黒馬談

石田大燿 作

 ヘンリエッタは、即死だった。
 ビルの頂上から落っこちて、死んだ。自分から飛び降りた気もするし、誰かに背中を押された気もする。
 即死したヘンリエッタにとって、自分の死因などどうでもよかった。誰かが突き落としたとしても、それが誰なのか、知ることは多分できないし、自分で飛び降りたにしても、自分がなぜそんなに悩み苦しんでいたのか、死んだ今となってはどうでもいいことだった。
 労働監視所の職員がそれに気づいて悲鳴をあげていた。それがヘンリエッタの聞いた、最後の人間の肉声だった。


 意識は冷たい流れの中にあった。
 薄く目を開けても、閉じても、そこが何処かは分からなかった。僕は自分が死んだのをほんの少し前に感じていた。
 ただ自分が死んだことだけは、はっきりとわかっていた。
 死んだ自分が、死んだ後のある筈のない空間の中を当てもなく彷徨っている、考えるだけでも馬鹿馬鹿しかった。

 その流れの中で、グッと自分を引っ張る物があった。首の付け根辺りを掴まれているような感じがした。

 視界の中に、黄色い光が、地中から芽を出すように輝き始めた。
 それから、むせ返るほどの、アルコールの臭い。鼻の奥まで突き抜けていく。それが所謂死後の世界からの出口だった。
 徐々にヘンリエッタの体に、生々しい息苦しさと、五体の重さが戻ってくる。きっとあのまま流されていれば、遠い天国か地獄に流れ着いていただろうに、ヘンリエッタの意識は、そのまま、磁石に引っ張られるように、その光の中に吸い込まれていった。


 父は、浮かない顔をしていた。
 死の国から生還した、自分の娘を見て、何故だか呆然として、まるで石像みたいにしばらく動かなかった。
 声を出そうとヘンリエッタは試みたけれど、声は出なかった。口も動かない。体中の筋肉が硬直してしまって、無理に動かそうとするとひび割れて粉々になってしまいそうだった。
 声を出そうとして出せないというのは、何とも耐え難い苦痛だった。
 父はそんな私にお構いなしに、話しかけた。
 誰がやった?
 ねぇ。
 そんな父の言葉の意味が、その時のヘンリエッタには嫌というほどわかった。加害者を、殺人未遂で訴える算段らしい。
 うまくいけば、たんまり慰謝料が入る訳だ。父の懐に。
 死人に口なしとは言うけれど、父は、私の保険でおりたお金を元手に私を生き返らせて、慰謝料を貰うというビックビジネスを思いついたのだった。でなければ、態々死んだ人間を生き返らせようとは思わないだろう。
 ヘンリエッタは、漸く動き始めた目線を父に送った。父は何も言わずに立ち上がり、病室を出て行った。


 体の中にいる鉄の臭い。
 時々、口の中から、喉を伝って流れていく血の臭い。
 私は、死んだ。体の中に埋まった鉄が私を生かしている。もうどうにもならない。
 人は、死ぬ。生きているものはみんな死ぬ。私は、一度はそのレールに乗せられて、旅立ったはずだったのだけれど、途中で首根っこを掴まれてまた戻ってきてしまった。自然の流れに逆らうことが不自然だとするなら、私は、不自然だ。空気がこの世界を満たしているのに、水は下に向かって流れていくのに、私は、何故か不自然になってしまった。悲しいとは思わないし、私は、生きて帰ってこれて幸せ者だとさえ思った。
 口の中にいつもいる鉄の臭い以外は、なにもかも自然だった。



