吸血鬼の慟哭
prologue
其の村は、厄災に溢れて居た。
謎の病が流行し、罹患者は無慈悲な領主に容赦無く連れ去られる。抵抗は無駄。力尽くだ。
或る者が領主が罹患者の首許に口を寄せて居たのを見たと言う。だから人々は領主の事をこう呼んだ。
吸血鬼。
冷血で、無慈悲で、人で無し。
人で無いのも当たり前な話。吸血鬼だから。
そして私は、そんな人で無しの統治下の村に住んで居た。
事の始まりは私の母。
母が居なければ私の此の先の人生は平穏で、母が居なければ私は此れ迄の人生、生きて来れなかっただろう。
怨恨と感謝。
だけど、仮令其処に感謝が在ろうと、私の物語が母から始まったのは、紛れも無い事実だ。
第一章
母が死んだ。
唯他人事の様に事実を述べて居る様で、実際は私の中は、母――最後の唯一の肉親――を喪った哀しみと、母が死ななくてはならないと言う世界の不条理に対する遣り場の無い怒りが渦巻いて居た。
母の死は唐突に訪れた。
尤も、唐突でない死の方が私は少ないと思うが。事故死や他殺は勿論の事、自殺にしろ寿命にしろ、そして病死にしろ死は唐突だと言えよう。だって、誰にも人が何年何月何日何時何分何秒に死ぬかなんて正確に分からないんだから。
病に臥して、目に見えて弱って行って居たとしても、五分後に死ぬか、明日死ぬか、将又一週間後、一ヶ月後に死ぬかなんて本人にすら分からない。
母はそう、病に臥して、苦しみ、何時死ぬかなんて分からず、そして……或る日唐突に死んだ。
私が未だ幼い頃、父は死んだ。物心が付いて居ない頃だったから、顔も何も覚えて居ない。死因も良く知らない。
只、一家の大黒柱にして稼ぎ頭だった父が死んだ御陰で、我が家は貧しい生活を余儀無くされた。
母は元々病弱だった。身体が弱かった。然し、未だ未だ幼い私を養う為、無理をして外へ働きに出た。
其の所為も有ってか、母は体調を崩し一日中寝込む事が度々あった。
そんな時は私の出番だ。
先ず、村唯一の御医者様を呼びに行く。御医者様は立派な方で、貧しい私達に診療代も御薬代も安くして呉れた。
続いて、母を御医者様に任せ、私は母の仕事場へ向かう。母が体調を崩した旨を伝え、そして其の日は母の代わりに私が其処で働く。勿論、私が母と同じ仕事を熟すのは無理だから、私でも出来る簡単な仕事をさせて貰う。当然御給料は少なく為るけれど、全く無くなるより増しだ。
そして私は母の代わりに一日働き、其の日の御給料を貰ってから母と御医者様の待つ家に帰る。
御医者様が私を優しい笑顔で迎える。
家の備蓄で母に御粥を、御医者様と私自身の為に簡単な料理を作り、三人で食事を済ます。御医者様に母の病状を訊ね、心配する必要も無いと聞き安心する。そして其の日に稼いだ御金から御医者様に診療代と御薬代を払う。
母の不調が数日続いたら、数日こんな日を繰り返す。
此れが常だった。
彼の日は常とは違った。……否、途中迄は常だった。
母が体調を崩し寝込む。私が御医者様を呼んで来る。母を御医者様に任せ、母の職場へと向かう。一日働いて、家に帰る。此処までは常。
――そう、此処からが、常ではなかった。
帰宅した私を待って居た御医者様は、然し暫く私の帰宅に気付かなかった。何時もの柔らかい笑顔を浮かべて居らず、渋い顔をして居た。そして、私に気付いた瞬間、其の渋い顔を消し、無理矢理作った様な笑みを浮かべた。
御医者様は
“おかえりなさい”
と私を迎えた。そして、
“今日もお疲れ様。そして疲れて居る所悪いが、夕御飯を作って呉れるかい?”
と私に声を掛けた。
私も勿論其の積もりだったので、母の御粥と、御医者様と私の簡単な料理を作る。
今日も三人で食事を済ますが、常と違う点が未だ在った。
母の食事のペースが明らかに遅かった。
何とか完食した様だが、見ると顔色も常以上に悪い。
体調が普段より悪いのは当然。然し、目に見えて常より辛そうだった。
私は御医者様に母の病状を訊いた。御医者様は常の如く、
“心配する必要は無いよ”
と言った。
其れは嘘だ。素人の私にも判る。母は常の状態より酷い。
“本当に御母さんの身体は大丈夫なの?”
私は御医者様に問い直した。御医者様は渋い顔をして黙りこくった。
“ねぇ、御医者様、正直に答えて下さい。私ですら御母さんの体調が何時もより悪いのは見れば判ります。御医者様、お願いです。本当の事を話して下さい”
私は懇願した。其の気持ちに押されてか、御医者様は重い口を開いて呉れた。
“分かった、正直に話そう。御母さんの容態は極めて悪い。原因は分からないが、何時もより遥かに身体が弱く為って居る。言い辛いが、何時亡くなっても可笑しくない位に”
母が、何時死んでも可笑しくない……其の言葉は、私の後頭部を思い切り打ち付けた。
女手一つで私を育てて呉れた母が、私の唯一の肉親が、死ぬ。信じられない。信じたくない。頭が理解を拒もうとする。然し、拒み切れない。其の事実を受け入れるしか無かった。私はパニックに陥った。
“落ち着きなさい。未だ亡くなると決まった訳ではない。御母さんが気力で持ち直す事だって十分に考えられる。人が何時亡くなるかなんて誰にも分からないのだから。屹度御母さんは良く為る。御母さんを信じなさい”
御医者様が私を宥める。然し、尚も落ち着かない私を見て、
“暫く私は此の家に通って御母さんの看病をしよう。だから安心しなさい”
と言って呉れた。そうだ、御医者様が母をずっと看て居て呉れるなら安心だ。
“分かりました。御願いします、御医者様”
私は母を御医者様に頼む事にした。御医者様に頼めば、屹度母は死なない。そう思った。
そして其の日は御医者様は帰った。
其の後、私は働きに母の職場へ、御医者様は母の看病の為に我が家に通う毎日が続いた。
――事態は、少しずつ進行して居た。
御医者様は男性だったので、母の躯を洗うのは私の役目だった。
タオルを水で濡らし、母の躯全体を拭く。
私が其れに気付いたのは、母が体調を崩し、私が母の躯を洗う様になってから何日目だったか。
母の右脚の内太股に真っ黒な痣が出来て居た。黶を大きくした様な、円形に近い黒い痣が。
此処で私は今の村の状況に就いて説明するべきだろう。
村では病が流行って居た。患者の躯に黒い痣が出来、其れが大きく広がって行く。痣が出来た部分は感覚が麻痺する。痣は軈て全身に広がって行き、そして死に至る。
此の病は流行り病なので、何らかの方法で他人に感染する事が分かって居るらしい。
だから、此の病の罹患者は、領主様の命に拠って連れ去られ、隔離されて居ると言う。
領主様は“吸血鬼”と陰で呼ばれて居た。
冷血で、無慈悲で、人で無し。
実際の所、領主様が“吸血鬼”と呼ばれ始めたのは、或る村人が領主様が人間の首許に口を寄せて居たのを目撃したからだそうだが。
其の時、領主様が本当に血を吸って居たのかは定かではない。
其れは扨置き、若し母の此の黒い痣が見付かったら、母は領主様に連れ去られる。
私は何としても、母の黒い痣を隠し通さなくては為らなかった。仮令、御医者様が相手でも。
隠し通せなければ、母は拐われる。私の許から居なく為る。
私の許から居なく為って、何をされるか分からない。
無慈悲な領主様に殺されるかも知れない。
私の知らない内に死ぬかも知れない。
其れ丈は避けたかった。
時はどんどん流れて行った。母の痣はどんどん大きく為って行った。そして、母の容態はどんどん悪化して行った。
御医者様の母を診る目もどんどん険しく為って行った。
そして数日が経った或る日、母の容態が明らかに酷く為った。
唐突だった。
母の身体は殆ど動かなく為った。腕を上げる所か、指先を動かすのにさえやっとになった。
御医者様も焦りを見せた。
“如何してこんなに容態が悪化したんだ……”
そんな言葉が口から飛び出した。
“まさか……。御母さんの躯を洗う時に、黒い痣を見付けなかったかい?”
御医者様が私に訊ねた。
正直に答えたら駄目だ。御母さんが私の前から居なく為ってしまうかも知れない。
“黒い痣? そんな物は無かったと思いますけど”
私は嘘を吐いた。
“そうか……然し此の症状は……”
御医者様はパニック寸前の様だった。
“取り敢えず、僕は今日はもう帰ろう。御母さんの容態が可笑しくなったら真夜中でも直ぐに僕を呼びに来るんだ。いいね?”
