にいた、ってところだよ』
『そうだ。鵺鳥がいたのは果てのない海の上だった。西も東も北も南も陸地どころか島の影一つ見えない。だけど、鵺鳥はもといた森に帰りたかった。だから、何日も何日も飛び続けた。昼も夜も。だけど、陸地は見つからない。鵺鳥はもう力が尽きかけていた。それでも夜の闇の中、星ひとつ出ていない空の下を飛び続けるんだ、ヒョーヒョーとか細い声で鳴きながら。森を探して』
『それで父さん、鵺鳥はどうなっちゃうの?』
『どうなるかな?』
『……海に落ちて死んじゃうよ。かわいそうだ』
『おまえが神様の手を持っていたとしたら、どうする? さあ、アニサード・イスファハンは神様になった。何でもできるぞ。何をする?』
『そしたらね、……島を作ってあげるんだ。そうだ、そして木をたくさん植える。森を作るんだ。元いたような森を。そうすれば鵺鳥は羽を休めることができるよ』
『いいぞ、アニス。それじゃ、鵺鳥は島に来て、大きな木の枝に止まった。でも、誰もいない島だ。鵺鳥は寂しくなった。また海を飛んで探しに行こうかと思うようになるんだ』
『じゃあ、また同じことになっちゃう』
『果てのない旅だね』
『誰か連れて来るよ。僕は神様だから、誰かどこからか連れてくる』
『おやおや、その誰かさんは突然神様に連れて来られてしまうのかい? 親や兄弟や友達と別れて?』
『ダメかな? じゃあ、じゃあ……僕がその島に住む! そして鵺鳥と友達になるんだ。そうすれば、鵺鳥は寂しくないね?』
『ああ、きっとそうだね。そして鵺鳥は幸せに暮らしました、おしまい』
 そこで家の灯りが見えてきて、父さんと競争したんだった。エルドナが生まれて少し経った頃だった。
「よっ、なにぼんやりしてるんだ!」
 いきなり後ろから背中を叩かれた。アニスの思いは破られた。シャムだった。苗の入った籠を肩に担いでいる。
「痛いよ」
「さっさとやんねえと、二十五軒終わんねえぞ」
 はっぱをかけてシャムは、薬草園へ走っていった。再び、アニスは鵺鳥に思いを巡らす。ルシャデールという名の鵺鳥に。
 先日、執事に言われたことは忘れていなかった。あの時はショックだったが、よく考えてみると、誰かの悪意があるような気がした。誰かとはもちろん言うまでもない。アニスは唇をかむ。
 お屋敷を追い出されたっていい。僕は正しいと思った方へ行く!
 
「おい、起きろ! 起きろったら、起きろ!」
「うーん、うるさい」
「何を言う、起こせと言ったのはおまえだぞ」
 カズックの声にゆっくりと目をあける。室内は暗さがやわらぎ、外は青い大気に包まれている。まだ夜明け前だ。ルシャデールははっと気がついた。トリスタンに会わなければならない。がば、と起き上がる。
 養父と話をしなければと思ったのは三日前だったが、話す機会がなかった。例年ならば祭りの一週間ぐらい前から帰宅しないのだが、今年は深夜になっても連日帰宅しているという。先だっての失踪騒ぎで、ルシャデールのことを気にかけているらしい。ただ、出仕が早朝のため、彼女が朝起きた時にはすでに屋敷にはおらず、実質的にはいないのと同じだった。
 顔を洗って、服を着て、髪をとかし、御浄衣処(ごじょういどころ)へ向かう。
アビュー家の屋敷は神和師の住まいとして、通常の貴族の屋敷にはない施設がある。舞楽堂、御浄衣処、御定処(ごじょうどころ)御禊処(おみそぎどころ)の四つである。一階の表廊下を東に行くと隣の大寺院へ通じる渡り廊下に出る。渡り廊下は途中で分かれており、右へ行くとそれらの四施設へ繋がっていた。
 手前から禊をする御禊処、祭事用の衣服に着替える御浄衣処、静かに瞑想をする御定処、そして奉納舞踊の修練を行う舞楽堂が並んでいる。
 トリスタンは御浄衣処で結髪の最中だった。
 何と言って声をかけていいものか迷って入口に立っていると、イェニソール・デナンが気がついた。
「おはようございます、御寮様」
「おはよう」
「おはよう、ルシャデール。今朝は早いんだね」
 結髪しているトリスタンは振り向かず、目線だけ彼女に投げかける。
「忙しいだろうけど、ちょっといい?」
「もちろん。支度にはもうしばらく時間がかかる」
 トリスタンはまだ祭事用の長衣を着ていなかった。ルシャデールは部屋の隅に座った。支度するのを見ているのも面白かった。トリスタンの髪は柄の長い筋立ての櫛でいくつかの部分に分けられ、左右に三分の一残し、頭頂部に結い上げられる。デナンの持つ櫛ですいすいとトリスタンの髪が結われ、形作っていく。ルシャデールは不思議なものをみるようにそれを見つめていた。
「そのために髪を伸ばしていたんだ」
「そうだよ。髪も装具の一つなんだ。似合う、似合わないにかかわらずね。」
 ルシャデールはいつもと違う養父の姿をじっと見る。端正な顔立ちだと思う。神和師でなければ、あちこちの女性から好意を集めたに違いない。
「何か話があったんじゃないのかい?」
 黙っているルシャデールに、トリスタンの方から問いかける。
「うーん……やっぱりいい。何を話すか忘れた。」
 召使のアニスと『御寮様』のルシャデールとでは身分が違うから、親しく話したりできないのがつまらない。何とかしてほしいと、言いたかった。だが、何とかしてもらったとしても、ますますアニスを困らせることになるかもしれない。
(アニスのことじゃない、言わなきゃならないのは)
 そう思ったが言いだせず、それより髪が結われていく様がなかなか面白い。
「見てていい?」
「もちろん」
 頭頂部に作られた瓜型の結はアーモンドオイルと蜜蠟で作られたワックスで固められた。結の根元は銀色のリボンできつく縛られ、余ったリボンは後ろに垂らす。次に結のまわりにヒスイや銀、アベンチュリンなどの石がついた髪飾りをつけていく。
 耳にはトルコ石を飾る。左腕に銀の太いブレスレット。細かな細工がしてある。装飾品を身につけていくと、天上から降りてきた神のようだ。しかし、神よりももっと、温かい血の流れを感じる。
(うん、いいな)
 心の中でつぶやく。そして最初の問いが彼女に降りて来る。さりげなく、辛辣な問いを発する。
「あなたにとって、私は何なの?」
 トリスタンは深く息を吸い、少女を見る。跡継ぎの養女。そんな答えは求められていない。家族……にはなりきれていない。
 返ってこない応えにルシャデールの方が口を開く。
「私にとって、あなたは家主みたいなものだと思う。親子ではないし、家族でもない。たぶん、あなたもそうでしょ? あなたの家族は向こうの人たちだ」
 薔薇園の中の一つの家族。ルシャデールは幸せそうなその姿をくっきりと思い出すことができる。愛し合っている男と女がいて、その間に生まれた子供がいる。祝福された子供だ。彼女には手の届かない世界だった。
「確かに、あの二人は私の家族だし、君とはまだ、そういう風にはなれていない。跡取りということがなければ、養女に迎えることはなかった。それも事実だ。だからといって、 今、現実にここにいる君のことをおろそかに考えているわけじゃない」
 養父も悩んでいるのは、ルシャデールにもわかる。彼自身も幼い頃に、アビュー家に連れて来られた。神和師になることが、何を意味するかも理解せぬままに。
最愛の女性と実の子は、世間に公表できない。表むきは他の男のものになっている。跡継ぎの養子とは、親子にもなれず、といって他のものにもなれない。
「どうして血がつながらないのに、私たちは親子にならなきゃならないんだろう? 親子って何だろう?」ルシャデールは誰に、というわけでもなくつぶやく。
 トリスタンは重苦しそうに目を伏せた。それから再びルシャデールに眼差しを戻した。
「君はどうしたい? ここを出て行きたいとでも?」
 ルシャデールは首を横に振った。
「それも悪くないかな。辻占いのルシャデールに戻るだけだから。でも、今はまだ出て行かない。あなたがこんなひねくれた娘は、すぐ出て行って欲しいと言うなら別だけど……」
「そんなことは考えていない」
 情けない気分に侵されて、トリスタンの顔はしだいにうつむきがちになっていく。
「御前様、顔を上げてください」
 トルコ石のピアスをつけようとしていた侍従が声をかける。その声にトリスタンは頭を上げた。
「あなたが悪いわけじゃない」
 ルシャデールは立ち上がった。
「いつだったかアニスに言われた。『御前様のような方がお父様ででいいですね』って。でも、私みたいなのが跡継ぎでよかったなんて、誰もあなたに言わない」
そう言って彼女は御浄衣処から出ようとした。トリスタンがやにわに立ちあがり、腕を抑える。そのはずみで、装飾品を乗せていた盆が飛んで、床にヒスイや水晶が散らばった。
「そんなことはない。……誰も言わないとしても、私がそう思っている」
「ありがとう。優しいね」ルシャデールはふっと口もとをほころばす。
(でも、わかってしまうんだ。あなたが心底そう思っているわけじゃないって)
 彼女は養父の手を柔らかくふりほどく。
「御寮様」デナンが呼びとめた。床の石を拾う手を止め、ルシャデールを見つめていた。「時間をかけてください。御寮様にとって、アビュー家での生活は居心地のいいものではないかもしれません。ここを出ることを含めて、その選択はあなた様のものです。しかし、神和師の継嗣に選ばれた者は、人にない稀有の才を持つのです。それは有効に使っていただきたいのです。御寮様のご器量ならばお一人になられても、それはおできになると思います。ですが、アビュー家にいてこそ、できることもあるのです。あなたの手を待つ人がいます。それをお忘れなさいませぬように」
 そう言って、デナンはルシャデールに頭をさげた。
「差し出たことを申しました。御無礼お許し下さい」
 彼女は首を振り「ありがとう」と言い置いて出て行った
 空が白んできた。隣の寺院から礼拝を知らせるシルクシュの音が聞こえる。
 アビュー家を出て行くことは、今までまったく考えていなかった。トリスタンに言われて、その道もあったかと気づいた。ここ、ピスカージェンでも、近郊の少し大きい街でもいい。以前のように辻占いをしてだったら、ギリギリの生活でもできるだろう。カズックも一緒に来てくれれば、それほど寂しくない……だろうか?  
 以前ならカズックがいてくれれば十分だった。でも、今は……。
 本棟へ戻ったルシャデールは、もうひと寝入りしようかと階段の近くに来て、玄関のドアが開いているのに気づいた。アニスが玄関前を掃除している。
「おはようございます、御寮様」
「早いね」
「はい、御前様のお出かけ前には、玄関掃除を済ませなければなりませんから」
「アニス、もし私がこの家を出て、街で辻占いをするようになって、乞食とあまり変わらなくなっても、おまえなら会えば声をかけてくれるよね?」
 家を出ると聞いて、アニスは心配そうに眉を寄せる。
「もちろんです」
 その時、二頭の馬を連れた厩番のギュルップと、荷馬を連れたエンサルがやってきた。荷馬には大きな黒い衣装箱が二つ括りつけられている。二人とも普段より上等の服を着ていた。見送りの執事が彼はルシャデールに気づき挨拶をする。
「御寮様もお見送りですか?」
「うん」
 トリスタンは悲しげな瞳をルシャデールに向け、屋敷を出た。祭りが終わって帰って来た時には、彼女はいないのではと、不安に感じているのかもしれない。
 部屋へ戻ろうとしたルシャデールをアニスが止めた。 
「御寮様、手を出してください」
「何?」
 ルシャデールは言われたままに手を差し出す。アニスはその手を自分の両手ではさむようにしてポンポンと二回軽くたたく。
「前にもしたけど、これは何?」
「元気になるおまじないです」彼はにっこりと笑い、励ますようにつけ加えた。「逃げちゃだめです」
 そう言ってアニスは一礼すると、今度は水汲みのために西廊の方へ走っていった。知らず知らずのうちに、暖かい思いが込み上げてきた。

 トリスタンは祭りの間、屋敷に戻らないようだった。時折、着替えなどの荷を届けに従僕が斎宮院と屋敷を往復している。主人のいない屋敷は静かだ。施療所を訪れる病人も普段の半分以下らしい。
「御前様が案じていらっしゃいましたよ」従僕頭のハランが本祭りの朝に言った。「明日の朝また着替えをお届けに参りますが、何かお伝えすることはございますか?」
 特に何も、ルシャデールはそう答えた。同居人と言ってしまった相手に何を言えばいいのか。しおらしいことを言っても嘘くさいだけだ。
 正午前からカズックがドルメンで煎じ薬を作り始めた。昼食後にルシャデールも行ってみると、狼男のような姿のカズックがいた。
「また今日は一段と男前だね」
「さすがにおまえは驚かないな」振り向きざまに彼は言った。「坊やは『ひえええっ!』ってひっくり返ったぞ」
 カズックは携帯こんろにかけた土瓶に向かって胡坐をかいている。人間の大人ぐらいに手足が長くなっているが、顔と体毛はそのままだ。アニスが狼男と思って怯えたのも無理はない。
「いつもの格好じゃ火を(おこ)したり、土瓶を持つのには不向きでな」
 確かに、肉球のついたあの前足では無理だろう。
「俺のメシはどうなった?」
 後でアニスが持ってくるよ、ルシャデールはそう答えた。厨房の使用人に頼むには、彼女よりアニスの方がスムーズに運ぶ。
 しばらくして、アニスがやってきた。左腕に薬草摘みの籠を持ち、右手には少し割れ目の入った木製のボウルを持っている。カズックの姿に、顔が少しひきつっている。
「ごはん、持って来たよ。カズック」
「おお、ありがとうよ」身をひと振るいすると、いつもの狐犬が現れた。がつがつと餌に食いつき、あっと言う間にボウルは空になる。
「そういや、おまえがいたネズルカヤ山地は狼男の伝説があったな」
「うん。悪いことをすると狼男が来て連れて行かれるよって言われた」
「ふん、あれも大昔は荒ぶる神の一人だったが、いつの間にか化け物にされてしまったな」
 煎じ薬ができるまで、まだまだ時間がかかる。
「御寮様……このお屋敷を出て行かれるんですか?」
 けさ彼女が言ったことを気にしているらしい。
「うん、いや……出て行かないよ、たぶん」
「よかった」
 アニスはそのまま薬草摘みに出て行った。

 その晩、アニスはそっと西廊の屋根裏部屋を抜け出した。
 酒を飲みながらサイコロ賭博に興じているギュルップの部屋のそばを通りぬける。聞こえてくる声から、参加しているのは庭師が二人と従僕が三人くらいだろう。大声で笑っている。
 月は出ていない。真っ暗な中を気をつけて進む。西廊の建物の角でルシャデールが待っていた。二人、手をつないでドルメンへ向かった。
 木の椀に入った煎じ薬は、ランタンの灯りに照らされて、どろっとした深緑色をしている。気持ち悪い色だなと思いながら、ぐいっと、一息に煎じ薬を飲み干す。ルシャデールとカズックが息をこらして見つめている。
 何が起こるんだろう。すると、体が波打つように感じた。ゆらゆら揺れる。すいっと体が軽くなる。寝息が聞こえた。見るともうひとりの自分が岩壁にもたれたまま眠っていた。
(ええーっ! あれは僕? じゃあ、ここにいるのは? やっぱり……僕だよね? 大丈夫かな? このまま離れたら死んじゃうなんてことないのかな?)
 誰かが腕をつかんだ。ぐいっとひっぱられ、あたりの景色が消えた。

 真っ暗な世界だなあ。冥界って本当に(くら)いんだ。
 あたりを見回してアニスは思った。一筋の光もない。しかし、同じ闇でも北丘陵の夜に体験した闇とは違う。気持ち悪くはなかった。もっと柔らかく暖かい。心が自然と開かれていくような安心感に満たされている。母の胎内はこんな感じだったかもしれない。
 御寮様はどこに行ったんだろう、それにカズックも。そう思ったら声が聞こえた。
「……ニ……ス、アニ……ス、アニスったら! 何回も呼ばせるんじゃない!」
 振り向くと、すぐそばにルシャデールがいた。その足元にはカズックもいる。
「ごめんなさい、気がつきませんでした」
 周りはすべて闇なのに二人は見えている。それをあまり不思議とも感じなかった。
「どんな風に見えてる?」ルシャデールがたずねた。
「え?」
「私とカズックは見える?」
 はい、と答えて、質問の意図がわからず、アニスはそのままルシャデールが何か言うのを待った。
「他は?」
「真っ暗です」
 ルシャデールはカズックの方を見た。
「ここはまだ冥界とは言わない。生きた人間の世界と重なっている。門前の道ってところだな。屋敷の上空だ」カズックは説明した。
 闇が少し薄らいだ。灯りがいくつか見える。建物が足のずっと下に見えている。
「あっ!」
 うわあああー! 落ちる! 助けて!
 急速に地上が近づいて来る。激突する直前、がくん、と落下が止まった。アニスの足が強い力で掴まれ、宙ぶらりんになっていた。
「ばーか。落ちないよ」
 バカにした口調でルシャデールが言った。彼女はアニスの足首を握って空中に留まったまま、微塵も揺らがない。カズックが教えてくれる。
「俺たちは魂だけなんだ。肉体を持った状態なら、この高さで支えも台もなければ真っ逆さまに墜落するだろうが。人魂の話を聞いたことあるか」
「うん、死んだ人の魂が青白い炎になって浮いているとかって」
「そうだ、今ああいう状態だ。人魂は浮いていても下に落ちたりしない。ただ、落ちると思うと、落ちてしまうだけだ」
「落ちると思うと落ちる……落ちないと思えば落ちない?」
「その通りだ、坊や」
「腕離すよ」ルシャデールはそう言って、手を離した。アニスはそのまま浮いていた
「すごい……」
 まわりを見てごらんよ、ルシャデールが言った。三人がいるところは屋敷の屋根と同じ高さだ。真下には玄関から門までの石畳が見える。門番小屋の外では門番と庭師がカードゲームに興じている。かたわらには酒の瓶が転がっている。門番が手を叩いて笑っている。金を賭けていたのだろう。庭師がポケットから小銭を取り出して相手に渡していた。
「ユフェリと言っても、見ての通り、この辺はまだカデリと重なっている」カズックがアニスに説明した。
「おれはこっちでおまえたちの体を見ててやるよ。二人で行ってこい」ルシャデールの顔が心細そうなったのを見て、彼はつけ加えた。「おまえは何度も行ってるんだ。坊やをちゃんと案内できるだろう?」
 ルシャデールはうなずいたが、内心は心配だった。
「大丈夫だ」カズックはアニスの方を向いた。ユフェリにはあちこちに案内人がいる。困ったらすぐ助けを求めればいい」
「うん。僕たちの体を頼むね」
 アニスに不安はなかった。
「行くよ」
 ルシャデールはアニスの手を取った。
 ユフェリに向かっていく二人を見送り、カズックはつぶやいた。
「頼んだぞ、坊や……」

第九章 海

「あっ、ガシェムさんのおじいさんだ」
 門前の道を歩いて来る老人を見て、アニスが声をあげた。夜の道を、野菜を積んだ荷馬車をひくロバを連れている。
「ガシェムさんのおじいさんは去年、市場に行く途中で亡くなったんです」
 アニスはガシェムじいさんをじっと見ていた。あまり怖いとは思わなかった。話に聞く幽霊は、恐ろしい目つきで睨むとか、不気味にニタニタ笑っているとか聞くが、じいさんは生きていた時と同じように、ただ黙々と歩いていた。
「死んだことに気づいてないんだ。あんなのいくらでもいるよ。放っとこう」
 ルシャデールは老人の方に背を向けて行こうとする。アニスはあわてて彼女の腕をつかんだ。
「待ってください。ガシェムさんはどうなるんですか?」
「どうなるって……」
 そのままだよ、とルシャデールは面倒くさそうに答えた。アニスは食い下がる。
「天の園に行けずに、ずっとああやってるってことですか?」
「そうだよ。言っとくけど」彼女はアニスの方へ向き直った。「おまえは初めて見るだろうけど、私はそういうのを今まで嫌ってほど、見てきたんだ。いちいちかまってたら、一晩あっという間に過ぎてしまう」
(でも、ずっとあのままなんて、かわいそうだ)
 アニスは恨めしそうにルシャデールを見た。
「そりゃ、ガシェムさんはあのままでも、別に困っていないかもしれないけど。僕は自分の家族が死んだことも気がつかず、土に埋もれて苦しんでるところなんて想像したくないです」
 ルシャデールはため息をついて、じいさんの方へ降りていった。アニスもついて行く。
「じいさん、どこ行くの?」
 ルシャデールは声をかけた。ガシェムじいさんは彼女の方を不審そうに見る。
「おめえさんはどこの子だね? 見たことねえ子だ」
「こんばんは、ガシェムさん」アニスがルシャデールの背中から出た。
「おお、おまえさんはアビュー様んとこの童(わらわ)じゃな」
「うん。どこへ行くの、おじいさん?」
「市場に野菜を納めに行くとこじゃ」
「おじいさん、今は夜だよ。それにおじいさんは……」アニスはちょっと言いよどんだ。
(はっきり言ってしまっていいだろうか? ショック受けないかな?)
 ためらっているうちに、ルシャデールが先に言ってしまった。
「じいさんはとっくに死んでるんだよ」
 それを聞いて、じいさんは大きく目を見開く。
「何を言うんだ、このあまっこは! わしはこの通りぴんぴんしている。どっこも悪くねえ。死んでるなんて、縁起でもねえ」老人は大きな声を出し、元気だと言わんばかりに腕を広げたり閉じたりして見せた。ルシャデールは、小馬鹿にしたようにそれを見やる。
「死んだもんは死んだんだよ」
 じいさんの白いもじゃもじゃ眉が吊り上ったのを見て、アニスがあわててルシャデールを制して前に出た。
「ねえ、おじいさん。おじいさんはいつからここを歩いているの?」
「わしか? けさ、夜明けに礼拝へ行ってから野菜を収穫して、朝飯を食って、それからじゃよ」
「おじいさん、周り見てごらんよ。真っ暗だよ」
 その時、老人は初めてあたりの景色に気がついたようだった。まわりをきょろきょろ見回した
「こりゃなんとした。いつの間に夜になったんじゃ」
「うん、だから、晩御飯食べに帰らなきゃ」
 アニスはルシャデールを見た。どこへ連れて行けばいいのかわからない。
「光を探すんだ」彼女はぼそっと言った。
 光? アニスはきょろきょろ見回し、頭上に月よりも明るい輝きを見出した。
「おじいさんあの光見える?」
 じいさんはアニスの指差す方を見上げた。
「ああ、あの光かね?」
「うん、そっちへ行けば家があるよ。きっとご飯の支度できてるよ」
「そうか、そうか。それじゃまた明日な。おまえさんも早くお屋敷にお帰り。悪い友達と遅くまで遊んでるんじゃないぞ」
 そう言ってガシェムじいさんは、ルシャデールの方をちらりとにらみ、ロバと荷車を連れて光へと向かって行った。
「大丈夫かな? ちゃんと『庭』に行きつけるんだろうか?」
「たぶん。途中、囚われの野にとっつかまらなければ大丈夫だよ」
「囚われの野……?」
 ルシャデールはうなずき、ぷいと背を向けて街の方へ移動する。
 音楽が聞こえる。広場にはケシェクスの踊りの輪が見えた。晴れ着を着た男女が手をとってくるくる回ったり、跳ねたりしている。
「灯りがきれいだ」アニスがつぶやく。
「うん。踊りの輪の上に、精霊が来ているよ」
 よく見ると、確かに青や白、黄色など小さな光の玉が飛び交っている。音楽に合わせるかのように、リズムに乗った動きを見せていた。アニスはルシャデールの方を向き、たずねた。
「一緒に踊ってるの?」
「そうじゃないかな。祭りのように浮かれた気分のところには精霊がよく集まるんだ。でも、あのうち半分は死んだ人間の魂だよ。祭りが懐かしくなって上から降りてきたやつもいれば、上にまだ行けていないやつがふらふらと寄ってきたのもいる。……さ、行こうか。こっちの風景はまた見れるよ」
 こんな鳥みたいに上から街を眺める機会なんて、そうあるもんじゃないけど。アニスはもう少し見ていたい気がしたが、ルシャデールに手をとられて上へあがっていった。
 あたりは再び先ほどの暖かな闇に包まれた。
「ここからが本当のユフェリだよ」ルシャデールが教えてくれた。「こっちの世界は何も見ようとしなければ見えない。肉眼で見ているわけではないから。波の音が聞こえる? ここは海なんだ」

 それは……大地と空がひっくり返るような瞬間だった。
 闇が一瞬にして消えた。
 浜辺に沿って松林が延々と続いている。
 その先には白い灯台が崖の上に見える。
 そして……海。
 見はるかす青い水。
 繰り返し打ち寄せる白い波。
 アニスは言葉もなく、ぽかんと口を開けて海に見入っていた。
「海だよ。見るの初めて?」
 アニスはうなずく。
(これが父さんが話してくれた海……)
「うわあー海だあー!」
 叫ぶや駆け出したアニスはまっしぐらに波打ち際に向かった。
 澄んだ海は手前が碧色、遠くになるにしたがって青緑、セルリアンブルーへと変化していく。波に足を洗われながら、アニスは海水をすくいあげ放るように飛ばす。
「子供じみたことしてるよ」ルシャデールは冷ややかにつぶやく。
〈子供だからな〉突然、カズックが向こうの世界から話しかけてきた。〈おまえはどうなんだ? 最初にここへ来た時、ああいうことはやらなかったのか?〉
〈……やった。だって、私は七歳くらいだったよ。おまえがここに初めて連れてきてくれた時〉
〈ああ。覚えているさ。七歳という年齢にしては、あまりにもやさぐれていたからな〉
〈……〉
 気がつくと、アニスはかなり遠くまで行っている。
〈あいつ溺れないか?〉
〈溺れない海だよ、ここは〉
〈そうじゃない。こっちの、カデリの感覚が染みついているんだぞ〉
 水の中では息ができない。高いところから落ちたらケガをしたり、死ぬ。空を飛ぶことはできない。火は熱い。氷は冷たい。
 そういったカデリでの常識は、ここではすべて意味がない。ただ、それを理解していないといけなかった。カデリの感覚を持ち続ける者には、やはり火は熱く感じるし、水の中では溺れてしまうのだ。
〈見ろ、すでに溺れている〉
 沖合でアニスは手足をバタバタもがいている。ルシャデールはあわてて走り出す。肉体がないから溺れ死ぬことはないのだが、放っておくわけにもいかない。しかし、彼女が着くより先にアニスを助けた者がいた。波の上へくいっと放り上げられている。
 イルカだった。
「うわあ!」
 空中で一回転し、再び海の中へ落ちる。だが、今度はつかまるものがあった。黒い肌の中に明るい瞳がアニスを見ている。キュキュキュキュキュルという鳴き声にかぶるように別の声が彼の頭の中に届く。
〈ようこそ、南の海へ〉
〈こんにちは、南の海っていうんですか、ここは?〉
 アニスはイルカの(くちばし)につかまっていた。
〈こんにちは新顔さん〉別のイルカが言った。〈単純な呼び方と思うかもしれないが、私たちはそう呼んでいる。あの灯台から向こうは「北の海」だよ。私たちは単純な方を好む。カデリから来る人間は複雑なものがお好きなようだね。ここに人間はあまり来ない。向こうでの生を終えた者はまっすぐ橋へ行ってしまうしね。来るのはユフェレンと麻の花で壊れた者……ぐらいかな〉
〈怪しげな者ばかりだ〉もう一頭のイルカが言い、キュルキュルと声がする。どうやら笑い声のようだった。
〈君のように普通の人間が来ることは稀だよ〉
〈おお、あの子も怪しげな類か〉
 ルシャデールが当たり前のように水の上を歩いて来る。
「馬鹿だね、おまえは。空を飛べるんだから、海だって溺れ死ぬことはないんだ」
「ああ、そうか」
〈二人ともしばらくここの海で遊んでおいき〉
 最初にアニスに声をかけたイルカが、嘴でルシャデールの足を打った。バランスを崩して、彼女は水中に落ちた。落ちる間際にアニスの腕をつかみ、二人の子は水の中へ潜っていく。
 鮮やかな赤や黄色の魚が、脇をすり抜けるように泳いでいく。もちろん息が苦しいなんてことはない。透き通った水の中はよく見えた。水面に陽光が銀色に引き伸ばされて輝いている。アニスがうれしそうに笑う。それを見ているルシャデールも顔がほころぶ。イルカたちはその横をすいすいと周り、尾で二人を水上に跳ねあげる。
(なんて自由で楽しいんだろう)
 放り上げられながら、アニスは思った。あの土砂崩れがあって以来、こんなに幸せな時間はなかった。
 ふと、空中に留まって、あたりを見回してみる。二人とイルカの他は誰もいない。あくまで青い空には、ふわりと綿のような雲が一つ。海の水面にはイルカたちが上を向いてアニスを見ていた。
 ルシャデールはと見れば、すぐそばに来ていた。彼女が手を差し出す。おずおずとアニスは手を握る。瞬時に二人は風になった。旋回し、上昇、下降を繰り返し、海面すれすれに波間をぬっていく。イルカが顔を出して、二人の上をジャンプした。
「すごい! すごいや!!」アニスが叫んでいた。「こんなことができるなんて!」
今度は上昇する。と、二人の手が離れた。「うわあっ! 落ちる!」アニスが急降下していく。
 ルシャデールが叫んだ。「落ちない!」
 キュッと降下が止まり、浮いていた。わかっていても、向こうの世界の感覚はしぶとく身にこびりついている。
 仰向けになったまま宙に浮いているアニスの手をルシャデールがつかんで起こした。
「行こうか」
 アニスはうなずいた。目的地はここではない。
「またおいで」
 イルカたちがジャンプして見送ってくれた。キュキュキュキュルと笑っていた。アニスはにこにこと手を振って別れた。
「ああ、なんて楽しいんだろう」
 アニスは海の方を振り返りながら言った。
「思いのままになる世界だからね。形があって、ない。自分の思い描いたものが現れる。それがユフェリなのさ」
 あれだけ、海中に入って遊んでも濡れてはいない。
「御寮様はフェルガナに来る時、船に乗って来たんですよね。向こうの世界の海もこんな感じですか?」
「ここまできれいじゃなかった」思い出しながらルシャデールは答えた。「水の色ももっと暗くて、波はずっと高かった」
 二人は浜辺を灯台に向かって歩く。海上に船は一艘も見えない。砂の上をカニがはっている。
「あの灯台は何のためにあるんです? 沖を船が通ったりするんですか?」
「見たことない。舟遊びくらいはするかもしれないけど。あれは『時の灯台』って言うんだ。時間のない場所だけど、あらゆる『時』につながる場所でもあるって、カズックが言っていた。」
「時間がない?」
「カデリ、つまり向こうの私たちが生きている世界では、時間は過去から未来に向けてしか流れないけど、あの灯台の中では、どの一瞬も同時に存在しているんだって。どの一瞬にも行くことができる。そう聞いたけど、私もよくわからない」
「うん」
 面白いところばかりだ。帰ったらシャムに教えてやりたい。そう思ったが、するとルシャデールに連れて行ってもらったことを話すことになる。そうなるとまた、変に心配させてしまうかもしれない。だいたい、信じてもらえるのかわからない。
 
 フェルガナ、そしてその周辺の国の人間も信心深い人が多い。日の出、日の入り、正午の礼拝には多くの人が集まる。僧が説く死後の世界やよい精霊や悪霊の存在も信じている。 
 だが、信仰としての信じることと、実話として信じることは違う。とりわけ、アニスのように、ユフェレンでもない者の話は、単にほら話になって終わりそうだ。
 おそらくルシャデールも他人にはあまり話さなかっただろう。こんなにも美しい世界を知りながら、他の人間とは共有できない。それは彼女の孤独の一端をなしていたに違いない。
 彼女の方を見ると、うっすらと微笑んでいる。アニスはまた鵺鳥の話を思い出す。島ぐらいはできただろうか?

