SK病院の日々 

岡崎 勝耶 作

  1. SK病院の日々 1.ちょっとでかい
  2. SK病院の日々 2.口が開く
  3. SK病院の日々 3.ナイショ
  4. SK病院の日々 4.ソフィスティケイティッド・ダンディ
  5. SK病院の日々 5.行け 青年よ
  6. SK病院の日々 6.あと五分
  7. SK病院の日々 7.ゴクッゴクッゴクッ
  8. SK病院の日々 8.アリス
  9. SK病院の日々 9.ふわり
  10. SK病院の日々 10.ここはどこ?
  11. SK病院の日々 11.開口一番
  12. SK病院の日々 12.おっと
  13. SK病院の日々 13.メディスン・マン
  14. SK病院の日々 14.ライバル
  15. SK病院の日々 15.レントゲン・アイ
  16. SK病院の日々 16.そうかそうか
  17. SK病院の日々 17.そのように作ってる
  18. SK病院の日々 18.LAN・乱・run
  19. SK病院の日々 19.アウト・オブ・バウンズ
  20. SK病院の日々 20.待機中
  21. SK病院の日々 21.あの頃
  22. SK病院の日々 22.棺桶が欲しい
  23. SK病院の日々 23.今日はいらない
  24. SK病院の日々 24.晴と褻
  25. SK病院の日々 25.優しくしてね
  26. SK病院の日々 26.カーミラ
  27. SK病院の日々 27.めざせ!歌って踊れる外科チーム
  28. SK病院の日々 28.ショック
  29. SK病院の日々 29.怪獣ではない
  30. SK病院の日々 30.逃げる
  31. SK病院の日々 31.トックリヤシ
  32. SK病院の日々 32.ミステリー・ゾーン
  33. SK病院の日々 33.困ったな
  34. SK病院の日々 34.気配が大事
  35. SK病院の日々 35.そうじゃない
  36. SK病院の日々 36.やられた
  37. SK病院の日々 37.そもそも
  38. SK病院の日々 38.コン・ゲーム
  39. SK病院の日々 39.ちょっと待ってください
  40. SK病院の日々 40.ワン・オン・ワン

SK病院の日々 1.ちょっとでかい

I先生が僕のCTのフィルム(ポジ?)を見ながら首
を傾げた。「ううん・・?」。
 幾らか診察にも飽き、なかば退屈しかけていた僕は、
先生がフィルムに集中している間、よそ見をしていた。
何か面白そうなもの、ないかなぁ・・、と見回しても
特別何がある訳じゃあない。一周でおしまい。となる
と残りは、ぼんやりとするしかない。その間もI先生
は、まだフィルムを睨んでいる。
 僕の体のスライスを熱心に見ながら、そのうちに先生
が何か、口の中で疑問を呟き始めた。
「これは・・?、ヘルニア・・か?」。
 完全に退屈してしまった僕は、馬鹿みたいに口を開け
ながら、ぼうっと聞き流していた。
「ううん、ヘルニア、だなぁ・・」。僕は自分のスライ
ス映像の、白く曲がった横行結腸の所を見上げた。
「うん」。先生が確信して頷く。急に椅子の向きを変え
ると先生は僕に訊いた。
「ここの、このへんのとこ。何か出っ張っている感じは
ありませんか?」
「はぁ、そう言われれば、なんか少し大きいんじゃない
か。って思ってはいるんですけど・・」。僕は答えなが
らシャツの裾を捲くり上げ、ちょっとでっかいストーマ
を見せた。
 正確な注意力を持つI先生は、僅かなことも見逃さな
い、良い先生です。

SK病院の日々 2.口が開く

 内科病棟には高齢の患者さんが多い。どういう訳か、
殆ど皆さん、口を開けて横になっていらっしゃる。その
まんま、歯科検診を実施したら相当に効率が良い。まぁ
でも、そうなるとサービス過剰で他の病院からクレーム
が来るかもしれない。大方はそんな理由で、いまだに実
現してないんだろう。
 初めからヘロヘロ状態で入院した僕も、一週間もする
頃にはヘロンヘロンになっていた。そりゃ点滴だけじゃ
栄養も足りないんだろう。それに先生の仰有るところの
シュワノーマ(僕が名付けるところのガンノスケはん)
が、大体の栄養も食っちゃうんだろうな。脚のラインは
アニメのルパン三世か、サリーちゃんのように実に簡単
な線になってる。ムンクの〈叫び〉の顔まねを、こっ
そりと洗面所の鏡に向かってやってみたいくらいだ。
 それで、そいつに気がついたのは何日目の朝か。目が
覚めると、どうも口の中が、妙に乾いている。
 幾らか微熱傾向が続いていたから、また熱発でもした
のかなあと思って、トロピカーナの洋梨のジュースを一
口飲んだ。冷たくもなかったけれど、やっぱりホッとす
る。テーブルにパックを戻し、ゆっくりと息を吐いて、
それから僕はまた、もう一度寝直そうとした。
「エッ?」
 ・・口が開く。
 何で・・?
 僕は気合いを入れて、口を閉じた。そのうちにまた、
ウトウトしかける。で、ふっと気がついた。
 やっぱり、開いている・・!
 そういうことか。
 ヘロンヘロンの僕は、口を開いて眠ることに決めた。

SK病院の日々 3.ナイショ

 僕には少し、特技がある。看護士のYさんが「シッ」
と言って人差し指を立てたのも、その特技のせいだ。
「いないんです」。
 看護婦さんが言う〈いない〉人とは、昨夜救急で運ば
れてきた患者さんだ。
「トイレに行きたいからスリッパを貸してくれ、って云
われたんですけど・・」。それきり帰ってこない。
「トイレは全部確認したの?」「はい」「じゃ、みんな
で手分けして、もう一回。それと他の階も確認して」。
 夜明けに患者が消えるなんて、ちょっと怪談じみて怖
いんじゃないかい。でもスリッパを履くんじゃ、足はあ
るのか。
「やっぱり、いません・・」。
 十人で探しても見つからない。殊勝な看護婦さんは、
非常階段の下まで確認しに行った。
「厭だなあって思ったけど、覚悟して覗いたんだ」。
 そうだろうとも。君はエライ。
 結局、真相はどうかというと、本人はタクシーで自宅
へ帰っていた。
「だってそんな時間、タクシーなんかいないじゃん」。
 それがたまたま、病院の裏にいたんだな。
「お金はどうしたの。財布なんか持ってなかったし」
 これも家の人が払った。
「前にもそういうこと、あったんだって」「えー、じゃ
家の人も、電話してくれれば良いのにー」。
 ごもっとも。自宅へ連絡した看護婦さんもエライ。
 後でYさんに「なんか、家に帰っちゃってたんですっ
てねえ」と振ると、「え?何で知ってるの?」
 で、「ナイショ」と指が立つ。

SK病院の日々 4.ソフィスティケイティッド・ダンディ

 看護士のYさんは、時々、オネエ言葉を使う。でもオ
カマじゃない。女性の多い職場でコミュニケーションを
洗練させれば、当然そうなる。それに石原慎太郎みたい
に、自分がオカマだと認めたくないタイプなら反対に無
用の男らしさを発揮する。そうなると女性の患者さんは
安心して看護を受けられない。だから今日もYさんは、
内股の素早い足取りで病棟を行く。
 ピンポーン。ナースコールが鳴った。何と、夜が明け
てもいないのに、もう、朝ご飯を催促する輩がいる。
「まだね、時間にならないから、待てて下さいね」。
 親切な看護婦さんは丁寧に対応している。そういえば
この患者、昨日も同じだった。ただ今日は、幾ら何でも
早すぎる。で、三十分もすると、また、ピンポーン。今
度は別の看護婦さんが同じように対応した。
「時間がね、決まってるの。それまで待っててね」。
ピンポーン。
「ちょっと待っててね、もうすぐですからね」。
ピンポーン。
「今、ご飯まわり始めたとこですから」。
ピンポーン。
「順番ですからね、もうすぐ行きますよ」。
ピンポーン。
「あのね、順番なの。必ず行きますから」。
ピンポーン。
 ついにYさんが切れた。
「もうッ、朝から何度も何度もッ、ピンポンピンポンッ
て。ウルサイよッ!少しぐらい、我慢しなさい!こども
じゃないんだからッ!」。
 おおっ。Yさん、男だねえ。よっ、カッコイイ!

