海に弔うあなた 2

衣更絲子 作

君が知らないこと、私が忘れたこと。


 人が潮から受け継いだものは塩分濃度だけだったのだろうか。舌に乗せられた仄かな苦味は人の心の裏側みたいにざらついているから、きっとマグネシウムで覆われているのだろう。中身は伽藍堂で、心の柔らかいところなんて実はなくて、満月の日にみんな攫われてしまったのかもしれない。何処までもしょっぱい生き物。
 かのカール・ブッセも『山のあなたの 空遠く 「幸」住むと 人のいふ』と詠うくらいなのだから、幸せと同等に心も遠い。潮に流されて、遥か彼方まで。それほどに人の心や感情、というものは信用していない。信用できるのは現金と、体に合うマットレスを使用した広いベッド、それから甘い物。同じ生きた個体を選ぶなら、人より猫がいい。それ以外であれば、生物ではなくて無機質で柔らかくて優しいもの。
 海へ来てしまった。大して好きでもない人間と。しかも海は好きではない。夏になれば地元の住民や観光客でごった返して喧しいし、海辺がゴミで溢れ返る。ゴミは黙認できるにしても、騒がしいところは所構わず苦手だ。同じ海を選ぶなら人が居ないような静謐な海辺が良かった。例えるならシュモクザメの群れが旋回するようか海がいい。それかもしくは。
「…………流石にここまで人がいないとは思わなかったんですけど……。ええ…………」
 ローカル電車に揺られること一時間弱。気温が低いと予報で告げられた割には空気は心地好い温度に暖まり始めている。光の粒子を満遍なく浴びるせいか、隣に引っ付く少年の髪は糖度を増したような艶を帯びていた。
 人がいなくて落ち込む理由が分からない。静かでいいと思うのは自分だけなのだろうか。もしかして海とは騒ぐべき場所なのだろうか。尚も肩を落とす少年のアキレス腱を小突いてやると、がくんと膝が落ち、変な声を上げて砂浜へと蹲る。その衝撃でどすんとリュックも落ち、中ではガシャガシャと耳障りな金属音も響いた。色鉛筆のケースからだろうか。
「……お前、此処で殺人事件があったことを知らなかったのか」
「知らない! 全く知らない! 絶対幽霊とか危ないやつが出るじゃん! うわーっ絶対ヤバいやつじゃん…………」
「お前みたいなチンピラ同士が喧嘩した挙句、片方を殺してしまったそうだからな。気を付けろよ、私に被害が及んでも困るからな」
「何それ……俺が何かしたみたいじゃん」
 小さな海浜公園である此処は暇を持て余した者が時間を潰すには丁度いいのだろう。おまけに砂浜や波打ち際は綺麗と言い難い。海草に絡まった空き缶やペットボトルが浮かんでいるし、砂にはロケット花火の残骸もちらほら見える。
 しかも追い討ちをかけるように去年の夏、此処で殺人事件が起こった。犯人は逮捕されたが、そういった類を恐れる人間からすればさぞかし気味が悪いだろう。自分は死の穢れに鈍感であるし霊感とやらは備わっていないが、隣で縮こまる青島は終始顔を蒼白にさせ、うんうんと唸っている。神経質な奴は大変だなと、他人事のように思った。
「帰ってもいいんだぞ。私は別に困らない。後は帰って寝るだけだ」
「いや! 嫌だね絶対帰ってやるもんか! 折角来たんだから意地でも居座ってやる! ……で、塩撒けばいいんでしょ?」
「お前が幽霊を信じてるなら効果はあるんじゃないか? 好きにしろ」
 小さくなったままの青島を置いたまま、砂浜の手前にある東屋へと向かった。見れば柱や囲いに落書きはされているものの、ベンチとテーブルが設置されているし、思ったより汚くはない。此処で時間を潰せば勝手に昼はやってきて、日が暮れ始める。それからさっさと帰ればいい。青島は適当に時間を潰すだろう。リュックを降ろしてベンチの隅に置き、頭を置こうとすると、向こうからぼすぼすと沈む音が迫っていた。
 大荷物を背負っても、走りづらいサンダルを履いていても、元運動部と豪語するだけあってフォームはしっかりしている。全速力で走ってきたかと思うと、枕代わりのリュックを奪われた。ぜえぜえと息を切らしながら、向こうが珍しく眉間に縦皺を入れていた。
