報われたい
この痛みを、理解してほしいとは思わない。
風と適度な日差しが心地よくて、だから私は屋上でお昼を食べるのが好きだった。本当は立入禁止だから誰もいないし、一人であの広大な空を独り占めできている気分を味わえて、まさに最の高なのだ。
友達は沢山いた。皆私に一緒にご飯食べようと誘ってくるが、屋上に来られたくなかったから全て笑って断った。友達が多いからといって、どんな時間も友人と共有したいわけではないのだ。一人の時間の自由さがただ心地良い。屋上は唯一の一人を堪能できる、快適な場所のはずで──。
今日は先客がいた。空を眺めている女の子。フェンスの向こう側に突っ立って、足が震えていた。
自殺、の文字が脳裏に過り、呑気にお弁当食べようとしていたほのぼのした空気が一気に氷点下。おいおいまじかよ、と彼女の後ろ姿に慌てふためく。
とりあえず、止めなきゃいけない? 警察を呼ぶべき? 正しい対応がわからなくて、脳内のキャパが限界で、右手に持っていたお弁当の袋を落とした。
その音は彼女にもしっかり聞こえたはずだが、振り返りもしない。よく考えれば、ここに入ってきた時点で私の存在には気付いているのだろう。なのに、ずっと空だけを見ている。
「死んじゃうの」
恐る恐る。ようやく口にできた言葉は、そんなものだった。
彼女の顔が少しだけこちら側に傾く。見覚えのある横顔。同じ学年だ。同じクラスではない。確か、いつも一人でいるのを見たことがあった気がする。
彼女は私の姿を確認すると、一度大きく息を吸って、吐き出した。
「あなた、死にたいと思ったことはある?」
急な質問に驚きはしたが、少し思考する。無いかもしれない。だって死んだら全て終わりだし、大好きな人とも会えなくなるし、すごく苦しいだろうし、いいことなんて一つもない。できれば死にたくないと思うのが、生き物全てに共通する本能だ。
「どうせないんでしょ。お気楽な人生だね」
黙り込んでいたら、そんなことを言われた。確かに、死にたいとは無縁の私は、彼女からしてみれば気楽なのかもしれないが。
「なんで死にたいの」
これは興味本位でしかない質問だ。本当なら、死んじゃだめとか、そういう言葉をかけるべきなのだろうけど。こんな現場に立ち会うなんて初めてだし、何が正しいのかもわからない。
少しだけ顔をこちらに向けて、彼女は一つ、深く行きを吸い込んだ。そうして、吐き出す空気と共に声にする。
「疲れたから。……父親にさ、虐待を受けているの。親に死ねって言われてね、母が怒鳴られる怖い声に震えてね、おかしいよ。あんたらが産んだくせに、愛する義務があるはずでしょ、親には。なのにね、愛してもらえないの。寂しくて、辛くて、もうお父さんの言うように死んじゃえたら楽なのになってなってさ。私、行動力はないんだ。だからここまで来るのにホントに長い時間が必要だったけど、やっと屋上にきて、ようやくフェンスを超えられた。あとは落ちるだけなのに、それがまた難しいよね。怖いんだ。死にたいのに、ここに立ったら足が震えてね、無理なんだ」
女の子は涙を流してそう言う。思ったよりたくさん喋ってくれた。今のは彼女なりの遺書なのかもしれないと思った。全て誰かに打ち明けたかったのかもしれない。その相手は誰でもよかったのだろう。
可哀想だとは思う。でも、どうすることできない。だって私は所詮他人だし、彼女のことは何も知らない。死にたいって気持ちは理解できない。止めたいとは思うけど、どうすれば。
「世間的に言えば、うちの虐待なんてたかが知れてる。殴られたこともあったけど、ここ一年は無いし。でも、もしかしたら暴力を振られるかもしれないって毎日思いながら過ごすのがね、辛かったの。お母さんは何故かいつも怒鳴られてるし。その声を聞くのが怖いんだよ。父親の矛先が私に向くんじゃないかってね、毎日ビクビクしてた。それにね、少し家で父親の機嫌を損ねさせると罰金を払わされるの。殴られるよりマシだなって安心してたけど、頑張って貯めたバイト代が取られてさ、父親は、丁度いい収入が入ったって、笑ってんの。娘からお金取り上げて、遊ぶ金ができたって笑う声がさ、もう人間のものに聞こえなかったよ。でも、殴られないならそれでいい。──そんな感じ。ね、大したことない虐待でしょ?」
彼女が完全にこちらに振り返った。フェンスを片手で掴みながら、彼女は薄く笑う。
「そんなことで死ぬなんてって思った? 吉田さんにはわからないよ」
私のこと、知ってるんだ。私は知らないのに。考えてみれば生徒会にも入ってるし、彼女が私を知る機会はそれなりにあるはずだ。友達も多いし、私って学校では目立つ存在なのだろう。それに比べて彼女は目立たないし、どんな子なのか知らないが、多分一人でいる姿を何度か目撃してるのだから、友達はいないのだろう。
だから、彼女を止めてあげられるのは、偶然ここに居合わせた私だけなのだろう。喉が震えた。私程度にどんな言葉を紡げるか。上手く力の入らない足を踏み出して言う。声は情けなく震えていた。
「でも、死んじゃ駄目だよ。死んだら全部終わりだけど、生きてればなんとか──」
「いつ?」
鋭い剣が、喉元に突きつけられたみたいな錯覚をした。それくらい彼女の声は冷ややかに、それでいて鋭利なものだった。
「なんとかなるのは、いつなの。父親が勝手に死ぬまで? 私はもう、無理なんだよ。ああ、ごめんね。せっかく止めようとしてくれたのに」
謝られる。彼女は両目にいっぱい涙を溜めていた。くしゃくしゃの顔でどうにか笑っていた。
「私だってね、死にたくないんだ。怖いもの。だけど、だけど、もうこうするしかない。ねえ、吉田さん。私生きたいよ」
そんなことを言われたって、私はどうしていいかわからない。
「生きたいなら、生きようよ。死ぬなんて良くないよ。誰かが悲しむよ」
「そうかなあ? 悲しむ誰かより、どうでもいいと思う人のほうがずっと多いよ」
「……そうだとしても、」
「もういいよ」
彼女は涙を拭って、腫れた両目で私を見つめた。
「愛されたかったな」
それから、フェンスをダン、と押して、その弾みで両足が地を離れて行った。
落ちた。下を覗く勇気も無いし、これからどうしていいかわからない私は、ヘタリとその場に座り込んで、おもむろにお弁当の袋を開いた。ひっくり返ったお弁当の中身はおかずとご飯がぐちゃぐちゃに入り混じっていて、酷い見た目になっていて。でも、味はそんなに変わらないのだろうと思った。
蓋を開けて摘んだ卵焼きに、味はなかった。
報われたい