 「なんだ、お前また万引きしたのか?狂ってんだろ、いい加減にしないとやばいぞ」
 ヘンリエッタは良く笑うようになった。生きていたころよりも、清々しいくらいに、わらえるようになった。
 「じっとしてると、鉄の臭いが口の中に広がって、だんだん体の中の鉄が錆びていくのが分かるの」
 ヨシは、深く息を吐きながら手で目を覆った。
 ヘンリエッタはおかしなことを結構言うようになったとヨシは感じていた。彼女が不慮の事故にあって大けがをしたというのはこの間うわさに聞いていたけど、ここまでとは思わなかった。
 「お前、マジで何なんだよ。鉄の臭いとかさ、そう言うのマジで、止めてくれる?俺、お前を連れて帰るようにお前のかーちゃんから言われたんだけどさ、今まで起こったこと全部かーちゃんに言うからなマジで」
 「ヨシ、マジって言うの好きだね、何回言ってんの?」
 ダボダボのジャージのズボンを臍のあたりまで上げて、Tシャツを全部その中に仕舞うヘンリエッタの容姿と、時折聞こえる時計仕掛けみたいな音がヨシは嫌いではなかった。
 もしかしてヘンリエッタはもう人間ではないんじゃないかとさえ思えてきた。植物的な感じ、というか、道路の割れ目から無理やり生えてきたタンポポみたいな感じだった。
 「ヘンリエッタ、お前何盗んだの」
 ミンティア、フリスク、ガム。それが三箱ずつ。
 「お金持ってないし、でも無いと死ぬし」
 「死にはしないだろ」
 ヨシは浮かない顔。ヘンリエッタは無表情のまま、ガムを頬張る。ガリガリと、ガムの硬い殻が奥歯ですりつぶされる音、それから、甘ったるいマンゴーの香り。



 「町田さんから電話があったんだけど」
 かーちゃんはお椀に味噌汁をよそりながらヘンリエッタに言った。
 「今日また無断欠勤したでしょ」
 ヘンリエッタはテレビに目を向けて、コップにつがれた水を飲み干した。
 「母さん困るのよ、何度もそう言う電話が掛かってきて、その度に理由を考えなきゃいけないんだから」
 換気扇の回る音がテレビが無言になる度に部屋の中に染み込んでいく。
 「なんで私死んだの?」
 母さんは向かいの席について、しばらく項垂れていた。そうして、ふっと風が抜ける様に言った。
 「その話はしない約束でしょ」
 「なんで私ここに居るの?死んだらどこに行くの?」
 母さんは両手で顔を隠した。小刻みに揺れている肩を見て、ヘンリエッタは泣いているのだと分かった。
 ヨシは本当のことを言わない。今回も、あれだけ母さんに言いつけると言っていたのに、何も言わなかった。
 そのことが何だか、すこし憎たらしかった。あれだけ人の罪を咎めておいて、放っておくのか。
 「みんな死ねばいいのに」
 頭上の蛍光灯に蛾が体当たりしているのが分かった。埃がその度にふわふわと雪みたいにテーブルの上に降り注ぐ。
 「もうみんなを悲しませないで」
 両手の指の隙間から見えた母さんの顔が、なんだか綺麗だなと思った。誰かの泣いた顔が綺麗だと思ったのはこれが初めてだった。


 「君のお父さんは」
 お医者さんはカルテにしきりに何かを書き記していた。人体を縦に真っ二つにしたような絵の隣に、もじゃもじゃとした線にしか見えないような字を、すらすらと流れる様に書いていった。
 「どうして君を生き返らせたの?」
 「分かりません」
 ヘンリエッタはそう答えた。後ろでは看護婦さんが、ヘンリエッタの小さい型をぎゅっと握りしめて押さえつけていた。
 この間、ヘンリエッタはこの病室で大暴れした。まるで檻の中に入れられた野生のチーターみたいに、細い体をしならせてそこら中のものを投げ、壊した。
 また同じことができないように、こうして看護婦さんが肩を押さえつけているのだろうと思った。
 「その後、お父さんとは話をした?」
 「父さんはいつも家に居ないんです。写真は居間の写真立てに飾ってあるんですが」
 お医者さんは重く息を吐いて、急にヘンリエッタの方に向き直った。
 「君のお父さんはね、もう随分前に亡くなってるんだよ」
 ヘンリエッタは、立ち上がろうとした。けれども、拘束具みたいな看護婦さんの両手が冷たくヘンリエッタの肩を掴んで離さなかった。
 「よく聞いてくれ、信じたくないのは分かるけど」
 父のことなどどうでもよかった。治療だのなんだのと言って注射したり胃カメラ飲ませる病院があまり好きではなかった。
 「君のお父さんは死んだんだよ。もう二度と会えないんだよ」



