【連載】成長

aki0125

  1. 陽菜-1
  2. 陽菜-2
  3. 陽菜-3
  4. 陽太-1
  5. 陽太-2
  6. 陽太-3
  7. 陽太-4
  8. 奈由紀-1
  9. 奈由紀-2
  10. 奈由紀-3

陽菜-1

教室で資料作りをしていると、ふいに塾長から声をかけられた。
「瀬名君、遅くまでお疲れさま。明日の準備かな?」
瀬名は背筋を伸ばし、少し声を上ずらせて説明する。
「お疲れ様です。あの・・・明日の数学のプリントが、まだできていなくて…」
夜9時の最後の授業が終わってから作業を始め、時計はそろそろ10時を示そうとしていた。今日はいつもより担当した授業の数が多かったこともあり、心身ともに疲労が強く、パソコンの画面を見つめる目をさっきから何度もこすりながらの作業だった。
塾長は印刷され机の上に並べられたプリントの1枚を手に取り、ふむふむとうなずきながら読みだす。
「実にわかりやすい、さすが瀬名君だ。そうか、ここは難しいけれど、こういうふうに書き直せば子供たちにわかりやすいんだね。」
「ありがとうございます!はい、そこは・・・」
気をつけた点、工夫した点をいくつか説明していく。塾長はひとつひとつの点になるほどと感心したり、共感してアドバイスを加えていく。
大人がそうであるように、生徒にも色々な性格の子がいる。勉強の苦手な子、集中力のない子、緊張して質問ができない子・・・。一人ひとりと向き合い、なるべく多くの子達が苦手を克服できる授業をすることが、瀬名が塾講師になったとき心に決めたことだった。
「でも、すいません、まだ日誌が書けていなくて…週明けには必ず提出しますので…」
「そんなものは時間のできたときにすればいいんだよ。」塾長は満足げな顔で微笑む。
「塾にとって一番大切なのは、子供たちの親御さんがお金を出して塾に通わせる価値のある授業をすることだ。他の講師には授業は出来合いのもので済ませて、もともと勉強の得意な子供たちを志望校に入れることを優先する者もいる。まぁ、要領がいいんだよね、彼らは。」
実際、問題のある子だと気づいた瞬間、その子がいくら学ぶ姿勢を見せようとも適当にあしらう講師も中にはいる。そして最初からレベルの高い学校に入れることが確実な生徒に時間を割いたほうが、講師としての実績を作るには効率がいいのだ。
「僕はそれを批判したいわけじゃない。何しろ実績を残して生徒を呼び込まないと経営は行き詰ってしまうからね。でも、瀬名君みたいに、時間はかかるかもしれないし…そうだね…華やかではないかもしれないけど、勉強が苦手な子供たちに根気強く教えることができる講師も、必要なんだよ。」
瀬名はもともと人見知りで、口下手で、講師に向いていないことは自分でもよくわかっていた。実際、初めて大勢の生徒の前で授業をしたときには緊張で身体が震え、頭は真っ白で、気づいたら授業が終わり呆然と教壇に立っていた。でも授業の後、生徒から個別に相談を受け、その子供に合った方法で疑問点を解決していく瞬間にとても充実感を感じたのだ。そこで塾講師になって1年間、一人ひとりに向き合うことに力を注いできた。だから、塾長の言葉は、自分の方向が間違っていなかったと、とても勇気付けられるものだった。
「そう言っていただけて、本当に嬉しいです」瀬名は立ち上がって頭を下げる。
すると塾長もこれはこれはという風に立ち上がって深々とお辞儀を返した。
「お礼をしなければならないのは僕のほうだ。君に来てもらえて本当に良かったよ、困ったことがあったら相談に乗るから何でも言ってほしい。では僕は本部に寄っていくから、後は頼んだよ。」
そう言って塾長は機嫌よさそうに教室を後にした。お疲れ様でしたと見送り、瀬名は1日の疲れが吹き飛んだかのように、再び資料作成に没頭し始める。その日瀬名がビルの戸締りをしたのは、日付が変わるころだった。

「なんか今日暗くね?」
先ほどまで鉛筆回しに集中していたと思っていた陽菜が突然言葉を発した。見ると覗き込むようにこちらを見つめている。
「えっ…そうかな…いい天気だと思うけど」瀬名は窓を見ながら返事をする。今日は梅雨の晴れ間で、青空には入道雲の子供のような小さな雲がいくつも並んでいた。
「違うよ、ミッツが」
「へ、俺が?あー…」
おそらく原因は午前中に受けた、ある保護者からの電話だ。陽菜とは別の、成績は平均的な生徒なのだが、親の方針で地域でもトップクラスの難関私立中学を志望しており、大幅な成績アップを要求されていた。しかし生徒本人は友達のいる公立に入りたいと思っており、勉強にもやる気を見せず、指導は思うように進んでいなかった。正直瀬名は無理やり受験勉強をさせることにも抵抗を感じており、生徒本人のために何ができるのか悩んでいた。そんな中受けさせた模試では当然良い判定は出ず、親からクレームが来たということだ。
「まぁちょっと・・・いろいろあってね。」
「せっかく久しぶりの晴れなのに~ミッツのせいでジメジメするぅ」
陽菜は椅子を背もたれが後ろの机に当たるまで傾け、大きく伸びをする。小麦色に焼けた肌、子供らしく細いけれど引き締まった腕。バスケ部で毎日ランニングをしている陽菜は、無駄のない綺麗な身体つきをしていた。
「ごめんごめん、そうだよな…うん、落ち込むのやめるよ。」
「そうしたまえ!」そう完全に上から目線の感想を述べると、今度は机に顔を近づけプリントに何かを書こうと鉛筆を握り締め、考えを巡らせているような表情に変わる。が、それは一瞬で、素晴らしい悪巧みを思いついたというような顔を瀬名に向けた。
「せんせーは、こんな日に、どこかへいくご予定はないんですかー」
「うーんそうだな…しばらく高根山には行ってないから行きたいかな。あの辺りはヤシロコウがたまに見られるから…」
「ふ~ん。で?誰と?」
「誰とも。かなり山林を移動するからな。それに、一人のほうが静かなスポットで、自分が満足するまで観察できるし…」
いつの間にか陽菜から不審者を見るような目を向けられていることに気づく。
「ということはまだカノジョもいないお一人さんだと」
「いや、まぁ…仕事が忙しくて…」瀬名は困ったという感じで頭をかく。
あきれた~つまらない~という風に陽菜は深いため息をつき、プリントを机の端に押しやり天井を見つめた。
陽菜が5年生になってから少し恋愛に興味を持ってきたのか、こういう質問が時折くるようになった。おそらく大人になれば皆、恋をし、週末はデートに勤しむ、と考えているのだろう。恋愛に全く縁のない瀬名としては、好奇心に満ちた少女を楽しませる回答ができず、申し訳ないとさえ感じることがある。それよりも、初めてそれに気づいた日から、決して抜くことのできない、いつか心臓に到達するトゲが身体に刺さったような不安から、目を背けられない自分がいた。
「陽太も大丈夫かな…なんだかミッツと同じにおいがするんだよね~」
「陽太君…弟だっけ?」
「うん、あの子、部屋が本で埋まってて、休みの日も友達とあそばずに本ばっか読んでるの」
「あはは、確かに俺と似てるかもね。どんな本が好きなの?」
「よく知らないけど…ファンタジーとか? しょうらい図書館ではたらくんだ~って言ってる」
ふと時計を見て、思ったよりも長話をしてしまっていたことに気づく。
「で、さっきの問題はできたのか?」
「わかりません!教えてミッツ!」元気にお辞儀をしながらプリントを差し出す陽菜。瀬名は、はいはいと教材を開き、隣に座って解説を始める。
陽菜に最初に会ったのは去年の秋口だ。さらさらの黒髪のショートカット、大きく澄んだ瞳、ボーイッシュで活発な女の子、というのが第一印象だった。小学校のバスケ部でエースだった彼女は4年生の夏休み明けのテストでよくない結果を出し、部活を続ける条件として親にこの塾に入れられた。特に算数で大分遅れをとっていたので、担当が数学の瀬名は彼女を頻繁に担当することになった。
最初は正直勝気な感じが苦手で、勉強にも興味を示さず、新人講師だから舐められているのではないかと悩んだ時期もあった。が、何回かこうして授業後に個人指導を繰り返すにつれ、いつのまにかこの塾で一番仲の良い生徒になっていた。瀬名が新人講師なりに一生懸命に教えようとしていることが陽菜に伝わり、また実際成績も徐々にだが良くなり、陽菜が信頼感を持ったのだろう。
「できたーっ!」陽菜は全てから解放されたというように気持ちよい伸びを見せる。
「お疲れ様、よく頑張ったな。」
「ミッツー、私すごいよ、こんなむずかしい問題できちゃってる、しかもなんか楽しい…4年のときもう算数の問題見るだけでだめだったのに…」
「陽菜が頑張ったからだな、うん。」
「いやいやーミッツのおかげやし、ありがと!」
こげ茶のランドセルに筆記用具を詰めながら、屈託のない笑顔で礼を言う。
「そういえば、この前話してくれた大会に向けて練習は進んでる?」
「ばっちし。この前のテスト良かったから、今回は男子の応援にも行けそう。」
塾講師なのだから、本当は他の事をやめさせてでも成績を伸ばせばよいのだが、それはしたくなかった。生徒がやりたいことがあるのなら、それが勉強でなくても自分のできることで応援したい。それが生徒一人ひとりに向き合うということだと考えたからだ。
1階のエントランスまで一緒に降りてきて、くるりと瀬名の方を向いて小さく手を振った。
「じゃあね、ミッツ、また明日~」
「うん、またな。気をつけて。」瀬名も手を振り返す。
自分のことを、塞ぎこんでいた学生時代、一度も呼ばれなかったあだ名で呼ぶほどに慕う彼女。おそらく同年代だったらここまで仲良くなることはなかっただろう。スカートを履いているのは見たことがなく、いつもTシャツズボンにスニーカー、男女関係なく友達が多い。学生時代よりも大分改善されたが、今でも相手が異性というだけで人と距離をとりたくなる彼にとっては、子供というのはどちらでもない、自分をありのまま受け入れてくれる存在だった。活発な性格も仲良くなってみれば自分の口下手な、けれども生徒の前では講師として努めて隠している、本性と相性がいいのかもしれない。
塾の玄関を出て、スキップ気味に駅の方へ向かう陽菜。角を曲がり見えなくなるまで、彼女を教えられる自分は本当に幸せだと、瀬名は考えながら見つめていた。

陽菜-2

明日から夏休みということで、休み時間の教室は夏休みの話で持ちきりだ。家族で海外に旅行に行く、部活で合宿がある…聞いているだけで、こちらも子供時代に戻ったような気持ちになる。
「瀬名君、ちょっと」
突然廊下にいる塾長から声をかけられ、今さっき集め終わったプリントの整理を一旦中断して廊下へ向かう。
「お疲れ様です、何でしょう。」
「突然なんだが、明日から清里での合宿に参加してもらうことはできないだろうか。」
「えっ、清里・・・講師研修ですか?」
夏の清里合宿といえば、本部が毎年開催しているもので、所謂カリスマ講師と呼ばれる者たちが指導役となり、全国から集められた将来有望な若手講師に手ほどきを行う、というものだった。基本的に1校からは塾長の推薦で1人のみ参加可能であり、向上心のある講師達にとっては有名講師に直接指導を受けられる憧れの機会だった。
「もちろん無理にとは言わない。期間は夏休み中の3週間だから、こちらでの夏期講習には後半の一部しか参加できないことになってしまう。」
陽菜の顔がよぎる。彼女は夏期講習に申し込んでいたから、本当であれば夏休み中頻繁に受け持つことになるのだろう。ここ数ヶ月調子も上がってきているようで、時間のある夏休み中に進度を上げれば、休み明けのテストで良い結果を残せるかもしれない。
「でも、私で良いのでしょうか…他に講義の得意な先生はいますし、私が有名講師の真似ができるとは思えなくて。」
言うまでもなく、カリスマ講師の大半は喋りが上手く、生徒受けも良く、所謂熱血教師的な資質を持つ。正反対の性格の自分が参加したところで、役不足なだけではないか。今まで瀬名はそう思っていたので彼らの真似をしようと考えたことも無かった。
「逆に私はそこに期待しているんだ。たしかに脚光を浴びるのは堂々としていて情熱的な講義をする者であることが多い。でも生徒の中には瀬名君のような物静かで繊細な感覚を持った人間に教えてもらいたいという者もいる。瀬戸君がカリスマ講師からその技術を学んだら、どんな授業が行われるのか見てみたいんだよ。」
正直塾講師自体、強く望んでなったわけでは無かった。学生時代、勉強は得意だったがそれ以外の活動に意味を見出せなかった。就職活動では面接で落とされ続け、ようやく内定がとれたこの塾も、人と話すのが苦手な性格ではどうせもって1年だろうと、最初は不安でいっぱいだった。それが自分なりに努力してきたことが認められるだけでなく、将来に期待までされていると伝えられ、瀬名は嬉しさを噛み締めていた。
「ありがとうございます。私でよければ、是非参加したいと思います。」
「受けてくれて良かった、明日からの夏期講習の代役には阿佐木先生を充てよう。」
詳細はまたメールするからね、と上機嫌で廊下を去っていく塾長。夏への期待と少しのプレッシャーに浸りしばらくそれをぼーっと見つめていたが、ふいに次の授業5分前を告げるチャイムが鳴る。次の授業ではたしか陽菜がくるから、このことを伝えなければ、と考えながら瀬名はプリントの整理を急ぐのだった。

