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「早く言ってよ、ほら。蔑んでみな、〝裏切り者〟って!」
 高揚も満潮を迎えている、と誰が耳にしても判るであろう挑発を滴らせた僕の声は、夜の大通りを走る車両達の走行音やタイヤがけたたましく水溜りを切り裂く音量と充分に張り合えるものだった。なにせ、一ヶ月前の同じ日付に彼女と僕は出会った。そしてガードレールに守られた僕と女、その間に今しがた意図的に作ったばかりの新品の距離を埋める幅のなか、シャッターを閉じて降雨を前に黙している雑貨屋、此処で二人で揃いの腕輪を僕の誘いで購入した、女曰くの私達の記念日とやらだった日付なのだから。まさか、僕自身には記念を祝ってやる心算など無い。強いていうなら、待ちに待った種明しの為に取っておいた楽しい楽しい時間。
 我ながら、ロケーション選びは極上。車の走行量に反して人通りは極めて少なく、残念ながらこの痛快な光景の観客は無し。時々通り掛かる者はあれど、傘に隠れてそそくさと悲劇の舞台を通過してゆく。エキストラとして上出来の仕事だ。僕の大笑いから逃げたがるエキストラの背中に向け、一寸した報酬として外したばかりの腕輪を投げてやった。虚しくびたりと水溜りの中に落ちたそれを拾ったのはエキストラではなく、僕が持っているのとよく似た、或いは向こうが揃えた、ビニール傘をさした女だった。ああ、なんて可哀想なヒロインなんだ。
 裏切者呼ばわりは覚悟の上で、導火線に向けマッチを擦った。否、寧ろそれを渇望して、其処に至るまでのスリルを舐めるべくした利己心が動機だった。総てはシナリオ通り。渡してもいない台本をなぞるような動きを女が見せるものだから、可笑しくて可笑しくて、僕はげらげらと笑ってしまうばかり。この行動だって、台本の通りなのだけれど。
 何度も小さい耳に注ぎ込んでやった、好きだよ、の言葉。そんな不確かな台詞は、悲劇の上に薄く塗った小綺麗なメッキ。もう少し、目に見えるものしか信じない僕と並んで現実を見極めていてくれたなら、あと一ヶ月くらい助手席占拠権の有効期間を引き伸ばしてやってもよかった。然し、こいつにはそんな大役は任せ続けられない。細い手首に巻きつけられたそれと同じ形、色違いの濡れそぼった腕輪を片手に頼りなく立ち上がり、化粧顔をどろどろにしながら大通りの車たちの野次に埋もれた嗚咽を零す姿はいじらしく、同情を引くにも最適だ。でも、それでは残念ながらワン・クール限りであるドラマの四週目ラストシーンで輝いて頂く他に遣る場面は無い。
「ねえ、頼、裏切り者って呼んだら、捨てないでいてくれるの」
 惨めなヒロインが向けてくれる供給源が天候とも彼女の感情ともつかない雫で出鱈目な配色になった面は、誰が拭ってやるというのだろう。御自慢のマスカラが剥げ落ちた目元なんて、触ったら汚れてしまうから僕はなるべく辞退させて頂きたいものだ。
 夜よりも黒く深く、二者の間に落ちる無言の時間。通りの車は信号を前に苛々とエンジンを振動させている。女の台詞で一旦、高笑いは腹の中に仕舞った。僕が書いた台本にそうあるのだから、従わない訳にもいくまい。この手が握っているビニール傘の上で、雨粒が代わりにけたけたと腹を抱えている。
「勿論、言ってくれたら捨てたりしない」
些かの反省の素振りを、見せてみる。穏やかで、甘ったるく、抱き締めるような、響かせ方。胸焼けを呼ぶくらいあの聴覚に慣らせてやった〝好きだよ〟を発するときと酷似させたトーンだ。此方の表情に施す加工はいつも、強気に宣伝されているそこいらのウォータープルーフ化粧品よりも、ずっとずっと耐水性に優れているに違いない。傘を後方に放り投げ、駆け寄って今にも泣き崩れそうな女を抱き締めに行った。言わんとされた彼女の思いは、キスで閉じ込めておく。そして。