“はい”
反射的に肯定する。
“良し、良い子だ。じゃあ、御母さんを頼んだよ”
こう言い残して御医者様は帰って行った。
私は、嘘を吐いた事を後悔した。
――死と言う奴は、矢張り唐突だった。
其の晩、動けない母の躯を洗う為に母の服を脱がしたら、母の躯に出来て居た痣が大きく為って居るのに気付いた。痣は現在進行形で急激に其の範囲を広げて居た。痣が広がって行く様が此の目にはっきり見えた。其れ程の速さだった。
そして徐々に母は息を荒くし、軈て、其の呼吸は真夏の猛暑日に犬がする呼吸より速く為って居た。
母の額に手を当てると尋常ではない熱を感じた。
“御母さん! 御母さん! 大丈夫!?”
私は思わず大きな声を掛けた。母の耳許で。母に言わせれば其れは騒音で迷惑極まり無かった事だろう。
然し母は文句一つ言わず、
“ハァハァ……私、は……ハァ……大、丈夫……ハァハァ……落ち着きなさい……ハァ……心配掛け、て……ハァ御免なさい……ね……ハァ……”
と、息を切らしながら応えて呉れた。
――或いは、耳鳴りがして居て私の声が聞こえ辛く、私の声を大きいと思いすらしなかったのかも知れない。
と、母が噎せた様に咳き込んだ。
私は咄嗟に母の顔を覗き込み、
“本当に大丈夫なの、御母さん!?”
と声を掛けた。
母は返事の代わりに咳をした。と言うより、咳が止まらず返事が出来なかったと言うべきか。
そして母は吐血した。
母の顔の真上で声を掛けて居た私の顔に血の飛沫が付着する。
母の血が口の中に入り、独特の鉄の味が味覚を支配する。
頬や額が所々生温かい。
母の躯を見ると、昨日迄は臍の高さにも達して居なかった黒い痣が、今や乳房の上に迄広がって居た。
“御免……なさい……ハァ……”
母が声を発した。正に咽から絞り出した様な声だった。
“……私……矢っ張、り……ハァ……大丈、夫じゃない……みたい……ハァハァ……”
“御母さん! そんな事言わないで! 未だ未だ私、一人じゃ生きて行けないよ!”
私は母に反論した。するしかない。会話をして居ないと母が死んでしまう様な気がした。
“……良い? ……ハァハァ……良く聞いて……貴方、は……ハァ……私の娘、よ……だから大、丈夫……どんな困難でも……ハァ……乗り越え……られるわ……ハァ……”
“駄目! 未だ死んじゃ駄目、御母さん!”
“……貴方、は強い……ハァ……子……ハァ……一人でも……生き、て行ける……御母、さんが……ハァ……保証する……”
会話が成立して居ない。母が遠く為って行く。そんな気がした。
“……そろそろ……ハァ……ハァさようなら、だわ……ハァ……じゃあね”
母は最期の最後の御別れの言葉を口にして、全く動かなく為った。
つい先迄動いて居た口は微動だにしなく為り、荒かった息は止み、目を見ると瞳孔が開いて居た。
そして、黒い痣は顎の直ぐ下迄達して居た。
私は呆然とした。
母が死んだ。母が死んだ。母が死んだ母が死んだ母が死んだ母が死んだ母が死んだ……もう、戻って来ない。
……そうだ、御医者様を呼ばなきゃ。本当は母は死んで居ないかも知れない。私の思い過ごしかも知れない。母は未だ生きて居るかも知れない。
そう思った私は、御医者様の家へと走った。
“御医者様! 御医者様! いらっしゃいますか? 夜分遅くに済みません! 私です!”
御医者様の家の扉を叩きながら、家の中に向かって叫んだ。
反応は早かった。叫び声が私の声だと直ぐに判ったからだろうか。
ドタドタと音がして、其の音が止むと同時に扉の錠が開く音がした。
扉が開き、深刻そうな顔をした御医者様が出て来た。
“如何したんだい? 御母さんの容態に何か変化が?”
御医者様が真顔でそして早口で私に訊いた。
“うん、御母さんが動かなくなったの。高い熱を出して、血を吐いて、呼吸をしなく為って……。御母さんは生きてるよね、御医者様? 死んでなんか居ないよね?”
私は御医者様に訊ねた。
――否、自分に言い聞かせて居たのだ。母は死んでなんか居ないと。生きて居ると。
御医者様は何を言えば良いのか分からない様な、困った顔をした。其れもそうだろう。動かなく為って、呼吸をしなく為って……そんな状態で人が生きて居る訳がない。
御医者様は其の場を繕おうとして呉れたのか、
“兎に角だ、取り敢えず御母さんの事を診てみないと何も分からない。御母さんの所に行こう。出来る丈早く。”
と言った。母の死を認められない私は勿論其れに従い、御医者様と二人で家迄走った。
家に着くなり私は御医者様を母の許へと連れて行った。御医者様が直ぐ様母の傍に蹲り、母を診た。
“御医者様、御母さんの容態は如何でしょうか。動ける様に為りますか? ちゃんと呼吸出来る様に為りますか? 未だ未だ、私と一緒に暮らし続ける事が出来ますか?”
諦めが悪い。私は未だ母の死を認められない。
御医者様が静かに口を開いた。否、私を諭したと言うべきだ。現実を受け入れられない私を。
“良いかい? 良く聞くんだ。君の御母さんは……亡くなった。もう動く事も出来ないし、呼吸もしないし、君と暮らし続ける事も出来ない。未だ君には酷な話かも知れないが、受け入れるしか無いんだ、現実を。”
現実を受け入れるしか無い。理解して居た……頭では。心が追い付いて居ない。心が理解を拒む。
そんな中、次に御医者様が口にした言葉は、私の頭と心に革命を起こした。
“でも、たった一つ丈、若しかしたら御母さんが生き返られるかも知れない可能性がある”
疑問符が頭に浮かんだ。死んだ御母さんが生き返られる? 怪しい。そんな事が在る訳が無い。言葉を頭で理解出来ない。
一方で、心が其れを受け入れた。御母さんが生き返られるかも知れない。其の言葉は、甘い蜜の如く魅力的で、私の心を惹いた。
気付くと、私の口からは、
“本当ですか、御医者様! 如何すれば良いですか! 御母さんが生き返るなら、私、何でもします!”
と言う言葉が発せられて居た。
私は叫んで居た。縋る思いだった。
御医者様は答えた。
“何も難しい事は無い。唯、此れから僕と一緒に御母さんを連れて、領主様の許に来て呉れれば其れで良い。但し、出来る丈早く。余り遅く為ると手遅れに為ってしまうかも知れない”
私は絶句した。此れから母と領主様の許へ行く? 有り得ない。何をされるか分かった物ではない。何としてでも避けなければ。
“急ぐよ。僕は御母さんを連れて行く。君は僕に付いて来るんだ。良いね?”
御医者様が御母さんを抱き抱える。そして家を出て領主様の邸が在る方角へ歩き出す。 私も其れに従う。否、従う振りをする。途中で隙を見て逃げ出す。当たり前だ。
“領主様の邸迄は少し距離が在るけど、歩くよ? 構わないね?”
“はい”
御医者様が私に話し掛け、私は適当に答える。暫く御互い無言で歩き続ける。
数分待つ。御医者様の意識の中から私の存在が薄れるのを。
そして、今なら行ける、そう思った瞬間。
私は、逆方向へ全力で走った。
御医者様が直ぐに私の行動に気付く。
“こら、何処へ行くんだ! 待つんだ!”