 白亜の灯台の下は崖になっていた。それほど高くはないが、浜から崖の上まで石段がついている。
「何十段、いや何百段あるんだろう?」アニスは石段を見上げた。
「五百段」自信満々の顔でルシャデールが言う。「前に数えたんだ」
「すごい」
「ここを登りきって、少し行ったら運河の舟着き場に出るんだよ」
「運河?」
「そう、舟で『橋』まで行く。橋を渡ったら、荒れ野の道があって、その先が『庭』。おまえの家族がいる。」
(本当に会えるんだ)
 そう思うだけでアニスは胸が一杯になって溢れてきそうだった。ルシャデールが階段の方へ走っていった。アニスもそれを追いかける。
「上まで競争だよ」
「うん!」アニスも駆け出した。

(子供みたいだな)
 アビュー家のドルメンから、ユフェリの二人を見ていたカズックは笑った。
(いや、どっちも子供なんだが)
 穏やかだけど人の顔色をうかがってばかりの子と人の情を知らずに育った子と。どちらも甘える大人を持たない。
 特にルシャデールは、同年代の子供と遊んだり、はしゃいだりすることすらなかった。
(不憫なヤツだ。いや、今の二人は哀れみなんか無用だな)
 彼の前には、魂に置いていかれた二人の体が眠っているように、横たわっていた。カズックはそれをを穏やかな目で見守る。

 石段を上りきると、また違う景色が広がっていた。
 海の色はもっと暗さを帯び、冷たそうだ。波も少し荒い。空の色も白っぽい水色だ。
 海岸沿いの段丘には、ハマナスの木の群落が広がっている。花の濃いピンク色が空と海の青によく映えていた。奥の草原には黄色のキスゲやクロユリが花を開く。
 その草原の真ん中に竜がいた。
 銀色がかった水浅黄色の長い体はとぐろを巻いて、一番上に頭を乗せている。ごつごつとした顔に長いひげは風に揺らめく。雨竜は気持ちよさそうに目をつぶって鼻歌を歌っていた。
 その体に寄り掛かって笛を吹く者がいた。ルシャデールやアニスよりは五つ、六つ年長に見える。緑の羽がついたつばなしの帽子をかぶり、苔色のチュニックとズボンを身につけているが、少女とも少年ともつかない。
 笛の高い音色は樹のように暖かみがあり、よく澄んで、あたりに響き渡る。二人は立ったままその調べに聞き入っていたが、ふいに笛の音が止んだ。
「やっぱりこの音じゃ高すぎる。あの場所にはそぐわない」
 そうかな? と、竜はちょっと首をかしげた。そして笛吹きが再び笛にくちびるをあてた時、二人に気がついて立ち上がった。
「おお、お客人じゃな」
 竜は低く太い声で言った。
「やあ」
 にこりともせず、ルシャデールは挨拶を交わす。雨竜クホーンと楽師のラフィアムだと彼女は教えてくれた。
「何をしているんですか?」
「歌を作っていた。時々はクホーンにもらうこともあるんだけど」
 楽師のラフィアムは答えた。
「歌をもらう……?」
「僕は『囚われの野』にいる人たちが自らを解放できるよう、音楽を奏でるのが役目なのさ。あそこにいる人たちはみんな、何かに執着して自由な心を失っている。そのために『庭』まで行き着けないんだ」
 音楽であの人たちが解放されるというわけではないが、きっかけになれば、とラフィアムは話した。
「雨の主クホーンは音楽を司る者でもあるんだ。なぜって雷鳴と雨は創世の音楽だからね。『ユークレイシスの歌』にだってあるだろう。
 遠雷響くその中で
 ああ! それはまったく最初の音楽だった、とね」
 アニスの脳裏に再び土砂崩れの時の豪雨がよみがえる。とどろく雷鳴、暗黒の空を裂く稲光。苦しそうな家族の顔。彼は眉間に皺を寄せて、クホーンを見つめた。
「あの雨を降らせたのも、あなたなんですか?」
「そうだよ」クホーンは穏やかに答える。
「どうして、あんなひどい雨を降らせたんですか?」
 クホーンは慈しみのこもったまなざしを彼に向けた。それは同時に理解され難いことへの悲しみを映していた。
「それは君の大事な家族を奪ったことに対して怒っているのかな?」
「そうです」
「家族を亡くしたことで君は何を失ったのだろう? ここへ連れて来てもらったということは、君は死が無になることではないと知っているはずだ。人は死なない。ただ、生きる形が違うだけで」
「でも……向こうの世界ではもう、父さんや母さんと一緒にご飯を食べたり、お話をしてもらったり、一緒に木の実を取りにいったり、魚釣りに行ったり、そういうことはないんです」
「家族とのぬくもりや愛に満ちた生活ということだね」
 アニスはうなずく。
「しかし、彼らが生きていたとしても、その生活は永遠に続くものではない。どちらにしても、御両親やおじいさん、妹さんとは別れる時が必ず来るのだ。向こうの世界とこちらの世界にね」
 アニスはうつむく。それはわかっている。
「でも、それが早すぎた、と思うかな? 君が七歳で家族を失うのと、三十歳になって失うのと、何が違うだろう?」
 えーっと。アニスは考え込んだ。
「三十歳っていったら、もう大人だし……」でも、やっぱり家族が死ぬのは悲しいんじゃないだろうか。
「愛する者との別れは誰にとっても、いくつになっても悲しいものだ。まして君の場合は家族を一度に、突然失ってしまった。そのぶん悲しみが何倍にも感じられることだろう」
 クホーンは尻尾の先をなでるようにアニスの肩へこすりつける。固そうに見えるが、クホーンの皮膚は猫のように柔らかく暖かい。
「人は死なない。姿が見えず、声も聞こえないかもしれないが、彼らはいつもそばにいて、君を見守っている。それは、慰めのおとぎ話ではなく事実だ。しかし、私などに聞くより、父さんや母さんに会って直接聞く方がいいだろう」
 アニスはうなずいた。その瞳はまだ納得しきれていない。
「でも、やっぱり辛いし、寂しい」アニスの目からぽろりと涙がこぼれる。彼は袖で目をこすった。
「ああ、そうだね。辛いときはどんなに慰められても辛いさ。でも、一人ぼっちだった君には、もう仲間がいるじゃないか」
 クホーンはそう言って、ルシャデールの方を見た。彼女は少し離れたところで、にこりともせず睨むようにこちらを見ていた。まるで、そうしていないと雨竜がアニスを連れ去ってしまうとでも思っているかのように。
 楽師が今度は竪琴を爪弾き始めた。透明な音色があたりに広がっていく。歌い始めたのは『ユークレイシスの歌』だった。

「ユークレイシスの長たちが
 夜半に見たのは何だったろう
 幾千万の輝きをはらむ宇宙
 海の底より()づる泡
 トンボの記憶、蛙の歌
 すべては一つにつながって
 銀の鎖輪となる

 遠雷とどろくその中で
 ああ、まったくそれは最初の音楽だった
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よつと……
 水の子たちは地上へ向かう
 激しく吠える大気
 漆黒の空が分かたれる時
 彼らは目覚め、地に満ちる
 いつか再び天を目指す時まで

 ユークレイシスの長たちが
 夜半に見たのは何だったのか
 創世から終末まで
 ほんのわずかなひとときを
 ()()う小さな、小さなものたちのこと」

 ユークレイシスは天空の庭よりも遥か上層にある、神霊の世界だった。すべての魂はそこに発し、邂逅(かいこう)と離別を繰り返しながら、再びそこへ還っていく。
「それまでは、ユフェリとカデリを行きつ戻りつしながら、私たちは目指すのだよ」
 クホーンは穏やかに語る。
「何を目指すの?」アニスはたずねた。
「愛となることを」
「愛……」
「どの人生も目指すのはそれだけなのだよ。すべての魂は深いところでつながっている。人殺しも坊さんも、王も乞食も、パン屋も木こりも、子供も老人も、男も女も、みんな一つだった。カデリでは、そのことは忘れられてしまったね。そして、みんな他人より少しでもたくさん所有し、他人を意のままに動かそうと忙しい」
 クホーンとアニスが話していると、後ろから
「お茶はどうですか?」と声がかかった。振り向くと、若い女性と品のいい初老の男がお茶の用意をして待っていた。
 木のテーブルを囲んで、ラフィアム、ルシャデールは椅子に座って休んでいる。二人ともガラスの茶碗にお茶を飲んでいた。
「おお、これはありがたい」
 クホーンはとぐろを崩して、テーブルのそばに寄って行く。アニスも一緒に行く。
 男の人が彼にお茶碗を手渡してくれた。
「お砂糖はテーブルの上にありますよ」
「ありがとう」
 初老の男は灯台野の守番リシャルと名乗った。若い娘は運河の船頭ヴィセトワだという。
「こちらにお客様が見えることはあまりないのですが、いらした時のために私たちが案内人をつとめることになっています」リシャルはそう説明した。
 アニスは茶碗にお砂糖のかたまりを四つ入れた。普段、お屋敷で飲むお茶は砂糖なしだ。でも、本当は甘いものが大好きだった。
「運河はあまり使われていないけどね」ヴィセトワが言った。市場で腕輪や耳飾りの売り子をしていそうな、はすっぱな感じだが、明るい娘だ。「橋は知ってる?」
「いいえ、ここに来たのは初めてなので」
「橋は冥界の入口。ここからその橋へ向かう運河があるのよ。あたしはその運河を行く舟の船頭。ほら、お菓子もあるわよ」
 ヴィセトワはテーブルの上の蜂蜜菓子の皿を差し出した。アニスはそれを一つつまみ、口に放り入れる。蜂蜜の香ばしい風味と、ねっとりとした甘みが広がる。
「体がないのに、物を食べたりできるんですね」
「食べる必要はないけど、向こうから来た人にくつろいでもらうには、食べたり飲んだりが一番よ。他に聞きたいことは?」
 知りたいことはいっぱいあるはずなのだが、思いつかない。それより、この穏やかな空気の中に、ただ浸かっていたかった。潮の匂いが風に乗って、髪を撫でて行く。
 ややあって、アニスはヴィセトワにたずねた。
「どうして普通の人は、こっちの世界を見ることができないんですか?」
「あら、見てるわよ」彼女はさらりと言った。
「え?」
「眠っている時に夢を見るでしょう? ああいう時は、たいていユフェリに来ているのよ」
「でも、こんなきれいなところは見たことないです。僕が見る夢は意味のわからないものが多いし」
「だって、ユフェリは無限だもの。あなたが今見てきた海やこの野原なんて、ユフェリ全体からしたら……そうね、砂一粒よりも小さなものよ。居心地のいいところばかりじゃないし、ちょっと怖いところだってある。どんな夢を見るの?」
 アニスはちょっと考えた。たいていの夢は目覚めると霧のように消えてしまう。
「戦争で戦ってる夢。戦っているうちにお寺みたいな所に来て、今度は兵士じゃなく坊さんになってるんだ。そして恐ろしい顔の化け物に(むち)で打たれたり、火あぶりにされる」
「そりゃ楽しい夢だ」横からルシャデールが口をはさんだ。「前世の記憶かもね。きっとろくでもないことしていたんだ」
 アニスはむっとして彼女を見た。するとヴィセトワが言った。
「そうね、そういうこともあるわ。前世の記憶を夢に見ることも。そういう場合は、その前世が大きな意味を持っていることもある。だけど、ユフェリで見たことは、目が覚めた時、(ゆが)んでしまったり、忘れてしまうことが多いのよ。怖い夢ばかりじゃないでしょ?」
「赤ちゃんを抱いている夢もよく見るよ。すっごく幸せな夢なんだ」
「妹?」ルシャデールは控えめにたずねた。
 ううん、とアニスは首を振った。
「誰だかわからない。ハトゥラプルやピスカージェンみたいに石の家じゃなく、木の家だった。昔、あんまり幸せな夢だったから、父さんや母さんに話したんだ。大人になったらお母さんになりたいって」
 ルシャデールが軽く噴き出し、せせら笑う。
「バカじゃないのか」
「うん、大笑いされた」
 お茶を飲んだ二人は、再び『天空の庭』を目指す。ヴィセトワが舟で橋まで送ってくれるという。楽師やクホーンが船着き場まで来てくれた。
「帰りにもう一度寄るといい」クホーンが深みのある声で言った。「待っているよ」
 アニスはうなずいた。
小さな舟はゆっくりと運河を進んだ。霧の切れ間から、岸辺に咲く紫のアヤメがかいま見える。ときおり、鳥のさえずる声が聞こえた。鹿が草をはみながら舟を見送ることもあった。今のところ、彼らの他に人は全然みかけない。
 アニスはヴィセトワにたずねた。
「御寮様みたいに夢以外で……ここを訪れることができないのはどうしてですか?」
「ユフェレンは役割を担って生まれるから。でも、それ以外の人は……」ヴィセトワは考え込み、「どうしてだと思う?」と聞き返した。
「考えてもみなよ」ルシャデールが言った。「みんながユフェリにしょっちゅう来ることができたら、カデリに帰りたくなくなる奴がいっぱい出てくるじゃないか」
「ああ、そうか……」アニスもすでにそう思っていた。
 それもあるわ、とヴィセトワはうなずいた。
「『囚われの野』を除いて、ユフェリは光の世界よ。カデリには闇も光もある。場合によっては、闇の方が多いかもしれない。でも、光を光として理解できるのは、闇があってこそ。旅人にとって、闇の中に見出す人家の灯りがどれほど心強く、ありがたいものか。病気をしたことがない人には、健康のすばらしさはわからない。病人こそ、健康のよさをわかっているもの、そういうこと」
 もし、ダイヤモンドが石ころのようにその辺にごろごろ転がっていたら、誰もありがたがらない。
「幸せもそんなようなものだってことですか?」
「ええ。それを()るために、みんなカデリへ生まれてくるの。宇宙には無数の世界があるけど、カデリはいいってみんな言うわ。あんな冒険に満ちたとこはそうそうないものね」 

第十章 囚われの野

 舟が進むにつれ、岸辺を歩く人の姿が見えるようになった。それは霧のはざまにもおぼろげな影だったり、姿形もはっきりしないものも多かった。目だけがぎょろんとついた人型の白い霧の塊が近づいて来た時は、アニスが怖がって動いたため、揺れた舟がひっくりかえりそうになった。
「あっちへお行き!」ヴィセトワが追い払い、それはすーっと離れて行った。
「あれは死んだ人なんですか?」
 アニスがたずねると、ヴィセトワはそうよ、と答えた。
「ここは『橋』が近いからね。船着き場にあがるといっぱいいるわよ。当たり前だけどね、冥界の入口なんだから」
 間もなく船着き場が見えてきた。アシやアヤメが茂る中に、石を組んで作った桟橋がある。ヴィセトワはそこへ舟をつけた。
「あたしはここまでしか案内できないわ。でも、ユフェリは危ないところってほとんどないから大丈夫。ただ、『囚われの野』に入る時はちょっと気をつけて。影響を受けてしまうことがあるから。でも、慣れた人がいるから、心配はしないけど」
 二人は彼女に礼を言って船から上がった。小さな舟はすべるようにゆっくりと桟橋(さんばし)を離れて帰って行った。