SK病院の日々 5.行け 青年よ

 M井先生は何でも一生懸命にやる。でも、悩む。
「また、肩から入れる訳にいかないしなあ・・」。
 僕の細い血管で泣く人は多い。高栄養チューブを肩か
ら入れた時には、針を何本も曲げた。途中で交替したM
井先生が最後には決めてくれたけど、あれで一時間半。
だから今更こんな三十分ぐらい、どうって事は無い。
「ふぅー」。
 双方不幸なことに、点滴の針はまたまた逸れた。
「これ・・、足の方から取りましょうか・・」。
「え?や、先生。もう、ちっと頑張りましょうよ」。
 足はイヤよ、足は。僕の必死のお願いに、先生、こっ
くりと頷いて気合いを入れる。でもやっぱり針は入らな
い。青アザが一つ増えて、ため息もまた一つ。
「あ、それじゃあ先生。少し休憩しましょうか」。
 気力をリフレッシュしなけりゃね。ほうっ。
「そうですね・・」。
 何だか妙に静か。先生、きっと情けなく感じてるんだ
ろうなあ。そう思うと、カーッと僕の血が熱くなった。
おい、俺はこんなとこで、寝てる場合じゃないぞ。
「よしっ、やりましょうか」。
 今度は手の甲の痛そうなとこ。ほれっ。いけいっ。
「うむ・・む」。
 どうだ。おい。三十分だぞ。こらっ、俺の血管!
「・・む。あ、・・入った!」「お~うっ!」。
 先生の顔がパアッと明るくなる。僕もホッとする。
「やったあ!先生!」
 帰りしな、後ろ姿のM井先生の細っこい肩が、ささや
かにカッツポーズをしていた。
 で、不人情な僕の腕はその後すぐに腫れてきた。

SK病院の日々 6.あと五分

 手術後の僕は殆どトリップ気分だった。ハイケア・セ
ンターに入って文字通り、気分がハイ。そいつが麻酔の
影響なのか、それともヘモグロビン量半分のド貧血のせ
いなのか。ともかく僕は、酔っ払い気分。
 ただ困ったのは物が見えない。ま、見えるには見える
けど、形も文字も全然意味を結ばない。一メートルと離
れていない所にある四角い缶に絵が描いてあるけど、こ
れが何だかまるきり分からない。壁にでっかく字が貼っ
てあるけど、それが見えているんだか、いないんだか。
さすがに三日目には、それが床ずれ防止の時間表だとは
分かった。それでも全部読めた訳じゃあなかった。
「Oさん、吸入をしましょうか」。
 看護婦さんがネブライザーを押してきた。スイッチを
入れると溢れだしてくる白い水蒸気の霧が、とても冷た
そうで気持ち良さそうだ。
「これ、ここにやるの?」。
 僕はパイプの先を右目にあてた。
「え?やだー、Oさーん」。
 仕方がないから口にくわえた。でも、目玉にあてても
多分、気持ちが良い。ぼやっと曇った視野もすっきり晴
れるし。いや、晴れるんじゃないかな、たぶん。
 このネブライザーの威力はたいしたもので、あっと言
う間にスゴイモンが出てきた。でもだからと言って特別
好きになれるような物じゃあなかった。ところが、これ
が大好きな人もいる。茅ヶ崎のHさんがそうだった。
「いや、これ、家にもあるんだよ。うんうん、慣れてる
から、だいじょうぶ。あ、自分でやろうか。え」。
 Hさんは実に楽しそうに吸入をしている。
「あ、終わっちゃった。ね、ね、もうあと五分。ね」。

SK病院の日々 7.ゴクッゴクッゴクッ

「彼は今、何を考えているのかなあ」。
 M井先生がMRIの結果を熱心に蛍光灯に翳してる。
「一生懸命に見てますねえ」。
 そう言っているのはM内先生。点滴の苦手なM井先生
に比べると、手先の器用さなら確実に上を行く。僕の細
い血管にも、太いゲージの点滴を一発で決めた。
 M内先生の性格は明るい。患者としてはそれが有り難
いが、一方でケアレスミスも多い。内容は、落とす忘れ
るの類だ。一人で来れば、大体何かを忘れて行く。
「M内の奴~っ!」。
 こちら、怒っているのは看護婦さん。やることが幾分
大雑把なせいか、看護婦さんたちの評価は、やや低い。
「しょうがないよ。M内だもん」。
 と今度は、味方?がいたりもする。理解されてるね。
 良い意味でのいい加減さは、ストレスを蓄めないため
には絶好だろう。何しろ医者には、どフリーの時間など
殆どない。ポケベルが鳴れば一発で休みが飛ぶ。たとえ
それが飲み会の最中でも、だ。実際に大船の駅前の焼き
鳥屋から、行き掛けに救急車でそのまんま拾われてった
先生もいたぐらい。
 四月の移動ではM内先生も外科からいなくなった。そ
の移った先での親睦会。忙しいから六人程度が揃うのに
もバラバラになる。漸く五人まで揃って、さて、始めま
すか、という所で一人の先生のポケベルが鳴った。
 さすがに誰も騒がないし、腐ってもいない。そこから
急遽三人が病院へ戻ることになった。で、M内先生は立
ち上がり左手を腰に。そして右手には、大ジョッキ。
 豪快に行ったね。ゴクッゴクッゴクッ。
 いやあ、お見事!

SK病院の日々 8.アリス

 エコー室の前をどこか見覚えのある人が歩いている。
(なんだ?あのチビっちゃい女は・・)。
 確かに、どこかで会った記憶がある。あれは誰だ?
 ちょこちょこと、おまけにニコニコと歩いている。
(うん・・?ありゃ、もしかしてS先生・・か?)。
 分からない筈だ。僕は自分が立ち上がってる時にS先
生を見たことはなかった。麻酔科の時に手術前の説明で
一度、それから外科へ配置が移ってから三回と、その全
部が僕はベットに寝たままでS先生を見上げていた。
(おお・・)。
 下から見上げる視線だと、誰もがデッカク見える。あ
あ、それが、こんなにチビっちゃいなんて・・。
 そもそも内科にいる時からだ。同室のS君を見て、最
近の高校生は大きいなあ、と思ってた。でも、たまたま
洗面所で並んだ時にそれが勘違いなことに気づいた。
「S君、明日退院なんだって?良かったねえ」。
「ああ、はい。でもまだ、二週間おきに来なくっちゃ、
いけないんすよねえ」。
(あ、あれえ?この子、俺より小ぃせえぞ・・?)。
僕はMサイズ。じゃ、S君はSだったのか・・。
 手術後に立って歩くようになると、ぼけ頭には大小の
混乱がますます酷くなった。毎日めまぐるしく人のサイ
ズが入れ替わる。殆ど不思議の国のアリス状態だ。
 その時もベットから看護婦さんを見上げながら、デカ
ク見えるけど、本当は小っちぇえんだろうなあ、と思っ
てた。それが。え?・・ええ?
 何ィ?あれが160センチだし~?え?まだ上?
「・・そうかあ。ほんとに、デカイんだあ・・」。
 妙に安心した。悪いけど、彼女は本当にデカかった。

SK病院の日々 9.ふわり

 病院で一番忙しいのはメイドさんと呼ばれる人たちだ
ろう。何しろ病院が転がるグリースの部分をしている。
これが一番大変だ。黄色い服の清掃会社の人たちがする
ことを除いて、それ以外の殆どの部分がメイドさんに依
存して病院は成り立っていた。
 女性に歳を言うのは失礼だが、メイドの@さんは五十
辺りの団塊の世代だと思う。でも感性の方は十代の女の
子に近い。忙しいメイドさんたちは、交代勤務の中でシ
フトを定期的にずらしながら疲労恢復の余地を生み出し
ている。そうでもしないと体がブッ壊れるが、たまたま
@さんが家の事情もあって遅番がずっと続いていた。そ
れで同僚の人たちの体調が崩れ始めた。
 ある日少し@さんちの事情も落ち着いたらしい所で、
一人が休憩室でシフトのことについて@さんに言った。
そこからが@さんだ。
「ごめんなさい。わたしが悪いんです。」
 言われれば素直に謝る。@さんはそういう人。
 休憩室のドアを閉めて、とたんに@さん、こどもみた
いに泣きだした。
 うえーん、と泣きながら@さんは、そのまま自分より
も若い婦長さんの所へパタパタパタと駆け込んだ。
「わたしが悪いんです。わたしが悪いんですぅ」。
 そんな@さん、週一のシーツ替え。各病棟から一人ず
つを出して、全棟一斉に一気に替える。でもメイドさん
はいつも人手不足だから、途中でぽっこり人が抜けたり
もした。そうなると大変だ。ワゴンBOXに積み上げら
れて、今にも崩れそうなシーツの山に、@さん苦戦。
 と、突然@さんがシーツの山に、ふわりと飛んだ。
 あ~あ、来週は下の娘の結婚式だってえのに・・。

SK病院の日々 10.ここはどこ?

 起きて見つ、寝て見つ部屋の・・、部屋の・・。ん?
ここはどこだ?。そりゃ病院なのは分かってる。分かっ
てるが・・.はて、どこだろう・・。
 手術前は外科の病室にいた。それからハイケアへ入っ
て、一旦は元の病室に戻った。で、その晩からまた違う
部屋になったのかな・・?なんかヘ~ンな部屋。だって
隣のベットの後ろ側の壁がない。仕切りの壁がなくて、
そのまんま次の部屋に続いている。
 それに一番奥のベットの所なんかは、何でだか知らな
いけど一段高くなっていた。
 変な部屋だなあ。廊下の向かい側は真っ暗な壁だし、
左手はやけにだだっ広いエレベーターホールで、ソファ
が一つだけポツンと置いてあった。
 ま、いいか。今日はペルージャの試合だし、夜中に目
が覚めたらチェックしようっ、と。
「へえ、サッカーが、好きなんだあ」。
 看護士のYさんが夜中に点滴を替えにきた。
「うーん、中田が好きなんだよねー」。
「そうなんだあ」。
 やっぱ、中田はイイ。ゴールはなかったけどね。試合
も終わったし、ようし、ほいじゃあ寝よう、っと。
 おお、ナカータ!イルヴエッロ!ファンタスティコ!
 は、れ・・?何か変だ。この、ぶら下がってるのは何
だ?何で俺、起きてるんだ?
「あ、やだ。どうしたんですかあ?」
 看護婦さんの声で急に目が覚めた。ここはどこ?
 どうも僕は、寝呆けたまま鼻から胃に差し込まれてる
チューブを、すっかり引き出していたようだ。
 それにしても、ここはどこ?

