【連載】成長

aki0125 作

  1. 陽菜-1
  2. 陽菜-2
  3. 陽菜-3
  4. 陽太-1
  5. 陽太-2
  6. 陽太-3

陽菜-1

教室で資料作りをしていると、ふいに塾長から声をかけられた。
「瀬名君、遅くまでお疲れさま。明日の準備かな?」
瀬名は背筋を伸ばし、少し声を上ずらせて説明する。
「お疲れ様です。あの・・・明日の数学のプリントが、まだできていなくて…」
夜9時の最後の授業が終わってから作業を始め、時計はそろそろ10時を示そうとしていた。今日はいつもより担当した授業の数が多かったこともあり、心身ともに疲労が強く、パソコンの画面を見つめる目をさっきから何度もこすりながらの作業だった。
塾長は印刷され机の上に並べられたプリントの1枚を手に取り、ふむふむとうなずきながら読みだす。
「実にわかりやすい、さすが瀬名君だ。そうか、ここは難しいけれど、こういうふうに書き直せば子供たちにわかりやすいんだね。」
「ありがとうございます!はい、そこは・・・」
気をつけた点、工夫した点をいくつか説明していく。塾長はひとつひとつの点になるほどと感心したり、共感してアドバイスを加えていく。
大人がそうであるように、生徒にも色々な性格の子がいる。勉強の苦手な子、集中力のない子、緊張して質問ができない子・・・。一人ひとりと向き合い、なるべく多くの子達が苦手を克服できる授業をすることが、瀬名が塾講師になったとき心に決めたことだった。
「でも、すいません、まだ日誌が書けていなくて…週明けには必ず提出しますので…」
「そんなものは時間のできたときにすればいいんだよ。」塾長は満足げな顔で微笑む。
「塾にとって一番大切なのは、子供たちの親御さんがお金を出して塾に通わせる価値のある授業をすることだ。他の講師には授業は出来合いのもので済ませて、もともと勉強の得意な子供たちを志望校に入れることを優先する者もいる。まぁ、要領がいいんだよね、彼らは。」
実際、問題のある子だと気づいた瞬間、その子がいくら学ぶ姿勢を見せようとも適当にあしらう講師も中にはいる。そして最初からレベルの高い学校に入れることが確実な生徒に時間を割いたほうが、講師としての実績を作るには効率がいいのだ。
「僕はそれを批判したいわけじゃない。何しろ実績を残して生徒を呼び込まないと経営は行き詰ってしまうからね。でも、瀬名君みたいに、時間はかかるかもしれないし…そうだね…華やかではないかもしれないけど、勉強が苦手な子供たちに根気強く教えることができる講師も、必要なんだよ。」
瀬名はもともと人見知りで、口下手で、講師に向いていないことは自分でもよくわかっていた。実際、初めて大勢の生徒の前で授業をしたときには緊張で身体が震え、頭は真っ白で、気づいたら授業が終わり呆然と教壇に立っていた。でも授業の後、生徒から個別に相談を受け、その子供に合った方法で疑問点を解決していく瞬間にとても充実感を感じたのだ。そこで塾講師になって1年間、一人ひとりに向き合うことに力を注いできた。だから、塾長の言葉は、自分の方向が間違っていなかったと、とても勇気付けられるものだった。
「そう言っていただけて、本当に嬉しいです」瀬名は立ち上がって頭を下げる。
すると塾長もこれはこれはという風に立ち上がって深々とお辞儀を返した。
「お礼をしなければならないのは僕のほうだ。君に来てもらえて本当に良かったよ、困ったことがあったら相談に乗るから何でも言ってほしい。では僕は本部に寄っていくから、後は頼んだよ。」
そう言って塾長は機嫌よさそうに教室を後にした。お疲れ様でしたと見送り、瀬名は1日の疲れが吹き飛んだかのように、再び資料作成に没頭し始める。その日瀬名がビルの戸締りをしたのは、日付が変わるころだった。

「なんか今日暗くね?」
先ほどまで鉛筆回しに集中していたと思っていた陽菜が突然言葉を発した。見ると覗き込むようにこちらを見つめている。
「えっ…そうかな…いい天気だと思うけど」瀬名は窓を見ながら返事をする。今日は梅雨の晴れ間で、青空には入道雲の子供のような小さな雲がいくつも並んでいた。
「違うよ、ミッツが」
「へ、俺が?あー…」
おそらく原因は午前中に受けた、ある保護者からの電話だ。陽菜とは別の、成績は平均的な生徒なのだが、親の方針で地域でもトップクラスの難関私立中学を志望しており、大幅な成績アップを要求されていた。しかし生徒本人は友達のいる公立に入りたいと思っており、勉強にもやる気を見せず、指導は思うように進んでいなかった。正直瀬名は無理やり受験勉強をさせることにも抵抗を感じており、生徒本人のために何ができるのか悩んでいた。そんな中受けさせた模試では当然良い判定は出ず、親からクレームが来たということだ。
「まぁちょっと・・・いろいろあってね。」
「せっかく久しぶりの晴れなのに~ミッツのせいでジメジメするぅ」
陽菜は椅子を背もたれが後ろの机に当たるまで傾け、大きく伸びをする。小麦色に焼けた肌、子供らしく細いけれど引き締まった腕。バスケ部で毎日ランニングをしている陽菜は、無駄のない綺麗な身体つきをしていた。
「ごめんごめん、そうだよな…うん、落ち込むのやめるよ。」
「そうしたまえ!」そう完全に上から目線の感想を述べると、今度は机に顔を近づけプリントに何かを書こうと鉛筆を握り締め、考えを巡らせているような表情に変わる。が、それは一瞬で、素晴らしい悪巧みを思いついたというような顔を瀬名に向けた。
「せんせーは、こんな日に、どこかへいくご予定はないんですかー」
「うーんそうだな…しばらく高根山には行ってないから行きたいかな。あの辺りはヤシロコウがたまに見られるから…」
「ふ~ん。で?誰と?」
「誰とも。かなり山林を移動するからな。それに、一人のほうが静かなスポットで、自分が満足するまで観察できるし…」
いつの間にか陽菜から不審者を見るような目を向けられていることに気づく。
「ということはまだカノジョもいないお一人さんだと」
「いや、まぁ…仕事が忙しくて…」瀬名は困ったという感じで頭をかく。
あきれた~つまらない~という風に陽菜は深いため息をつき、プリントを机の端に押しやり天井を見つめた。
陽菜が5年生になってから少し恋愛に興味を持ってきたのか、こういう質問が時折くるようになった。おそらく大人になれば皆、恋をし、週末はデートに勤しむ、と考えているのだろう。恋愛に全く縁のない瀬名としては、好奇心に満ちた少女を楽しませる回答ができず、申し訳ないとさえ感じることがある。それよりも、初めてそれに気づいた日から、決して抜くことのできない、いつか心臓に到達するトゲが身体に刺さったような不安から、目を背けられない自分がいた。
「陽太も大丈夫かな…なんだかミッツと同じにおいがするんだよね~」
「陽太君…弟だっけ?」
「うん、あの子、部屋が本で埋まってて、休みの日も友達とあそばずに本ばっか読んでるの」
「あはは、確かに俺と似てるかもね。どんな本が好きなの?」
「よく知らないけど…ファンタジーとか? しょうらい図書館ではたらくんだ~って言ってる」
ふと時計を見て、思ったよりも長話をしてしまっていたことに気づく。
「で、さっきの問題はできたのか?」
「わかりません!教えてミッツ!」元気にお辞儀をしながらプリントを差し出す陽菜。瀬名は、はいはいと教材を開き、隣に座って解説を始める。
陽菜に最初に会ったのは去年の秋口だ。さらさらの黒髪のショートカット、大きく澄んだ瞳、ボーイッシュで活発な女の子、というのが第一印象だった。小学校のバスケ部でエースだった彼女は4年生の夏休み明けのテストでよくない結果を出し、部活を続ける条件として親にこの塾に入れられた。特に算数で大分遅れをとっていたので、担当が数学の瀬名は彼女を頻繁に担当することになった。
最初は正直勝気な感じが苦手で、勉強にも興味を示さず、新人講師だから舐められているのではないかと悩んだ時期もあった。が、何回かこうして授業後に個人指導を繰り返すにつれ、いつのまにかこの塾で一番仲の良い生徒になっていた。瀬名が新人講師なりに一生懸命に教えようとしていることが陽菜に伝わり、また実際成績も徐々にだが良くなり、陽菜が信頼感を持ったのだろう。
「できたーっ!」陽菜は全てから解放されたというように気持ちよい伸びを見せる。
「お疲れ様、よく頑張ったな。」
「ミッツー、私すごいよ、こんなむずかしい問題できちゃってる、しかもなんか楽しい…4年のときもう算数の問題見るだけでだめだったのに…」
「陽菜が頑張ったからだな、うん。」
「いやいやーミッツのおかげやし、ありがと!」
こげ茶のランドセルに筆記用具を詰めながら、屈託のない笑顔で礼を言う。
「そういえば、この前話してくれた大会に向けて練習は進んでる?」
「ばっちし。この前のテスト良かったから、今回は男子の応援にも行けそう。」
塾講師なのだから、本当は他の事をやめさせてでも成績を伸ばせばよいのだが、それはしたくなかった。生徒がやりたいことがあるのなら、それが勉強でなくても自分のできることで応援したい。それが生徒一人ひとりに向き合うということだと考えたからだ。
1階のエントランスまで一緒に降りてきて、くるりと瀬名の方を向いて小さく手を振った。
「じゃあね、ミッツ、また明日~」
「うん、またな。気をつけて。」瀬名も手を振り返す。
自分のことを、塞ぎこんでいた学生時代、一度も呼ばれなかったあだ名で呼ぶほどに慕う彼女。おそらく同年代だったらここまで仲良くなることはなかっただろう。スカートを履いているのは見たことがなく、いつもTシャツズボンにスニーカー、男女関係なく友達が多い。学生時代よりも大分改善されたが、今でも相手が異性というだけで人と距離をとりたくなる彼にとっては、子供というのはどちらでもない、自分をありのまま受け入れてくれる存在だった。活発な性格も仲良くなってみれば自分の口下手な、けれども生徒の前では講師として努めて隠している、本性と相性がいいのかもしれない。
塾の玄関を出て、スキップ気味に駅の方へ向かう陽菜。角を曲がり見えなくなるまで、彼女を教えられる自分は本当に幸せだと、瀬名は考えながら見つめていた。