授業が終わると2人の生徒から質問を受けたので、順に個別指導を行う。その間陽菜はしばらく友達と喋っていたが、友達が帰ると退屈そうに窓の外を眺めていた。梅雨らしくどんよりとした空。朝から弱い雨が続いて、7月にしては少し肌寒い。
金曜日は母親の帰宅が遅いらしく、授業後に教室で時間をつぶしていることが多い。その時間にこの1週間でわからなかったところを瀬名と復習するのが、毎週のルーチンとなっていた。
「ごめん、おまたせ」2人が帰り、教室に他に誰もいなくなると瀬名は陽菜に声をかける。
「まった~ミッツおそいよ~」
少しふてくされた顔で、陽菜は教科書を開く。
「小海さん、どこの復習をご希望でしょうか」
少しおどけた言い方をしながら瀬名が教科書を覗き込むと、そこは小数の割り算のページだった。確かに今までの整数での割り算と違い感覚的に理解が難しいことから、つまづく生徒が多い分野でもある。
瀬名はまず陽菜がどこに不安を感じているのか探りながら、少しずつ解説を進めていく。ちらっと陽菜をみると、先ほどとはまったく違う真剣な表情で聞き入っている。
幼いころからスポーツをしてきた彼女は、勉強に苦手意識があったが、もとから瞬発的な集中力は高かった。担当するようになってしばらくしてそれに気づいた瀬名は、一気に全てを理解させるのではなく、部分ごとに解説と演習を行い、少しずつ理解を深めさせるようにしていた。そして合間合間に雑談の時間を設け、部活や学校のことを聞くなど、リラックスして学習が行えるよう心がけていたが、それがいつしかお互いの楽しみになった。
「え~しばらくミッツ来ないの?」
夏期講習に参加できないことを話すと、予想通り残念そうな返事が返ってくる。
「ざんねんやなー…夏休み勉強がんばろうと思ってたのに…」
「おいおい、先生がいなくても頑張ってくれよ。」
「あっでもちょうどいいかも、わたしも前半忙しくて、どれだけ塾これるかわかんないかも…」
「試合とー合宿だっけ?」
「うん、そんで帰ってきたら夏祭り友達と行くんだ」
今から楽しみでしょうがないという風に足をばたばたさせて答える。
「土岐川のか、いいなぁ~充実してるじゃないか」
瀬名自身は子供のころの夏休みの思い出というと、両親と旅行に出かけていたことぐらいしか思いつかない。外で遊ぶ友達もなく、そもそも休みの日は家で勉強と読書をしているのが一番充実していた。でも陽菜のはしゃぐ姿を見ていると、自分がそうやって中学高校と過ごしてしまったのが少し残念で、あの時、陽菜のような友達と一緒に過ごしていたら、と空想せずにはいられなかった。
「でもちょっと合宿ユーウツなんだ~ 男子もいっしょとか意味わからんし」
男子バスケ部は強豪で、女子よりもさらに練習に力を入れていると聞いたことがある。あと、やんちゃな子が多いらしく、よく女子部員に意地悪をしてくるらしい。陽菜はいじめられる様な性格ではないし、この歳の子供ならよくある戯れなので、時折陽菜から文句を聞かされる瀬名は軽く聞き流している。
「ふんふん大変だなー…よし、勉強の続きするぞ。」
休憩時間の5分が過ぎたのを確認し、瀬名は教科書の続きを開く。陽菜はまた聞いてくれないーとすこし拗ねたまま勉強が再開するのだった。
しばらく質問ができないとあって話は盛り上がり、個人指導が終わったのはいつもより30分ぐらい遅かった。雨はやんでいたが外は暗くなっており、コンビニに行くついでに瀬名は駅まで陽菜を送っていた。
「終業式の前日は、何か特別なメニューだったりしないのか」
「んーと…コーヒーアイス出たよ。じゃんけん勝って3つ食べた」
笑顔でピースをしてくる。
「いいよな~毎日違うメニューが食べれて…俺最近自炊ワンパターンでさ。」
「コーヒーアイスはいいけどトマトアイスはムリ、あれありえんし」
たわいもない会話をしながら駅までの道を並んで歩く。信号待ちで立ち止まった時にちらっと見た陽菜の横顔は、街や車の明かりに照らされて、明るい教室で見るより少しだけ大人っぽく見えた。
瀬名はこの少女が明日から本当に充実した夏休みを過ごすことを知っている。部活、合宿、祭り…おそらく家族で旅行や海に出かけたりもするのだろう。学生時代の自分には縁のなかったこと。できることならそれを近くで見守って毎日のように報告を聞いて、その時間を共有したいのだが…とは言っても会えないのはたった3週間なのだ。講師研修から戻ってからたくさん話を聞けばいい。きっと彼女は塾では話しきれないような思い出を沢山作るのだろう。
「ミッツ、コンビニだよ」
いろいろ考え事をしていたら、いつの間にか自分の目的地に来ていた。
「じゃあ、合宿とか気をつけてな。忙しいかもしれんけど勉強もちゃんとするんだぞ。俺が帰ってくるまでに…」
「わかってるって。チャプター5までの練習問題でしょ。ミッツにも宿題あるからね。」
「へ?」
陽菜はくるりと瀬名に向き直り、いたずらな笑みを浮かべる。
「カノジョさん作ること!がんばってね~。じゃっ」
苦笑いをする瀬名を残して、陽菜は駅の改札口へ上がるエスカレータに向かって駆けていく。エスカレーターに乗ってからこっちを向いて元気よく手を振る陽菜に、少しだけ手を振り返してから瀬名はコンビニへ入っていった。

陽菜-3

瀬名が参加した清里での研修は、とても充実したものになった。研修施設は山奥の古いコンクリート造りの建物で、正直怪談スポットと言われても疑わないだろう。周りに何も無いのには少し戸惑ったが、夏到来を告げるセミの声と近くの川から聞こえるせせらぎが心地よい。普段の雑多な講師業から離れ3週間、本来の授業スキルの習得に専念することができた。また研修を受けに全国から集まった他の若手との有意義な情報交換の場ともなった。帰りのバスの中、瀬名は塾長へ提出するレポートの作成をしながら、今後の授業にどういかそうか、考えを巡らせていた。
慣れない環境で過ごしたせいか、帰ってきてから2日間は体調を崩して塾を休んでしまった。ちょうど土日をはさんだため、塾に出勤できたのは8月も後半になっていた。
同僚より少し遅れて参加した1年ぶりの夏期講習、クーラーの効いた教室を見渡すといつもの席に陽菜の姿があった。ふいに3週間前に駅でした会話が思い出される。
「残念、恋愛のれの字もなかったよ…」
瀬名はそう心の中でつぶやき授業を進めるが、陽菜の服装がいつもと少し違うことに気付いた。
「…珍しいなスカートなんて」
最近流行りだしたチェックの膝丈のものに見える。窓からの日差しが強くよく見えないが、上着もどことなく可愛らしいデザインのものを着ているようだ。陽菜ももう高学年だ。今まで親が選んでいた服を、自分で選びたいこだわりができたのかもしれない。
授業が終わると、瀬名はいつものように陽菜の席へ向かう。休憩時間ということで換気のために窓を開けたため、そこから蒸し暑い風と大通りの車の音が入ってくる。
「ミッツおひさー」
いつものようにフランクな挨拶をする陽菜。良かった、いつも通りだ。と安心感を覚えた自分に瀬名は一瞬戸惑ったが、平静を装い会話を続ける。
「試合勝ったか?」
陽菜は自慢げにピースサインを突き出す。
「おめでとう、良かった。ネットで見たけど試合結果までわからなくてさ。」
「じっさいギリだったけどね~相手のエースめっちゃ強かったし」
「坂下小だろ?すごいよ、たしか去年の地区準優勝だったよな。」
「うん、だから先生もキセキや~ってよろこんでた。」
陽菜と共通の話題を持つため、地域のバスケ事情についてはある程度調べていた。陽菜は試合で良い結果を残せたのが本当に嬉しいのだろう、自分がどんな活躍をしたのか、チームはどうピンチを切り抜けたのか、しばらく話し続けた。
「祭りはどうだった?今年は大玉上げたのか?」
その瞬間、陽菜の周りの空気が変わったように感じた。
「お祭りは…どうだったっけ…えっと、花火見れたよ」
先ほどまで瀬名を遠慮なく見つめていた瞳は少し伏せ気味になり、西日のせいか、頬が少し赤い。初めて見る表情だった。
「そう…か。去年は強風で取りやめになったからな。先生も見たかったな。」
「うん…綺麗…だった」
陽菜は膝の上で指を交差させ、さらに俯く。陽菜の周りだけ、夏の蒸し暑さとは違った火照りが見える。眩暈がする。
自分がいない間、陽菜の夏休みは充実していたようで、嬉しい。でも、目の前にいる彼女は、自分の知る陽菜だろうか。
沈黙のせいで、夕方になってより勢いを増したセミの声が耳につく。
「あ…そうだミッツ、これ、お土産」
陽菜がいま思いついたというようにカバンから取り出したのは、おそらく家族旅行のお土産だろう。瀬名はぎこちなさを出さないようにしながら受け取る。
「おお、ありがと…ってこれ去年と一緒じゃないか。」
「あはは、だってうちいつもここ行くもん」
陽菜の笑いと共に、いつのまにかいつもの教室の音に戻っていた。隣の教室ではつのまにか授業が始まっていて、別の講師の声が聞こえる。
その後、今日は用事があると言って陽菜は早めに教室を後にした。もう完全にいつもの陽菜だった。例えば何かに怒っているとか、塾をやめたくなったとか、悪い出来事を予想わけじゃない。むしろ瀬名自身は研修で成長を実感し、陽菜は充実した夏休みをおくっていて、いいことじゃないか。それでも消えない違和感と焦燥に、瀬名はむしろ自分がおかしくなってしまったのではないかと、誰もいなくなった教室でしばらく立ちすくんでいた。

研修の成果か、しばらく塾を離れて自身を客観的に見ることができたのか、瀬名は以前より大勢の生徒の前で講義を行うことに不安を感じなくなった。また、今まで自分には合わないと避けてきたいわゆる「講義テクニック」も実践できるようになり、自身でもより多くの生徒の心をつかむ講義をできるようになったと実感していた。夏期講習最終日の実力テストで、瀬名の生徒達は塾でも上位の伸びを見せ、塾長から表彰を受けた。
「ミッツ、見て、すごいっしょ」
休み明けの学校でのテストが終わると、陽菜は真っ先に結果を瀬名に見せた。1年前は想像もできなかったような良い出来。夏休み前に苦手としていた部分でもしっかり点数が取れている。
「よくやったな、陽菜、おめでとう。」
そう言って瀬名はいつものように頭をなでようとして、ふと手を引っ込めた。
「お母さんにもほめられた。これで新しいバッシュは私のものだ」
陽菜は得意げにふふーんと胸を張る。
「そうだ、陽太も来年から塾かようかも。あの子も国語以外ぜんぜんだから。お母さん、ミッツのクラスに入れさせたいって」
「姉弟で担当できるのか、それは楽しみだ。これで先生も給料上がるな。」
「そうなの?じゃあミッツも私に何かちょうだいよ、私のおかげじゃん」
「あはは…うん、何か考えておくよ。」
気軽に冗談を言い合える陽菜との関係は何も変わらない。一番仲の良い生徒であると同時に、違う立場で共に成長していけるパートナーとも言えるかもしれない。
ただ一つ、あの日から、陽菜はあれだけ面白がっていた恋愛の話をしなくなっていた。もともと彼女の年齢を考えれば実際の恋愛がどうこうというよりも、好奇心から質問しているだけだろう、と瀬名は考えていた。活発な陽菜のこと、興味が別のことに移ったとしても不思議ではない。

9月下旬になり、夏の終わりが近づいていたが、今年の残暑は体に堪えるものだった。塾長の推薦で夏休み明けから担当する授業が増えたこともあって、疲労が溜まっていた。日曜日の昼下がり、たまたま午後に担当する授業が無かった瀬名は、駅前の本屋で参考書を漁っていた。10月から更に理科も担当することになったのだが、高校卒業以来、数学以外の学問にはほとんど触れていない。生徒に教える前にまずは自ら基礎を思い出しておこうと思ったのだが、予想以上に参考書の種類が多く、どれを買うか選びかねていた。
ちょうどいい、この時間は塾からここまで歩いてくるだけで眩暈がするほどの暑さだ。夕方までゆっくり本を選ぼう… 瀬名はそう考えながら何気なく本棚の向こうに連なる信号待ちの車列を見つめる。
ふと、向かい側の歩道に、見知った顔を見つける。陽菜だ。今日は日曜日だから友達と待ち合わせでもしているのだろうか。日差しを避けて喫茶店の屋根の下に立つ彼女は、いつもの学校帰りに塾に来るときと違い、女の子らしい服を着ている。瀬名が見たことのない肩掛けのバッグを少し不安そうに握りしめ、携帯を覗きながら時折辺りを見まわしていた。
友達が来たのか、ぱっと笑顔を見せる陽菜。瀬名の視野が無意識に彼女の周りを街並みから切り取る。男の子が走ってきて陽菜の前で立ち止まる。彼は中学生か、高校1年生ぐらいだろうか。少し話をする二人。そして並んでゆっくりと歩きだした二人は、手を…

夏の断末魔のような日差しがアスファルトに反射して全方向から体を刺す。1日で一番暑い時間帯に、瀬名は一人自宅までの道を歩いていた。住宅街に入ると、時折原付が走り抜けていく以外、ほとんど人の気配が無い。
先ほどの光景が頭の中で繰り返される。瀬名には見えなかったが、きっと陽菜は幸せに笑っていた。そして今は二人で、きっと何物にも代えがたい時間を、青春を過ごしているのだろう。
瀬名が知る陽菜は、少しいたずら好きなところもあって、生意気な言葉遣いをすることもあるけれども、活発で、明るい子供だった。瀬名に欠けているものを補ってくれる存在だった。それがこの夏休み、少しだけ大人に近づいて、これからも少しずつ大人になっていくだけ。
そう、人間はみな成長していくのだ。特に大人から見た子供の変化は目まぐるしい。色々な人との関わりの中から時に喜び時に傷つきながら成長していく。
言うまでもなく、自分が陽菜にとって塾の先生以上の存在でないことはわかっていたし、それを変えたいとわずかでも思ったことは無い。そして自分がすべきことは決まっている。これからも塾の先生として陽菜の学習面をサポートし、彼女の成長を見守っていくのだ。そして自身は、生徒たちとの触れ合いを通して更に講師として成長していくべきだ。
瀬名は、自分が何に動揺しているのか、なぜあの光景を見たとき、選びかけの参考書を元の場所に戻すこともせず適当な場所に押し込み、その場所から逃げ出したのか、答えを見つけようとした。しかし、うだる暑さの中、息苦しさは加速していき、世界は色を失っていった。

気づくと、アパートのドアの前で、仰向けになってもがくセミを見つめていた。
…陽菜は、もう子供じゃない。そしていつか大人になる。絶対に、止められない。
汗が、既にびしょびしょになったシャツの中で肌を這う。溢れた汗が前髪から落ち、重力に逆らえずに地面にたたきつけられる。
…陽菜は自分から望んで変わった?…違う、まわりの人間に、大人に、変化を止められない身体と心に飲み込まれただけだ…
今まで彼女を守っていると思っていた世界が、どす黒く変色していく。成長という響きの良い言葉で目をくらまされ、見えなくなっていた。自分たちが歩いている道が、どこへ続くのか。
…俺は、陽菜にそのままでいて欲しかった。でも、それは叶わないことだから、俺自身を騙すようになっていた。
セミはもう動いていない。
…本当は、嬉しくなんかない。今の陽菜には何も望まない。あれはもう陽菜じゃない…
ドアを開けると、カーテンを閉め切って作られた暗闇がこちらを向く。
「なぜ、みんな大人になることを受け入れてしまうんだ?」

