インソムニア

インソムニア

 マーブル柄状に混り合う夢と現の狭間を揺蕩う事自体は嫌いでは無かった。然し思い通りに己の身体が運ばない時間は嫌いでならなかった。枕元に数種類の処方薬シートを散らかした儘、暗がりの中に浮かぶ天井・蛍光灯の形状に瞳を投げる。確りと焦点を合わせる気など持ち合わせてはいない。室温の低さに対して僕を喰らっている布団は肌の温かさを持しているが、心地良く睡気を誘うどころか不快要素の一つだ。随分と長いあいだ寝具に此の身を任せており、其の上で無数の寝返りを打ってきたように思う。
 眠れない夜、眠らない僕。日々に編込まれている時間とはいえ、抱えているにも厄介が過ぎる一寸した持病、拗れた不眠症。此れとの付き合いは長いもので、片手の指では足りぬ年数の共存を続けて来た。だというに、僕は未だに彼を飼い慣らせてはいない。孤独感が膨張した時、自身の脆弱性を欺瞞する時、そして何より窓の外の月が瑠璃紺の中で輪郭の曖昧な白光を放っていると確かめられる時。是等、うち一つでも条件を引けば僕の脳は眠りから伸びる手指を見失うのだが、本日は運が悪いのだか良いのだか、不眠に転ぶ条件は揃いに揃っている。何度瞼を閉じようと、何度呼吸を大きく深く揃えようと、知らぬ間に自ずから拵えた夢へ送る規律的肉体運動は乱れてしまう。
 誰に聞かせる訳でもない大仰な溜息を空気中に逃し、横向きに転がり直せば安物の寝台が、ギ、と鳴いた。壁掛け時計が在る方を見遣ると、闇に慣れてきた目は午前三時過ぎを示す二本の針を捉えた。とうに薬が効いてくる頃は過ぎた筈、けれども皮膚表面が温かさをほんの微かに帯びた程度で其れ以上の変化は確かめられず。また一錠足してみるか、ブラインドの向こうの月の嗤いから逃げるべく。数年前から世話になっている精神科の次回通院迄に眠剤の不足が出て自業自得に頭を抱える近い未来を案じても居られない。僕は薬袋を手に台所へ立った。
 蛇口を捻ってグラスの中に注いだ水で、シートから出して掌に散らかした四種の錠剤を嚥下する。思いの外冷たく、喉や胃が一瞬だけ摂取を拒もうとの姿勢をみせた。四種もの薬? たった四種の薬? 何れと呼ぶべきかは判らない。ドラマだったか漫画だったかのワンシーンにて、現在の僕のように百匹の羊に着いて行く途中に転んだ者が蜂蜜入りホットミルクを家族や恋人等に手渡され、カップに口を寄せたのち無事に眠りに就くことが叶いました、と云うものを何度か目にしてきたが、実際問題としてあれは何の気休めにもならない。僕が負っている症状が強靭に出来ているからなのかもしれないが。
 に、しても。睫毛が少しでも重くなる程度の作用は寄越してくれても良かったんじゃあないのか、白の小粒達よ。不眠症とクロルプロマジンが手を組み僕を追い詰めているのかとすら思う。
 するとその時。背後から、とん、と肩に弱く力が乗った。人間の手の形とはやや違って感じられる物の正体なら分かりきっている。
「なんだよ」
振り向いてやるまでもない。其処に居るのは、僕を夜の住人に加わらせた化物〝インソムニア〟ぐらいのものだ。手らしき部位は肩から腕側部を緩やかに撫で下ろしてゆく。序でに、ほう、ほう、と梟の下手な物真似めいた奴の声が僕の耳元を揺らす。こいつは偶に現在の如く、構われたがっているふうな素振りをみせる事がある。あまり深く関わっていると朝に届いてしまうから、戯れならば深入りはせずのさせずと云った適当で済ませておきたいところだ。
 僕の体側に触れ回る物を宥め賺すべく撫で遣れば、こいつの手は先程飲み干した水よりも冷たい。僕が其方に気を傾けたのが嬉しくてならないのだろう、化物・インソムニアが吐く鳴きの音域が些かばかり高まった。