SK病院の日々 11.開口一番

 僕はM内先生のことを、もう少し正しく言わなけりゃ
いけない。だって先生の患者に対する気持ちは。間違い
なく医師としての優しいものなのだから。
 ストーマの開口手術の時でも、M内先生には思い遣り
があった。これからの自己管理に大切なことを、先生は
何とかして僕に伝えようとしてくれていた。
「ほら、OZさん」。
 ストーマってのは、ギリシャ語で口のことだそうだ。
まさに開口一番、M内先生は僕の出来たてのストーマを
確かめている。
「これ、触ってみます?」。
 僕は首を振ったが、先生はまだ触ってる。
「どうです?きれいに出来てますよ」。
「いやあ、いいですよう」。
 あれこれと誘うけど、触るのはまだちょっと怖い。
 手術中、M先生がしたことは、僕の腿にアースを貼る
ことと、用具をO先生たちに渡すことぐらいだった。何
せ僕は、「うんうん、いいからねいいからね。君はそこ
で見ていようね」って言って、M内先生に不穏な動向が
ないかどうか、しっかりと見張っていた。だから先生と
しては物足りなく感じているのかもしれない。だって、
O先生たちの手元を羨ましそうに見てたもの・・。
 信用しなかったその分、お詫びの意味で、僕は出来た
てのストーマを好きにさせる。でも本当は、先生は僕の
ためにそうしてくれていた。
 自分の指で触れる。抵抗感を除去し、一日も早く管理
に慣れるにはそれが一番だ。それは分かる。先生の思い
遣りもそこにある。本当は優しいM内先生。けどさ。
 ねえ、そんなに指を突っ込むなよ。俺のストーマに。

SK病院の日々 12.おっと

 せっせと働く蟻さんの社会にも、うろちょろするだけ
の怠け者が二割ぐらいいるそうだ。じゃ、病院で一番ヒ
マな人は誰か。分かっていても、それは言えない。
「ほらっ、頑張って。鏡見て、笑顔、笑顔・・!」。
 三人ぐらいから一斉に励ましが飛ぶ。まったく、看護
婦(士)さんの仕事はハードで辛い。辛くても、笑顔で
歩かなくっちゃ。それが患者の元気の素だもの。
 看護婦(士)さんたちは、みんなそれぞれ特技を持っ
ている。何の特技かというと、患者を元気づける、その
ための技の数々。中でもPちゃんのは、ユニークだ。
「ど~お?今日のわたし、キレイ?」。
 これをやられるとメチャメチャ苦しい。
 やめてくれい。いっそ、殺してくれいっ。と泣きつき
たくなるぐらい、爆笑の発作に襲われる。
「うんうん、光り輝いてるよ。うん」。
 Pちゃんはそれでニッコリ。でもこれで患者が笑死し
たりすると、どうなるんだろう?
「OZさん、若い頃はモテたんでしょう」。
「いやいや」。
 なんの、今でもモテてます。
 ま、とにかくみんな、患者に明るい気分になってもら
おうとして頑張っている。そりゃあ男の人も、ね。
「あ、あれは・・?」。
 カルテを大事そうに胸に抱いて、ほんの少し、首を傾
げて歩いてくる人がいる。ニコニコと首を振りながら、
内股の素早い足取りで歩く姿は看護士のYさん。
 と、ストレッチャーが後から来る。Yさんも通路を空
けたが、もう一人、慌てて部屋に引っ込んだ人がいた。
 その人、手を後ろに組んで、ヒマそうだったなあ。

SK病院の日々 13.メディスン・マン

 医師の原型は呪術師に違いない。その昔、床屋はメス
を握ったし、ターバンを巻いたコブラ使いの笛吹きは、
毒薬に通じた薬物採取のカーストだった。
「そうですかー、OZさーん」。
 優しい声でK先生は回診する。この場合に名前を呼ぶ
のはラポールでもある。
「やー、いいですねえー」。
 これもK先生の呪術の一つ。
 共感呪術、類感呪術。接触や模倣の行為などが発動の
トリガーになる。要は「痛いの痛いの、飛んでいけー」
なのだ。実際にそれが人の全体性でもある。
 元々治癒は自立的に起きた。幾らアクトシンが良い薬
で、深い傷の肉を盛り上げるといっても、患者の体が意
志しなければ、そんな現象は起きない。患者自身の全体
性が整い治癒へと向かうには呪術は欠かせなかった。
 でも、時には干渉力に困る時もある。
 僕は4月に退院し、自宅で療養してた。病院は面白い
とこだけれど、面白すぎて少々寛げない。だから自分の
家で好きに食べるご飯は美味しかった。その晩も陶器の
ゴブレットにビールを注ぎ、晩酌を始めかけていた。
 つきっぱなしのテレビが何か言っているけど、別に構
わない。僕の食欲は生涯で一番凄くなっている。幾ら食
べても満腹した気がしないぐらい、何でも胃袋へ呑み込
まれていく。で、ブロッコリーに箸を突っ通した。
「どうですかー」。
 ん?今、何と言った?おい、このテレビ。
「やー、いいですねー」。
 あれ?K先生?なんで?
 あーあ、病院食を食べてる気分になっちまったい。

SK病院の日々 14.ライバル

 寝たきりでも病院内の出来事を把握出来たのは、僕に
は幽体離脱の特技があったからだ。ってな訳、無いか。
 腕に点滴、鼻に胃チューブ、ポコチンの先っちょから
は留置カテーテルと、ベットサイドは僕の付属品一式で
ごちゃごちゃ。黄色い服の清掃会社の人たちが掃除をす
るにも、やたらに大変そうだった。
「お掃除でーす」「あ、そうも。アリガトございます」
 「いいええ」。と、会話はそのぐらい。
 黄色い服の清掃会社・・。ええい、面倒だ。ずばり、
DKの人たちには服務規程がある。無駄話はしない。こ
れがその一つ。つまり黙々と業務に勤しむ。黄色く目立
つ服は着ているものの。病院の景色に違和感なく溶け込
むことが要求される。で、これがそもそもの原因だ。
 人間は他人の存在を忘れるように出来ている。相手が
自分の注意対象から外れている場合には、向こうが攻撃
性のシグナルを放射するなどしない限り、安全な環境の
指標にさえなる。だからいつもの繰り返しパターンで認
識されれば、そこには誰もいないのと同じ。
「あらあ、ずいぶんスッキリしてえ・・」。
 DKの人が、つい。うっかり口に出していた。
 毎日掃除に来ていれば、僕の付属品が減ったことには
気づく。医師や看護婦でなくても、自分の接する患者の
状態が良くなっていれば、やっぱり喜んでくれた。
「あと、点滴だけなんですよねえ」。
 僕もうっかり応えていた。途端にDKの人が、あれ?
という表情をした。そこに居たの?という感じで。
 DKさんは視野に同化することには日常慣れている。
でも僕も消えることは上手だ。どうやら僕は、DKさん
よりも景色に溶け込んでいたらしかった。

SK病院の日々 15.レントゲン・アイ

 心を澄ましていると気配が見える。だから赤ちゃんは
みんな、異質な気配のセンサーみたいに反応する。目を
閉じていても、ピンと来る感覚とでも言おうか。
 僕は他人の顔も名前も殆ど憶えられない。何しろ近所
に住んでる従兄弟の顔を忘れるぐらい。その時はさすが
に懲りて気配の色を記憶したが、今度は向こうがどこに
紛れていようと、妙に目について困ることにもなった。
 病院の待合も診察室の側から見ると、患者の予想より
も個々の存在は際立っている。患者自身は大勢の中の一
人に埋没していると感じているが、その気になれば千人
いたとしても、その中の一人を見ることが出来た。
 いつものように、僕は先生の顔が憶えられない。だか
ら見分ける時は、余程注意して見るか、目に頼らずに気
配で確認するしかない。ところが世の中は広いもので、
僕よりも優れたセンサーの持ち主がいた。
 放射線科のY先生は、今のところ、正規には診察室を
持たない。僕の治療プログラムが西医の範疇から少し出
ている事もあるが、病院のシステム自体がややデク。
 診察室が使えない。だから空き場所を探す。病院の中
を毎回あっちこっちと移動するが、これが結構面白い。
先生は大変でも、僕には楽しみの一つになっていた。
 その日も、今度はどこかなあ、と楽しみにしてた僕の
前を、スッとY先生が通り過ぎた。あれ?柱の蔭で見え
なかったのかな、と思ったが、僕を探してるんじゃない
かもしれない。実際その時は僕じゃなかった。で、ひょ
いと疑問が起きた。もしかすると見えているのか、と。
 次の診察日、注意して僕は気配を少しだけ動かした。
意識が来て、流れる。なるほど、分かってる。
 向こうは僕がどこにいても、しっかり透視していた。

