フルートとヴァイオリン(第6章 青空市場)

フランシス・ローレライ

 彼女とはその後も楽団の練習を軸にステディーに交際し、ついに家に招く展開となった。
 4月初旬の土曜日だった。早めに起きるとシャワーを浴び、ニュースを見ながら朝食をとった。コッペパンのようなセンメルを地元流に裏側のお臍の部分からちぎっては頬張り、ミルクをたくさん入れたコーヒーで流し込む。ニュースが終わり「恋は水色」のメロディーが流れた。ウィーンでは、ポップスでさえ古典が好まれるのだ。
 この日を随分と夢見たものだ。
「舞踏会のあと彼女のアパートにたどりついたら、ソファに倒れこんでしまって……毛布を掛けてくれた時、キスされたような気がするのに眠りから覚めずじまい。オペラの晩も彼女をアパートまで送っていったら、隣のお婆さんが出てきて台無しだ。今日こそ何とかしないと……それにしても昨日あれだけ掃除したのに、全然綺麗にならない」と思いつつ部屋を片づけ始めた。
 オペラのCD、手紙等、雑多なものが散乱している。一週間の間には結構、散らかるものだ。そしてフランクフルター・アルゲマイネ新聞の芸能欄を読んでいるうちに彼女の出迎えに行く時間となった。11時の約束だった。
 僕はアパートのドアを閉じると鍵をかけ、すり減った石の古い階段をかけ下りて、中庭の方から大きく頑丈な木の扉を開けた。そしてそのまま通りへ出た。良く晴れて暖かい。
 通りの向こう側には、中華料理やスシのレストラン、日本食品店などが点々と並ぶ。カトリック社会の外縁で生活する人々が行き交うため、とてもエキゾチックである。
 近くにはナッシュマルクトの青空青果市場があり、今日の様な土曜日には大規模な蚤の市が立ち、周辺国、イスラム圏あるいは東洋からの移民や出稼ぎ労働者が集まり、一種独特の怪しげな雰囲気に包まれる。この日の制服は革ジャンにジーパン、それにくわえタバコと言うべきか。そこにマイセンやヘレンドの掘り出し物を目当てに、観光客がカメラ片手にガヤガヤ集まってくる。 
 駅にたどりつくと案の定、沢山の若者がたむろしていた。週末の買い物に来ている外国人カップルも多く、特にアジア系の人たちが目立つ。土曜日で華やいでいるが、どこか不健全なムードでビンや缶が散らかり、こぼれ出た酒、タバコや香料の匂いも立ち込めている。
 しばらくすると彼女が駅構内から出てきた。薄いグレーのコート姿だ。
「やあ、お久しぶり!」と叫んだ。
「待たせてごめん! ケーキ買ったら遅くなっちゃったの」
「休日なのに申し訳なかったね」
「そんなことないわ。それにしても随分人が多いね」
「うん。市の立つ土曜日で」
「確かに……」
「この辺は家賃も安いし」と自嘲しつつ雑踏をかきわけ、マミを案内する。
「5分で着くからね」
 進行方向の古そうな建物から赤と白の小さなオーストリア国旗が見える。
「あの旗は?」
「……シューベルトの亡くなった家かな」
「へえ、さすがウィーン……入ったことある?」
「彼のピアノがあって」と気のなさそうに答える。
「シューベルトね……御霊験あると良いな」と言いながら彼女は立ち止まって目をつむり、手を合わせる。拝んでいるのだろうか。
「ほら、最終選考の課題曲にあるじゃない」と彼女が顔を上げて言った。
「あ、そうか」
 その隣のすすけたオレンジ色の建物まで来たので、
「実はここ……お疲れ様でした」と言いながら鍵を差し込み、大きな木の扉を開いた。
「へえ……」
 二人で中に入ると陽が遮られていて異様に寒かった。通路はそのまま正方形の中庭へと続く。
「昔は馬車が出入りして」
「へえ……階段もすり減っているね」
「250年くらい前の物で……」と言いながら階段を先導する。踊り場に出たところで左手のドアに向かい、鍵を差し込んだ。
「カチャッ」という音があたりに響いた。ドアを開ける。
「どうぞ、殺風景な所だけど」
「……お邪魔します」
 彼女は少し不安そうだ。しかし部屋に入ると、さっきまで居たので暖かい。
「へえ……意外と静かなのね」と言って彼女は部屋をぐるりと見まわした。
