トラック
トラックを待っていた。ずっと待っていた。
月も星も電灯もない夜闇の中だった。俺のぼんやりした視界の中にはただ一本、広くも狭くもない、少しアスファルトがひび割れた冴えない道路があった。
俺はただその道路をじっと見据えて、トラックがやって来るのを今か今かと待っていた。
トラックなら何でもいいわけではない。大型トラックでなければダメだ。また、大型の乗り物でもトラック以外なら意味がない。つまり軽トラやバスなどではダメなのだ。
この道路はどんな土地の、どんな用途の道なのかわからないが、車通りは多くなかったし、道路の脇を歩く通行人も俺以外見たことがなかった。時折通る車は、普通の乗用車やバイクなどばかりで、一向に大型トラックが通る気配はなかった。中には軽トラが通ったこともあったが、先述の通り大型トラックでなければ意味がないので、舌打ちをして見送った。たまにバスやタクシーなどが通ったとき、なぜか俺の前で停まり、俺の乗車を促すようにドアを開けた。俺がそのまま無視していると、ドアは閉じ、バスやタクシーは走り去っていった。意図はわからない。
道路の先から新たな車のエンジン音が聞こえ、ヘッドライトが見える。なかなか大きい。今度はどうだと俺は期待する。しかし心の中ではどこかまたダメなのだろうと諦めている。そしていつも諦めの方が正しい。夜闇の中から現れた大型のワゴン車は、強烈な光でアスファルトのひび割れを一瞬鮮明にし、悠々と俺の前を横切っていった。
うるさいエンジン音も眩いヘッドライトの光も去った後には、夜の静けさと廃棄ガスの匂いだけが辺りに満ちていた。俺はため息をつく。
もう何台も何台も見送った。しかし、お望みの大型トラックは一向に来ない。本当は永遠に通らないのかもしれないという諦観を、俺はぶんぶんと首を横に振って振り払う。そんなことあるものか。こんなに待っているのだ。きっといつか通る。そして俺は救われる。そうでなければおかしい。そうでなければ不公平だ。
そもそも大型トラックが通ったらどうするのか――そんなものはわかりきっている。飛び込むのだ。道路に飛び出して、トラックに轢かれる。そうすれば俺は救われる。
それはただの自殺だろう、と誰かは言うだろう。トラックに拘る意味がわからない、と。それに対しての俺の回答は、「俺にもわからない」だった。ただ俺には確信がある。この道路で俺を轢いてくれるトラックが、俺をどこか遠くへ、現実からはかけ離れた楽園のような世界に連れていってくれるという確信が。根拠はない。証拠もない。確信があるだけだ。それだけでも、俺がトラックに縋る動機としては十分だった。
俺がこの確信を得たのは、突然のことだった。どういう状況だったのかはよく思い出せない。俺は思春期真っ盛りで、何か憤りや不満のような感情があったことは憶えている。何に対してそれらの負の感情を抱いていたのかというと、「漠然とした現実」以外に答えられない。ともかく、俺は唐突に天啓を受けた。陳腐な表現だが、それはまさしく雷に打たれたかのような衝撃だった。
気づいたとき、俺はここにいた。この道路の脇に立っていた。どうやってここへ辿り着いたのかはわからない。そんなことは些細なことで、どうでもいいことだった。俺がここにいるという事実、その一つだけで良かった。
それから俺は、ずっとトラックを待っている。
また道路の先からライトの光。一つだ。バイクだろう。
俺はすでに落胆しつつも、当たり前ではないかと毎度無理やり顔を出そうとする絶望を抑え込み、その通行物が通り過ぎていくのを待った。
しかし、その通行物は俺の前で停まった。それはバスでもタクシーでもなかった。それは俗に白バイと呼ばれるものだった。それにはバイクと同じく白いヘルメットを被り、ライダースのような青い制服を着た人物が乗っていた。体格からみて、どうやら男性のようだった。警察だということはわかったが、どこか特撮ドラマじみていると感じた。
「あなた、こんなところで何してるの?」
白バイに乗る警官らしき人物は、バイクから降りず、ヘルメットも取らずに俺にそう訊ねてきた。
「あー、えーっと・・・・・・」
俺は瞬時に本当のことを言うべきかどうか、思考を巡らせた。「トラックを待っている」と言っても、きっと理由を訊かれるだろう。その理由を正直に答えたとしても、理解はされないだろうし、不審に思われて連行されるかもしれない。いや、警察がただ不審というだけで連行するかどうかは知らないけれど、もし俺が一瞬でもこの場を離れているときに、大型トラックが通るようなことがあったら目も当てられない。チャンスを棒に振るわけにはいかない。そんな事態になることは避けたい。しかし、そうなると嘘をつかなければならなくなる。こんな夜中に、一人で道路の脇に突っ立っていることを説明できる嘘などあるのか。俺の貧弱な脳細胞では、そのアイデアはなかなか頭を出してくれはしなかった。