陽太-1

午後の授業が終わり下校時間になると、陽太はランドセルを背負い、巾着袋を手に持ち席を立つ。周りでは同じようにクラスメイトが自分の机を片付けたり、一緒に帰ろうと声をかけ合っている。
持ち物ちゃんと持ったっけ…
そう思い机の中をのぞくと、いつか使い捨てた消しゴムがひとつ残っているだけで、必要なものはこの重いランドセルに全て入っているようだった。
歩き出そうとすると、後ろの席で日直日誌をつけていた友達に声をかけられる。
「陽ちゃん、またね」
「うん、また…」少し間をおいて陽太は言葉を続ける「来週ね」
「えっ、あっそうか、明日って最後の金曜日か」
「ヒサくんはお父さんとお母さん、帰ってくるんだっけ」
「うん3か月ぶり。やっぱり日曜の夜には戻るみたいたけど」
「来週また話聞かせてね」
「おっけ、月曜日の調理実習、材料忘れないでね」 と手を振る友達に手を振り返して、陽太は教室のドアを出た。
騒がしい校内を出ると暖かい日差しと少し冷たい海風を肌で感じる。たまに車が通り過ぎたり、ベランダで誰かが洗濯物を取り込んでいるのを見る以外、ほとんど人気がなく、町は昼過ぎの気だるい空気に包まれていた。町の図書館までは歩いて20分ほどの道のりだが、途中の商店でおやつを買い、堤防で海を見ながらそれを食べることが彼の日課になっているので、それよりも10分ほど余計にかかる。図書館に着いたときには15時を少し過ぎていた。
図書館の鍵は少しわかりにくい。家やその他の鍵と見た目があまり変わらないのだ。わかりやすいようにマジックで「としょ」と書いたのだがそれもだいぶ消えてきて、結局これだと思うものをいくつか試してようやく開けることができた。
おそらく50年以上はそこにある図書館は、コンクリートでできた白い建物で、扉にある「八潮村図書館」という字はもうほとんど読めないほどに塗料がはげていた。海からは少し離れた高台に建っていて、海風の匂いが運ばれてきたり、カモメの鳴き声が時折聞こえてくることはあるが、どの窓からも海が見えることはない。
ふぅ と息を吐きランドセルを受付の上に置き、巾着袋の中から先ほど買った飲み物を取り出す。1週間ぶりに開けた建物の中はヒンヤリとした空気と本のにおいに満ちていて、まずは換気をすることが陽太の最初の仕事だった。
建物を開けてから10分ぐらいした時、入り口のほうで誰かが入ってきた気配がした。こんこんとスリッパに履き替える音がしたので誰かはすぐわかる。
陽太は今月のおすすめリストを準備して入り口のほうに体を向け座りなおす。来訪者が入ってきた瞬間、
「こんにちは、瀬名さん」と声をかけた。
瀬名と呼ばれた人物は無精ひげを生やし、よれたYシャツとスラックスを履いた男性だった。年齢は20歳後半といったところで、よく言えば易しそうな、悪く言えば少し頼りなさそうな雰囲気を纏っている。彼は陽太へにこやかにお辞儀を返す。
「今日はどの本にしますか?」
そういいながら陽太は瀬名へA4の紙に印刷されたリストを渡す。
「ありがとう。うん…そうだな、えっと」
瀬名は受付前の椅子に腰掛けじっくりとリストを眺め始める。
1年ほど前、初めて瀬名がこの図書館に来たとき、何かいい本は無いかな、と漠然と聞かれたのが始まりだった。その時、陽太もちょうど図書館で働き始めたばかりで蔵書を把握しておらず、また初対面の人の好みがわかるはずもなく、困ってしまった。そこでたまたまその時自分が気に入っていた本を薦めたのだが、それが偶然瀬名の好みにも合ったらしい。以来陽太は、自分が読んで面白かった本を簡単な説明と共にリストにして渡すことにしていた。
「今日は…」瀬名が口を開く「この『赤いマーメイド』はどんな話なのかな」
リストの一番上に載せた本を指してリストを返す。
その本は先月新刊としてこの図書館に届き、ファンタジー好きの陽太はすぐに読んだのだが、とても面白く是非瀬名にも読んでもらいたいと思っていた。
「この本はですね、人魚の話で…話は伝説に沿って進むんですが、舞台が現代になっているんですよ、それで」
うれしそうに本の説明をする陽太を見ながら瀬名はうんうんと相槌をうつ。やはり本の話をしている時が彼の瞳は一番輝いて見えるのだ。
「…でも最後は伝説とは違って現実的な終わり方になるんですよね、そこが意外で…普通のファンタジーにひとひねり加えた感じなんです。とにかく、おすすめなので、どうぞ。」
陽太は自信満々という風に本を瀬名に渡す。
「ありがとう、じゃあこれ借りてくね。また…しばらくここで読んでてもいいかな」
「もちろんです。今日は5時ぐらいまでは開いてます。」
「そっか、助かるよ。」
そういいながら瀬名は図書館の隅の席に腰を下ろした。こうやって開館と同時に来て、本を借りて、しばらく読んでから帰るというのが彼の普段の行動だった。
来たときよりも少し風が弱くなったらしい。カーテンの動きが無くなって、波の音や浜辺で遊ぶ子供たちの声が時折はっきりと聞こえてくる。日は傾き、瀬名が座る机の表面をいくつも細く窓の形に分かれた光が、それでもまだくっきりと照らしていた。
陽太も受付に積まれた新刊の中から1冊を選び開く。今日は他に誰か来るだろうか。康介たちは漁協の手伝いと言っていたし、山崎のおじいさんは先週山に入ると言っていた。おそらく誰も来ないだろうか。そんなことを考えながら瀬名を見る。
この静かな図書館の中で、夕方までの間、お互いに離れた場所に座りほとんど言葉を交わすことは無いけれど、二人で本を読みふける時間が、陽太は好きだった。そして瀬名も同じように思ってくれていることを心のどこかで期待していた。
いつの間にか窓からの光が赤く染まっていた。学校で鳴る5時を告げるチャイムが町中に反響している。
「どうでしたか?」
本を肩掛けの鞄にしまい、席を立つ瀬名に陽太は問いかける。
「すごく、面白かったよ。良くある昔話かと思ってたら、途中から話が複雑になってきて…深読みするのが面白くて、まだ2章までしか読めてないよ。」
「良かったです。」
「やっぱり陽君の目に狂いは無いね。汐見町の本ソムリエだ。」
そう言いながら瀬名は貸し出しカードを陽太に渡す。
「えへへ、ありがとうございます…どうぞ。」
陽太は少し照れながら司書印を押してカードを返した。じゃあまた来週、とお互い挨拶をしてから瀬名は図書館を後にした。
司書としての1日の締めくくりとして、窓を閉め日誌をつける作業を進める。日誌には日付、天気、本館への連絡等の項目があるが、そこには事実をありのまま記すだけだ。でも陽太は最後の「その他備考」欄には彼なりにこだわりを感じ、毎回何かしら気の利いたことを書こうとしていた。
「今日は…うーん…」
少し考えて ソムリエの称号をもらう と記入した。

次の日、月の最後の金曜日は、図書整理の日と決まっていた。陽太は学校を休み、朝から図書館へ向かった。この街では殆どの大人ー労働力となる15歳ごろから70歳ごろまでーが海の向こうへ長期の出稼ぎに出ているため、街の中の大人が極めて少ない。そのため子供が職に就くことも決して珍しくなかった。本が好きだった陽太は本に関わる仕事を希望し、週に1,2日だけこの殆ど来訪者のいない図書館の管理を任されていた。
まだ暗いうちに誰もいない自宅を出発し、海岸沿いの道を歩く。肩にかけたバッグには早起きして作った弁当が入っている。しばらく歩くと空は水平線辺りから赤く色づいてきて、港から沖へ向かう船のエンジン音が聞こえ始めた。陽太はこの街の海が好きだ。波はいつも穏やかで透明度が高く、どの時間に見ても心が落ち着く。
図書館につく頃には辺りはだいぶ明るくなっていたが、建物の陰になった林は薄暗いままで、すこし不気味だった。今日は正面玄関を開ける必要は無いので、裏口から鍵を開けて入る。
やることは主に三つ。館内の掃除、新しく届いた本を正しく分類して蔵書へ追加する作業、もう一つは書架に並ぶ既存の蔵書を整理する作業だ。5月とはいえ、午後になって身体を動かしていると少し汗ばむので、まず館内の掃除から始める。利用者は少ないので汚れもなく掃除自体は簡単だが、建物の隅から隅まで一人で行うので時間がかかる。休憩を取りながら全ての掃除を終えた頃、時計は既に正午過ぎを指していた。
弁当を食べて一息つくと、先週届けられた荷物を開封した。今月の新刊は10冊ほど。それの一つ一つにこの図書館での整理番号を付け、正しい書架に入れていく。そう聞くと簡単な作業に思えるかもしれないが、整理番号は本のジャンルと結びついており、単純に一つのジャンルに当てはまる本ばかりではないため、見つけやすさや優先順位をよく考えて分類しなければならない。
「『ホテルマスカレード殺人事件』…これはわかりやすいな。ミステリ小説で…著者は…」
「『1年の季語辞典』…普通に考えれば大分類が文学で、中分類が詩歌だろうけど…趣味の棚に入れたほうが目に付きやすいかな、うーん…」
分類対応表や、現在の蔵書の配置を見ながら1冊毎にラベルを貼り付けていく。
最後の1冊の本に目が留まる。題名は「夢を科学する」 要約を見ると、ある大学教授が書いた本を新書として再販したもので、人間が寝ている間に夢を見る理由を脳科学の視点から一般にわかりやすく解説したものらしい。小学生の陽太には正直難しすぎる内容なのだが、この本に関心を持ったのには理由があった。陽太には時折みる夢があった。暗闇の中、ぽっかりと空いた大きな円、そこを覗くと見えるのは美しい水に覆われた惑星。その色は次第にくすんでいき、青は茶色に濁り、白は灰色に、緑は赤黒く染まる。そして目が覚めると瞼は赤く腫れ目には涙が溜まっているが、夢を見ている間は感情を感じない。まったく覚えのない光景で、その星の名前もわからないのだが、繰り返すその夢に何か意味があるのでは、と思っていた。
夢のことが何かわかるかも、と考えた陽太は作業を一時中断してその本を読み進める。本によると、夢を見る理由として主に二つの仮説があるらしい。一つは現実に経験したことを記憶するため、もう一つはそれを記憶から抹消するため。どちらにしても、記憶を整理整頓するプロセスが睡眠中に行われており、それが夢となって起きたときに思い出される。そして記憶するにしろ、忘れるにしろ、その対象は自己に影響の強い出来事であり、記憶の整理によって脳はその影響への対処を試みている、と筆者は結論付けていた。であれば、夢での悲しい光景は現実の出来事であり、自分はそれについて何かをしなければならない、ということになる。
幸い今月は新刊の数が少なく、時間が余りそうだ。その本を更に読み進めるため机に移動しようとした時、正面玄関のインターホンが鳴った。今日は閉館と看板が出ているのに誰だろう、そう思いながら陽太はインターホンに出る。
「はい、受付です。」
「陽太君かい、こんにちは。」
「瀬名さん!?すいません、今日は図書整理の日で…」
「忙しいときに悪いね、息抜きに付き合ってもらえるかな?」

陽太-2

図書館以外で瀬名に会うのも、彼の車に乗るのもこれが初めてだった。
「ちょっと近くを通ってね、たまには本以外の話もしたいと思ったんだ。迷惑だったかな?」
「いえ、そんなことないです、ちょうど作業もきりが良かったので」
陽太は少し緊張して答える。
この町は海岸沿いの山と海に囲まれた狭い土地に広がっていて、人口は1000人に満たない。出稼ぎにより、そのほとんどが子供か高齢者で、瀬名ぐらいの年齢の大人は学校の教師やその他の子供にかかわる職業として数えるほどしかいない。しかし瀬名に学校や町で会うことはなく、以前から何の仕事をしているのか不思議に思っていた。
車は町から離れて海沿いの道を進んでいく。
「陽太君は本当に本が好きなんだね、いつも真面目に働いていて本当に偉いよ。」
「図書館みたいに、本がたくさんあるところってとても落ち着くんです。僕、記憶に障害があるみたいで、あまり小さいときのことって思い出せないんですよね。でも本に囲まれていると、その分の隙間を埋めてくれてる感じがして…うまく、言えないです。」
「そっか…でも、そうやって好きなことがあるのはいいことだよ。」
「瀬名さんは、なぜいつもあの図書館に?もしかして、お仕事の休憩時間…とかでしょうか。」
「うーん、陽太君に会うため、かな。むしろあの図書館で君と時間を過ごすことが僕の仕事だからね。」
陽太とは反対側の海の向こうを見ながら瀬名はそう答えた。
自分に会うために?陽太にはよく意味がわからないが、それでも図書館でのひと時を瀬名も気に入ってくれていたとわかり嬉しくなる。
「あはは、ちょっと変なことを言ってしまったかな…忘れてくれていいよ。でも、君は本当に素敵な司書さんだ。これからもずっと、あの場所を守っていてほしい。」
瀬名がここまでストレートな物言いをする人物だとは知らなかった。褒められて悪い気はしないが、正直少し照れくさい。
「はい、いつかちゃんと司書の資格も取って、あの図書館でいろいろとやってみたいことがあるんです。今はあまりみんなに知られてないですけど、もっと町の人にも来てもらいたいです。」
「そうだね、その時は是非僕も参加させてよ。協力する。」
陽太は本来おしゃべりな方ではないけれども、瀬名の前では本の魅力や、自分の夢をつい時間を忘れて語ってしまう。自分と同じで大人しい人だと思っていたけれども、瀬名の言葉には、人をやる気にさせる不思議な力がある。そう陽太は感じていた。

車を駐車場に止め外に出ると、誰もいない広い砂浜が目の前に広がっていた。岬ひとつ隔てた海岸線からは近代的な船のターミナルが海に伸びていて、周りの素朴な風景と少しアンバランスな感じだ。月に1回、大人たちを乗せた船が発着する時以外使われることがなく、今もその上で羽を休めているうみねこ以外、動くものはいない。
「夕日が綺麗で、時々ここまで来るんだ。」
そう言いながら、瀬名は堤防に腰を下ろす。
「陽太君は、本のほかに好きなものはあるのかい?」
「好きなもの…とは少し違うかもしれませんが、料理とか掃除とか…家事をするのは楽しいです。」
「小学生なのに偉いね、じゃあ今度何かご馳走してもらおうかな。僕はそういうのは下手でいつも適当にしてしまうから。」
「両親は留守で一人っ子だから自分でやるしかないんです。料理も、晩御飯の時間にウチに来てもらえばいつでもご馳走できますよ。」
図書館以外でも瀬名と会う時間ができれば、もっと本の話ができる。それにいつの間にか、本と関係のないことでも、瀬名ともっと時間を過ごしたい、そう思っている自分がいた。
「ずっとそうだったのに、家で一人でいることが寂しくなるときがあるんです。兄弟がいればいいのに、って…」
「兄弟、か…」
急に瀬名は陽太から目をそらし、水平線を見つめた。これまで見たことのない、悲しそうな表情で。
「瀬名さん?」
「いやごめん、何でもないんだ。」
すぐにいつもの柔らかい笑顔を見て、陽太は安心する。先ほどの表情は見間違いだったのかもしれない。
太陽は既に水平線に近づいて、空の色が変わり始めている。風が少し出てきたようで、ウミネコ達が、海に浮かぶ岩のまわりをぐるぐると飛び交っている。
「長居してしまったね。図書館に帰って、残りの仕事を手伝うよ。」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。あとは書架の整理だけだったので、来週またできます。」
二人は立ち上がり、堤防の上を駐車場に向かって歩いていく。
「今日はゆっくり話ができて良かったよ、またどこかへ誘ってもいいかな。」
「はい、もちろんです。でも、瀬名さんって、結構積極的な人なんですね。意外です。」
「あはは…いつもはそんな事ないんだけどね。今日はつい、グイグイ喋ってしまった…」
照れくさそうに苦笑いをして瀬名は答える。
「じゃあ、その勢いでもう一言だけいいかな。」
瀬名は陽太の方に向き直り、少し改まった口調で続ける。
「陽太君、僕は今、この静かな町で暮らして、毎日海を眺めて、時々君の図書館に行って本を読んで、こうやって君と時間を共有している、この世界が好きだ。」
二人の間を冷たい海風が駆けていく。
「君は、どうなのかな。」
瀬名の一見優しいが、強い意志のこもった視線に、陽太は動けなくなる。でも、正直に自分の気持ちを伝えなければ、と思い口をあける。
「僕は…僕も好きです。」
それを聞いた瀬名はふっと微笑み、こう答えた。
「良かった、それが聞きたかったよ。」