 「町田さん」
 ヘンリエッタは看守みたいに作業場に佇む町田さんに言った。
 町田さんはしばらくして顔を上げた。
 「こんなに沢山の消しゴム、一体誰が消費してるんでしょうね」
 町田さんは、顔を少し引き攣らせた。
 「知らねぇよ」
 「私人生で、三回くらいしか消しゴムを使い切ったことが無いんですよ。学生時代に。小学校が六年、中学校が三年、高校が三年、大学が四年、計十六年間で、三回」
 単純に、この国に一万人の学生がいて、その人たちが一人一個づつ消しゴムを持っていれば、一万個必要になるし、文房具店にはそれなりのストックがある訳だから、これくらいの量を作っても当然と言えば当然なのだけれど、ヘンリエッタはその時、消しゴムを作るという作業に限界を感じはじめていた。
 ノイローゼみたいなものが、すこし入っていたのかもしれない。丁度モダンタイムスのチャップリンみたいに。
 「消しゴムの雨でも降らそうとしてるんですかね」
 「いいから手を動かせ」

 その時から、ヘンリエッタは、空から消しゴムの雨が降る世界を想像し始めた。
 消しゴムは降り積もって、平等省も故郷も学校も学生もキリストも、飲みかけのソーダも、愛も正義も平等も、全部綺麗に消し去ってくれるかもしれない、そう思って仕事をしていると、ヘンリエッタ自身にも不思議なくらいに早く時間は過ぎていって、その時私は、どんな傘をさして、どんな色の長靴を履いてやろうと思うと、ワクワクしてくるのだ。創造と混乱と破壊が、ヘンリエッタの頭の中では川の流れみたいに緩やかに、でも予想以上に早く、訪れては去っていった。

 絶対に、虹色の傘を差して、カントリーロードの口笛を吹きながら、降り積もった消しゴムを踏み締め踏み締め、私の足跡でできた道を刻み込み、笑顔を絶やすことなく帰宅してやる。

 ニヤニヤしながら作業していると、町田さんの咳払いが、妙にデカく聞こえた。
 ヘンリエッタの空想の幕は閉じて、目の前にはコンベアと、流れてくる消しゴムと、焼けただれたゴムの香り。



 「お前また万引きしたのか?いい加減にしろよ」
 ヨシはいつも電柱の影から、降ってわいたようにヘンリエッタに近づいてくる。
 「だってお金ないし。無いと死ぬし」
 月と太陽が入れ替わるように、ヨシとヘンリエッタの会話も大体そこから始まった。
 「お前いつも金ないっつてるけどさ、ホントは持ってるんだろ」
 「持ってないよ」
 ヨシは右手に握り拳を作った。今度こそ本当に、一発殴らないといけないと思ったのだ。ただ、なんだかおかしくなっていったヘンリエッタの様子を見ているとそれもできなかった。
 「なんでこの世に金なんてあるんだろうな」
 ヨシの頭の中にあるどうしようもなくどうしようもない疑問が不意に言葉になって出てしまった。
 「それ私も考えたことある」
 「そもそも金なんて作ったやつが悪いんだよな、これは誰のものとかこれは何処のものだとか」
 「そーだね」
 ヨシはなんだか自分が情けなくなってきた。ふと死にたいとさえ思った。
 「死にたくなった?」
 ヨシが顔を向けると、ヘンリエッタは、満面の笑み。自然と奥歯を噛みしめていた。
 「私一回死んだんだよ」
 ヨシは力なく相槌打つ。へぇ、そうなんだ。ゴミのステーションをあさるカラスの群れが、ゴミをまき散らして電線の上にとまった。

 そうしたらね、真っ暗闇の中に自分の体が流れていくのがわったの、とヘンリエッタは滔々と語り始めた。ヨシは、歩いている内にずり落ちてたメガネを持ち上げ、とぼとぼとヘンリエッタの後をついて行った。
 ヨシは薄らと気が付いていた。日常が単なる地獄でしかないことに何となく気が付いていた。
 それに早くから気付いていた人たちは、いかに後の人生を楽に生きていけるかを思案して、石橋を叩いて渡るように生きてきていたんだと最近になってようやく気が付いた。
 ヨシは自分にはそれがないことに今更気が付いた。
 今となってはもう遅かった。
 とにかく、今生きている世界を終わらせたいという気持ちが、どこかにあったのは確かだった。
 自分をぶっ壊すのが一番手っ取り早い方法だということにも、何となく気が付いていた。
 ただそれをするのにももう遅すぎた。
 ずっと怖くて口には出せなかったけど、本当は気が付いていた。

 「みんな消えたらいいのに」
 ヘンリエッタの言葉に、ふっと我に返ると、いつも別れる場所だった。
 「そうだね」
 ヨシは立ち止まったヘンリエッタの方を振り返らずに、そのまま駅の方に歩いて行った。もう一度弱弱しく、そうだね、と呟いて、氷の山みたいな光の中に消えていった。



 母さんは昨日から、両手で顔を隠したまま動かなくなった。その部屋はまるで時間が止まったみたいに、静まり返っていた。聞こえるのは換気扇の回る音。時折聞こえるテレビの声。
 ヘンリエッタはしばらく、席に座ったまま考えていた。お母さんの顔はどんな感じだったか、それが思い出せなかった。それがどうしようもなく悲しく、その冷たい感じが、胸の奥にツンと突き刺さって、それがずっと残ってしまったように体がだるくて重かった。
 「お母さん」
 呟いて言葉は消えてしまった。
 それが何だか憎たらしかった。
 「お母さん、本気で私の言ってること、聞いてくれたことある?」
 換気扇の音が壁の中に染み込んでいく。部屋の中に、青い水がめいっぱいまで注がれて、母は、水槽の中に沈む流木みたいに動かなかった。


 ヘンリエッタは、裸足のまま家を出た。巻き散らかされたごみの中の茶色いビンを踏み潰して、足は血で真っ赤だった。けれども不思議と、痛いと思わなかった。
 知らぬ間に走っていた。道行く人の肩を突き飛ばし、ゴミ箱につんのめり、ヘンリエッタは非常階段を探していた。

 私は知っていたのだ。本当は知っていた、やっとわかった。私は、死んでなどいなかった。
 それに気づくために今まで生きていた。
 黒い馬だ。赤い目をして、一目散に駆け抜ける黒い馬だ。私はやっと気が付いた。黒い馬が走って行く。ヨシ、見える?
 そこからじゃ何も見えないでしょう?でも確かに、黒い馬は駆け抜けていく。私は、もう二十余年も生きてしまった。黒い馬はその間に宇宙を駆け抜け、銀河の狭間に沈み、そうしてまた私の前に戻ってくる。
 黒い馬。消え去った街。お金のない世界。黒い馬は光を反射して艶やかに光っている。走れ、走れ、黒い馬。

 「ヨシ」
 ヘンリエッタは再びビルの上から落下していく自分をハッキリと認識した。

 ヘンリエッタはそれから、自身が黒い馬になっているのが分かった。黒い馬は車が入り乱れる交差点の真ん中でひとつ身震いした。血か汗か飛沫になった液体が四方に飛び散った。
 前足をあげて高く唸ると、黒い馬は真っ直ぐ駅の方へかけていった。その体からにじみ出る黒いペンキのような液体は、お母さんとヨシを、優しく包み込んで溶けていくだろう。
 黒い馬は、暗い夜の森の中にスッと消えていった。

黒馬談

黒馬談

『カラフル』を書き直したものです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-06-30

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