「ちょ、あのね。これでも絵を描きに来たんですよ。しかもなんで寝ようとしてるんですか」
「……眠いからだ。電車の座席は硬くて寝づらい」
「寝づらいのは此処もでしょ! はい、デッサンしますから。先生は見てて、時間計って、はい。仕事して」
 授業は適当にこなしているくせに、部活動となれば生真面目だ。普段のルーティンをこなしてから創作活動に取り組まないと落ち着かない体になったらしい。部室で使っているタイマーを投げ込まれて、いよいよ逃げ場がなくなった。
 青島は向かいに座り、リュックから画材を取り出している。クロッキー帳とボールペンを取り出すと、ふにゃりとだらしない目元が途端に形を変える。猫の目のように鋭く、光を籠らせながら紙を捲り、そしてこちらを見据えた。凛とした目とかち合って、しかしふにゃりと笑われる。
「先生、お願いします」
 何冊も何冊も使い潰したクロッキー帳。この前新調したばかりのそれは表紙の表面は煤けて、角も軽く折れ曲がっていた。それだけ時間を共有してしまったのだ。今日も一緒にいなければならないのかと思うと、胃の辺りがムカムカしてならなかった。


 日が当たらなければ東屋はひたすら肌寒い。腕を摩っていると「動かないで」と制された。黒目だけを忌々しく動かすと、青島は黒目を一瞬だけこちらに固定し、すぐに紙面へと移動させた。カリカリとボールペンの先が紙に擦れる音がする。風が緩やかに吹き込む中で、今日もモデルをさせられている。
「お前、私以外に描くものはないのか」
「あるんですけど、手始めに描くなら先生だなって」
 美術部には青島以外の生徒はいないため、ポージングのモデルになる人間は自分をおいていない。自らモデルになると言って頭部や手足のパーツ、全身像、それから裸も描かせたことがある。恥ずかしがっていた少年はもう何処にもいない。裸になればなったで骨格や筋肉の付き方をよく観察し、彼なりに的確に描くようになった。所詮は『皮に包まれただけの肉塊』、彼が自分と向き合う時は『園貞春』としてではなく、『ひとつの塊』として描く。
 彼の描く線はか細く繊細だ。そうありながら暴力的で荒々しい内面を閉じ込めたような衝動も見受けられる。紙面の中での青い暴動は決してお利口な作風とは言い難い、だのに彼の創るものは特定の者を惹き付ける魅力を徐々に兼ね備えてきたということだ。万人受けはしない、だが本人のやる気さえあれば伸び代は何処までも伸びていく。二年でそこまで成長した、ということか。
「私は便利な教材ということか」
「そういうとこ」
 しかし絵にしろ彫刻にしろ、最中の彼の目付きが苦手なのは何かを思い起こすからだ。愚直なまでに向けられる視線の粘っこさを感じる時と言えば、そう――自分が何かに寄生された時。
 神と崇めておきながら、神である肉体を痛め付けることに戸惑いがない。躊躇なくちぎられる草花に、剥がされる甲殻物や鉱物。崇拝と堕落のあわいに生きるような少年が恐ろしかった。その目は今も生きている。彼が何かを描き続け、創り続ける限り解放されないであろう蜜色の光。
 私は彼の中で私として生きていられないらしい。そう考える自分の思考力こそ恐ろしいものがあったが、二年で自分も絆されるものがあったのだろう。彼と長く居すぎてしまった。神様か石膏像の代替品にしかなれない自分はそれでも尚、青島の前で生きることは許されない。
「あれ、怒ってます?」
「は?」
「教材とか嘘ですよ。そんなことないよ、先生は生きてるんだし、物と思わないし」
 途端に青島の手が緩んだ。同時に殴り付けるような鋭い光も収束し、唇は笑みを象っている。微かな風を縫うようにボールペンが走り、自分の髪もそよぐ。たまにクロッキー帳が捲れたが、端をペンケースで押さえると、タイマーを確認しながら勢い良く描き込んでいく。
 磯臭くて青臭い。海から発せられる潮風は決まって鼻につく匂いを纏わせる。腐敗したような悪臭にすら感じるし、湿った空気も引き寄せる。海は好きじゃない、だが生き物が生きて死ぬのを見届け続けたかのような風は、嫌いにはなれなかった。
「先生を描くのが好きなだけだから」