「捨てないでいたところで、もっと酷い目に遭わせるまでだ」
二枚のビニールに隠れては碌に窺えなかった面持ちを今では間近に置いて、僕は親切に本当のところを囁いてあげた。大通りに敷き詰められた車両達が流れを取り戻す。呆然、のち、絶望のそれへ変容する眼差し。一度は僕を抱き返そうとしたらしい女の手が諦念を含んでだらりと重力に従う。今日までに積んできた甘い日々にてこの女が見せていた無邪気な態度との落差に再び込み上げた笑いが、僕の肩を揺すり続けた。
「ごめんね」
 多分、酷い顔をしていた、この時の僕は。女への甘やかしと、計画通りに事が運んだ愉しさ。相反する心が混在した口角の上がりようは、二度と僕があの胸には戻りやしないのだと悟らせるに充分な足しになったことだろう。
「死にたくなるような深い傷の手前にしちゃってごめんね」
一歩、二歩、後退って再び距離を作る。僕が着けていた腕輪と安物のビニール傘を握る華奢な手が震えているのがよく見える。
「そういうシュミなんだ。悪しからず」
此処での悪びれまで演じてやる義理は、薄っぺらい急拵え続きの手製思い出の中に忘れてきてしまった。
 そして身をくるり翻し、背を向ける直前に投げキッスをくれてやった。これが君への報酬だ。それからもう一つ、報酬は用意してある。
「じゃあね、マイ・プリンセス、改め、中古品」
「待って、頼!」
降雨の中を耳障りな女の呼び掛けがキンと貫く。なかなかの演出だ。アスファルトを蹴り駆け出した僕に伸ばされる手が何かを掴む事はあるまい。僕はもうすっかりと全身を水滴の群れに任せたままで、例えばこれが善人の主役ならば発さないであろう、ずっと大切に抱えて用意していた台詞を、素肌の上へ掌を滑らせた事が何度かある女の胸の辺りを指差して吐いてやる。
「その名前、なんで偽名だって気付かなかったの。嘘、を英語で言ったらなーんだ」
凡ゆる言葉を乗せて次から次へと渡した種明しのナイフ。最後の毒刃の投擲は、過ぎた痛みにどう響くのか。僕がしたことが消えない痛みになってしまえば良い。そして古傷が疼く度にこの顔を思い出せば良い。憎しみという形で誰かの心に刻まれる、こんな光栄な事があるか? いいや、無いね。僕には断言出来る。幸せよりも魅惑的で、喜びよりも妖艶。そのような形で胸に残して貰えるだなんて、この身に相応しい待遇だ。
 移っているであろうルージュを態とらしく袖で拭う姿を見せつけられては流石にもう追う気も大幅に落ちたらしく、女も僕に倣うみたいに傘を投げ出して顔を覆い、座り込んで慟哭していた。
「その傘、置き土産。五百円でお釣りがくる安物の中古品、あんまりにも君に似合いだからさ。じゃーね! 地獄でまた会えたらいいね!」
手を振っての去り際に、風に流されるまま身を引き摺っている見捨てられた傘、うち、僕が使っていた方を指して。女の泣き声にフォルテッシモが掛かるのが面白くてならない。あれが、君への最後の報酬だ。
 恋の亡骸を残して舞台から下りる、愉快な高笑いにまみれた嘘吐きのこの身を打つ雨はいっそ清々しい。全身を真新しい装飾品で固めたように浮き足立つ。どいつもこいつも皆して、顔も心もウォータープルーフ製品に替えておくべきなんじゃないかな。各々、自分の為にね。

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「じゃあね!マイ・プリンセス、改め、中古品」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-01

Copyrighted
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