御医者様が叫ぶのが聞こえる。然し、言われて待つ程私は馬鹿ではない。
御医者様が私を追い掛ける足音が聞こえる。
然し、御医者様は母を抱えて居る。御負けに灯の無い真っ暗な真夜中だ。御医者様を撒くのは容易だった。
私は、一先ず森の中に逃げ切った。そして宛ても無く森の中を歩く。
逃げて居る間は無我夢中で無心だったが、逃げ切って落ち着くと思い浮かんでしまった。母の事が。
母は死に、其の躯は無慈悲な領主様の許へ。
私は泣いた。哀しくて。そして悔しくて。
そう、悔しかった。母の躯が領主様の許へ連れ去られてしまった事が。
そして、優しかった御医者様に裏切られた事が。
御医者様が領主様と繋がって居たなんて、信じたくない、嫌な事実だった。
私は此れから如何生きて行こう。考えながら、ふと気付いた。
私は、頭でも、そして心でも、母の死を受け入れて居た。
第二章
其れは、逃避行と呼べる逃避行だったのか。
私は昏い森の中を彷徨った。当ても無く。
若しかしたら私は何処かの方角に向かって居たのかも知れないし、同じ場所を行ったり来たりして居た丈かも知れない。
其の時の私の頭の中は、御医者様から逃げなくてはならない、と言う事丈が支配して居た。
だから、逃げた。
……否、途中迄は其の因果関係が成立して居たが、途中からは因果が瓦解し、手段が目的に化して居た様に思う。
逃げる為に、躯を動かして居た。私は唯、“逃げる”と言う行為に傾倒して居たのだ。
そして気付くと、黎明を迎えて居た。
私は本能的に安堵を覚えた。矢張り人間、周囲の見えない闇を怖れ、辺りを確認出来る明を好む様に出来て居るのだろう。
だが、理性が告げる。今の私が最も危険なのは、本能的に安堵を覚えた明の時間帯の方なのだと。
そう、辺りを確認出来る明。其れは則ち、他人に拠る私の捜索が容易に為ったと言う事。
本当の逃避行は、此れからだった。
私の理性は実に冷静な判断を下し、正確な結論を出したと思う。
今、私が居る森は木々が鬱蒼とし、昼間でも其れなりには暗い森だ。僅かな木漏れ陽が周囲を照らして居る。
そんな普段の此の森を一言で表すなら、静寂。音は無く静かで、訪れる人は疎らで寂しい。
然し、今は違う。音に溢れて居た、と迄は言わないが、少なくとも、普段の様に無音ではなかった。
其れは勿論、早朝だから鳥の鳴き声が良く聞こえ、音が在る、と言う意味ではない。
いや、鳥の鳴き声が聞こえない訳ではない。鳥の鳴き声も聞こえるのだか、其れに混ざって、明らかに鳥の鳴き声とは異なる音が聞こえるのだ。
其れは、何種類かの、少しくぐもった様な人の叫び声。くぐもった様に聞こえるのは、僅かに木霊して居るからか。只、原因が何で在ろうと、一つ言える事実は、何を叫んで居るのか聞き取り辛い事。
私は其の声を何とかして聞き取ろうとした。
全神経を耳に集中させる。耳に色んな音が入って来た。数種類の人の叫び声。鳥の鳴き声。風に揺られ木々の葉が擦れ合う音。規則的に連続する軟らかい物を叩いた様な音。不規則に続く空気が孔を通る様な音。
先ず、聴覚から鳥の鳴き声をシャットアウト。続けて、木々の葉が擦れ合う音を無視。柔らかい物を叩いた様な音も規則的で除外し易い。
厄介だったのは、不規則に続く空気が孔を通る様な音。不規則な所為で除外が難しい。ならば、音源を絶てば良い。然し、音源が何処に在るのか分からなかった。
早く叫び声を聞き取らなければ。私は焦った。息が荒く為る。
同時に、空気が孔を通る様な音の間隔が早まった。
此処でやっと気付いた。空気が孔を通る様な音、其れは私の呼吸の音だった。
私は一度深呼吸して落ち着き、息を止め、そして最も邪魔だった音の音源を絶った。
もう、私の聴覚はくぐもった人の叫び声しかしない。
後は、くぐもった叫び声が何を意味するか聞き取る丈。
其れは、余り困難な作業ではなかった。
大凡の予想は出来て居た。今の私の状況で予想が付かない訳が無い。
私は、聞こえる叫び声に私の予想して居た言葉を当て嵌め、何と叫ばれて居たのか確認作業を行った。
――確認完了。予想通り。
叫ばれて居たのは、私の事を表す文字列。私の事を表す固有名詞。
そう、私の事を表す……私の名前。
其れは、私の探索が始まって居た証明。
現状の私には明るく為った今の時間帯の方が危険だと言う、私の理性が私に告げた忠告は、実に正確だった。
私の名前を呼ぶ叫び声は、木霊して居る所為か、何の方角から聞こえるのか全く判らなかった。
後からも前からも、右からも左からも、声の大小、高低の差異は在れ、私の名前が聞こえて来た。
私は耳を塞ぎたく為った。私が追われて居る。そんな紛れも無い現実から逃避したかった。
――耳を塞ぐ位じゃ何も変わらないよ。
でも、現実に向き合うより、目を逸らす方が遥かに楽だ。
――でも、其れは一時凌ぎにしか為らない、一瞬で消えてしまう楽。
そんな事は分かってる。でも、現実に向き合うのは辛くて苦しい。
――じゃあ、如何するの?
此処で耳を塞いで、目を瞑って、追手から逃げる。
――逃げられてないよ。
五月蝿い……。
――其れは、単に追手の存在を忘れる丈だ。
五月蝿いよ……。
――其の儘じゃ、私は追手に捕まる。私は追手に捕まるのを大人しく待つ丈なのかい?
五月蝿い!五月蝿い五月蝿い五月蝿い!!!
分かってる。解ってる。判ってる。
私の現状も分かってる。私がしようとしている事が何なのかも解ってる。此の儘だと如何なるのかって事も判ってる。
でも、如何しようも無いじゃないか。
今の私には、如何しようもない……。
私の思考に対する返事が無く為った。誰の声だったのか。
御母さんの声? 似て居たけど、違う。似て居た丈。
神様の声? そんな物を聞ける程、私は敬虔ではないし、そんな物の存在も信じてない。
幻聴? 一番近い気がして、然し間違って居るとはっきり感じた。
そうだ、彼れは、私の声だ。私の心の中の声。だが、私の理性の声だったのか? それとも本能の声か? 答は出ない。多分、其の両方共で在り、其の両方共でないのだ。両方の混ざった深層意識の私への忠告。
然し、其の声は聞こえなく為った。私の今の意志が勝ったのだ。
私は両手で耳を塞いだ。近くに在った大木の幹に出来て居た穴の中に潜り込んだ。穴は深く、暗く、そして草で覆われて居て好都合だった。私は目を瞑った。少し湿った土の上に蹲った。此の状態で此処に居れば、追手から確実に逃げられる。そんな根拠の無い確信が有った。
眠気が襲って来る。一晩中走って逃げ回ったのだ。疲れて居ない訳が無い。私は其の眠気に身を任せた。
不用心? そんな事は無い。だって、私は今、絶対に追手に見付からない、安全な場所に居るんだ。不安要素は全く無い。
私は身体を其の睡眠欲求に任せた。
そうして私が眠りに落ちてから、何時間が経ったのだろう。
私は、唐突に目を覚ました。本能的に。辺りはもう真っ暗だ。一日が過ぎたのだ。
私は一日逃げ切った。諸手を挙げて喜びたく為る。
と、足音が聞こえた。私の居る穴に近付いて来る。
追手が迫って来て居るのか。私は矢張り逃げられないのか。
いや、そんな事は無い。此の場所は、絶対に安全だ。
――未だそんな思い込みに囚われて居るのかい、私は。
聞こえなく為った筈の彼の声が又響く。
――追手からは、逃げられないよ。
逃げられる! 私は今日一日を逃げ切った! 明日だって明後日だって、逃げ切って見せる!
――無理だよ。飲まず食わずで居る気かい?
言い返せない。
そして、そんな事を思って居る間にも、足音は近付いて来る。
そして、足音が止まった。
……私の居る穴の前で。
――もう終わりみたいだね。追手からは、逃れられないんだよ。
未だ分からない。偶々其処で立ち止まった丈かも知れない。
――呆れるね。私は現実に立ち向かう覚悟は無い癖に、諦めは悪いんだな。
私は逃げ切れる私は逃げ切れる私は逃げ切れる私は逃げ切れる私は逃げ切れる……。
――自分に言い聞かせても無駄だよ。其の声が効果を成すのは自分の中の世界に丈。私が逃げて居るのは追手からでしょ。其れは、外の世界の存在だよ。自分に言い聞かせても影響は無いよ。
そんなの判らない。思ったら、念じたら、祈ったら、神様にでも通じて、外の世界も変えられるかも知れない。
――何を言って居るんだか。そもそも私は神様なんてそんな物を信じて居ないだろう?
「思ったり、念じたり、祈ったりして、神様に通じるかは知らない。只、此れ丈は言える。其れ丈で外の世界が変わる事は無いよ」
……声がした。私の口から発せられた声ではなく、私の深層意識の声でもない。他人の声。こうなると認めるしか無い。私の存在を認識したから、追手は私の直ぐ近くに立ち止まったと言う事実を。
「良いかい? 思ったり、念じたり、祈ったり。此れ等は全て、自分に言い聞かせる行為だ。自分に言い聞かせて、自分で自分を変える。そして、変わった自分が外の世界を変えるんだ。
いや、何も実際に世界を変える必要は無い。世界が今迄と同じ儘で、何も変わって居なかったとしても、自分が変わって居れば世界の見え方が変わる。世界が変わって見える。此れが、世界を変える、と言う事だよ。
そんな事は扨置き、そんな所に隠れて居る君は何者だい?」
誰?
――誰?
悠長に持論を語り、且つ私を捕まえようとしない所か私は何者かと問い掛ける其の人は、追手ではない様子だ。
――でも、妄想でもなさそうだ。現実じゃない訳じゃないみたいだね。
私と私の深層意識は頭を悩ませた。
……私の深層意識は何でも現実を知覚出来て把握出来て予測出来る訳じゃないんだ。
――当たり前じゃないか。私は私なんだから。私が知覚出来て把握出来て予測出来る事しか分からないよ。
それもそうか。
「ぶ時は……僕の自己紹介を聞いてなかったね、君?」
「えっ?」
「矢っ張り。心此処に在らずな様子だったし。いやね、先、君が私に“誰?”って訊いただろう? だから其れに僕が答えて居たんだよ。如何やら自己紹介は遣り直しみたいだね。其れとも要らない? だったら、僕としては迚も楽なんだけど」
“誰?”なんて私は声に出しただろうか。いや、思った丈で口には出して居ない筈だ。……待った、此の人が私に話し掛けて来た時を思い出せ。“思ったり、念じたり、祈ったりして、神様に通じるかは知らない”此の人は、こう切り出して居た。最初の言葉、“思ったり、念じたり、祈ったり”。此の言葉は、私が思って居た言葉だ。口に出した積もりの無かった言葉。
導き出される結論は単純。私は、深層意識との会話を口に出して居たらしい。端から見れば、独り言を呟く変な人だっただろうな。
「ねぇ、其れで如何なの? 僕は自己紹介をもう一度するべきなの?」
私は再度問われた。此の人が何者なのか、私としても迚も気になる。
「済みません。自己紹介、御願いします」「分かったよ。面倒だけどいいよ。ああ、僕は此処で、“人に名乗って貰う時は、先ずは自分から名乗る物だよ”って言うべきなのかな。まぁいいや。其れも面倒だし」
そう前置きされて、自己紹介が始まった。
「僕は通りすがりの吸血鬼ハンターだよ」
「吸血鬼ハンター……? あの……エクソシスト……って奴ですか?」
聞き齧った事の有る単語を口に出してみる。
「教会の犬なんかと一緒にしないで呉れ。私はフリーの吸血鬼ハンター。誰にも束縛されてないよ。
其れに、私は何方かと言うと教会の犬に追われる立場さ」
「はぁ……フリーの吸血鬼ハンター……」
吸血鬼ハンターなんて物が存在する丈でも驚きなのだが、フリーの吸血鬼ハンターなんて物が在るのか……。
と言うか、吸血鬼ハンターなんて物が成り立って居ると言う事は、吸血鬼は実在するのだろうか。
「厳密には吸血鬼ハンターは副業なんだけどね。本業の所為で教会の犬に追われる立場に在るのさ」
「本業……とは?」
「魔術師」
「……………………はぁ」
思わず間抜けな声を出してしまった。
一瞬の間に私の理解を越える単語が流れ込んで来る。
「あの、質問が幾つか有ります」
「ああ、構わないよ?」
理解を越えた事柄を確認して行こう。
「吸血鬼って実在するんですか?」
「するよ。私には吸血鬼の知り合いも居るし。……此の直ぐ近くの街の領主は吸血鬼だって言う話を聞いた事は無いかい?」
「えっと……有ります。其の街は私が住んで居た街ですし……」
「あ、そうなの? 丁度良かった。僕の今回の仕事は其の街の領主が本物の吸血鬼か否かを調べて、本物だったら殺す事なんだ。後で街迄案内して呉れる?」
「其れは……良いですけど」
私は少し悩んで許諾した。街に戻るのは怖いが、仮にも吸血鬼ハンターを名乗る此の人は強いに違い無い。私が危険な目に遭えば助けて呉れるだろう。
「お、本当? いやー、助かるよ、有り難う。てっきり君は街には行きたがらないと思って居たからね」
私の思いは読まれて居たみたいだ。
「ああそうだ、質問は幾つか有るって言ってたね。話の腰を折って悪かった。次の質問、良いよ」
気を利かせて呉れたみたいだ。私は質問を続けた。
「フリーの吸血鬼ハンターって如何言う事ですか?」
「其の儘の意味だよ。何処にも所属しない吸血鬼ハンター。色んな組織、自治体、共同体から依頼を受けて、依頼に沿って吸血鬼を狩るのさ。勿論、報酬を貰ってね。慈善事業じゃないよ」
そんな仕事が在るのか……。
「では最後に。魔術師って言うのは……?」
「此れも其の儘の意味だよ。魔術を操る者さ。職業的に言うなら魔術を操って物を作り出し、其れを売って生計を立てる」
「魔術……」
「ああ、魔術さ。簡単に言うなら魔力を用いて物質に変化を与える術」
「はぁ……」
……理解するのは止めた方が良さそうだ。私の今迄の人生の知識の範疇を越えて居る。
「此れで質問は最後だったね。じゃあ今度は僕から質問だ」
攻守交代。私が質問を受ける側に回った。
「先ずは単刀直入に訊こうかな。君は如何して街を出たんだい? ……此れじゃあ単刀直入とは言えないな。訊き直そう。君は如何して街から逃げ出したんだい? 何から逃げて居るんだい?」
吸血鬼ハンターさん――いや、本業は魔術師だって言ってたから魔術師さんと呼ぶべきか――魔術師さんは自分の髪を弄りながら何でも無さそうに、然し丸で全てを見抜いて居るかの様に私に問うた。
そして、魔術師さんの眼は鋭く……有無を言わせず、私に唯、問いに答える様に促して居る様だった。
こんな眼を向けられて黙って居られる程、私は強くなかったし、黙って居る意味も無かった。
「一寸、長く為るけれど、良いですか?」
「構わないよ。別に私には時間が無い、なんて事も無いしね」
「私が居た村で病が流行って居た事は御存知ですか?」
「ああ。村で流行り病が在って、其の病の罹患者を、吸血鬼かも知れない村の領主が勝手に片っ端から隔離して居る。そんな話は聞いて居るよ」
「私の母も、多分其の流行り病の罹患者だったんです」
「ふーん」
其の後、私は話を続けた。母が死んだ事。母と共に御医者様に領主様の元へ連れて行かれそうに為った事。私は御医者様から逃げた事。そして、私の捜索が始まって居た様で、私は其の捜索の手から逃れる為に隠れて居た事。
「ふむ、概要は理解した。成る程ね。一寸気に為る事も有るけど……まぁいいや」
そう言うと魔術師さんは持って居た袋から布を取り出した。
「此の辺りには結界を張った。多分誰も近付けない。一晩過ごす為にテントを張るから手伝って呉れるかい? 今日はもう休むよ。私も一日歩いて疲れたし」
えっと……其れは、
「あの、私と御一緒して貰えるって事ですか、一晩?」
「当たり前だろう? 僕は君に街まで案内して貰う積もりなんだからね。一緒に居るのは当然だよ」
心強かった。兎に角、私はテント張りを手伝い始めた。
第三章
テントを張り終わると、魔術師さんは、
「食事にしたいんだけど、生憎手持ちに食料は無いんだ。君、野草とか茸とかには詳しい? 食べられる奴集めたいんだけど」
と訊いて来た。
「あ、はい。多少は。母に教わって居たので」
私はそう答えた。
「なら丁度良い。食べられる物を私と一緒に集めて呉れないか?」
「良いですよ」
「じゃあ僕は此方側を探すから、君は向こうの方を探して呉れ。ああ、此の辺り一帯は結界を張って在るから、殆どの人は寄って来れない。だから基本的に追手の心配はしなくて良いよ」
「分かりました」
私は言われた通りに食べられる野草と茸を探し、或る程度の量を集めた。此れ丈在れば二人分の食事には十分だろう。寧ろ多い位だ。
……と思ってテントに戻った私は、既に戻って居た魔術師さんが集めたので在ろう山にして置いて在った野草と茸の量に驚かされた。私の集めた量の三倍は在るんじゃないだろうか。そんなに食べる積もりなのか、此の人は。
……と考え付いた所で、此れから数日分の備蓄だろうと理解した。魔術師さんの体型はスマートで、大食漢には迚も見えないし。
「凄い量ですね。矢張り備蓄迄考慮するとこんな量に為るんですね」
「えっ? 備蓄って何の話? 今日の夕食分だよ、此れ全部で」
私は唯、驚愕するしか無かった。此の量が夕食一回分……。
「ああ、君が集めて来て呉れたのを合わせて丁度良い位の量に為りそうだ。扨、僕は調理に取り掛かろう。君は向こうで休んで居て呉れ」
私が集めたのを合わせて丁度良い!? どんな胃袋をして居るんだ此の人……。
そして暫く待つと魔術師さんに呼ばれたので向かうと、簡易的な椅子とテーブルが出来て居た上に大量の料理が其の机上に在った。
「其処にどうぞ。好きな丈食べて良いよ」
「は、はい」
魔術師さんに椅子に座る様促され、そして食事の許可を貰った。
取り敢えず目の前の料理を口に運んだ。何と言う料理かは知らない。只、美味しい。
と、
「ああそうだ、君に良い文化を教えてあげよう。僕が感銘を受けて且つ迚も気に入って居る文化だ。
東洋の端の国に“いただきます”って言葉が在るんだ。キリスト教の食事前の御祈りに似てるけど非なる物。料理の食材の命への感謝、料理の調理者への感謝、其れから今回は野生のだから違うけど、食材の生産者への感謝の込められた言葉なんだ。此の言葉を食事の前に手を合わせて唱えて感謝の意を示す。試してみても良いんじゃないかな。強制はしないけどね」
魔術師さんが言った。
強制はしない、なんて付けられたけど、熱を込めて説明されてしまったので選択肢は試すしか無い。
私は手を合わせて、
「いただきます」
と唱えた。
敬虔ではなかった私は食事前の御祈りなんてした事が無かったので、食事前の感謝は新鮮に感じた。
夕食は黙々と進んだ。と言うか、魔術師さんが大量の料理を凄い勢いで迫力を伴いながら食べるので、会話する余裕が無かった。
気付けば夕食は終わって居た。
「あ、そうだ。君って毎日御風呂入らないと駄目なタイプ?」
突然食事の後片付けをして居る魔術師さんに訊かれた。
「僕は湯槽に毎日入らないと駄目って程じゃないんだけど、せめて身体を拭かないと堪えられないんだよね」
そう言いながら魔術師さんは御湯を沸かし、そして布を其の御湯に浸した。
「此れで身体を拭く位は毎日してるんだ。そうしないと気持悪くてね」
そして魔術師さんは……服を脱ぎ始めた。私は目を逸らす。
「一応君の分のアツシボも有るよ。使う?」
「アツシボ?」
聞き慣れない言葉だ。
「熱い御絞りの事。雀荘用語」
「雀荘?」
「東洋の麻雀ってゲームをする為の御店……ってとこかな」
「はぁ」
良く分からない。
「で、使う? 身体拭いて置かないと気持悪くない?」
確かに汗も掻いたし此の儘だと気持悪い。
「使います」
「了解。投げるよ」
魔術師さんが私に“アツシボ”を投げて来た。
私は魔術師さんの方を向いて“アツシボ”を受け取る。
魔術師さんの裸が目に入った。しまった。目を背けなくては。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
……でも、一瞬丈見えた魔術師さんの身体は迚も綺麗だった。真っ白で、体型はスラリとして居て、括れが有って、体毛なんか全く無くて、膨らんだ胸が有って……ん? 膨らんだ胸?
思わず魔術師さんの方を見直した。其の肢体は、明らかに女性の物だった……。
此の人は、女性……? 僕って言ってたのに……?
呆然としながらも、取り敢えず身体を拭き始める。先ず、袖を捲って腕から。と、
「ん、君は服を脱がないのかい? 服を着た儘じゃ拭き辛いだろう。脱ぎなよ。なに、心配は要らない。他の誰かに見られる可能性は殆ど無いよ」
「え、いや、でも」
「若しかして僕の事を気にして居るのかい? 女同士じゃないか」
矢っ張り女性だったのか……。
「良し、僕は拭き終わったし君の身体を拭いてあげよう。服も脱がしてあげるよ。じっとしてて」
「えっ!?」
抵抗する間も無く私は産まれた儘の姿へと化して居た。
そして身体中を熱目の布で拭かれて居た。
「お、鎖骨の上に黒子発見。色っぽいねぇ」
魔術師さんが言った。だが黒子? 今迄生きて来てそんな所に黒子が在るなんて知らなかった。
其れを魔術師さんに言ったら、
「まぁ、自分じゃ気付き辛い位置だしね。そう言う物だよ」
と返された。
何と無く腑に落ちない物を感じながら、為されるが儘に身体を拭かれ続けた。
「お、脹脛にも黒子発見」
魔術師さんが楽しそうだった。
「此の黒子、中々に大きいな」
ぶっちゃけそんな事如何でも良い……。
「あれ、無反応?」
魔術師さんが突然不思議そうな顔を向けて来た。
「無反応って、何の話です?」
「今僕、君の脹脛の黒子を思い切り抓ったんだけど。痛くなかった?」
私は何も感じなかった。痛み所か、触られて居る感覚すら無かった。
此の状態に覚えが有った。忘れられる筈も無かった。
――亡くなった母の、症状だ。
そう、罹患者の躯に黒い斑が出来、其の部分の感覚が麻痺する。斑は、躯中に広がって行く。
私が流行り病に罹患した……と言う事か?
そうだ、先、魔術師さんに指摘された鎖骨の上の黒子。彼れも病に因る物……?
「あの……魔術師さん」
「……えっ? ああ、若しかして今、僕は君に呼ばれた?」
「あ、はい、呼びました」
「“魔術師さん”……呼ばれ慣れないな。いや、本来こう呼ばれて然るべきなんだ。うん、そうだよ」
魔術師さんが独り言を呟く。“魔術師さん”と言う呼称は良くなかったのか?
「あの、私、魔術師さんの事を何と御呼びすれば良いんですか?」
「ああ、私の事は好きに呼んで良い。名乗る名前を持って居ないんだ。只、便宜上“W”と名乗って居る。又は僕の幾つか有る仕事の一つの所為で、“先生”と呼ばれる事も度々在る。まぁ其の辺りで呼んで呉れても良いよ」
「あ、じゃあ先生って呼びますね」
「うん、分かった。……しまったぁあああっ!! 何時もの癖で本業の“魔術師さん”って呼ばれるチャンスを逃したぁあああっ!! 失敗した失敗した失敗した失敗したっ!!」
「あの、先生?」
「ああ、僕の事は先生で構わない。存分に先生と呼んで呉れ。好きな丈先生と呼ぶが良いさ!!」
自棄に為って居る様だった。
然し私には先生が落ち着くのを待つ程の精神的余裕は無い。
「あの、先生、御願いが有ります。先生が先程見付けた私の鎖骨の上の黒子を抓って貰えませんか?」
出来る限り真剣な顔で、声で、口調で、私はそう言った。
思いが通じたのか、先生は落ち着きを取り戻し、
「……何か意味が有りそうだね。良いよ。思い切り行くけど覚悟して」
と言った。
「はい、御願いします」
先生が私に手を伸ばす。私は反射的に痛みに備えて目を閉じた。躯に何の異変も感じない儘、暫く時間が経過する。
「如何だい?」
先生が訊ねて来た。
私は目を開けた。そして質問に質問で返した。
「先生、今、本当に私を抓って居ましたか?」
「ああ、間違い無く抓って居たよ。思い切りね」
矢張り、感覚が麻痺してる。如何やら私も流行り病に罹患した、と考えて良さそうだ。
「扨、僕は君には説明する義務が有ると思うんだ。僕を使ったんだからね」
笑いながら先生が言う。
「君は何を確かめたかったんだい? 説明して呉れ」
真面目な声色を出して先生が問う。
「今、私は先生に黒子の様な物を抓って貰いましたね?」
私は先生の問いに答える為に、問いを返す。
「ああ、確かに抓ったよ。思い切りね。でも、君は無反応だった」
「はい。感覚が麻痺して居るんです」
「麻痺、か……。君は其れを態々確認した。麻痺の原因に疑わしい物を知って居て、其れで在る確証を得ようとした、と言った所かな? ……いや、欲しかったのは其れではない確証、だね?」
先生が私の心の核心を突いて来た。
其の通りだった。
「はい、確かに私が欲しかったのは、私が疑って居る物が原因ではない確証、です」
「そうだよね。……扨、まどろっこしい話は此処で止めにしようか。君の麻痺の原因は、何だい?」
先生が、単刀直入に、問うた。
隠す事も無い。先生に病の事がバレても私は隔離される事は無い。そう、何の躊躇いも無く答えられて当然なのだ。
でも、何かが邪魔をした。
何故か、私の中に躊躇いが生まれた。
――気付いてるでしょ? 其の躊躇いの正体に。私の口を重たくして居る物に。
うん、気付いてるよ、深層意識。矢っ張り目を背けたいけれど、私は無理にでも直視しないといけない。
「流行り病です、先生。私の麻痺の原因は、恐らく……いや屹度、村で流行って居る、私の母の命を奪った、流行り病です」
口に出して、はっきりと口に出して、私は自分の病を認めた。母と同じ様に死ぬかも知れない。そんな恐怖に向き合った。
「矢張りそうか……症状は感覚の麻痺なの?」
「はい。主な症状は幾つか有りますが、特徴的な症状は、躯に出来た黒斑の部分の感覚の麻痺です。黒斑は最初は黒子位の大きさですが、どんどん其の範囲を広げて行きます。そして最後には、躯の殆ど全体に広がって……罹患した人は死に至ります」
「成る程。感染媒体は分かって居るの?」「いえ、全く。如何やって他人に感染って居るのか、其れが分かって居ないので“謎の病”なんて呼ばれたりして居るんです」
「ふーん」
「実際、長時間一緒に狭い部屋の中で働いて居た二人のうち片方丈が罹患したのにもう一人はピンピンして居た、と言う例も在れば、矢張り長時間一緒に居た家族が全滅、なんて例も在ります。一人暮らしで仕事も一人な人が罹患した例も在るし。訳が分かりません」
「成る程。罹患者の致死率は分かる?」
「百パーセントだと聞いて居ます。原因も分からないから治し様が無い、とか。行われて居る治療は対症療法のみみたいです。
尤も、罹患者と分かった時点で最近は領主様の元に隔離されて居るから、本当に罹患者が全員死んで居るのか、或いは本当に治し様が無いのか、分かった物ではないですけど」
私の話を聞き終えた先生は、
「そっか……」
と丈呟き、顎に手を遣って考え込み始めた。そうして暫く経ち、突然、
「……ああ、そうだ、怖がる必要は無いよ。僕が“先生”って呼ばれて居るのはね、副業で医者の真似事をして居るからなんだ。君の病も、治して見せるよ」
先生は優しい声で、私を安心させる様に言い放った。
「扨、全ての鍵は領主の元に在りそうだな。……一週間、僕は準備に時間を費やす。買い揃える必要が有る物も有るから、明日は僕を村の方へ連れて行って呉れ」
「村の方へ案内するのは構いませんが……一週間、何の準備をするんですか?」
「決まってるじゃないか。最初に僕の目的も話したし。吸血鬼狩りに、領主様の邸に乗り込むのさ」
私と先生が出会った日から三日が経過した。
其れは則ち先生が私の躯に黒斑を見付けてから三日が経過したと言う事で在り、要は私が流行り病に罹患して居た事が発覚してから三日が経過したと言う事だ。
黒斑は丸で当然の如く其の範囲を広げて居た。黒子大の斑だった其れは今や硬貨と同程度の大きさと為って居た。胸に出来た黒斑を視認する事は今では容易だった。
其れ丈じゃない。黒斑は数を増やして居たし、私の躯は熱を帯びる様に為って居た。躯が麻痺するのも実感出来たし、其の御陰で躯が動かし辛くも為って居た。嫌でも母の死に際の姿が思い出された。
私の感情を支配して居たのは恐怖だ。他に何が在ろうか。
徐々に黒斑が増え其の範囲を広げて行き、躯が黒く染まり切る事への恐怖。
徐々に感覚が失われて行く、軈て何も感じなく為る事への恐怖。
徐々に躯が動かなく為って行き、自力で躯を動かせなく為る事への恐怖。
そして、最終的に躯が高熱を帯び、母と同様に死に逝く事への恐怖。
恐怖。恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖。
先生は私に、矢張り対症療法ながらも治療を施して呉れた。鍼に拠る黒斑部分の神経の刺激。解熱剤の投与。其れから原因が分からないので、兎に角栄養の有る物を食べさせて呉れた。
然し、先生には申し訳無いが、私はそんな事が無駄だと分かって居たし、実際効果は無かった。
先生は結局、悔しそうな顔をしながら私に謝った。?何も役に立てなくて、ごめん?
でも先生は悪くない。そう言う病なのだ。
私は半ば諦めて居た。死を受け入れ始めて居た。
可笑しな物だ。恐怖と諦観は共存出来るらしい。死ぬのは怖いけれど、死んでしまう物は仕方が無いと思って居る。
只、気掛かりな事が一つ、恐怖を増長させて居る。
病の進行が速い。母と比べて格段に。
母の躯の黒斑はもっと遅いペースで広がって居た。そう、今の私の黒斑の大きさに為るまで、母の場合は二週間程も掛かって居た様に記憶して居る。
私は、死の訪れが早いのだろうか。
既に諦観し、余生を有意義に生きようとして居たが、其の余生は短いのだろうか。
矢張り可笑しな話。諦観と悲観が共存して居た。
そんな私に先生は言った。?此の病の鍵は絶対に村の領主の邸に在る筈だ。僕を信じて。必ず君を助ける?
先生は何処迄も優しかった。
結局、諦観し、悲観して居た私に出来るのは、そんな先生と言う僅かな可能性に賭けてみる丈だった。
そして四日が経った。先生と出会ってから七日。則ち、一週間。
そう、先生が指定した日だった。吸血鬼狩りに行く日として。
第四章
「準備は既に整ってるよ。もう暗くなったし、領主の邸に攻め込むのは何時でも構わない。後は君の心の準備次第だよ」
先生が言った。
先生の本来の目的は吸血鬼狩。然し、私の罹患した流行り病の治療に就いても請け負って呉れた。邸に何らかの鍵が在る筈だと。
そして、明らかに足手纏いにしか為らないで在ろう私を連れて行って呉れると言う。
本当に今の私は御荷物だ。只でさえ役に立たない私なのに、躯の大部分が黒ずんで麻痺し、動きが可也鈍く為って居る。確実に先生の邪魔にしか為らない。
其れでも私は先生に甘える事にした。此の病が治る可能性が在るならば、私は其れに賭けたい。死にたくない気持が未だ強く有った。
正直、怖い。吸血鬼かも知れない領主様の邸に踏み込むのだ。殺されても可笑しくない。だけど、何もしないと私は唯死ぬ丈なのだ。死ぬなら何かして死にたい。何もせずに死ぬなんて御免だ。
うん、心の準備は出来た。行こう。
「先生、行きましょう。足手纏いにしか為らないと思いますが、其れでも宜しく御願いします」
「分かった。じゃあ行こう、一緒に。領主の邸迄の案内を頼むよ」
「はい」
先生に案内を頼まれたが、先生の事だ、屹度既に調査して居て、領主様の邸の位置なんて把握して居るだろう。先生は私に役割を呉れたのだ。御荷物でしかない私に仕事を与えて呉れたのだ。
私は先生の優しさに応える。迚も簡単な仕事だけど、遣り通す。
動きの鈍い躯を何とか運ぶ。時間は掛かった。其れでも何とか私は仕事を果たした。
「先生、此処が領主様の邸です」
「案内、御苦労様。有り難う」
先生は迚も優しい人だ。こんなに簡単な仕事だったのに、御礼迄言って呉れた。
さぁ、私の仕事は終わった。後は出来る限り先生の邪魔に為らないよう尽力する丈だ。
邸は鉄の巨大な扉で閉ざされて居た。先生は如何遣って中に侵入するのだろう。
そんな事を心配して居ると、先生が言った。
「今から君に魔術を見せるよ」
そして先生は右手を扉に当てて、
「融けろ」
と呟いた。
すると、先生が手を当てた所から扉が融けて行った。ドロドロと、丸で扉は氷の塊で出来て居たかの様に。
そして人が一人通れる程の孔が空いた。
「入るよ」
先生が私に声を掛け、其の孔から邸に侵入する。先生の助けを受けながら私も何とか其れに続く。
「……可笑しい」
辺りを見回して先生が呟いた。
「夜の邸に見廻りの使い魔一匹居ないなんて。吸血鬼なのにこんな無用心が在るか……? 何か臭う。罠か? 侵入者を油断させる為の。いや、其れとも単なる罠ではなく、もっと別の理由か……?」
怪訝な顔をして先生が独り言を続ける。
「……良し、行こう。単なる罠なら対処すれば良い丈の話だ。其れ以外なら危険は無い」
丸で自分に言い聞かせる様に言ってから、先生は邸の奥へと進んだ。
一つの大きな扉を開けた。其の先は大きな広間だった。広間は蝋燭で照らされ明るい。
そして、広間の奥には……一人の大柄な男が立って居た。
男が口を開いた。
「ようこそ、我が邸へ。私は此の邸の主で此の村の領主、
「自己紹介なんて要らないよ。僕の前に現れた時点で貴殿が何者かも、其の正体も直ぐに分かった」
先生が男の名乗りを途中で遮り、そして、
「吸血鬼だね、貴殿は?」
と言い放った。
「発して居る魔力が人間の物じゃない。直ぐに判ったよ。