陽菜-2

明日から夏休みということで、休み時間の教室は夏休みの話で持ちきりだ。家族で海外に旅行に行く、部活で合宿がある…聞いているだけで、こちらも子供時代に戻ったような気持ちになる。
「瀬名君、ちょっと」
突然廊下にいる塾長から声をかけられ、今さっき集め終わったプリントの整理を一旦中断して廊下へ向かう。
「お疲れ様です、何でしょう。」
「突然なんだが、明日から清里での合宿に参加してもらうことはできないだろうか。」
「えっ、清里・・・講師研修ですか?」
夏の清里合宿といえば、本部が毎年開催しているもので、所謂カリスマ講師と呼ばれる者たちが指導役となり、全国から集められた将来有望な若手講師に手ほどきを行う、というものだった。基本的に1校からは塾長の推薦で1人のみ参加可能であり、向上心のある講師達にとっては有名講師に直接指導を受けられる憧れの機会だった。
「もちろん無理にとは言わない。期間は夏休み中の3週間だから、こちらでの夏期講習には後半の一部しか参加できないことになってしまう。」
陽菜の顔がよぎる。彼女は夏期講習に申し込んでいたから、本当であれば夏休み中頻繁に受け持つことになるのだろう。ここ数ヶ月調子も上がってきているようで、時間のある夏休み中に進度を上げれば、休み明けのテストで良い結果を残せるかもしれない。
「でも、私で良いのでしょうか…他に講義の得意な先生はいますし、私が有名講師の真似ができるとは思えなくて。」
言うまでもなく、カリスマ講師の大半は喋りが上手く、生徒受けも良く、所謂熱血教師的な資質を持つ。正反対の性格の自分が参加したところで、役不足なだけではないか。今まで瀬名はそう思っていたので彼らの真似をしようと考えたことも無かった。
「逆に私はそこに期待しているんだ。たしかに脚光を浴びるのは堂々としていて情熱的な講義をする者であることが多い。でも生徒の中には瀬名君のような物静かで繊細な感覚を持った人間に教えてもらいたいという者もいる。瀬戸君がカリスマ講師からその技術を学んだら、どんな授業が行われるのか見てみたいんだよ。」
正直塾講師自体、強く望んでなったわけでは無かった。学生時代、勉強は得意だったがそれ以外の活動に意味を見出せなかった。就職活動では面接で落とされ続け、ようやく内定がとれたこの塾も、人と話すのが苦手な性格ではどうせもって1年だろうと、最初は不安でいっぱいだった。それが自分なりに努力してきたことが認められるだけでなく、将来に期待までされていると伝えられ、瀬名は嬉しさを噛み締めていた。
「ありがとうございます。私でよければ、是非参加したいと思います。」
「受けてくれて良かった、明日からの夏期講習の代役には阿佐木先生を充てよう。」
詳細はまたメールするからね、と上機嫌で廊下を去っていく塾長。夏への期待と少しのプレッシャーに浸りしばらくそれをぼーっと見つめていたが、ふいに次の授業5分前を告げるチャイムが鳴る。次の授業ではたしか陽菜がくるから、このことを伝えなければ、と考えながら瀬名はプリントの整理を急ぐのだった。

授業が終わると2人の生徒から質問を受けたので、順に個別指導を行う。その間陽菜はしばらく友達と喋っていたが、友達が帰ると退屈そうに窓の外を眺めていた。梅雨らしくどんよりとした空。朝から弱い雨が続いて、7月にしては少し肌寒い。
金曜日は母親の帰宅が遅いらしく、授業後に教室で時間をつぶしていることが多い。その時間にこの1週間でわからなかったところを瀬名と復習するのが、毎週のルーチンとなっていた。
「ごめん、おまたせ」2人が帰り、教室に他に誰もいなくなると瀬名は陽菜に声をかける。
「まった~ミッツおそいよ~」
少しふてくされた顔で、陽菜は教科書を開く。
「小海さん、どこの復習をご希望でしょうか」
少しおどけた言い方をしながら瀬名が教科書を覗き込むと、そこは小数の割り算のページだった。確かに今までの整数での割り算と違い感覚的に理解が難しいことから、つまづく生徒が多い分野でもある。
瀬名はまず陽菜がどこに不安を感じているのか探りながら、少しずつ解説を進めていく。ちらっと陽菜をみると、先ほどとはまったく違う真剣な表情で聞き入っている。
幼いころからスポーツをしてきた彼女は、勉強に苦手意識があったが、もとから瞬発的な集中力は高かった。担当するようになってしばらくしてそれに気づいた瀬名は、一気に全てを理解させるのではなく、部分ごとに解説と演習を行い、少しずつ理解を深めさせるようにしていた。そして合間合間に雑談の時間を設け、部活や学校のことを聞くなど、リラックスして学習が行えるよう心がけていたが、それがいつしかお互いの楽しみになった。
「え~しばらくミッツ来ないの?」
夏期講習に参加できないことを話すと、予想通り残念そうな返事が返ってくる。
「ざんねんやなー…夏休み勉強がんばろうと思ってたのに…」
「おいおい、先生がいなくても頑張ってくれよ。」
「あっでもちょうどいいかも、わたしも前半忙しくて、どれだけ塾これるかわかんないかも…」
「試合とー合宿だっけ?」
「うん、そんで帰ってきたら夏祭り友達と行くんだ」
今から楽しみでしょうがないという風に足をばたばたさせて答える。
「土岐川のか、いいなぁ~充実してるじゃないか」
瀬名自身は子供のころの夏休みの思い出というと、両親と旅行に出かけていたことぐらいしか思いつかない。外で遊ぶ友達もなく、そもそも休みの日は家で勉強と読書をしているのが一番充実していた。でも陽菜のはしゃぐ姿を見ていると、自分がそうやって中学高校と過ごしてしまったのが少し残念で、あの時、陽菜のような友達と一緒に過ごしていたら、と空想せずにはいられなかった。
「でもちょっと合宿ユーウツなんだ~ 男子もいっしょとか意味わからんし」
男子バスケ部は強豪で、女子よりもさらに練習に力を入れていると聞いたことがある。あと、やんちゃな子が多いらしく、よく女子部員に意地悪をしてくるらしい。陽菜はいじめられる様な性格ではないし、この歳の子供ならよくある戯れなので、時折陽菜から文句を聞かされる瀬名は軽く聞き流している。
「ふんふん大変だなー…よし、勉強の続きするぞ。」
休憩時間の5分が過ぎたのを確認し、瀬名は教科書の続きを開く。陽菜はまた聞いてくれないーとすこし拗ねたまま勉強が再開するのだった。
しばらく質問ができないとあって話は盛り上がり、個人指導が終わったのはいつもより30分ぐらい遅かった。雨はやんでいたが外は暗くなっており、コンビニに行くついでに瀬名は駅まで陽菜を送っていた。
「終業式の前日は、何か特別なメニューだったりしないのか」
「んーと…コーヒーアイス出たよ。じゃんけん勝って3つ食べた」
笑顔でピースをしてくる。
「いいよな~毎日違うメニューが食べれて…俺最近自炊ワンパターンでさ。」
「コーヒーアイスはいいけどトマトアイスはムリ、あれありえんし」
たわいもない会話をしながら駅までの道を並んで歩く。信号待ちで立ち止まった時にちらっと見た陽菜の横顔は、街や車の明かりに照らされて、明るい教室で見るより少しだけ大人っぽく見えた。
瀬名はこの少女が明日から本当に充実した夏休みを過ごすことを知っている。部活、合宿、祭り…おそらく家族で旅行や海に出かけたりもするのだろう。学生時代の自分には縁のなかったこと。できることならそれを近くで見守って毎日のように報告を聞いて、その時間を共有したいのだが…とは言っても会えないのはたった3週間なのだ。講師研修から戻ってからたくさん話を聞けばいい。きっと彼女は塾では話しきれないような思い出を沢山作るのだろう。
「ミッツ、コンビニだよ」
いろいろ考え事をしていたら、いつの間にか自分の目的地に来ていた。
「じゃあ、合宿とか気をつけてな。忙しいかもしれんけど勉強もちゃんとするんだぞ。俺が帰ってくるまでに…」
「わかってるって。チャプター5までの練習問題でしょ。ミッツにも宿題あるからね。」
「へ?」
陽菜はくるりと瀬名に向き直り、いたずらな笑みを浮かべる。
「カノジョさん作ること!がんばってね~。じゃっ」
苦笑いをする瀬名を残して、陽菜は駅の改札口へ上がるエスカレータに向かって駆けていく。エスカレーターに乗ってからこっちを向いて元気よく手を振る陽菜に、少しだけ手を振り返してから瀬名はコンビニへ入っていった。

陽菜-3

瀬名が参加した清里での研修は、とても充実したものになった。研修施設は山奥の古いコンクリート造りの建物で、正直怪談スポットと言われても疑わないだろう。周りに何も無いのには少し戸惑ったが、夏到来を告げるセミの声と近くの川から聞こえるせせらぎが心地よい。普段の雑多な講師業から離れ3週間、本来の授業スキルの習得に専念することができた。また研修を受けに全国から集まった他の若手との有意義な情報交換の場ともなった。帰りのバスの中、瀬名は塾長へ提出するレポートの作成をしながら、今後の授業にどういかそうか、考えを巡らせていた。
慣れない環境で過ごしたせいか、帰ってきてから2日間は体調を崩して塾を休んでしまった。ちょうど土日をはさんだため、塾に出勤できたのは8月も後半になっていた。
同僚より少し遅れて参加した1年ぶりの夏期講習、クーラーの効いた教室を見渡すといつもの席に陽菜の姿があった。ふいに3週間前に駅でした会話が思い出される。
「残念、恋愛のれの字もなかったよ…」
瀬名はそう心の中でつぶやき授業を進めるが、陽菜の服装がいつもと少し違うことに気付いた。
「…珍しいなスカートなんて」
最近流行りだしたチェックの膝丈のものに見える。窓からの日差しが強くよく見えないが、上着もどことなく可愛らしいデザインのものを着ているようだ。陽菜ももう高学年だ。今まで親が選んでいた服を、自分で選びたいこだわりができたのかもしれない。
授業が終わると、瀬名はいつものように陽菜の席へ向かう。休憩時間ということで換気のために窓を開けたため、そこから蒸し暑い風と大通りの車の音が入ってくる。
「ミッツおひさー」
いつものようにフランクな挨拶をする陽菜。良かった、いつも通りだ。と安心感を覚えた自分に瀬名は一瞬戸惑ったが、平静を装い会話を続ける。
「試合勝ったか?」
陽菜は自慢げにピースサインを突き出す。
「おめでとう、良かった。ネットで見たけど試合結果までわからなくてさ。」
「じっさいギリだったけどね~相手のエースめっちゃ強かったし」
「坂下小だろ?すごいよ、たしか去年の地区準優勝だったよな。」
「うん、だから先生もキセキや~ってよろこんでた。」
陽菜と共通の話題を持つため、地域のバスケ事情についてはある程度調べていた。陽菜は試合で良い結果を残せたのが本当に嬉しいのだろう、自分がどんな活躍をしたのか、チームはどうピンチを切り抜けたのか、しばらく話し続けた。
「祭りはどうだった?今年は大玉上げたのか?」
その瞬間、陽菜の周りの空気が変わったように感じた。
「お祭りは…どうだったっけ…えっと、花火見れたよ」
先ほどまで瀬名を遠慮なく見つめていた瞳は少し伏せ気味になり、西日のせいか、頬が少し赤い。初めて見る表情だった。
「そう…か。去年は強風で取りやめになったからな。先生も見たかったな。」
「うん…綺麗…だった」
陽菜は膝の上で指を交差させ、さらに俯く。陽菜の周りだけ、夏の蒸し暑さとは違った火照りが見える。眩暈がする。
自分がいない間、陽菜の夏休みは充実していたようで、嬉しい。でも、目の前にいる彼女は、自分の知る陽菜だろうか。
沈黙のせいで、夕方になってより勢いを増したセミの声が耳につく。
「あ…そうだミッツ、これ、お土産」
陽菜がいま思いついたというようにカバンから取り出したのは、おそらく家族旅行のお土産だろう。瀬名はぎこちなさを出さないようにしながら受け取る。
「おお、ありがと…ってこれ去年と一緒じゃないか。」
「あはは、だってうちいつもここ行くもん」
陽菜の笑いと共に、いつのまにかいつもの教室の音に戻っていた。隣の教室ではつのまにか授業が始まっていて、別の講師の声が聞こえる。
その後、今日は用事があると言って陽菜は早めに教室を後にした。もう完全にいつもの陽菜だった。例えば何かに怒っているとか、塾をやめたくなったとか、悪い出来事を予想わけじゃない。むしろ瀬名自身は研修で成長を実感し、陽菜は充実した夏休みをおくっていて、いいことじゃないか。それでも消えない違和感と焦燥に、瀬名はむしろ自分がおかしくなってしまったのではないかと、誰もいなくなった教室でしばらく立ちすくんでいた。

研修の成果か、しばらく塾を離れて自身を客観的に見ることができたのか、瀬名は以前より大勢の生徒の前で講義を行うことに不安を感じなくなった。また、今まで自分には合わないと避けてきたいわゆる「講義テクニック」も実践できるようになり、自身でもより多くの生徒の心をつかむ講義をできるようになったと実感していた。夏期講習最終日の実力テストで、瀬名の生徒達は塾でも上位の伸びを見せ、塾長から表彰を受けた。
「ミッツ、見て、すごいっしょ」
休み明けの学校でのテストが終わると、陽菜は真っ先に結果を瀬名に見せた。1年前は想像もできなかったような良い出来。夏休み前に苦手としていた部分でもしっかり点数が取れている。
「よくやったな、陽菜、おめでとう。」
そう言って瀬名はいつものように頭をなでようとして、ふと手を引っ込めた。
「お母さんにもほめられた。これで新しいバッシュは私のものだ」
陽菜は得意げにふふーんと胸を張る。
「そうだ、陽太も来年から塾かようかも。あの子も国語以外ぜんぜんだから。お母さん、ミッツのクラスに入れさせたいって」
「姉弟で担当できるのか、それは楽しみだ。これで先生も給料上がるな。」
「そうなの?じゃあミッツも私に何かちょうだいよ、私のおかげじゃん」
「あはは…うん、何か考えておくよ。」
気軽に冗談を言い合える陽菜との関係は何も変わらない。一番仲の良い生徒であると同時に、違う立場で共に成長していけるパートナーとも言えるかもしれない。
ただ一つ、あの日から、陽菜はあれだけ面白がっていた恋愛の話をしなくなっていた。もともと彼女の年齢を考えれば実際の恋愛がどうこうというよりも、好奇心から質問しているだけだろう、と瀬名は考えていた。活発な陽菜のこと、興味が別のことに移ったとしても不思議ではない。

9月下旬になり、夏の終わりが近づいていたが、今年の残暑は体に堪えるものだった。塾長の推薦で夏休み明けから担当する授業が増えたこともあって、疲労が溜まっていた。日曜日の昼下がり、たまたま午後に担当する授業が無かった瀬名は、駅前の本屋で参考書を漁っていた。10月から更に理科も担当することになったのだが、高校卒業以来、数学以外の学問にはほとんど触れていない。生徒に教える前にまずは自ら基礎を思い出しておこうと思ったのだが、予想以上に参考書の種類が多く、どれを買うか選びかねていた。
ちょうどいい、この時間は塾からここまで歩いてくるだけで眩暈がするほどの暑さだ。夕方までゆっくり本を選ぼう… 瀬名はそう考えながら何気なく本棚の向こうに連なる信号待ちの車列を見つめる。
ふと、向かい側の歩道に、見知った顔を見つける。陽菜だ。今日は日曜日だから友達と待ち合わせでもしているのだろうか。日差しを避けて喫茶店の屋根の下に立つ彼女は、いつもの学校帰りに塾に来るときと違い、女の子らしい服を着ている。瀬名が見たことのない肩掛けのバッグを少し不安そうに握りしめ、携帯を覗きながら時折辺りを見まわしていた。
友達が来たのか、ぱっと笑顔を見せる陽菜。瀬名の視野が無意識に彼女の周りを街並みから切り取る。男の子が走ってきて陽菜の前で立ち止まる。彼は中学生か、高校1年生ぐらいだろうか。少し話をする二人。そして並んでゆっくりと歩きだした二人は、手を…

夏の断末魔のような日差しがアスファルトに反射して全方向から体を刺す。1日で一番暑い時間帯に、瀬名は一人自宅までの道を歩いていた。住宅街に入ると、時折原付が走り抜けていく以外、ほとんど人の気配が無い。
先ほどの光景が頭の中で繰り返される。瀬名には見えなかったが、きっと陽菜は幸せに笑っていた。そして今は二人で、きっと何物にも代えがたい時間を、青春を過ごしているのだろう。
瀬名が知る陽菜は、少しいたずら好きなところもあって、生意気な言葉遣いをすることもあるけれども、活発で、明るい子供だった。瀬名に欠けているものを補ってくれる存在だった。それがこの夏休み、少しだけ大人に近づいて、これからも少しずつ大人になっていくだけ。
そう、人間はみな成長していくのだ。特に大人から見た子供の変化は目まぐるしい。色々な人との関わりの中から時に喜び時に傷つきながら成長していく。
言うまでもなく、自分が陽菜にとって塾の先生以上の存在でないことはわかっていたし、それを変えたいとわずかでも思ったことは無い。そして自分がすべきことは決まっている。これからも塾の先生として陽菜の学習面をサポートし、彼女の成長を見守っていくのだ。そして自身は、生徒たちとの触れ合いを通して更に講師として成長していくべきだ。
瀬名は、自分が何に動揺しているのか、なぜあの光景を見たとき、選びかけの参考書を元の場所に戻すこともせず適当な場所に押し込み、その場所から逃げ出したのか、答えを見つけようとした。しかし、うだる暑さの中、息苦しさは加速していき、世界は色を失っていった。

気づくと、アパートのドアの前で、仰向けになってもがくセミを見つめていた。
…陽菜は、もう子供じゃない。そしていつか大人になる。絶対に、止められない。
汗が、既にびしょびしょになったシャツの中で肌を這う。溢れた汗が前髪から落ち、重力に逆らえずに地面にたたきつけられる。
…陽菜は自分から望んで変わった?…違う、まわりの人間に、大人に、変化を止められない身体と心に飲み込まれただけだ…
今まで彼女を守っていると思っていた世界が、どす黒く変色していく。成長という響きの良い言葉で目をくらまされ、見えなくなっていた。自分たちが歩いている道が、どこへ続くのか。
…俺は、陽菜にそのままでいて欲しかった。でも、それは叶わないことだから、俺自身を騙すようになっていた。
セミはもう動いていない。
…本当は、嬉しくなんかない。今の陽菜には何も望まない。あれはもう陽菜じゃない…
ドアを開けると、カーテンを閉め切って作られた暗闇がこちらを向く。
「なぜ、みんな大人になることを受け入れてしまうんだ?」

陽太-1

午後の授業が終わり下校時間になると、陽太はランドセルを背負い、巾着袋を手に持ち席を立つ。周りでは同じようにクラスメイトが自分の机を片付けたり、一緒に帰ろうと声をかけ合っている。
持ち物ちゃんと持ったっけ…
そう思い机の中をのぞくと、いつか使い捨てた消しゴムがひとつ残っているだけで、必要なものはこの重いランドセルに全て入っているようだった。
歩き出そうとすると、後ろの席で日直日誌をつけていた友達に声をかけられる。
「陽ちゃん、またね」
「うん、また…」少し間をおいて陽太は言葉を続ける「来週ね」
「えっ、あっそうか、明日って最後の金曜日か」
「ヒサくんはお父さんとお母さん、帰ってくるんだっけ」
「うん3か月ぶり。やっぱり日曜の夜には戻るみたいたけど」
「来週また話聞かせてね」
「おっけ、月曜日の調理実習、材料忘れないでね」 と手を振る友達に手を振り返して、陽太は教室のドアを出た。
騒がしい校内を出ると暖かい日差しと少し冷たい海風を肌で感じる。たまに車が通り過ぎたり、ベランダで誰かが洗濯物を取り込んでいるのを見る以外、ほとんど人気がなく、町は昼過ぎの気だるい空気に包まれていた。町の図書館までは歩いて20分ほどの道のりだが、途中の商店でおやつを買い、堤防で海を見ながらそれを食べることが彼の日課になっているので、それよりも10分ほど余計にかかる。図書館に着いたときには15時を少し過ぎていた。
図書館の鍵は少しわかりにくい。家やその他の鍵と見た目があまり変わらないのだ。わかりやすいようにマジックで「としょ」と書いたのだがそれもだいぶ消えてきて、結局これだと思うものをいくつか試してようやく開けることができた。
おそらく50年以上はそこにある図書館は、コンクリートでできた白い建物で、扉にある「八潮村図書館」という字はもうほとんど読めないほどに塗料がはげていた。海からは少し離れた高台に建っていて、海風の匂いが運ばれてきたり、カモメの鳴き声が時折聞こえてくることはあるが、どの窓からも海が見えることはない。
ふぅ と息を吐きランドセルを受付の上に置き、巾着袋の中から先ほど買った飲み物を取り出す。1週間ぶりに開けた建物の中はヒンヤリとした空気と本のにおいに満ちていて、まずは換気をすることが陽太の最初の仕事だった。
建物を開けてから10分ぐらいした時、入り口のほうで誰かが入ってきた気配がした。こんこんとスリッパに履き替える音がしたので誰かはすぐわかる。
陽太は今月のおすすめリストを準備して入り口のほうに体を向け座りなおす。来訪者が入ってきた瞬間、
「こんにちは、瀬名さん」と声をかけた。
瀬名と呼ばれた人物は無精ひげを生やし、よれたYシャツとスラックスを履いた男性だった。年齢は20歳後半といったところで、よく言えば易しそうな、悪く言えば少し頼りなさそうな雰囲気を纏っている。彼は陽太へにこやかにお辞儀を返す。
「今日はどの本にしますか?」
そういいながら陽太は瀬名へA4の紙に印刷されたリストを渡す。
「ありがとう。うん…そうだな、えっと」
瀬名は受付前の椅子に腰掛けじっくりとリストを眺め始める。
1年ほど前、初めて瀬名がこの図書館に来たとき、何かいい本は無いかな、と漠然と聞かれたのが始まりだった。その時、陽太もちょうど図書館で働き始めたばかりで蔵書を把握しておらず、また初対面の人の好みがわかるはずもなく、困ってしまった。そこでたまたまその時自分が気に入っていた本を薦めたのだが、それが偶然瀬名の好みにも合ったらしい。以来陽太は、自分が読んで面白かった本を簡単な説明と共にリストにして渡すことにしていた。
「今日は…」瀬名が口を開く「この『赤いマーメイド』はどんな話なのかな」
リストの一番上に載せた本を指してリストを返す。
その本は先月新刊としてこの図書館に届き、ファンタジー好きの陽太はすぐに読んだのだが、とても面白く是非瀬名にも読んでもらいたいと思っていた。
「この本はですね、人魚の話で…話は伝説に沿って進むんですが、舞台が現代になっているんですよ、それで」
うれしそうに本の説明をする陽太を見ながら瀬名はうんうんと相槌をうつ。やはり本の話をしている時が彼の瞳は一番輝いて見えるのだ。
「…でも最後は伝説とは違って現実的な終わり方になるんですよね、そこが意外で…普通のファンタジーにひとひねり加えた感じなんです。とにかく、おすすめなので、どうぞ。」
陽太は自信満々という風に本を瀬名に渡す。
「ありがとう、じゃあこれ借りてくね。また…しばらくここで読んでてもいいかな」
「もちろんです。今日は5時ぐらいまでは開いてます。」
「そっか、助かるよ。」
そういいながら瀬名は図書館の隅の席に腰を下ろした。こうやって開館と同時に来て、本を借りて、しばらく読んでから帰るというのが彼の普段の行動だった。
来たときよりも少し風が弱くなったらしい。カーテンの動きが無くなって、波の音や浜辺で遊ぶ子供たちの声が時折はっきりと聞こえてくる。日は傾き、瀬名が座る机の表面をいくつも細く窓の形に分かれた光が、それでもまだくっきりと照らしていた。
陽太も受付に積まれた新刊の中から1冊を選び開く。今日は他に誰か来るだろうか。康介たちは漁協の手伝いと言っていたし、山崎のおじいさんは先週山に入ると言っていた。おそらく誰も来ないだろうか。そんなことを考えながら瀬名を見る。
この静かな図書館の中で、夕方までの間、お互いに離れた場所に座りほとんど言葉を交わすことは無いけれど、二人で本を読みふける時間が、陽太は好きだった。そして瀬名も同じように思ってくれていることを心のどこかで期待していた。
いつの間にか窓からの光が赤く染まっていた。学校で鳴る5時を告げるチャイムが町中に反響している。
「どうでしたか?」
本を肩掛けの鞄にしまい、席を立つ瀬名に陽太は問いかける。
「すごく、面白かったよ。良くある昔話かと思ってたら、途中から話が複雑になってきて…深読みするのが面白くて、まだ2章までしか読めてないよ。」
「良かったです。」
「やっぱり陽君の目に狂いは無いね。汐見町の本ソムリエだ。」
そう言いながら瀬名は貸し出しカードを陽太に渡す。
「えへへ、ありがとうございます…どうぞ。」
陽太は少し照れながら司書印を押してカードを返した。じゃあまた来週、とお互い挨拶をしてから瀬名は図書館を後にした。
司書としての1日の締めくくりとして、窓を閉め日誌をつける作業を進める。日誌には日付、天気、本館への連絡等の項目があるが、そこには事実をありのまま記すだけだ。でも陽太は最後の「その他備考」欄には彼なりにこだわりを感じ、毎回何かしら気の利いたことを書こうとしていた。
「今日は…うーん…」
少し考えて ソムリエの称号をもらう と記入した。

次の日、月の最後の金曜日は、図書整理の日と決まっていた。陽太は学校を休み、朝から図書館へ向かった。この街では殆どの大人ー労働力となる15歳ごろから70歳ごろまでーが海の向こうへ長期の出稼ぎに出ているため、街の中の大人が極めて少ない。そのため子供が職に就くことも決して珍しくなかった。本が好きだった陽太は本に関わる仕事を希望し、週に1,2日だけこの殆ど来訪者のいない図書館の管理を任されていた。
まだ暗いうちに誰もいない自宅を出発し、海岸沿いの道を歩く。肩にかけたバッグには早起きして作った弁当が入っている。しばらく歩くと空は水平線辺りから赤く色づいてきて、港から沖へ向かう船のエンジン音が聞こえ始めた。陽太はこの街の海が好きだ。波はいつも穏やかで透明度が高く、どの時間に見ても心が落ち着く。
図書館につく頃には辺りはだいぶ明るくなっていたが、建物の陰になった林は薄暗いままで、すこし不気味だった。今日は正面玄関を開ける必要は無いので、裏口から鍵を開けて入る。
やることは主に三つ。館内の掃除、新しく届いた本を正しく分類して蔵書へ追加する作業、もう一つは書架に並ぶ既存の蔵書を整理する作業だ。5月とはいえ、午後になって身体を動かしていると少し汗ばむので、まず館内の掃除から始める。利用者は少ないので汚れもなく掃除自体は簡単だが、建物の隅から隅まで一人で行うので時間がかかる。休憩を取りながら全ての掃除を終えた頃、時計は既に正午過ぎを指していた。
弁当を食べて一息つくと、先週届けられた荷物を開封した。今月の新刊は10冊ほど。それの一つ一つにこの図書館での整理番号を付け、正しい書架に入れていく。そう聞くと簡単な作業に思えるかもしれないが、整理番号は本のジャンルと結びついており、単純に一つのジャンルに当てはまる本ばかりではないため、見つけやすさや優先順位をよく考えて分類しなければならない。
「『ホテルマスカレード殺人事件』…これはわかりやすいな。ミステリ小説で…著者は…」
「『1年の季語辞典』…普通に考えれば大分類が文学で、中分類が詩歌だろうけど…趣味の棚に入れたほうが目に付きやすいかな、うーん…」
分類対応表や、現在の蔵書の配置を見ながら1冊毎にラベルを貼り付けていく。
最後の1冊の本に目が留まる。題名は「夢を科学する」 要約を見ると、ある大学教授が書いた本を新書として再販したもので、人間が寝ている間に夢を見る理由を脳科学の視点から一般にわかりやすく解説したものらしい。小学生の陽太には正直難しすぎる内容なのだが、この本に関心を持ったのには理由があった。陽太には時折みる夢があった。暗闇の中、ぽっかりと空いた大きな円、そこを覗くと見えるのは美しい水に覆われた惑星。その色は次第にくすんでいき、青は茶色に濁り、白は灰色に、緑は赤黒く染まる。そして目が覚めると瞼は赤く腫れ目には涙が溜まっているが、夢を見ている間は感情を感じない。まったく覚えのない光景で、その星の名前もわからないのだが、繰り返すその夢に何か意味があるのでは、と思っていた。
夢のことが何かわかるかも、と考えた陽太は作業を一時中断してその本を読み進める。本によると、夢を見る理由として主に二つの仮説があるらしい。一つは現実に経験したことを記憶するため、もう一つはそれを記憶から抹消するため。どちらにしても、記憶を整理整頓するプロセスが睡眠中に行われており、それが夢となって起きたときに思い出される。そして記憶するにしろ、忘れるにしろ、その対象は自己に影響の強い出来事であり、記憶の整理によって脳はその影響への対処を試みている、と筆者は結論付けていた。であれば、夢での悲しい光景は現実の出来事であり、自分はそれについて何かをしなければならない、ということになる。
幸い今月は新刊の数が少なく、時間が余りそうだ。その本を更に読み進めるため机に移動しようとした時、正面玄関のインターホンが鳴った。今日は閉館と看板が出ているのに誰だろう、そう思いながら陽太はインターホンに出る。
「はい、受付です。」
「陽太君かい、こんにちは。」
「瀬名さん!?すいません、今日は図書整理の日で…」
「忙しいときに悪いね、息抜きに付き合ってもらえるかな?」

陽太-2

図書館以外で瀬名に会うのも、彼の車に乗るのもこれが初めてだった。
「ちょっと近くを通ってね、たまには本以外の話もしたいと思ったんだ。迷惑だったかな?」
「いえ、そんなことないです、ちょうど作業もきりが良かったので」
陽太は少し緊張して答える。
この町は海岸沿いの山と海に囲まれた狭い土地に広がっていて、人口は1000人に満たない。出稼ぎにより、そのほとんどが子供か高齢者で、瀬名ぐらいの年齢の大人は学校の教師やその他の子供にかかわる職業として数えるほどしかいない。しかし瀬名に学校や町で会うことはなく、以前から何の仕事をしているのか不思議に思っていた。
車は町から離れて海沿いの道を進んでいく。
「陽太君は本当に本が好きなんだね、いつも真面目に働いていて本当に偉いよ。」
「図書館みたいに、本がたくさんあるところってとても落ち着くんです。僕、記憶に障害があるみたいで、あまり小さいときのことって思い出せないんですよね。でも本に囲まれていると、その分の隙間を埋めてくれてる感じがして…うまく、言えないです。」
「そっか…でも、そうやって好きなことがあるのはいいことだよ。」
「瀬名さんは、なぜいつもあの図書館に?もしかして、お仕事の休憩時間…とかでしょうか。」
「うーん、陽太君に会うため、かな。むしろあの図書館で君と時間を過ごすことが僕の仕事だからね。」
陽太とは反対側の海の向こうを見ながら瀬名はそう答えた。
自分に会うために?陽太にはよく意味がわからないが、それでも図書館でのひと時を瀬名も気に入ってくれていたとわかり嬉しくなる。
「あはは、ちょっと変なことを言ってしまったかな…忘れてくれていいよ。でも、君は本当に素敵な司書さんだ。これからもずっと、あの場所を守っていてほしい。」
瀬名がここまでストレートな物言いをする人物だとは知らなかった。褒められて悪い気はしないが、正直少し照れくさい。
「はい、いつかちゃんと司書の資格も取って、あの図書館でいろいろとやってみたいことがあるんです。今はあまりみんなに知られてないですけど、もっと町の人にも来てもらいたいです。」
「そうだね、その時は是非僕も参加させてよ。協力する。」
陽太は本来おしゃべりな方ではないけれども、瀬名の前では本の魅力や、自分の夢をつい時間を忘れて語ってしまう。自分と同じで大人しい人だと思っていたけれども、瀬名の言葉には、人をやる気にさせる不思議な力がある。そう陽太は感じていた。

車を駐車場に止め外に出ると、誰もいない広い砂浜が目の前に広がっていた。岬ひとつ隔てた海岸線からは近代的な船のターミナルが海に伸びていて、周りの素朴な風景と少しアンバランスな感じだ。月に1回、大人たちを乗せた船が発着する時以外使われることがなく、今もその上で羽を休めているうみねこ以外、動くものはいない。
「夕日が綺麗で、時々ここまで来るんだ。」
そう言いながら、瀬名は堤防に腰を下ろす。
「陽太君は、本のほかに好きなものはあるのかい?」
「好きなもの…とは少し違うかもしれませんが、料理とか掃除とか…家事をするのは楽しいです。」
「小学生なのに偉いね、じゃあ今度何かご馳走してもらおうかな。僕はそういうのは下手でいつも適当にしてしまうから。」
「両親は留守で一人っ子だから自分でやるしかないんです。料理も、晩御飯の時間にウチに来てもらえばいつでもご馳走できますよ。」
図書館以外でも瀬名と会う時間ができれば、もっと本の話ができる。それにいつの間にか、本と関係のないことでも、瀬名ともっと時間を過ごしたい、そう思っている自分がいた。
「ずっとそうだったのに、家で一人でいることが寂しくなるときがあるんです。兄弟がいればいいのに、って…」
「兄弟、か…」
急に瀬名は陽太から目をそらし、水平線を見つめた。これまで見たことのない、悲しそうな表情で。
「瀬名さん?」
「いやごめん、何でもないんだ。」
すぐにいつもの柔らかい笑顔を見て、陽太は安心する。先ほどの表情は見間違いだったのかもしれない。
太陽は既に水平線に近づいて、空の色が変わり始めている。風が少し出てきたようで、ウミネコ達が、海に浮かぶ岩のまわりをぐるぐると飛び交っている。
「長居してしまったね。図書館に帰って、残りの仕事を手伝うよ。」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。あとは書架の整理だけだったので、来週またできます。」
二人は立ち上がり、堤防の上を駐車場に向かって歩いていく。
「今日はゆっくり話ができて良かったよ、またどこかへ誘ってもいいかな。」
「はい、もちろんです。でも、瀬名さんって、結構積極的な人なんですね。意外です。」
「あはは…いつもはそんな事ないんだけどね。今日はつい、グイグイ喋ってしまった…」
照れくさそうに苦笑いをして瀬名は答える。
「じゃあ、その勢いでもう一言だけいいかな。」
瀬名は陽太の方に向き直り、少し改まった口調で続ける。
「陽太君、僕は今、この静かな町で暮らして、毎日海を眺めて、時々君の図書館に行って本を読んで、こうやって君と時間を共有している、この世界が好きだ。」
二人の間を冷たい海風が駆けていく。
「君は、どうなのかな。」
瀬名の一見優しいが、強い意志のこもった視線に、陽太は動けなくなる。でも、正直に自分の気持ちを伝えなければ、と思い口をあける。
「僕は…僕も好きです。」
それを聞いた瀬名はふっと微笑み、こう答えた。
「良かった、それが聞きたかったよ。」

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「陽ちゃん、おはよう。」
「おはよう、ヒサくん。土日はどこかいけた?」
3日ぶりの学校。子供たちのおしゃべりで教室はにぎやかだ。
「それがさ、二人とも帰ってこれなくて…」
「えっ、そうなの?」
「定期便にトラブルがあって、出航できなかったらしいんだ。久しぶりに家族で過ごせるって、姉ちゃんと楽しみにしてたのに…」
久史は悲しそうにうつむく。陽太もだいぶ長い間両親に会っていないような気がする。
「電話したんだけど、それも繋がらなくて。あとでメールが来たんだけど、向こうで他にもいろいろ問題が起こって、今すごく忙しいみたい。」
「そうなんだ…」
「なんかさ、前の方が良かったって、陽ちゃんは思わない?」
久史は椅子の背もたれに顔を載せ、不満そうに陽太を見つめる。
汐見町は元々、こじんまりとした街だった。人口が少なく皆つつましい生活を送っていたため、町内の産業で経済が完結し、食料の大部分が自給自足できていた。それが1年前、外に良い仕事があるという噂が広まり、大人が仕事で町を離れるようになった。最初は一部の大人だけがせいぜい1、2週間家を空けるだけだったが、そのうち高校生ぐらいの若者までが数ヶ月に渡って仕事に出るようになり、町からは人が消えていった。
親からは毎月多額の仕送りが来るし、陽太達よりも小さい子供には保育士が面倒を見る制度が作られたため、生活に不自由することは無かったが、両親と会えない子供たちの不安は消えなかった。
「ヒサくんはよく家族で山登り行ってたもんね。僕は…あんまり家族で何かをしたことないから、正直わからないや。」
「陽ちゃんはしっかりしてるからなー。仕事がんばってるし。転校してきたときより今の方がずっと元気だよな。」
陽太は2年前、4年生に進級したのと同時に3人家族でこの町に越してきた。とは言っても両親は既に家を留守にすることが多かったため、最初から一人暮らしのようなものだった。引っ越す前のこと、そして引っ越して最初の1年のことはあまり覚えていない。ただ、心にぽっかりと開いた穴があって、でもそれが何故できた穴なのかわからず、もがき苦しんでいたのを覚えている。新しい環境を受け入れる気力も無く、学校でも誰とも話さずぼーっとしていることが多かった。しかし、図書館での仕事を始めてからは、その喪失感も次第に薄れていき、自然と学校でも友達を作れるようになった。
「ヒサくんも何か仕事してみれば?康介くんって言う、4年生の子が図書館にときどき来るんだけど、漁協で手伝いしてるんだって。」
「仕事かぁ…それならウチの店手伝いたかったのに。父さんも母さんも、なんであんなに遠くに行っちゃったんだろう。」
「うん…そういえばヒサくんちの八百屋さん、僕が一人暮らしで大変だからって、よくおまけしてくれたっけ。」
チャイムが鳴ると教師が入ってきて、子供たちは自分の席へと戻っていく。
少し開いた窓から心地い風が入り、カーテンが揺れている。陽太はこの町に着いた日のことを思い返す。目の前に広がる、時間が止まったような青い海と空、見慣れぬ町と人。それまで当たり前だと思っていた人と場所を急に失ったという感覚。でもそれらが何だったのかを思い出せないもどかしさ。毎日が充実していて場所を忘れてしまっただけで、今も心のどこかに埋められない穴がある。
「小海くん、大丈夫?」
急に隣の席のクラスメイトに声をかけられ、我に帰る。何故だろう、教室が、滲んでいる。
「あれ…僕、なんで…」
目に手をやると、知らないうちに涙があふれていた。あの夢を見たときと同じように。

陽太-3

あれから瀬名とは更に打ち解け、図書館以外でも頻繁に会うようになっていた。週に数回、瀬名が陽太の家に来て、晩御飯を一緒に食べ、そのお礼として陽太に勉強を教えてから帰っていく。陽太は読書は好きだが、学校の勉強となると勝手が違い、特に算数は苦手だった。
「円の面積を求める公式は覚えたんです。だから1ページ目はできたんですけど、5番からの変な形の求め方がわからなくて…」
陽太は午前中に学校で配られた宿題のプリントを瀬名に見せる。見ると、確かに単純な円の面積を求める問題はできていたが、円を分割したり、四角や三角などの他の図形と組み合わせた面積が難しいようだった。
「うん、見たことない図形だと余計にわかりにくいよね。まずはこうやって、陽太君が知ってる形に分けていったらどうかな。」
瀬名はそう言いながら、プリントの図形が二つの半円と一つの正方形に分かれるように線を引いていく。
「あっ、そうか。じゃあ円の面積の半分と、この正方形と…?」
「それでもいいし、この半円とこの半円を一緒にすると、1個の円になるだろ?」
「ほんとだ、じゃあ半分しなくても、普通の円と正方形の面積を足せばいいんですね。」
陽太は覚えたばかりの公式を使ってゆっくりと、でも確実に計算をしていく。
「7番は少し難しいかな。わかる?」
瀬名が指さした図形は、三角の中に丸がぴったりと収まり、三角と丸の隙間の面積を求めるというものだ。
「う~ん、さっきみたいに線を引いて分けたいんですけど…」
「これは実際に紙で作った方がわかりやすいと思うよ。」
瀬名は近くにあったチラシをハサミで切り、三角と丸の形をした2枚の紙を作る。
「こうやって二つの図形が重なってるってことだろ?二つとも陽太君が知っている図形。それで重なっているところ以外を求めればいいんだから…」
「わかった、三角から丸を引けばいいんですね。」
「そうだね。テストでも、おそらく図形の形に切った紙を使っていいことになると思うよ。だから、今の手順で落ち着いて考えていけば大丈夫。」
今まで難しいと思っていた問題が、見方を変えてみれば簡単に解けることがわかり、陽太は嬉しくなる。
「なんだか、瀬名さんって先生みたいに教えるのが上手ですね。」
「そうかな…」
「ううん、先生より上手いかもです。実は今教えてもらったところも、学校の先生には聞いたんですけど、よくわからないままで…でも瀬名さんと勉強してるとこんな簡単なことだったんだな、って。」
「学校の先生は、どうしても授業以外の仕事が多くて、生徒一人一人の特徴や得手不得手まで把握できてないことが多いからね。」
瀬名はもう少し陽太に慣れてもらおうと、ハサミで色々な形の図形を作っていく。
「陽太君は本を沢山読んでて想像力があるから、文章や公式の丸暗記より、なるべく絵で考えた方がいいと思うよ。図形の面積でも計算問題でも、絵を描いてみると分かりやすくなったりするから。」

宿題がすべて片付くころには外はすっかり暗くなっていた。二人は陽太の家から通りへ出る坂道をゆっくり下っていく。街の明かりはまばらで、建物の合間から少しだけ、遠くに黒い海が見えている。
「初めて陽太君の図書館を訪れたとき、ちょうど去年の今ぐらいの季節だったけど、君は今よりも物静かだったね。」
「もしかして、今の僕は、すこしうるさいですか…」
「あはは、そういう意味じゃないよ。」
真面目に心配していた陽太が少し面白く、瀬名は笑ってしまう。
「でもいい変化だと思う。きっと今が本当の陽太君なんだよ。」
陽太は少し先に進んでから、瀬名の方を向き直り、おじぎをする。
「ありがとうございます、瀬名さん。」
「え…」
瀬名は突然の感謝に戸惑う。
「なんだか、瀬名さんが図書館に来てなかったら、僕こんなに元気になってない気がするから。」
手を後ろに回し、少し首を傾げて陽太は微笑む。月明かりで優しく光るその瞳を見て、夜の海の色だ、と瀬名は思った。
くるりと前に向き直り、歩き始める陽太。わずかだが風に潮の匂いが混じる。瀬名は目を閉じて軽く深呼吸をしててから陽太の後を追う。
坂を下りると、そこには錆び付いたバス停の看板があり、そこが二人の別れる場所だった。
「じゃあ、また。明後日はこの前の本を返しに図書館に行くよ。」
「はい、待ってます。あ、そうだ…」
陽太は目線を逸らして迷うようなそぶりを見せてから、俯いて瀬名に小さな声で告げる。
「こんど、瀬名さんの家にも…行ってみたいです。」
瀬名は少し驚いたような目をしたが、すぐに元の優しい笑みを浮かべて答えた。
「…そうだね、いつか来てもらえると嬉しいな。」
笑顔で大きく手を振って見送る陽太。彼は最後の瀬名の笑みに悲しみが混じっていたことに気づいていなかった。
瀬名は角を曲がる前にもう一度手を振り返してから、堤防沿いの道を歩き出す。真っ黒に塗りつぶされた海は、時折月の光を反射しながら、低い波音をたてている。
…きっと…きっと彼は変わらずにいてくれる。理想を隠して、現実では不条理を受け入れるしかなかったあの時とは違う。もう、理想は現実になった。
顔をあげ、遠くの灯台を見つめる。
…今度は、絶対に失わない。

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次の日の夜、陽太の家の台所は、野菜と肉の甘い匂いに満ちていた。緑色のエプロンを付け、鼻歌を歌う陽太。大きな鍋には4人分はあるだろう肉じゃがが、ぐつぐつと湯気をあげている。じゃがいもに串を通し、抵抗なくすっと貫通することを確かめてから火を弱める。醤油を少しだけ入れて味を見る。小海家の肉じゃがは砂糖とだしが主役で、醤油はあくまでも脇役なので慎重に量を決めなければならない。口に含んだ汁をしばらく味わい、陽太は呟く。
「…ちょっとだけ塩入れよう…」
普通の肉じゃがは砂糖と醤油だけで甘辛さをだすのだが、この肉じゃがは醤油が少ない分、その日の材料の配分によっては味に締まりが足りないことがある。そういったときに二つまみほどの塩を入れると全体の味のバランスがとれるのだ。
「うん…これぐらいかな…」
もう一度味見をして満足すると、陽太はテーブルの上に容器を並べ始める。1つは明日図書館で食べる弁当箱、1つは明日の晩御飯として冷蔵しておくためのタッパ、もう1つはゴムパッキンと大きめの金具が付いた丸い容器だった。
今日の授業の復習をしていると20分ほどの煮込みもあっと言う間だった。まだ湯気が止まらない鍋の中身を、容器ごとに量を調節しながらそれぞれの容器に流し込んでいく。最後の丸い容器は特に、全ての材料がバランスよく入るよう、そしてその材料が汁に均等に浸かるよう、丁寧に入れていく。蓋をして金具を締め、少し傾けて中身が漏れないことを確認すると、陽太はよーし、とうなずき笑顔を見せた。
今晩の分だけ残した鍋をコンロに戻し、後片付けを簡単に済ませる。丸い容器は安定して持ち運べるように無地の紙袋に入れた。エプロンを外し、椅子に掛けてあったパーカーを羽織る。その上に小さめのボディーバッグを背負い、紙袋を持つ。既に暗くなった外に出ると、日中降っていた雨は上がり、月も時折雲の隙間から姿を見せていた。まだ舗装や草木は濡れていて、空気も冷たい。
…瀬名さん、いるかな…もしいなかったら、明日お弁当として持っていこう。
陽太が瀬名の家を知ったのは今週の初めだった。下校の途中、夕食の材料を買いにスーパーに寄ったのだが、いつもの店が臨時休業で閉まっていた。汐見町にはスーパーは2つしかなく、もう1つの店は遠いためほとんど行ったことがない。いつもであれば諦めて翌日にするのだが、ちょうど食材を切らしていたため、20分かけてその店まで歩いた。その帰り道、偶然、赤いトタンに覆われたアパートの2階に入っていく瀬名の姿を見たのだ。
…でも、いきなり行って迷惑だったりして…
今更、不安がよぎる。でも、今まで家に来てくれるのも、出かけに誘ってくれるのも、いつも瀬名の方からで、自分はその気持ちを受け取るだけだった。自分から動いてみたい、いつもとは違うことをしたい、そうしたら瀬名さんはどんな顔をするんだろう。その気持ちが足を動かした。
…ちょっと甘めの肉じゃがだけど、おいしいって思ってくれるといいな。
これからのことを考えると、手の振り方は自然と大きくなり、足取りも軽くなる。しかし紙袋の中身のことを思い出し、しまったというように立ち止まり、また静かに歩き出す。それを繰り返しながら、陽太はぽつぽつと明かりが灯る夜の街を進んでいくのだった。

山を背にして少し高台に建つアパートの周りは街灯が少なく、トタンの壁は昼間見た時より黒みがかってほとんど茶色に見えた。切れかかった蛍光灯が点滅しながら断続的に音を立てるのを見て、先ほどまでの浮かれた気持ちが夜風で冷めていくのを感じる。陽太はなるべく足音を響かせないように気を付けながら錆び付いた階段を上り、2階の一番奥の部屋へ近づく。
ドアの上にある窓から明かりが漏れているのを見て陽太は少し安堵した。「204 瀬名」と表札もあり、やはりここが彼の家の様だ。陽太は緊張した面持ちでインターホンを鳴らす。故障しているのか、チャイムは聞こえない。ドアに耳を近づけると、微かにラジオのような音が聞こえる。
…出かけてるのかな…
陽太は紙袋をドアノブにかける。明日弁当として持っていってもいいと考えていたが、やはり暖かいままで食べて欲しい。それに、おそらく近くに軽い買い物をしに行っているだけで、すぐに戻ってくるような気がしたのだ。バッグに入れてあったメモ帳を1枚ちぎり簡単に瀬名への伝言を書こうとしたとき、紙袋の重さのせいか、風で押されたのか、ドアがキィと音を立てて少しだけ開いた。
「あ…」
中から明かりが漏れ、細い光が陽太の足元にのびる。鍵がかかっていないということは、中にいるのだろうか。
「…こんばんは…」
陽太は開いたドアから顔を覗かせ、小さな声で呼び掛けてみたが返事はない。玄関には電気が点いているが、廊下の先にある部屋は暗く人の気配が感じられない。やはり料理を置いて帰ろう。そう思ってドアを閉めようとしたとき、ふと足元に置かれた靴が目に入る。2つはおそらく瀬名のものだろう、黒い革靴と茶色のサンダル。もう1つは白地に赤色のラインが入ったスニーカーなのだが、サイズからして陽太よりも僅かに小さな子供用に見える。かかとの部分にマジックで書かれた名前を見つける。
「小海…。えっ…?」
自分の名字が書かれていたことに驚き、陽太はしゃがみこみスニーカーを近くで見つめる。よく見るとしっかりとした作りで、何かの競技用だろうか。あまり傷や汚れは無くほとんど新品に見えるが、埃をかぶって色が褪せており、長い時間ここに置かれていたようだ。
…なんで瀬名さん、僕の名前が書いた靴なんて…
気になるが、玄関の中に入ってしまったことに気付き、慌てて外に出ようと立ち上がる。すると先ほどまでは見えない角度にあったもう一つの部屋の扉が視界に入った。そこには緑のアルファベットで「HINA」と書かれた木のプレートが掛かっていた。

陽太は躊躇なく玄関を上がり、廊下の奥へ足を進めていた。
「…7月19日の気象情…をお伝えし…  明日から…夏休み…行楽地ではおおむね…」
廊下のつきあたりにあるドアは半開きになっていて、暗い部屋の中からは明るいアナウンサーの声が途切れ途切れに聞こえていた。その前を通り過ぎ、プレートがかかった部屋の前に進んでいく。その部屋の中を見なければならないという衝動に押されて。自分の胸にある空虚を埋めるものが、そこにあると確信していた。
勢いよくドアを開けた陽太が見たのは、窓から差し込む弱い街明かりに照らされた、何の変哲もない部屋だった。教科書が無造作に積まれ文房具がちらばる勉強机。白の羽毛布団と薄いピンクの枕が載った小さめのベッド。コート掛けに蓋が開いたままぶら下げられた赤いランドセル。壁に貼られたバスケットボール選手のポスターと、壁に掛けられた白地に赤いラインの入ったスポーツウェア。まるで時間が止まったかのように、全てが静かに存在していた。陽太はゆっくりと部屋に入り、勉強机の棚に置かれた写真立てを見つめる。幸せそうな家族写真。夏休みの旅行先で撮ったのだろうか、父親と母親、そしてその間に立つ陽太と同じぐらいの歳の少女と…今よりも少し幼い陽太自身の姿。
急に陽太の周りの世界がセピア色に変わる。窓の外には青空、高いところに薄く広がる雲、視線を下に移すと僅かだけ葉を残した庭木があり、その向こうに拡がる住宅街。
…ここ…僕の家だ…
後ろを振り返ると、先ほど歩いてきた瀬名の部屋の廊下があるはずの場所に、階段の踊り場があった。音が聞こえてくる。
「おーいもう出発するぞ。」足元から響く男性の声。
「陽菜、準備して…あら、陽太は?」女性の声が続く。
「まって、まだ降りてきてない。連れてくる!」そう応えながら勢いよく階段を昇ってくる少女。
そのまま部屋の中の陽太には気づかず隣の部屋に走っていく。
「あーまた本読んでるし。お昼食べたら行くって言ったじゃん。」
「お姉ちゃん、僕、これ読んでるから、行きたくない…」
「だーめ。ほら、ちゃんとマフラーと手袋して。」
「え~おもしろかったのに…」
少女はぐずる少年の手を引いて、階段を駆け下りていく。
…そうだ、僕、お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと、ここに住んでた…
記憶が蘇ってくる。大きな庭付きの家、優しい両親、バスケットボールが好きで活発な2つ上の姉、溢れるほど好きな本を並べた自分の部屋、毎年夏休みに旅行に行っていた高原…。同時に気付く。汐見町に引っ越してきてから両親も姉も「いなく」なったこと。
…なんで僕、忘れて…
立つことを忘れ、膝から崩れ落ちる。頬を涙が伝った。
「陽太君」
突然、後ろから声をかけられる。振り向くと、部屋の入口に瀬名が立っていた。気が付くと世界は元の色に戻り、ずっと瀬名のアパートにいたことを思い出した。廊下からの光で逆光になった瀬名の表情はよく見えない。
「瀬名さん…僕…ごめんなさい、料理を…食べて欲しいと思って…それで…」
勝手に部屋にあがってしまい、びっくりさせただろう。悲しい気持ちを抑えて、俯きながら言葉を絞り出す。
「大丈夫かい?」
優しい口調に、少しだけ気持ちが落ち着く。
「はい、あの…勝手に入って、すいませんでした。」
かすれた声で答えると、瀬名はゆっくりと部屋に入ってきた。手には陽太が持ってきた紙袋を持っている。
陽太が顔を上げて瀬名を見たとき、壊れたビデオテープのように記憶が断続的に再生され始めた。記憶の中の部屋には夕日が差し込み、部屋に入ろうとする瀬名の手には鈍い光を放つものが握られている。ひどい頭痛を伴って、暴力的に流れる記憶が現実を塗りつぶしていく。
「いやだ…だれ…来ないで…」
腰を床につけたまま、瀬名から遠いほうへと後ずさる。腕とひざが震えて上手くカーペットを捉えられない。
「陽太君、落ち着いて、怖がらないで。」
瀬名が冷静な声で言う。現実の瀬名か、記憶の中の彼か、どちらが喋ったのか陽太にはもう区別がつかない。
背中がベッドにあたり、ふいに陽菜がまだベッドで寝ていることに気付く。
「お姉ちゃん!おきて、お姉ちゃん…!」
力任せに陽菜の身体を揺さぶる。起きない。重くて冷たい身体。その内彼女を覆う羽毛布団に、赤黒い染みが広がっているのに気づく。
そこでふっと気が遠くなり、陽太は羽毛布団を握りしめたままカーペットの上に倒れこんだ。後に残ったのは暗い静かな部屋と、死んだように眠る陽太を見つめる瀬名だった。

【連載】成長

【連載】成長

大人になることの是非。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-07-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

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