 前方に橋が見えた。石造りの大きな橋だ。たくさんの人が橋を渡って対岸へ向かう。
 そのそばには茶店があり、何人かの客が談笑しながらお茶を飲んでいた。
 茶店の前を通る道は一方は橋へ、一方は市場の中を貫いて、ずっと向こうの方で森の中へ続いていた。森の中からはたくさんの人がこちらに向かってくるのが見えた。
青白い顔の若い娘がいた。溺れ死んだのだろうか、全身ずぶ濡れの男が腕を抱えて歩いていく。赤ちゃんをおぶった母親。
 みんないわゆる『幽霊』なのだが、あまり気持ち悪くないなとアニスは思った。今の自分が同類みたいなものだからだろうか。
「市場……見に行く?」
「いいですか」
「まるでおのぼりさんだね」
 ルシャデールが冷やかすように言い、アニスは顔を赤くしたが、その響きにどこか楽しそうなものを感じて、手を差し出した。
「行こうよ」
 ルシャデールは仕方ない、といった表情で手をつないだ。
「こんなとこで迷子になられても困るしね」
 橋を目指す人々とぶつからないようにすれ違いながら、歩いていく。うっかりすると、彼らはアニスの体をすり抜けていくのだ。その度にギョッとしてしまい、あまり気分のいいものではない。ルシャデールの方はと見れば、すり抜けられても平然としていた。慣れているのだろう。
 アニスはあたりを見回す。茶店、絨毯屋、真鍮屋、陶器屋、スパイス屋、金銀宝石の装飾品を並べた店、魚のフライやサンドイッチ、ジュースなどの屋台もあった。向こうの世界とあまり変わらない風景だ。
 ただ、荷車や荷を運ぶ牛やロバはいない。客も死んだ人間ばかりのせいか、向こうの市場のように雑多なものが入り混じる活気はなかった。
「何売っているのかな」
 大きな紙を広げて売っている店がある。絵のようなものが描いてあるようだ。
「あれは地図屋だよ」ルシャデールが言った。
 地図と聞いてアニスの心がひょん、と飛び跳ねる。多くの男の子がそうであるように、彼も地図が大好きだった。村にいた頃は他の子供たちと宝の地図を作って遊んだものだった。山深い村では羊皮紙や紙は貴重品で手に入らないから、樹の皮を大きくはいで、細く削った木炭で描いたのだ。
 地図屋の店先に並べられている地図は羊皮紙製で、ほとんどは黒いインクでユフェリを描いたものだ。しかし、中には絵の具で彩色し、金や銀の額に入れた豪華なものもある。
「あ……」
 アニスが見つけたのは一枚の地図だった。その地図だけ木の皮でできている。描かれているのは他の地図と同じだ。ただ、書き込まれた文字が懐かしい記憶を呼び起こす。アニスは地図屋の主人に声をかけた。
「おじさん、この地図は……?」
「ああ、それかい? それは男の人が持って来たのさ」
 地図屋は二人の姿を認めて、おや?という顔をした。
「黒い髪の男の子と枯草色の髪の女の子が来たら、渡してやってくれってね。どうやら君たちのことらしい。はい、これ」
 地図屋は壁に飾られていたそれを取ると、アニスに差し出した。
「僕、お金を持っていません」
 それを聞いて地図屋は笑った。
「坊や、ここでは『ありがとう』の言葉がお金の代わりなのさ」
 アニスはほっとして地図を受け取った。
「ありがとう、おじさん」
 地図屋を出てから、その地図は何かあるのかと、ルシャデールがたずねた。
「この字は父さんの字に似ている。父さんも子供の時、地図が好きだったって話していた。父さんの家には、玄関に大きな地図が飾られていて、それを眺めるのが好きだったって言ってた」
「おまえの父さん、いい家の子だったんだ。普通の家じゃ地図なんて飾らないだろう。それに字も書けたようだし」
「うーん、わからない。昔の話なんてほとんど話してくれたことないから」
 アニスは手元の地図に視線を落とした。イルカのいた海やクホーンと会った草原、運河や橋が載っている。橋の先は三つの道があるようだ。階段と川と陸路。その先には『囚われの野』と書かれていた。分かれ道が何本もある。隅には『シリンデ』と書かれているが、意味はわからない。『囚われの野』の先にようやく『天空の庭』がある。
 地図屋の向かいは絨毯屋だ。
「こっちの世界で絨毯って……何をするの?」アニスは連れの少女にたずねた。
「ここで絨毯と言えば、空飛ぶ絨毯に決まってるよ」ルシャデールはそんなこと常識じゃないか、という口調だ。
「何に使うの?」アニスは言ってから、間抜けなことを聞いたと後悔した。空飛ぶ絨毯だから、空を飛ぶに決まっている。だが、ルシャデールは彼の質問の意味を理解してくれた。
「お遊び用だよ。私たちみたいに生きている人間が来る場合のね。あれで好きなところを見物して歩くのさ」
 楽器屋の前では楽師らしい老人がシタールを手にとって音を確かめていた。
 本屋に並べられていたのは、紺地のビロードに紅い糸で刺繍を施した美しい装丁の本だった。しかし、中は何も書かれていない。
「日記かな?」アニスはつぶやいた。
「似たようなものよ」本屋の女主人が答えた。「自分の一代記を書きたい人用。『庭』についたら時間は有り余るほどあるから、そこでどんな人生を送ったか、思い起こしながら書くの。生まれる前に計画したようにできたか、できなかったところは次に生まれ変わった時の課題として持越し。でも、あなたはまだいらないようね」
はい、とうなずいてアニスは本屋から離れた。

 橋の周辺では幼い子供も多かった。そのせいか、おもちゃ屋やお菓子屋も目立つ。おもちゃ屋には抱き人形や小さな剣、弓矢、木馬もある。しかし、おもちゃ屋で立ち止まる子供は少なく、死に分かれた親を探して泣く姿がしばしば見られた。
「ああいう子はどうなるの?」
 亡くなった妹を思い出して、アニスは切なくなる。
「ちゃんと乳母係がいるんだ。ほら、白い服にピンクのエプロンをした女がいるよ」
 言われて見ると、道のところどころにそういった女性たちが小さな子を連れて歩いている。
「あの人たちは小さな子を橋の向こうへ案内する係?」
「そう」
 ユフェリには亡くなった人が順調に『庭』へ行けるよう、手伝いをする者がたくさんいるらしかった。そういった者をソワニと呼ぶのだとルシャデールは教えてくれた。もともとはカデリでの人生を何度か送った者だという。いずれまた、生まれ変わるつもりの者もいれば、ここでずっとソワニとして過ごすつもりの者もいるという。
 橋の近くまで来た時だった。
「やあ、待ってたよ」と、彼らに向かって手を振る者がいた。
 白髪といってもいいきれいな銀髪、一見老人のようだが、よく見ると顔は若者だった。薄い水色の目が澄んでいる。アニスは朝日に輝くダイヤモンドダストを思い出した。あれを人の姿にしたらこんな感じかもしれない。
「知っている人?」彼はルシャデールにたずねた。彼女は首を振った。
「誰?」
 けげんそうにルシャデールがたずねた。
「あ、もしかして」アニスの頭にひらめくことがあった。「サラユル?」
「うん、そう呼ばれていた。サラユル・アビュー。七代目……だったかな?お見知りおきを」
「水晶の精……ってミディヤが言ってた」
「ふーん」ルシャデールは警戒心をあらわにする。「で、何しに来たの?」
「案内人として」
「そんなものいらない」
「君はいらないかもしれないけど、僕は必要なんだ」サラユルは涼しい顔で答えた。
ルシャデールは気に入らないようだったが、それ以上は言わず、アニスに次行くよ、と声をかけた。
「次って?」アニスはたずねた。
「『囚われの野』さ。なかなか刺激的なところだよ」
 ルシャデールはそう言うが、彼女にとっての『刺激的』とはどの程度なのか、アニスは考えると少し不安になった。
 橋の上は多くの人が行き来する。先に亡くなった人たちの出迎えもあちこちで見られた。
 その一方で「来るな」と追い返す人もいる。言われた方は戸惑いながら戻っていく。きっと向こうで生き返ることになるのだろう。
 橋を渡っていくと道は二つに分かれた。一つは船着き場へ、一つは荒れ地へ続く。船着き場に泊まっている船は、さっきルシャデールたちが橋まで乗った舟よりはずっと大きい。百人ぐらいは乗れそうだ。そこはかなりの人が順番を待って並んでいた。
 だが、ルシャデールはもう一つの道へ進んだ。
 両側が切り立った崖の上に道は通っていた。右も左も岩山が続くばかりの荒れ果てた光景が遥かに広がっている。地平線の方はおぼろげにかすんでいた。木一本、草一本生えていない。そちらへ向かうのはアニスたち三人だけだ。
 船の方がいいな、アニスは後ろを振り返った。すると、サラユルが教えてくれた。
「あれは、カデリでの生を終えた人しか乗れないんだ。大丈夫、落ちたからって死ぬわけじゃない」
 サラユルはルシャデールよりも愛想よく、いろいろなことを教えてくれる。
船に乗った人のすべてが、『庭』に着くわけじゃないこと。川の中に、自分の欲望や執着するものを見出して、水中に飛び込んでしまうこと。そして、行き先は囚われの野にあるさまざまな世界だということ。
「さまざまな世界って?」
「これから見せてあげるよ。おいで」
 サラユルは崖道の途中についた分かれ道から、荒れ野へと降りて行く。ルシャデールがアニスの手をつかむ。きつい目をアニスに向けているが、怒っているというより、心配してくれているようだ。
「ありがとう」
 そう言うと、ルシャデールはさらに怒ったようにそっぽを向いてしまった。
 崖下の荒れ野は、岩山ばかりだと思ったが、その岩のあちこちに入口のような穴がいくつも口を開けていた。まるで岩を穿った住のようだ。
 生きるものの影はなく、ときおり吹きよせる砂埃に陰鬱な気分が迫ってくる。誰も何も言わない。
 サラユルはその穴の一つに入っていった。景色が変わる。
 現れたのは金貨が山積みになった大きなテーブル。それがいくつもある。
 そのテーブル一つ一つに、人が一人ずつ座って金を数えていた。男もいれば女もいる。若者も老人も。
 目の前のテーブルの男は、醜く太った体をりっぱな衣服に包み、狡猾そうな目つきで金貨を積んでいく。そばでは、擦り切れた服のやせた女が、金貨が落ちてこないかと物欲しげに待っていた。
 彼らは金貨しか目に入らないようだった。よく見ると、他のテーブルから奪ってくる者もいた。奪われた方は、またよそのテーブルから奪ってくるのだ。
「守銭奴の国だよ」ルシャデールが言った。「ああやって、金数えと強奪を繰り返すんだ。たぶんずっと」
「ずっと?」
「守銭奴か……君らの世界にはいい言葉があるね」サラユルが笑った。「彼らはお金に対する執着が強くて、『庭』へ行けないんだ」
 カデリで生活していくのにお金が必要なのはアニスもよくわかっている。そして、お金以上に大切なものがあることも。
「どうして、この人たちはお金に囚われるようになってしまったんだろう」
「恐れているから」サラユルは答えた。
「何を?」
「無になってしまうこと、かな」
「無?」
 カデリに生きる人々がユフェリの記憶を失ったのは遠い昔のことだった。ユフェリから来て、カデリでの生を送った後、再び還る。このことはおぼろな信仰と、数少ないユフェレンの経験と知識の中にのみ生きている。
「坊さんたちは、死した者の魂は天界の園へ行くと話している。でも、それをみんなどこまで信じているだろう。ユフェリの存在と魂の不死を信じていないとしたら、彼らはどうすればいい?死して無になってしまうのなら、死を一時でも遅らせるしかない。生き延びること。それだけだ。そのために、必要になってくるのが、お金や権力、武力、そういうものさ」
「遅らせようとしたって死はやってくる」
 ルシャデールは無情な口ぶりで言った。
「そうだね。だから、みんな自分の分身を残そうとするんだ」
「ああ、なるほどね」ルシャデールは皮肉な声音でうなずく。「自分の地獄に自分以外の者も引きずり込みたくて、親になるんだ。自分が親にされたように、自分の子供を罠にはめるんだ」
「君は憎んでる? お母さんを」サラユルがたずねた。
「……別に。どうでもいいよ、あんな女」
 ルシャデールは刺すような目でサラユルをにらんだ。しかし、彼はそれを柔らかく受け止め、微笑んだ。彼女はぷいと顔をそむけた。
「君の中で種はとうに芽吹き、花を咲かせる準備をしている。咲けなかった花は一番美しいけど、これから咲く花はもっと美しい」
「……」ルシャデールは納得できないようだ。
(御寮様は、本当はお母さんが好きなんだ)
 だが、アニスはそれを口にはしなかった。
「ミディヤが似たようなことを言っていました。」
 サラユルはにっこり笑った。
「かわいいミディヤ。僕がカデリで生きたのは、あの一回きりだけど、彼女は一番素敵な子だった。」
「あー……そうかもしれません」アニスは少し無理をして同意した。
 サラユルはそれには頓着せず、
「さあ、次へ行こう」と、みんなを促した。
『囚われの野』巡りは続く。次に訪れたのはその隣の穴だった。
 目の前の平地で二手に分かれた兵士たちが戦っている。その数、数千人はいるだろう。縦横無尽に振るわれる剣に槍。放たれる矢。
 雄叫びが空気を振動させる。
「なぜ、この人たちは戦っているの?」誰にというわけでもなく、アニスはたずねた。
「さあね。当の本人だって覚えていないかも」ルシャデールは素っ気なく言った。「領土を広げようとか、そのくらいのものさ。さっきの守銭奴とたいして変わりないよ。ただ、こっちの方が規模がでかいだけ」
 よく見ていると、兵士たちはいくら切られても、矢を打ちこまれても戦い続けていた。首を落とされても剣を振り回している兵士もいる。どちらの兵士もあとからあとからわいて出て来る。
 サラユルによると、半分以上は幻影だという。残りの半分がその幻影を作り出して、戦い続けているようだ。彼らの中にはガシェムじいさんのように、死んだことに気がついていない者もいるが、多くは『戦え』という王や将軍の命令に縛られていた。そのために、死してなお戦うのだ。
 腕や足がなくなっている兵士もいる。
(これを向こうの世界で見たら、正気でいられないだろうな)


「カッコウが他の鳥の巣に卵を産むって、知っているかい?」サラユルが聞いてきた。
「うん。ホオジロやオオルリの巣に産みつけて、孵った雛は養い親の卵を巣から出してしまう」
「ずるいと思わなかった?」
「うん、思った」
「自然の生き物には『自分』と『他者』の区別が、人間ほどにははっきりないんだ。だから、仮親のホオジロは必死で育てる」
「間抜けだからだ。自分の卵を壊されたことも気づかない」ルシャデールは言い捨てる。
 それを無視しサラユルは続ける。
「ホオジロやオオルリ並にというのは無理だろうけど、もう少しカデリの人間が、自分の欲を捨てて他人も愛せるようになってくれればいいんだけどね。カズックが自分から神を降りたのは知ってる?」
「降りた?」アニスは聞き返した。ルシャデールも初耳だったらしい。目を見開いてサラユルの方を向いた。
「あいつは……カズクシャンの人間に見捨てられて、精霊に落ちたんじゃないの?」
「違うよ。彼は大きな神殿の奥深くに座して、人々の祈りを受けていた。でも、大多数が自分と身内の安泰と繁栄だった。物質的な欲望をかなえることばかり。嫌気がさしたんだ。そして、より人間に関わることができるよう、半肉半霊の身となった」
「だからって、たいしたことしてないじゃないか。私と会った時はボロい祠で丸くなって寝てただけだよ」
「君はカズックと出会ってなければ、とうに死んでいた」サラユルは静かに言った。
「彼は寝場所を提供してくれただけでなく、仕事のメドまでつけてくれたじゃないか。そして、トリスタン・アビューを連れてきた」
「カズックが仕組んだことだったの?」アニスはたずねた。
「そのくらい、彼には簡単だよ。フェルガナへ行く予定の商人を見つけて、行く前にちょっと君が辻占いをしている広場に足を向けさせる。フェルガナに着いて腹痛を起こさせ、アビュー家の施療所に行かせる」
「あいつ……」ルシャデールがうめくようにつぶやいた。「人を木偶(でく)か何かみたいに動かして、そしらぬ振りをしていたのか」
「神は人間の使い走りじゃないからね。傀儡子(くぐつし)はなっても。彼にとっては、みなし子や未亡人の一人や二人助けるなんてどうってことないよ。でも、一人一人の幸福は、カデリでの生とともに終わってしまう。畑を耕し、種を植え、雑草を取り、肥料をやって、やっと実をつけても、収穫する前に洪水で押し流されるようなものだよ。人間は同じことを繰り返す。他人を蹴飛ばし、突き落としても、自分が生き残ろうとする」そう話すサラユルは哀しそうに、相変わらず戦い続ける人々を見やる。
「カズックは」彼はルシャデールとアニスの方を振り向いた。「洪水でも流されない種をまこうとしているんだ」
 カズックがカデリで過ごした何千年、何万年という長い歳月、その目に何を映してきたのか、アニスの想像を越えていた。ただ、神にも悲しみがあるのだろうと、思うと、何かが胸に重く響いていた。
 彼らは戦場を出ると、次の洞窟へ向かう。
「人の欲望の行き着くところはこれだ」サラユルは一歩踏み入れた。

 禍々(まがまが)しい赤い花のような巨大な雲 
 白い閃光が一面を支配する。
 体が吹き飛ばされる。熱く、苦しい。
 引き裂かれる 自分がばらばらに砕かれてしまったようだ。
息ができない。
 アニスには何が起きたのかわからなかった。
 空気が重くて息苦しい。
 あたりは白い熱が充満し、陽炎に歪む景色の中、石の建物が溶けていく。
 人も動物もちりのように細かく吹き飛ばされるのが見えた。
 土くれみたいになった人間。動物なんて見当たらない。
 あちこちの土の中から悲鳴が聞こえる。
 赤い雨が降る。血?
 空は真っ暗になった。夜のような闇。恐怖? 絶望? いやそんなものでは表せない。
 叫びだしそうになった時、誰かがアニスを抱きとめた。暖かい。
「大丈夫。全部幻みたいなものだから」
 声が聞こえる、というよりも、思いが直接胸に伝ってくるような感じだ。姿は見えなくても、ルシャデールだということはわかる。
 今は形などないようだ。『アニス』『ルシャデール』という個人の枠すら取り払われて、二人の魂は一つに混じり合う。少年の中へ、少女の記憶や感情、さまざまなものが入っては出て行く。同時に、彼女の中へ自分が流れ込んでいく。
 どれほど時間が経ったのか、それとも全然経っていないのか。アニスにはよくわからなかった。ゆっくりと彼らは再び分離する。