SK病院の日々 16.そうかそうか

「○日は失礼しました」「え?」
 咄嗟にはY先生の言っていることが分からなかった。
「ええ、前回の診察の時」「ああ、いいええ」。
 いきなり日付とは、珍しい。おっしゃる通り、確かに
前回はその日。そういえば最初の時も「CTの時にお会
いしましたが」と指定された。そいつは医師のラポール
マニュアルなのだと思ってたけど、違ったのかな。
 放射線科のY先生は、そんな風に物事を全て正確に言
う。数字もそうだけど、僕の言い間違いも確実に訂正さ
れた。曖昧さはどこにも入る余地がない。それでこそ、
とも思うのだが、こだわりの部分が果たしてどこまでな
のか、確かめてみたい気もする。
「キノコ類は、大体良いみたいですねえ」。
 歩きながらY先生とするのは、免疫力についての話。
 僕は訊いた。
「なんかアガリクスとかいうの、ありますよね」。
「アガリスクですか」。
 ありゃ、そうかあ・・。ここだな。
「あ、アガリスク、でしたか」。
「ええ」。
 よっしゃ。
 別の日。イマトロン室で話している時に、先生が急に
視線を宙に浮かせた。連絡先の電話番号をメモに書いて
頂いてるとこ。僕が見ると先生、にっこりとしたね。
「どうも携帯の番号を憶えられないんですよねえ」。
 ふむふむ。
 僕は意味のない言葉と番号には強い。その代わり兄貴
の誕生日は分からないし、従兄弟の顔も忘れちゃう。
 七月十一日生まれの先生は、そんな僕より二日若い。

SK病院の日々 17.そのように作ってる

 S君のお母さんが呼び出された。でも別にS君の隠れ
煙草がバレたんじゃない。退院後の食事について、管理
栄養士の方から説明がある。それで食事を作る人、この
場合お母さんが、一緒に話を聴くことになっていた。
 「これはー、ゆーっくりと噛んでー」。
 栄養士さんの話し方には、随分と特徴がある。抑揚は
半疑問じゃないが、語尾を必ず延ばして上へ上げる。
「ほんとうはー、四ヶ月くらいはー、食べてはーいけな
いんだけれどー、様子を見てー、三ヶ月目からー」。
 途中にトーンの下がる箇所もあるから、幾らか薩摩弁
のイントネーションにも似てる。とにかく一生懸命に患
者と家族に伝わるように工夫をしてた。
 僕は病院では余り食事をしてなかった。それも完全食
は一度もなくて、全部お粥か重湯。あとは一ヶ月くらい
は断食してたんじゃないかな。だから病院食の判定評価
には参加する資格は殆どない。ただ、耳にする話だけな
ら、二種類の意見があるのを知っている。
 例えば茅ヶ崎のHさんは「いやあ、ここのご飯は美味
しいんだあ」と、ほんとに喜んでいたけれど、水戸のK
さんは「ちぇっ」としか感想を言わなかった。
 病院の食事メニューも当然栄養士さんが管理する。そ
れでやっぱり、退院するKさんの栄養指導の時だった。
「病院のー、食事はー、美味しくありませんねー」。
 あれ?栄養士さん、何を言ってるんだろう。
「塩分はー、薄―い、味もー、なーい」。
 咀嚼に、満腹感に。色々と考えて、美味しくなく。
「そうでーす。そのようにー、作ってるんですねー」。
 へ~え。そうだったのか~。あーホッとした。
 じゃ、はっきり言おう。病院のメシは、不味い。

SK病院の日々 18.LAN・乱・run

 SK病院にもコンピュータが入った。もとろん要所に
は個々に導入されていたけれど、今度はLANを構築し
た病院システムとして全所に端末を配置したらしい。
 良く見るとこれ、F通のディスプレー。と言うことは
きっと、システム自体も蒲田のシステムラボラトリー辺
りで作られたものなんだろう。
 悪口を言う訳じゃないが、そうだとすると多分、結構
デクなんだろうな。だって病院はみんなそれぞれ違うの
に、サンプルをモデルに共通の現場を想定するような連
中がやってるんだから。でも理科系頭は大体みんな発想
が同じだから、他のメーカーでも似たようなものか。
「うーん?」
 I先生がマウスを握って困ってる。診療の予約時間の
設定が、額面通りに十二時までしかないからだ。午前の
診療は大体は一時か一時半ぐらいまでになる。だから先
生は僕の診察を、一番最後になるはずの一時近くに設定
したい。でもそれが出来ない。
「うーん、こりゃあ、人間の方が賢いなあ・・」。
 そりゃそうだ。もっとも、自分の頭にはAIが入って
いるから賢い、と言ってる人もいたが、良く考えりゃA
Iは人間の頭脳より、もっと馬鹿。
 慣れればきっと、色々と時間の短縮にもなる。それに
デクなとこも徐々に改善すれば良い。だけど、システム
が入ってばかりの今は、やっぱり大混乱。待ち時間も以
前より多くなってるらしく、患者さんは聞こえよがしに
不平をぶつぶつ。嫌味を言われ放題の受け付けの人は、
大災難。誰なんだ、営業の口車に乗ったのは。
 カルテはあっち。人はこっち。乱れて走ってランラン
ラン。わあお、寒いシャレで、フリーズしそうだ。

SK病院の日々 19.アウト・オブ・バウンズ

 人には精神の匂いがある。稀には高貴な薫りに遭遇し
て目の醒めることもあるけど、一方じゃ堪えられない悪
臭を放つ輩もいた。病院もそこは世間だから、時には十
メートル離れても臭うようなモンも徘徊したりする。
 本来製薬会社や医療機器メーカーなどの営業マンは、
情報ソースとして病院には欠かせない。日々の現場では
彼らの積極的な営業活動に支えられてる部分も多い筈。
病院と業者とは相互に補完し合い、常に医療を進歩させ
て行く関係なのだろう。だから誠実な業者は、同時に患
者の友でもあった。ところがどっこい。
「どう?」「いるけど、ちょっと忙しそう」。
 若手の営業マンがダークスーツでうろちょろする。反
応から見ると、納入ルートを持ってる業者じゃなさそう
だ。たぶん、上司が取りあえず営業をかけさせてる。
「どうしましょうか?」「うーん」。
 こらこら、ゴルフのスイングなんかするんじゃない。
「もういっぺん、見てきましょうか」「そうだな」。
 まったく、鼻が曲がりそうに臭い。鏡を見ないんだろ
うか。眼に濁りが沁みついて、腐った魚みたい。
「なんか、ヤバそうですよ。雰囲気悪いもん」。
 後輩らしいのが、カバンをぶらぶら振りながら戻って
きた。相当やる気がない。使い捨ての戦力かな。
「どうするかなあ・・」。
 提案。とっとと、消えちゃう。だめ?
 この人たち、周りの視線は気にならないのかな。大勢
いるから、紛れて誰も気がつかないと思ってるのかな。
 ほらっ。だから、ゴルフは止めろって。
「連絡、どうします?」「会議中だって言っとくか」。
 あ、今のそれ。OB。だって、ライ悪いんだもの。

SK病院の日々 20.待機中

 I先生は普段は寝てる。と言ってもホントに居眠りし
てる訳じゃない。全能力を発揮すべき場面では、ちゃん
とに起きた。ただそれ以外の時にはテンションを下げて
ニュートラルでいる。無論、それで何の問題もない。要
所ではきちんと起きたし、一度起きればあとは凄い。
 人の能力は元々そんなに差はない。どんな仕事でも、
その人が優れているかいないかは、要所を察知するカン
一つにある。ここ、と思った瞬間に集中するのが名人上
手。その時が分からなければ、ただのぼんくら。普段か
らピリピリしてたり、反対に起きるべき時に起きないよ
うな医者だと困るけど、I先生はそうじゃない。
「えーと」。
 これは先生が誘いをかけてる。先生は僕を外部記憶装
置として使おうとしてた。
「この前は、いつでしたっけ・・」。
 直訳すれば、薬はまだあるか、と訊いてる。
「○日でした」「すると・・?」。
 考えてるように見えるが、そうじゃない。薬が要るの
か要らないのか、僕が答えるのを待ってる。
「その前回の時に一か月分処方を頂いてますから」。
 ここで初めて語順の前後関係について考え始める。
「ええ、ということは・・?」。
少し目を開けた。あともう少しで起きる。
「ですから、その時には処方して頂かなかったんで」。
「じゃ、今日は?出すんですね?」「はい」。
 よし、起きた。先生は処方箋を記入し始める。
「僕は別に、どっちでもいいんですけどねえ」。
 机に向いた先生の横顔が、にやりと笑う。
「いいえ、そうはいきません」。