ああ、生憎僕は名乗る気は無いよ。いやまぁ、名乗る気が無いと言うか、名乗る名が無いから名乗れない丈なんだけど。あ、其れと此れから殺す相手に自分の事を態々教えてあげるのも面倒臭い、と言うのも有るかな」
「確かに私は吸血鬼です。貴方は私を殺しにいらっしゃったのですね。教会のエクソシストの方ですか?」
「残念、外れ。一時的な雇われ吸血鬼ハンターさ。雇い主を知りたいかい?」
「そうですね、是非」
「貴殿の御仲間さ。吸血鬼社会の自治共同体から、掟破りの吸血鬼が居るかも知れないから調査し、若し掟破りが真実ならば其の吸血鬼を始末しろ、と依頼を受けたんだ」
「掟破り、ですか」
「吸血鬼社会の掟には、無闇に人間の血を吸っては為らない、と言うのが在るんだろう? 其れの事さ。貴殿は何人もの人間を邸に連れ込んで居るそうじゃないか。此の状況証拠だけで貴殿を始末する理由には十分為り得るよね」
「仰る通りです。端から見れば私は完全な掟破りの吸血鬼。始末の対象と為りますね。然し、私にも事情が有る」
「貴殿の事情なんて知らないよ。僕は依頼に従って貴殿を始末する丈だ。と、何時もなら此処で貴殿の首を落としに掛かって居るんだけどね。今回は僕にも事情が有ってね」
「事情? 其の事情とやらは貴方が背中にして守って居る少女と関係が在りそうですね」
私が話題に上り、動悸が更に高く為る。
「ああ、其の通りだ。貴殿に問う。此の村で流行って居る病に就いて、何か知らないか?」
「正直に御答えしましょう。全てを知って居る訳では在りません。然し、何も知らない訳でもない。私に付いて来て呉れますか? 御見せしたい物が有ります。見て頂ければ全てが解るでしょう」
そう言うと男は、領主様は、吸血鬼は、広間の奥に在る扉を開け、扉の向こうへと進んで行った。
「僕達も行くよ。怖がらなくて良い。彼の吸血鬼に今の所攻撃の意志は無い。少なくとも罠では無いと思う」
先生に言われて気付いた。私の躯は震えて居た。私の精神は状況を客観的に受け入れる余裕しか無かった。
私は……恐怖して居たのだ。男に、領主様に、吸血鬼に。
でも、私は決めたのだ。何もせずには死なないと。
「分かりました、先生。行きましょう」
男に暫く付いて行くと、下り階段が在った。
「此の階段を降ります」
男が言い、階段を降りて行った。
「僕達も続くよ」
「はい、先生」
先生に補助して貰いながら一段一段階段を降りて行く。
階段を降り切った所に大きな両開きの扉が在った。
「此の先に、私の?事情?が在ります。そして恐らく――いえ、屹度、貴方方の?事情?も」
男はそう言いながら扉に手を掛けた。そして、
「貴方は、貴方方は、此の先に在る物に目を向ける覚悟は有りますか? 現実に目を向ける覚悟は有りますか?」
と、私達に問うた。
「覚悟も何も無いよ。僕は唯、目にした物を、耳にした物を、嗅いだ物を、食した物を、触れた物を、?其れ?として受け入れる丈だ」
先生が答える。
「私は……何もしないで死にたくない。其処に何が在っても、どんな現実が在っても、目を向けます。覚悟は出来て居ます」
私も答えた。
「分かりました。では、扉を開けます」
男が、両開きの扉の片方を開けた。
其処には、市街が在った。
否、市街と呼ぶには広過ぎる。一つの村が在ったと言うのが最も的を射て居るだろう。
家が在り、店が在り、農地が在り、人が居る。
其処は殆ど――私が居た所と大差の無い――村だった。
私が居た村とは異なる点が在るとすると、其の場所は地下室で在り、天井には窓が在り月光が射し込んで居た事と、そして……其処には活気が無い事。
其処に満ちて居た雰囲気を敢えて表現するのならば、其れは“死”と言う一文字が相応しい。
人々は確かに生きて居る。はっきりと動いて居る。然し、感じられたのは“死”と言う印象だった。生気が感じられなかった。
気持ち悪い。
何と無く、そんな感情を抱いた。
其処に充満する“死”の印象が私に不快感を与えて居た。同時に、恐怖を。
「僕から問わせて貰おう。此の場所は何だ。住民は何者だ。そして……」
先生が領主様に詰め、更に続けた。
「……何故住民全員が吸血鬼と化した人間なんだ」
先生の放った問いは衝撃的で、且つ一方で納得の行く物で在った。
吸血鬼に血を吸われた者は一度死に、吸血鬼として蘇生すると言う。此の村が“死”の雰囲気を漂わせて居るのは其の所為か。
領主様が口を開いた。
「御答えしましょう。此処は村です。流行り病の罹患者の……いえ、罹患者だった者達の村です」
「如何言う事だ……いや、待て、まさか……? ……一つ疑問が有る。吸血鬼が人間を吸血鬼にするには、吸血行為を行う際に吸血鬼自らの血を人間の体内に送る必要が在る筈だ。だが、単なる貴殿の娯楽の吸血で在るならば、態々人間を吸血鬼にする必要性を感じない。此の事は、病の治療と関係が在るのか?」
先生が更に問う。然し、何かを理解した様子だった。
領主様が答える。
「ええ、御察しの通りです。罹患者を生かす為に必要だった。そう言えば納得して頂けますか?」
「……ああ。理解したよ。貴殿は荒療治ながら流行り病の治療法を確立させた。副作用の酷い治療法を、ね」
先生が目を瞑って呟く様に言った後、少し哀しい顔をして私の方を向いて、
「僕に決定権は無い。決定権を持って居るのは君丈だ。君にとって究極的な選択に為るだろう」
と今一つ意味を捉え切れない事を語り掛けた。
「あの、先生、如何言う意味ですか?」
「其れは其処に居る吸血鬼の領主様に訊くと良い。
そうだ、其れともう一つ。僕は君に謝らなくては行けない。大口を叩いたが、僕に君の病を治す事は出来ないみたいだ。本当に申し訳無い、約束を守れなくて」
先生が私の事を優しく抱き締めた。
私は、答えなくては。
「良いんです、先生。先生が居なければ何方にせよ野垂れ死んで居たんですから」
「そんな事は関係無い。僕が君を安心させようと無責任な事を言って、結果的に大嘘を吐いてしまった。此れは、僕が一生背負わなくては行けない十字架だ」
先生は、私の言葉等御構い無しに自身を責め、そして私を抱き締める力を強くした。
「本当にごめんよ」
先生が耳許で絞り出す様な声で囁いた。
先生の温かみを感じながら、私は自分の動悸が速まって居る事、体温が上がって居る事に気付いた。
何時迄も大人しくして居る訳にも行かない。
「先生、先程の選択とは何ですか。私は何を決定しなくては行けないのですか」
そう先生に問うた。
「君が選択しなくては為らないのは、副作用の酷い治療を受けるか、奇跡を信じて待つか……いや、はっきりと言うべきだな、生きるか死ぬかだ」
「生きるか死ぬか……?」
「ああ。扨、説明してあげたら如何だい、領主様?」
先生が領主様に話を振った。
そして、領主様が語り始めた。流行り病に就いて。領主様がして来た事に就いて。そう、則ち流行り病の治療法に就いて。
「此の流行り病は恐らく、病原体が血液中で繁殖して居ます。だから、血液を介して感染する。
私が其れに気付いたのは、生きる為の吸血行為をした時でした。血液の味に違和感を覚えた私は其の人間を調べ、病の罹患者で在ることを確認しました。
感染の仕方は実に単純。大量に病原体の潜んで居る血液を僅かでも体内に入れたらもう其れで感染です。水で洗った位では完全に洗い流す事は出来ませんから質が悪い。罹患者の血液を口に含んだら勿論ですし、手で触れた丈でも粗確実に感染するでしょう。
此の病原体の質の悪い所はもう一つ。罹患者が死の間際に為った時、罹患者の肺の血管を破壊し、血を吐き出させます。他の人間に新たに感染出来る様に」
「あ! 母も……ハァ……最期に血を吐いてました!」
思わず母の最期を思い出した私は叫んだ。然し、可笑しい。息切れがする。
「実例を御覧になったんですね……」
領主様が私に哀しそうな笑みを向けた。其の笑みからは、私への同情も見て取れた。
「話を戻しましょう。病原体は血液中に潜む。私は其処から一つ、仮説を立てた。若し罹患者の血液を全て吸い取ったら、病原体を死滅させ、病を治す事が出来るのではないか、と。