 気がつくと、むっつりしながらも少し優しい顔の彼女が見えた。心配しているのがわかる。
「大丈夫、ありがとう」
 そう言ったら、彼女は不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。照れているらしい。
 しばらくして、サラユルも見つかった。
「サラユル!」ルシャデールは彼に怒りをぶつけた。「アニスは初めてなんだ! 何もこんなところに連れてこなくてもいい!」
「ルシャデール、僕は大丈夫だから。そんな怒らないで」
 自分のことを心配してくれたのはうれしかったが、アニスはサラユルに掴みかからんばかりの彼女を押しとどめ、引き離すとたずねた。
「ここはどういうところなんですか?」
「大昔の戦争の記憶だよ。とても文明が進んでて、夜でも昼間のように明るくできたり、冬でも夏でも寒くなく、暑くなく快適に過ごせる世界だった。だけど、人を殺す道具もひどく進化、というのかな、今よりずっと強力なものができていた。ピスカージェンの街一つ、人間もろとも一度に破壊してしまえるだけのものだった。人間の根本的な部分はあまり進化していないんだ。あるときそれが使われてしまって……そしてこうなった」
 溶けた瓦礫(がれき)はガラスのようになっていた。土と石くれしか残っていない。荒涼たる風景が広がる。
 一つの世界の死。土くれに還っていく。すべてがなかったものとして。
ヒューヒューと風が泣き叫ぶ。
「これは、僕らが住んでいる世界で大昔にあったことなの?」
「うん。今の君たちの歴史はせいぜい五、六千年ってとこだろうけど、一万年ほど前に、カラヌート人が海の果てから来て、野生のケモノと変わりなかった君たちの先祖に知恵をつけた。そのカラヌート人が来る二万年ほど前だ」
「……人間は二万年前の人たちとあまり変わっていないのかな?」
「あまり、ね」
「いいじゃないか、きれいさっぱりなくなって」
 ルシャデールは他の二人に背を向け、意味もなく歩を落とす。
「よくない!」思わずアニスは大きな声を出していた。「醜いものと一緒に、美しいものもすべてなくなってしまうなんて」
「美しいものなんてどこにある?」
「どこにでも。どんなところでも」ルシャデールの冷めた目をアニスは見つめ返す。「美しいものは……あるよ」
 彼は今まで見た美しいものを思い浮かべた。笑っている家族の姿。隣の家に生まれた仔犬。早春の木の芽、草の芽。あんずの花。夏のたぎる瀬。色づく麦の穂。雲を染める朝日と夕日。渡り鳥。暖炉の火。雪の降った朝。
 それらは両親の愛を核にして、今のアニスを創っていた。だが、ルシャデールには核となるものがない。それに気づいて、アニスは黙った。
「わあ、すごいな!」
 サラユルの声にアニスは振り返ると、足元に雲海が広がっていた。彼らは小島のような山の頂に立っていた。
 夜の彩を残した空に金色の陽が昇り、雲を染める。逆光になった山の峰は黒々としてよく映えている。しばらくの間、みんなでそれを見ていた。
「なんで、急に変わったんだ?」
 ルシャデールが我に返って言った。
「エルパク山だよ」アニスは言った「昔、父さんや近所のおじさんとヤマウギソウを採りに登ったんだ。その時に見た日の出だよ」
 あの時、父さんは言っていた。
『時は過ぎていく。いい思い出も、悪い思い出も、記憶の中にうずもれてしまうが、最上の思い出っていうのは永遠なんだ。思いだしさえすれば、いつでもその瞬間に戻ることができる。アニス、このすばらしい風景が、おまえにとって永遠であるように祈っているよ』
 あの時は小さくて、父さんの言ってる意味がよくわからなかった。でも、こういうことかもしれない。
 アニスはルシャデールに微笑んだ。彼女は戸惑いの色を浮かべ、日の出に視線を移した。彼女がどう思ったのか、アニスにはわからない。ただ、彼がきれいだとか、素敵だと思うものを、彼女もそう感じてくれればと、望むだけだった。
 『囚われの野』巡りは続く。
 海の真ん中で難破した船の甲板で救助を待ち続ける人。
 ずっと火あぶりになったままの人。
 高い塔から何度も飛び降り自殺を図っている人。
 寺院もあった。そこでは僧が生きていた頃と同じようにお祈りをしていた。
 病気でずっと寝たままの人は、すでに死んでいるのに「死にたくない」と生気のない目でつぶやいた。
 みんな死んだことに気が付かずに死んだ時のままだ。
「この人たちはずっとこのままなの?」アニスはたずねた。
「いいや、少しずつソワニが『庭』へ送り出している。でも、彼らは僕たちが見えないらしいんだ。見えないだけでなく、話しかけても聞こえない。だから遅々として進まない上に、新たに死んだ人たちがここへ囚われていくから、全然追いつかないよ」
「中でも自死した人は難しくてね。だけど、『庭』の本質は愛。すべての魂は『庭』を目指し、最終的には、遥かな始源の地へ還っていく。だからいつかは彼らも解き放たれていくよ、必ず」
 さ、行こうか、と言ってからサラユルがルシャデールにたずねた。
「寄らなくていいのかい?」
「いいよ。何度行ったって同じだ」
 御寮様のお母さんもきっとここにいるんだ。自殺したって言っていた……。
彼らは『庭』へ向かう。アニスの心は日陰から日向に出たように、鬱屈したものが払われた。

第十一章 慈愛と呪縛


 空が……なんて青いんだろう。 
 アニスはぽかんと口を開けて仰ぎ見ていた。
 空の色。鮮やかで濃い青さが目にまぶしい。
 れんげ草の咲く野原が広がっていた。ところどころに白樺の木立。セルリアンブルーのオオルリが羽を休めて、ピールリ、ポールリと、よく通る声で鳴いている。枝から枝へ渡っていくリスの姿も見えた。彼らの前を茶色のうさぎが横切っていく。れんげそうの野原が終わると、今度はよく手入れされた芝が続く。
 芝の真ん中は、焦げ茶色の石畳の道が走っていた。十人ぐらい並べるくらいの幅がある。石はきっちりと、爪を差し込む隙間もなく敷かれ、表面のでっぱりやへこみもない。アニスはそれを興味深げに見ていた。
「草の上を歩いてくれる? そこは緊急用だから」
 サラユルは足元の石畳を興味深げに見ていたアニスに言った。すぐにアニスは言われた通り移ったが、首をかしげてサラユルにたずねた。
「緊急用って?」
 サラユルが答える前に、その『緊急用』がやってきた。四人の白い長衣を着たソワニがケガ人を乗せた担架を運んで、前方にある建物へと走っていく。正面に柱が六本ならんだ白い建物だ。
「施療院だよ。病気やけがで死んだ人は、体に受けた苦痛にひどく傷ついていることが多いんだ。だから、あそこで一旦治療してから、次に進むことになる」
「次って?」
 サラユルはそれに答えず
「すぐに父さんや母さんに会いに行きたいだろうけど、せっかくこっちに来たんだから、いろいろ見ていって欲しい。ルシャデールはともかく、君はめったにこんな機会ないだろう」そう言って施療院へと先導した。
 弱った人々が次々と施療院へ向かっていた。一人で行く者はおらず、たいていはソワニが付き添っている。
「ここへたどり着ける人はいいんだ。囚われの野で見たように、死んだことに気がつかず、留まっている人も多いからね」
 施療院はカシルク寺院ぐらいの大きさの建物だ。だが、入って見ると、中はそれ以上に大きかった。玄関ホールはアビュー家のものの数倍はある。両側の壁には滝が流れている。滝の水は岩に囲まれた滝壺から霧か雲のようになって外へ流れ出て行く。滝壺を囲む森。
 数人のソワニがドアの一つから出てきた。
「おお、この子が五十二代目か!」
 彼らはあっという間にルシャデールを囲んだ。どうやらアビュー家のかつての当主たちらしい。ルシャデールは嫌そうな顔をしている。
 サラユルは次にアニスの方を向いた。
「実は君に使いを頼みたいんだ」
 使い? アニスは聞き返した。この施療院に入院している患者が、向こうの世界にいる息子に伝言してほしいと言っているという。どうやら彼が橋まで迎えに来たのは、そのためだったらしい。
「いいですよ、僕でできるなら」
 サラユルはアニスを連れて放射線状に何本もある廊下の一つへ歩いていく。アビュー家のご先祖たちに捕まったルシャデールが、恨めしそうな顔で二人を見送る。
 廊下は果てがかすむほどに長かった。地の果てまで続いているのではないかと、アニスが思ったくらいだ。その廊下の両側に病室がある。一つ一つの病室に患者一人ずつベッドに横たわって過ごしている。
 ドアはついておらず、開け放たれていた。どの部屋もその人が生きていた時に過ごした家のように、家庭的で居心地のいい雰囲気だ。暖炉があったり、壁には絵が飾られ、窓際に庭を作っている部屋もあった。
 患者たちの過ごし方もまちまちだ。本を読んでいる人、窓から入ってきた小鳥にえさをやっている人、他の患者やソワニと談笑している人、シタールを弾いて歌っている人もいた。
 いくつかの部屋を通り過ぎて、サラユルはある部屋で止まった。
「カトヤさん、いい人連れて来たよ。」
 病室にいたのは四十過ぎくらいのやつれた女性だった。長い髪を後ろで束ね、やつれた青白い顔に浮かぶ影は病気以外の心労があることを思わせた。
「息子さんと一緒に働いている子だよ」サラユルは彼女にアニスを紹介し、シャムのお母さんだと教えてくれた。
 意外な事のなりゆきに、アニスは黙って用件を聞く。
「シャメルドは元気にしてるのかい?」かすれた声で彼女はアニスにたずねた。
「はい、元気です。おばさんは病気だったんですか?」
「胸の病でね。ばちが当たったのさ。息子を捨てた報いだよ」
 彼女は苦い笑みを浮かべて話した。
「あたしは十八の時に結婚したけど亭主がすぐに死んでしまってね。子供はいなかったし、実家に戻ったんだ。両親は亡くなって兄の家族の家になってたから、いづらくてね。しばらくして、やもめのパン屋に嫁に行ったのさ。それがシャムの父親さ」
だが、パン屋には亡くなった奥さんとの間に二人の小さい息子がいた。最初の頃はよかったが、シャムが生まれた頃から上の息子たちや姑とうまくいかなくなった。そのうち亭主ともケンカばかりするようになり、結局離縁されたのだという。シャムは残った。パン屋は裕福だったし、一緒に連れて行けばかえって不憫な思いをさせると、彼女は考えたのだ。それに、自分一人を養うのがやっとだった。
 シャムから家族のことはほとんど聞いたことがなかった。家がパン屋で兄が二人いるということぐらいだ。あまり話したくなかったのだろう。
「あの子は……二年前に一度、あたしに会いに来たのさ。あたしは、あの子を追い返した。いくら貧しい生活になるとはいえ、わが子を捨てたようなものだからね。どのつら下げて母親だなんて言えるもんかね」
 それから間もなくだったという、胸を患って寝つくようになったのは。
「何か伝えて欲しいことはありますか?」アニスはたずねた。
「あの子は恨んでいるだろうね」
「そんなこと……」アニスはちょっと考えてから言った。「ないと思います。僕がシャムだったら、やっぱりお母さんのことが好きだと思います。冷たくされても」ちらりとルシャデールのことがよぎる。
「……追い返して悪かったって伝えておくれ。体壊さないように、それと、いつもおまえのことを見守っているよって」
 シャムの母がすすり泣く。
「わかりました、必ず伝えます」
「ありがとう」彼女はやせて筋張った手でアニスの手を握った。
「シャムは僕によくしてくれます。兄さんみたいに、いろいろなこと教えてくれたり、励ましてくれたり。『雨が降ろうと曇ろうと、その上でお天道様は輝いてるんだぜ』ってね」
「それは……あたしが昔父親に言われた言葉なんだよ。あたしはパン屋にいた時、辛いことがあると、自分に言い聞かせるようにシャムに言ってた。ありがとう、おにいちゃん」
 早くよくなって下さい、そう言ってアニスは病室を出ると、いつからいたのかルシャデールが立っていた。
「シャムって赤毛の?」
「うん」
 サラユルが出てきて、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう。これであの人も少しずつ回復していくよ」
「シャムのことが心配で、死んだ後も病気が治らなかったの?」
 サラユルはゆっくり首を振った。
「息子を捨てた自分が許せなかったんだ。あの人はもう少しで『囚われの野』にはまってしまうところだった。灯台野の楽師がかろうじてそれを止めたのさ」
 サラユルは玄関まで送ってくれた。
「彼女の息子に言ってくれないか。もし、できれば満月の晩に花を川に流してやってくれと。そうすれば、川を下って海に流れた花はここへ届く」
 わかりました、そうアニスは答えてサラユルと別れた。
「ご先祖さまたちと何をお話してたんですか?」アニスはルシャデールにたずねた
「説教風味のありがたいお話だよ。癒し手の仕事はすばらしいって。」
「きっと心配してるんですよ」
「私がアビュー家を潰すんじゃないかって?」
 そうかもしれないな。アニスはそう思い、くすっと笑う。
「でも……ここにいる連中は嫌味なんか通じない奴ばかりだ」
 ルシャデールは頬をふくらませた。
 二人は施療院を出て歩き出す。
 なぜということもなしに、右手の木立に向かっていた。樹々の間を小川が流れる。助走をつければアニスでも飛び越えられそうな幅だったが、表面の平な飛び石が置かれていた。ふちには芹が生え、クレソンが小さな白い花を咲かせていた。流れの柔らかなところではシジュウカラに似た灰色と黒の鳥が水浴びをする。
 風のそよぎと、それに乗って聞こえてくる竪琴の微かな音が、向こうの世界から身につけてきた不浄なものを洗い流していく。
 どんどん澄んでいく。僕が僕に還っていく。
アニスは空を仰ぐ。雲雀(ひばり)がどこかで鳴いていた。
(ここは覚えがある。なんだか懐かしい)
 再び目を木々の間に戻すと、その向こうに、広場のような草地が見えた。いくつかある木製の四阿(あずまや)の一つに、彼は見出した。夢にまで見た両親を。そして走り出す。
「父さーん! 母さーん!」
 目の前がゆがむ。
 ぼろぼろこぼれる涙で前がよく見えない。そんなアニスをがっちりと受け止めたのは、間違いなく父の腕だった。いったい何度その腕で抱き上げてもらったか、覚えてはいないが、その揺るぎなさにアニスは全幅の信頼を委ねていた。時には、背中から落ちそうなほどに肩越しに乗り出したこともあり、母からこっぴどく二人とも怒られた。
 父の大きな手がアニスの髪をくしゃくしゃとかき混ぜるようになでる。
「アニスったら、本当に昔からお父さんっ子なんだから」
「あ……ごめんなさい」あわてて父から離れると、母が微笑んでハンカチを渡してくれた。涙と鼻水をふき、二人を見ると記憶にあるよりも若く見えた。その後ろに祖父もいた。だが、妹の姿が見えない。
「エルドナは?」
「あの子は次に生まれ変わる準備に入っているんだ。すぐに来るよ」 
 少し落ち着いたアニスを母がふんわり抱きしめた。
「よく、がんばったわね。私たちが死んでしまった後、あなたが村を出て、知らない人たちの中で働いているのを私たちは知っているわ。えらかったわね」
 やさしい言葉はかえって涙を誘う。アニスはまた鼻水をぐしゅぐしゅとさせていた。
「ひどいよ、みんな。……僕だけ置いて。一緒に連れて行ってくれればいいのに」
「アニス」たしなめるような父の声。
「わかっているよ、そんなこと言うのは弱虫だって。弱虫でも、卑怯者でもいいよ。僕も一緒に死にたかった!」
「アニス、おまえは自分よりも辛い思いをしている人を知っているね? あの子の前でそんなことを言うのかい?」
 父も母もいろいろなことを知っているようだった。アニスはちらりと後ろを振り返った。ルシャデールが少し離れたところでこっちを見ていた。彼女のやけつくような憧憬のこもったまなざしは、すぐにいつもの冷ややかなものにとって変わった。アニスはもう一度、両親の方を向いた。
「ごめんなさい」
「おまえは弱虫ではないよ。お前がアビュー家のお屋敷で、誰にも甘えずに頑張っているのはわかっているよ。そして、ちゃんとやってきたじゃないか。十分に強い子だ。私たちは向こうの世界から、こっちに移っただけだ。いつだっておまえのことを愛しているよ」
「カデリにいるあなたに私たちが見えないのは残念だけど、それでも私たちはここで元気に暮らしているわ。いつでもあなたを見ている。それを忘れないで」
「おまえに教えるべきこと、伝えるべきことは、七年で、(たった七年だが)すべて伝えたと思っているよ。これから起こることも、ちゃんと乗り越えていく力をおまえは持っている。地図は受け取ったようだね?」
「これ、やっぱり父さんが描いたの?」
「ああ、うまいもんだろう?」アニスの父は口の端をきゅっと上げて笑った。
「あなたが来るのが待ち遠しくて、じっとしてられないんだから。道に迷わないよう、地図でも用意してあげなさい、って私が言ったの。一度なんか、待ちきれずにカデリへあなたの様子を見に行ったのよ」
 母が笑い、アニスを抱きしめた。
「私の小さな騎士さん、あなたは何も失ってなんかいないわ。私たちはここで生きているし、ね。大丈夫、あなたは一人でもやっていけるわ」
母のぬくもりは離れがたい。また向こうへ戻るのは嫌だった。母の肩越しに十七、八の少女が(とび)色の髪を揺らしながら走って来るのが見えた。
「お兄ちゃん!」彼女はそばにくると、息を切らせて、「ああ、よかった。まだいてくれて」と笑った。
「もしかして……エルドナ?」おそるおそるアニスは聞いてみた。
「そうよ!あ、こんな格好してるからわからないのね。これでいい?」彼女は一瞬にして四歳のエルドナに変わった。安心してアニスは彼女を抱きしめる。
「生まれ変わる準備をしてるって?」
「そう。計画所で先生と話し合って決めるの。次はお姫様に生まれたいって言ったら怒られちゃった。もし、お姫様に生まれるなら、自分の楽しみを我慢しても貧しい人や弱い人につくす覚悟がないとだめだって。お金持ちに生まれる方が大変なんだって」
 エルドナは頬をふくらませる。
「おまえがお姫様じゃまわりの人がかわいそうだ」
 アニスは笑った。
「ひっどおい!」エルドナは兄の方を叩く。そんな妹に、生きていた頃の思い出がよみがえる。アニスの眉根が下がった。
「もう会えないかもしれないんだね」
「まだ生まれるまで少し間があるわ。向こうの世界の時間にしたらまだ何年か先のこと。大丈夫。もし生まれ変わって、お兄ちゃんに会ったら、『豚の鼻に真珠をつっこめ!』って言うから、気がついて」
 それはかくれんぼの時、百数えた鬼が探し始める合図として叫ぶ言葉だ。
「見つけた時は『豚のしっぽはくるくる回る!』だよ」
 会ったら話したいことはいっぱいあったはずだった。しかし、言葉にならない。
(ずっとここにいられたらいいのに)
 しかし、向こうの世界に戻らねばならないことも十分わかっていた。
「僕、行かなきゃ」
「ああ、そうだね」父がうなずく。
 いろいろなことが思い出される。一緒に釣りに行って、何も釣れず母をがっかりさせたこと。山苺を取りに行って道に迷い野宿したこと。何もごちそうのない冬至祭にみんなで歌を歌ってたこと。
「おまえはいつだって、私たちの希望だった。ありがとう」
 もう一度、家族一人一人と抱きあって、アニスはルシャデールとのもとへ行く。
「ありがとう、ルシャデール」
 アニスの父がふわりと彼女を抱きしめる。
「あなただったんだね」ルシャデールが言った。「あの夜、私にミルテの花吹雪を運んできたのは」
「気に入ってくれたかな? 私たちは降りていくこともできる。君がこちらへ昇ってくることができるように」
 それからアニスの母が、彼女を抱きしめようとしたが、ルシャデールはやんわりと拒んだ。
「慣れていないんだ、優しくされるのは」
 そう、と、アニスの母は寂しげにうなずいた。
「でも、忘れないで。『庭』はここだけにあるのではないことを。向こうにもちゃんと、あなたのための『庭』があるわ」
 ルシャデールは心もとない様子だったが、アニスの方を向いた時にはいつもの不機嫌な顔に戻っていた
「もういい?」
「うん」
 アニスは何度も振り返りながら歩きだす。父も母も妹も祖父も、いつまでも手を振りかえしてくれている。また会えるのかわからない。ひどく切ない。それでも、全く失くしたわけではないし、彼らが今でも大事に思ってくれていることは、アニスの中にしっかり浸透していった。
 彼らの姿が見えなくなってしばらくしてから、ルシャデールがたずねた。
「見る? 私のかあさん」
「え……?」
「おまえの母さんとは全然違うし、もしかしたら……気持ち悪いかもしれない。でも、おまえはたぶん軽蔑したりしないだろうから」
 アニスはうなずいた。