SK病院の日々 21.あの頃

 診察券には通し番号が打ってある。そいつは僕のカル
テ番号で、決して僕に付いた番号じゃないんだけれど、
どっちにしても僕はその番号に管理された。
 20XXと、僕の番号は今ではかなり若い方だろう。
最初にかかったのは十何年も前。その頃は病院の混雑も
そう酷くなく、運営にも間延びした部分があった。
「ここの事務は、無能でしてね」。
 X先生は〈な、名前が・・〉は、あっさりと言う。
「何しろ、馬鹿ですからね」。
 あの頃。X先生は傑作だったなあ。僕は一発で好きに
なったけど、院内での評判がどうかは知らない。とにか
く無類に口が悪いんだから。でもその悪いとこが、僕は
スンゴク気に入ってた。
「うちの看護婦も馬鹿だから」。
 先生の口にかかると誰でも馬鹿になっちゃう。当時は
まだ寄せ集め所帯気分が残っていて、確かに連絡ミスも
多かった。もっとも今でもその傾向は幾らかある。
 手術の時も面白かった。耳の裏の皮脂腺を除去するん
だけど、そこは当然、作業の音が良く聞こえる。鋏で幹
部を切る音なんか、なかなかホラーだったな。手術室が
若干暑かったせいもあって、僕は少し汗をかいた。
「あ、エアコン、暑かったですか?」
 口の悪いX先生も、患者には丁寧で優しい。
「そうですね。でも緊張したせいもありますから」。
「いや、当然ですよ。自分の体を切られるんだから」。
 その続きからが先生の本領だった。
「それで緊張しないのは」。
 ここでちょっと、息をタメるのが特徴なんだ。で。
「緊張しないのは、馬鹿、ですからね」。

SK病院の日々 22.棺桶が欲しい

 病院運営には事務方が欠かせない。保険事務や会計だ
けならコンピュータ・ソフト一発で済むけれど、何しろ
ここは劇場と同じ構造をしてる。プロデュースもパブリ
シティもレセプションも、観客参加型の演目を毎日興行
するには、事務方の守備範囲は予測不能なまでに拡がっ
て行く。昔風に云えば、見事な表方。
 一見してインド風。バテックのサリーを着こなした中
年の女性が、ハンカチを口の辺りに宛てて立っている。
横には背広姿の病院職員。どうやらこちらの女性、日本
語が堪能ではないようで、その通訳に当たっているらし
い。確かに外国の方も病院にはみえる。だから幾つかの
言語能力は事務方にも要求されるのだろう。で、このイ
ンド的女性が言う。
「イエス。コフィン」。
 ぎくっとした。棺桶だって?
「イエス」。
 インド周辺の身振りで、首をちょこっと横に曲げて、
肯定する。病気か交通事故か。いずれにしても亡くなら
れたのは身内の方なんだろう。お気の毒に。ハンカチを
しっかりと握り締めて、切なそうに息をされている。
 それにしても、どうして棺桶なんだろう。インドには
ゾロアスター教徒もいるが、彼らは絶対に火葬をしない
から、遺体を故郷に連れ帰って風葬か鳥葬にするのだろ
うか。それだと確かに、きちんとした物が要るが。
 職員が女性にまた何かを訊ねた。幾度か女性が横に頷
き、何度目かに、急に咳き込んだ。
 ハンカチを口に、涙目。風邪じゃないといいけど。
 え?風邪?ありゃあ?う~ん。なんてこったい。
 棺桶じゃなくて、咳〈コフ・ィング〉だったんだ。

SK病院の日々 23.今日はいらない

 新しい知識は楽しい。しんどい検査なんかでも、それ
がまだ経験したことのないものだったりすれば、腕をパ
タパタしちゃう。酷い目に遭ってもまあ、それはそれ。
だから今でも惜しいと思うのは、自分の知らない間の出
来事のこと。ハイケアでの焦点の合ってない目付きや、
手術室での自分の様子。腹の中の景色なんて、そう滅多
に見られるものじゃあないしね。
 ただ手術の様子も、それが自分の体だと分かっている
から見たいんで、違う人のだったら多分、真っ青になっ
てる。で、ここから先は、後で家人から聞いた話。
 手術室の扉を、K先生が片足で、スコ~ンと蹴って開
けて出てきた。別に不精をしているんじゃあない。この
扉は元々、内側からは壁のスイッチを足で操作する。
 K先生は声も言葉も焦れったいぐらいに優しい。でも
そこは外科の鬼手仏心、ぎょっとするようなことも平気
で出来た。手術中なんかも銀色のメスを指先に挟んで、
空中でさり気なくクルッと回転させたりする、かな。
 見ると先生、小脇にでっかいタッパを抱えてる。形と
してはアライグマくんが丸太ン棒を抱えるように、だ。
それで「これですけど・・」と言いながら、おもむろに
タッパから、むんずと掴み出した、と思いネエ。
 もちろんそれは、僕のガンノスケはん。長径で22セ
ンチの、まあ、自慢出来るサイズのやつ。塊の両側には
ぶら~んと二本、X形に大腸と小腸のおまけ付き。
 外科のK先生は何てことなく出したが、家人は卒倒し
かけたそうだ。僕ならそいつがどんなモノか、見たかっ
たけどね。あ~、せめて写真でもあれば~。それで僕に
訊いて欲しいね。「これ、どうしますか?」って。
 当然僕は「今日はいらない」って、応えるけど。

SK病院の日々 24.晴と褻

 晴と褻。日常と非日常。患者には非日常でも、病院で
は日常。褻を日常として暮らす人たちは、そこが患者に
とっては非日常の場所であることを、まま、忘れる。
 内科のN先生は動作が機敏。とにかく的確で素早い。
たまたま早朝の採血の時に、先生。
「あ、お早よう、OZさん。採血しましょうか」。
 そう言いながら僕の左の腋の下へ、まず手を入れた。
だからと言って、そこから、すくい投げにくる訳じゃな
い。実に素早く腋窩を探ってる。次に顎下。
 僕は思わずクスッとした。別に脇がくすぐったいから
じゃない。先生の医師としての日常に反応が、面白い。
外科での手術後、廊下を歩いてた時なんか、S先生はガ
ンノスケはんの取った痕をいきなり触ってきた。僕が女
なら「きゃあ、えっち」って黄色い声を出しちゃう。
 ともかく今んとこ僕は「リンパ節転移はないよ」と、
口に出して言うことだけは堪えた。
 アンギオの時には内科のI先生が楽しませてくれた。
このアンギオについては、また言う時もあるが、まずは
I先生のこと。
「うーん、なんだあ、この血管は」。
 麻酔注射の前投薬のせいもあって、僕はちょっと気持
ちがいい。だから今んとこ、何でも許しちゃう。
「こんな血管、名前、ないぞ・・」。
 そりゃあそうだ。僕に断りもなく、腹腔動脈から勝手
に分かれて延びた血管だもん。ま、良かったら、エンド
ガストラ・コウイチウムとでも新しく名付けてね。
「OZさん、これ撮っといて、良かったですね」。
 あれ?なに?
 僕がここにいるの、知ってたのか。

SK病院の日々 25.優しくしてね

 オカマに知り合いは多いけど、僕はオカマじゃない。
バイでもない。だけど病院にいると何だか、妙にカマっ
ぽくなる。それは看護されるという、受け身の感覚に由
来しているのかも知れない。
 内科の時に一度、寝返りが打てないぐらい、お腹が痛
んだことがある。夜中じゅう我慢してたんだけど、看護
婦さんが気がついて痛み止めをくれた。それは良い。た
だ、腸閉塞もあるから次の日から食事はなし。それで痛
み止めも内服じゃなくて、座薬になった。この座薬が、
ちょっと恥ずかしい。
 僕はもう、処女じゃない。そりゃ看護婦さんもオヤジ
のケツなんぞ、見たくはなかったろうよ。でも僕だって
ヤなんだ。それなのに、それなのに・・。
 アンギオの時なんか、ポコチンの毛を剃ったりしたん
だから。鼠蹊部の太い動脈に切り込みを入れて、そこか
ら心臓までカテーテルを送るんだって。だから毛が邪魔
なの。分かるさ。いいよ、剃るよ。でも自分でね。なの
にさ、後で確認するこたぁないじゃないか。
 手術前日にはお腹全体をイソジンで消毒した。イソジ
ンシャワーとか言ってお風呂場でするんだけど、見ると
看護婦さんがついてくる。ウッソ~ッ!この時はまだ何
とか、説明だけで帰ってくれた。一番のショックは手術
後。僕の背中に麻酔の管が入ってた時。身動きした時に
それが外れた。本当は管が取れるまであと二日程度は麻
酔の必要が残ってた。それでまた、痛み止めの座薬。
「どっちにします?」。
え?何の話?
「こっち〈お腹のストーマを指す〉にします?」
 わぁお!お願いだから、おしりにしてね。ねっ。

