酒屋の刹那

館長仮名 作

  1. 夜半の鬼走り
  2. 騒音苦情
  3. 恋とは何ぞや
  4. 儚いがゆえに愛しき
  5. 焔を呑んだ赤鬼

夜半の鬼走り

 夜道を飛ぶように奔る。降る雨は生温い。まるでいずこかへ還るように、肌と着物と、外界との境が感じられなくなっていく。商店街の通りを抜けたところで、酒屋は笑いだした。その朗笑を夢現に聞いた者は、寝台の上で体を縮こまらせたに違いない。笑い声には真理が編まれている。世の成り立ち、仕組み、生死に運命に限界と無限。今の彼には全てがわかっていた。真実を眼下におさめて、淀みなく理解している。
 そういったややこしい事情を一時脇へ置いて生きている側からすれば、この上なく悍ましい笑い方だった。これを指し、理性的な分析家は狂気と称す。
 理解を深めた者は高みに座すので、そこに手が届いていない者とは次元が違ってしまう。階層を違えれば目線は合わず、交わす言葉も断片にしか聞こえまい。実存の拡張は異種への上書き行為に等しい。
 いずれにせよこの男は元から鬼であるから、高みと低きを往来して遊ぶのは珍しくもない。今日はどこまでも行けそうだ、解せぬはずの不確定要素を組み合わせて、未来視の真似事までできる始末。太陽の焔を呑んだ腹が熱い。走りながら両手を前へ掲げた。抱擁をせがむ子供のように。そうせねば何かを掴み損ねると言わんばかりに。鬼は、まだ疾走する。

騒音苦情

「――それで、酒屋さん。そういう訳だから連日、夜中に高笑いと一緒に走るのは迷惑だって苦情が来ててね……」寝転んだまま来客が話すのを聞いていた。昨晩はいい雨夜だったと思い返していた折だったので、いつも以上に上の空である。なに、夜中に走るのがなんだって? 正座をした鋏屋はがっくりと肩を落とした。酒屋さん、さっきから何度言い直させるのさ。「だから、真夜中に笑いながら走るのはよしてくれってお願いだよ。商店街の中だけじゃなくて、宿の集まっている区域からも苦情が来てるんだ。長期滞在をとりやめてチェックアウトしちゃう人も多いから、今受けている予約にも後々響くおそれもあるし困るって。ほら、妙な噂が出始めると、そういうのに限って早々広まるものだろ?」
 なるほど。自分の夜歩きならぬ夜走りを不気味に思っている者が多いと。まあそうだろう。声のみならず、姿まで見た者が仮に居たとしたら、二メートルを超す筋骨隆々とした男が、黒髪振り乱し恐るべき速さで走っているのである。
 怖いだろう。
 くぴと手元の盃で唇を湿らせると、しおらしく目を伏せた。正直に落ち込んでいる。あれだけの全能感を得ていながらも、隣人や観光客の迷惑まで思い至らなかったのだから。

恋とは何ぞや

「わかったよ、鋏屋。以後は控えよう。思慮が足らずに方々へ迷惑かけちまって済まねえなァ。一番困ってたのは誰だい? 詫びのひとつでも入れるのが筋ってもんだろう」よっこらせと巨躯が起き上がる。山がひとつ隆起したような威容に背筋を更に伸ばしながらも、鋏屋は和やかに笑った。「いいんだよ、俺の方から事情を通しておくから。酒屋さんの言ってた謝罪もちゃんと伝えておく」
 穏便に用事が済んで、鋏屋はわかりやすく安堵している。じゃあお暇するよと立ち上がろうとした青年の手首を反射で掴んだ。真剣勝負のかるた遊びのような素早さである。
 以前、古物屋は言った。人ならざる者に、人の想い煩う恋はわからないと。真昼であるのに夜の一時全身へみなぎっていた覚えが蘇る。最後の最後で毎夜捕まえ損ねていたもの。
 驚いて固まる青年に、鬼は真剣に問うた。人は、その儚い一生の内、幾度恋をするのかと。

儚いがゆえに愛しき

 随分長いこと鋏屋は硬直していた。それは突然身動きが取れなくなった事態に対してもそうだが、投げかけられた問いがあまりにも、脈絡の無いものであったからだ。恋? 一度記憶を切除され、漂白されている身はまごついた。問われているのは一般論か、個人の感慨で構わないのか。血のような赤い眼と、満月に似た金の眼、酒屋の両目は珍しい色違いだった。見慣れぬ色彩は一層の焦燥を呼び起こす。
「こ、恋は、人によると、思うよ……一度きりと決めている人も居るだろうし、その時々で、自分の心の示すまま生きる人もいるだろうし」ふむ。鬼は納得した様子だが、未だ手を離す気は無いらしい。「じゃあ、お前もいずれ、恋をするかい」
 鋏屋は身構えていた力をすとんと抜いた。ようやく、自分にも答えられる問いが回ってきたと安心した様子で。
 微笑みと共に頷いた。恐らくは、在りし日と変わらぬ仕草で。

焔を呑んだ赤鬼

 昔話をしよう。誰にも居ない空間、虚空にあなたが居ると仮定して。酒屋は先刻帰っていった鋏屋の背中を思い出す。ほんの少し背を丸めながら帰っていく、心優しい青年の行き着く先を思う。酒屋は、この赤鬼は、遠い昔に太陽の焔を盗み出した。どうやったかって、そんなの簡単だ。殺した人間の骨を使って梯子をこさえた。いいや、腕だったか、肢だったか? まあともかく、その辺りに一番多く積み重なっていたものを適当に組み合わせて作ったのだ。そうしたら偶さか、あの太陽へ届いてしまった。届いたから、手を伸ばした。掬った焔は美しかった。だから、美酒を注ぐようにして丸呑みにしたのだ。
 夜になると太陽が沈むのはそれからの事であったと、東の方では語り伝える伝承もある。鬼が焔の一部を盗んだから、太陽は常に地上を照らせなくなった。不完全になってしまったのだ。それのゆえか、太陽を信仰する人々の間で、この赤鬼は太陽を損ねた忌々しい邪神や悪魔として伝わっているらしい。とんだとばっちりである。鬼は唇を尖らせた。俺が焔を呑む前から太陽は沈んでたっての。
 しかしどれもが御伽噺。今こうして寝そべって酒を呑み、夜に笑いながら走っては騒音被害を撒き散らす酒屋に対し、畏敬の念を払う者は皆無に等しい。商店街の酒屋を崇め奉る者がいるだろうか。くふくふと愉快気に笑う。他人がどう扱おうと本質は変わらないが、この生き方を気に入ってはいる。楽だし気ままだし、酒は美味い。だが相変わらず、恋とはよく分からぬ。同格と言ってもいい化生の古物屋は訳知り顔であったがこの間、実は理解が及んでおらぬと白状していた。それは殺したいと思うのとどう違う。暇潰しに肉欲を満たすのとどう違う。楽しいだけでなく苦しくもあるらしい。甘くもなれば苦くもなる。個人間で結ばれる秘め事でありながら、鋏屋と執事が関わったように、世界の秘密にまで踏み込む可能性も孕んでいる。
 恋とは、なんだ。盃を放って徳利に口をつけ、囁きを零した。口の端から溢れた清酒が首筋を通る。雫は刹那の清涼を齎してから、すぐ人肌に馴染んだ。もし酒宴と同じくらい面白いのなら、自分も体験してみたいものだが。

酒屋の刹那

酒屋の刹那

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-09

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