私は末期の患者を呼び集め、実験しました。患者の血を吸い尽くしました。
あ、無論私が病に罹患する事は在りません。吸血鬼は不死身ですから、此の程度の病原体なら体内に取り入れても病原体の方が死滅します。
扨、患者の血を吸い尽くしましたが、其の直後に気付きました。此の儘では躯に血が巡らず、酸素が供給されなくて患者が死んでしまうと」
「待て、貴殿は馬鹿なのか? そんな当たり前過ぎる事に血を吸い尽くしてから気付くなよ」
先生が口を挟んだ。
「当たり前過ぎる事程中々気付かない物ですよ。
扨、其の事に気付いた私は頭をフル回転させました。そして、私の血液を与える事を閃きました。最善策とは言えないと思います。然し、可能な唯一の対処法でした。彼の瞬間に於いても、そして今現在に於いても。
御察しの通り、此の方法には大きな副作用が有ります。私の血を分け与えられた者は人間として存在出来なく為る。私の血を受け入れられずに生命が壊れ死んでしまうか、私の傀儡と――吸血鬼と化してしまうか。私が行って居る治療法は死と言う大きなリスクを孕んで居て、死を回避しても元の生活には戻れない。治療法なんて言ってますが、本当は治療法なんかではなく、唯の対症療法なんですよ。
此の村は、流行り病に罹患し、私の治療を、いや、対症療法を受けて、死を回避し、そして吸血鬼と化した、人間としての生活を送れなく為った者達の村なんですよ。
……扨、如何されますか、御嬢さん。私の対症療法を受けますか?」
領主様が話を終え、私に問うた。
私は先叫んだ時よりも息切れが酷く、感じる体温は高く為って居た。
……母の最期にそっくりだ。
屹度、今の私の躯の大半は黒く染まって居るのだろう。
「御嬢さん、受けますか? 受けませんか?」
領主様が私に再度問う。其れは丸で急かす様に。私の最期が近い事を見て取って居る様に。
答えなんて、決まってる。何の為に私は此処へ来たのか。何の為に先生に付いて来たのか。
生きる為だ。
だから、私は答える。息は切々に、声はか細く、然し、出来る限りはっきりと。
「……ハァ……領主様……ッハァ、ハァ……御願いします、其の対症療法を」
領主様は私に哀しみを含んで居た先程とは違う、喜んで居る様な、安心して居る様な、そんな微笑みを向けた。
一方で先生は無表情で、否、良く見ると少し、本当に少し丈哀しげな表情で、
「其れが君の決定だね。自分で決めた事だ、決して悔いを持たない様にね」
と私に言った。
「扨、直ぐに取り掛かりましょう。御嬢さん、貴方の状態は恐らく末期状態だ。何時吐血に、そして死に至っても可笑しくない」
領主様が言った。そうか、矢張り今の私は見て分かる程に病が進行して居るのか。
「……ハァ……はい、御願い……ハァ……します」
「ええ」
領主様が私に一歩一歩近付く。時間が長く感じる。屹度数秒の事なのに、数分にも数時間にも感じた。
私は安堵に満たされて居た。私は死なない。生きるのだ。生きられるのだ。
領主様が私の首に歯を立てる瞬間が待ち遠しかった。
――人が一人、走って来る足音が響いた。そして其の人は私と領主様の間に入り、私の事を抱き締めた。丸で私を領主様から庇うかの様に。
闖入者。然し、懐かしい温かみを感じた。柔かさを感じた。此の感じは……まさか……?
「……ハァ……御母さん……?」
「ええ、そうよ」
そう答えると、其の人は、否、母は私を抱き締める力を強くした。そして、領主様の方に顔を向けて言った。
「此の子を吸血鬼にはさせない」
えっ?
「此の子に永久の苦しみを味あわせはしない」
何を言って居るの、御母さん……?
「何を仰って居るのですか! 此の儘では其の子は死んでしまうんですよ!」
「其れで構わない。私は私の娘を不幸にはさせない」
意味が分からないよ、御母さん。私は生きる為に此処に来たのに。
「不幸? 望まない死こそが最高の不幸では在りませんか!」
「勘違いして居るわ。望まない不死こそが最高の不幸よ。いえ……最初は望んで居たとしても、不死は何時か必ず不幸と為る。
不死には生きる喜びも、死の哀しみも無い。唯、何も感じなく為って永久に生きる丈。生きる丈と言うのは、死ねないと言うのは苦しみよ。人はね、軈て死ぬから人生を楽しめるのよ。喜びも、怒りも、哀しみも、全部人生を楽しくする要素なのよ。不死は、永久に苦しみを感じ続ける生き地獄で、最高の不幸よ。
私は、絶対に此の子を不幸にしない。」
「くっ……其れでも……其れでも、生は死より尊いでしょう!」
領主様が反論した。
「其の通りよ。でもね、生きる事が尊いのは、人は軈て死ぬからなの。何時か死んでしまうから、生は失われてしまうから、生は尊いのよ」
母の言いたい事は何と無く分かった。分かったけれど、
「御母さん……ハァ……私は死にたくない……ハァ……御母さんと一緒に……ハァ……生きて居たい」
「気持は分かるわ。でもね、何時か必ず後悔する日が来るの。絶望する日が来るの。貴方には其の日を訪れさせたくないの。悪い御母さんだと罵って呉れて構わないわ。恨んで呉れて構わないわ。でも、御免なさい。私は、貴方を見殺しにするわ」
母は、無慈悲にも聞こえる言葉を、最大の慈悲と愛を込めて発した。そう私は感じた。
胸に痛みが走った。気管に液体が入った時の様な感覚がして、噎せた。咳に血が混ざって居た。
ああ、最期なんだな。
そう私は理解した。
「退いて下さい! 其の子が死んでしまう!」
領主様が叫んだ。でも、屹度もう遅い。私はもう死ぬ。
「本当に御免なさい。そして、私の人間としての最期まで付き合って呉れて、今迄生きて居て呉れて、有り難う」
母が最後の言葉を私に掛ける。
意識が薄れて行く。
「くっ……逝くな……逝かないで呉れぇええええええええええ」
領主様が泣き叫ぶのが辛うじて見聞き出来た。
そんな中、私は思った。
私が病に罹患したのは母が原因で、私の死を決定付けたのも母か。結局、此の一週間の私の物語、幕を上げたのも下ろしたのも、母だった。
epilogue
「くっ……ぐぉおおおおおおお」
「そんなに哭くなよ、領主様。高が村人が一人死んだ丈だろう?」
「私は救えました! 彼の子の命を救う事が出来ました! 高が村人一人の命? 命は皆、平等に重たい! 大体貴方こそ、先程迄懇意にして居た少女に対し冷た過ぎませんか?!」
「僕はね、心の切り換えが速いんだ。じゃないと、仕事に影響が出る」
「仕事ですか! 其れは御立派な事ですね!」
「そりゃどうも」
「貴方も貴方です! 御自分が御腹を痛めて産んだ子でしょう! 如何して見殺しに出来るのですか!」
「私はね、彼の子に永遠の苦しみを与える事に堪えられなかった丈よ」
「くぅううう……私は、私は救いたい丈なのに! 一つでも多くの命を!」
「そうか。貴殿の理想は分かったよ。でも、貴殿の救いは本当の救いじゃない。そう言う事さ。扨、僕は仕事に取り掛からせて貰うから、良い加減哭き止む事を勧めるよ」
「仕事……?」
「貴殿が何人もの人の血を吸ったのは紛れも無い事実。僕も御金に苦労して居ない訳じゃないんでね。貴殿の調査費と、貴殿がクロだった場合の始末報酬は別に出るんだ。僕も儲けないと。貴殿をクロにカテゴライズしても依頼主は誰も文句を言わないだろう。じゃあ、さようなら」
「待って呉れ! 私には未だ救わなくては為らない命が!」
「だから、其の救いは救いじゃないのさ」「待て! あっ……」
「仕事ほぼ完了。後は首を持って帰る丈。扨、娘の死を目の前にして何も感じて居ない訳は無いだろうが、君は……君達は好きに生きるが良い」
「ええ、そうさせて貰うわ。でも貴方、吸血鬼より鬼ね。言っちゃ悪いけど人でなしだわ」
「そりゃあそうさ。僕は人で在る事を捨てた、魔術師だからね」
吸血鬼の慟哭
小説家になろうにも投稿している小説です。
文体テスト期の文章なので、最近の文体とは微妙に違いますし、読みにくいと思いますが、今後上げる小説の前に楽しんで頂ければ。
ちなみに未だに文体テスト期です。文体難しい。
楽しんで頂ければ幸いです。