フルートとヴァイオリン(第4章 エスの研究)

フランシス・ローレライ

エスの研究に関しては下記御参照下さい。
http://slib.net/74437

 ダンスの得意な萩谷オサムは、札幌稲穂小学校の同窓生だった。卒業から約15年経てここの特派員になったので「イサム、オサムの漫才コンビ」の復活である。
 ある晩、僕のアパートで華やかな舞踏会の思い出に浸りながら二人で白ワインを酌み交わしていた。ここは青空青果市場や「外人ゲットー」のあるナッシュマルクト地区で、18世紀にできた石の集合住宅の一画だ。
「それにしてもアルテドナウ合奏団、本当に御苦労様! 御蔭様で楽しかったよ」と黒ぶち眼鏡の萩谷が言ってくれて、土産に持ってきた燻製生ハム「シンケンシュペック」を皿からつまんだ。
「そりゃどうも。しかし演奏するより、踊る方が賢いね」と答えながら僕も生ハムをさらう。
「我々はお客で無責任だからな……あんさんも、ヴァイオリンの彼女誘ってワルツしたら良かったね」
「ウーン……」
「いや、実は最近、面白い記事を見つけてさ……」と言いながら、彼はカバンから何やらクシャクシャッとした書類を取り出した。そして、
「この町で精神分析を始めたフロイト知っているだろう?」と問題提起する。
「ジーグムント・フロイトね」と答え、僕はグラスのワインを飲み干す。そこで彼は、
「フロイトのいたウィーン総合病院に、チャンドラセカールとか言うインド人の先生がいて、お母さんが日本人。これは職場の訳で少し稚拙かも知れないけど……」と前置きし、声に出して読み始めた。
「人間の精神には常に自我とエスの双方が宿るが、思春期に起きる画期的な出来事は、全てエスの登場と深く関係している。子供が男性・女性として発達を遂げていく頃、頭の中では生殖本能を司るエスが突然、存在感を高めるのである。
 例えば、声変わり。エスは喉の奥の迷走神経を操る様になり、声が一時的に不安定化して声変わりが起きる。その後エスは時々、自我からマイクを借りるように声を出して歌を歌い、求愛する様になる。
 そしてエスの活躍できる都が、何を隠そう、ウィーンではないか!」
 ここで僕が口を挟んだ。
「と言うことは、女に感じる頃には、エスが登場するわけか?」
「多分」
「信じがたい!」
「うん。でも舞台系のオジキによれば、興に乗ると突然、声を奪われてセリフが自然に出るらしいんだ」と萩谷が解説する。
「それって、オペラ座の怪人じゃないか?」
「エスがカミングアウトするのかなぁ……」
「そういやこの間、ミス平原と良い雰囲気だったねえ!」と僕はバルの話にすり替えた。 
「いや、とんでもない! 彼氏がいるだろうし」
「いいなあ。ダンス上手いと便利だろう?」
「いやいや……噂じゃあ、国谷君、バルの帰りに彼女を家まで送って」と言って彼は突然ニヤリとし、ついに、
「ウワッハッハッ!」と声を立てて笑いこけた。
 僕は憮然としている。
「今度はオペラにでも誘ったら?」と彼が煽るので
「余計なお世話だね」と答えてやった。

 萩谷の帰った後、彼の置いて行った精神医学の記事を取り上げ、やおら目を通してみた。長い論文の冒頭部分で、こんな具合だった。
「フロイトが『夢解釈』を著したのは1900年であり、ウィーン大学で精神分析入門の講義を行ったのは1915~17年だった。100年以上経過した今日、精神疾患は相変わらず社会を蝕む重要な問題なのに十分解明されていない。
 確かに精神医療は、21世紀への転換期を境に増々効果的で副作用の少ない向精神薬が開発され、劇的に発展した。それだけに精神病が何故発生するのか、原因究明の遅れが目立ってしまう。ついてはフロイトの考案した無意識に関し、タブーや因習を乗り越えて率直な議論を進めるべきだろう。
 20世紀の後半には、てんかん発作を抑えるため、左右の脳の離断手術が行われる様になったが、左右の接続を失った脳は分離脳と呼ばれ、様々な不思議な現象が観察された。例えば言語表現の機能は、右脳にはなく、左脳だけに見られた。
 米国の神経心理学者スペリーは左右の脳半球の機能研究で1981年にノーベル賞を受賞した。ガザニガ博士は、分離脳の左右の脳半球には相異なる意識が宿り得ることまで示した。それぞれ独自性を有し、異なる宗教観さえ示すらしい。
 最近、脳科学は目覚ましい進歩を遂げている。ラマチャンドラン博士は鏡を使い、失った手足から感じる痛みの緩和に成功している。また脳の各部位の機能を外部から確認出来るMRIが開発され、左右の脳半球の分業に加え、連携プレーも観察されている。
 男性と女性の違いも判明し、女性は左右の脳半球を同時活用出来るが、男性は片側ずつしか使えない。これは結局、無意識がもう片側に常に介入するのが原因……」
 なるほど、結構難しそうだ。
 そこで国立オペラ座のウェブサイトを検索し始めた。すると3月の日程に、ちょうど良い演目が入っていた。楽団で練習の始まる作品だ。学生の津軽マミは立ち見が多かろうと、少し良い席をネットで手配することにした。そして準備が整ったところでメールを打ち始めた。
「津軽マミさん しばらく御無沙汰していますが、お元気ですか。実はオペラの切符が手に入りました。再来週の火曜日の『フィガロの結婚』だけど、一緒に見に行きませんか。幕間に、女神の彫像が並ぶテラスでシャンパンを飲もうよ。きっとお姫様の様な気分になれるから。国谷イサム」
 返事が来たのは次の日、それも夜中の零時過ぎだった。
「国谷さん お誘いどうも有難う。喜んで御一緒します。どうぞ宜しく 津軽マミ」
 やったね!

フルートとヴァイオリン(第4章 エスの研究)

フルートとヴァイオリン(第4章 エスの研究)

  • 小説
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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-03

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