 青島の言葉とて信用したことがない。寄生されたら必ず毟りに来るし、部活も一度たりともサボったことはない。言ったことは素直に聞くし、実践もする。部活にしたって、寄生を剥がすにしたって、どれも彼の意思は自分に添っていた。
 だが信用したくない。信頼したくない。裏で何をしているか知っているし、自分への行為も見せ掛けでしかないことも明らかになりつつある。本人はどうせバレていないと高を括っているのだろうが、一番心を預けてはいけない人間だ。
(預けるような心なんてないが)
 勝手に神様と呼んでおいて、トイレの個室で頭から水を掛けてきたのは誰だ。
 自分から部活に入っておきながら人のせいにしてせせら笑っているのは誰だ。
 影で「あいつは気持ち悪い」と飯のタネにしているのは誰だ。
(お前だけは誰よりも嫌いだ)
 だから子どもは信用ならない。青島燐は誰よりも残酷な少年だからだ。
(まるであの人みたいだから)
 ――あの人って、誰だったか。最近、自分の中で深い霧が掛かっているようだ。覚えのない人間を浮かべては消しゴムで磨り潰すような作業。徐々に染み付いて取れない影を追っては捨てて、しかし誰かを探している。そんなことは今までになかったというのに。どうも変だ。あの時から? それともあの日から? ……どの日だっただろう。思い出したくもなかった。
「そんな怖い顔しないでよ、本当だよ。練習で先生を描いてから描きたいものを描くと、するすると手が動くんだよ。それに、先生だって描きたいもののひとりなんだし」
 唐突に滑り込む音声に身を強張らせると、自分が不服と取られたのか、青島は言葉を選んで理由を述べる。なるべくこちらの逆鱗に触れないように、且つ自分に取り繕わない気持ちも含めて。
 すぐに意識が乖離してしまう。人と話す機会が少ないから、どうしてもこの少年との会話が大半になってしまうが、話の途中で余計なことを考える癖ができてしまった。悟られないように影で拳を握りながらなんでもないような体を装うと、「先生?」と小さく呼ばれてしまった。
「それは……お前にとって都合がいいからだろうな」
 断定したつもりなのに、青島はふとペンの動きを止め、指先を口元に宛がっている。指の間接が口元のほくろを掠めると、またペンが動き、こちらを見ないままに唇が動いた。
「そうなのかな、どうなんだろう。そうなのかもしれないけどさ、先生だけはそういう理屈で通したくないんだよね」
 タイミング良くタイマーの電子音か鳴ると、青島は素早くペンをノックし、タイマーを止めると同時にクロッキー帳を前面に出した。そこには紙の奥でベンチの上で佇む自分がいた。柔らかく風に靡かれて髪が攫われようとするが、重い髪ではそうもいかない。だが薄いカーディガンが膨らんだり、シャツの襟がはためいたりと、見えやしない潮風がそこに充満しているようだった。
 絵心が皆無だった少年は此処まで来てしまった。教えることなんてないのではないか。自分がいなくとも、ひとりで勝手に絵を描いても遜色ないだろう。絵の中で思い詰めたような、今にも泣き出しそうな自分を見付けてしまって、それ以上見ていられなかった。
 悪くはない、とだけ返して乱暴に表紙を戻して差し出すと、やはり青島は嬉しそうに受け取る。またページを開き、自分とその写しを見比べながら、ほろりと零す。
「先生のことを描いてると落ち着くんだ」
 その満面の笑みときたら。嘘偽りの曇りがない笑顔は更に自分の霧を深めていく。煤けて真っ黒な霧だ。きらきらと陽向のように微笑まれる度に、自分は果てしなく穢れていく。花は咲いても宿主のものが美しいとは限らない。
 いっそのこと、自分を汚泥のようにどろどろとして汚い何かみたいに描いてくれたら良かったのに。青島は今年度で卒業するというのに、自分はいつになったら少年の神様としての役目を終えることができるのか。
 東屋の中は寒い。冷蔵庫の内部のように冷え切っているのにふたりの距離感まで凍てつかせる効力はないらしい。
「……そっち行っていいです?」
「好きにしろ」
「好きにするね」
 青島はそう言うと、クロッキー帳を抱えたまま、ベンチの隙間を埋めに掛かる。男ふたりと言えど、ガタイが良すぎるということはないため窮屈でもない。だが此処の湿度が一気に上がった気がする。
 太陽と無縁の白肌に、白さを際立たせるハニーマスタードの髪。地毛と言い張る髪色に日本人特有の黒い成分は見当たらない。彼が生粋の日本人だろうが、混血の人間だろうが、突き詰めたところで自分への鬱陶しさは変わらないのだ。髪を染めろと小言を言われる青島を目にしたのは数知れず、弁護も容認もせず見過ごしたのも、数知れず。彼は髪の色が人より明るいだけ、それだけだ。
 白くも筋が浮き出た前腕が、袖を捲ったシャツから伸びている。シャツの白とレモンの柄が青島の色素の薄さを際立たせる。薄暗い東屋に太陽が滑り込んだようで、目の前がちかちかとした。ハットを目深に被ったが、伸びた指先から逃げるには遅すぎたようだ。手の甲をつうとなぞられ、ぞくりと肌が粟立っていく。
「……好きにしろってのはそういうことじゃない」
「いや。傷、薄くなったかなって」
 顔から想像できぬような無骨で、先端が平らで太い指先が手のひらを捕らえ、上向きにしてなぞる。手のひらには引き攣ったような点がいくつも鏤められていたが、そこは徐々に形を失いつつある。
 この学校で発作的に起こった寄生。野荊が血管や皮膚を突き破り、全身に生えたあの日。入学したての青島燐との出逢い。如何にも生意気そうな少年が一心不乱に、手や腕を血まみれにしてまで棘を引き抜き、蔓をちぎっては投げたことを嫌でも忘れられずにいた。
 その証拠に青島の手のひらにも棘による傷が残っている。その後だろうか、入部させろと申し出て来たのは。しつこかった。助けを求めたことをあれほど後悔したこともない。だがそのお陰で奇妙な縁ができてしまった。
「最初にお前にやられた傷か。私が三十歳を過ぎたからといっても細胞分裂は繰り返すんだ。そのうち消えるだろう」
「色んなところ、怪我したもんね」
「別に。あってもなくても……」
 人は自分を気持ち悪いと蔑むだけだ。自分で引き剥がした鉱物は根の張り方が特殊だったせいか、左の頬の上と首筋にきつく跡を残した。手の甲は色んなものが生えたせいか赤黒くくすんでしまったし、一度剥がされた爪も親指が少し歪んでいる。こうして人の形を忘れていくのかとしれない。だが図らずも人の形を作るのは隣にある白い手だ。傷付けて抉いつつ、輪郭を整えられている。だから私は今日も生きているのかもしれない。
「ない方がいいに決まってるよ。……とは思うんだけど、消えたら俺のことなんて忘れるんだろ」
 未練たらたらな台詞を吐ける青島は少女のように女々しかったし、思わず手のひらの傷をなぞる自分もそれ以上に女々しかった。
「忘れたいな」
 こんな子どものこと、忘れてしまえたらいいのに。早く一年が過ぎ去ればと願う。そうしたら自分はおろか、少年が先に自分との三年間を忘れてしまうだろう。時の流れは津波さながらで、豪流が思い出も何もかも連れ去ってしまう。そうしたら海に流れてプランクトンに分解されるのかもしれない。だとしたら海の腥い臭いというものは、人々の記憶の残骸が腐敗した際に発生するものなのだろう。
「そっか、それもアリかもしれない」
 曖昧な笑みを浮かべると、青島の硬い指が手のひらで踊り、傷を押し上げていく。子どもの手遊びのように一定のリズムでとんとんと舞い、手首へと移動する。人差し指と中指が人の足のように青い血管の上を歩いて、カーディガンの海を泳ぐ。それでもなお指は登り続け、ふと指の動きを止めた。
「そういえば最近何も咲かないね。最後に生えたのはなんだったかな。カカオ? 桜? あれから何も生えないし、出て来ないし。どうしたんだろう」
「お前の労力が減るならいいんじゃないか。受験生なんだろう、余計なことは考えずに勉強しておけ」
「受験、あーうん……そうだね」
 言葉を濁すや否や、青島の指はワンテンポ上げて腕を闊歩する。青島は自分に様々な話題を振ることはあったが、受験の話だけは頑なにしなかった。良くも悪くもない学力であるから、本人のやる気次第では何処にでも行けると、青島の担任から聞いてもいないことを聞かされた記憶があるが、それにしても他の生徒とは違う。何かに追い詰められているのは一緒でも、その種類が違う、ような。
「先生」
「…………なに」
 忙しなく歩き回る指はやがて髪の先に絡まった。伸びるのが以上に早いせいで、髪は結えるほどに長くなった。猫みたいに絡み付く癖があった手は滅多に触れることがなくなったせいか、随分と久しく掴まれた気がする。掴んでは指に絡めてくるくると回したり、手櫛で何度も梳いたり、鼻先を埋めたりと、同性にしてこないようなことを自分にしてくるもので、当初は心底気味が悪かったが、慣れてしまったのか、奇妙とも取れる行動もすっかり日常の一部となっていた。
 だが今の青島は髪に触れようとして触れない。指に毛先を取って巻き付けはしたものの、それきりにして表面に触れぬように空気を撫で付けるだけだ。過剰なスキンシップも取らなくなった。
 何より彼は、自分を神様と呼ばなくなった。何処かよそよそしく、ふとした時に他人のように振る舞うようになり、神様とやらの務めが収束を迎えつつあるかのように距離を取り始めている。その割には部活もサボらないし、こうして隣にいることも多いのに、何処かで空気を圧縮したような隙間をふたりの間で感じるようになった。それは凄く喜ばしいはずなのだが、違和感を覚え始める自分こそが違和感そのものでしかない。
「…………あのさ、先生」
「ああ」
「俺さ、その」
「どうした、やっと部活を辞める気にでもなったか?」
「違うよ。もう三年なんだから今辞めるのはおかしいでしょ。……違う、そうじゃない。あの、そういうことじゃなくて」
 青島にしては言葉が詰まり、覚束ない。髪に触れられない手は空を切ったり握るばかりで、手持ち無沙汰にぶらぶらと行き来していた。
 困惑が幼さを失いつつある輪郭にたっぷりと満ちている。蜜色の瞳がどんよりと曇り、暑くもないのに額や首筋はうっすらとてかり始めていている。だが何かを決心したのか、彼の手は動きを止めてこちらの頬を掴んだ。両の手で以て湿った手のひらを耳の下から顎に掛けて添えて、至近距離を詰める。
 じっとりと匂い立つ香水の香り。変わり映えのしないマリンとシトラスが潮に混じって色濃くなった。時期のせいかメンソールのすうと凍てつくような香気も喉を通過する。子どもなのに、子どものくせに、妙に大人ぶって足を伸ばして背筋をぴんと張る。つくづく子どもという生き物は愚を極めている。だのに純粋さも狡猾さも大人では勝てやしない。間合いを詰められてしまえば、逃げ場なぞ。
「先生は。……貞春さんってさ、」
「わたしが」
「…………俺がこうしたら、俺をどうにかしたいと思うわけ」
 短い爪が耳の下の骨を掠めた。何かを剥がすかのように立てられて引っ掻く爪は執拗に顎のラインを狙う。青島の意図がてんで理解できなかった。どうにかしたい、とはどういうことなんだろうか。カリカリと引っ掻かれる毎に青島の白肌はぬめりと青く変色していく。吸収スペクトルが作用して青く見えるからでも、自分のカーディガンが反射して青白く感じるからでもないらしい。今日の青島は汗っ掻きだった。
「どうって…………お前はどうされたいんだ」
「……痛いことは勘弁だし、最悪殺されたくはない」
「何を言ってるんだ。お前のせいで刑務所行き? 馬鹿げてる。ただでさえお前のせいで人生がこうなってるのに、更にぶち壊すのか」
 そう告げると、ただでさえ大きい瞳は眼孔から飛び出しそうなほどに見開かれた。普段の青島からは伺えないような動揺は彼をますます青くさせた。顎の骨を指の腹で抱えたまま爪を突き立てるのを止め、睫毛を震わせながらも蜜色の瞳を足元に落とす。
 きっと思い描いた答えではなかったのだろう。だが青島がやたらと顔を触る理由が彼を殺める理由に直結しないし、そもそも命を奪いたいと思うほど彼を憎んでもいない。人生は彼の手で掻き回されっぱなしではあるが、青島がいようがいまいが、人生は既にそのように設計済みだ。バタフライエフェクトすら起こりやしない。蝶の羽撃き如きで生き様を変えられるほど、人生は柔軟だろうか。
「先生、覚えてないの」
「何をだ」
「え…………」
 具合が悪いなら帰ればいいのに。私を解放してくれたらいいのに。だが青島は手と顔が元々ひとつのものであったかのように離れない。自然と、と言うよりは意地で離さないでいるかのようで、湿った手を尚も顎下に張り付けていた。
「…………いや、いいんだ。覚えてないならそれでいいと思う。ごめん、俺ってば寝惚けてるせいかもしれない」
 蚊取り線香に負けた蚊のように手がぽとりと落ちた。ひどく脱力したのか、重力に負けて肩が丸くなっており、小突けば地面に突っ伏してしまいそうだ。やっと絞り出したような声は蚊が鳴くよりも小さく、ずるずると身を反転させてはより体を丸くさせ、黙り込んでしまった。
 風の力では持ち上がらないクロッキー帳の表紙がふわりと持ち上がっていた。ふたりの間に置き去りにされたままのそれを開いてみる。開いてしまったのは魔が差しただけだと言い聞かせてページを捲ると、ものの見事に自分をモデルとしたデッサンしかない。自分しか紙面の世界にいなかった。先程描いたものから、先日の部活でのデッサンと、ずっと自分の模写の羅列が続く。
 ふと左の肩に重みが掛かったかと思うと、金色の蒸気が舞った。空中のゆらめきは超常現象でも何でもなく、青島の頭が乗っかっただけだ。左側は視力が落ちているせいで、左を向かないと何があるか把握できない。見たところで青島しかいないのだから、わざわざ視界に収めるほどでもないのだが、神妙な面持ちを維持し続ける青島はずっと歯を食い縛っているように見える。
「……ちょっとだけ、ちょっとでいいから寝てもいいですか。もしかしたら俺、寝不足なのかも」
「合宿しに来たんじゃないのか。体調管理もできないなら私を振り回すな」
「ごもっともです。……ごめんね、先生」
「…………」
 蒼白の顔面はこちらに向けられることなく肩へと埋まる。薄くて硬いだけの男の方に頭を預けられる彼に寧ろ感心してしまった。つくづく変わった少年だ。自分への興味が尽きないからか、または一種の執着が残されているのか。しかし今の彼にはそれを原動力に動ける様子はなく、だらりと腕を垂らしては丁度いい場所を探り、頭を乗せている。
 二年前なら跳ね返してやったというのに、今の自分は肩を貸すことに何の疑問も持たないでいた。もう持てないのかもしれない。時間と交友関係が比例することは正しいとは思わないが、馴れ合いすらしていないと信じたくても、彼を追い払う嫌悪感は何処を探しても、もう見付かりやしない。
 これを絆されたと世間では言うのだろうか。被っていた帽子をひよこみたいな少年の頭に乗せると、サンダルを脱いでベンチの端へと足を乗せる。背もたれに背を預けて胡座を掻いてみるが、使い慣れた椅子ではないので、木製の材質は硬くて身体が痛みそうだ。それでも体を弛緩させて丸めてみると、また肩が重くなるが頭部がずり落ちることはない。
「三十分だ。それ以上寝るようなら私は帰るからな」
「はい、それでいいです。……そうしたらすっきりするはずだから」
「寝ろ。私も寝る」
「…………ありがとう、先生」
 礼を告げて数えるまでもなく、呼吸が浅く静かなものとなった。胸が膨らんでは萎み、目蓋をぴくぴくと震わせながら彼はあっという間に眠りに就く。既に左半身が痺れつつあったが、三十分だけの辛抱だと思えば大した苦にならない。
 自由な手で自分の顔を触ってみるが、かさついた肌が顔面に張られただけで変わった気配はない。それでも青島は何かあるようにやたらとまさぐった。何かあるに違いないのに、彼は自分が知らないことにひどく
動揺していた。私が知らないことがおかしいのだと、過ちであるというように責められた心地すらした。左右に忙しなく揺れた瞳や多量の汗、腑に落ちない言葉、それぞれを並べてもやはり何も思い付かない。
 私が何か忘れているというのだろうか。忘れたということは差程大事なことでもないのだと思い込むことにした。ひとつ思い出したくらいでは頭の中の霧は晴れることはない。それに『あの音』も大きく鮮明になるばかりだ。だとすれば自分は重大な病に冒された可能性もあるのかもしれない。