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「陽ちゃん、おはよう。」
「おはよう、ヒサくん。土日はどこかいけた?」
3日ぶりの学校。子供たちのおしゃべりで教室はにぎやかだ。
「それがさ、二人とも帰ってこれなくて…」
「えっ、そうなの?」
「定期便にトラブルがあって、出航できなかったらしいんだ。久しぶりに家族で過ごせるって、姉ちゃんと楽しみにしてたのに…」
久史は悲しそうにうつむく。陽太もだいぶ長い間両親に会っていないような気がする。
「電話したんだけど、それも繋がらなくて。あとでメールが来たんだけど、向こうで他にもいろいろ問題が起こって、今すごく忙しいみたい。」
「そうなんだ…」
「なんかさ、前の方が良かったって、陽ちゃんは思わない?」
久史は椅子の背もたれに顔を載せ、不満そうに陽太を見つめる。
汐見町は元々、こじんまりとした街だった。人口が少なく皆つつましい生活を送っていたため、町内の産業で経済が完結し、食料の大部分が自給自足できていた。それが1年前、外に良い仕事があるという噂が広まり、大人が仕事で町を離れるようになった。最初は一部の大人だけがせいぜい1、2週間家を空けるだけだったが、そのうち高校生ぐらいの若者までが数ヶ月に渡って仕事に出るようになり、町からは人が消えていった。
親からは毎月多額の仕送りが来るし、陽太達よりも小さい子供には保育士が面倒を見る制度が作られたため、生活に不自由することは無かったが、両親と会えない子供たちの不安は消えなかった。
「ヒサくんはよく家族で山登り行ってたもんね。僕は…あんまり家族で何かをしたことないから、正直わからないや。」
「陽ちゃんはしっかりしてるからなー。仕事がんばってるし。転校してきたときより今の方がずっと元気だよな。」
陽太は2年前、4年生に進級したのと同時に3人家族でこの町に越してきた。とは言っても両親は既に家を留守にすることが多かったため、最初から一人暮らしのようなものだった。引っ越す前のこと、そして引っ越して最初の1年のことはあまり覚えていない。ただ、心にぽっかりと開いた穴があって、でもそれが何故できた穴なのかわからず、もがき苦しんでいたのを覚えている。新しい環境を受け入れる気力も無く、学校でも誰とも話さずぼーっとしていることが多かった。しかし、図書館での仕事を始めてからは、その喪失感も次第に薄れていき、自然と学校でも友達を作れるようになった。
「ヒサくんも何か仕事してみれば?康介くんって言う、4年生の子が図書館にときどき来るんだけど、漁協で手伝いしてるんだって。」
「仕事かぁ…それならウチの店手伝いたかったのに。父さんも母さんも、なんであんなに遠くに行っちゃったんだろう。」
「うん…そういえばヒサくんちの八百屋さん、僕が一人暮らしで大変だからって、よくおまけしてくれたっけ。」
チャイムが鳴ると教師が入ってきて、子供たちは自分の席へと戻っていく。
少し開いた窓から心地い風が入り、カーテンが揺れている。陽太はこの町に着いた日のことを思い返す。目の前に広がる、時間が止まったような青い海と空、見慣れぬ町と人。それまで当たり前だと思っていた人と場所を急に失ったという感覚。でもそれらが何だったのかを思い出せないもどかしさ。毎日が充実していて場所を忘れてしまっただけで、今も心のどこかに埋められない穴がある。
「小海くん、大丈夫?」
急に隣の席のクラスメイトに声をかけられ、我に帰る。何故だろう、教室が、滲んでいる。
「あれ…僕、なんで…」
目に手をやると、知らないうちに涙があふれていた。あの夢を見たときと同じように。

陽太-3

あれから瀬名とは更に打ち解け、図書館以外でも頻繁に会うようになっていた。週に数回、瀬名が陽太の家に来て、晩御飯を一緒に食べ、そのお礼として陽太に勉強を教えてから帰っていく。陽太は読書は好きだが、学校の勉強となると勝手が違い、特に算数は苦手だった。
「円の面積を求める公式は覚えたんです。だから1ページ目はできたんですけど、5番からの変な形の求め方がわからなくて…」
陽太は午前中に学校で配られた宿題のプリントを瀬名に見せる。見ると、確かに単純な円の面積を求める問題はできていたが、円を分割したり、四角や三角などの他の図形と組み合わせた面積が難しいようだった。
「うん、見たことない図形だと余計にわかりにくいよね。まずはこうやって、陽太君が知ってる形に分けていったらどうかな。」
瀬名はそう言いながら、プリントの図形が二つの半円と一つの正方形に分かれるように線を引いていく。
「あっ、そうか。じゃあ円の面積の半分と、この正方形と…?」
「それでもいいし、この半円とこの半円を一緒にすると、1個の円になるだろ?」
「ほんとだ、じゃあ半分しなくても、普通の円と正方形の面積を足せばいいんですね。」
陽太は覚えたばかりの公式を使ってゆっくりと、でも確実に計算をしていく。
「7番は少し難しいかな。わかる?」
瀬名が指さした図形は、三角の中に丸がぴったりと収まり、三角と丸の隙間の面積を求めるというものだ。
「う~ん、さっきみたいに線を引いて分けたいんですけど…」
「これは実際に紙で作った方がわかりやすいと思うよ。」
瀬名は近くにあったチラシをハサミで切り、三角と丸の形をした2枚の紙を作る。
「こうやって二つの図形が重なってるってことだろ?二つとも陽太君が知っている図形。それで重なっているところ以外を求めればいいんだから…」
「わかった、三角から丸を引けばいいんですね。」
「そうだね。テストでも、おそらく図形の形に切った紙を使っていいことになると思うよ。だから、今の手順で落ち着いて考えていけば大丈夫。」
今まで難しいと思っていた問題が、見方を変えてみれば簡単に解けることがわかり、陽太は嬉しくなる。
「なんだか、瀬名さんって先生みたいに教えるのが上手ですね。」
「そうかな…」
「ううん、先生より上手いかもです。実は今教えてもらったところも、学校の先生には聞いたんですけど、よくわからないままで…でも瀬名さんと勉強してるとこんな簡単なことだったんだな、って。」
「学校の先生は、どうしても授業以外の仕事が多くて、生徒一人一人の特徴や得手不得手まで把握できてないことが多いからね。」
瀬名はもう少し陽太に慣れてもらおうと、ハサミで色々な形の図形を作っていく。
「陽太君は本を沢山読んでて想像力があるから、文章や公式の丸暗記より、なるべく絵で考えた方がいいと思うよ。図形の面積でも計算問題でも、絵を描いてみると分かりやすくなったりするから。」

宿題がすべて片付くころには外はすっかり暗くなっていた。二人は陽太の家から通りへ出る坂道をゆっくり下っていく。街の明かりはまばらで、建物の合間から少しだけ、遠くに黒い海が見えている。
「初めて陽太君の図書館を訪れたとき、ちょうど去年の今ぐらいの季節だったけど、君は今よりも物静かだったね。」
「もしかして、今の僕は、すこしうるさいですか…」
「あはは、そういう意味じゃないよ。」
真面目に心配していた陽太が少し面白く、瀬名は笑ってしまう。
「でもいい変化だと思う。きっと今が本当の陽太君なんだよ。」
陽太は少し先に進んでから、瀬名の方を向き直り、おじぎをする。
「ありがとうございます、瀬名さん。」
「え…」
瀬名は突然の感謝に戸惑う。
「なんだか、瀬名さんが図書館に来てなかったら、僕こんなに元気になってない気がするから。」
手を後ろに回し、少し首を傾げて陽太は微笑む。月明かりで優しく光るその瞳を見て、夜の海の色だ、と瀬名は思った。
くるりと前に向き直り、歩き始める陽太。わずかだが風に潮の匂いが混じる。瀬名は目を閉じて軽く深呼吸をしててから陽太の後を追う。
坂を下りると、そこには錆び付いたバス停の看板があり、そこが二人の別れる場所だった。
「じゃあ、また。明後日はこの前の本を返しに図書館に行くよ。」
「はい、待ってます。あ、そうだ…」
陽太は目線を逸らして迷うようなそぶりを見せてから、俯いて瀬名に小さな声で告げる。
「こんど、瀬名さんの家にも…行ってみたいです。」
瀬名は少し驚いたような目をしたが、すぐに元の優しい笑みを浮かべて答えた。
「…そうだね、いつか来てもらえると嬉しいな。」
笑顔で大きく手を振って見送る陽太。彼は最後の瀬名の笑みに悲しみが混じっていたことに気づいていなかった。
瀬名は角を曲がる前にもう一度手を振り返してから、堤防沿いの道を歩き出す。真っ黒に塗りつぶされた海は、時折月の光を反射しながら、低い波音をたてている。
…きっと…きっと彼は変わらずにいてくれる。理想を隠して、現実では不条理を受け入れるしかなかったあの時とは違う。もう、理想は現実になった。
顔をあげ、遠くの灯台を見つめる。
…今度は、絶対に失わない。

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次の日の夜、陽太の家の台所は、野菜と肉の甘い匂いに満ちていた。緑色のエプロンを付け、鼻歌を歌う陽太。大きな鍋には4人分はあるだろう肉じゃがが、ぐつぐつと湯気をあげている。じゃがいもに串を通し、抵抗なくすっと貫通することを確かめてから火を弱める。醤油を少しだけ入れて味を見る。小海家の肉じゃがは砂糖とだしが主役で、醤油はあくまでも脇役なので慎重に量を決めなければならない。口に含んだ汁をしばらく味わい、陽太は呟く。
「…ちょっとだけ塩入れよう…」
普通の肉じゃがは砂糖と醤油だけで甘辛さをだすのだが、この肉じゃがは醤油が少ない分、その日の材料の配分によっては味に締まりが足りないことがある。そういったときに二つまみほどの塩を入れると全体の味のバランスがとれるのだ。
「うん…これぐらいかな…」
もう一度味見をして満足すると、陽太はテーブルの上に容器を並べ始める。1つは明日図書館で食べる弁当箱、1つは明日の晩御飯として冷蔵しておくためのタッパ、もう1つはゴムパッキンと大きめの金具が付いた丸い容器だった。
今日の授業の復習をしていると20分ほどの煮込みもあっと言う間だった。まだ湯気が止まらない鍋の中身を、容器ごとに量を調節しながらそれぞれの容器に流し込んでいく。最後の丸い容器は特に、全ての材料がバランスよく入るよう、そしてその材料が汁に均等に浸かるよう、丁寧に入れていく。蓋をして金具を締め、少し傾けて中身が漏れないことを確認すると、陽太はよーし、とうなずき笑顔を見せた。
今晩の分だけ残した鍋をコンロに戻し、後片付けを簡単に済ませる。丸い容器は安定して持ち運べるように無地の紙袋に入れた。エプロンを外し、椅子に掛けてあったパーカーを羽織る。その上に小さめのボディーバッグを背負い、紙袋を持つ。既に暗くなった外に出ると、日中降っていた雨は上がり、月も時折雲の隙間から姿を見せていた。まだ舗装や草木は濡れていて、空気も冷たい。
…瀬名さん、いるかな…もしいなかったら、明日お弁当として持っていこう。
陽太が瀬名の家を知ったのは今週の初めだった。下校の途中、夕食の材料を買いにスーパーに寄ったのだが、いつもの店が臨時休業で閉まっていた。汐見町にはスーパーは2つしかなく、もう1つの店は遠いためほとんど行ったことがない。いつもであれば諦めて翌日にするのだが、ちょうど食材を切らしていたため、20分かけてその店まで歩いた。その帰り道、偶然、赤いトタンに覆われたアパートの2階に入っていく瀬名の姿を見たのだ。
…でも、いきなり行って迷惑だったりして…
今更、不安がよぎる。でも、今まで家に来てくれるのも、出かけに誘ってくれるのも、いつも瀬名の方からで、自分はその気持ちを受け取るだけだった。自分から動いてみたい、いつもとは違うことをしたい、そうしたら瀬名さんはどんな顔をするんだろう。その気持ちが足を動かした。
…ちょっと甘めの肉じゃがだけど、おいしいって思ってくれるといいな。
これからのことを考えると、手の振り方は自然と大きくなり、足取りも軽くなる。しかし紙袋の中身のことを思い出し、しまったというように立ち止まり、また静かに歩き出す。それを繰り返しながら、陽太はぽつぽつと明かりが灯る夜の街を進んでいくのだった。

山を背にして少し高台に建つアパートの周りは街灯が少なく、トタンの壁は昼間見た時より黒みがかってほとんど茶色に見えた。切れかかった蛍光灯が点滅しながら断続的に音を立てるのを見て、先ほどまでの浮かれた気持ちが夜風で冷めていくのを感じる。陽太はなるべく足音を響かせないように気を付けながら錆び付いた階段を上り、2階の一番奥の部屋へ近づく。
ドアの上にある窓から明かりが漏れているのを見て陽太は少し安堵した。「204 瀬名」と表札もあり、やはりここが彼の家の様だ。陽太は緊張した面持ちでインターホンを鳴らす。故障しているのか、チャイムは聞こえない。ドアに耳を近づけると、微かにラジオのような音が聞こえる。
…出かけてるのかな…
陽太は紙袋をドアノブにかける。明日弁当として持っていってもいいと考えていたが、やはり暖かいままで食べて欲しい。それに、おそらく近くに軽い買い物をしに行っているだけで、すぐに戻ってくるような気がしたのだ。バッグに入れてあったメモ帳を1枚ちぎり簡単に瀬名への伝言を書こうとしたとき、紙袋の重さのせいか、風で押されたのか、ドアがキィと音を立てて少しだけ開いた。
「あ…」
中から明かりが漏れ、細い光が陽太の足元にのびる。鍵がかかっていないということは、中にいるのだろうか。
「…こんばんは…」
陽太は開いたドアから顔を覗かせ、小さな声で呼び掛けてみたが返事はない。玄関には電気が点いているが、廊下の先にある部屋は暗く人の気配が感じられない。やはり料理を置いて帰ろう。そう思ってドアを閉めようとしたとき、ふと足元に置かれた靴が目に入る。2つはおそらく瀬名のものだろう、黒い革靴と茶色のサンダル。もう1つは白地に赤色のラインが入ったスニーカーなのだが、サイズからして陽太よりも僅かに小さな子供用に見える。かかとの部分にマジックで書かれた名前を見つける。
「小海…。えっ…?」
自分の名字が書かれていたことに驚き、陽太はしゃがみこみスニーカーを近くで見つめる。よく見るとしっかりとした作りで、何かの競技用だろうか。あまり傷や汚れは無くほとんど新品に見えるが、埃をかぶって色が褪せており、長い時間ここに置かれていたようだ。
…なんで瀬名さん、僕の名前が書いた靴なんて…
気になるが、玄関の中に入ってしまったことに気付き、慌てて外に出ようと立ち上がる。すると先ほどまでは見えない角度にあったもう一つの部屋の扉が視界に入った。そこには緑のアルファベットで「HINA」と書かれた木のプレートが掛かっていた。