 深き眠りへの距離が遠退けば遠退くほど、化物は此の背にさも愛おしそうに身体を寄せてくる。胴体の温度はどうとも呼び難く、半ばくらいは僕が飛び込み切れなかった夢の世界から召喚した者だからそうなのだろう。存在に無視を決め込んで寝台へ戻る心算ではあったのだが、不意に、背後から身体を闇色の両腕で抱き竦められた。奴が何を企んでいるのだかは、是迄こいつと過ごした無数の夜にて否が応にでも思考に泳ぐ選択肢を一つに絞らせる。
「独りが寂しいのか」
 化物の表情を知ろうとするでもなく試しに問うてみる。答えはイエスだとの確信を抱き乍ら。案の定、ほう、と再び奴は小さく鳴いた。其れは何処か弱々しい響きである事を聴覚は紛い無しに拾った。
 仕方がない。化物とはいえ、不本意であり続けたとはいえ、少なくない年数を共にして些かの情くらいは抱いている奴をおぶって寝床に足をのろのろ向けていった。実体を持しているのだか定かではなく幻覚の一種なのではと疑った夜もあったが、こうして連れていると一種の生物、或いは妖怪の類いなのであろうと窺える。
〝インソムニア〟も過去の動きを見るに相当な淋しがり屋の様子ではあったが、僕とてそう変わりは無い。夢に拒まれてばかりの独り寝よりも幾許か気分は軽くなるだろうと、奴が現れた夜には決まって自らの布団の中へと其の存在を招いていた。無論、此の時も例外でなく。寝床に着けば肩背に縋るそいつと共に、一度大きく捲った布団に包まった。すると奴は僅かでも安堵を得たのだろう、縋るような重みを敷布団辺りに下ろし、背を向けていた僕の寝間着をくいくいと引っ張り己の方へと注意を誘った。矢張りこいつは淋しがり屋で、僕もまた並んでそうあるから、素直に寝返りを打ってみた。 
 何度か姿を見たことはあるが、ずんぐりむっくりの図体をし、影さながらの表面色を持っているそいつは、不器用な遣り方ながら不揃いな長さの指らしき物が伸びる手で、子を寝かし付ける如しの緩やかな拍にて僕の体側を穏やかに撫で叩き始めた。不眠症が暴れ出した日に姿を現わす者としては不釣り合いな行動だとも思う。此の施しが行われるのは今夜が初めてではない。僕は毎度、奴の手付きには素直に呼吸を深くゆったりと重ねていた。一旦は結構な距離が出来てしまっていた睡気と云う目的地へ向け、少しずつ意識を掬わせるも可能となってゆく。
 至近距離にほう、ほう、と静かに呼吸のような鳴きを漏らしている影については、眠れずの夜に頻繁に負ぶさってくるものだから〝インソムニア〟と僕は中で呼んではいたが、こうして寝かし付けて貰えていると、不眠症の体現と呼ぶには適していないのかもしれない。どちらかといえば、寝かし付け上手で孤独に寄り添ってくれる添い寝相手といった処か。
 化物より先にいつも僕は眠りに落ちる。今夜とてきっと例外では無いだろう。そうするとこいつは、朝に来たる陽光に消える迄此処に居てくれるのだろうか、或いは僕と似た他の不眠症持ちを夢へと誘いにゆくのだろうか。ああ、考えてみたいのに〝インソムニア〟の、母を思わせるような温柔な手に次第と意識を吸い込まれてゆく。
 また明日な、と口を開く隙も貰えず、僕は意識を殆ど布団と奴の手に吸い込まれていた。効かぬ睡眠薬と比にならぬほど役に立つこんな添い寝相手ならば、ずっとずっと隣に飼ってやるのも、悪くないか。明日の夜も、明後日の夜も、其の先だって、寝付けずに溜息ばかり落とす僕の元へ、こいつが訪れてくれれば良い。若しも屡々世話になり続けるとするならば、〝インソムニア〟との名も改めなくてはならないな。
 一旦はさようなら、この夜の厭な空気。一旦はお休みなさい、僕に寄り添ってくれる愛しき存在。



インソムニア 完

インソムニア

インソムニア

眠れない夜に寄り添う一匹の化物

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted