誰の所為

――また、あの夢か。
　内容物が沸騰しそうな頭を右手に抱え、もう片手では踊る鼓動を隠す衣服の胸辺りを握って肩の上下する荒い呼吸を整えようとする。散々だ、今日は。昼間にも碌な目に恵まれず、カーテンの隙間から射す陽もとうに姿を隠した今もそう。束を成してやってくる悪運を蹴飛ばしてやりたい。
　先刻、深い睡眠の中で〝あの瞬間〟を目の当たりにした僕は思考を通す前に叫びを上げていた。瞬時に跳ね起き、暫しの現実と夢の混同、のち、現実を認識し、今に至る。右手指に絡み付く寝癖髪はしっとりと汗を帯びている。
　あれを何度見たやら、数え切りたくもない。少なくとも、僕を呑もうと渦を巻いている日常の悩み事のうち、水面も間近な位置に据わっている回数は視ている。映写機を通したポルノ映画のフィルムの如く、鮮明に、生々しく、然し其れにしては褪せるにも時間が掛かりすぎていた。ずるり、布団に移った熱から逃れるべく其処から抜いた身体はひどく重い。素足でなんとか立ち上がり、引き摺ってゆく思いで鉛でも塗られた様な身を台所に向けた。
　僕には一つ、秘密が有った。どうにも鎮まらない深夜、屡々カッターナイフに依存していた事。恋人にすら明かしておらず、傷跡を隠すべく長袖・厚着を貫いたり、彼女を抱くなど肌を晒す機会には照明を落としたり。君の知らない僕は結構ないけない子で、自傷行為は快楽を得るべく行っていた。謂わば、自慰の一環。躊躇い傷、否、死へ飛び込むに躊躇った結果ではないからそう呼ぶのも可笑しいか、其れを手首に様々な深度で増やす際、確かに僕は愉悦を得ていた。マゾヒズムでも抱えているのだろうか、真新しい傷が開く度に此処から全身へ甘ったるくもヴィヴィッドな感覚が及び、駆け巡ってゆくのだ。余韻の時間も悪くない。兎角、僕の内緒の遊戯は日常の隙間に潜む美しい差し色だった。
　なのに、あの子は。あれは、確か、三年近く前の話だ。
「貴方が好きそうな物、作っておいたの」
　合鍵を渡した恋人が僕の帰宅を待ち望んでいる日は多くない乍ら、総て愛情由来であると判る迎え方をしてくれた。扉を開けるなりの彼女の笑顔と対面、素直にも徐々に緩んでゆく僕の頬。
　彼女は普段、此処へ訪れた際は寛いで僕を待っており、食事を用意してくれるだなんて想定外。ぽかんと立ち尽くしていると、彼女は先にテーブルの方へ歩みを遣った。
　狭い背中を追って此方も足を向けると、確かに僕の好物ばかりが並んでいた。ロー・テーブルの前に正座をした姿が拵えてくれたらしいものは、どちらかといえば外観は悪い方ではあったが、感動の方が大きくて目を丸めるばかりの僕は暫く言葉が出やしなかった。
　刹那、彼女の表情がみるみる無へと近付いているのが見て取れた。
「そう、それなら」
多分、勘違いをされている。慌ててあちらの方へ踏み出した。何か。何か、言わなくては。焦燥が駆けるほどに僕の声は封じられ、自分の身体なのに思うように動いてくれない。
「これなら、あなたは大好きでしょ」
殆ど聴覚が拾えない音量で言った恋人は、自らのポケットをまさぐり、そっと手にした物を皿と皿の間においた。
　テーブルの上、料理が作り上げた平和そのものといった雰囲気を、其れだけで崩す物体。約六十度の刃先が一寸ばかり顔を出している、持ち手も刃も、同じ色の、僕の自慰道具。カッターナイフだ。
　僕の知らない内に。或いは察しが良かったのか。まさか、ごみ袋から血液を拭いたティッシュを見付け出したのか。顔付きを見、さっと血の気が引いて鳥肌が立つ。其の時の表情は、昏い瞳。不釣り合いに両端が吊り上がった唇。僕が知らない彼女を、象徴していた。
「どうしたの、今日は気分じゃないのかなあ。だったら貴方の代わりに、私が。血なら、本当に好きでしょ」
　細い指がカッターナイフを掻っ攫った。硬質な鳴きを上げつつ彼女に誘き出される刃、間もなくあの手首に宛てがわれ、ぐっと噛み締められる桃色の厚い唇。総てが体感時間の一秒に満たないうちに進んでしまう。もたついて腕を伸ばした時には、彼女の手首に、刃先が、埋まり。
「やめろ……！」
　はっ、と意識を取り戻す。眼前にはシンク、手にはグラス。無意識に行われていた夢の反芻。此処に在りやしない場面から、元居た場所に帰って来られたようだ。滲んだ汗を拳裏で拭い、大きく大きく溜息を肺から抜き出し乍ら蛇口を思い切り捻る。勢い良く銀色に叩き付けられる水の一部をグラスに貰い、其れへ片想い余っての接吻のような乱暴さで唇を付けた。
　いつまで囚われているつもりなんだ、あの光景に。何度も捨てようとした筈が、時折こうして隙を狙って僕を襲う。何度も、何度でも。追う者、追われる者、様々あるにしろ、なんて馬鹿馬鹿しい。一刻も早く忘れたくて逃げているのに、卑怯な奴だ。おととい来やがれ。
　グラスに汲んだ水をひとくち、喉が潤うでも心拍の暴れが鎮まるでも無かった。ならばと僕はグラスを振り上げ、頭から水を被った。したたかに髪、肩、胸元、床に水が散らばるも、寄せ集めてやる気は僕の内部に存在していなかった。
　ぼとぼと、予想より大粒の雨が前髪から降る。一連の行動で逃避出来ればと思った。全く叶っちゃいない、息遣いも脈拍も不自然な速度での行き来を続けている。きっと己の薄弱加減が、あの色濃い記憶を描く回路に力添えをしているのだろう。
　正直なところあの時、魘される位の悪い感覚のみを抱いていた訳ではなかった。項垂れて自身の罪を静かに嘆く。夢に出た場面の後、僕は不謹慎にも性的な高揚を噛み締めていた。だから今だって、水を被ったばかりだというに、全身の血流が、脈が、熱い。肉体が場違いな過度の興奮を示している。同様の状況下にある僕は、毎度このざまだった。此れだから繰り返しの体験は、一層悩ましさを重ねている。
　無意味な大声を上げると同時、また水を汲んで直様頭から派手に被った。少しでも冷める手伝いになればと行動に出たのだが、此方も全く僕の心身を落ち着かせる助けにもならなかった。髪と部屋着、床が含む水分を得るのみで、グラスへ遣る手に握力を掛けたとて目的には遠く及ばない。
　〝あれ〟よりもずっと醜い、あの日から増やすのを止した幾多の傷跡を睨んでみようと、何もかもが空振って、僕を取り巻く空気の嘲笑を誘うだけだった。
　現実逃避、後悔。いづれに転んだ処で、着いて回る過ちの修復を試みては手掴めずにいるうち、月日は経過し、四季は巡る。あの子が傷一つ無く可憐な手首を穢した瞬間の想いを律する方法を引き寄せようと足掻く暇を寄越せと幾ら願えど、時間は、止まってくれない。