陽太は躊躇なく玄関を上がり、廊下の奥へ足を進めていた。
「…7月19日の気象情…をお伝えし…  明日から…夏休み…行楽地ではおおむね…」
廊下のつきあたりにあるドアは半開きになっていて、暗い部屋の中からは明るいアナウンサーの声が途切れ途切れに聞こえていた。その前を通り過ぎ、プレートがかかった部屋の前に進んでいく。その部屋の中を見なければならないという衝動に押されて。自分の胸にある空虚を埋めるものが、そこにあると確信していた。
勢いよくドアを開けた陽太が見たのは、窓から差し込む弱い街明かりに照らされた、何の変哲もない部屋だった。教科書が無造作に積まれ文房具がちらばる勉強机。白の羽毛布団と薄いピンクの枕が載った小さめのベッド。コート掛けに蓋が開いたままぶら下げられた赤いランドセル。壁に貼られたバスケットボール選手のポスターと、壁に掛けられた白地に赤いラインの入ったスポーツウェア。まるで時間が止まったかのように、全てが静かに存在していた。陽太はゆっくりと部屋に入り、勉強机の棚に置かれた写真立てを見つめる。幸せそうな家族写真。夏休みの旅行先で撮ったのだろうか、父親と母親、そしてその間に立つ陽太と同じぐらいの歳の少女と…今よりも少し幼い陽太自身の姿。
急に陽太の周りの世界がセピア色に変わる。窓の外には青空、高いところに薄く広がる雲、視線を下に移すと僅かだけ葉を残した庭木があり、その向こうに拡がる住宅街。
…ここ…僕の家だ…
後ろを振り返ると、先ほど歩いてきた瀬名の部屋の廊下があるはずの場所に、階段の踊り場があった。音が聞こえてくる。
「おーいもう出発するぞ。」足元から響く男性の声。
「陽菜、準備して…あら、陽太は?」女性の声が続く。
「まって、まだ降りてきてない。連れてくる!」そう応えながら勢いよく階段を昇ってくる少女。
そのまま部屋の中の陽太には気づかず隣の部屋に走っていく。
「あーまた本読んでるし。お昼食べたら行くって言ったじゃん。」
「お姉ちゃん、僕、これ読んでるから、行きたくない…」
「だーめ。ほら、ちゃんとマフラーと手袋して。」
「え~おもしろかったのに…」
少女はぐずる少年の手を引いて、階段を駆け下りていく。
…そうだ、僕、お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと、ここに住んでた…
記憶が蘇ってくる。大きな庭付きの家、優しい両親、バスケットボールが好きで活発な2つ上の姉、溢れるほど好きな本を並べた自分の部屋、毎年夏休みに旅行に行っていた高原…。同時に気付く。汐見町に引っ越してきてから両親も姉も「いなく」なったこと。
…なんで僕、忘れて…
立つことを忘れ、膝から崩れ落ちる。頬を涙が伝った。
「陽太君」
突然、後ろから声をかけられる。振り向くと、部屋の入口に瀬名が立っていた。気が付くと世界は元の色に戻り、ずっと瀬名のアパートにいたことを思い出した。廊下からの光で逆光になった瀬名の表情はよく見えない。
「瀬名さん…僕…ごめんなさい、料理を…食べて欲しいと思って…それで…」
勝手に部屋にあがってしまい、びっくりさせただろう。悲しい気持ちを抑えて、俯きながら言葉を絞り出す。
「大丈夫かい?」
優しい口調に、少しだけ気持ちが落ち着く。
「はい、あの…勝手に入って、すいませんでした。」
かすれた声で答えると、瀬名はゆっくりと部屋に入ってきた。手には陽太が持ってきた紙袋を持っている。
陽太が顔を上げて瀬名を見たとき、壊れたビデオテープのように記憶が断続的に再生され始めた。記憶の中の部屋には夕日が差し込み、部屋に入ろうとする瀬名の手には鈍い光を放つものが握られている。ひどい頭痛を伴って、暴力的に流れる記憶が現実を塗りつぶしていく。
「いやだ…だれ…来ないで…」
腰を床につけたまま、瀬名から遠いほうへと後ずさる。腕とひざが震えて上手くカーペットを捉えられない。
「陽太君、落ち着いて、怖がらないで。」
瀬名が冷静な声で言う。現実の瀬名か、記憶の中の彼か、どちらが喋ったのか陽太にはもう区別がつかない。
背中がベッドにあたり、ふいに陽菜がまだベッドで寝ていることに気付く。
「お姉ちゃん!おきて、お姉ちゃん…!」
力任せに陽菜の身体を揺さぶる。起きない。重くて冷たい身体。その内彼女を覆う羽毛布団に、赤黒い染みが広がっているのに気づく。
そこでふっと気が遠くなり、陽太は羽毛布団を握りしめたままカーペットの上に倒れこんだ。後に残ったのは暗い静かな部屋と、死んだように眠る陽太を見つめる瀬名だった。

陽太-4

陽太は夢を見ていた。そこは船の中。ものすごい速さで高度を上げていく。陽太は何かの透明なケージに入れられているようで、身体が重く動かない。地表が遠ざかり、雲を抜け、大きな窓から見える景色はどんどん暗くなっていった。やがて暗闇に浮かぶ、自分が生まれ育った地球。しかし海は土砂で濁り、陸を侵食していた。大地にはいくつも赤い亀裂が走り、緑は焼き尽くされて、星は煙に覆われていた。声がしたためかろうじて眼球を動かすと視界の端で子供たちが輪になって座っているのがわかったが、話の内容までは聞こえなかった。再び曖昧になる意識。夢はぷつんとそこで途切れた。

「もうかなりを思い出してしまっている。」
台座に横たわる陽太の額から指を離して、少年はそう言った。赤い宝石のような瞳、ひざまで伸びた銀色の髪、内側から白く輝く透明な肌。確かに動いているのに、生きているのかわからない、そんな少年の声は、聞いた者の知性を刺激するような、凛とした響きを伴っていた。
「2回目になるからね…記憶がさらに深く定着してしまっている。彼の心にかなりの負荷をかけることになるよ。」
真珠の色をしたケープの裾を揺らしながら、少年はゆっくり歩みを進める。歩いているのだから床はあるはずだけれど目には見えない。足元も、周りも、そして見上げても、全ての方位にどこまでも闇とその中に浮かぶ無数の銀河が広がっている。少年の歩みの先には、椅子に座り手を握り締めて俯く瀬名の姿があった。
「僕のせいだ、僕のエゴで陽太君を助けてしまったから…いけないとわかっていたのに、陽太君に近づいてしまったから…」
そう話す瀬名の背中は震えていた。少年は歩みを止め、哀れみを含んだ眼差しを瀬名に向けて答える。
「ミツル、僕はあの時、君に警告したはずだよ。彼に姿を見せてはならない。君がどれだけ注意しようと、互いを傷つけることになると。」
瀬名は僅かに顔を上げ、目線の先の闇を見つめる。目の下には隈ができ、もともとの無精ひげは更に伸び、数日間思いつめていたことが伺える。
「陽菜はあの時には既にだめだった。僕が好きだった陽菜は汚い大人たちに汚されていた。あれ以上生かしておくのはかわいそうだった。」
遠くで彗星のような光線が走り、キーンという乾いた音が空間にこだまする。瀬名の瞳には涙が溜まっていた。
「でも陽太君はそうじゃなかった。助けなきゃいけないと思ったんだ。今の世界で陽菜の分まで、永遠に子供でいて欲しいと願ったんだ。」
瀬名は搾り出すように言った。少年は再び歩き出し、瀬名に問いかける。
「それが、僕の話も聞かず、彼の前に姿を現した理由かい。」
「そうだ…でも、理想郷に、理想を求める者が干渉してはいけなかったんだ…自分でどんなにごまかしても、僕達はもう大人だ。子供に影響を与えずに共に過ごすなんてできなかった。」
少年は眠る陽太の姿と自らの指を見比べ、少し考え込んだ後、こう問いかけた。
「彼の気持ちには気づいていたのかい。」
その瞬間、空間から彼ら以外の一切の音と光が消え、冷たい沈黙が満ちた。その沈黙からもう一度世界を生み出すように、瀬名が口を開いた。
「ああ、怖かった…陽太君も陽菜の様になってしまうんじゃないかって。」
空間に呼応するように、瀬名の声も少しずつ温度を失い、震えは無くなっていった。
「でもそれ以上に自分が不気味だった。どこかでそれを求めているとわかってしまったから。」
それを聞いた少年は、少しあきれたような苦笑を浮かべ、瀬名の横に立って言った。
「大きな犠牲を払って、僕達は今の世界を手に入れた。でもどうやってその世界を動かしていけばよいかわからなかったから、この星で一つの可能性を試していた。これからどうするのかは、ミツル、君に任せるよ。僕はただ、人類に場所を提供したにすぎないからね。」
瀬名は横を向き、少年をまっすぐ見つめながら言った。
「ムラサキ、この星でのテストを次の段階に進めよう。時間はかかるかもしれないが、完全な子供だけの理想郷を作るんだ。」

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最初に見えたのは無機質な白い天井。ぼやけた視界がはっきりするのを待って、首を横にすると、白いカーテンが風で揺れていた。反対側を向くと、いくつかベッドが並べられていて、ここが病室だとわかる。
思考が朦朧としている。なぜ病院のベッドで寝ているのか、今が何月何日なのか、思い出せない。ただ、窓からかすかに聞こえる波の音と海鳥の声が、心を穏やかにしてくれていた。
ふいに廊下から慌しい足音がしてそちらを見ると、中学生ぐらいの少女が看護服を着て病室に駆け込んできた。
「小海さん、気がついたんですね! 良かった~今簡単に検査しますから。」
少女に追走して医療ロボットも病室に入ってくる。
「えーっと、まずここを押して… これがここに繋がって… あれっ、ここはどうだったっけ…」
慣れない手つきで少女はロボットから伸びるセンサーを陽太の身体に付けていく。画面上の指示を何回も確認して、やっと検査が始まった。
「あの…僕、なんでここに…」
画面とマニュアルを交互に凝視する彼女には悪いと思いながらも、陽太はたずねた。
「あっ、ごめんなさい、その説明が先でした! ちょっと待ってくださいね…」
経験が足りないことを考慮しても、少しそそっかしい性格のようだ。大丈夫かな…陽太は心の中で苦笑いをしてしまう。少女はいったん検査を中断し、ベッド脇の椅子に腰掛けて説明を始める。
「昨日の夕方、小海さんが図書館の中で倒れていたところを、たまたま訪れた人が見つけて運んできてくれたんです。軽い熱中症でしたので身体を冷やして、栄養剤を点滴しました。そのあと1日近くずっと眠ってて…」
陽太はうっすらと思い出す。そうだ、図書館での書架整理作業中に倒れてしまったのだ。改めて耳を澄ますと、波の音をかき消そうと競うように蝉が鳴いているのに気づく。屋内とはいえ、夏も盛りの時期に水分を取らずに作業を続ければ当然そうなってしまう。それにしてもあの誰も来ない図書館に来訪者がいたとは…後でその人の住所を聞いてお礼をしよう。
「そうでしたか…ありがとうございました。でもすごいですね、中学生で、こんな難しい仕事についていて。」
陽太は素直に思ったことを少女に伝えた。医療や教育等、難易度が高い職業は、汐見町でも子供はアシスタントとしてしか雇われていなかったはずだ。何か理由があるのだろうか。
「今はこんな状況ですからね…」
少女は少し声のトーンを落として続ける。
「これまでみたいに大人に頼れないですから、子供でも、できることは少しずつ覚えていかないと。」
「…こんな状況って、何のことですか…?」
陽太には少女の言っていることが理解できなかった。すると、少女のほうが不思議な顔をして陽太を見つめる。
「えっ、ほら、小学校でも話があったと思いますけど…。大人たちが働きに行っているコロニーで事故があって、船がこっちに帰ってこれなくなっちゃって…。救援のためにこの町からもお医者さんとか大人が沢山向こうへ行ってしまったから…」
そうだ、思い出してきた。それで今汐見町は以前にもまして大人が減って、子供の役割が大きくなっているんだ。自分には両親がいないからあまり気にしていなかったのだろうか…そう陽太はぼんやり考える。
「そうでした、ごめんなさい変なことを聞いてしまって…。」
「いえいえ、起きたばかりでちょっと混乱してるんですよ、きっと。それよりも、小海さんは図書館でしたよね、いいな~私も座り仕事がよかった。」
「あはは、でも図書館も意外と大変ですよ。毎月、本部から新しい本が送られて来て、それと一緒に書架を整理しないといけないんです。誰も借りる人がいないのに、何で来るんだろうって不思議なんですけど。」
ロボットからビーと警告音が鳴る。少女は慌てて立ち上がり画面を確認すると、大きなため息をつき、とても申し訳なさそうに陽太のほうを見た。
「すいません…あの、止めたと思ったのに検査してたみたいで…もう1回、最初から取り直してもいいですか…」

検査が終わり、少女が出て行くと、病室は再び静かになった。少し暑いからとつけてもらった扇風機の風が、時折陽太の前髪を揺らす。退屈しのぎにと少女が置いていった雑誌の束から適当に1冊を抜き取って開いた。
どこか技術の発達した星で発行されたらしいその雑誌には、のどかな汐見町では誰も気にもとめないような、最先端の研究結果や論文が並んでいた。『銀河系全域で観測されている二次性徴の遅れについて』というページが目に留まる。使われている用語が難しくあまり理解できないが、子供の身体に異常が起きていて、いろいろな星の科学者たちが共同で研究を進めているということらしい。
雑誌の横に置かれていた汐見町の広報にも目を通す。ここは、表面の99%が海に覆われ、わずかな陸地にこの街だけが存在する、銀河系の辺境の惑星。今後、労働力の不足が深刻化することを見越し、町の行政にも中学生や高校生が関わっていく方針が伝えられていた。また、従来日常生活をなるべく人間主体で送ってきたこの町でも、警察等すぐに子供が取って代わることが難しい仕事をロボットやAIに代行させることについての検討が始まったそうだ。
僕の図書館は、何か役割を果たすことができるだろうか。陽太は考える。今は誰も来ないさびしい建物だけれど、いつかみんなに必要とされる場所になって、この町に貢献したい。何かが大きく変わろうとしている。人類はより幸福になるのか、それとも不幸になるのか。窓から吹き込む風に少しだけ心躍る香りを感じ、陽太はベッドから立ち上がるのだった。

奈由紀-1

「ゆーちゃん、そっちはどう?」
奈由紀は手元で針を動かしながら、背中合わせで座る悠に声をかける。返事はない。悠はビーズになかなか糸が通らず、悪戦苦闘しているようだ。
「…ゆーちゃん?」
あまり邪魔しないほうがいいのかな…そう思い、恐る恐る奈由紀が振り返ると、
「イタっ」
そう甲高い声を出して悠が手を跳ね上げる。いくつかのビーズがばらばらになって床に落ちた。
「だ、大丈夫?」
奈由紀は急いで悠の手元を見る。幸い近くにあった縫い針に指が当たっただけで血が出ているとかはなさそうだ。
「よかった…あっ」
悠の机の上を見ると、フェルトで作った小さな動物マスコットが並んでいる。先ほど休憩を取ったときはクマとウサギだけだったが、オレンジ色のキリンがひとつ増えていることに気づいた。
「やったじゃん、かわいくできてるね!」
褒める奈由紀を上目遣いで一瞥した後、床に転がるビーズに視線を戻し悠はため息をつく。
「なっちゃん、わたし、もうむり…」
「え、なんで?」
「だって、ただでさえ動物ごとに作り方違って大変なのに、、一つ一つビーズで違う模様つけて、しかもそれを60個とか…小学生にはむりだよ…」
先ほどまで奈由紀が座っていた机に視点を向けると、そこには既に色とりどりのマスコットが机から落ちてしまいそうなぐらい並んでいる。そのどれもが不器用な悠が作ったものよりも出来栄えがよく、色使いも綺麗で、悠は疲労感がどっとくるのを感じた。
「がんばろうよ、ゆーちゃん。もう二人で半分はできてるんだし。それに、これは手芸部の伝統で、去年の6年生も2人でやったんだって。私たちならきっとできるよ!」
瞳をきらきらさせながら奈由紀は演説をするように鼓舞する。いつもはおっとりとして大人しいが、手芸のことになるととたんに熱血になってしまうのだ。
「そりゃなっちゃんは上手にできてるけどさ、わたしのは…」
悠は顔を机の上に乗せて、先ほどやっと完成したばかりのきりんを手に取って眺める。一応きりんには見えると思うが、足の付け根から綿が出ていたり、ビーズで作ったネクタイが首輪にしか見えなかったりと、お世辞にも上手いとは言えない。
奈由紀は首を横に振り、残ったクマとウサギを大事そうに両手で抱えながら言った。
「ううん、私のはただキレイなだけ。大きさも本の通りで、糸も飛び出てないけど、ただのマスコット。でもゆうちゃんのは生きてる感じがする。」
「生きてる…」
「うん、このクマさんはハチミツ大好きで優しい男の子、こっちのウサギさんはいつも飛び跳ねてる元気な女の子。」
悠は驚く。だってその子達を作っているとき、本当にそんなことを想像しながら作っていたから。
「そうかな…わたしはやっぱりなっちゃんみたく綺麗に作れるようになりたいな。」
そういいながらも、悠は褒められたことによる嬉しさを隠し切れないようだった。それを見た奈由紀はふんわりとした笑顔で言う。
「だいじょうぶだよ!ゆうちゃんならすぐ上手になるよ。あと半分ぐらい、私も手伝うから、二人でがんばろう。」

二人が出会ったのは小学校5年生の春、この手芸部の部室だった。この学校では5年生から部活動が必須になるが、放課後は友達と公園で遊ぶことが日課だった悠は、どこの部にも入っていなかった。男子に混じって遊び、毎日砂だらけで帰ってくるわが子を見て、少しでも女の子らしいことをさせようと母親に入部させられたのが手芸部だった。部員は少なく、自分を含めて4人。そのうち2人が6年生で、残りの一人が同じ5年生の奈由紀だった。初めて会ったとき、「手芸部がとてもよく似合う女の子」だと思ったのを覚えている。黒髪のツインテール、眼鏡、マイペースな言動、笑うと周りにお花畑が見える…。
奈由紀は1年のときから活動していて家でも裁縫をするらしく、その時には既に部で一番の腕を持っていた。全くの初心者だった悠は毎日奈由紀から手芸を教わるようになり、自然に二人は友達となった。

放課後になり、二人は川岸の遊歩道を並んで歩いていた。
「あ、そうだ。この前先生から聞いたんだけど、南中に行く子、私たちだけだって。」
澄んだ寒空に浮かぶ綿のような雲を見上げ奈由紀が言う。赤いランドセルの横には自作のマスコットがいくつか揺れている。
「そうなの?」
「うん、3組に加藤さんっているでしょ、あの子受験するんだって。」
「ふーん。そうなんだ。」
二人の住む街は学区の割り当てが小学校と中学校で異なり、同じ小学校でも数人が別の中学へ行くことになる。その数人になってしまった二人だが、それでも一緒の中学に行けることはお互い心強かった。
体操着を入れたナップサックをボールのように蹴り上げながら悠が呟く。
「…でもふしぎだね」
「何が?」
奈由紀が尋ねると、悠は少し岸を上がったところにある公園でサッカーをする子供たちを見つめていた。
「手芸部入った時、こんなのすぐやめてやる、って思ってた。でも、なっちゃんと一緒に作るのが楽しくて、いつのまにかもう卒業だよ。」
「ゆうちゃんは、やっぱりサッカーとかの方が楽しい?」
ずっと心のどこかで気になっていたこと。悠は運動が好きで、性格も明るくて、外で遊ぶ友達も沢山いる。奈由紀が今まで仲良くなった子とはだいぶ違っていて、もしかしたら親に言われたから我慢して自分と一緒にいてくれるのではないか。
その考えが伝わったしまったのか、少し不機嫌そうに悠は答える。
「そんなんだったら、もう他の部活に入ってるよ。うちの親、文化系のだったらなんでもいいって言ってたし。」
悠がまた前を向いて歩き出したので、少し後ろを奈由紀も着いていく。
「ごめんね、変なこと聞いちゃって。」
申し訳なさそうに視線をそらして笑う奈由紀。横目でちらりと見て、悠は自分ももう少し優しい答え方をするべきだったか、と反省する。
「そうだ、なっちゃん、本屋よってかない?この前かしてもらったマンガの続き、出てるみたいなんだ。」
雰囲気を変えようと、悠は寄り道を提案する。
「うん、行こう。私も手芸の本、今月号買いたいから。そういえばあのマンガって…」
再び横に並んだ二人は、話題に花を咲かせながら、膨らみ始めた桜のつぼみの下を歩いていった。

それぞれ欲しい本はすぐに見つかり、まだ時間もあったので二人は立ち読みコーナーに行くことにした。この本屋では売れ残った古い雑誌を店の一角に集め、近くにソファを置くことで休憩がてらそれらを読めるようにしている。いつもは小学生向けの雑誌しか探さないのだが、今日は女性誌の棚の前に立つ二人がいた。
「みてみて、ゆうちゃん。この人すごいキレイだよ!」
目を輝かせながら奈由紀が見せてきた雑誌には、バラの飾りが沢山ついたワインレッドのドレスを身にまとったファッションモデルが写っている。
「あぁ、うん…そうだね…」
悠は苦笑いをしながら一応同意するのだが、正直あまり興味が無い。というか、こんなに装飾があると動きにくいのではないだろうか、と妙に現実的な心配をしてしまう。
きっかけは今二人が貸し借りしている少女漫画だった。主人公の地味で貧乏な少女が、あるきっかけでファッションデザイナーの男性の家に居候することになる。居候を認める条件として自分を着せ替え人形のように扱う男性に抵抗を抱く少女だったが、いつしか二人は惹かれ合っていく。前の巻では、男性がデザインしたドレスを着て、別荘のあるプライベートビーチでプロポーズされる場面で話が終わっていて、続きを心待ちにしていた。
悠は足元に平積みされていた一冊に目を留め、両手で持ち上げる。表紙には水色に透き通った海と白い砂浜の写真。「夢を叶える 南の島で結婚式」そう書かれた雑誌はいわゆる結婚情報誌のようだ。
「なっちゃん、これ。マンガで出てきたところみたい。」
「ほんとだ~。ね、すわって読もう。」
二人でソファーに座りページをめくる。波打ち際と遠くに見えるヨット、大きな実をつけたヤシの木、砂浜に埋もれた貝殻、そんな写真が次から次へと目に入ってくる。そして結婚式場として作られた建物だろう、白い石造りの建物が砂浜に建てられ、そこから沖へ一直線の伸びる桟橋の先には、木で作られた六角形の屋根がついた建物が海に浮かんでいる。
二人はつい時間を忘れて、その写真に見入ってしまう。
「いいなぁ~」
最初に声を出したのは奈由紀だった。それにつられて悠も素直な感想を口にする。
「うん、ステキだね。」
「私ケッコンするなら、こんなところがいい。」
遠くを見るような瞳で言う奈由紀。
「なっちゃん気が早すぎ。まだ私たち、やっと来月中学生になるところだから。」
そう答える悠も、胸がときめいていることを隠しきれていない。二人にとって恋愛は少女漫画の中だけのファンタジーで、現実で男の子を好きになったり、ましてや付き合うなんて考えていなかった。でも、写真に写るどこまでも続く青い空と海を見ていると、自分たちが生きる先にも、いつか恋をして、デートをして、そして結婚するのだろう、と未知のものへの憧れに似た気持ちが芽生えていた。
「えへへ、そうだよね。でも、きっといつか、私もゆうちゃんも大人になって…」
「うん、それで、南の島に行って、こんな服を着て…」
ページをめくる度に、二人の夢は膨らんでいく。その日、本屋を出るころには、あたりはすっかり夕暮れで染まっていた。

卒業式の朝、少し早めに登校した二人は、マスコット作りの最後の仕上げに取り掛かっていた。既に完成したマスコットを「にゅうがくおめでとう」と大きく書かれた垂れ幕に縫いつけていく。慣れない制服を着て少し窮屈だが、今日までには終わらせなければならない。
「「かんせい~!」」
新1年生6クラス分の幕への縫い付けが終わると、二人は同時に歓声を上げてその場に座り込む。
「よかったぁ。わたしのせいでぎりぎりになっちゃって、間に合わなかったらどうしようって思ってた。」
部室の黒板に貼り付けられた幕にぶら下がるマスコット達を見ながら、悠が安堵のため息を漏らす。
「これで1年生の子たち、この学校が楽しそうって思ってくれるといいね。」
そう言って奈由紀は微笑む。結局マスコットの3分の2近くを作業の早い奈由紀が作ったが、悠も垂れ幕の作成でかなり貢献することができた。1ヶ月近い作業が終わった充実感と、部室とも今日でお別れという寂しさが混ざり合い、二人はしばらく無言で黒板を見つめる。
「…じゃあわたし、先生に言って…あれっ」
部室を出ようと立ち上がった悠は、足元にどの幕にも縫い付けられていないニワトリのマスコットが落ちているのに気づく。完成した幕には確かに60個のマスコットがついているから、どうやら自分が一つ余分に作ってしまったようだ。
「どうしよう、この子、余っちゃうね」
「うーんと…そうだ。」
何か思い出したというように奈由紀は自分の道具箱の中を探り始める。しばらくして出てきたのは黄色いヒヨコのマスコットだった。最初に試しに作ってみて、結局使わなかったものだと言う。
「ゆうちゃん、この子達にお互いの名前を書いて、交換しようよ。」
「なっちゃん、それ、なんか卒業式っぽい…」
「あはは、卒業式だよ、今日。」
二人はビーズで自分の名前をそれぞれが作ったマスコットにひらがなで縫い入れていく。そして「なゆき」と書かれたヒヨコを悠が、「ゆう」とかかれたニワトリを奈由紀が受け取るように渡し合った。
「じゃあ、中学に行っても、よろしくね、ゆうちゃん。」
「うん、こちらこそ、よろしく。」
しんみりとした空気が二人の間に満ちて、それ以上どう会話を続けてよいかわからず、お互いに目を伏せる。ふいにあの日下校中にした会話を思い出し、少し迷ってから、悠は顔を上げて奈由紀を見る。
「なっちゃん、わたし…手芸部入って、なっちゃんと友達になれて、ほんとに良かったよ。」
奈由紀は一瞬はっとしたように目を大きくしたあと、すぐに首を傾げ、こぼれるような笑顔を向けた。
「うん、私も。ずっと友達でいようね。」
その瞳の端に小さな雫が光るのに気づいて、今日ちゃんと言えて本当によかった、と悠は思うのだった。

奈由紀-2

春休みに入って1週間がたった頃だった。それまで毎日の様に連絡しあっていた奈由紀からのメールが急に来なくなった。家族で旅行に行くと聞いていたこともあり、悠も最初の2、3日はそれほど不思議には思わなかったが、春休みが終わりに近づいても状況は変わらなかった。電話をかけると呼び出し音が鳴り続き、留守電になってしまう。お互いの家はそれほど離れていなかったため直接行こうかとも思ったが、しばらくすれば入学式で会えることもあり、結局奈由紀に会わないまま春休みは終わった。
入学式の朝、自分と違うクラス名簿に奈由紀の名前を見つけた悠は、少しがっかりしながらも、久しぶりに奈由紀に会えることに胸を躍らせながら奈由紀のクラスに向かった。
入学式が終わった後、悠は職員室にいた。校庭からは入学生とその家族の声がうるさいぐらいに聞こえてくるが、職員室は悠と教員が数名いるだけで静かだった。
「あぁ、月島さんと同じ小学校なのね…」
奈由紀は教室にいなかったし、卒業式にも出なかった。いてもたってもいられなくなり、奈由紀のクラスの担任に事情を聞いた悠は、職員室まで一緒に来るように言われたのだ。
「えっとね、家庭の事情でしばらくお休みするみたいなの。」
家庭の事情?中学生になったばかりの少女にはそこから察することは難しい。悠の何事もはっきりとさせたい性分もあり、更に詳しく聞こうとする。
「事情って、何ですか。月島さんとは友達で、春休みの途中から連絡が取れなくて心配なんです。」
「そうなの…でも…先生もよく知らされていないの…ごめんなさいね。」
穏やかな笑顔で教師はそう返した。まるであまり触りたくないものから目を背けるように、視線は悠の後ろにある黒板に向けられていた。悠は納得がいかなかったが、それ以上は聞かなかった。
帰り道に奈由紀の家を訪ねる。家の前に立つと、隣の公園から満開の桜の甘い匂いと花びらが風に運ばれてきたが、まるで春の暖かさからそこだけ取り残されたように、奈由紀の家は静寂に包まれていた。インターホンを何回か押したが返事は無い。窓のカーテンがすべて閉まり、いつも駐車場にあった軽自動車が見えないが、それ以外特別に変わったところはなかった。
「なっちゃん、どうしちゃったんだろう…」
桜の花びらが浮かぶ川岸を俯きながら歩く。学校が始まったら、お互いの春休みの間のことを話して、一緒に部活を決めて…たくさんやりたいことがあった。
…もう少し早く、春休みの間に会いに行ってれば良かったのかな…
来ないメール、担任の態度、以前とは違う自宅の様子…もう2度と会えないと分かったわけではないのに、どうしても悪い方向に考えてしまう。もしかしたら、自宅の敷地に入ってでも中の様子を確かめるべきだったのだろうか。
「いやいやいやっ」
悠は立ち止まり、暗い考えを消すために頭を横に振る。きっと旅行先で車が故障し帰ってこれないのだ、携帯電も偶然故障してしまっただけで、奈由紀は少し長い春休みを家族で楽しんでいるに違いない。自分でも少し強引とは思いながらも、悠はそう考えて奈由紀を待つことにした。

中学校の最初の授業は、母親から聞いていた通りアジサイについてだった。すでに悠ぐらいの歳になればみんながなんとなく知っている内容だが、全ての生徒が中学校入学時に履修することになっている。「紫陽花」それは一言で言えば地球の延命装置。
CGを使ったビデオでの仰々しい説明が始まる。悠にとっては小さい頃から母親から何度も聞かされてきた話で、肘をついて窓の外をぼんやり見ながら、退屈を紛らわす方法を考えていた。
およそ500年前、地球は瀕死の状態だった。幾度となく繰り返された核戦争、自然回復不可能なところまで進んだ環境汚染、止まらない人口増加による資源の枯渇…。亜光速航行技術と短期テラフォーミング技術の実用化と同時に、諸国は地球に見切りをつけ、太陽系外の惑星やコロニーへと散っていった。その中で、日本だけは違う選択をした。古来から地球や自然への信仰があり、一方で優れた放射能除去技術や燃料の再活性技術を有していたこの国は、太陽系外への進出は最小限に留め、母なる星の寿命を延ばし住み続けることを選んだ。そのために莫大な国費と時間をかけて建造されたのが紫陽花だ。相模湾の沖合、もとは大島があった海上に雲を突き抜けてそびえたつ巨大な姿は、悠の住む関東平野のほぼ全域から望むことができ、富士山と共に日常風景の一部になっていた。太陽エネルギーを集めるための巨大な6角形のパラボラを半球状にしきつめ、その半球を黒い円錐形をした本体の周りに複数配置しているため、遠くから見るとその名が示す通り、小さな花が集まり一つの大きな花を形成する紫陽花のように見えた。地下では三原山の火口跡を利用し地球のコアまで制御柱が降りている。人工知能によって決定される最適なプランに沿って、太陽のエネルギーを基に地球のコアに働きかけ、重力、地殻変動、気象等の星の活動を人間が居住できる状態にコントロールする。試行錯誤の末、なんとか地球環境は千年前のそれまで戻り、少なくとも日本列島では四季のある平和な日常を人々は送っていた。
ビデオはそこで一時停止され、初老の男性教師が壇上にあがる。
「はい、もうすぐ時間なので、今日はここまでにしときましょう。」
そう言って彼は机の上の書類を片付けようとして、ふと思い出したように教室を見渡し始めた。
「そういえば、このクラスでしたかね…九重さんはいますか。」
やっぱり知られているのか…。悠は小さくため息をついて手を挙げる。教師は頬を緩ませて悠に立つように促す。
「九重さんのお母さんはですね、有名な研究者で、紫陽花のAIの管理のお仕事をなさっています。」
どよめきたつ教室。ためらいがちに立ち上がる悠に、教師はしばらく称賛を送り続けるのだった。

入学式から2週間が過ぎ、4月も中旬になる頃。道には散った桜の花びらが積もり、公園の木々は少しずつ新芽を出してきていたが、まだ日が落ちると冷え込みは厳しい。同じ小学校の出身者がクラスにいなくて不安だった悠にも、ぎこちないが、新しい友達と呼べる存在ができ始めていた。
昼休み、校舎と裏山で日陰になった渡り廊下を悠は一人で歩いていた。なったばかりの体育委員として、集めたプリントを職員室に持っていくためだ。目の前の職員室がある建物からおぼつかない足取りで歩いてくる人影を見つける。
「なっちゃん!」
悠は髪を揺らして駆け寄った。持っていたプリントの数枚が地面に落ちたが気にしない。奈由紀は声に驚いたように身体をびくっとさせて、ゆっくりと顔を上げた。
「…ゆうちゃん…」
いつもよりも低くかすれた、消え入りそうな声だ。見ると、目の下には隈ができ、ストレートでツヤのあった黒髪はボサボサで結わいていなかった。
「なっちゃん、大丈夫なの?なんで学校来なかったの?」
他に言うべきことはあるはずなのに、今まで抑えていた不安が溢れだし、つい問い詰めるような言い方をしてしまう。奈由紀は再び顔を伏せて、表情が見えない。
「連絡…できなくて、ごめんね…。私ね…」
奈由紀の肩は震えていた。地面に涙が落ちるのを見て、悠はなぜもっと優しい言い方ができなかったのかと後悔する。深呼吸をした悠はゆっくりと奈由紀の片手をとって、自分の両手で包む。
「ひさしぶり、なっちゃん。」
もう、自分の一番の友達が何か大きなことに苦しんでいて、助けが必要なことは明らかだった。だから、彼女がなるべく安心できるように、優しく手を揺らす。奈由紀は時折肩を小さく上下させて、すすり泣く声を抑えられなくなっていた。悠は体育館倉庫の脇にあるベンチを見ながら尋ねる。
「…向こう、座ろっか。」

ベンチに座った後、しばらく泣いていた奈由紀は、ようやく落ち着きを取り戻したが、その瞳は虚ろで、表情から以前の温かみは消えていた。ベンチまで悠に手を引かれて歩く時も、心なしかふらふらしているようで、悠は何を聞いてよいのか、もしくは黙っているべきなのか、迷っていた。
「お父さんとお母さんがね、死んじゃった。」
急に奈由紀が発した言葉に、悠は何も返事ができなかった。先ほどまで校庭から聞こえていた賑やかな声が、遠ざかっていく。奈由紀は抑揚のない弱々しい声で、途切れ途切れに話を続ける。
「二人で…食事に行くって…車がぶつかって…。私も病院に行って…でも…」
そこまで話して再び口をつぐむ。悠は何と言えばよいのかわからず、奈由紀の膝の上に置かれた左手に、自分の右手を重ねる。
「…ごめんね、ゆうちゃん…しばらくいろいろあったから…メールとか、できなくて…」
悠は大きく首を横に振る。
「ううん、いいよ。」
本当は、奈由紀の心の傷を少しでもいやす言葉をかけたいのに、言葉が見つからない。こんな中身のない返事しかできない自分が、もどかしい。カーテンの閉まった奈由紀の家を思い出す。そうだ、両親を失って、彼女はどこで生活するのだろうか、ちゃんと食事を食べているのだろうか。
「今は、なっちゃんは、どこに住んでるの。」
その質問をした時、奈由紀の手が小さく震え、体温が下がったのが伝わってきた。一瞬の沈黙の後、これまでよりも更に小さな声で答える。
「…前と、同じお家だよ。親せきの人が、引っ越してきたから。」
親戚の誰かが奈由紀を引き取って面倒を見ることになったのだろうか。奈由紀の反応が少し気になりなるが、ちゃんと保護者がいて、しばらくは同じ学校に通えるということだろうか。
「そうだ、放課後一緒に帰ろうよ。明日の朝もなっちゃんの家まで迎えに…」
「ゆうちゃん、ごめん。早く帰るように、言われてるんだ。朝も、遅くなるから、大丈夫。」
奈由紀が悠の言葉を少し早口で遮る。今までそんな風に話す奈由紀を見たことがなかった。でもきっと色々な手続きで忙しいのだろうと、悠は自分を納得させる。
「そっか…」
そう悠が呟くのと同時に、午後の授業開始5分前を告げるチャイムが鳴る。
「あ、もう昼休み終わっちゃうね…ゆうちゃん、話を聞いてくれてありがとう…もう、大丈夫だから…」
ベンチから立ち上がる奈由紀。気のせいかもしれないが、最初よりも少しだけ声に温度が戻ってきたように感じられる。
「じゃあ、また教室行くから。メールもするね。」
悠がそう言うと、奈由紀が顔を上げた。今日初めて、悠は奈由紀の顔を正面から見る。瞼には涙の跡が残り、鉛色の瞳は光を映していなかった。
「…うん、またね、ゆうちゃん。」
最後に一瞬だけ弱々しく口元だけ笑顔を作り、奈由紀は渡り廊下の方へと静かに歩いていく。悠はその姿を遠目で追いながら、友達のために自分に何ができるのか、何をするべきなのか、考えていた。

奈由紀は学校には来るようになったが、休む日の方が多かった。教室に行っても休みか、保健室で休んでいることが殆どで、まともに話ができない日々が続いた。たまに校内で見かけると悠は必ず話しかけに行ったが、奈由紀の変化に動揺せずにはいられなかった。新しいはずの制服はしわが付き、綻びが目立っていた。目は生気を欠き、何かにおびえているようにいつも震えていた。
助けたいのに、何もできないもどかしさ。それに加え、悠には中学生になってから強く違和感を感じていたことがあった。「友達」という言葉が持つ意味の変化だ。クラスメイトとの人間関係は複雑になり、「普通」からこぼれないよう、嫌われないよう、いつもみんなピリピリしていた。表面上は仲良くしていても、蹴落として、自分のストレスのはけ口にできる人間を、常に探している。 まるでそれが生物として当然の行為であるかのように、誰もそこから抜け出せない。
嫌な想像が頭をよぎる。周りよりも遅れて学校生活を始め、みすぼらしい格好をし、自分以外の誰とも話していない奈由紀。その不安は何度振り払っても、いつのまにか悠のすぐ傍に佇んでいた。
その日、移動教室に向かうため、悠は廊下を同じクラスの友達と歩いていた。ふと奈由紀の教室を見ると、教室の一角に女子が集まっている。奈由紀の机だ。
「ちょっと、待って…。」
悠はそう友達に告げ、教室の入り口まで駆け寄る。
「どうして学校来たの?」
「てか、臭いんですけど」
教室内では聞こえても、廊下からは聞き取れないぐらいの声。顔は周りの生徒の背中に隠れて見えないが、確かに彼らに囲まれているのは奈由紀だ。
「月島さん、ちゃんとお風呂入ってるのー?」
「ねぇ、お金なくて制服買えないって本当?」
少女たちは次々に奈由紀に質問を投げかける。答えが欲しいからじゃない、答えられないのを楽しんでいる。
悠が反射的に教室に飛び込もうとしたとき、後ろから腕を掴まれる。
「…」
同じクラスで一番よく話す子だった。腕を掴んだまま、無言で首を小さく横に振る。
「なんで…!」悠は腕を振りほどこうとする。
「あの子たち、嫌われると、怖いよ。」
がしゃん
大きな音が教室に響く。振り返ると、少女たちの足の隙間から、床に奈由紀の筆箱の中身が散らばっているのが見えた。
「あーごめんね、腕当たっちゃったー」
静止を振り切り一歩を踏み出そうとした瞬間、悠の世界は急に青白くなった。声を上げようとするが、窒息したように息ができない。足も自分のものでないように動かすことができない。
昔のことを思い出していた。小学校4年生の冬、いつものように放課後公園で遊んでいると、傍を歩いていた中学生のグループの一人に、友達が投げたボールが当たってしまった。その友達はすぐに謝ったのだが、そのグループは難癖をつけ始め、泣きながら謝り続ける友達を見た悠はつい言い返してしまったのだ。それが原因で目を付けられてしまい、しばらくの間、放課後に待ち伏せされ暴力を受けたり金銭を取られたりということが続いた。母親に砂だらけになって帰ってくる理由を尋ねられ、サッカーで転んだと嘘をついた。
今、自分が行けば奈由紀を助けられるかもしれない。でも、自分はどうなる?
教室の他の生徒はみな、奈由紀の机の方は見ないようにして、無関心を装っている。誰も助けようとする者はいない。
…私が、行かなきゃ…
本当の自分は、確かに心からそう思っているのに、身体が言うことを聞かない。いや、そもそもどちらが本当の自分なのか。頭の中がぐちゃぐちゃになって、考えがまとまらないまま、床にしゃがみこんで筆箱の中身を拾い集める奈由紀と目が合う。
瞬間、目を逸らしたのは、悠の方だった。奈由紀の視線を感じながら、悠は友達を連れて教室から遠ざかっていった。

それから菜由紀の状況は少しずつ、でも確実に悪化していった。まるで小さな子供がおもちゃをどれだけ乱暴に扱えば壊れてしまうかを学ぶように、若しくは内気な少年が猫の首をどこまで絞めたら死ぬのかを確かめるように。体操服が無くなり慌てて探すと、泥で真っ黒になって机に詰め込まれていた。給食費を確かに給食委員に渡したのに、受け取っていないと言われた。後ろの席の男の子も渡すところを見ていないという。最初は遠巻きに様子を見ていた生徒たちも、黙って俯くだけの菜由紀を見て、一人二人とその輪に入ってくる。ある者は好奇心から積極的に、別の者は恐怖心から消極的に。見ない振りをする生徒も、自分が安全な立場にいることで安心感を得ている点では、輪の中にいるのとさほど変わりなかった。ただ、生徒たちは決して直接菜由紀の身体に傷をつけるようなことはしなかった。そんなことをすれば、大人が介入し、菜由紀を取り上げられてしまうことをわかっていたから。取り上げられたら、だれかがその役割を負わなければならないから。
なのに、いつしか菜由紀の身体には痣ができるようになった。制服の襟や靴下に隠れて普段は見えないけれども、菜由紀の「近くに」いる生徒たちは気づいていた。まるで、自分たちが怖くてできないことを、誰かが代わりにやってくれているような跡。しかも、菜由紀の持ち物を汚したり捨てたりした時にその痣は増えるようで、どんなことを学校ですれば痣は増えるのか、それが彼ら彼女たちの間で関心事となっていた。

奈由紀-3

一人で川岸の遊歩道を歩く。5月に入って日差しはだいぶ暖かくなり、並木は新緑に輝いていた。雲ひとつ無い青空をぼんやりと見上げながら、悠は自分の灰色の心と向き合う。
教室から逃げたあの日から、悠は菜由紀と話せていなかった。いや、話せるわけが無かった。菜由紀の教室の前を通ることさえ避けていた。何もできずに時間が過ぎていく。人づてに聞く状況に耐えられず、もう大人に相談するしかないと思ったが、教師には相談したくなかった。悠も、当時の小学校の担任に打ち明けたことがある。しかし、暴力から逃げられたのはほんの1,2週間だった。再び始まった時、中学生達は学校に言いつけられた怒りをぶつけ、暴力は更に過酷になり、悠は担任に相談したことを心底後悔した。
「てことは、お母さんか…」
母親は研究や学会で忙しく、殆ど家でゆっくり話せることは無かったが、ちょうどその日は政治家との会食がキャンセルになったらしく、久しぶりに夕食を一緒に取れることになっていた。今までのことを考えると、相談しただけで問題が解決するとは思えないが、何かヒントは見つかるかもしれない。木々の葉が風で音を立てる中を、少し早足で悠は進んでいった。

「「かんぱーい」」
母親はワインの入ったグラスを、悠は同じグラスにオレンジジュースを入れて、テーブルの中央でかちんと鳴らす。
「ごめんね、悠。最近全然ご飯一緒に食べれてなくて。」
「ううん、大丈夫だよ。忙しいのにありがとう、お母さん。」
テーブルには母親が作った料理が所狭しと並び、リビングは上品でかつ食欲をそそる香りで満たされていた。ハンバーグ、パスタ、ポタージュ…夕方大慌てで帰ってきて作り始めたにしては、見た目も綺麗でどれも手が込んでいる。どう考えても今日一晩では食べきれない量だから、きっと今後2、3日の悠の食事になるのだろう。
「中学校はどう?」
サラダを小皿に移しながら母親が尋ねる。
「全部通信で予習したところだから、簡単だよ。特に数学と英語は今中2のところまで先取りしてるから。」
母親が一番最初に確認することは、勉強が問題ないかだ。それを知っている悠は、用意してきた答えをすらすらと喋る。
「そう、良かった。頑張っていて偉いね。委員会は何になったの。」
悠はサラダがよそわれた小皿を受け取る、トマトとちりめんじゃこ、クリームチーズを手作りのドレッシングであえたお気に入りのメニュー。
「えっと、学級委員は他の子にとられちゃって、体育委員になった。」
「あらら、そうなの…悠は本当に運動が好きね。」
最後は少し呆れたような口調だったが、娘が中学で自分の教えたことを守って生活していることを聞いて、母親の機嫌は良さそうだった。悠の目を見ながら諭すように続ける。
「学校の勉強ってつまらないと思うかもしれないけど、今頑張っておけば、大人になったときに楽よ。それに委員会や部活でチームワークを学ぶのも大事。なるべく委員長とかを目指して、今のうちから色々なことを経験しておいてね。」
「うん、わかった。」
悠は笑顔で返事をする。母親の教育に対する意識は高いが、決して勉強一辺倒というわけではない。中学も、小学校の間はのびのび遊んでほしいという理由で、受験をせず公立に入ることになった。仕事が忙しくて頻繁ではないが、こうしてたまに家族の時間も作ってくれる。だから悠もこういった話をされるのを億劫に感じたことはなかったし、できるだけ彼女の期待に沿いたかった。
今度はためらいがちに口を開く。
「あのね、お母さん…菜由紀ちゃんって覚えてる?」
以前菜由紀が家に遊びに来た時に、何回か顔を合わせているはずだ。
「えっ…あぁ、月島奈由紀ちゃんね…」
そう答える母親の声はさっきよりも少しだけ上ずっていたが、悠は気に留めず話を続ける。
「うん。でね…」
奈由紀の両親のこと、学校での出来事を、ゆっくりと話していく。小学生の頃、自分は母親に話せなかった。全てを話し終えて、最後に言った。
「…ねぇ、どうしたら奈由紀ちゃんを助けられるのかな。」
そのまましばらく返事を待っていると、優しい声で母親が話し始めた。
「悠、仲の良かった友達がそんなことになってショックなのはわかるけど…いじめはどこにでもあるわ。子供の間だけじゃなくて、大人になっても。」
「…うん…」
「奈由紀ちゃんには可哀想な言い方かもしれないけど、みんなと違ったり、弱かったりする子はどうしてもターゲットにされちゃうのよ。社会ってそうやって誰かの犠牲があって成り立っている部分もあるから…悠にはまだちょっと難しいかしらね。」
母親は慎重に言葉を選んで話していたが、それが逆にその言葉の裏にある無機質な世界観を浮き立たせ、悠を不安にさせた。
「それに、早いと思うかもしれないけど、そろそろ自分の高校受験のことも考えてほしいの。奈由紀ちゃんのお家は、その…色々とあるみたいだから、あんまり関わると、悠の学校生活にも影響があるかもしれないし…」
先ほどまであんなに美味しかった食事の味がわからなくなり、悠は皿の上の掃除をするように口に物を運んでいく。
「お母さんは悠に、いじめられる方にならないためにどうすればいいのか、考えて欲しいわ。」

放課後、悠は同じ1年生の体育委員数人と昇降口に向かっていた。6月の体育祭に向けて、色々な話し合いや準備が日が落ちるまで続くことも珍しくなかったが、その日は担当教師の用事で早めに終わり、その開放感から会話が盛り上がっていた。
「はー体育委員選ぶんじゃなかったー。入学してすぐ体育祭だもん」
軽く伸びをしながらそう言ったのは、奈由紀と同じクラスの佐々木だ。
「しかも先輩うざいの多くね?」
「そうそう、なんか体育委員だけに体育会系っていうか」
それに続いて周りの女子が小声で話す。
「九重さんは?なんか運動得意そうだし、体育委員って感じがするけど。」
佐々木に突然話題を振られ、慌てて悠は愛想笑いを浮かべる。
「そんな、全然だよ。小学校の時体育の成績悪かったし。それに、私もうちの先輩苦手、かな…」
「だよねだよね、特にあの白井っていう人…」
とにかく周りの言うことに賛同し、自分が周りと違う存在でないことを強調する。それが中学生になって悠が学んだルールの一つだった。話題は先輩への不満や悪口へと移っていく。委員会だけではない、部活でも普段の学校生活でも、小学校のときよりも上下関係が意識されるようになった。中には高圧的な要求や嫌がらせをしてくる上級生もいて、最下級生の彼女たちの心には行き場のない憎しみが渦巻いていた。
昇降口の靴箱の前に一人だけ生徒が立っていた。
「あっ」
佐々木はまるで店のショーウィンドウに気に入った服を見つけたかのように、その生徒に近づいていく。ほかの少女たちもそれに続く。悠はどうすればよいかわからず、顔を伏せてその場に留まった。
「月島さん元気~?どうしたのこんな時間に?」
靴を履き替えようとしていた奈由紀は、その声に身を強張らせる。中学に入ってからこんな遅くに奈由紀の姿を見るのは初めてだった。保健室で休んでいたのかもしれない。
「あれっ、月島さん一人で帰るの?友達は?」
後ろで別の生徒が「友達って」とクスクスと笑う。奈由紀は慌ててぼろぼろのスニーカーを床に置き、その場から逃げようとする。
「待ってよ、まだ話終わってないから」
ぐしゃり。誰かの足がスニーカーの片方を潰す。
「そういえばさ…」
佐々木が悠の方を振り返る。
「九重さんって同じ小学校じゃなかったっけ。月島さんに友達いたの?」
いつの間にか手のひらが汗ばんでいる。奈由紀に教えてもらいながらなんとか手芸部の作品を作れたときの嬉しさ、お互いの家でどんな中学生活を送りたいか話し合ったときの胸躍る気持ち…みんな本当にあったことなのに、煙がかかったようにぼやけている。
「えっと…あんまり知らない、かも」
その悠の返事を聞いて、奈由紀の体がびくっと震えた。今彼女の表情を見てしまったら思い出の全てが嘘になってしまう気がして、悠は視線を向けることができない。
「うわー、存在感なさすぎで誰にも覚えてもらえてないって、かわいそー」
少女たちはどっと笑い、更に奈由紀を囲む輪を狭くしていく。一人が奈由紀の鞄を無理やり剥ぎ取ろうとする。
こんな時なのに、いつかの母親との夕食を思い出す。それまで音だけだった母親の言葉から、意味がじわりと染み出してくる。みんなには、抑圧された鬱憤を晴らすことができる誰かが要る。それはたまたま不幸が重なって奈由紀になってしまったけど、自分かもしれなかった。自分も鬱憤を晴らす側なんだって、みんなに知ってもらわなければ。ちゃんと、大人になって、上手にやらなければ。
でも、これに加わることなんて、私にはできない。みんな、もう帰ろうよ。そう言おうと佐々木たちに近づいたとき、引っ張られて傾いた奈由紀の鞄から、何かが音を立てずに床に落ちる。白いマスコット。裏返っているが、それがニワトリであることを悠は知っていた。
「何これ、汚い」
誰かが靴で踏みつけ、生地に跡が付いた。
「あ…やめて…」
奈由紀が小さな声を出して、床に手を伸ばす。別の誰かが軽く蹴って、それは悠の足元に表向きに落ちる。
「九重さんごめんね~こっちにパスしてくれる?」
そう言う佐々木を見ようとして、その後ろの奈由紀と目が合う。
…助けてよ、ゆうちゃん…
すがるような視線。恐怖よりも、その感情のほうがずっと強く悠に伝わってきた。この場に、奈由紀を助けられるのは自分しかいない。でも助ける方法が思いつかない。いや、思いつかないんじゃなくて、もしかしたら、もう自分は…
「…あれ、何か書いてあるみたい…」
佐々木が近づいてマスコットを見ようとした時、悠は足元のそれを、床にあったすのこの下に押し込めた。
「うわっ九重さんひどっ」
「ないすぷれー」
また笑いが起こる。しばらくして、少女たちは満足したのか、奈由紀を残して帰っていった。悠が去り際にもう一度奈由紀を見ると、表情から先ほどまでの恐れや悲しさは消え、瞳はなんの感情も宿していなかった。彼女の体はもう震えず、ただ時間が止まったように悠の足元を見つめていた。

12月になると町はクリスマスのムードに染まり、商店街にはツリーや電飾がきらめいていた。その日、悠は友達と学校帰りにカラオケに寄った後、家路を急いでいた。ここ数日で急に夜が冷え込むようになり、マフラーと手袋が欠かせない。学校生活は充実していた。運動部に入って朝練は辛かったが少しずつ試合でも勝てるようになり、友達も増えて休日はモールやファーストフード店で楽しい時間を過ごしていた。
…お母さん、もう帰ってきてるかな…
今日は母親が久しぶりに帰ってきて夕食をとる日だったが、友達との時間が楽しく、予定よりも少し遅くなってしまった。住宅街に入り、気の早い近所のクリスマスのイルミネーションを横目に見ながら歩いていく。どこかの家からトマトと肉を煮込んでいるようないい匂いがして、何を作ったんだろう、と考えながら通り過ぎる。
白い息を吐きながら自宅の前に着くと、車庫は空だった。家も明かりはついておらず、母親はまだ帰ってきていないようだ。遅れるなんて珍しい、そう思いながら玄関を開け、真っ暗な家の中に入る。玄関を上がり、そのまま2階に上がろうとして、ふとリビングで緑色の光がひっそりと点滅していることに気付く。電話機の留守電メッセージのライトであることを思い出し、何気なく画面を確認すると、母親からのメッセージのようだ。何か用事が出来て帰れなくなったのだろうか、そう思って再生ボタンを押した。
『悠、晩御飯の約束守れなくてごめんね。実を言うと、しばらく忙しくて、家に帰れそうにありません。でも、大事な話があるのでメッセージを残します。ちょっと長いけど、よく聞いて欲しいです。あと、もし誰かが周りにいるのなら、このメッセージは一人になった時に聞いてください。』
悠は椅子を電話機の方に向けて腰かける。しばらくの静寂を挟んで、母親は話を始めた。
『信じられないかもしれないけれど、本当のことを話します…アジサイがあと3週間で、動作を停止します。』
スピーカーから流れてくる声は妙に落ち着いていて、優しかった。
『それが地球にどういう影響をもたらすか、正確にはわかりません。でも、確実に重力は失われます。おそらく大きな地震も起きます。3週間後の12月25日の夕方、この星は生き物が住めない場所になります。』
母親が語る未来は、今のこの平和な世界とかけ離れている。しかし、みんなが心のどこかで、いつかはそうなるかもしれない、と思っていた未来でもあった。本当は何百年も前に死んでいたはずの星。母親がこれまでアジサイの話をしたときも、言葉のどこかに、今の生活は永遠ではない、という香りを漂わせていた。だから、悠もこれが嘘だとは思わない。
『この話は、一部の人にしか伝えられていません。だから悠も、ほかの人には決して言わないでください。悲しいかもしれないけど、時間が無くて、ほとんどの人は地球に残ってもらわなければなりません。』
暗いリビングで、電話機の放つ光を瞳に映しながら、じっと悠は耳を傾ける。
『お母さん達が所属する大人のグループと、11人の子供だけが、地球から脱出できます。もちろん悠はその11人の中にいます。25日の朝に迎えの車が来るのでその人たちに従って船に乗ってください。お母さんは船で待っています。』
少し間をおいて、これまでとは違う、感情の滲んだ声で母親は続ける。
『ここからが、お母さんが悠に一番伝えたかったことです。…今まで、悠にはお母さんみたいな苦労をしてほしくなくて、社会のルールとか、常識とか、そういうものに従うように言ってきました。まるで大人になることが良いことのように…悠にはそう信じさせてしまったと思います。でも、地球が死んだ後は、世界が変わっていきます。いつか大人はいなくなって、子供が世界の主役になるでしょう。彼らはいつまでも子供のままで、毎日笑って生きることができます。』
『ごめんなさい。今更になって、お母さんは間違っていたことに気付きました。いえ…間違っていると分かっているのに、自分と悠を騙し続けてきました。罪滅ぼしにはならないかもしれないけれど、新しい世界をあなた達に託します。そこで悠を邪魔する物はなにもありません。悠ならまだ間に合います、お母さんとは違う道に進めます。…では、また時間ができたら、電話しますね。体に気をつけて。』
無機質な電子音と共に再生が終了し、静寂に沈むリビング。電話機の画面の微かな光だけが、悠の顔を照らしている。不思議と恐怖や絶望は無かった。自分の今いる場所や毎日笑いあっている友達が、すべて消えてしまい、二度と戻れない。それは確かに衝撃的だが、今この瞬間、悠の心で渦巻くのは純粋な違和感だった。母親の言う新しい世界に選ばれたのが自分?ふと奈由紀の顔が浮かぶ。悠は脱いだばかりのマフラーとコートを掴むと、家を飛び出した。

奈由紀の家は黒を塗りつぶしたような闇に包まれていた。雑草が伸び荒れ果てた庭には、ゴミ袋がいくつか放置されている。あれから奈由紀はほとんど学校に来ていなかった。以前、春に訪れた時よりも荒れている家をみて、悠は目を逸らし続けてきた自らの罪を改めて直視する。ここまでずっと走ってきたので息がまだ落ち着かない。インターホンを1、2回押して誰も出てこないことがわかると、迷わず悠は玄関のドアを何度も叩いた。
…お願い、出てきて。
冷たい金具の音がして、ドアが開く。その向こうには暗い廊下を背にして、少女が立っていた。
「な…奈由紀、ちゃん」
息を整えながら、久しぶりに名前を呼ぶ。汚れた部屋着、生気の無い表情。長くて綺麗だった黒髪は肩の辺りで無造作に切られていた。最初、悠は奈由紀に見つめられているように感じたが、すぐに奈由紀はそこに悠がいないかのように、ずっと遠くをぼんやりと見ているだけであることに気づく。
「夜遅くに、ごめん…伝えたいことが、あって…」
奈由紀は俯いてしまう。しばらくの沈黙のあと、小さな声で、短い言葉が返ってきた。
「…何」
あまり時間がない、いやもう遅すぎたかもしれない。悠はそう感じながら、先ほど母親に伝えられた事を奈由紀に話す。3週間後に地球の外へ逃げなければいけないこと、自分は生き延びることができる11人に選ばれたこと、そしてその後は大人のいない子供だけの新しい世界が待っていること。奈由紀はそれをただじっと聞いていた。全てを話してから、悠はここまできた一番の理由を口にする。
「でも…でもね、わたしが生き延びれるって、違う気がするの。わたし、奈由紀ちゃんに酷いことした。奈由紀ちゃんがみんなに酷いことされてるのに、見ない振りした。助けるために何かやらなきゃって沢山考えたけど、結局どれもできなかった。最初は自分も同じことをされるのが怖くて、でもその内これでいいんだって思い込んでた。小学生のとき、奈由紀ちゃんはわたしを助けてくれたのに…。」
目に涙を浮かべ声を震わせながら、自分が今までしてきたことを懺悔する。もしこんな状況にならなければ、あるいは一生伝えられなかったこと。その考えが悠の背中を少しだけ押していた。
「これじゃあお母さんと同じだよ。わたしに生き延びる権利なんて無い。奈由紀ちゃん、わたしはね…」
「やめて」
奈由紀の声が遮る。それは静かだが、先ほどの力の無い声とは違い、意思のある者の声だった。
「私は早く大人になって、大人がいなくても一人で生きていけるように、自分のことを自分で決めれるようになりたい。そして今、私を苦しめている人たちに復讐する。子供のままなんて絶対に嫌。」
それは悠の知っている奈由紀では無かった。まるで彼女の周りを茨の茎が取り囲んでいるような近づきがたい雰囲気。自分がしたことが、この春から彼女に起こっていたことが、ここまで友達を変えてしまったことに戦慄し、悠は何も言うことができない。
「それにあなたのお母さんは、子供だけの世界をまるで楽しい場所のように考えているみたいだけど、あなたも知っているはず。私の物を壊したり、悪口を言ってくる学校の子達、みんな楽しそう。小さい子が虫や動物を殺して家に帰ってきて、親の作った美味しいご飯を食べる。それが、子供の世界だよ。」
眼鏡の奥の瞳に鋭く見入られて、悠は息を呑む。
「私は逃げない。もし、あなたの言うとおりに、地球が死んでしまうのなら、私も一緒に死ぬ。そんなニセモノの世界、いらないよっ。」
そういい捨てて、奈由紀はドアを乱暴に閉めた。再び訪れた静寂の中、どこか遠くから聞こえてくる救急車のサイレン。悠は反射的にドアに向けて伸ばしていた手を、力なくゆっくりと降ろした。
…わたし、何やってんだろ…
情けない笑いがこみ上げてくる。話を聞いてくれるわけがない。自分は彼女を裏切ったのだ。そんな人間に、今更助けてあげるって言われて…助かってもそこは彼女の望む世界じゃなくて…。救えると思った、自分の浅はかさが可笑しかった。
「わたしに、なっちゃんに生きてって言う資格なんて、ない。」
そう呟いて、悠はドアに背を向け、歩き出した。

【連載】成長

【連載】成長

大人になることの是非。

  • 小説
  • 中編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-01

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