「お前とは随分会話が噛み合わなくなったな」
 眠ってくれているのなら都合がいい。自分から語りたくもないが、言い放ちたい日もある。そんな時は馬の耳に通すように、自分の言葉の流れてくれたらいい。届くために言うのではない。葬るために綴るだけだ。
「私はお前の暇潰しにしかならないだろう。だから神様なんてものは作るべきじゃなかったんだ」
 良いだけ祀り上げておきながら、すっかり神様扱いされなくなった自分。異端の宗教と言うべき所作も彼の手や唇で行われない。尊敬、思慕、憧憬――形容するには異常という単語ひとつで事足りる日々だった。
 何時から彼は目を背けるようになったのか。何時から彼はよそよそしくなった。呼応するように自分も何かしらに取り憑かれることがなくなってしまった。何かいた気はするのだが、それすらあやふやで、記憶の誤りとしか思えなくなっている。その証拠に生傷が生まれなくなった。日常が鋏で切り取られて、すっぽりと抜かれた気分だ。
 とすれば信仰される要素が自分にはなくなりつつある、ということだ。喜ばしいことではないか。手放しで喜びたいはずなのに、おかしいと頭を捻ってしまうのは何故だろう。切り抜かれた日常は何処へ行ったのだろう。美術部のごみ箱か、それとも学校の焼却炉だか、青く揺蕩う水面か。
「…………お前が可笑しいのか? それとも私が……」
 考えるだけ野暮になってきて、無理矢理目を閉じることにした。硬く閉ざした目蓋をこじ開けるのは紫色の薄暗い光だった。左の目からじわりじわりと広がって、カチコチと硬質な音を響かせる。さて、これは疲労による幻聴か。それとも既に白昼夢に身を落とした合図か。推理も虚しく、少年の頭に凭れるように自分も頭を寄せ、ぬるい体温と嗅ぎ慣れた匂いにどんどん意識が遠のいていく。
 光も広がる。闇に同調するように薄紫のそれもくるくると規則正しく回る。右回りに、一定のリズムで。耳の下が痛んだのは気の所為だと思い込みたい。それ以外は今に始まったことではない。ずっとずっと住み着いて離れやしないのだから、仮に青島が発見したところでこればかりは剥離できないだろう。『アレ』は内面に巣食っているのだし。
「燐。どうしてお前は」
 波の音が遠かった。あれほど届いた潮騒は内部に侵食する音で掻き消されていく。その向こうでは誰かがくすくすと行儀良く笑っていて、しかし猫のように浅ましく狡猾に笑ってみせるものだから、自分の心はちっとも弾まない。ざわざわと白く泡立って飛沫を上げて散り散りとなっていくばかりだ。
 馬鹿みたいだ、と揶揄される。そう発音されたわけでもないのに、声からは人が密かに後ろ指を指すような陰気さが滲み出ている。止めたくとも止められない。手を振りかざしたり怒鳴ったりできるほど、眠りは浅いものではなかった。
 ――燐、燐。お前はどうしてそうやって、笑うんだ。お前は私のことなんて。
 結局は浅ましくて狡猾なのは他ならぬ自分ではないか。だのに反響する笑い声は自分のものでもなかった。嘲笑に包まれた繭のように縮こまって眠る己のなんと憐れなことか。殻から抜け出せず、貝柱のように縮こまって受け止めるしか手立てはない。
 しかし声の在り処を彼の所為にしたがる自分は一層滑稽で惨めだった。声は誰のものだろう、探ろうにも一切合切思い出したくない。せめてもうそろそろ黙っていてほしい。だって『貴方』は燐でもないのだろう。ならば貴方は、誰なんだ。私の、何なんだ。
 マグネシウムみたいに苦い感情が、紫色の汚泥と混ざり合っていく。ぽこぽこと穴が空いていく。小さな穴からすうと何か細長いものが伸びて、天を、或いは水面を目指す。それが何かなんて知りたくもなかった。
 ……嗚呼、だから私は、海なんて。

海に弔うあなた 2

海に弔うあなた 2

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-06-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted