棺桶屋の主張

館長仮名 作

  1. 百と九十三の幽霊
  2. 百と九十一の幽霊
  3. 百と九十七の幽霊
  4. 百と九十四の幽霊

百と九十三の幽霊

 これまでの人生で食べてきたパンの数を正確に記憶している、と断言する人間とは付き合わない方が無難だ。大抵の場合はほらを吹いているだけだし、万一にも本当に覚えていたとしたら、やはりそんな抜け目の無さ過ぎる人と縁を繋ぐのは恐ろしい。
 鋏屋は風通しの悪い画廊で棺桶屋と向き合っていた。本来は絵の商談をまとめるためのテーブルだが、画商の厚意で借りているのだ。蒸し暑い。綿地の薄い着物一枚でも汗ばむ陽気なのに、棺桶屋はワイシャツにシルクのベスト、スウェードのジャケットにフロックコートまで着込んでいる。しかし顔は青白かった。汗をかいている様子も無い。足元には真新しい木製の棺が置かれていた。
 せめてコートだけでも脱いでくれないものか。額へ新たな汗が生まれるのを感じながら鋏屋は手拭いで肌を清める。陰鬱に蒼褪めた男は聞き取り辛い声で自らの主張を繰り返した。
「鋏屋。この画廊は呪われている。憑かれているんだ。百と九十三の幽霊がそこかしこにひしめいている。早く手を打たないと大変な不始末が起こるぞ」

百と九十一の幽霊

 弱り果てている鋏屋の背後で、執事は落ち着いていた。書斎の机で役目を待つ羽ペンのように、静かな佇まいで成り行きを見守っている。この従者に霊感は無い。鋏屋も同様だ。悪い事に後者は大の怖がりときている。いっこうに話の進展しないテーブルから視線を転じ、翡翠の瞳が画廊の奥を見抜いた。額縁をせっせと磨いている陽気な画商。執事に気づくと気持ちのよい笑みを向けてくる。愛想がいいのだ。
「しかし、棺桶屋。その……言い辛いんだけど、百人の幽霊なんて」「百と九十三」「きゅ、九十三……?」「百と」「ううん……でも見ての通り、画商さんだってあの通り元気そうだし。確かに空気は籠ってはいるけど、寒気より寧ろ熱気を感じるくらいだ」なにをそんなに恐れる。商売所の一角を快く貸してくれた画商の近くで、この場が呪われているといったような話をするのは忍びない。鋏屋は、はやくかえりたい、という本音が顔に出てしまっている。
「鋏屋が動かないなら、おれが始末をつける」棺桶屋はコートの内側からぎらりと光るナイフをちらつかせた。画商からは棺桶屋の背中しか見えないだろうが、対座の鋏屋からはばっちりその不穏な光景が見えてしまった。息を引きつらせて和装の店主は慌てる。「よ、よせよ、どうしてそんなに思いつめるんだい。百と九十一の幽霊だか知らないが」「百と九十三だ」「そう、そうであったとしても。その幽霊が悪さをしているようには見えないぜ。な、よしなよ。お前がしようとしているのは、そう、いずれ必ず風邪を引くに違いないと、全ての人間にあらかじめ風邪薬を飲ませるようなものじゃないか」
『一部の漢方は、風邪の諸症状が出る前に服用するのが効果的と言いますね』執事が筆談で呑気に口を挟むと、益々困り果てた様子で振り返ってきた。執事さんはどっちの味方なんだい。すっかり寄る辺を無くしてしまった青年店主に微笑みかけてから、金髪の使用人は画廊の奥を指した。鋏屋と棺桶屋が振り返る。そこには、金属製の重厚な額縁を、今にもこちらへ投げんとする画商の異様があった。

百と九十七の幽霊

 辺りかまわず手当たり次第に物を投じるというのは、シンプルで稚拙だがそれなりに有効な攻撃手段である。慌てふためく鋏屋の手を流れるように取ってエスコートすると、ひとまず席から立ち上がらせた。棺桶屋も危険を察知した黒猫のような機敏さでテーブルを離れる。木製の机に悲惨な悲鳴を齎して額縁は衝突した。画商は、相変わらず愛想が良かった。陽気な笑みと共に、手近な物品を恐るべき勢いで投じてくる。壁にぶつかるレジスター、カーテンを裂くカッターナイフ、窓硝子を割るペン立て。鋏屋が悲鳴に交えて問う。これも百九十七の幽霊の悪行かい!
「百九十三だ」棺桶屋はすっくと立ち、ナイフをダーツのように構える。「だがその数は誤りだった。正確には、百と、九十四」
 刃は銀の筋となって飛んだ。目指すのは飾られていた一枚の絵。題名には、百と九十四の幽霊とある。画商の獣じみた絶叫が木霊した。やめろ! だがそれも虚しく、絵はばっさりと斜めに切り裂かれた。
 それと同時に画商の体にも同じ太刀筋があらわれる。手負いの猛獣が余力を振り絞って棺桶屋に飛びかかった。その間に割って入る鋏屋の手には小回りの利く脇差。姿が見えず正体の知れぬ幽霊には怯えども、実体を持って躍りかかる獣の類なら恐れるに足らず。精密に首を断ち、強襲を退ける。屍は残らなかった、まるで煙のように手ごたえも無い。ただ、耳に残る雑音まじりの断末魔だけが響いていた。

百と九十四の幽霊

「百と九十三と数え違いをしていたから謎が解けなかった。あの画商もまた絵の幽霊、一枚の絵に姿を変えていた数多の幽霊だ」
 結局、百と九十四の幽霊なのだか、一枚の幽霊だったのか。画廊のあった場所はただの袋小路で、そもそも建物すら無かった。両側にそびえるビルがもたらす閉塞感と、店内で話し込んでいるはずが実はずっと屋外に居たという矛盾のせいで、あれほど暑く感じたのだろう。
 棺桶屋は足元へ置いていた棺の蓋を開けて、地面に落ちている破れた絵を仕舞い込んだ。ぼそぼそと相変わらず聞き取りづらい口調で礼を述べると、そのまま立ち去って行った。
 残された鋏屋と執事。和装の刃物屋はうなじの辺りを掻いてぼんやり呟く。それにしても画商はなにがきっかけで本性を見せたのだろう。最初から襲う算段であったらもっと良い機はいくらでも見極められたろうに。考え無しに物を放って来る戦法からして、あれは咄嗟の思いつきで行われた荒事に違いあるまい。執事は相変わらずのんびりと応じた。『よほど、風邪薬を飲まされたくなかったのでしょうね』

棺桶屋の主張

棺桶屋の主張

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • アクション
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-09

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