 『庭』から再び二人はあの道へ戻る。囚われの野を突っ切っている道へ。
 ルシャデールはむっつりと黙り込んでいる。アニスは家族との再会について思いをめぐらすよりも、彼女の様子の方が気になった。さっきは何も考えずに父母に甘えてしまったが、それを見ていた彼女がどう思ったか。親と死に別れたのは同じだが、どう考えてもルシャデールの方が辛そうだ。
 彼女は道を降りて、岩山の穴の一つへと入って行く。アニスがそれに続く。

 雑然とした部屋だった。カーテンのかからない窓。部屋の隅に転がる五、六個の酒瓶。脱ぎ散らしたままの服が、何枚かベッドのそばに落ちている。テーブルの上には汚れた食器。素焼きの小さな紅壺から、血のように紅が流れ出ていた。
 そして部屋の真ん中に、梁からかけた縄で女性が首を吊っていた。年は三十前だろうか。アニスの母より若いかもしれない。ルシャデールと同じ色の髪はくしゃくしゃに乱れている。(うつ)ろに見開かれた目は灰色だ。細い手首。
ルシャデールはそのさまを、ただじっと見つめている。
〈そいつの母親さ〉
 ふいにカズックの声がして、アニスは思わずきょろきょろ見回した。もちろん、カズックはアビュー屋敷のドルメンだ。
〈あのひとは死んでからずっと、あのままここにいるの?〉
〈ああ。自分から死ぬのは一番悪いことだからな。おまえさんの妹がさっき言っていたろ、また生まれ変わるための準備をしているって。次はどんな人生にするか、計画をたてているってな。自殺は自分で立てた計画を自分で否定し、逃げてしまうことなんだ〉
〈いつか出られるの? 出て『庭』へ行ける?〉
〈いつか、な。しかし、長い時間がかかる。もっとも、そこでは時間の流れがないから、一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり、ってところか……〉
〈なんとかできないの?〉
〈神でも従うべき掟があるのさ〉
 母親の半ば開いた口から、
「ルシャ……デール……ど……こに……」切れ切れの言葉がもれる。
〈ルシャデールっていうのは親父さんの名前さ。女の子は父親に似るっていうが、そうなんだろうな。おっかさんは娘を親父さんの名前で呼んでいたらしい〉
アニスには想像もできなかった。父親が母を置いて失踪し、母が首を(くく)って死ぬ。
〈母一人、子一人の家ってのは、たまにあるさ。しかし、一緒に住んでいながら、これほど見捨てられたヤツもそういないだろうな〉
 服は一度着せたら、小さくなって着られなくなってもそのまま。ろくに拭いたこともない体は垢で真っ黒、髪は一度もとかしたことがないのか、もつれて鳥の巣よりもひどい。食事も一日に一回もらえればいい方。母親は酒場の仕事に出たまま、帰ってこないこともあったから、その間は水を飲んでしのいでいた。酒場で知り合った男を連れて帰ることもあった。
〈なぜ、このひとは自殺なんかしたの?〉
 しばしの沈黙があり、それからカズックは話してくれた。
〈その女は娘の力を、特に予見の力を嫌っていた。怖れていたのさ。そいつの父親がもう戻ってこないと、宣告されるのではないかとな。だけど、酒場の男に捨てられて、ついに聞かずにはいれなくなったんだ。おまえの父さんはまたここへ戻って来るか、と。そいつは母親に正直に答えたさ。もう二度と来ない、とな〉
〈ルシャデールは……知ってるの?自分の言ったことがきっかけで、お母さんが自殺したって〉
〈ああ、あいつはわかっている〉
 その予見がなくても、長生きはできなかったかもしれない。しかし、そうであっても、自分の言葉が最後の一押しになってしまったことを、どう考えればいいのか。
〈おれのところに来た時は、汚い身なりの中に目だけがぎらついて、ちょっとした魔物じみてたな。まったく口をきかず、敵意に満ちた目をして、周りの人間をいつも睨みつけていたな。それでもかなりマシになったんだ〉
 ルシャデールは何度もここへ来たのだろう。アニスは彼女を見た。固い表情で母を見上げる姿は、どこかあきらめが漂う。本当は、こんな姿の母を人に見せたくはなかったかもしれない。それでもアニスを連れて来たのは、彼の家族を見て、根拠のない奇跡を望んだからのように思えた。
「かあさん……」
 かぼそい声でルシャデールが呼びかける。彼女の口から出た言葉は血のように紅い花びらに変わり、どこからか流れてくる柔らかな気流に乗って吹き上がると母の上に降りかかった。それ以上言葉もなく、彼女はたたずむ。取り乱すこともなく、淡々と首を括ったままの母を見つめている。
 どうするという考えもなしに、少年はルシャデールの横に立つ。どうしたものか戸惑いつつ、少女と母親を見やる。
「お母さんの名前、何ていうの?」
「セレダ」
 ルシャデールはそれがどうしたというように、視線を彼に投げかける。
「セレダさん」アニスは語りかける。「ルシャデールはあなたのことが大好きだって」
 言葉は薄桃色の花びらに変わりセレダの上に降り落ちる。
「あなたがこうして囚われてしまっているのが、それに、そこから出してあげられないのがとても悲しいって。小さかった頃、もっとあなたに抱きしめてほしかったって」
 花びらははらはらと、首をくくったままの彼女の足下に降っては消えていく。春の雪のように。
「もっと、愛してほしかったって。だけど、今はそんなことより、あなたが早くそこから出て、幸せになれることを祈っているって」
 アニスはそこまで言うと、ルシャデールの方を振り向き          
「そういうことを言いたいんだよね?」と聞いた。
 ルシャデールは泣きそうに顔をゆがめ、唇をかんでいた。泣いていたのはアニスの方だった。彼はセレダに近づいた。怖いとは思わなかった。黒々とした絶望と悲しみ、混乱した感情が流れてくる。それは波打ち呑み込もうとアニスを襲うが、彼の中からあふれてくる輝きとぶつかり合って、昇華されていく。
(本当は生きたかったんだ、きっと。幸せに生きたかったんだ。僕の家族がそうだったように、三人で幸せに暮らしたかったんだ)
 アニスにはそう思えた。目の前に両足がぶら下がっている。
「せめて降ろしてあげられないかな?」アニスは聞くともなしに、言った。「あのロープを切らなきゃ。ナイフ……」
「これ……」
 ルシャデールが小さな銀のナイフを差し出していた。
 それを受け取ると、アニスはひょいっと飛び上がり、セレダの頭より少し高いところに留まる。浮揚するのも少し慣れた。
 左手で縄を抑え、その上をすぱっと断つ。セレダを乱暴に落とさないように、アニスは少しずつ降ろしていった。
 床に座り込んだルシャデールの母は、相変わらず虚ろな表情だったが、陰鬱な影は少し消えていた。アニスは首から縄をはずしてやった。ルシャデールは呆然と母を見ている。
「抱きしめてあげなよ。やったことないかもしれないけど。ほら、こんなふうに」アニスはそう言って、セレダの首を抱きしめる。
 しかし、ルシャデールは動けなかった。甘えようとしても「うるさい子だね! あっちへお行き」と拒絶された。愛される値打ちのない子、生まれてはいけなかった子。その思いは強く彼女の中に根を張っている。
 カタ、と部屋の隅で音がした。そこには大きな衣装箱があった。
 蓋を押し上げて、覗いている二つの目がある。アニスは近づくと、そーっと蓋をあけた。中で縮こまっていたのは小さな女の子。枯草色の髪に、灰色の瞳。妹と同じ三歳くらいだろうか。ルシャデールをそのまま小さくしたような姿。
「君は……ルシャデール?」
 衣装箱の中の女の子にアニスはたずねた。彼女は小さく首を振る。
「ターシャ。……でも、母さんはしょっちゅうルシャデールって呼んでる」
 うつむきがちにアニスを見る顔はあどけなく可愛い。思わず微笑むアニスに、ターシャもためらいがちに笑みを返す。
「出ておいでよ」
「母さんは?」
 聞かれてアニスは床に座り込むセレダを振り向く。ターシャの目に入らないはずはないのだが、彼女の目に映らないのかもしれない。ルシャデールは凍りついたように、アニスと幼い自分を凝視していた。
「お母さんは……用事でお出かけだよ」
「どこへ行ったの? もう帰ってこないの? いやだ、母さん!」
 箱から出てどこかへ行こうとするターシャをアニスは抱きとめた。
「帰って来るよ。お母さんは、ターシャのことが大好きだから、ちゃんと帰って来る」
 ターシャの目から涙があふれる。
「かあさんはターシャのことが嫌いなの。いつも、おまえなんかいなければいいのにって言うの。きっと、あたしが悪い子だから」
「ターシャは悪い子じゃないよ」アニスはターシャの背中をさする。「お母さんはターシャのことが大好きだよ。ただ、ちょっと……辛いことや悲しいことが多すぎて、うまく大好きって言えなくなったんだ」
「そうなの?」
「うん。だって僕はターシャのこと大好きだもの。お母さんがターシャのこと好きでないはずないよ」
「あなただあれ?」
「僕はアニス」
「幽霊には見えないけど、もしかして妖精さん? あたし妖精さんはよく見るの。怖いのとか、優しいのとか。」
「うーん……そんなようなもの、かな?……あ、そうだ、友達だよ」
「友達って?」
「家族じゃないけど、大好きって言ってくれる人のこと」
「ターシャのこと好き?」
「うん、大好き」
「本当? 世界中で一番?」
「うん。世界で一番」
「うれしい!」小さなターシャは飛び上がってアニスの首に抱きついた。「お礼に首飾りをあげる。」
 彼女の手には、白つめ草を編んで作った首飾りがあった。それをアニスの首にかけた。
「ありがとう」にっこりと微笑むアニス。「もう一つあるかな、首飾り?」
「うん」ターシャの手にもう一つの首飾りが現れる。
「それをあっちのお姉ちゃんにかけてあげて」
 ルシャデールは困ったようにアニスを見るが、ターシャは彼女の首に花輪をかけた。
「はい」
「……」
どうしていいかわからないルシャデールにアニスは、あ・り・が・と・う、と口の形を作って教える。
「あ……りがとう」
 その瞬間、光がはじけた。白銀の輝く粒子がルシャデールとターシャを包む。一瞬のち、ターシャは消え、ルシャデールが残っていた。その胸にはシロツメクサの首飾りがかかっている。
 彼女は首飾りをつまみ、それから上を向いて目をつぶる。涙が一筋頬を流れていく。
 その様子に、アニスの胸が痛む。誰にもすがることができなかった今までの姿が見えるような気がして。
 泣きたい時も、ああやって我慢してきたんだ。
 ルシャデールは目をぎっちりつぶって涙を押し出してから手で拭い、アニスの方を向いた。
「一度だけ、母さんが近くの野原に連れて行ってくれたことがある。その時に、シロツメクサで首飾り編んでくれたんだ。そんなことは……あれきりだったけど」
 彼女は座り込んだ母の前へ行って両膝をつくと、その首に抱きつく。
 生きていた時にしたかったこと。でも、拒まれてばかりだった。その分を取り返すかのように、いつまでもルシャデールは母にしがみついていた。肩を震わし、嗚咽(おえつ)が低くもれる。
 だが、虚空を見つめる母は腕をだらんと下げたまま、何の反応もない。
「帰らない……」母の胸から顔を上げ、彼女はつぶやいた。「ずっとここにいる」
「ルシャデール」アニスはそばにしゃがみこんだ。「僕たちは向こうの世界で生きていかなきゃいけない。ね?」
 そして、少女の手を取り、ポンポンと両手ではさむ。
 彼女は涙を手でぬぐい、のろのろと立ち上がると、母を名残惜しげに見る。
「戻らなきゃ」アニスが言った。「僕たちは先に進まなきゃならない」