SK病院の日々 26.カーミラ

 処置室って、何を処置されちゃうんだろう。
 僕はどうにも注射の針というやつが苦手。ま、好きな
人の方が珍しいんだろうけど、やっぱりヤ。その厭なこ
とを処置室じゃ、バンバンやってる。盛大に列まで出来
る。シュポンシュッポン、景気良く血を抜いてる。
 処置室のカーミラたち〈失礼しました〉は、みなさん
とても穏やか。それでその静かな表情で、シュッポン。
見てるだけで気が遠くなる。だから出来るだけ見ないよ
うにしてる。それでも診察ごとに血を抜かれる。全然慣
れない。処置室じゃ尿検査も扱うから、僕としては出来
るだけオシッコで我慢して欲しい。だめかなあ。
 念のために一言。彼女たちは腕が良いから、殆ど痛く
ないようにやってくれてる。要は問題はそんな所にある
んじゃない。その通り。僕は気が弱いんです。
 そもそも血が、怖い。だからド貧血の改善に「輸血を
しましょうか」と柔らかく言われた時でも、きちんと抵
抗させて頂きました。はい。
「OZさん、輸血、拒否してるんだって?」
 看護士のYさんが言うが、そうじゃあない。信仰上の
理由なんかない。ただ気分が悪くなっちゃうだけ。でも
相変わらずへモグロビン量は半分しかないし・・。
「やっぱり輸血しましょ、OZさん」。
 優しい声のK先生まで、珍しくキッパリと言い切る。
キリストのワインでも、僕は断りたいタイプなのに。
 あら、そんなとこに、パックを吊っちゃったりして。
へえ、二つね。あ、僕と同じ血液型なんだ。あらあ、看
護婦さん、楽しそうにして。うんうん。そうかあ。
 はい。輸血は確かに偉大でした。それから僕は抵抗し
た罰として、以後は処置室で血を抜かれています。

SK病院の日々 27.めざせ!歌って踊れる外科チーム

 退院間近のS君に、同級生たちが見舞いに来た。世の
中はもう春休みの時期。開放感もあってか、賑やかに、
何だか楽しそうに話している。
「さっきよう、けっこうカンジの看護婦さん、いたぜ」
「うん。ここ、若い人、多いよね」「やっべえよな」。
 何がヤバイのか分からないが、高校生ぐらいの男の子
なら、ちょっとしたことで頭が三倍半ぐらい、エッチな
ことで膨らんじゃう。急に一段、声のトーンが落ちた。
それでも病室の隅まで、ぜ~んぶ聞こえちゃう。
 話のネタはH雑誌。「看護婦さんが××で×××して
て・・」。とても同録は出来ません。要は男の子の妄想
の中にあるエッチなシーンを喋っている。向かいのベッ
トのHさんの、苦笑を堪えてる顔が浮かんでくるね。
 入院も或る程度長くなると、看護婦さんたちを身内の
ように感じ始める、だから「忙し過ぎて可哀想だなあ」
と同情は寄せても、とても妄想の対象にはならない。頭
三倍半の高校生のS君でも、そんな辺りは似たようなも
のらしい。だからさっきからS君も、曖昧に頷いてた。
「な~んかちょっと、違うんだよなあ」って感じで。
「みんな彼氏がいるのに、私だけ、いないんですー」。
 嘆いているのは看護婦のOちゃん。セールスポイント
は元気な声と、立派な体格。
「OZさーん、誰か、いませーん?」。
 そう言われても、僕はここで寝てるだけなんだから。
それにオッチャンの友達は大体がオッチャンなんだし。
「みんな羨ましいなあ」。
 う~ん、困った。確かに忙しいだけじゃなあ・・。
 あ、思いついた。ここの〈歌って踊れる外科チーム〉
に参加して、豪華にストレス解消ってのは、どう?

SK病院の日々 28.ショック

 とにかく僕は人の顔が憶えられない。だから誰かを記
憶する時は、その人を気配の色で記憶する。
「わあ、OZさーん!歩いてるじゃないですかー!」。
 後ろから、看護婦さんの弾んだ声がする。
「うん、ありがと」。
 小走りで追いついた看護婦さんに、そう応えはしたも
のの、相手が誰だかさっぱり分からない。でも看護婦さ
んの目はキラキラとして、僕の恢復ぶりを真っ直ぐに喜
んでくれている。申し訳なくて「あの、どちらさんでし
たっけ?」とは、とてもじゃないが訊けない。
「いま見たら、あれ?OZさん?って」「うん」「私、
ビックリしちゃってー」「うーん」「歩けるようになっ
たんだあ」「うん」「すごーい」「ん、ありがと」。
 そうやって全身で喜んで力付けてくれているのに、僕
はその人が誰だか分からない。全く情けないヤツ。それ
で病室に戻り、ベットに寝ながら考えた。あの気配の色
は、何となく憶えがあるんだけど、あれは・・。
 少し、思い出した。「私、来週はいないから、この次
OZさんに会う時はきっと、さっさと歩いてたりしてる
んだろうなあ」と言った人。だんだん思い出してくる。
うん、それにしても患者を良く憶えてるもんだ。
 そうそう。「私、すごいショックだったんですよ」と
かも言ってた。あれは何だったかなあ。確か背中の麻酔
が取れて、鼻のチュ・・。チューブ。これだ。
 鬱陶しい胃チューブ。先生が「もう抜きましょう」と
言った時だ。僕は「自分でやります」と、積年の憂さを
晴らす気分でズルズルズルと引き抜いた。あれか。
「私、自分で抜いた人、初めて見ました」。
 長~い胃チューブ。そりゃそんな患者、憶えるか。

SK病院の日々 29.怪獣ではない

 ベットのヘッドボードの枠には、血液型と年齢、それ
に担当の医師の名を記入した札が挟んである。その横に
NPOとあれば飲食不可。そこにカタカナでアンギオと
書いた札が付いた時から、僕は何だか楽しい。
 何だろう。訊くのは簡単だけど、それじゃ楽しみもす
ぐに終わっちゃう。色々と想像すると、これが十分に楽
しめるんだなあ。こんなの、とか、こ~んなの、とか。
 まず、名前が凄いね。科学特捜隊とか出てきそう。実
際はアンギオトープって機材の名前を被せた、血液造影
検査のことらしい。
 医学用のややこしい言葉は、大体がギリシア語からラ
テン語化したもの。それに英語が混ざったりするから、
日本語に訳せば余りに単純な言葉も、ラテン語のフレバ
ーを付けて、あ~ら不思議。
「どろ~んって、眠くなちゃうんだよお~」。
 前投薬だか麻酔薬だか、肩に注射したのが何なのかは
知らないけど「後で迎えに来ますからね」の言葉を残し
てメイドさんも帰っちゃう。先生はペタペタ塗布麻酔を
塗っている。僕は何をすればいいのかな。
「痛いようだったら言って下さい」。
 あ、これが僕のやることね。はいはい。
 腿の付け根からぐいぐいカテーテルが送り込まれる。
恥ぢしいぃ思いをした甲斐があるってもんだ。
 さて、いよいよ撮る。「熱い感じがします」と先生は
断言したが、さあ?でもね、すぐに分かったよ。
 凄エ!電子レンジで乾かされた、猫の気分だぜ!
「はい、もう一度。今度は少し短いです」。
 あー目が覚めた。とっても眠たかったから、ちょうど
良かったかな。でももう起きたから、次はいいや。

SK病院の日々 30.逃げる

 入院する前にも脈拍は百を超えていた。それが急に、
左の手首からふっと消えた。どう探しても触れない。
「あらあ、俺、死んでるわ」。
 でも大丈夫。右腕は脈がある。つまり半分だけ死んで
いる。片足を棺桶に突っ込んでる、ってやつね。看護婦
さんたちもそんな左腕はさっさと見捨て、もっぱら右腕
を可愛がる。だから左腕の方は、点滴用に存在してた。
 以前にM井先生が苦労したように、僕の血管は少々細
い。それにどうやら、針先から逃げるらしい。点滴って
のは大体は五日も経てば落ちが悪くなる。するとまた、
別の箇所に針を刺さなきゃならない。その度に誰かが苦
労する。運が悪けりゃ僕も、ちょいと痛い目を見る。
 左腕がバンバンに腫れたら、次は右腕。一度は鎖骨の
とこの高栄養チューブに代わったけど、今度はその時の
傷が化膿。泣いちゃうほど痛い目にあった甲斐もなく、
また元の点滴に戻った。で、楽しく左右でピンポン。
「あ、私、血管細いんですよね。それにどうも、血管が
なんか、逃げるみたいで」。
「そうですね。でもこのくらいなら問題ないですよ」。
 麻酔科から来たS先生が、僕の左腕を見ている。先生
の目の表情はクリアーだから、腕も確かなんだろうとは
思う。女性ながら、腹の座った動作にも迷いはない。
「ちょっとチクッとしますよ」「はい」。
 返事はしたけど、やっぱり針は厭だなあ。あ~あ。
「はい、良いですよ」「取れました?」「ええ」「やっ
ぱり、逃げるでしょう」「血管も逃げますけど・・」。
 S先生の目尻が、にこっと笑う。
「・・血管も逃げますけど、OZさんも逃げます」。
 ありゃま。こりゃ、失礼しました。

SK病院の日々 31.トックリヤシ

 植物園の温室に、トックリヤシという名前の椰子の木
があった。木の根元に近い方が、そのものずばり、日本
酒を燗する徳利の形に似ている。僕の脚が、そのトック
リヤシの形になった。
 手術後に肺に水が溜った。右の腋の下辺りも何か水腫
れして、押すとプチプチ音がする。面白くって一人で楽
しんでいたけど、そのうちに先生が二人ばかり来て、そ
こら辺りを散々探ってから帰ってった。
 下腹と腰まわりに何か余裕が出たなあと思ってると、
今度は両足がぐんぐん膨らんで、あっという間に指先ま
でパンパン。変なんだ。空気入れたゴム手袋みたい。
 最初は、半端じゃない量の点滴をしてたから、それで
浮腫んでいるのかとも思った。だけどそのうち「あ、こ
れが、リンパ浮腫ってやつなのかあ」と思いついた。
「ガンノスケはんの辺りの小っちぇえリンパ節を、ごっ
そりと取ったんだろうからなあ・・」。
 アルダクトンとラシックス。二種類の利尿剤で身体の
水を抜く。これが、出る出る。
 問題の僕のポコチン・カテーテルは、ちょっと前に抜
けていた。幸いなことにその時の作業は、Yさんがやっ
てくれていた。あれ、手早く抜くんだけど、ちょっと灼
熱感がある。でも看護婦さんにやって貰うよりは、まし
だった。久しぶりなので感じを忘れていたものの、その
うちにだんだん調子が出てきた。すると一日に1・5㎏
ずつ体重が減る。や~、萎むね~。しゅ~、って。
 まず膝の辺りから細くなり始めた。足先の方も徐々に
萎んでくる。それでもまだ、腰から下腹と内腿の辺りま
では、メチャな浮腫み方。変な形で笑っちゃうね。
 それで気がつけば、僕の脚がトックリヤシ。

SK病院の日々 32.ミステリー・ゾーン

 奇妙なことがある。それは『忘れられたモノたち』に
ついてのこと。それともこれは、日常茶飯?
 看護婦さんは忙しい。声がかかれば即座に判断して動
く。それでやりかけの何かを忘れていったりするのは仕
方がないにしても、先生方までが見事に置き土産。
 ほんと、不動の王者M内先生は始めからシードされる
けど、他の先生方もそんなに捨てたもんじゃなかった。
M井先生のポケベルは鳴らなかったから良かったけど、
看護婦のTさん私物の血圧計は角張ってて困った。
「あ、ここにあったんだあ」って、そんなセリフを何度
聞いたことか。
 恥ずかしいとこじゃキシロカイン・ゼリーのチューブ
に(用途は訊かないでね)危険物なら点滴の針先。それ
からどうしてなのか、血管を浮き出させるためのゴムの
駆血帯。粘着テープ各種の中には、先生方が忘れていく
電気工事用絶縁テープ(このテープの話は別の機会に)
も当然含まれていた。
 まだまだある。妙なチューブが数種類、使途不明の痛
そうな器具、プラスチックの呼吸訓練器、何だか分厚い
ルーズリーフ、今に僕は忘れ物で埋まっちゃうぜ。
 仕方ないことなんだろうな、とは思う。割合にどこで
も起きてる事態なんだろう、とも思ってた。ところがど
うも何かがヘン。何となく、看護婦さんたちが何かを探
すふうに立ち寄ることがあるような。気のせい?
 もしかするとここは、消失物の吹き溜まり?
 そう、僕自身が忘れモノになりかけたことがあった。
あの時は「あ、回診はいいんですか」と呼び止めたら先
生方、笑いながら引き返してきてくれたっけ。
 ね、これって、僕のとこだけじゃないよね?ねっ?

SK病院の日々 33.困ったな

 この『SK~』は特に読者も意識せず、好き放題に書
き散らしてきた。だけどここへ来て、僕は困っている。
どうしよう。ここは断り書きをするしか、ないか。
 Y先生、御免なさい。気を悪くするといけないので、
この章から先は読まないで下さい。尚、警告を無視され
た場合、当方は如何なる責任も負いません。多謝。
「放射線科のYが、何かOZさんの事を気にかけていま
してね・・」と優しい声のK先生。関西訛りの真面目な
I先生は「うちのYという者がですね、今後のOZさん
の治療の事についてですね・・」などと。・・はてね?
 それで診察日。I先生の連絡で、何だか精神に軽い弾
みを持ったままの青年が現われた(もちろん僕は、人の
年齢を大幅に読み間違えるのが特技)。
「CTの時に一度お会いしましたが、実は・・」。
 そうやってY先生が始めたのは、或るカテゴリーの病
気に対する医学と医療の限界についての話。それをY先
生は、実に真っ直ぐに言う。
 僕は困った。この青年は(仕方ないじゃん、そう見え
たんだから)そこを思う危うさを知ってるんだろうか。
 医者は誰でも患者の治療に心を砕いてる。同時に、医
者ほど医学の限界を熟知してる者もない。するとほら、
悩むね。そこで「この限界は、もしかして・・?」と、
何やら思い始めてしまったとしたら、どうなるか。目の
前の素直そうな青年が(だからさあ・・)そんなヤヤっ
こしい問題を抱えて、果たして大丈夫なんだろうか。
 はい、そう考えたそこで、もうオイラの負けよ。
 うん。もう分かったから、ソレ、しまっといてね。落
とさないように、ちゃんとお家に帰るように。ね。
 そんな訳で、僕はY先生の患者になった。

SK病院の日々 34.気配が大事

 本人は気がついているのか、いないのか。Y先生の無
防備なのには、ちょっとハラハラさせられる。
 例えばね・・。半ズボンのポケットにバラ銭を突っ込
んだまま鉄棒で逆上がりして、それで中身を地面に落と
したことにも気がづかない小学生みたいな処とか。それ
にこの先生、ちょっと胃腸が弱いんだな。最近は体調が
戻ったみたいだけど、去年の九、十月あたりは最悪だっ
た。何しろ立ち姿が病人。思わず背中をさすっちまいそ
うになったっけ。気配の色味も灰色に沈んでたしね。
 ホント、人の気配は色々。ここで〈色々〉と言うけれ
ど、実際に色として認識出来ることだってあるんだ。
「お、あれはΩ先生(特に名を秘す)」。
 向こうから歩いてくるΩ先生は、非常にユニークな歩
き方をする。やや俯き気味に、幾らか壁の法を向いて。
要するに患者らしき人たちと視線を合わせないようにし
てた。本人は無意識なのか、壁側の手の指先が手摺りに
触れるようにして、少しだけ上がっている時もある。
 分からないじゃない。患者というのは大体が診察室で
の一対一の関係をそのまま敷衍する癖があるから、外へ
出ればパーテーションの保護がない分、医者は無防備。
 Ω先生としてはいつも進路をクリアーにしたい。で、
約七メートル程手前でチラと人の気配を確認する。不穏
な動きが無ければ、次に双方のボディゾーンが重なる範
囲へ飛び込む寸前に、もう一度。それで先生は安心。
 さて、退屈な日もある。そんな時にΩ先生を見つける
と僕は嬉しい。まず七メートルの確認をやり過ごす。そ
の後だ。きっちりと呼吸を読んで、それからスーっとΩ
先生を見る。ピタリ視線が合う。先生、慌てるねえ。
やー、この悪趣味な快感、癖になっちゃうなあ。

SK病院の日々 35.そうじゃない

 M内先生は「だいじょうぶ、この病棟で一番腕が良い
から」と、軽口を言った。冗談のようだけど、これがど
うも半分は本気っぽかったな。いやいや、若いねえ。
 僕も二十代の頃には相当にトンガッてた。製薬会社の
厚生行事に呼ばれながら、実際の講義では医薬について
の問題点をビッシリと指摘したりとかね。それも昔。
「はい、吸ってみて下さい」。
 うーん、これ、間違ってるんだけどなあ・・。ピンク
の服を着た呼吸療法部のオネエさんは、ニッコリと頷い
てる。けどさ、これ、ホントに違うんだってばさあ。
「あの、すみませんが、以前にちょっと呼吸法を習った
ことがあるんですけど、その時に憶えたやり方じゃ、い
けなせんか?その方が何か、やりやすいんで・・」。
 相手もプロだから、プライドを傷つけないように気を
つけた。オネエさんはちょっと首を捻る。でもさ、まさ
か言えないじゃん「教えてました」なんてさ。
「まずいですかねえ?」
「その方がやりやすければ、それでもいいですよ」。
 う~ん、反応が好くない。でもねえ・・。
 オネエさんに指示された呼吸体操は体力のある人が呼
吸機能を上げるためのもので、全身麻酔後の自律呼吸の
回復サポートには向いてないんだ。つまり、理に適って
いない。そりゃ手術前なら付き合って上げられたんだけ
ど、術後の今じゃ、そうも出来ないからなあ・・。
「ああ、数値もいいですねえ・・」。
 指先で血中飽和酸素の量を計る洗濯バサミ、パルス・
オキシメーターはオネエさんの自慢の品。ん、ここか?
「これ、凄いですねえ」。
 やった。オネエさん喜んでる。あ?帰っちゃった。

SK病院の日々 36.やられた

 おだてる事は悪い事じゃない。そもそも人は社会性で
生きてるから、誰かに自分を認められる事、それ自体が
嬉しい。嬉しければ当然、本人の意欲も湧くし才能も伸
びる。但し、世の中には底意を隠しておだてる悪~い奴
もいる。だから誰でも、おだてには乗るまいとする。
「あ、じょうず。痛くないや」。
 僕は毎回、処置室のカミーラたちを褒めることにして
いる。それはやっぱり、彼女たちには上達して欲しいか
らだ。「お願いだ、育ってくれ」ってな気分でね。
 さて。
「あ、頭いい」。
 最初は本当にそう思って言った。だけど、ちょっと嬉
しそうにしたY先生の表情に、ついサービス癖とイタズ
ラ心が動いた。止しゃいいのに「うん、頭いい」と、重
ねてヤッてしまったのよ。あーあ、もう遅いね。カンの
良いY先生には、多分もう、分かっちまったね。
 それから一ヵ月後だった。前回の診察はY先生不在。
で僕は、血液検査が抜けていた事を報告した。
「あれ、この間はI先生、何だかちょっと浮き浮きして
ましたからね。それで忘れちゃったのかな」。
「え?そうですか?」。
「何かいいこと、あったみたいで」。
「わかりますか?」。
「I先生、患者を呼ぶ時の声に、出るんですよね」。
「ほっ、さすが」。
 わっ、しまった!なんてこったイ!
「するどいっ」。
 わ~い、ダメ押しまで食らっちまった!
 参った!参ったから、勘弁してくれ!頼む~~!

SK病院の日々 37.そもそも

 圧しても痛くない、お腹の硬~いシコリって、な~ん
だ?しかも、グングン育っちゃうやつ。
 体には体の意思がある。その意思の一部が、僕にプレ
ゼントを運んできた。それがガンノスケはん。ドイツ語
風にはザルコーマで英語ならサルコーマ、日本語では肉
腫とか。要するに粘膜や皮膚などの上皮性組織ではない
場所に発生する癌腫の一種。それほど悪性のものではな
いけれど、脳も含めて全身どこにでも転移する。
 そもそも勢いに任せて体を酷使し過ぎた。でも最悪の
所から騙し騙し体調を戻して、九十八年の春には近年に
ないほど良くなった。そこで、ちょっと強めの揺さぶり
を体に掛けてみた。そこからだ。それまでの不調とは違
う種類のものが徐々に来る。体の中に何かが有る。
 動悸。腹部の緊張感と息切れ。九月には指に触れるシ
コリがはっきり分かった。え?なぜその時に医者に行か
なかったのかって?そりゃ、今の医学は殆ど信じていな
いもの。医者に掛かるのはペイン・コントロールか、で
なきゃ死亡診断書を書いてもらう時と決めてたしね。
 さて何とか歳は越した。でも二月に入ると限界も近く
なる。変な幻覚は視えるし貧血で何度も倒れる。お腹の
方はそう痛くないけど、閉塞が強くなればもっと痛くな
るんだろう。それに、左の膝が痛くてまともに歩けなく
なってきた。ここまで来ればもう、医者の領分か。
 行った病院の外来では大した説明もない。なのに検査
と称していきなり内科病棟へ、ダンクシュート。力技だ
ね。そこで僕は家に帰ることを諦めた。もっとも全部、
後の粗末はしてある。だから先生方は真っすぐ僕に話せ
ば良いんだ。でもこれが、話さねえんだなあ・・。
 なもんで僕は、先生方の足元に穴を掘り始めた。

SK病院の日々 38.コン・ゲーム

 採血の時に使うような透明なポンプの先に、えら~く
長い針がついている。それをグサッと突き刺して組織を
採るのが穿刺だ。痛そうだけど、麻酔はしてくれる。
「あのう、白血球の数値なんかは、どうですか?」。
 熱が出るのは体の防御反応。だからそこには相応の理
由がある。ガンノスケはんの内側が腐ってるのかな?血
液検査は何度もしてたから、向こうは当然、状態を把握
してるだろうし。
「ほう・・」。
 静かなエコー室で横になってる僕の足元に立って、渋
い若白髪のS先生は針先を睨んだまま。
「血小板は、どうなんでしょうね」。
 勝手に抗癌剤を点滴する事はないだろうけど、僕の知
らない所で家人が頷いてるかもしれない。
「ほう、血小板ですか・・」。
 久しぶりにカテランシンをブッ刺す機会に集中してた
先生は、やや上の空で頷いている。
「あの、それと、原発巣はそこじゃなくて、この右の肝
臓の方のような気がするんですけど」。
 聞こえているのかいないのか、イソジンを塗って麻酔
して、技師さんと相談しながら長い針をブッスリ。
「はい、そこですね」。
 モニターを見る技師さんが確認した所で、バシュッ!
これがガンノスケはんをバキュームした音かな?
「どうですか?痛くなかったですか?」
「いいえ。面白いもんだなあ、と」。
「ほう・・」。
 そうなのか。返事は全部「ほう」に決めてたのか。
 S先生は、落とし穴に落ちるタイプじゃないらしい。

SK病院の日々 39.ちょっと待ってください

 うーむ。動けない。いずれは、と思っちゃいたけど、
これは厳しい。とにかく寝返りもままならない。
「おう、どうよ」。
 これオイラの兄貴。昔から突然にやってくるタイプ。
「あ、ちょっと待ってて。いま、そっち向くからさ」。
 じっとり脂汗。それでも何とか体制は換えた。
「わあ、だいじょーぶ?」。
 こちらも同じく突然な、オイラの義理の姉ちゃん。
「うん、アリガト。ゆっくり動けば平気だから」。
 ここまで色々と検査はあった。それでも☃先生の上手
な内視鏡検査以外、さしたる苦痛はなかったんだけど。
「いやあ、なんか急にお腹にきちゃってさあ。先生の話
だとシュワノーマとか云って、神経を包んでる鞘が腫瘍
化したらしいんだけど・・」。
 先生には悪いけど、これ、パクらせて頂きました。
「組織を採って、今、生検に回ってるからって」。
「ふーん・・。じゃ、俺、帰るから」。
 いつもながら、オイラの兄貴は突然に帰るんだ。
「OZさーん、レントゲンでーす」。
 え?でも、歩けないよ?え?何?車椅子?
 冷やっこいレントゲンの台に寝転がって、バッシャと
撮影。でも終わっても、今度は簡単には起きられない。
「あ、あ、自分で起きますから、チョト待テテね」。
 介助されると痛みが三倍。だから勝手にやらせてね。
「・・ああ。若いから、まだ腹筋があるから」。
 若くはないが腹筋はある。化粧っ気のない女性の技師
が、僕のゾンビみたいな動きを看護婦さんに説明する。
 ん?待って。今、なんかピンと来た。この気配。
 この技師さんは、サッフォーの島から来たのかな。

SK病院の日々 40.ワン・オン・ワン

 西洋医学には得意なジャンルがある。て事は当然、裏
返しに不得意な分野も存在する。例えば、体の持つ免疫
機構が、患部を非自己とは認識しないような時とか。そ
んなのに遭うと医者は、患者への告知を渋り始める。
「肉腫って、ご存知ですか?」。
 K先生が、そっと訊いた。
 これを意訳すると「やーOZさん、いいですねー。こ
れはねー。とっても厄介なんですよー」となる。
 確かに肉腫は知っている。昔はシナリオのスパイスに
骨肉腫を使ったドラマも多かったしね。何しろこれは若
い人も罹るから、白血病と並んで葛藤を描きやすい。
「それほど悪性のものではないんですけれど・・」。
 僕が黙って首を捻ると、先生は漸く説明を始めてくれ
た。けれど、やっぱり全部を話す訳でもなかった。
 元々、西洋医学に大した信は置いちゃいない。だけど
僕を診てくれてる先生方については信じてた。何か理論
的に矛盾するようだけど、そうじゃない。つまり、その
人個人を信じるということ。極論するなら、中風で手が
震えてるような医者であったとしても、僕は手術を受け
る。その先生が自分で執刀すると決断したのであれば、
危惧は無意味だからね。これって、変じゃないよ。
「だいぶ大きくなってるんで、内部まで血液が行かない
と組織が死んで、敗血症を起こしたりしますから」。
 うーん。もう腐ってると思うんだけど・・。でも先生
は犬丸りんの漫画の女の子のような眼をして、一生懸命
に話してくれてる。それじゃ僕は、頷くしかない。
「じゃOZさん、頑張りましょう」。
 と、ここまでのそれだけで、手術へ。
 はいはい。決めたのなら、そりゃ、やりましょ。

SK病院の日々 

SK病院の日々 

時は1999年世紀末。ノストラダムスに予言された人類滅亡の日が目前にせまり、 中田がセリエAで目覚ましい活躍をしていた頃。 癌患者である僕の神奈川県鎌倉市にあるとある病院での日々の出来事。 体力と気力の問題もあり、一話原稿用紙一枚以内の縛りを設けています。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-07

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