みっちゃんの赤い傘

みっちゃんの赤い傘

1話

みっちゃんの最近のお気に入りは、小学生に上がった時に、おばあちゃんから贈られた雨傘です。その傘は真新しく、とれたてのみずみずしいリンゴのような赤色に染められています。雨の中でそれを開くと、灰色の道に、真っ赤なハイビスカスが咲いたようです。



特に雨が降りしきる梅雨時は、会社に行くお父さんもお母さんも、ため息をつきながら、空を覆う雲を見上げます。でもみっちゃんはといえば、今か今かと雨の日を待ち焦がれていました。あの傘を差すことができるからです。 



ある土曜日、みっちゃんは近所に住む幼馴染の翔太君や他の友達と一緒に、近くの図書館に行きました。その日は昼時から雨。赤い傘の出番です。



みっちゃんは開いた傘をくるくる回しながら、自分の歩幅の倍もある水たまりの端から端へ飛び越えて、みんなを驚かせると、楽しそうにはしゃいでいました。



図書館に着くと、みっちゃんは傘置き場で翔太君の傘の脇に自分の傘を並べておき、一目散に中に入っていきました。しかし彼女は気づいていませんでした。その近くに、偶然よく似た赤い傘がもう一本あったことを。



それから二時間後。外はきれいに晴れあがり、夕焼けの木漏れ日が差す頃に、みっちゃんたちは、図書館を出ました。しかし翔太君の黒い傘の脇に、赤い傘がありません。みっちゃんの両目から、涙が流れ落ちました。



周りの友達がいくら新しい傘を買えば良いとなだめても、彼女は首を横に振るばかり。おばあちゃんが買ってくれた、あのリンゴのような赤い傘じゃないとだめ、と言い張るのです。



すると翔太君が、彼女をなぐさめようと、このように言いました。
「傘は、今みっちゃんを残して、どこか遠いところを旅しているだけなんだよ。だからきっと帰ってくるよ」

2話

赤い傘はどこに行ってしまったのでしょうか。



みっちゃんたちが戻る数十分前のこと。傘置き場から、息を切らせながら出ていく、歳の頃は十二、三程の少年がいました。 彼は急ぐあまり、自分が持ってきた傘とみっちゃんのものを取り違えていることに気づいていません。少年の頬はその傘のように赤く、ほてっていました。



駅に着くと、彼は目を皿のようにしながら、行きかう人々を見回しました。すると改札口から同じ年ごろの少女が現れ、彼の様子を遠目から面白そうに眺めています。



いたいた、右も左もわからない、生まれたての子犬みたいにきょろきょろして。
彼女はそう思いながら、少しいたずら心を起こし、彼の背後にゆっくりと近づくと、川中君、と声をかけました。



後ろから突然、柔らかな声を投げかけられて、少年の肩が一瞬跳ね上がりました。振り向くと、爽やかな笑みを浮かべた、彼女がいました。少年は少しほっとしたように表情を緩め、前に学校で借りた傘を返そうと思って、と傘を差しだしました。



すると彼女はお礼を言いながら、伏し目がちに、必要だったらいつまでも借りてくれてもいいのに、と付け加え、でも赤い傘じゃ、男の子には似合わないね、と言いました。

「男だって、赤い傘を差すこともあるよ」と少年が夢中で返答すると、そうなの?と首をかしげる女の子の口元から微笑みがこぼれます。

「引っ越し先は、どう?」彼の聞き方がいつもより、おずおずとしているようで、彼女には不思議でした。

「ここよりも田舎で静かなところ。でもまだなかなか、学校に慣れなくて」彼女は答えます。

「女子って友達付き合い面倒そう」

「男子だってそうじゃない?学校ってとにかく人間関係が色々、窮屈だし」

「学校だけが人と付き合える場ではないのに」

「ほんとうに、そうよね」彼女が強く肯定する様子から、目に見えない波長がそこでぴたりと合ったような気が、二人にはしました。

「いじめとか、仲間外れにされたりとかない?」少年は心配そうにまた聞きます。

「それは大丈夫、本当にまだ、慣れていないだけだから」

「もし、いじめをする奴らがいたら、僕が学校に行ってぶん殴ってやる」

川中君、相変わらず言い方がおおげさ。でも彼女は悪い気がしませんでした。



「引っ越し先でも、会えるかな」少年は何気ないように、でも本心はあらん限りの勇気を振り絞って、つぶやきました。

「難しいかも」相手を傷つけないよう、ためらいがちに、彼女はその言葉を口にしました。

「前のように学校の後は、ピアノのお稽古もあるし、転校した今では、塾にも通っているの。お父さんもお母さんも、最近は用事もなく人と会おうとすると、色々口うるさくなって」

そっか、といって彼は下を向き、足元の灰色の地面を見つめていました。
それだけ?彼女は肩透かしを食らった気がしましたが、うつむいている彼を眺めているしかありませんでした。



やがて少女はさよならをいうと、改札口に戻ろうとしました。
その時、彼は彼女の背中越しに、不意にこう呼びかけました。

「その赤い傘、また借りに行っていい?」

彼女は振り返ると不思議そうに「どうして?傘が必要になったらクラスの友達から借りれば良いじゃない?」
彼は少しまごつくと、彼女の眼を見てきっぱり、「君」のものだから借りたいんだ、と答えました。



彼女の胸の辺りにぽっと灯がともりました。

通う学校が二つ先の駅前に変わっただけなのに、どうしてかしら、川中君まるで別人みたい。君のものだから借りたいって、それはつまり……
すると彼女は急に恥ずかしさのあまり何も言葉が出てこなくなり、そのままホームへ駆け出してしまいました。



そのまま電車に乗った少女は、長椅子の端に腰かけて、脇の手すりに赤い傘を掛けました。

一息つき、まず彼女の頭に思い浮かんだのは、
傘を借りに?もう少し、家を訪ねるのにましな言い訳なかったのかしら。男の子って、見た目はかっこつけていても、突拍子もないことをいうものね。



窓の外は次第に明るさを失い、闇に沈んでいきます。いつもより身体が重く、このまま床に沈んでしまいそうに彼女は感じました。
私の方も、返事もできずに、あの場を去ってしまった。川中君、きっと傷ついただろうな。私は携帯を持っていないないし、このまま分かれてしまう……それもいや。
そのようなことをとりとめもなく考えているうちに、いつのまにか彼女は華奢な体をわずかに揺らし、うつらうつらしていました。



ごとん。突然電車の扉が閉まる重い音に、はっと気が付くと、脇にかけていたはずの傘がありません。



なくしてしまった、もう川中君にあの傘を貸せない。
胸の奥が、鋭い針で刺されたように痛みました。彼女はしばらく喪失感から立ち直ることができませんでした。

3話

赤い傘はどこに行ってしまったのでしょうか。



女の子の目が覚める数分前、赤い傘をほっそりした手首にかけた一人の女性が、駅のホームを足早に駆けていきました。彼女は傘を見やると、思わず目を丸くしてしまいました。てっきり自分の傘かと思いきや、よく見てみると、子供用であったからです。



そのままにもしておけず、彼女は傘を駅員に預けようと、周りを探しましたが駅員は見当たりません。駅の窓口も覗いてみましたが、用事で出払ったためか、人影はありません。
いっそのこと傍のごみ箱に捨てようとも考えましたが、闇夜に浮かぶ傘の鮮烈な赤色に、自然と見入ってしまい、それができません。
女性はため息をつくと、仕方なく傘を小脇に抱えて自宅に帰りました。


華やかな都心から郊外へと伸びていく在来線の途中にある、小さな町。その一角にある汚れの目立つ古びた白いマンションの一室に、女性は一人で暮していました。



彼女にとって、今日は珍しく早めの帰宅でした。昨日勤務先から帰ったのは午後十時、その前日は時計を確認もせず、布団の上に倒れこみ、途中に夢を挟まず、深い眠りに落ちていました。



彼女は化粧を落とそうと、洗面台の鏡を覗きました。久しぶりに顔をよく見ると眉間の小じわが、前よりも増えただけでなく、より深く落ち込んでいるように見えます。

「照明のせいかしら」気休めにつぶやいてみましたが、あと数日で三十六回目の誕生日がめぐりくることを思い出し、下を向いてしまいました。



シャワーを浴び、リビングで冷蔵庫から取り出した、冷えたレモンサワーを飲みつつ、携帯の画面を見ていると、突然、笑い声が開け放したベランダの方から起きました。それはまだ幼そうな女の子の声と男性の声が入り混じっています。
女性の疲れた顔から、ふっと微笑みが広がりました。

彼女は去年の冬の出来事を思い返しました――



このマンションに越してきたばかりの彼女が、隣の家にあいさつに行くと、戸口からTシャツ姿の細身の男性が顔を出しました。



彼は面長のどこか幼い顔立ちで、女性よりも少なくとも十歳ほどは年下に見えました。年齢のわりにはぶしつけなところは少しもありませんが、目だけは、どこか常に一点を凝視しているふうで、こちらと視線が合うこともありませんでした。

「子どもがまだ小さいので、お騒がせしてご迷惑をかけてしまうかもしれませんが」

「構いませんよ」と女性は優しく応じました。

すると彼は、余りものですがと断って、タッパーに入れたビーフシチューを、女性に差し出しました。寒さで冷えた手で触ると、まだ出来立てのように暖かいままでした。



それから女性はその男性と朝方に、しばしばマンションの廊下やエレベーターですれ違い、時には挨拶を交わすこともありました。



二度目に会話を交わしたのは、彼と並んでエレベーターを待っていた時でした。お互い目もろくに合わせられず、よそよそしさもまだ拭えませんでしたが、彼の職業が漫画家であること、夜勤でアルバイトをしながら生計を立てていること、そして五歳になる娘がいることを、その時に知りました。



それを機に彼と話をする機会は次第に増え、暖かさが増してくる頃には、公園で、遊んでいる娘さんの様子を二人で眺めながら、ベンチに座って話し込むこともありました。



ある日男性の仕事に話が及ぶと、彼はいつになく饒舌になりました。子ども向けでありながら、古今東西の神話も織り込んだ、幻想的なファンタジーを描きたいという彼の話に、彼女もいつの間にか身を乗り出して聞き入っていました。



彼が妻と数年前に分かれたことを会話のはずみで聞いたのも、その時でした。

「やっぱり、今時いつまでも夢を追っていてもね」作品を語る時とは打って変わり、寂しい微笑みを男性は浮かべました。

彼女は、そんなことはない、私には何の取り柄もないけれど、あなたには若さも、才能もある、努力を続ければ奥さんもいつかあなたのことを見直してくれる時が来るかもしれない、といったことを夢中で伝えました。



すると彼は珍しく彼女の眼を見て、ありがとうと感謝しながら、あなたにも僕にはない、人に共感し、包み込むような魅力がある、と答えました。 

「僕みたいな偏屈な人間と、会話が続くのは編集者とあなたくらいですから」

彼女の顔に、久しぶりに笑顔が戻ると共に、年下の男性からの思いがけない賞賛に、頬が紅をさしたように赤くなりました――



「まったく、年甲斐もないってこういうことね」女性は、これまでのことを思い起こしながら、一人苦笑しました。



今日もまた、いつものようにベランダの方から笑い声が起こりました。しかし今度は娘さんとはしゃいでいるのが、大人の女性だと分かると、レモンサワーの缶を危うく落としそうになりました。



一体誰なのかしら。まさか奥さんが戻ってきたのだろうか。

ふと脳裏に、とんでもない考えがひらめきました。そうだ、今手元にある、あの赤い傘を彼の娘さんに贈れば、その時家の中も覗けるかもしれない、と。



いけない、あの傘は誰の物かも分からないのに、という自制心は、隣人に対する興味の前に、またたくまに消えていました。



目立った汚れや傷もなく新品同然であることを確かめると、彼女はその傘を持って隣の戸口に向かい、勇気を奮ってインターフォンを押しました。

玄関の戸が開くまでに、無限の時間がたった気がしました。



ようやく玄関から顔を出した彼に、彼女は、下を向いたまま、親戚からのもらい物だけれど、私は子どもがいないので娘さんに使っていただけませんか、と傘を差しだそうとしました。ふと顔を上げると、彼の肩越しに、部屋の向こうからこちらを覗く、見知らぬ若い女性の姿があります。

「別れた妻が急に戻ってきてね」男性が小声で早口に言うと、女性に戦慄が走りました。



やっぱり。内心そうつぶやくと、彼女は精一杯の笑顔を見せて祝福し、ごめんなさい、お邪魔をしてしまって、と早々に別れを告げて扉を閉めました。気づけば傘はまだ手元にありました。



好きになったわけではない、あの人はそんなそぶり一つ見せはしなかった。

そう自分に言い聞かせても、女性の頬には何故か一筋の涙が伝いました。

隣の家族、傘、もう何もかも忘れたいと思いました。



次の日、女性は赤い傘を、駅の窓口に届けました。

4話

赤い傘はそれからどこに行ったのでしょうか。



傘は、駅から最寄りの警察署に送られました。



数日後、ある日曜日のお昼頃に警察署に現れたのは、七十代の女性。孫の傘を探して、方々の警察署を回ってきたと彼女は窓口で述べました。

そして預かっていた傘を一目見ると、この傘に間違いないと言ったのです。


老女が警察署から外に出ると、朝方は晴れていた空が、今は薄い雲で覆われ、小雨がしとしと降ってきました。 

彼女はふと思いついて、手元の赤い傘を差すと、ゆっくりとした足取りで灰色の街中を歩んでいきました。

川べりにある、見晴らしの良い公園までくると、彼女はそこで傘を差したまま、しばらく川の流れを眺めていました。すると川下の方からこちらに向かって、黒い傘を差した一人の老人が歩いてきます。彼は彼女を見とめると、おもむろに帽子を脱いであいさつし、二人は並んで静かに公園に佇みました。



「赤い傘は、小さい頃よく差していましたね」ようやく老人が口を開くと、老女は、少女の頃のように、ほんの少し頬を赤らめ視線を下に落としました。

老人が「公園の場所は昔のままですけれど、風景はだいぶ変わりました」というと

「幼い頃、よく遊んだ遊具はもう残っていませんわ」老女は答えました。

しばらくすると、老人は老女に

「ご主人を亡くされたそうですね。風の便りに聞きましたが」

「去年のことです。あなたは」

「私も妻を二年前に亡くしました」

「お互い、色々なことがあったようですね」

「はい」

彼がなおもその場を動こうとしないので、彼女は思い切ったように、今度は自分から口火を切りました。

「覚えていらっしゃいますか。中学三年生の頃、私が東京に引っ越す時に、あなたは駅に見送りに来てくれて、私に毎月手紙を書き、きっといつか会いに行くと言ってくれましたわね」

「ええ」

「でも手紙はいつしかとぎれとぎれになってしまいました」

「そうでした。次にあなたと再会したのは成人式でしたね。お互いにもう相手との縁談が進んでいました」

「実はまだあの時、あなたへの未練がありましたの、残り火みたいに」

「そうだったんですか」老人の細い目の瞳孔が急に見開き、彼女の方に自然と体が向きました。

「でも、あなたは奥様を愛してらしたようでしたから」そう言うと老女は、川岸の方を向いたまま、身動き一つしませんでした。



二人の間に沈黙が流れました。それから老女はふっと微笑むと

「おかげで亡き夫や子どもと幸せな生活を送れました。だから今の私に後悔はありませんわ」

「そうですか」老人は目をつむり、何かを飲み込んだかのように喉の辺りを動かしました。

「久しぶりにお話しできたのですから、小さい頃の思い出話でもしていきませんか。老人の一人暮らしは本当に退屈ですから」 彼は続けました。

「確かに退屈ですね」彼女もうなづきました。それから二人は、この公園で遊んでいた頃の遠い記憶を思い起こして、しばらく談笑しました。



「ではこの辺で」老女は丁寧に会釈をしました。

「またの折に」老人は再び帽子を取り、別れのあいさつをしました。それから彼は川下へ、彼女は川上へそれぞれの家に戻っていきました。



老女が帰宅すると、久しぶりに娘と孫が顔を見せに来ていました。

「みっちゃん、探していた傘、玄関においてあるからね」それを聞くや否や、みっちゃんは、玄関に駆け込むとはちきれんばかりの笑顔を見せながら

「あたしの傘、帰ってきたよ!」と喜びました。

みっちゃんの赤い傘

みっちゃんの赤い傘

少女の無くした赤い傘は、めぐりめぐり、三組の男女の関係を少しだけ揺れ動かす。その淡い片思いの行方は——?

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-10

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