 アニスと手をつないで歩きながら、ふいにルシャデールは彼にたずねた。
「友達?あの子にそう言ってたね。」
「うん」アニスは答えてから言いづらそうにルシャデールの方を見た。「信じてくれないかもしれないけど、僕はあの子にあったことがあるように思う。」
 思わずルシャデールは彼を見る。
「妹が生まれる少し前だからあのくらいの頃かな。裏山で薪にする木を拾っていたら、女の子が現れて。薪を一緒に拾ってくれて、一緒に運んでくれた。そして、家についたらいなくなったんだ。近所の子ではなかった。父さんは村人の誰かの知り合いじゃないかって言ったけど、あとで聞いたらそんな子はいなかった。」
「……それ、覚えているよ。」ルシャデールはぼそっと言った。
「え?」
「衣装箱の中で寝ていて、気がついたら森の中にいた。歩いていたら黒い髪の子がいて木を拾っていたから手伝った。どうやって帰ってきたかはわからないけど。だから最初に庭で会った時、なんとなくわかったよ。あのときの子だって。でも覚えているかどうかわからないし、頭がイカレてるとか思われそうだから言わなかった。」
「思わないよ」
「あの時、『友達になってよ』って言ったのは覚えてる?」
「どっちが?僕?」
「うん」
「ごめん、覚えてない。あっ、……その時に『友達って何?』って聞いたんじゃないかな?さっきみたいに」
「うん。友達って何だかわかってなかったから。で、教えてくれたんだよ。それで私がいいよ、って約束した。」
「うん」
「あれはまだ……続いている?」
「友達でいること?うん、続いているよ。僕はそう思っている。君は?」
「うん。でも、向こうへ戻ったら、御寮様と召使だ」
 その現実は二人に重くのしかかる。
「僕、薬草を盗ったことを言わなきゃならない。執事さんか家事頭さんに。このことは、君には関係ない。僕が自分で決めてやったことだから。それで、もし、僕がお屋敷を追い出されて乞食になっちゃっても、君は友達でいてくれるんだろ?それならいいよ。」
 ルシャデールはしばらく考えこんでいた。
「トリスタンに言えばいい。ナランやビエンディクじゃなく。トリスタンの方が、判断が甘い」
「そう?」
「うん、きっと大丈夫。なんとかなるよ」
「君の『大丈夫』は……あてにならない」施療所に盗みに入った時のことを思い出してアニスは言った。
「うるさい、男がいつまでもぐちゃぐちゃ言うんじゃない!」
そう言いつつも、ルシャデールは笑っていた。楽しそうに、そしてうれしそうに。それを見ているアニスも幸せな気分だった。
 帰り道は進むのが早い。橋を過ぎ、運河沿いに歩いていく。すぐに灯台が見えてきた。

第十二章 地上の庭

    


 ラフィアムが歌っていた。

「あの人が帰ってくる
 お茶とお菓子を用意しよう
 サモワールに火を入れて
 お湯をわかそう
 物語がひとつ終わる
 あの人はどんな物語を描いてきたのだろう
 きっと話してくれる
 時間はいくらでもある
 僕はシタールを奏でながら聞こう。
 さあ、お湯が沸いたよ
 あの人が帰ってくる 」

「風景が変わっている」アニスがつぶやいた。
 海は低い山並にとって変わった。その反対側では麦畑が広がり、金色の穂が風にうねる。
 灯台は変わらず、にすっくりと立っていた。その周りに茂っているのはありきたりの草花だ。金色のアワダチソウ、白い小菊をもっと小さくしたようなヒメジョオン、青いツユクサ、赤つめ草、白つめ草。それに、猫を遊ばせるのによさそうなエノコログサが配されている。
「不思議だね。どの草も好き勝手に生えているのに、草原全体ではとてもまとまっているような気がする」アニスが言った。
「宇宙は絶妙な調和で創られている。でも、それはここだけじゃない」ラフィアムが答えた。
 クホーンは相変わらず草の上にとぐろを巻いて憩っていた。
「おかえり。いい旅だったかな?」
「はい」アニスはうなずいた。
 雨の司主(つかさぬし)はその深い藍色の瞳で子供たちの顔を相互眺め、アニスに言った。
「君はちゃんと導き手の役割を果たしてきたね」
「導き手? 僕が?」
「ああ、そうだよ。『庭』を訪れなければならなかったのは、本当は君じゃなく彼女の方だった。もちろん、彼女は今までにも『庭』を訪れている。しかし、『庭』が彼女に送り続けてきたメッセージを、いつも受け取り損ねていたんだよ」
だから君を通して受け取ることが必要だった、とクホーンは話した。
「君が父さん母さんから贈られたものはルシャデールに贈られた。ルシャデール、今度は君がそれを誰かに贈らなければいけないよ」
「誰に、何を?」
 クホーンはそれには答えず、
「君はアニスや他の人にはない力を持っている。それを有効に役立てればいい。急ぐ必要はない」と、笑顔らしきものを作って見せた。竜の笑顔というのはいささか恐いものであったが。
「父さんや母さんたちには会ってきたね?」
「はい」アニスは答えた。
 みんな幸せそうだった。すーっと風が彼の髪をなでていく。
「もう雨を降らせても大丈夫かな?」
 悲しみは薄れていたが、アニスの中に居座っていた。たとえ、みんながこっちで生きているとしても、向こうに戻った時にいないのは同じだ。
 答えずにいるアニスにクホーンは尻尾で灯台を指して言った。
「見てくるかね? 家族が亡くなった時のことを」
 はい、アニスはうなずいた。
 ついて行っておやり、雨竜はルシャデールに言った。
「おまえが大丈夫でなくても雨は降らすんだろうに」
「うん、たぶんね。きっと気遣ってくれてるんだ」
「いいヤツだね、おまえは」
「ひねくれてないだけだよ」アニスはクスクス笑う。
「ふん、さすがに次期侍従候補は嫌味を覚えるのも早いもんだ」
 誰から教わったかは無視してルシャデールはふくれ面をする。
「いや、それは……」
「本当にそうなったらいいのに」少年の困惑を無視して彼女は不機嫌につぶやく。
「えっ、いやだ」アニスは即答する。
「なんで?」
「大変そうだし」
「軟弱者!」
 ルシャデールが手を振り上げて追いかけてくる。アニスはそれから逃れるように灯台の扉の中へ走り込んだ。入ってすぐに立ち止まった彼の背中にルシャデールがぶつかった。「急に止まるな!」
「ごめん……」
 灯台の中は真白い光に満ちた空間だった。
 深みのある声で、歌のようなものが聞こえる。

 静寂の空間、無の(ところ)
 誰もいない
 誰も害さない
 決してどこにもつながらず、
 それでいて、
 すべての場所に行きつける、閉じた空間
 力の働かないところ
 音のないところ
 静止せよ、記憶の森に。
 ここは想い沈みし地なれば。

 声の主は大きな一羽のフクロウだった。
「ようこそ『時の灯台』へ」近くのコナラ林から一頭のフクロウが現れて挨拶した。灯台守のホーロウだと彼は名乗った。
「こんにちは」
「ここはあらゆる魂の記憶が眠るところ。見たいのは何だね?」
「亡くなる時の僕の家族を見せて下さい。」

 ちょうど家の上空にいるような感じだった。よく(まき)を拾いに行った裏山が、膨大な土砂となって崩れ、石の家をおもちゃのように押し流していく。が、それだけではなかった。
 精霊たちが集まっている。二十人ぐらいはいるだろう。みんな暖かな金色や銀色の光を放っていた。大きな羽を持つ精霊もいる。何人かが盛り上がった土砂の中へ入っていき、両親や妹、祖父を抱えて出てきた。みんな苦しくはなさそうだ。
 物置小屋からアニスが出てきた。呆然と立ちすくんでいる。精霊も亡くなった家族も彼には見えない。家族が一人一人アニスを抱きしめていく。その口は「すまない」とか「ごめんね」とか言っていた。みんな、穏やかな顔ではあるがアニスを一人残していくことに心を痛めているようだった。
 映像はそこで終わった。
「あの最後に現れた精霊たちは?」
「導きと見守りの精霊エフェットじゃよ。誰でも生まれた時から四、五人はついておる」
「あまり苦しまずに逝ったんでしょうか?」
「ああ、苦しんだのは君じゃろう。一人生き残ったことで自分を責めてはいかんよ」
「自分を責める?」
「君は一人生き残った自分を憎んでいたろう。そして、自らに罰を与えるために、雨が降る度に記憶を呼び戻し、恐怖を刻印していた。違うかね?」
「わかりません」……でも、そうかもしれない。
「罪を感じる必要はないのじゃよ。生きることは常に祝福じゃ。そして、よく生きた者にとっては死は恩寵となる」
「でも、エルドナは短すぎませんか?」
「彼女は君に喜びを与えなかったかね?」
「ええ、それは確かに」
「とすれば、彼女はその役割を立派に果たしたと言えないかな?」
「え……でも、すると妹はたったそれだけのために生まれてきたのですか?」
「妹さんが君に喜びを与えたことが、君には『たったそれだけ』のことなのかね?」
「えっ、いや、そうではなく……僕はもっと妹に楽しいことやうれしいこと、たくさんしてほしかった。他の女の子のように」
「だが、妹さんはそういう人生を選んだ。愛を与えるだけの短い人生。それを選べる彼女はとても強い魂の持ち主なのだよ。彼女は死ぬのが早すぎたと残念がっていたかね?」
「いいえ、生まれ変わるのを楽しみにはしていましたが」
「そうだろう。妹さんが君に贈る気持ちと君が妹さんを思う気持ちはそれぞれ別、そう思うかもしれんが、思い合う時に二つは一つだ。だからカデリで経験する君の喜びはこちらにいる彼女の喜びになる。無理に納得する必要はない。早世した妹さんを悼む気持ちが、カデリに戻った時、の思いやりや優しさに変わっていくだろう。その時また彼女のことを思い出してごらん」
 灯台守は、次にルシャデールに見たいものをたずねた。
「未来も見えるの?」
「ああ、その場合は『今の時点で一番起こりそうな未来』になるが。知っておるかもしれんが、未来はギリギリまで不確定じゃからな」
「じゃあ、二十年後の私を」

 しかし、現れたのはトリスタンと薔薇園の女性だった。トリスタンは物憂げな顔をして、隣に座る彼女の膝に頭を乗せている。
「かわいくない子なんだ」
「どんなふうにです?」
「笑わないし、いつも機嫌が悪い。皮肉ばかり言うし、怒って侍女に花瓶や壺を投げるつける。召使はみんな嫌がっている。」
「注意はなさらないのですか?」
「誰が? もしかして私が?」
「もしかしてではなく、貴方に決まってます。だって父親なのですから。他は皆使用人でしょう? 使用人が主人の娘に注意するのはどうかしら? なかなかできないのではありませんか?」
「父親という実感が全然ないんだが……」
「まあ。それじゃ、エデフィルに対してはどうですか? やっぱり父親という実感がないのかしら?」
 トリスタンは気まずそうな顔をする。
「こんなこと言うと君は怒るかもしれないが……」
「何ですか?」
「父親という実感が、なんというか……あまりない。もちろん、エデフィルが生まれたのはうれしい。ただ、十月の間、お腹の中で育てた君とは同じに感じられない」
「残念ね、男は身籠ることができなくて」
 夫人は余裕で微笑っている。
「まして養子。それも、ある日訪れた商人の口から聞いて、トントン拍子に話が進み、あっという間にカームニルだ。初対面の少女に『初めまして、突然ですが、跡継ぎになってもらえませんか』って言わなきゃならないんだ。彼女も戸惑っているだろうけど、私だって戸惑っているんだ!」
「そうね。でも、それならそれで、ちゃんと仰ればいいのです。今は戸惑っているけど、跡継ぎとしてじゃなく、自分の子として大切に思えるようにしていきたい、と。それを伝えないから、その子も不安になるのではありませんか? あなたを頼りにしていいのか、それとも単に跡継ぎとしてしか求められていないのか」
 トリスタンは黙って聞いている。
「大人がすべきことは、子供を自分よりちょっとだけ、ましな人間に仕立てること。祖母がよく言ってました」
「……」
「血のつながりなんて、親子であるために絶対必要というわけではないと思います。相手を思いやる気持ちさえあればいいのでは? それさえあれば、どんな子であろうと、きっと伝わります」

「これ、私じゃないよ」
 ルシャデールは、灯台守に苦情を申し立てていた。
「ちょっと人間が違っていたようだ。しかし、あの男が二十年後のおまえさんの姿だよ」
 灯台守はそう答えた。
 憤然としている彼女を横目に、アニスは別のことを考えていた。
(今のトリスタン様が二十年後のルシャデールだとしたら、あの女の人みたいになだめたり、叱ったりするのは誰がするんだろう。誰だかわからないけど、同情しちゃうな。絶対、ルシャデールの方が御前様より手に負えないに決まってる)

 外に出ると、楽師が手を振っていた。
「お茶にしようー!」
 テーブルの上にはお茶の用意がされている。船頭のヴィセトワやリシャルもいる。
 お砂糖を三ついれた甘く熱いお茶を飲んでいると、クホーンがアニスを見つめていた。
「もう、大丈夫です。」
悲しくないわけではないが、夜明けのような清々しさが彼の胸に生まれていた。クホーンは黙ってうなずいた。
 ふいに、楽師が立ち上がった。灯台のむこうから誰かが歩いてくる。抜き身の剣を肩に担い、頭には矢が刺さったまま。まるで戦いの女神といったなりだ。
ラフィアムは手の茶碗も置かずに走り寄って行く、
「おかえり」彼は頭の矢を抜いてやった。
「ただいま」答えた彼女はラフィアムの手から茶碗をとり、一息に飲んだ。笑みを交し合って後、二人はテーブルの方へ来る。
「ここにそのような刃物を持ち込むでない」
 クホーンが眉をひそめる。
「ああそうだったね」剣は吾亦紅(われもこう)の花束に変わり、テーブルに飾られた。「おや、お客人かい? まだ生きている人たちだね」
「彼らは冥界めぐりをしてきたんだ」ラフィアムは二人の方を向き、「彼女は今、死んできたとこなんだ」と教えてくれた。
 頭に刺さっていた矢を見なかったら、そんな風には見えなかっただろう。不作法かもしれないと思ったが、アニスは知りたかったことの一つを聞いてみる。
「死ぬのって……どういう気分ですか」
「直前はいつも怖いね。だけど、ある点を過ぎると、すべて許されて、ただ愛されているような幸福な気持ちになる。あたしは剣とか矢で殺されるのが多いけど、病気でもやっぱり怖いかもだろうね。ベッドに寝たまま、じっと死を待っているなんて、あたしは嫌だな。でも、次が始まるときはワクワクするよ」
「それは生まれ変わる時のことですか?」
「そう。あたしはこの人みたいに」と、彼女は握った手に立てた親指でラフィアムを指す。「こっちにじっとしているなんてできない。生まれ変わりの瞬間はいいもんだよ。すべてが希望に満ちている」
「カデリに生まれて生きる。そのこと自体が冒険なのに、彼女はさらに危険やぞくぞくする緊張感を求めてしまうんだ。おかしな趣味だと僕はいつも思うよ」ラフィアムはあきれたようにシヴァリエルスを見る。
 聞き覚えのある歌声が聞こえた。高く澄んだ音色。風を切るような濃い空色の羽がラフィアムの肩におさまる。
頻伽鳥(びんがちょう)だ」ルシャデールが声をあげた。「向こうでは夜しか現れないって聞いたけど、ここは昼でも鳴いているんだ」
 するとクホーンが答えた。
「頻伽鳥がなぜ夜しか現れないか、それは頻伽鳥が親を亡くした子供のために歌うからだよ。昼の間は生きるため身を粉にして働き、夜は親を恋しがって泣く。そんな子たちに伝えようとするのだよ」
「何を伝えるの?」ルシャデールはたずねた。アビュー家の庭でアニスと頻伽鳥の歌を聞いた晩のことを思い出す。
「わが子を置いてきてしまった親たちの想いだよ。ずっとおまえを見守っているよ、とね。たとえ」クホーンはルシャデールの方を見て言った。「他の何かに囚われてしまっていたとしても、心のずっと奥深くではそう思っている」
 ラフィアムが頻伽鳥のメロディに合わせて歌いだす。

「夏に至る祝祭の日
 陽炎たつ道のむこう
 青野原に風は渡っていく
 野イチゴの実が色づく
 今年最初の牧草を刈ろう
 麦わら帽子を忘れないで
 蛙が沢でゲコゲコ鳴くよ
 ほら、一緒に歌おう
 花が一つ咲き、散っていく
 最上の夏の午後
 今この一瞬は永遠
 花はまた一つ咲こうとしている」

 今この一瞬は永遠。アニスは胸の中で繰り返す。大人になっても、きっと僕はこの時を忘れないだろうな。忘れられない時というのはいっぱいあるけど、これもきっとその一つだ。思い出しさえすれば、きっとこの時に立ち返る。
 頻伽鳥が『庭』を目指して飛び立った。
 元の世界へ戻る時が来ていた。


 ドルメテ祭が終わって二週間ほどが過ぎた。二人とも以前と同じ生活が続いている。
 ルシャデールとトリスタンとの関係は前とあまり変わっていない。出て行く理由もなかった。
「午後から木を植えよう」
 昼食の時にトリスタンが言いだした。
「木?」
「ザムルーズ、って言ったかな。誕生の木だよ」
 思いがけないことで、ルシャデールは何と言っていいやらわからず黙ったままだった。
「白状すると、アニサードに迫られたんだ。植えてあげてください、とね」
「アニスが……」
 別にザムルーズなど植えてくれなくても気にはしない。だが、アニスにザムルーズのことを聞いた時、ねたましかったのも事実だ。生まれてきたことを喜んでくれる親がいることに。
 だが、口をついて出るのは、例によって憎まれ口だ。
「そんなものいらない。でも、あなたがどうしても植えたいと言うなら好きにすればいい」
「うん、そうするよ」トリスタンは微笑んだ。
 たとえ御寮様がいらないと言っても、植えてあげてください。迷惑そうな顔をしても、絶対に喜んでいますから。
 そうアニスが念押ししたことを彼女は知らない。養父が笑ったのは、彼の言ったとおりだったからだということも。
 昼食の後でザムルーズは植えられた。場所は薬草園の西側。塀の近くだ。ルシャデールがそこがいいと言ったのだ。アニスの柳の木の近くにしたかった。
 バシル親方が掘った穴に、トリスタンが糸杉の苗木を入れて土をかける。
「なんで糸杉なの? 墓場の木でしょ?」
 確かに糸杉は墓地によく植えられる木だった。
 トリスタンは意外そうな顔をして、
「君がそれを言うとはね」と言った。「来たりて還る。それだけのこと。天に向かって燃える炎のようで、きれいな姿をしているじゃないか。私は大好きだよ」
 うーん、確かにそうだけど。ルシャデールは考え込む。やっぱりユフェレンは変人だな。
 シャムが持って来た木桶を受け取った親方がおや、と不審そうに塀のそばに視線をやる。アニスの柳の木に気がついたのだ。
「だめ、抜かないで!」ルシャデールは声を上げる。
「御寮様……?」
 それはアニスのザムルーズだから。と、言っていいのかどうか、ルシャデールは迷った。後で彼が叱られるのは嫌だ。
「それは抜かないで。つまり……柳というのは癒しと再生を意味するって聞いた。アビュー家にはふさわしい木だから……」
 突然、気がついた。死、そして癒しと再生。まぶしい光の輪の中で繰り返されていくもの。彼女の胸に流れ込む、きらきらした輝くもの。
 トリスタンが柳は抜かないように指示していた。親方はうなずき、植えたばかりの糸杉に水をたっぷりやると、一礼してその場を辞した。しばし二人でその木を見ていた。
「本当の親子みたいにはなれないよ。」
 ルシャデールは養父を振り仰ぐ。本当の親子でも苦いことはある。それは二人ともわかっている。
「私は可愛くない娘の役しかできないだろうし」
「私も軟弱な父親の役しかできそうにないよ」
「それでいいなら」
「いいよ」
 ルシャデールは自然と微笑んでいた。養父からも同じものが返ってくる
「素敵な人だね、薔薇園の女の人」
 嫌味も皮肉もない口調に、トリスタンははっとしたようにまなざしを向け、それから照れたように一瞬目を伏せた。
「ああ」
「美人だった」
「ああ、それに優しいよ。彼女は斎宮院の御神子(みかんこ)、つまり斎姫様の身のまわりをお世話する係だったんだ」
「そのうちゆっくり聞いてあげるよ。膝枕で愚痴を聞いてもらっていることとか」
「……!」
「あの人なら許してあげる」
 時の灯台で見た彼女なら、きっと好きになれると思った。
 彼女はどこ行くあてもないが、薬草園の南へと歩き出す。その背中に向かって、トリスタンが声をかけた。
「今度、連れて行くよ。それから」
 ルシャデールは振り返りもせずに、手を振った。
「アニサードを侍従見習いにしようと思っている」
 彼女は足を止めた。それからゆっくりと養父の方を向いた。
「そう、君の侍従だ。ただ、彼は今一つ乗り気ではないんだが」
 彼には適性がある、トリスタンはそう言った。
「適性?」
「ひねくれ者で時には暴力を振るう御寮様を平気で受け入れることができる、という適性さ」
「なるほど」減らず口ならルシャデールは負けていない。「軟弱者で泣き言ばかり言う主人を平然と、さりげなく補助する適性をデナンが備えているようにね」
 トリスタンは苦笑いする。
「侍従とは四十年の付き合いになる。大切にしなさい。もっとも、その前に彼を説得しなくてはならないが」
「……ありがとう」うれしい気持ちを抑えつつ、素っ気なく、ルシャデールは謝意を口にする。

 それから数日後、アニスはドルメンでルシャデールを待っていた。
 朝、水を汲んでいた時にカズックが、昼過ぎドルメンで待っていると、ルシャデールからの伝言を持って来たのだ。かつて祭壇に鎮座していた身が、今では使い走りの小僧も同然だと、彼は嘆いてみせるが、餌をくれる下女の声にはしっぽを振っていく。『キツネちゃん』の生活もそれほど嫌がっているわけではなさそうだった。
待ちながらため息をつく。
 パストーレンを盗んだ疑いは晴れていた。ユフェリへ行った翌日、ドレフィルに訴えたのだ。すると彼は
『悪かった。俺、犬が好きなもんで、キツネちゃんにっておまえから言われて、つい三枚もやったけど、料理長にあとでえらいどやされると思って、知らないって言ってしまったんだ。おまえに疑いがかかるとは思わなかったもんで。すまなかった』と言って、詫びにと装飾の入ったナイフをアニスにくれたのだった。
 だが、彼の気を重くしているのはそのことではない。
 トリスタンが暇そうな時をねらって、アニスは薬草を盗ったことを話した。
「僕……施療所から薬草を盗みました。だから、お屋敷を追い出されても構いません。ただ、お願いがあります」
「薬草泥棒が自首してきたと思ったら、お願いか。ずいぶんと厚かましい泥棒だねえ」
 トリスタンの言葉にアニスは赤くなってうつむいた。
 確かに、厚かましいかもしれない。でも、言わなきゃ。
「で、そのお願いっていうのは?」
 ルシャデールにザムルーズを植えてあげて欲しいと、アニスは頼んだ。
「わかった。……で、薬草を盗んだと言ったね」
「はい、ヌマアサガオとマルメキノコを」
「それでは、重い罰を与えないといけないな。」
「はい……」
「来年から、君は侍従としてルシャデールに仕えることを命じる。いいね?」
「え? それは……」罰なのですか?と聞き返そうとしたが、主の言葉を待った。
「いずれ、私は神和師の職を彼女に譲るだろう。そして彼女も同様に職を辞する時が来る。君はそれまで彼女に仕え、五十三代目当主となる者の侍従を育てなければならない」
「僕は……デナンさんのようにはできません」
「イェニソールと同じでなくていい。君は君だ。大丈夫、彼が教えてくれる」
 デナンの方を見れば、彼はいつもと同じ涼しい顔でアニスを見ていた。手加減はしてくれなさそうだ。やはり罰かもしれない。それに、主人がルシャデールだ。
「まあ、四十年仕えるのは、終身刑みたいなものだからな。選ばせてあげよう。死ぬまで僕童をするのと、どちらがいい? もちろん、その場合は今と同じだから、給金はなしだ。」
 トリスタンは楽しそうにいたずらな目をアニスに向けた。

「シャムには伝えた?お母さんのこと」やってきたルシャデールがたずねた。
「はい」
 ドルメテが終わった翌日に、シャムに話した。信じてもらえないのでは、と心配したが、彼はアニスの話を黙って聞いてくれた。そして、固い表情で「わかった、ありがとな」とだけつぶやいた。
 その後、彼がどう考えたかはわからない。しかし、一週間ほど前の夕方、薬草園で見かけたシャムは花を摘んでいた。花はもう『庭』へ届いただろうか。
「……なんだか期待してしまったんだよね」ルシャデールが言った。
 え? アニスは聞き返す。
「私の母さんも、もしかしてシャムのお母さんみたいに、思ってくれるようになってないかと」
 その後でアニスの両親を見て、さらに奇跡を夢見たのだという。
「ふふ、同じだったけど」
 ルシャデールは自嘲的に笑う。
 アニスは頻伽鳥の歌を聞いた夜に、彼女が「人は死なない」とはっきり言ったことを思い出した。『庭』へ昇ることなく、自らの想いに呪縛されたまま生き続けるというのであれば、死ぬことよりも辛いかもしれない。それを見てきた彼女にとっても。
「いいえ」アニスは言った。「時間はかかるかもしれないけど、必ずお母さんは御寮様のことを思い出します」
『庭』の本質は愛。すべての魂は庭を目指し、最終的には、遥かな始源の地へ還っていく。そう、サラユルが言ってた。
「信じているんだ、おまえは。一点の曇りもなく。単純だね。でも」ルシャデールは小さく息をついた。「そういうところがまぶしい」
 ややあって、ルシャデールは羊皮紙を折りたたんだものをアニスに差し出した。
「これをやるよ。誕生日の嫌がらせだ」
 彼は目を見開いてそれを受け取る。誕生日の嫌がらせ? 確かに今日は僕の誕生日だけど。何だろう?
 羊皮紙を開き、彼は、あっ、と小さく声を上げた。
「これ、あの地図ですね?」
 橋の地図屋で手に入れたユフェリの地図だ。こちらに戻るとともに失われたが、あれをそのまま羊皮紙に書き写したものだった。父の筆跡もそのままだ。
「二回ほど降りてきてもらった」
「えっ?」
「だから、おまえの父さんにこっちへ降りてきてもらって、最初は教えてもらいながら私が描いてたけど、だめだった。で、私の体を明け渡して、描いてもらった。だから、描いたのは私じゃなく、おまえの父さんだ」
 えええー! と遠慮なく不満の声を上げるアニス。
「それなら僕も会いたかったです。どうして呼んでくれなかったんですか?」
「誕生日の嫌がらせだと、言ったろう!」
「えー……」一瞬絶句し、その後でアニスは思い出す。家族を亡くしてから誕生日を祝ってもらったことはなかった。ルシャデールは面白くなさそうな顔でそっぽ向いている。
(きっと、これは祝ってくれてるんだ。『嫌がらせ』は照れ隠しだ)アニスはぽっと微笑む。
「ありがとうございます」
 すると、ルシャデールが手の平を上に向けて差し出す。
「私には?」
 自分にも誕生日の祝いをくれ、ということらしい。
「いつですか?」
「知らない。三月の末頃から四月の初めくらい」
正確な日はわからないのだろう。彼女こそ一度も祝ってもらったことないに違いない。
「じゃあ、三月二十一日。春分の日」
「なんで?」
「ハトゥラプルでは、その頃になると白鳥や雁が北への渡りを始めるんです。雪が縮むように溶け始め、畑には雪融けを促すために灰をまいて。冬に眠っていたものが動き出す。そんな頃です」ルシャデールにはふさわしいように思えた。
「うん、いいね。で、今年の分は何をくれるの?」
 それを言われるとアニスは困る。今のところ、ジュース五杯分くらいのこずかいを月に一度もらっているだけだ。すると、ルシャデールが抜け目ないまなざしを向けて言う。
「欲しいものがある」
「何ですか?」
 嫌な予感がした。
「聞いたと思うけど、侍従見習いとか何とか……」
「……御前様に言われました」
 大変なのは目に見えている。どちらかと言えばやりたくない。そうなると、やはりクランあたりが候補だろう。
 その話は少し前から使用人の間にも広まっていたようで、クランは以前よりはっきりと正真正銘の嫌がらせをしてくるようになった。洗濯に出したアニスの服が燃やされていたり、偶然ぶつかったように突き飛ばされたり。常時顔を合わせるわけではないから、あまり気にはしないようにしているが。
(あんなやつが御寮様にちゃんと仕えてくれるんだろうか?)
はなはだ疑問だ。
「やってよ。四十年分の誕生祝でいいから」
 四十年。十歳のアニスにとっては一生と言われているのと同じだ。まるで御馳走でもてなされた後に剣を突き付けられたような気分だった。答えかねているアニスに、ルシャデールは癇癪(かんしゃく)を起さず説得しようとしていた。
「別にデナンと同じにならなくてもいい。私だってトリスタンと同じにはできないと思う。夜中に病人なんか来たら、思い切り嫌な顔をしそうだ。ある日突然、何もかも放り出したくなるかもしれないし。でも、おまえが侍従でいてくれるなら、何とか持ちこたえるかな、とも思うんだ」
 僕は持ちこたえられるんだろうか?アニスは自問する。やってみないと、たぶんわからない。彼の思いは何年か前のハトゥラプルに飛ぶ。

『ためらう時は止まれ。わからない時は……やってみないとわからないと思った時は進んでしまえ、そして自分を信じるんだ』
 あれは僕が木に登って落ちたときだったか。
『父さんもそんなことあったの?』
『そりゃ、あったさ。一番大きいのは母さんと駆け落ちした時かな。それまで畑の仕事なんてやったことなかった。でも、やってみないとわからないって思った。で、おまえたちとここにいるのさ』

「あまり気は進まないけど」
「やってくれる?」
「うん」
「だめだと思ったら、いつでも辞めていいよ」
 そう言われるとアニスはあまり面白くない。ひ弱で頼りないと思われているようで。
「でも、条件がある」
「条件?」
「うん。『庭』を作ろうよ。あの『天空の庭』をこっちにも作ろう」
 アニスはルシャデールの手を掴み、ドルメンを出た。さらにギントドマツの林を抜ける。ずっと左手に屋敷が、正面から右方に庭と薬草園が広がる。
 いつも以上によく晴れた空の下、緑濃く、夏の盛りはあちこちに生命力のきらめきを見せていた。
「地上にも『庭』はあるよ。でも、もっと素晴らしい庭」
 穏やかで陽気で、暖かで涼やか、優しくて揺るぎない。心を癒す清気に満ちた、あの『庭』を地上に持って来たい。
 ルシャデールは彼が言いたいことがわかったようだった。だが、今度は彼女の方が弱気になる。考え深げに、難しいよ、とつぶやいた。
「大人ってさ、目先の下らないことばからに囚われて、きれいなものとか、大事な物をどんどん捨ててってしまう。せっかく作り上げたものを簡単に壊してしまったり」
「壊したらまた作ればいい」
「四十年じゃ無理かもしれない」
「そしたら、僕たちの後の人がやってくれるよ。もし、やってくれなかったら、僕らがまた生まれ変わってきて、一から始めればいい」
 ルシャデールは笑った。
「壮大な計画だね」
「うん」アニスもくすくす笑う。

 どこかで雲雀(ひばり)が鳴いていた。
「ほら、あそこだ」ルシャデールが指差した。
 アニスも見上げる。
 雲一つない空は『庭』と同じ色だ。あの空はいつも晴れているのだろう。こっちの世界が大嵐でも、雲の上から雨風に翻弄(ほんろう)される人々を見守っているに違いない。
 夏の風が二人のそばを吹き過ぎていった。

                                 〈終わり〉

あとがき

『天空の庭はいつも晴れている』を読んで下さった皆様、ありがとうございます。
 すでに他のサイトで公開していた作品でしたが、今回読み直してみて、忸怩たる思いに圧倒
されそうでした。

 物語の構成力のなさ。
 文章の拙さ。
 表現力のまずさ。

 今からでも改訂することは可能ですが、安易な改訂はかえって物語を損ないかねません。まったく違う話になってしまう可能性もあります。
 私が情熱を傾けて執筆した作品です。未熟ならば未熟ななりに自信を持って発表することにしました。
 
 さて、この物語はさらに『大地は雨をうけとめる』へと続きます。
 四年後のルシャデールとアニスが登場します。
 アニスに恋心を抱くルシャデール。彼女の侍従でありながら、そこには気づかないアニス。
 厄介な思春期を迎えた二人に何が起こるのか。
 軽くひとのぞきしてもらえれば嬉しく思います。

                        宮崎 純嘉(じゅんか)

天空の庭はいつも晴れている

天空の庭はいつも晴れている

辻占いの孤児ルシャデールは、その霊能力を買われて神和師トリスタン・アビューの養女に迎えられる。しかし、生まれる前に父が失踪し母に虐待された生い立ちは、彼女を孤独で人嫌いな少女にしていた。 アビュー屋敷でルシャデールはアニスという少年と出会う。一番下っ端の召使として働く彼は、豪雨災害で家族を失い、恐怖の記憶と深い悲嘆にさいなまれていた。 ルシャデールは彼に言う。 「人は死なない」 寂しさと不安を互いに見出した時、二人は密かに計画を立てはじめる。 天空の庭と呼ばれる、冥界ユフェリの花園へ。 アニスの家族に会いに行くのだ。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-11

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