「どうしたの? なんか困ってるっぽいけど? 道に迷ってるの?」
俺があれこれ悩んで押し黙っているのを見かねてか、警官は助け船を出すように俺に訊ねた。
「いえ・・・・・・別に道に迷っているというわけでは・・・・・・」
「ほんと? こんな夜中に、こんな場所にいたら危ないよ?」
「それはわかっていますが・・・・・・」
「ほんとに大丈夫なの? おじいさん、自分の名前言える? 免許とかそういう身分証明になるようなもの持ってる?」
警官のその言葉に、なんだか引っかかるものがあった。奥歯に挟まったような違和感。しかし今はこの場を乗り切るのが先決だと、俺は考える前に口を動かした。
「だ、大丈夫です! 免許は・・・・・・その・・・・・・家に忘れてきましたけども! 何の心配もいりませんよ! これから母が迎えに来てくれますから!」
「うん? ん? 母?」
「あ・・・・・・いえ・・・・・・その・・・・・・とにかく家族が! 家族の誰かが迎えにきてくれますから!」
我ながら苦し紛れにも程があると思った。
警官は悩ましげにしばらく考え込むような仕草をしていた。俺は緊張しながら、警官が次の言葉を発するのを待った。心臓が恋でもしているかのようにやかましかった。
「まあ、いいか。面倒くさいし」そんな独り言のつぶやきが、聞こえた気がした。
「わかりました。それじゃあくれぐれも気をつけてくださいね、おじいさん」
警官は変に直立姿勢になっている俺にそう言い残すと、白バイに再びエンジンを吹かせ、他の車たちと同様に廃棄ガスと俺だけを残して走り去っていった。
エンジン音が完全に聞こえなくなったとき、俺の全身からどっと力が抜けた。そのまましりもちをついてへたり込んでしまいそうだった。心臓は恋から醒めたかのように、徐々にその鼓動を遅くさせていった。
一時はどうなることかと思ったが、事なきを得たようだ。俺がほっと胸を撫でおろし、額ににじみ出た汗を腕で拭ったとき、ふと警官の言葉が脳裏で反芻された。――「それじゃあくれぐれも気をつけてくださいね、おじいさん」――「おじいさん」――。
――そういえば、何年前から、俺はここに立っているのだっけ?
確か俺が天啓を受けたとき、俺はまだ思春期だったはずだ。思春期とはつまり、中学生とか高校生とか、そのくらいの、まだ尻が青くて、大人の「お」の字も理解できていないくせに理解しているような気になっている、そんな時期。そんな時期に俺は天啓を受け、ここに立った。そうだ。そのはずだ。
今は何年何月何日だ? そもそも俺は何年何月何日に生まれた?
母の顔は? 父の顔は? 他に家族は? 自分の家は? 同級生の顔は? 学校の教師の顔は? 自分の顔は? 自分の名前は?
思い出せなかった。そんな記憶データは最初からないように、あるいは削除されたかのように、俺の過去は空っぽだった。
ふと俺は自分の手を見た。手のひらを目いっぱい開けて、暗がりに目を凝らした。ぼろぼろの服の袖口から延びる、同じくぼろぼろの手のひらを、黒ずんでしわがれた、まるで眼前の道路のひび割れのような手のひらを、俺はこの目で確かに見た。このすべてが霞み、歪んで見える目で。なぜか眼前の道路だけが鮮明に見える目で。
俺は周囲を見渡した。初めてそんなことをしたかもしれない。その道路の周りには、何もなかった。比喩ではない。本当に何もなかった。街もガードレールも木も山も谷も川も湖も海も雲も虫の鳴き声も生命の気配も、何も、何一つとしてなかった。
ただ眼前の道路だけがはっきりと存在していて、そしてその脇に俺だけが立っていた。
俺は茫然として――しかしそれは一瞬だけだった。俺はすぐに諦めた。泣きも嘆きもしなかった。発狂もしなかった。そうなるような元気は、俺にはもう残っていないようだった。
結局のところ、何も変わらない。俺はトラックを待つ。待つしかないのだ。今更帰ることはできない。後戻りをする機会はとうに逃している。俺は前に進むしかない。俺にとっての前に進むこととは即ち、ここでトラックに轢かれることだ。トラックに轢かれて連れていってもらうことだ。ここではないどこか、極楽浄土をも込めた、究極の楽園へ。それはきっとあるはずなのだ。それを疑うことは、もう俺にはできない。できないのだ。
俺は道路の先に広がる、永遠のような闇をただ睨みつける。次のヘッドライトが見えてくるのを待っている。
今度こそ、今度こそはトラックでありますように、と祈りながら。
トラック