 周囲は緑色に白を混ぜたようなウグイス色で、少しペンキ塗りたてだ。椅子もテーブルもみすぼらしい中で、多分、目を引くのが頑丈で重たそうな三本脚の木製譜面立てだろう。これは古い上、青空蚤の市で更に風化した奴だ。
 予備のヒーターをつけながら、
「だから練習の時はとても気を使うよね……隣のお婆さんに時々差し入れするけど、いつも機嫌良いとは限らない……さすがに土地っ子は音楽系に寛容だけど」と解説する。
「分かるわ、その感じ」
「実は最近、ペンキ塗り替えたんだ」
「悪くないじゃない、明るくて!」
「そう? 良かった……コートもらおうか?」
 彼女は白と茶色の帽子を取り、いななくように長い髪をふりほどいた。そして薄いグレーのコートを脱ぎ、マフラーを取る。茶色いセーターの下には白いブラウス。彼女は上のボタンを一個丁寧にはずすと、ほっと息をついた。
「スリッパはく? 一応、和式で」と言いながら靴を脱いだ。
 マミは目の前のスリッパを確認しつつ、仕方なさそうにブーツを脱ぎ始めた。黒いスカートの下から形の良いふくらはぎがのぞき、彼女のかがんだ姿勢が気になった。
「久しぶりだね」
「そうね」
 彼女は苦笑し、スリッパにはきかえた細長い左足を伸ばし、突然僕の足を踏んできた。僕は足のぬくもりを感じ、彼女の腰に手をかけて思わず身を寄せてしまった。すると彼女は、しなやかに後ろの壁にもたれかかり、顔を向けたまま目を閉じた。
 しっかりと抱き合う。そして自然なままに熱い接吻を交わす。肌のぬくもりが行き交い、鼓動が通じ合う。心臓が高鳴り、えもいわれぬ強い興奮が訪れはじめる。
 ところが事もあろうに、携帯からベートーヴェンの「喜びの歌」が鳴り出した。僕は暫くマミとの抱擁に溺れたままだった。彼女の体温を感じるから、そして……そのぬくもりに浸っていたいから。
 時間よ、止まれ! 
 でも主張の強い音楽が鳴り続けるので、しぶしぶ彼女から身をふりほどいた。
「はい。国谷ですが……」
「平原です。お休みのところ申し訳ない。支店長が来週の火曜から、パリ出張で……お願いしていいかな、フライトに宿……」
 やっぱり。
「本間支店長が? 火曜日からですか?」
「そう。欧州支配人の召集で……」と平原さんが続けた。
「分かりました、早速手配します。ホテルは現地で押さえてくれないのでしょうか」
「そう言えばそうだね。でも週末だし、念のため押さえてくれ」
「はい」と無理して良い返事する。
「申し訳ないけれど宜しくお願いするよ。できれば八時台の出発で……すぐに動いた方が良いかも知れないね」と言う平原さんは、そつがない。
「了解。何の会議でしょうね?」
「多分、世界ワイン・オリーブ協会で……」
 電話が長引きはじめたところでマミは「いい?」と指で示し、キッチンの方に姿をくらました。彼女が戻ってきたところで僕は漸く電話を切ることができた。
「ごめん、タイミング悪かったね」
「出張するの?」と、彼女が問いかけた。
「支店長がパリ出張らしい。世界ワイン・オリーブ協会とか言う、秘密結社じみたのがあって……悪いけどこれから一仕事なのよ」
「分かったわ、御ゆっくり」
 地元の航空会社が休みらしいので、僕は机上のパソコンに救いを求めた。ネット検索すると、航空会社の派手なロゴがスクリーンに浮かぶ。そしてしばらくの後、
「よし、予約できたぞ!」と言いながら大げさに手をたたき、キッチンに入っていった。
「うまく行った?」と食器棚から振り向き様にマミがつぶやいた。
「やっと取れたよ」
「良かったね」
「でも来週、もう一度電話しないと。それにパリ支店にも……週末はいないだろうなぁ……」
「でも、自宅のメルアドとか?」と彼女が気を回す。
「あとで捜そうと思って」
「じゃあケーキ、食べよう?」
「ああ、有り難い」
 紅茶と共に食べるデーメルのチェリー・パイは味わい深かった。
「ここのお菓子って、いつも感動的だね」と満足そうに言う僕。
「そう。ふわーっとしていて、私も好き」
「フルートは、いつからやっているの?」と彼女がマグに紅茶を注ぎながら尋ねてきた。
「小学校以来。散発的だけど」
「よく続いたわね」
「惰性だね」
「美人の先生がいたとか?」と彼女がいたずらっぽく尋ねる。
「そういう時期もあったかも。大学の頃、新宿でレッスン受けながら、オケに入って……」
「やっぱり!」
「指揮者のフィッシュマン先生、どう思う?」と水を向けてみた。
「父の知り合いにしては、カッコいいと思うわ。でも日本人と違うね……戸惑うこともある」
「ドイツ語だし、彼のスタイルに慣れていないからだよ」と彼女を諭す。
「そうかも知れない。あのアフロ・ヘアと口ひげが絶妙ね」
「多分、ヨハン・シュトラウス気取り」
「ウィーンって乾燥しているせいかな、音の響きが違うわね。自分の声もエコーするし、犬が吠えてもすごく響くの」と彼女が訴える。
「だから一応、音楽の都。それに気圧も低いのかな、アルプスがすぐ西の方から始まるし。音速にも影響するだろうね」
「湿度が違うでしょう? 乾いているから音が遅いのよ」
「そう、確かエコーが遅れるんだ。実は最近、ろくすっぽ練習できなくて。練習時間も法律があるし、お年寄りの昼寝の時間は特に遠慮しないと……ここは高齢者天国で皆、すごく気を使うよね」
「私の住む界隈は結構寛容で、上のフロアのロシア人のお爺さんなんか、毎日チェロを練習するし」
「へえ……耳が遠いのかも」
 僕は窓を開け、顔を出してみた。行き交うざわめきが大きく聞こえる。
「かなり賑わっているよ。蚤の市に行かない?」ともちかけた。
 二人で通りに出てみると太陽がまぶしかった。手に手をとり、駅を目指して歩き始めた。あたりは観光客で賑わっている。
 西暦2001年になりながら、ウィーンには相変わらず安全神話があったが、ここの蚤の市だけはスリや詐欺師が、今にも現われそうである。あちこちの露店に陶器やガラス、油絵、古いポスター、怪しげな彫刻、古銭、写真立て、ビーズ、化石、CD、アナログ・レコード、セーターやジャンパー、古い家具等、中古品や骨董品が所狭しと並ぶ。そして招き猫の代わりに、男女の交わりを描写した絵画や彫刻が目立つところに飾られるのだ。
 かたやトルコ人やギリシャ人の経営するような、スパイスや香辛料が山積みされた店、あるいは野菜や果物、ナッツを売る店があり、とてもカラフルだ。
「アメ横とか、浅草みたい!」と彼女が嬉しそうに声をあげる。
 目の前の店では、これ見よがしに羊肉を焼きながら、トマトや玉ねぎと合わせた大きなサンドイッチを売っていた。
「結構、誘惑されるわね」
 狭い通りの向こう側に目をやると、茶色いアフロ・ヘアと口ひげの男がいた。
「あっ、うわさのマエストロ!」
「あ、本当だ!」と彼女が声をあげそうになり、あわてて手で口を塞ぐ。
 マエストロ・フィッシュマンは、カーキ色のコートに黒いブーツ、そしてロシア風の毛皮の黒い帽子という出で立ちで、店主と値段の駆け引きの最中だった。手にした物が陽の光でキラキラ輝く。
「あれは多分、水晶……アルプス産かな」
 取引が成立した模様だ。
「フィッシュマンさんって独り者?」と彼女が尋ねた。
「噂では。ルーマニア系で若い頃苦労したらしい」
 包みをもらったマエストロは店の人と握手し、足取り軽そうに立ち去った。
「私たちに気がつかない振りしたわね」
「それがウィーン流……シャイなのかな」
「気遣ってくれたのよ、きっと」と言って彼女は僕の手を取り、プレスリーのレコードが店頭に目立つ隣の店に誘導した。
 奥で骨とう品も扱っている。彼女は小さな銀の置物を見つけ、手に取った。古代の軍人らしい。
「何だろう?」と彼女が問う。
 リアルかつ精巧。台座があり、目的あって作られたに違いない。 「チェスの駒?」と僕が見立てる。
「へえ……見て、ブーツに翼」
「古代ギリシャとかローマ系だね」 「姿勢良いし、ハンサム」
「そうだね。この夏、ギリシャに行ってみない?」

フルートとヴァイオリン(第6章 青空市場)

フルートとヴァイオリン(第6章 青空市場)

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