星に願いを
さながら其の夜空はレモネードを撒いたかの如く広範囲に渡って綺羅星が瞬いており、時折冬寒さに首を縮めつつ、青年は何度か歩を休ませて珍しい満天の星空に目を遣る。羽織っているロング・コートの暗色に対し、彼が漏らす感嘆の吐息は白く。
行く宛も特には決めずの散歩道、青年が児童公園を通り過ぎようとした時だった、敷地内に設置されている長身の灯りのもと、ベンチに腰掛けて面を上空に向けている少女の姿が確かめられたのは。
やや遠くから観察するに、ベージュのダッフルコートに身を包んだ彼女は齢十代半ば、或いは其の少し上と云ったところか。視線を移して此の遊び場の中心に立っている物の長針と短針に現在時刻を胸中で訊ね視る。受け取った答えは、二十三時を手前にした辺り。何故あの年頃の少女が此処に独りで? いつ警官が肩を叩きに来ても不自然は無いではないか。確かに本日の星は見惚れるにも充分な美しさ。仮に彼女が空を眺めるに夢中になっていたとして、此の時間・此の場に青年より幾許か幼い存在は、切り絵に似た浮かび上がり方をしている。
興味本位に、ベンチのもとへ進む。意図的に足音を消すような真似はしなかったが、矢張り少女は、横転させて散らかした玩具箱から気に入りの物を探すかの様に、星々へ夢中に落ちた儘。
「ね、お嬢さん。こんな時間に何してんの」
自身よりずっと低位置に在る顔貌を窺うべく僅かばかり背を曲げて青年が問うた刹那、彼女は大きく肩を跳ねさせ、のち、恐る恐る乍ら青年の笑顔を瞳に映した。暗さも暗さ、相手も相手。少女は唇を引き結んで怯えと警戒が混在した睨みを返した。
「大丈夫、取って食おうってのじゃないから。……って、自分で言うと余計に怪しいか」
依然からからと笑み続けるが、拒むかの如き態度を保って少女が頷くので、青年は、はは、と声を上げた。
「散歩の途中に見付けたんだけど、君が独りで何やってんのかな、大丈夫なのかな、って気になっただけだよ」
「ながれぼし」
青年が目的其の他を伝えている途中、少女は再び綺羅星が沢山に散らばった雲の気配も無き上方を見た。今一つ理解に及ばなかった彼は瞬きを大きく取りつつ、ん? と訊き直してみると、少女は手袋も着けていない小さく白い手を摩り合わせてささやかな暖を得ようとしていた。
「流れ星、探してるの。こんなにいっぱいお星様が見てくれてるのに、流れ星はひとつも居なくって」
其の目的のみで彼女は、結構な時間を此処で過ごしていたのだろう。同様の方向を瞳に入れてみたのだが、些かばかり眺めるだけでは青年にも流星の姿を知ることは不可能であった。
ふむ、と青年は顎に触り乍ら少女を一瞥。其処に在る表情は寂しげであり、哀しげでもあった。頰でも突付いてやれば、泣き出しそうな双眸。長く観察していると青年の心にちくり、切なく針が刺さった。
「じゃあさ、俺が見せたげよっか、流れ星」
悪戯子の唇の弧から明るく提案を寄せられ、少女は不思議そうに只、静かに青年の調子を追った。見られる物なら見てみたい、けれど何時間も此処に居て探し出せなかったものを、いとも容易く? 魔法でも使えるのか、彼は。否、まさか。そんな事は非現実的が過ぎる。
貫かんばかりの見詰めを受け乍ら、青年は徐ろに左側の袖を僅かに捲ってみせた。
「ほら。流れ星」
晒される手首。其処には確かに、小さな小さな円の塊から細く尾を引く物が在していた。だが臆しもせず目淵で上機嫌を象らせている彼の手首に走っていた流星は、赤い、自ずから作った、切傷であった。
「なーんて。悪い冗談が過ぎるか。ごめんごめん」
片手を相変わらずの笑顔の前に立てて謝罪の意を表し、続いて再び傷跡を袖の中に隠そうとした刹那。少女は髪を連れて大きく頭を横に振り、賺さず青年曰くの〝流星〟が走っている場所を両手で捕まえた。
「お願いごと、する」
今しがた迄寒気からはコート袖に守られていた青年の手首に、少女の凍えそうに冷え切った温度が、伝わってゆく。
吃驚して青年が身動きを忘れているあいだ、少女は秒数を含ませて睫毛を合わせ、震える唇を開いては閉じ、と微かなる動きがどれだけかの迷いを抱いているふうではあったが、やがて少女は意を決して固く両眼を瞑り、傷跡を隠すように包んだ白い両手にも力を込め、聞き取れるか取れまいかといった声を絞り出した。
「このキズが、はやく、治りますように」
予想外の台詞。少女の震えた手指、よく揃った爪の先。地を踏み締める愛らしい靴を履いた足。其等を総て青年が視界に捉えるより先に、そっと少女は自傷跡を解放し、照れ臭げに微笑を湛えた。
暫し、青年は瞳をまあるくして先程までぺらぺらとよく回していた舌の舞を縛られた儘で居た。然し長くは経たずして、眉下がりがちなはにかみを。
「ありがと」
礼を告げるのが精一杯であった。続いて、奥歯を噛みしめる。はじめは睨みすら寄越した者から贈られた温かみに触れ、下手を働けば涙の一粒でも落としてしまいそうだったからだ。
数日前、此の赤い流星を残した際は、いつにも増して自身が憎かった。自身を愛せなかった。故に残された躊躇い傷を、こんなふうに、知り合って間も置いていない、此の時が終われば二度と会う事も無かろう少女に情を傾けて貰えるだなんて、彼は夢にも思ってはいなかった。
「ほら、お目当ての物は見ただろ。そろそろ家に帰りな」
彼自身が抱いていた自己否定的感情が逆さまに昇るにあたり変化しかかった顔付きを元通りとし、青年は少女の髪をくしゅりと撫でた。彼女は抗うでもなく、微笑の紅を唇に乗せて首を縦に振った。
存外素直に促しに従い、少女は場を後にする。青年の視界からの去り際には、ばいばい、また会えたらいいね、とでも言いたげな手の振り方をして。青年は倣って手を振り返す、治癒を祈って貰った左手で、狭い背中が此処から消えきる迄、ずっと。また、会えたら、いいな。
吐く息の白さが霞むほどの、暖かなひととき。きっと二度と会えやしない。だから青年は、是迄他客が腰掛けていたベンチにゆったりと脚を組みながら座ってみた。何度目になるのだか、本日の美しい空との対面。数分間程度であろうあいだを過ごしていると、なんと良く出来た偶然だろう、少女がずっと求めていた流星が煌めき、光の尾を残し、姿を隠した。
唇を緩め、眼をやさしく閉ざした青年は吐息に隠れそうな小さな声で祈る。手首に愛情を差し出してくれたあの子に幸せが訪れますように、ずっと笑って過ごしていられますように、と。
星に願いを