16

  1. 十一
  2. 十二
  3. 十三
  4. 十四
  5. 十五
  6. 十六

 塔・・大アルカナ十六番。失敗、トラブル、落胆。タロットカードの内、最も悪い意味を持つとされる。

 どこからか響いていた。それは低い音だった。ドン、ドンと響くその音は鼓動に似ている。はたまた、人の足音にも打ち寄せる波にも似ていた。
音は暗がりの中で響いていた。暗がりは闇ではなかった。それは鉛筆で塗りつぶされた紙面のように柔らかな黒だ。薄闇はどこまでも続くようにも、すぐそこで壁になっているようにも見えた。
 秋彦は自らの手元に視線を移す。彼は白いダイニングテーブルに腰かけていた。そこには書き損じのメモと温くなったカフェオレ、使い古しのノートパソコン。テーブルの端には砂糖の粒がいくらか落ちている。これは秋彦がカフェオレに入れ損じたものだ。彼はこれを無視したことを覚えている。
 秋彦が辺りを見渡している間も、音は止まなかった。身体の内を揺するようなそれは、段々とこちらに近づいてくる。しかし、それは別段秋彦を焦燥に駆らせるものではない。彼は書き損じのメモを握りつぶした。ひと際大きな音がしたのはその時だった。
 ドン、という音と共に、身体が浮き上がるような感覚に襲われる。内臓が持ち上げられるこそばゆさに、秋彦は思わず目を瞑った。重力からの解放、すなわちそれは落下しているということだった。薄闇は途端に奈落の底へと姿を変えて秋彦を飲み込む。瞬間、彼は悟った。これが夢であることを。

 聞こえていたのは木製の扉を叩く音だった。秋彦が目を覚ますと、そこは奈落の底ではなく自宅だった。白いダイニングテーブルの上には書き損じのメモと温くなったカフェオレ、ノートパソコン、砂糖の結晶。秋彦が振り返ると、扉は音に合わせて振動している。それは静かな初秋の夜だった。
 秋彦はここ最近、眠れぬ夜を過ごしていた。そこで彼は医者にかかったが確たる理由も告げられず、得られたのは二週間分の睡眠薬と安定剤だけだった。多くの場合、医者に安心を買いにでかける彼はこの事実に落胆した。秋彦が欲しかったのは理由だ。処方された薬は六日前にごみ箱に捨てた。
 眠れないこと自体、秋彦にとって苦痛ではない。眠れないのなら起きていればいいだけのことだ。その分、彼は今までの倍仕事をこなしたし、より多くのことを考えた。自分のこと、家族のこと、過去の記憶や景色、音。それは不思議と秋彦の心に安らぎを与えた。
 とりわけ秋彦が癒されるのは、ある空想だった。とはいえ、秋彦自身これが空想に値するかどうかは分からない。彼はどちらかと言えば現実主義で、幼少の頃から想像力に乏しかった。図画工作の時間などに教師から自由にしろと言われると、途端に頭が真っ白になってしまうような子供だった。
 それはなるべく静かで、天気のいい夜に行われる。そこではいつも音楽が流れていた。それに実質、メロディはない。頭の中を高速で流れていく情報であり、音というよりは言葉に似ていると秋彦は考える。音楽は決まって穏やかで繊細な印象であった。しかしそれは、声や身体で表現できるものではない。大切なのはイメージだ。それが曖昧であればあるほど、空想の世界はより豊かなものになる。
 音楽が流れるのは教会である。それはどこでもない。教会の内装を借りた張りぼてであり、秋彦はこの中を自在に覗くことができた。視点はまず、出入り口から始まる。そこには通路を挟むように並んだ木製の長椅子と、突き当りに棺桶がひとつ。棺桶は黒い。蓋が開いていて、その中は白い。教会には誰もいない。棺桶にもまた、そうだった。視点はしばらく動き回る。真上、横、斜め。だが、最後は決まってある一点に戻る。それは出入り口から反対方向、棺桶の後方からの眺めだ。視界の下半分を棺桶、上半分を教会の内装が占拠する。すると、現れる。秋彦は彼らを参列者と呼んだ。
彼らは決まって秋彦の家族と友人である。横一列に並んだ顔は一様に無表情で、その身体は喪服に包まれていた。彼らは常に思い思いの持ち物を携え、棺の前に立つ。これもまた、秋彦の気分で変わった。子供の頃に読み聞かせられた聖書、金属のスプーン、ドライフラワーなどの品物は、それ自体も持つ人も空想のたび異なる。ただ一人の例外である、秋彦の妹を除いて。
 六つ離れた妹は秋彦と違い、紙と鉛筆をやれば何時間でも一人遊びをしているような子供だった。それは少女から女性になった今でも変わらない。彼女は現在、遠い地に芸術を学びに行ったきりほとんど顔を見せていなかった。そんな彼女の持ち物は、十センチ四方の折り紙だ。秋彦の空想には色というものが存在しないため、それらは模様と濃淡のみで表現される。彼はかつて、この紙を巡って彼女と喧嘩をした。それは秋彦が十にも満たない幼い頃である。
 秋彦はある日、実家の電話台から折り紙の束を見つけた。それらは様々な色と模様で飾られており、聞くと母のものだという。母はもういらないと言ったので、兄妹でこれを分けることになった。折り紙など秋彦にはまるで縁のない遊びであったが、華美な色の束から感じられる特別感が子供心を刺激した。その結果、格別美しい一枚が子供たちを争わせた。結果、これに敗れた彼女はひどく悲しんだ。秋彦も尻込みしてしまうほど泣いて、それは彼女が疲れ果てて眠るまで続いた。
これを見た秋彦は思った。妹が起きたら、この折り紙をあげてしまおうと。彼女があまりに突っかかるものだから意地になっていただけなのだ。秋彦にはこの紙を手にしたところで、なんの使い道もない。しかし、彼は結局この折り紙を妹に譲ることはしなかった。数時間経って目を覚ました彼女が、紙を差し出した秋彦に言ったのだ。
「それ、お兄ちゃんのでしょう」
 これを聞いた秋彦はその場で固まった。それだけ告げると、妹は悲しんでいたことなどなかったかのように一人遊びを始めた。
秋彦はこの時、言いようのない虚しさと自分を否定されたような悲しみを覚えた。一体どういう思い故の感覚なのかはいまだに分からない。しかし彼は、自分に与えられた折り紙を切り貼りした彼女の美しい絵を、今でも鮮明に覚えている。折り紙はそれきりどこかの引き出しにしまい込まれ、二度と姿を現すことはなかった。
 言葉に表せないこの空虚は、それからたびたび秋彦を襲った。喪服姿の妹は一枚一枚紙束を散らしていく。数枚の折り紙が棺桶に入れられると、彼女はその場から立ち去った。あの日のように、傷ついた様子も執着も見せずに。そうして視点は再び変わる。真上から棺桶を捉えたとき、そこで眠っているのは他でもない秋彦自身だ。

 さて、来客である。静かな初秋の秋と称したところで、秋彦にとってこれはいつもと変わらぬ夜だった。彼の家は周辺の家屋からいくらか離れたところに位置しており、雷雨にでもならぬ限り極めて静かなのだ。家の前には持ち主も分からぬ畑と果樹が広がり、裏地には湿地と森がある。そのため、来るものといえば郵便配達か怪しげな宗教勧誘くらいだった。
秋彦は玄関扉に目を移す。扉はいまだ、音に合わせて揺れていた。ちらりと時計を確認すると、時刻は七時で止まっている。
結論として、秋彦はこの正体の分からぬ客を迎え入れた。正しい時刻は午前一時十二分。肌寒い深夜、何故このような奇怪な客を迎え入れてしまったのか、最早彼に知る由もない。

「秋彦」
 建てつけの悪い引き戸を開けると、そこに立っていたのはかつての親友だった。家の中から漏れ出た光を浴びた彼は、柔和な笑みを浮かべてこちらを見ている。秋彦は驚きのあまり目を見開いた。この親友とは、もう二年も会っていなかったからだ。
「徹」
本人であることを確かめるように小さく呟くと、彼は怪訝な顔を浮かべた。
「おいおい、大親友の顔を忘れたのか」
すると徹が困ったように笑う。秋彦もつられて笑った。それは何年も前から約束されたように繰り返す、二人のお決まりの挨拶だ。
 笑原徹は秋彦の一つ年下の友人だ。彼らは徴兵先の戦地で出会った。それは秋彦が二十一歳を迎えた夏のことである。二十歳の同じ時期、彼は軽度の肺炎のため徴兵を逃れていた。出来れば逃げおおせたいものだと考えていたが、その一年後、彼は結局広報係として戦地へ渡ることとなる。徹は同じ部隊の兵士だった。そして、この出会いは秋彦の思いを変えた。
 秋彦は徹を招く。年季の入った玄関扉を潜り抜けると、彼は「意外と片付いているなあ」と一言呟いた。これが揶揄ではない単なる感想であることを秋彦は知っているため、なんら返事はしなかった。秋彦は先ほどまで座っていたダイニングテーブルに彼を通す。徹は秋彦の着席していた向かいの席に腰を下ろした。彼のすぐ近くで、砂糖の結晶が光っている。
「何か飲み物でも。紅茶かコーヒーしかないけど」
「じゃあ、紅茶をもらおうかな」
 秋彦は戸棚を開く。ほとんど空のそこから、わずかにひんやりとした空気が漏れ出た。彼は華美な模様の描かれた入れ物と琥珀色の瓶を手に取る。それは母から送ってもらった茶葉と蜂蜜だ。だが、秋彦は紅茶を好んで飲まないため、すでに酸化しているかも分からなかった。彼はこれがいつ頃送られてきた物か、すでに忘れてしまっている。そんな秋彦の背後で、徹はメモ帳に何やら落書きを施しているようだった。彼は眼鏡をかけた賢しげな容姿に反して、こうした子供じみたことをする男だ。どうせ書き損じのメモである。秋彦は彼の行動に何か言及することはしなかった。それよりも、彼の頭の中はあることで満たされていた。それは今が非常に静かで、穏やかな天気の夜であること。すなわち、あの空想にもってこいの日であるということだった。
「相変わらず物がないね」
鳴りかけた音楽は、徹の言葉によって制止される。秋彦ははっとして言葉を返した。
「これ以上なにもいらないさ」
 秋彦は家の中を見渡す。中華風の衝立、ソファ、ダイニングテーブル、ふた月前で止まったカレンダー。それらはどれも古い。しかし、一人で暮らすには十分すぎる代物たちだ。
秋彦が徹に視線を戻すと、彼はまだメモ帳に何か書き込んでいた。万年筆の硬質な音が、静かな部屋に響いている。彼の頭上では、小さな羽虫が剥き出しの蛍光灯と戦っていた。徹の握る万年筆もまた、いつからあるのかも覚えていない。秋彦はふとそう思った。万年筆は蛍光灯の明かりを受けてつるりと輝いている。
「本当かな」
 砂糖の結晶にぽとりと羽虫が落ちたのは、その時だった。秋彦はその問いかけに心臓を強く脈打たせる。それが何を意図して言われた言葉なのか、分からなかったからだ。分からないというより、確証が持てなかった。秋彦の返答についてか、徹の握った万年筆についてか。徹の茶色の瞳がこちらを見つめる。その目線に、どうしてか自分の心の中が見透かされたような気がした。心臓がまた脈打つ。そう、これは音楽だ。今日はよく晴れた静かな夜。

 秋彦が俯いた顔を上げると、そこには眼鏡をかけた少年が佇んでいた。彼は屈んで秋彦をじっと見つめている。少年は薄青のワイシャツに黒のネクタイ、同じ色のジャケットとズボンを身に着けていた。すると秋彦は瞬間的に察した。これは喪服だ。彼は自分の身体を見る。白いシャツに黒のリボン、少年と同じように黒いジャケットとハーフパンツ、靴下。そう、今日は久しく会っていない叔母の葬儀の日だ。これは秋彦が九歳の頃着た喪服であった。遠くからは大人たちのすすり泣きや話し声が聞こえてくる。秋彦はきょろきょろと視線を動かした。
「何を固まっているの」
少年が微笑む。秋彦はここがどこだか分からなかった。
「俺は一体何をしていたっけ」
 青い壁紙、木製の戸棚、清潔なタオル。視線を巡らせていると、そこが実家の洗濯室であることが分かった。どうやら自分は洗濯機にもたれて座っているようだ。彼は昔からこの場所が好きだった。青い壁紙が所々黴で変色しているその色は、秋彦のお気に入りだ。
「分からない。君はずっとそこにいたよ」
 少年が微笑みながら答える。もたれた洗濯機はほのかに冷たい。そうだ、叔母の安置された居間が寒くて嫌だったのだ。自分はそこから逃れてきた。
子供にとって、葬儀ほど退屈なことはない。涙する大人たち、家を占拠する死体、祈りの言葉、寒い火葬場。退屈した子供たちは、それぞれ好きな場所に逃れたのではなかったか。妹は自室へ、親戚の女の子はキッチン、男の子は庭のブランコ。そして秋彦は洗濯室へ。すると、この少年もその一人だろうか。
「君も退屈なんだろう。冒険に行こうよ」
 秋彦の予感は的中した。少年もまた暇を持て余していたようだ。彼は秋彦に手を差し出す。秋彦にはそれが嬉しかった。親戚の子供たちとは、どの子とも年齢も気も合わなかったからだ。だがしかし、彼には言いようのない親しみを感じる。秋彦は笑顔で彼の手を取った。立ち上がると少年は秋彦より頭半分ほど背が低く、彼にはそれが意外だった。
 大人たちの集まる居間の前まで、彼らは息を潜めて歩いた。居間の扉は開きっぱなしになっている。ルームライトの明かりが、人々の影を廊下に映し出していた。出入口まで近づくと、彼らはぴったりと壁に張り付いた。秋彦が目で合図をし、中を覗き込む。彼らは一様に俯いて、こちらを見ようとはしない。
「駆け抜けよう」
秋彦が声を潜めて言うと、少年は頷いた。彼らは同時に足を踏み出し、居間の前を通り抜ける。大人たちは彼らの小さな影を気にも留めない。
摺り足で辿り着いた先は母の衣裳部屋だ。何の変哲もない茶色の扉を開くと一変、そこは別世界だった。
 扉の中は香水の匂いと鮮やかな色彩で満たされていた。豪奢なドレッサーの上には金銀に輝く化粧道具が数多に広がり、その両脇を洋服で作られたグラデーションが彩る。青や赤のコートとシフォンの列は、まるで目が眩む色合いのカーテンだ。秋彦が突っ立っていると、少年はあるクローゼットを指した。それはとびきり高い衣服の入った、母の大切なクローゼットだ。彼は指先を唇に当てて微笑む。秋彦もそれを真似て笑った。彼らが静かにクローゼットを開くと、それはぎいぎい小さく呻く。二人の少年は、共にその中へと入っていった。
 闇の中を通り抜けると、そこは広大な野原だった。先ほどの暴力的な刺激とは違い、野原の緑と青空は目を癒すような柔らかさだ。二人はその心地よさに、揃ってため息をつく。
「綺麗なところだね」
「ああ。ピクニックができそう」
 二人の少年が佇む場所は小高い丘で、野原の様子を見渡すことができた。しかしそれはどこまでも限りなく続いており、全貌を見渡すにはさらに高い場所を目指す必要があるだろう。細い雲のたなびく空は秋の様子に似ていたが、吹く風は初夏のように爽やかで温かい。すると、秋彦は気が付いた。緑の草に隠れて、黒い塊がいくつも広がっていることに。少年を振り返ると彼もまた気が付いたようで、二人はどちらからともなく走り出していた。
「棺桶だ」
 秋彦は言った。辿り着いた先には、黒い棺桶がただひとつ置かれているだけだった。ずれてかかった蓋の中を覗くと、そこには何も入っていないように見えた。少年が蓋をそっと持ち上げる。それを地面にひっくり返すが、やはり中身は空っぽだ。
「不思議だね」
少年の言葉に頷くと、秋彦は遠くを見た。棺桶は点々と野原に置かれている。
「ひとつずつ開けて行こう」
秋彦の提案に、少年は楽しげに頷いた。
 その時だった。ターン、ターンと甲高い音が遠くから響く。二人は一斉に音の方に振り返った。間違いない。これは銃声だ。単調なその音は、どんどんこちらに近づいてくる。
「どうしよう」
少年の言葉に、秋彦は低い声で言った。
「棺の中に隠れよう。俺が扉を閉めるよ」
 秋彦は言いながら少年の背を押す。押し込められるようにして、少年たちは棺に身を潜めた。ターン、ターン。単調な銃声と共に、いくつかの足音がする。ざっ、ざっ、と草を蹴るそれは、真っすぐに彼らの隠れた棺桶に近づいてきた。二人は恐怖にぎゅっと目を瞑る。激しい心音は棺の外にまで響きそうだった。折り重なった秋彦の額からこぼれた汗が、少年の頬に落ちる。すると途端に銃声と足音が消えた。代わりに二人の鼓膜を刺激したのは、じゃらじゃらと金属が鳴るような音だった。彼らは同時に肩を震わせる。かすかに開いた棺桶の隙間からは、冷たく平たいものが数個中へ入ってきた。ほどなくして金属音が止むと、再び草を蹴る音がする。それは二人からどんどん離れていった。
「大丈夫かい」
暗がりの中、少年が小声で尋ねる。
「うん。そっちは」
「僕は大丈夫。音はもうしないね」
「平気だ。もう聞こえない」
 二人は協力して棺の扉を押し開いた。ばたりと音を立てて蓋が野原に落ちる。そこには彼らの予測通り誰もいなかった。秋彦は座ったまま野原の向こうをぼんやりと見やる。少年が声を上げたのはその時だ。
「これを見て。全部お金だよ」
棺の蓋を持ち上げながら少年は指差す。見ると地面には大量の紙幣と硬貨がまき散らされていた。棺の中にも点々と硬貨が入っており、先ほどの冷たい感触はどうやらこれのことらしい。かすかに鉄臭いにおいのするそれを秋彦は見下ろす。そんな彼とは対照的に、少年は嬉しそうに地面の金を拾い集めた。
「どうして金を拾うんだ」
秋彦は少年に問いかける。すると彼は不思議そうに言った。
「お金がたくさんあったら幸せでしょう」
途端、秋彦は頭に熱が集中するのを感じた。この少年の態度に何故だか腹が立ったのだ。さっと立ち上がると、秋彦の身体からも硬貨が一枚落ちる。鈴のような音を立てるそれを、秋彦は一枚拾った。
そうだ。これは叔母のものだ。大人たちは居間で泣いていたわけじゃない。彼女の残した財産のことばかり話していたじゃないか。あまつさえ、自分の父親がそれを奪った。これらは全て叔母の物だったというのに。秋彦はそんな父を卑しいとすら感じた。
ポケットに金を詰め込みながら、少年は秋彦に駆け寄る。その手には数枚の紙幣が握られていた。
「いらないのかい」
秋彦は差し出されたその手を睨んだ。
「そんなものいらない」
そう言うと、彼は手に握りしめた硬貨を叩きつけるように捨てた。少年は怒気を強めた声に圧倒されたのか、ぽかんとしたまま動かない。秋彦は彼を置いて野原を進む。
「本当かな」
少年は握りしめた紙幣を見つめ、か細い声で呟く。先を行く秋彦の耳に、彼の声が届くことはなかった。

 秋彦の返事はやや遅れた。
「本当だよ」
彼は自分の言葉が何に対してのものか、いまだあやふやなまま笑う。その様子をじっと見つめながら徹は言った。
「いいなあ。僕ならもっと散らかっちゃうよ」
 どうやら徹の言葉は、この部屋を指してのものだったらしい。秋彦はそれに安堵する。万年筆については、自信のある答えが出せないままだったからだ。誰かに貰ったのか。自分で購入したのか。どちらにせよ、秋彦はもう覚えていない。
 これは何に対してもそうだった。秋彦は物にこだわりや愛着など持たない。そんなものいくらあったところで、自分が死んだらそこで終わりだからだ。彼はこれを叔母の葬儀で学んだ。それはもう二十年も前の記憶だ。
「ところで、何の用でここへ」
秋彦は思い出したかのように問う。二年も会っていないとなると、来る用事も思い浮かばなかった。すると徹は、何か濁すような態度で再び手元に視線を移した。
「ちょっと探し物をね」
「ふうん。青い鳥でも探しているのか」
「青い鳥。ああ、そうかもしれない」
 徹はおとぎ話をするような調子でその冗談に相槌を打つ。彼がこのようにものを語るのは、昔からよくあることだった。あまり酷いと、秋彦の方がその冗談が本気なのではないかと疑いだす。彼らはこれに苦笑した。
 そうこうしているうち、薬缶から高い音が立ち始める。秋彦はコンロのスイッチを切ると、用意した陶器のティーポットに湯を注いだ。湯気と共に香るのは、アールグレイの茶葉だ。これを蒸らしている間に、彼は瓶詰にされた蜂蜜をひとさじ、カップへ落とし入れた。陶器と金属の鳴る音だけが、しばらく二人の間で響く。
「どうぞ」
秋彦の声に徹が顔を上げると、彼の眼前には湯気を立てるマグカップがひとつ差し出されていた。徹は手にした万年筆を卓上に転がすと、笑顔でそれを受け取る。
「懐かしいな」
「なんのことだ」
秋彦が問う。
「君の淹れる紅茶には、いつも蜂蜜が入っていた」
そう言うと、徹は立ち上る湯気に目を細めながら紅茶を一口啜る。対する秋彦は首を傾げた。
「そう何度も飲んだものでもないだろう」
「それはそうだけど。僕はこれが好きなんだ」
 秋彦はふうんと鼻を鳴らした。徹に紅茶を出した記憶など、彼にはほんの二、三度しかなかった。だというのに、目の前の彼はさぞかし嬉しそうにそれを飲んでいる。秋彦は記憶を巡らせた。たしかに、以前にもこのようなことがあった気がする。徹が突然訪ねてきて、彼は秋彦の淹れた紅茶を飲んだ。電灯の光を反射する万年筆が、蜂蜜のように金色に輝いている。視界の端で瞬くそれはやたらに眩しい。そう、あれはよく晴れた月曜日の昼下がりではなかったか。秋彦は目を閉じる。

 秋彦が目を開くと、そこにはあの少年がいた。どうやら自分は棺の中で寝ていたようだ。狭くるしいそこから半身を起こすと、少年に手を引かれて立ち上がる。彼らのいるそこは野原ではなかった。秋彦は辺りを見渡す。
そこは街だ。コンクリートの建物が連なる、殺風景な街。建物はあちらこちらに穴が開き、大地は乾いて埃っぽい。彼らは揃って咳ばらいをした。
「ここはどこだろう」
「どこだろうね」
 秋彦が棺を跨ぐと、砂利の感触が足裏を刺激する。砂と風ばかりが吹く街に、少年たちは立ち尽くした。照りつける太陽が、じりじりと肌を焼く。それに気が付くと、秋彦は彼を建物の陰に引いていった。
「なんだか、戦争でもあったみたいだ」
少年が呑気な口調で言う。
「さっきみたいに人が来たら、すぐに隠れよう」
 秋彦が警戒を示すと、彼は深く頷いた。コンクリート造りの壁に触れた肌からは、早くも熱が引いていく。少年は膝を抱えると、居心地悪そうに下を向いた。恐らく、秋彦と同じことを考えているのだろう。彼もまた、ばつの悪い表情で風に枝を揺らす木を見つめている。
「さっきはごめんよ」
先に口を開いたのは秋彦だった。少年は驚いたように勢いよく顔を上げる。
「いいんだよ。こっちこそごめん」
彼も同じように詫びるが、秋彦の気分は晴れなかった。少年にこのような態度を取らせてしまった自分が許せなかったのだ。悪いのは自分だ。それを秋彦自身、理解していた。
 あの状況下で金を拾うのは、ごく自然な行動だろう。秋彦とて、父親のことがなければそうしていたはずだ。幼い彼でも、金が人の心を豊かにする事実を知っている。だというのに、秋彦は少年を強く否定してしまった。自分の態度に少年が傷ついた瞬間を、秋彦はしっかりと見ていた。
「俺が悪いんだ。君が謝ることない」
「ううん。僕も悪かったよ」
「君を傷つけたのは俺だ」
「でも、君だって傷ついているよ。おあいこさ」
言うと少年は手のひらを差し出した。秋彦はその言葉にどきりとする。否、自分はそれほどに分かりやすい表情をしていたのだった。
「僕を傷つけたことに、君も傷ついた」
「許してくれるのかい」
「許すも何も、最初から怒ってなんかないよ」
二人は笑い合う。そしてお互いに手を握り合った。秋彦が礼を言おうとしたとき、少年は突然神妙な顔つきになった。
「何か聞こえる」
 とっさに少年の向いた方向に視線を走らせると、それは先ほど秋彦の見つめていた木がある方向だった。彼らは急いで建物の中へ身を隠す。内部は家具や本が散らばり、外と比べて一層埃臭い。崩壊した建物の隙間から、ところどころ帯状の光が射していた。二人は背の高い食器棚を見つけると、その傍に身を潜めた。少年の言う通り、遠くからは人の足音と話し声が近づいてくる。しかし、砂を蹴る音は小さく、声は大人のそれよりも高い。秋彦たちはそれが自分たちと同じ年頃の子供であることを察した。
「どうしようか」
少年が問う。
「もう少し様子を見て、声をかけてみよう」
「賛成」
 じきに子供たちは、二人の潜んだ建物の前を通過した。その数はざっと十数人か。皆親しげに話ながら笑い合っている。彼らは全員同じようなシャツとズボンを身に付け、武装などしている様子は見受けられない。秋彦たちはこれに安心した。少年を振り返ると、彼もまたそのような様子だ。彼は手を振って外に出るサインを送っていた。
「どこに行くんだい」
揃って外に出た少年たちは、彼らに問うた。すると前を行く少年の群れは動きを止める。
「やあ、君たちも仲間かい」
 振り返った彼らは警戒することなく笑っていた。そのうちの一人、水色のカッターシャツに青色のリボンを巻いた少年が近づいてくる。彼は秋彦よりも背が高く、少年たちの中でも年長者に見えた。
「仲間って?君たちは何をしに行くの」
秋彦が問うと、少年は目を丸くした。
「兵隊の元へ行くのさ。君たち、知らないのかい」
「兵隊の元だって。危なくないのか」
今度は少年が問う。リボンの少年はあっけらかんとした様子で彼を笑い飛ばした。
「危ないもんか。彼らはとっても親切だよ」
「へえ。僕らもついて行っていいかい」
「もちろんさ。一緒に行こう」
 交渉は早くも終わりを告げた。彼らは少年たちの列に加わり、同じように真っすぐ進みだす。見るとリボンの少年と同じ年長者が、前と後ろに散らばって行進を促していた。自分たちより小さな子を守るようにして、彼らはゆっくりと歩いている。その様子に、秋彦は学校の登下校の様子を思い出した。彼の学校では、こんな風に列を成して学校を行き来することがときおりあるのだ。二人は列の真ん中辺りに並んで歩いた。
 するとリボンの彼が言ったように、じきに見えてきたのは兵隊だった。彼らは少年たちの進む道を開くように列を作っている。その列に差し掛かると、先頭の年長者たちは後方へとはけていった。彼らがいなくなったあとも、最年少であろう五、六歳の子供たちは何食わぬ顔で歩き続けている。秋彦は後方へ歩いていくリボンの少年に言った。
「何が始まるんだ」
「兵隊たちから物をもらうんだよ。玩具やお菓子をくれるのさ」
そう言うと、少年は素早く秋彦の横をすり抜けていった。先頭の子供たちに向き直ると、彼らの手にはたしかに何か握られている。玩具の船やチョコレート、カード、古いルーペ。それらはすぐに彼らの小さな手から溢れた。秋彦が隣に視線を移すと、少年もまた様々な物を手にしている。
「これ、あげる」
突然かけられた声に振り向くと、秋彦と同じ年頃の子供が笑顔で菓子を差し出していた。秋彦は礼と共にそれを受け取る。
兵隊の荷物は一体どこから出てきているのか、彼らは子供たち一人ひとりに何か手渡した。当然、少年らはそれを持ちきれない。ある子供は道端に捨て、ある子供は少年の一人が秋彦にしたように、人に譲った。だがしかし、隣の少年は違うようだ。彼はどんどん列から遅れをとった。持ちきれない荷物を無理に運ぼうとしているのだ。
「おい」
秋彦は少年の元まで走る。
「重くて持てないだろう。持ってやろうか」
秋彦の荷物は他の少年たちと違い、誰かに譲ってもらった三、四個の菓子と玩具だけだった。少年はしかし困ったように笑って首を振る。彼は荷物を取りこぼさんとのろのろ歩いた。
「危ないっ」
崩れかかった荷物に、秋彦が手を差し出す。少年もまたバランスを崩してふらふらと揺れた。途端に、腕の中の物は地面に崩れ落ちる。
「大丈夫か」
秋彦は地面に散らばった荷物をかき集めた。それらには一つひとつ見知らぬ人の名前が書かれている。埃を払って少年の腕へ戻してやると、彼の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
「どこか怪我をしたの」
秋彦は少年に語りかけるが、彼は首を振るだけで何も言わない。するとリボンの男の子が心配そうに彼を覗きに来た。しかし、何を言うでもなく、すぐさま列に帰ってしまう。秋彦は不安になって辺りを振り返った。少年の群れはどんどん遠ざかり、先ほどまでいた兵隊たちもいつの間にかどこかへ行ってしまったようだ。誰かに助けを求めようとするが、そこにはもう誰もいない。秋彦は夢中で少年の手を引いた。彼の腕からは力なく荷物が落ちていく。そしてどこか適当な建物に入ると、あった。それは母のクローゼットだ。秋彦はその扉を開くと、真っ暗闇の中へと飛び込んだ。
「どこが痛いんだい」
 気が付くとそこは母の衣裳部屋だった。少年はクローゼットの前でしくしくと泣いている。同時に、必死に首を横に振っていた。どうやら怪我はないと言いたいらしい。
「それなら、何をそんなに泣いているんだ」
 秋彦はしゃがみ込んで少年に問うが、やはり答えはない。その様子を見かねた彼は、ひとつ小さなため息をついた。うずくまる少年の手を優しく引くと、彼はそっと衣裳部屋のドアを開く。居間のある方向からは、相変わらず秘め事を話すかのような声が聞こえていた。しかし、この部屋の近くに人はいないらしい。秋彦は少年と共に部屋を出ると、音を立てぬよう扉を閉めて歩き出した。

 洗濯室を曲がって突き進むと、そこにあるのはキッチンだ。秋彦は彼をダイニングテーブルに座らせる。少年はそれに従いながらも、相変わらず涙ばかり流していた。無言で調理台の薬缶を手に取り、水を汲む。ときおり嗚咽と鼻を啜る音が鳴る背後で、秋彦はコンロの火を点けた。
幼い妹を持つ秋彦は、こうした子供の対応には慣れている。彼が何も言わないのならば、こちらもそうするのが一番いい。無理にかまってしまうと、しまいに一切口を閉ざしてしまうからだ。だから秋彦は待った。彼の方から何を聞くでもなく。
 秋彦は近場にあった椅子を引きずると、今度は戸棚を開く。調理道具や缶詰の立ち並ぶそこから取り出したのは、華美な入れ物と琥珀色の瓶だ。秋彦はこれを調理台に置くと、適当な位置に椅子を戻す。そして湯が沸くまでの間に、入れ物から茶葉をティーポットに、瓶の中身をマグカップにそれぞれ移した。
「どうぞ」
陶器の鳴る音がしばらく響いたのち、少年に差し出されたのは一杯の紅茶だった。赤橙につるりと光るそれから、温かな湯気が立ち昇っている。彼は一粒涙を溢すと、これを受け取った。
「ありがとう」
 しゃがれた声で彼は礼を言う。涙で濡れそぼった顔は奇妙に歪んでいたが、秋彦はこれを微笑んでいるのだと受け取った。
少年は二、三度鼻を啜ると、熱い紅茶をそっと口に含む。温かくなった舌の上には、かすかな甘みが残った。それは決してしつこくなく、さらさらと溶けるような甘さであった。
「美味しい」
少年は先ほどと違い、はっきりとした声と笑顔で秋彦を見る。秋彦はそんな彼に笑いかけながら、清潔な布巾を一枚手渡した。
「少しは落ち着いたかい」
少年の様子を伺いながら、秋彦は尋ねる。彼は申し訳なさそうに眉を下げていたが、しっかりとした調子で頷いてみせた。どうやら温かい紅茶が効いたらしい。落ち着きを取り戻した少年の頬は、うっすらと薔薇色をたたえていた。
「泣くつもりはなかったんだ」
「そんなの分かっているさ」
秋彦はふっと息をつく。少年の手にしたカップの中身は、早くも空になっていた。
「ねえ、もう一度あそこに戻らないか」
「何を言っているんだ」
突然の提案に秋彦は大声を上げた。少年は空のカップを握りしめている。その目には確固たる意志があった。
「あの街の様子を見たろう。それに、兵隊も。君はあそこが安全だと思うのか」
「けれど、あの子たちは言ったよ。兵隊は皆親切だと。きっと平気さ」
「馬鹿言うな。もしものことがあったらどうする」
 少年の頬はみるみるうちに燃えるような色に染まった。秋彦もまた同様であった。彼は街の様子を思い返す。崩壊した建物、埃臭い空気、無表情な兵士。彼らは身体のあちこちを包帯やガーゼで覆われていなかったか。秋彦が彼らの間を通り抜けるとき感じていたのは、紛れもない恐怖だった。少年は違うというのか。
「僕はあれを、先生に渡さなきゃならないんだ」
秋彦は首を傾げる。
「先生なんか知らない。なあ、そんなに欲を張らなくたっていいじゃないか。あんな物、またどこかで手に入るさ」
「欲なんか張っていない。それに、あれはあそこでしか手に入らない特別な物なんだ」
「君はあそこで死んでもいいっていうのか」
「死にはしないよ。君も行こうよ」
「そう言ってみんな死ぬじゃないか」
 秋彦がひと際大きな声で言ったとき、彼の頭からはさっと熱が引いていく感覚があった。少年はやはりカップを握りしめながら、そんな秋彦を見つめている。秋彦は少年と視線を合わせた。その目は失望とも怒りともとれぬ感情を映し出している。
「僕一人で行くよ。先生は死んだりしない」
「勝手にしろよ」
音を立てて食卓にカップが置かれる。少年は素早く立ち上がると、秋彦を振り返ることなく去っていった。静かになったキッチンで秋彦は一人、立ち尽くす。
 次の瞬間、耳を裂くような音を立ててカップが割れた。秋彦がそれを投げ捨てたのだ。少年の態度に腹を立てた彼は、両親に叱られることも構わずそれを壊した。荒くなる呼吸を押さえつけるように、秋彦は胸のリボンを握りしめる。しばらくして大きく息をつくと、彼は冷静になってその破片を見下ろした。
 今度こそ、悪いのはあの少年だ。秋彦はそう思った。彼が何を考えているのか、さっぱり理解できない。彼は原っぱでの銃声や街にいた兵士の顔など、すでに忘れてしまったのだろうか。彼の振る舞いはそんなことすら感じさせるものだった。一方で、少年との冒険が終わりを告げたことを残念がる自分もいる。その気持ちが、カップを片付ける気力を削いだ。
 秋彦はひとつため息を吐くと、のろのろとカップの破片を拾い始めた。少年の代わりに残ったのは、他でもない退屈だ。二階からは妹の声がかすかに聞こえる。親戚の女の子にでも遊んでもらっているのだろうか。しかし、今の秋彦には誰かと共に過ごす気力は残されていなかった。再び洗濯室にでも戻ろうか、そう考えながら秋彦は破片を集め続ける。箒で集めたそれらを厚手のビニールに突っ込むと、秋彦は乱暴にごみ箱に捨てた。
手をすすいでキッチンを出ると、家の中はやけに静かだった。先ほどまで聞こえていた大人たちの声も、今はすっかり止んでいる。秋彦が居間を覗き込むと、そこには誰もいなかった。頭の上から、妹の声がひとつ響く。
 居間にはテーブルとソファの他に、棺桶がひとつ置かれていた。棺桶からはひんやりとした冷気が放たれている。秋彦は身震いすると、不審に思ってそこへ入った。大人たちは一体どこへ消えたのだろう。居間の中を見渡すが、やはりそこには誰もいなかった。静まり返るそこには、秋彦と横たわる死体だけがあった。恐る恐る秋彦は棺桶を覗き込む。
 そこにいたのは見知らぬ壮年の女性であった。真っ白な花の中に埋められた彼女は安らかな顔で、それはまるで眠っているかのようだ。秋彦は目を見開く。柔らかな茶色の長髪に、薄い目尻と口元の皺。女性は若々しい桃色のワンピースに、ライラック色のカーディガンを肩に羽織っている。叔母には似ても似つかぬその死体に、秋彦は声も上げられず座り込む。彼女の首元のネックレスが、とろりとした金色の輝きを放っていた。

「思い出した?」
 徹の問いかけに、秋彦は頷いた。
「思い出したよ。前にもこんなことがあった」
秋彦は人差し指で徹を指す。
「まだアパートにいた頃だ。お前が急に訪ねてきて、その時も俺は紅茶を出した」
 それは五、六年前の話だ。徴兵から帰って間もない秋の終わりだった。互いにまだ二十代前半の頃。仕事に就いて間もなく、忙しい時期だったように思う。仕事の資料や日用品でぐちゃぐちゃの部屋を、徹は突然訪ねてきた。
「あのときは先生が亡くなってしまって、大変な時期だった」
徹は小さな声で言った。秋彦はインスタントコーヒーに湯を注ぐ。
 孤児院で育った彼には、よく世話になった女性教師がいたらしい。母親同然で彼に接してくれた彼女は、彼が秋彦を訪ねたのと同じ時期に亡くなった。不幸にも事故によるものだったらしいが、詳しいところは秋彦にも分からない。彼はコーヒーを一口啜った。徹は特別悲しみに暮れた様子もなくカップを握っている。
「探し物といえば」
秋彦は口に含んだコーヒーを飲み下した。
「お前のものなら、少しはここにあるかもしれない。待っていてくれ」
 言いながら彼は自室の方へと足を向けていた。暗がりの中を手探りで進むと、常夜灯の光が射す部屋を見つける。秋彦は自室へ入ると、ウォークインクローゼットの扉を引いた。そこには数少ない衣服と段ボールがしまい込まれている。置かれた箱類をひっくり返すようにあさると、あった。それはあちこちが破けた紙袋だ。中身を確認すると、自分の物ではない手帳とボールペン、腕時計などが入っている。
「いくつかあったよ」
秋彦は再び徹の元へ戻る。彼の握ったマグカップの中身はすでに空だった。
「本当かい。ありがとう」
 徹は紙袋を受け取ると、中身をひとつずつテーブルに並べだした。その品物は意外なほど多い。紺色の革張りの手帳にボールペン、レンズのない眼鏡、バンドが所々すり切れた腕時計など十点は出てきた。
「これはいつの物だっけ」
彼は瞳を輝かせ、興奮しながら秋彦に問うた。
「二年前の今日だよ」
秋彦はこれに答える。そしてまた一口コーヒーを啜った。それはまるで泥のような味だ。秋彦はこれを随分前から感じていた。
「なあ、徹」
今度は秋彦が問う。徹は何食わぬ顔で首を傾げてみせた。
「お前はあの日、死んだんじゃなかったか」
秋彦は真剣な顔で徹を見つめた。対して、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をこちらに向けている。長い沈黙が続くと思われたのも束の間、徹がにっこりと笑った。
「そうだよ」
「ならどうして俺のところに」
「それが問題なんだ。僕は気が付いたらここに来ていた」
「幸せの青い鳥は俺だって言うのか」
「さあね。けど、案外そうなのかもしれない」
 秋彦の心臓は高く鳴る。徹が死んだのは二年前の今日だ。二人は山中に車を走らせて、そこで落石事故にあった。それは助手席に落ちた。助手席には彼がいた。そのはずだった。
 その彼が今、目の前で笑っている。部屋の感想を言い、落書きをし、紅茶を飲んでいる。秋彦は混乱していた。いざ彼自身の口から彼が死んでいることを告げられると、それは恐怖にすら変わった。秋彦はいつの間にか震え出した手でカップを持ち上げる。うまく口に含むことのできないコーヒーは、多くがマグカップの中に戻っていった。
「けれど、信じて。僕は君を怖がらせようと思って来たわけじゃないんだ」
「怖がってなんかいないさ」
「僕はただ、僕の物を集めていただけだ」
「なら、それできっと全部だ。持っていってくれ」
「待ってくれ。もう少し話を聞いて」
 徹は音を立ててダイニングテーブルから立ち上がる。秋彦はそれとは反対方向に身体を向けていた。どうしてか冷や汗が流れて止まらなかった。血の気が引いたような寒さに身震いすると、秋彦は洗面所に歩き出す。だがしかし、ふらふら視線が揺れて定まらない。身体が揺れているのだと気が付いたのはその後だった。背後から冷たい手が触れるのを感じる。
「秋彦っ」
どたんという大きな音が、秋彦の耳に遠く反響した。

 扉を開くと、そこは原っぱだった。少年は辺りに目を配る。そこは最初に秋彦と共に来た草原と相違ない。青い草の上に点々と広がるのは、黒い棺桶だ。しかし、当初来たときよりも周囲は薄暗かった。見れば西の空に太陽が傾き、空が橙色に染まり始めている。少年は夕暮れを背に、自身の影を踏みしめて歩いた。草の上に浮かぶそれは薄黒く小さい。彼はふと、秋彦のことを思い浮かべた。
 今度こそ、悪いことをしてしまっただろうか。一瞬そんな風に思えたが、すぐに少年は考えを改めた。第一、彼らに話しかけようと言ったのは秋彦だ。それにあの少年たちの列に加わろうとしたとき、彼も乗り気だったはず。そして自身も兵隊から何かを受け取ったではないか。だというのに、帰ってきてみれば戻るのは危険だと言う。
「彼は弱虫なんだ。ただ怖いだけなのさ」
少年は呟いた。彼の行いと言動はつじつまが合わない。少年はそれを慎重ではなく臆病と捉えた。しかし実際、ここで再び銃声が聞こえようものなら少年は秋彦に助けを求めるだろう。不満を持つ相手が彼だけならば、頼るべき相手もまた彼だけだった。少年はこの心細さにも似た感情を、必死に押し殺して歩いた。
 すでに空は橙から群青へ変わりつつある。まだ十分と経っていないはずだが、日が暮れるのが異様に早かった。いつの間にか踏みしめていた影もなく、夜の冷たい空気がどこともなしに吹いてくる。低く不気味な風の声が、ゆっくりと彼の後をつけてきた。彼は何度も振り返っては、かえって自身の恐怖を煽った。あの街への道のりも分からないままだが、とにかく進むしかない。少年はほとんど小走りで先を行くと、じきに見えてきたのは大きな黒い穴だ。それは地面に開いていたが、すぐさまそれが湖だと気付く。その湖沿いには背の高い木が生えており、どうやら奥は森になっているようだ。よく見ると、奥地には点々と灯篭のようにほのかな灯りが続いているのが見える。
「人がいるのだろうか」
少年は恐怖を紛らわせるように独り言ちる。そして目を凝らして森の入り口まで歩いた。すると、木々に繋がれたロープがあることに気が付く。ロープはちょうど少年の腰の辺りの高さに括られ、それは灯り同様奥地まで延々と続いていた。少年はそれを掴みながら奥へと進んでいった。
 森の中は奇妙なほど静かである。生き物の気配など一切なく、ただただ薄明かりだけが続いていた。木々の形だけがぼんやりと浮かび上がるそこを進み続けると、遠くに建物らしきシルエットがあるのが確認できる。少年はそれにほっと息をついた。
 建物は意外と近い距離にあった。その輪郭が見え始めて五分と経たぬうち、彼はそこに辿り着く。それは白く高い塀に覆われ、頑強な門が据えられた建物であった。門はきっちりと閉じられており、中を確認することはできない。少年はしばらくその周りをうろついてみたが、物音などひとつも聞こえないのであった。彼は右往左往しながら他の入り口を探す。だがしかし、門の付近以外はひとつとして灯りがなかった。おかげで下手に身動きをとることもできない。
「あら、遅かったのですね」
 途方に暮れて門灯を見上げていたところ、女性の声で突然呼びかけられた。少年はびくりと肩を揺らす。その声がどこから聞こえているのかは分からなかった。
「もう食事は始まっていますよ。お入りなさい」
耳を澄ますと、どうやらそれは門の向こう側、建物の内部から聞こえているようである。少年がもごもごと口を動かしている間に、重厚な音を立てて門は開いた。灯りの漏れるそこには、一人の初老の女性が立っていた。
「さあ」
 女性は人当たりの良さそうな笑顔で少年に微笑みかける。白髪まじりの黒髪をきちんと束ねた姿には、女性らしい清潔感があった。彼女は黒いワンピースの上に大きなエプロンを羽織っている。そこからは温かく空腹になる香りが漂ってきた。少年は黙ってこれに従うと、冷たい鉄門を潜り抜けた。
 広い玄関に入ると、左右にはいくつも靴が並んでいた。その大きさは少年の年頃と同じような大きさのものから、一回り大きなものも小さなものもあった。少年はそれらを何の気なしに眺める。女性に促されて適当な場所に靴を入れると、彼女はどこからか白い内履きを差し出した。内履きは不思議なことに、少年の足にぴったりである。そこを進んで行きついたのは、青い壁紙で彩られた小さなホールだ。ホールには二階へ続く階段と図書館の受付に似たカウンターがひとつ、空色の扉がふたつ。そのまま奥へ進むと、再び空色の扉が見えた。隣を振り返ると、いつの間にか女性の姿はない。少年がそっとノブを引くと、中からひときわ明るい光が差し込んだ。
 そこに集まっていたのは、あの街で見た少年たちだった。彼らは食事をとっている最中らしい。皆行儀よく席に着き、目の前の皿に集中していてこちらの存在に気が付かない。少年はぎょっとして声も出さずに棒立ちした。すると、年長らしき少年がこちらに気が付く。それは昼間、秋彦と共に話しかけた薄青のリボンの少年だ。
「やあ。君もここに来たのかい」
少年は曖昧に頷いた。
「皆、新しい仲間が来たよ」
 リボンの彼の声に、皆一斉に少年を振り返る。いくつもの瞳に見つめられ、少年はたじろいだ。しかしすぐさま彼らは笑顔を浮かべた。同時に、先ほどまでの様子とは真逆に食卓で騒ぎ始める。
「こら、静かにしないか」
リボンの少年が眉を吊り上げるが、効果はごく小さなものらしい。彼らはてんでに大きな声を上げ、水の入ったグラスをかち合わせ音を立てるなどした。これにリボンの彼はため息をつく。自分が強く言ったところで無駄だということを分かっているようだ。
「仲間が増えるとお祝いができるから、皆騒ぎ立てるんだ」
少年を隣に招いて、彼は言う。リボンの少年は近場にあったグラスを手に取ると、ガラスポットから水を注いだ。結露したそこからは、ぽたぽたと水が零れ落ちる。少年はこれを受け取ると、一気に水を飲み干した。
「何を騒いでいるのです」
 先ほどのリボンの少年のそれより、一層厳しい声がダイニングに響く。瞬間、この騒動が終わった。声の方向に向き直ると、少年を建物へ招いた女性が、怒気を強めた表情で仁王立ちしている。年少の子供たちはほとんど泣きそうな顔で持っていたグラスやフォークを置いた。
「仲間が増えたからといって、このように騒いでいい理由にはなりませんよ」
静まり返る少年たちが、枯れた花のように身体を縮こまらせる。ただ一人、騒動に参加していなかったリボンの少年はしゃんと背筋を伸ばしていた。隣でグラスを持った少年はというと、あまりの剣幕に委縮している。それを見かねた女性は少年に向き直ると、途端に優しい表情をつくって言った。
「ですが、お祝いはお祝いです。皆さん、羽目を外しすぎないように」
女性が背後の扉を開くと、そこから引きずってきたのは銀色のワゴンカートだった。大きなワゴンの上には果物で飾られたケーキやチョコレートの菓子が立ち並ぶ。少年たちはわっと声を上げると、それぞれに彼女に礼を述べ始めた。
「菓子類やジュースは必ず食後に摂ること。いいですね」
 少年らの元気な返事が、ダイニング中に響き渡る。女性はやれやれといった様子で空色の扉から去っていった。すると、年長であろう少年たちが皿やフォークを用意し始めた。そして、少年をリボンの彼の隣に座らせると、そこに彼の分の食べ物をよそう。チキンのソテーに付け合わせの野菜、スープ、パン。少年はこれに礼を言うと、そのうちの一人は照れたように笑って目を逸らした。
「今日は君のお祝いだ」
リボンの少年が目配せすると、少年らは同時にグラスを振りかざす。少年も同じようにしてグラスを上げると、彼はすぐさま声を上げた。
「乾杯」
次の瞬間、少年たちの大合唱と共にグラスが合わせられた。

 夜九時を回った頃、少年はすでにベッドにいた。
彼が割り当てられた部屋は五人部屋であった。そこはベッドと簡素な棚がひとつ置かれている殺風景な部屋だ。同室には五、六歳の子が一人と、同じ年頃の子供が二人。そしてもう一人はリボンの彼だ。少年は彼のすぐ隣のベッドに寝転んで空を見つめている。リボンの少年もまた、寝間着でベッドに寝転んでいた。その枕元には古く厚い本を広げている。他の子供たちも、隣の部屋に遊びに行くなどして自由に過ごしていた。
満腹感と疲労による程よい倦怠感に身を委ねながら、少年は微睡む。すると見かねたようにリボンの彼が口を開いた。
「君はどこから来たんだい」
 少年はふっと意識を覚醒させると、サイドテーブルに置いた眼鏡をかけなおした。
「クローゼットを潜り抜けてきたよ」
「ああ、なるほど。よくあるんだ」
リボンの少年が相槌を打ちながら微笑んだ。少年は一体何のことか分からなかったが、この少年に親密に話しかけられたことを素直に喜んだ。
「君は」
「僕は鏡さ。小屋の扉とか、浴槽とか、井戸の中からなんて子もいるね」
「へえ」
少年もまた適当に相槌を打つ。その間、彼の頭には秋彦の姿が浮かんでいた。
 彼は自分のことを心配しているだろうか。はたまた、そんなことは忘れて眠ってしまったか。どちらにせよ、少年にとって胸が痛むことだった。彼と目が合った瞬間、きっと一生の友達になれると確信があった。大人に言わせれば根拠のないことかもしれない。けれど、少年の年頃の子供というのは、論理ではなく本能で行動するものだ。秋彦自身に馬鹿馬鹿しいと一蹴されても、少年のこの思いは変わらないだろう。
 だというのに、そんな彼を放ってきてしまった。冒険に誘った張本人が、一時の感情で彼を拒絶した。そして、少年はこれに自責の念を抱き始めていた。
徐々に表情の曇り始める少年に、リボンの彼は語りかける。
「何かあったのかい」
 すると少年は俯いた顔を上げた。彼は取り繕うように前髪をいじる。
「何でもないよ」
これは紛れもない強がりだった。少年は秋彦のことを忘れようと頭を振る。遠くから声が聞こえたのはその時だった。
「おーい、時間だよ」
その声にリボンの彼は振り返る。少年も同じように出入口に視線を向けると、そこでは一人の男の子が手招きをしていた。リボンの彼は開いていた本を閉じると、ベッドから降りる。その様子に少年は疑問符を浮かべた。すると、いつの間にか目の前に彼の手があった。
「眠る前に、お茶の時間だ」
少年は彼の手をとる。ベッドから跳ねるようにして降りると、手招きした男の子の後を追った。すると廊下には燭台を携えたあの女性が立っている。彼女はにこやかに少年たちの列を見送った。少年もその前を通り過ぎた。木製の廊下はときおり鳥のような声で高く鳴く。その木目を見つめ続けていると、着いたのは空色の扉の前だ。
 女性の案内でやってきたときと同じように、そこでは少年たちが食卓にきっちりと腰かけている。少年はリボンの彼に付き従いながら席に着いた。最後尾の少年たちのさらに後ろから、蝋燭の火に照らされた女性がゆっくりと現れる。
「さあ、当番の子供たちは準備をして」
 すると食卓から数人の少年が立ち上がった。彼らは食堂の脇にある扉のノブに手をかけると、一斉にその中へ消えていく。恐らく、扉の向こうはキッチンなのだろう。かちゃかちゃと食器の鳴るような音が聞こえてくる。
 じきに少年たちは揃って出てきた。その手には大きな盆を持っている。盆の上には陶器のティーポットと数個のカップが置かれていた。当番の一人である少年が持った盆の上には、金色に光る瓶が載せられている。少年はこれを見た瞬間、胸の内がズキンと疼くような感覚に襲われた。きっとティーポットの中身は紅茶だろう。彼は瞬時にそれを予測した。
「彼女が特別に作った茶葉でできた紅茶さ。普通のものと違って、よく眠れるんだ」
そんな少年をよそに、リボンの彼は盆の上の品々について説明を始めた。少年は気のない返事をしながらそれを見つめる。その間、当番の手により配られたカップが少年たちの間を巡った。ぼんやりとそれを眺める少年の元にも、蜂蜜がひとさじ入れられたカップが届いた。すると彼の傍らから、別の子供がポットを差し出してくる。少年はこれを黙って受け取った。
「皆さん。飲み終わった者から速やかにベッドに入ること。それでは、おやすみなさい」
皆のカップに紅茶が注がれたのを確認すると、女性は言った。その声に少年らは口々に挨拶を返す。女性が空色の扉から去っていくのを見送ると、当番の少年が口を開いた。
「いただきます」
そう言うと、少年たちは各々のペースでカップに口をつけた。少年もこれに倣って紅茶を啜る。それは秋彦の淹れたものとは別の味わいだった。思わず彼は眉をしかめる。
「口に合わなかったかい」
すると、リボンの彼が心配そうに少年を覗き込んだ。少年はこれに首を振った。
 口に合わないわけではない。それは事実だ。だがしかし、あの時飲んだものとは決定的に何かが違った。茶葉や蜂蜜など、種類の違いではない。秋彦の紅茶から感じられたのは、彼自身の優しさだった。
 少年は琥珀に光る紅茶を見下げる。何故だか涙が出てしまいそうな気持ちだった。鼻腔がつんと刺激され、視界が滲んでいく。彼はこれを必死に抑えた。誤魔化すように上を向くと、剥き出しの蛍光灯に一匹の羽虫が弾かれている。
一人また一人、食卓では少年たちが部屋へと戻っていく音だけが聞こえていた。

 深夜である。彼は物音に目を覚ました。何やら囁くような小さな声が聞こえる。薄闇の中をひたひた歩いた。空色の扉がかすかに開いている。そこは寝室だ。子供が苦しんでいる。ベッドの上でもがいている。彼は奇妙な息遣いで呻く。そこには彼女がいる。彼女は少年の背をさする。彼女の口からは低い声が聞こえる。
「大丈夫。ゆっくりと息をして。大丈夫、大丈夫・・」
囁きは安らかだ。彼女は瞳を閉じる。少年は・・。

 はっと目を覚ますと、朝だった。
「夢だろうか」
少年は首を捻りながら身を起こす。まだ早朝のようだ。リボンの彼も掛布に身を埋めて眠っている。もう一度ベッドに潜ってみたが、再び眠りにつくのは難しい。彼は顔を洗おうとそこから忍び出た。
 早朝の廊下は薄暗く、寒い。爪先立てたところから身体が冷えていくのが分かる。ぎいぎい鳴る床板の音は不気味なほど大きく響いた。そこで彼は気が付く。洗面所の場所が自分には分からない。少年はそんな自分に呆れてため息をついた。すると誰かが階段を昇ってくる音がする。
「どうしたのですか」
声の方向に顔を上げれば、そこに立っていたのは彼女だ。黒いワンピースの上には、やはり大きなエプロンを巻いている。
「早く目が覚めてしまって。洗面所へ行こうとしたんです」
彼女は手につけていた軍手を外しながら答えた。
「ああ。それなら、突き当りを右ですよ」
彼女の軍手には全体に土がついている。そこからかすかに朝露に濡れた湿っぽいにおいが漂ってきた。彼は不思議に思って尋ねた。
「それ、どうしたんですか」
彼女は言う。
「畑仕事をしてきたのですよ」
少年はこれに納得した。一言相槌を打つと、そのまま彼女の横をすり抜ける。そして突き当りまで歩くと、右側に茶色のドアがあるのを確認した。彼はそこを静かに開くと、彼女の方を一瞥する。彼女もまた、そんな彼を見つめていた。それはとても優しい目だ。目が合った瞬間、彼は扉を音もなく閉めた。朝食の時間まで、少年は退屈な時を過ごした。

十一

 少年らと食事を取り終えると、彼らと自由時間を過ごすことになった。聞けば午後はいつも学習の時間なのだという。それまでは外で球技に興じる子供がいれば、図書館で読書をする者もいた。少年はその中で、リボンの彼と行動を共にすることとした。
少年は早速調査に取り掛かる。もちろん、兵士がいたあの街についてだ。リボンの彼と共にいるのは親しみを込めた理由の他、どの子よりも物事に詳しそうだからというわけもあった。
「ねえ、君」
学習室で何やらノートに書き殴っていた彼に、少年は問うた。
「なんだい」
リボンの彼はすぐさまノートから視線を外して答える。
「昨日、君たちがいた街へはどうやって行くんだ」
「街。ああ、あそこのことか」
少年は思い出したように大げさに手を打ってみせた。そして身体ごと少年の方に向き直る。
「兵士のいる跡地だろう」
どうやらあの場所は跡地と呼ばれているらしい。少年は何度も頷くと、高揚した様子で身体を前のめりにさせた。
「あそこでもらったものを、僕落としてきたんだ。今すぐにでも拾いに行きたいんだよ」
するとリボンの彼は残念そうに眉を下げた。
「そうなのかい。けれど、もう誰かに回収されてしまったかもしれないよ」
「それだったら、諦めるよ。でも、この目でしっかり確かめたい」
 少年は机から身を乗り出して言った。彼は困ったようにううんとひとつ声を上げる。しばらく考えあぐねた様子であったが、やがて自信なさげに呟いた。
「回収されたものは、どこかに寄付されていると聞いたな。一日経ってしまったら、残っている可能性は少ない。どうしても欲しいのであれば、そこへ行って事情を説明するのも手かもしれない」
「本当かい。それはどこなんだ」
「この施設の裏側の森、そこのトンネルを抜けた先さ。けれど、森の奥へ入るのは禁止されているよ」
 リボンの少年の言葉に、彼の表情は険しくなる。少年は昨日の恐怖を思い返した。記憶に残っている風の鳴る音や、黒々とした木の影に思わず身を竦める。今は昼間といえども、誰もいない森の中は不気味なものに違いない。そう思うと、彼の中の信念は揺らぎかけた。
 少年は思った。秋彦が一緒だったらと。彼が今隣にいたならば、こっそりとこの場を離れて森に走り出すだろう。彼ならばこの遊戯に快く頷いてくれるに違いないと少年は考えた。目の前のリボンの彼は、恐らくそれを了承してはくれない。彼の年頃では、そうした悪事への憧れも尽きてくる頃だろう。
「僕がそこへ行くと言ったら」
「止めはしないよ。ただし、僕は行かない」
 答えは想像通りのものだった。少年はそれきり俯いて黙りこくる。今度こそ諦めようと思ったが、脳裏に浮かぶ秋彦の姿にその考えは消えた。もしも再び彼の元へ戻ったとき、何も手にしていない自分を見たらなんと言うだろう。何より、それは少年のプライドが許さないことだった。彼は膝の上に乗せた拳を力強く握る。
「僕は行くよ」
少年が颯爽と立ち上がると、リボンの彼は驚きに口を開いた。
「本当に行くって言うのか」
まさか少年がそう言うとは思ってもみなかった態度である。彼は慌てふためいて椅子から立ち上がった。
「本当だよ。午後までには必ず戻る。皆には秘密にしてくれないか」
「もちろんそうするよ。けれど、ここに長いこといた僕でも、あの森には近づいたことがない。何があるかは誰も保障できないよ」
「元々、それを承知でここに来たのさ」
囁くように少年が言うと、彼は静かにその姿を見つめた。少年にこれ以上何か言っても無駄であることを悟ったようだ。すると彼は突然、机の引き出しをまさぐり始める。少年がそれを眺めていると、彼の手から差し出されたのは一枚の金貨だった。
「これをお守り代わりに持って行ってくれないか」
少年はきらきらと輝くそれを受け取る。
「ああ。ありがとう」
「では、出口までは僕が案内するよ。ついてきて」
二人は辺りを慎重に見回しながら部屋を出ると、駆け足で塀の外を目指した。

 塀の外に出るまでは案外呆気なかった。皆が騒いでいる庭の隅、ツツジと椿の垣が立ち並ぶ場所。その近くの木製の塀の隅に、植物の葉に隠れるように開いた穴がある。彼はリボンの少年に見送られると、一人その穴を潜り抜けて向こう側へ辿り着いた。
「この時計を付けていくといい」
塀の反対側から、少年の手だけが覗く。その手には文字盤の小さな腕時計が握られていた。バンドの裏には異国の言葉で何か書かれている。少年はこれと金貨だけを手に、森の奥地へと一人赴いた。
 奥地へ続く道は昼間だというのに薄暗い。数十メートルはある針葉樹が立ち並び、そこだけ季節が異なるかのように肌寒かった。少年の頭上からはときおり、ガラス玉のように透き通った朝露が落下してくる。彼はそのたび身体を跳ねさせた。だが、ここまで来たのなら諦められない。彼は蚊の鳴くような声で呟いた。
「先生のためだ」
少年には大切な女性がいる。彼女は彼にとっての母親であり、姉であり、親友だった。そんな彼女との忘れられない思い出が、彼をこのような使命感に駆らせていた。
 少年が、通っていた学校で表彰を受けたときである。彼は自分の学年を対象に開かれた作文のコンクールで、最優秀賞をとった。少年には賞状と記念品が授与され、彼は早速これを彼女に報告する。   
記念品の置物はとりわけ美しかった。水晶でできたそれは、中に桜の花の彫り物が施されており、彼女もまたそれを美しいと褒め称えた。
そのとき彼は思った。この置物を彼女に差し上げたいと。だがその提案は彼女自身によって断られる。
「これはあなただけの物よ」
そういう彼女の言葉を、彼は不思議に思った。何よりも、親愛の意を込めて差し上げた物が拒否された事実を、彼はいつまでも気にかけていた。
 ならば、何なら貰ってくれるだろう。彼はその答えを、あの時兵士から受け取ったものに見出したのだ。特別な冒険で得た特別な品物。これならば彼女も喜ぶに違いないと思った。彼はそれ以外のものなど、何ひとつ持ち合わせていなかったのだから。否、生まれてこの方自分の物などあったことはなかった。すべては誰かの寄付、お下がり、余りもので作った物。少年にはそれしかなかった。
 針葉樹の隙間を縫っていくと、目の前にはコンクリートでできた道が見え始めた。そこは綺麗に整備され、轍ひとつないようだ。少年はその様子から、少なくとも人通りはあるのだと安心した。
 だがしかし、奇妙な点がひとつある。その道に差し掛かった途端、異様に深い霧が立ち込め始めたのだ。それはまるで少年の身体を隠さんとする勢いで広がっていく。迷わぬようそろそろと先を行くが、霧は濃くなる一方だった。そしてとうとう一寸先も見えなくなりそうなとき、少年はふと思いついた。
「彼から預かった金貨で、木に印をつけて行こう」
少年はポケットから金貨を取り出す。それは霧の中でもきらりと輝いていた。道の端に手探りで移動していくと、ぶつかった木に何度も線を引く。樹木の削れる音だけが、しばらく霧の中で繰り返された。
 一体何本目か、硬く冷たい樹木に触れたときである。この頃にはいくらか霧が晴れ始めていた。少年の前に、突如として黒い影が立ちはだかった。霧の隙間からそれを見つめると、影はごく短いトンネルであった。
「本当にあった」
 少年は恐怖も忘れて駆け寄った。トンネルは背が低く、幅も狭い。車一台がようやく通れる程度のそこからは、絶え間なく水が滴り落ちている。黒々とした内側はおうとつが激しく、岩を削り出して作ったかのような構造だった。壁面にはツル状の植物がびっしりと生えそろっており、それはいくつかトンネルの内側にも食い込んでいる。
 少年はトンネルの前で歩みを止める。そこには水が滴る音だけが反響していた。彼の心臓は激しく脈打ち、身体は内側から熱くなった。恐怖と好奇心の入り混じった気持ちを落ち着かせるべく、彼は金貨を握りしめた。しかし、金貨は少年の手によって、あっという間に熱を持つ。
 トンネルの向こう側には、少年が来た道と変わらぬものが続いていた。施設に迷い込んだときのように、それはまっすぐ建物に続いているのだろうか。それとも、たくさんの分かれ道があるのか。少年は時刻を確認する。まだ余裕はありそうだが、なんにせよ彼は一人ぼっちだ。途中で迷おうものなら、帰ることはできなくなる。しかし少年は、この期に及んで物怖じしている自分に嫌気がさした。
「行こう」
彼はそう自分に語りかける。その足はわずかに震えていた。トンネルの前にかかった霧が風と共に去ったとき、彼は俊敏に動き出した。

十二

 秋彦が目を覚ますと、そこは寝室だった。倒れたときに打ったのだろう。腕や肩に鈍い痛みを感じる。霞んだ視界を晴らすように目を擦ると、入り口からは徹の声が聞こえた。
「大丈夫かい」
秋彦は声の方向に振り返る。寝室の扉の前には、心配そうに彼を見つめる親友がいた。
「大丈夫」
秋彦は力なく顔をほころばせる。彼の手には洗面器とタオルが用意されていた。秋彦を介抱するために用意してきたのだろう。
「身体は痛くないかい。支えられなくてごめんよ」
「いいんだ。こっちこそ悪かった。突然混乱して」
「無理もないよ。混乱させたのは僕だ」
 そこまで言って、彼らは互いにくすりと笑う。いつだってなにかあればこうだ。どちらからともなく謝っては、お互い自分が悪いのだと言い始める。そして、最後にはおあいこで終わりだ。どんなに大きな争いが起きても、彼らの行き着く先はそれだった。
「徹、お前は幽霊なのか」
 秋彦が天井を見上げながら言うと、彼は手元に視線を落とした。無言の肯定のつもりなのか、徹はそれについて口を開こうとはしない。
すると徹は秋彦の傍らに腰かけた。洗面器に張った水にタオルを浸すと、それを絞って彼の額に載せる。ひやりとした感触に、意識がはっきりしていくのを感じた。秋彦はじっと彼を見上げるが、先ほどのような恐怖心はすでに消え失せている。それどころか、再会を喜ぶ自分がいることに気が付いた。
秋彦が恐怖していたのは、自分自身への面責だ。徹に彼の死を責められた時、自分はどう償えばいいだろう。徹を亡くしてからというもの、秋彦はこの恐怖に耐え続けてきた。一方で、誰も自分を責めないことに憤慨することもあった。
 しかし、いざ本人を目の前にして感じられたのは、心からの信頼だ。彼の言葉に偽りなどなく、徹は決して秋彦を責めようとはしなかった。そして秋彦は、その態度に救われた。秋彦はもう自分自身を責めることも、責められることもないのだ。誰よりも、徹がそれを許してくれる。
「寂しい。一人ぼっちでいることが」 
 それを理解したとき、心にあるのは徹への同情だけだった。先ほどまで微笑んでいた彼の瞳から、今は一粒の涙が零れている。秋彦は彼の手をそっと握った。まるで氷のように冷たい手だ。
「ごめん」
すると徹は満足そうにまた笑った。その表情は泣いているためぎこちない。
「せめて思い出があればと思ったんだ。僕には帰るべき家も、恋人もなかった。一人ぼっちで棺桶に入り、一人ぼっちで埋められた。帰りたくても、そこがどこだか分からない」
「それで、お前はお前の物を持ち帰れたのか」
徹はこれに無言になった。
「持ってはいけなかったんだ。けれど、どこかで結果は分かっていた」
彼は諦めたような嘲笑を浮かべる。秋彦はぼんやりと滲みだす視界でそれを捉えた。自分もまた、涙を流していたのだ。
「秋彦。ねえ、君は棺桶をなんたるか知っているかい。それは自分のあるべき場所なんだ。最後に自分が行き着く場所。家族の元、恋人の元、戦友の元。そのどれにも、僕は当てはまらなかった。僕は最初から一人だったから。最後まで一人だったから。だからどこへも行けなかったんだ。せめて大切な物を持ち帰ろうと思っても、それすら叶わない。秋彦、これがどれだけ虚しいことか、君には分かってもらえるはずだ」
「ああ、徹。よく分かるよ」
本当にすまなかった。続く言葉は、徹の声に阻まれた。
「だがね、僕はこうしてここにある。これがどういう意味かわかるかい」
 秋彦はその言葉を飲み込んだ。そして涙を流したままの瞳を呆然と徹に向ける。彼の言葉の意味が分からなかったからではない。言葉を遮られたことにより、単純に頭が追いついていなかったのだ。秋彦は彼の言葉を反復する。しかし、待ちきれないといった表情で徹が口を開いた。
「棺桶はすぐそこということさ」

十三

 水滴に煌めくトンネルの中は、さながら夜空のようだった。少年は落ちてくる水を避けながら走る。トンネルははた目には短いというのに、息が切れるまで走っても出口には辿り着かなかった。
「なんなんだ、このトンネルは」
少年の声は夜空の内に反響する。抗議の声を嘲笑うかのように、水滴がひとつ少年の頭に落ちた。
「なんだろう」
しかし、それは水のわりに硬質で温かい。少年は後頭部をつたって落ちてくるそれをためしに撫でてみた。すると、髪の毛に絡まった小さな石のようなものがあるではないか。彼はこれを慎重に指先でつまむと、眼前に持ってくる。それはまさしく石であったが、暗闇の中できらきら瞬く不思議なものだった。
「学校で見た鉱石みたいだな」
少年は理科室の標本棚を思い出した。その中には石英や黒曜石など、輝く鉱石が並べられていたはずだ。少年の指先にある数ミリ程度のそれも、似たような輝きを放っている。
 少年はこれを持ち帰って、リボンの彼に見せてやろうと思った。ポケットに石をしまい込むと、その輝きが地面にもいくつか広がっていることに気が付いた。
「まだあるぞ」
少年は石を拾おうとしゃがみ込む。星のように見えていたそれらは水滴ではなく、ごく小さな石の塊だったのだ。少年が最初にポケットに入れたものは、水晶の輝きを放っていた。地面には他に蒼玉や緑玉、紫水晶など様々な石が散乱している。それはさながら銀河である。一体どれほどの歳月をかけて降り注いだのか、少年がいくらとっても星は尽きなかった。
「凄い。辺り一面にある」
 彼が歓喜の声を上げたときである。まるでそれに呼応するかのように、手のひらに置かれた石がひとつ浮かび上がった。それはエメラルドの光を放つ石である。少年はあっと叫ぶと、蛍のような光で瞬くそれを目で追った。
 石はひゅんっと風を切るような音で宙を舞う。その場で一回転してみせると、真っすぐにトンネルの出口へと飛んで行った。
少年は魅了されたようにその光を見つめた。するとまたひとつ、石は蛍となって宙に浮かぶ。今度はアメシストの蛍だ。その石も緑玉と同じように回転すると、出口に向かって去っていった。すると、辺りがみるみるうちに明るくなる。少年が振り返ると、地面や天井で輝いていた石が一斉に宙に浮かんでいた。それらは回ったり、近くのものとくっついたりしてちかちか身体を光らせている。蛍はやがてひとつの生き物のように集合すると、驚嘆している少年の横をすさまじい速さで駆け抜けていった。後には出遅れたのか、よろよろと飛んでいる数個の光だけが残った。
 蛍が飛び去る残響を聞きながら、少年はポケットに手をかける。ほとんど真っ暗になったそこには、ただ一匹、水晶の輝きの蛍があった。だがそれも、手のひらで弄んでいるうちに去ってしまう。まるで意思があるかのように真っすぐと進む水晶に、少年は名残惜しさを抱きはしなかった。彼は光の残像を追うようにして走り出す。
 すると、途端に聞こえたのは低い音だった。少年は一瞬、足音かと疑い下を見る。ドン、ドンと聞こえるそれは足音に、あるいは鼓動に似ていた。だがしかし、それは少年が足を止めてもなお聞こえるのであった。耳をすますと、それは出口の方から聞こえてくる。少年はこの音に怯えた。向こう側で何が起こっているのだろう。そう思うとこの森へ来て何度目か、また足がすくんだ。少年は音を振り払うようにぐっと目を瞑ると、いつの間にかほど近くなった出口にそろそろと歩く。
 そこにあったのはテントだった。トリコロールに彩られたそれの周りには、大きな檻に入った猛獣や鳥までいる。それらの檻は固い南京錠で閉ざされており、簡単には逃げられないようになっていた。
 その後方、ドット柄の布が提げられたテントの出入口付近には、銀色の立て看板が据えられている。文字の一部はペンキか何かで厚く塗られており、読むことができない。かろうじて読めるのは『サーカス団』の部分だけだ。
 どうやら音はここかららしい。サーカステントの中からは、地鳴りのように低い音が聞こえた。それは打楽器の音だろう。音は陽気な音楽の中からときおり響く。少年はその音にひっそりと近付いた。これは周囲の猛獣を恐れての挙動だったが、それらは近くで見るとすべて作り物なのであった。
 彼はしばらく辺りを観察した。リボンの少年が言った回収先が、サーカス団のテントだとは考えられなかったからだ。ためしにテントを一周してみたが、せいぜい周囲百メートル程度のものだろう。中に人がいるかどうかも怪しいこのテントと、少年の想像したものとではあまりに差がありすぎる。彼はてっきり、そこが自分の迷い込んだ施設のような場所だと思い込んでいたのだ。
だが、トンネルを抜けた先にはまた森が続くばかりだ。テントのある一帯の後ろには、先ほど通り抜けてきた場所よりさらに暗く木々が生い茂っている。そこには整備された道もない。ここでむやみに奥へ進むよりは、テントを確かめた方がいいだろうか。少年はしばし迷ったのち、再びテントの入り口付近に向かった。
 そっと入り口の布を開けると、中は空っぽだった。少年は、これにたいして驚きもしなかった。これだけ小さなテントの中に、サーカス団がひしめき合っている方が動揺してしまう。しかし、不思議なことに音楽はこの中から聞こえていた。見ると空っぽの部屋の床には幅一メートルほどの穴が開いている。穴の中にははしごが掛けられており、音はテントの中ではなくその中からだった。彼はこれに気が付くと、近づいて穴を覗き込んだ。穴からは柔らかなオレンジの光が見え、ときおり人の歓声が上がっているのが分かる。とすると、サーカスはこのはしごを降りた先で行われているのだろう。少年は早速ここを降りた。はしごに足を掛けるたび、歓声と音楽は大きくなる。彼の心臓もまた、同じように段々と大きく鼓動を脈打たせた。
階下へ降りると、そこは煌びやかな世界だった。何百人という観客でひしめくサーカスは二階席にまで分けられており、少年はその隅に降り立った。段上の観客席に並ぶ客は大人から子供まで様々で、どこから持ってきたのかてんでに風船や菓子、飲み物類を手に舞台に注目している。風船にはホログラムの加工が施され、これもまたトリコロールに飾られていた。それらは舞台上からの光にときたま反射し、少年の視界の端で光を散らす。
「お待たせいたしました。続いては少年少女による曲芸を披露いたします」
 わあっとひと際大きな歓声が上がり、少年も舞台に注目した。半月型のそこには年端もいかない子供たちが数人、整列している。彼らは横一列にお辞儀をすると、くるくると踊りながら舞台からはけていった。そしてステージの中央には少年が一人、取り残される。
 彼は年のころ十二、三程度か。人懐っこい大きな瞳に明るい頬、ひょろりと華奢な身体。白いシャツに茶色いチョッキを羽織った姿は、舞台の華やかさと比較して幾分地味である。彼は黒い髪の毛をなびかせながら、何やら大きな布を用意していた。その真紅の布は暗幕のように厚手で頑丈である。それは少年の身体を何重にもくるめるほど大きく、ともすれば持て余してしまいそうな品であった。しかし、彼はその布の塊を非常に器用に操ってみせた。それはまるで生きているかのように彼の手に従い、優雅に舞い踊る。固唾を飲んで見守っていた観客もその動きだけで魅了されたのか、じきにうっとりと彼の方を見つめ始めた。それを合図に、少年はおもむろに宙を見上げる。途端に会場の空気がぴんと張り詰めたものに変わった。観客が目を見張る次の瞬間、彼は重たい布を力一杯空に向かって投げ捨てる。しかしそれはいくらも高く飛ばず、すぐさま少年の身体の上へ舞い降りた。そのとき、観客席にこだましたのはどよめく声だ。布の下で浮かび上がるはずの彼のシルエットが、綺麗にそこから消えていたからだ。布は力なく地面に落下すると、それきり動くことはない。少年は影も形もなく、一瞬にして舞台上から消えてしまったのだ。この見事な芸に、観客席からは感嘆の拍手が沸き起こる。
「凄い、凄いぞ」
 人々の声が波のように押し寄せるなか、その声に答えるべく彼は再び姿を現す。舞台に横たわった布が膨らんだかと思うと、歪に膨らんだシルエットが、徐々に少年の姿形を作り出した。そこから彼が人懐こい笑顔を覗かせるまで、そう時間はかからない。するとまたもや、観客は彼に向かって盛大な拍手を送る。黒髪の少年は恥ずかしそうに頭を掻いて一礼を述べた。
 彼の背後には、次の見世物に使用される大道具を用意する子供たちが行き来している。鮮やかな菓子のように美しいそれらは、少年を興奮させた。次は何を見せてくれるのだろうと、彼は待ちきれない様子で最後列の椅子から身を乗り出した。そんな少年を尻目に、黒髪の彼は随分長く愛想を振りまいている。
 用意された大道具は、ふたつの鍵穴型の道具だった。それらは少々サイケデリックなまでに彩られ、十メートルほどの距離を置いて互いに自立している。円形の部分の中心には鉄製の太い軸が付けられており、そこには固く綱が結び付けられていた。黒髪の少年は最後にまた一礼すると、今度は軸にはしごを引っかけ、勢いよく上まで昇って行く。少年がそこを駆け上がる最中、舞台上の明かりがふっと消えた。同時に、小太鼓のリズムが刻まれる。人々は期待に再び息を潜め、暗がりで静かな呼吸を繰り返す。
 やがて太鼓の音がぴたりと止むと、舞台にスポットライトが射し込んだ。するとどうだろう。地面から数十メートルはあろう空中で、彼はゆらゆら揺れる綱に片足で立っている。何人かの客がこれに驚嘆の声を発し、中には目を背ける者もいた。少年もまた、興奮と同時にひやりと心臓が冷たくなる感覚に息を飲んだ。彼は暗闇の中で大道具を昇り、手探りのみでこの綱を渡ってみせたのだ。常人離れした芸当をこなしたにも関わらず、しかし彼の顔はにっこりと微笑んでいる。
「どうでしょうお客さん。誰か僕と綱を渡りませんか」
 少年は明るい声色でそう叫ぶと、時おり落ちそうになる真似をしておどけた表情を浮かべた。この声に観客の誰もが目線を泳がせたが、少年はそれでも辺りを見渡す。客席の人間たちはまさに蛇に睨まれた蛙のようにじっと息を殺して動かない。実に数分はそうしていただろうか。じきに別の少年らがはしごから彼に小道具を手渡す。すると彼も諦めたのか、綱の上で受け取った傘やボールに集中し始めた。彼の細い指に握られた紅白の傘の上で、色とりどりの球が回される。緊張から解かれた客席は彼に向かって再び拍手を送りだした。少年もほっと息をつきながら、目まぐるしく回転する傘を見つめる。しかし、次第にその動きに酔いすら覚え、彼はふと視線を下に向けた。そして頭の中に浮かぶ彼の幻影に意識を集中する。彼、秋彦が綱渡りの少年にどこか似ていると感じたのはいつからか。少年は秋彦の明るい笑顔を思い返した。
「しばらく忘れていたな」
彼はふと呟くと、ポケットの中に突っ込んだ金貨と石に指先で触れた。それらはひんやりとしていて、熱くなった身体に心地よい。少年の肩には瞬間、どっと疲れが降りかかった。つい先ほどまで楽しんでいたはずの観客の声と熱量が、今は喧騒となって耳をつんざく。
「弱虫だなんて思ってごめんよ」
少年は姿のない秋彦に向かってそう詫びた。黒髪の少年に歓声を送る人々の間、一人ぼっちでいることが、今は不思議なほど悲しかった。危険な場所で自分を引っ張ってくれた彼、優しく紅茶を淹れてくれたその影が、少年の姿に重なる。

十四

 そのとき、突如として眩しい光に少年は包まれた。自分が光を浴びているのだと理解したのは、目を開くよりも先だった。光の方に向き直ると、少年の耳には観客の口笛と歓声が聞こえる。何も考えられずにいるとすぐに光は去り、ちかちかと黒い靄だけが視界に残った。巨大な靄は次第に晴れ、少年がまず目にしたのは遠くで手を振る黒髪の彼だ。
「皆さん、綱渡りに挑戦するのはこの小さな少年です」
 快活な声が舞台上に響き渡ると、ひときわ大きな声援が観客席から返ってきた。少年は何がなんだかわからず、きょろきょろと辺りを見渡す。観客や地面が妙に小さく見えるそこは、あの鍵穴型の大道具の上なのだった。反射的にのけぞるような体勢になると、腰の辺りに何か柔らかなものが当たった。振り返ると、それは同い年くらいの子供の小さな手だ。
「大丈夫。ゆっくりとはしごを昇って」
少年は観客の声に包まれながら、大道具を昇りきる只中にいた。後ろには補助役が構え、彼の身体を支えんとしている。
「どうして突然ここに」
「落ち着いて。ゆっくりだよ」
「待ってくれよ。僕には無理だ」
少年は嫌々と首を振る。先ほどまで確かに自分は客席にいたというのに、今は何故ここにいるのかわからない。そこでは無数の人々の目が一挙に少年に向けられていた。その視線に彼は思わず身を引いてしまう。その度、後ろの少年の手が優しく触れた。
「さあ」
同じ年頃であろう彼は黒髪の少年と打って変わって、切れ長の細い目に陶器を思わせる白い肌を持つ。彼は少しも心配などないといった表情で少年に手を添えていた。少年は自身の足元を見ては意識が遠のくような感覚に震えあがる。なんとか昇り切り軸の上に立つが、膝が遊んでしまいもう一歩も進めないような気がした。
 秋彦が言うように、ここに戻ることは危険だったのかもしれない。人から譲り受けたものをこうして追い求めるのは、貪欲なことだろうか。とすれば、自分は間違った選択をしてしまったのだろう。だが、それでも構わないと思ったのも事実だ。間違いだとしても、守りたい信念が自分にはある。一方で、秋彦の存在をいつまでも忘れられない自分がいた。聡明な彼ならば、あの施設で少年らに何を語っただろうか。臆することなく暗い森やトンネルを進んだだろうか。冷静で思慮深いわりに、健全な少年の好奇心を兼ね備えた彼である。その姿の隣には、いつだって自分がいた。秋彦のいない心細さを感じない瞬間など、少年にはなかった。
「ゆっくりと前へ進むんだ。まっすぐ僕だけ見て」
 向こう側で黒髪の少年が手を広げている。その足は軽やかに少年に向かって伸ばされていた。だがしかし、自分にはできない。そう思い後ろに控えた切れ長の目の彼を振り返ろうとした瞬間、肩の辺りにふわりと柔らかい衝撃が走る。
 気が付けば少年は綱の上に足裏を乗せていた。血の気が引く感覚に全身が冷え、一瞬のうちに汗が額を濡らす。そのまま勢いに乗って二、三歩前進したが、もう身体のバランスをとることができない。少年の身体は頭から落ちるような形でつんのめった。
「ああっ!秋彦、助けて!」
少年は目を塞いで叫ぶ。眼前に迫る地面と身体が浮いた感覚への恐怖に耐えられなかった。涙をこぼしながら風を切ると、そのまま舞台上へと落下していく。左腕に何かが触れたのはそのときだ。
 バン、と大きな破裂音が響いたかと思うと、少年は舞台の上に座り込んでいた。目の前には黒髪の少年も共におり、彼は優しげに唇で弧を描いている。見れば足元にはカラフルな風船やマット、クッション材が大量に敷かれていた。そのうえ、彼が落ちる際の姿勢を正してくれたのだろう。少年の身体には傷ひとつなく、どこにも痛みはなかった。
「ね。できたろう」
黒髪の少年は言う。少年は何も言えずにただ座り込んだ。そんな彼とは対照的に、観客席からは興奮した歓声が響いてくる。しばらくはその声も少年に届かなかったが、やがて事態を飲み込んだ彼はこの声に唖然と手を振った。
「皆さん、勇気ある彼にもう一度盛大な拍手を」
弾けるような音が、客のひしめくテントの中にこだまする。少年は段々と正気を取り戻し、黒髪の彼と共に立ち上がって客席に笑顔を向けた。大道具の方を振り返ると、切れ長の目の少年がはしごの上で笑っている。少年は彼にうらめしそうな視線を送ったが、すぐさまそれも笑顔に変わった。
「君はなんだってできるんだよ」
隣の少年が小さな声で言う。少年は声の方向を振り返った。見ると、彼の大きな瞳が少年を捉えている。黒髪の彼は近くで見ると、そう秋彦と似通った顔つきではないことがわかった。少年はそれを気にかけることなく、ただしばらくその視線に答え続ける。何の気なしに彼の手元を見下げると、そこには零れんばかりに積まれた何かがあった。少年は目を凝らすが、彼が確認するより早く黒髪の少年はそれを口元へと持っていく。
 彼の手元からぼろぼろと落ちてきたのは、白色の錠剤のようなものだった。黒髪の少年は勢いよくそれらを嚥下すると、途端に呻き声を上げて苦しみだす。そして後ろ向きに倒れたきり、彼は奇妙な呼吸を繰り返すだけで何も答えなかった。
「どうしたんだい。ねえ君、大丈夫か」
光を浴びたまま、彼はひたすらもがく。少年は恐怖と混乱で手も差し伸べられないまま、ただその場でそんな言葉を繰り返すばかりだ。客席の人間は誰一人手を貸そうとはせず、その様子は少年の不安を煽る。やがて彼がひときわ大きく喘ぐと、舞台裏に繋がる壁やドアからも大きな音が響いた。振り返れば、目に痛い色のそれらの隙間から、黄土色に濁った水が流れ込んでいる。水流を抑えきれずに壁が膨らむような形になり、辺りにみしみしと重い音を立てた。少年のあげた叫び声をかき消すように、客席からも無数の声が聞こえてくる。少年は舞台に残っていた子供たちに助けを求めようとするが、どうしてか今まで近くにいた切れ長の目の彼すらいない。
「誰か手伝って。倒れている子がいるんだ」
水音に揉まれた声は、虚しくも誰の耳にも届かない。いつのまにかライトの消えた舞台で少年が客席を見ると、そこにはもう誰一人としていなかった。赤褐色のシートで覆われた座席の上には、灰色の砂粒がいくらか残されているだけだ。だというのに、どこからするのかもわからない声がそこら中にこだましている。叫び声は風のように少年の耳に響き、あの日の夕暮れの原っぱを思い出させた。足元に転がった黒髪の子供と壁とを交互に見ると、彼はとうとう出口に向かって走り出した。
「ごめんよ。ごめんよ」
少年が走り出すのを見計らったように、舞台の壁とドアには亀裂が走る。がむしゃらに腕を振って出口を目指すが、綱渡りで委縮した身体は思うように動かなかった。どうにか出入口のはしごへ辿り着く頃、舞台は崩壊する。少年は必死にはしごを駆け上がり、観客席を飲み込む濁流を避けた。
 狭い穴から這い出た身体を、それ以上水は追ってこなかった。息を切らせて少年がそこを覗き込むと、水は観客席を飲み込んで静かに揺れている。その表面には砂粒と白色の錠剤が浮いていた。あの少年は濁流に揉まれてどこかへ沈んでしまったのだろう。それを思うと、少年は恐ろしい気持ちになった。それは紛れもない罪悪感であったが、黒髪の少年は濁流に飲まれるより先に息を引き取っていた。だがしかし、それを知らぬ少年にはこの事実が恐ろしくて仕方がない。
「僕が殺したのかな」
言うと少年の目からは涙が零れた。彼の死への悲しみというよりは、助けられたかもしれないという悔しさから出た涙であった。しかし、テントの中からは、それきり水の鳴る音しか聞こえない。少年はしばらく涙を流したあとで立ち上がると、もと来た道を黙って見つめた。
「行かなきゃ」
 リボンの彼から預かった時計を確認すると、時間はほんの数十分しか経っていない。不思議に思いながらも、彼はトンネルを目指して歩く。テントの入り口を抜けしばらく行くと、そこは紛れもない闇であった。来たときのような水の煌めきも、石の輝きもすでに失われている。しかし彼は迷うことなくそこに入っていった。中の空気はどんよりと重く、湿っぽい。少年は足に力を込めると、闇を切り裂くように素早く走った。彼の中には恐怖や動揺は消え去り、勇気だけが湧き上がってきていた。黒髪の彼が言ったように、今ならなんだってできるような気がする。トンネルを抜けると今度は森へ入り、その中もまた臆することなく走っていく。
 行きと違い、帰り道はあっという間だった。森の中を一直線に駆け抜けていくと、見覚えのある白い木製の塀が見えてくる。その一部分に開いた穴からは、リボンの少年が顔を覗かせていた。
「おーい、早く早く」
リボンの彼は小さな声で手招きをしている。少年は静かに穴の中へと身を滑らせた。
「あったか」
リボンの少年は言う。
「いいや、見つけられなかった」
少年はトンネルやサーカスについては彼に言及しなかった。あれが夢だったのではないかと考えていたためだ。現実だったとしても、説明するにはあまりに時間がかかりすぎる。
「けれど、お土産を持ってきたよ」
 少年はポケットの中に手を突っ込むと、トンネルで拾った石をいくらか握りしめる。さらさらと小さい粒状の石は、あのとき宝石のように美しい輝きを放っていた。少年がこれを誇らしげに突き付けると、リボンの彼は訝しんで手元を見る。
「なんだい、これは」
彼の様子に少年も手元を振り返る。するとそこには、灰のような色に染まった砂粒がいくらかあるだけだ。
「おかしいな。あんなに美しかったのに」
少年は目を見開く。ポケットを裏返して中身を出してみるが、そこからはやはり砂粒が零れてくるばかりだった。微塵も美しくないそれらは、観客席のシーツに撒き散らされていたものとよく似ている。
「とにかく、無事に帰ってよかったよ。君を心配していたんだ」
困惑する少年を尻目に、そんなことはどうでもいいといった態度でリボンの彼は言った。振り向けば、彼の目にはほんの少し緊張が残っているような様子だ。恐らく、少年のことをずっとこの辺りで待っていたのだろう。肩に置かれた手はすでに冷たくなっていた。
「ありがとう」
「行こう。そろそろ午後の授業の準備をしなければ」
リボンの少年に促されると、彼は大人しくその声に従った。

十五

 午後の授業はあの原っぱで行われた。たった一日しか経っていないにも関わらず、少年は懐かしさすら覚えて柔らかな草を踏みしめて歩く。昨晩はここで随分と恐怖を味わったものだ。太陽が真上に昇った今、そこは清々しく晴れ渡っている。昨夜のような低い風の音など、少しも聞こえなかった。
「皆さん、この辺りにしましょう」
先頭を行く彼女が手を振って合図する。彼女の大きなエプロンが、吹いた風になびいていた。そこは少し小高くなった丘である。
「荷物を置いて」
 彼女の声に、少年らは持っていた荷物を一か所にまとめだした。手持ちの黒板や理科道具の入った鞄、彼女もまた、重たい音を立てるトランクをその場に降ろす。少年は丘の上から下を見下ろした。しかしそこは思っていたよりも低く、平地での景色とほとんど変わりがない。少年は無意識のうちに棺桶を探していた。秋彦と共に見つけたあの棺桶だ。あれは確かに野原一面に広がっていたはず。だが、それを確認するにはもっと高い場所に行く必要があるのかもしれない。棺桶は丘からひとつとして見ることができなかった。
「それでは、準備をして」
 その声に少年は我に返る。少年らの群れに戻ると、リボンの彼を見つけて隣に腰を下ろした。
「室外授業だなんて、なんだか楽しいね」
「ああ。晴れた日はよくやるよ」
リボンの少年はにっこりと笑いかける。その様子から、この授業がおおいに楽しめるものなのだろうと少年は勘づいた。
 子供たちは各々好きな場所に散らばり、原っぱや自身の足の上にノートを広げていた。少年もそれを真似てノートと筆記具を広げる。彼女は鞄の中身を確認し、黒板に向かって何か書いていた。
「さて、今日の授業がなんだかわかる人はいますか」
唐突な彼女の質問に少年らは首を捻る。
「はい」
皆が周囲と話し合う中、ただ一人リボンの彼だけが自信ありげに挙手をした。突然の行動に少年たちはぽかんと彼を見やる。隣に座っていた少年もまた、同じように彼を見上げた。
「宝石についてですね」
「正解。よくわかりましたね」
少年の発言に、わあっと称賛の声が沸き上がる。リボンの彼は得意げに皆を振り返ると、こっそりと少年に言った。
「今日の教材を見たんだよ。運んできた荷物があったろう」
 少年は彼の持っていた手荷物を思い浮かべる。確かに、彼はひときわ大きく重い荷物を持っていた。それは今日の重要な教材だったのだろう。なるほど、年長の彼ならではの手法だ。
「彼の言う通り、今日の授業は宝石についてです」
彼女が手に持った小さな黒板をひっくり返すと、そこには『宝石』と大きな文字で書かれている。だが、板書されたそれはすぐさま消えてしまった。少年はノートの一行目に急いでその文字を書き写した。
「宝石というのは朝露とガラス玉を炒って冷やしたものを指します。宝石は本来脆く壊れやすいですが、よく冷やすことで一定の硬度を保つことが可能になるのです。では、この宝石の色はどんな色か。皆さん、考えてみましょう」
今度の質問では、リボンの彼も黙っていた。だがその顔には余裕が見える。恐らく彼は知っているのだろう。少年はノートに説明された内容を書き込みながら考えた。他の少年たちもその様子だ。野原はしんと静まり返り、風の吹く穏やかな音だけがその場に満ちている。少年はふと、トンネルの蛍を思い浮かべた。あれは彼女の言う宝石と同じものなのだろうか。水晶や緑玉、蒼玉、あらゆる色を称えた石は朝露のようにひんやりと心地よかった。
「はい」
考えるより先に、少年は直観的に手を挙げた。
「どうぞ」
「あらゆる色があります。それぞれに異なる色です」
 一瞬、辺りが静まり返る。彼女は無表情で少年を見つめたかと思うと、次の瞬間、柔らかな笑みを浮かべた。
「正解です。皆さん、宝石にはたくさんの色があるのですよ」
彼女が黒板を裏返す。
「例として、青、緑、紫、黄など。そのどれもが輝き、彼らは発光しています。中でも珍しいのは赤色です。赤色はガラス玉の色であり、多くは炒る段階でその色を失うからです」
隣でリボンの彼が言う。
「凄いじゃないか。よくわかったね」
「僕も君と同じさ」
少年は笑う。彼が教材を覗いたのと同じように、自分も見たことがあったというだけだ。トンネルの中で見た宝石の中に、確かに赤色のものはひとつとしてなかった。あれにはそういった理由があったのだ。少年は合点がいったように小さく頷いた。
「それでは、見本を見せましょう」
彼女が足元に置いた鞄のひとつを開く。見ると、鞄の隙間から薄く光が漏れていた。先頭に座った少年らはこれを覗き見るように身体を前屈姿勢にさせる。
 彼女が手にした宝石は、少年が見たものとは異なる形だった。彼が見たものは砂粒のように細かい石だが、その大きさは手のひらほどある。少年はこれに驚きの声を上げた。声を上げたのは少年だけではない。集まった全員がこれに歓喜ともとれる声を上げる。リボンの彼が持っていたのはこの鞄だろう。彼だけは一人笑みをつくるだけで、一言も発しなかった。
「美しいでしょう」
 彼女の手のひらの上で発光するのは、紫色の宝石だった。表面はごつごつと隆起しており粗削りながら、触れれば壊れてしまいそうな繊細な石である。彼女は黒色の布を原っぱに広げると、その上に宝石を置いた。鞄からはまだいくつかの宝石が出てきたが、これほど大きなものはなかった。他のものは小石程度の大きさで、布の上で優しく光っている。そのどれもが、同じ程度の明るさで黒色の上に光を落としていた。どうやら、大きいほど光が強いわけではないらしい。少年らはこれを囲むようにして眺めた。
「それでは皆さんでスケッチをしてみましょう。十分程度で仕上げるようにしてください」
彼女の声に従って、少年たちは動き出す。どこからか音が響いてきたのは、少年がノートに鉛筆を滑らせた時だった。タタタタ、と短く響くそれは太鼓のリズムにも聞こえた。
「何か聞こえるね」
「ああ、気にする必要はないよ」
 少年の心に一抹の不安がよぎる。原っぱで聞こえるその音は銃声ではないか。彼は秋彦と共に棺桶に隠れたあのときを思い起こした。少年が不安に感じているというのに、他の子供たちは誰一人としてその音を振り返ろうとしない。まるで何も聞こえていないかのような素振りだ。少年はそれを疑問に思うが、リボンの彼の言う通りスケッチに集中しようと視線を戻した。
 だがしかし、しばらくしてその音はこちらに近づいてくる。少年はたまらず立ち上がるが、やはり皆不思議そうな顔でこちらを振り返るばかりだ。
「どうしたのですか」
彼女が言う。
「銃声だよ。銃声が聞こえるんだ」
「安心して、大丈夫。何も怖いことなどありませんよ」
彼女の言葉を遮るように、銃声はターン、と長く音が響いた。どさりと重たい音が背後から聞こえる。少年ははっとしてそちらを振り返った。
 倒れていたのはリボンの彼だった。先ほどまで宝石と向かい合っていた彼が、奇妙な形に身体を捻じって倒れている。その額には錆色の空洞が覗いていた。少年はこれに悲鳴を上げた。
「どうしよう、逃げなければ」
「落ち着きなさい」
少年が足を震わせていると、彼女はこちらに近づいて言う。冷たくなった彼の手を握ると、視線を合わせるようにして屈みこんだ。
「時が来たのです。それだけのことよ」
「なんだよ、それ。僕は死にたくない」
「平気よ。あなたは大丈夫」
「嫌だ、離して」
彼女の手を振りほどこうと少年はもがく。しかしその手から逃れるのは容易ではなかった。少年が暴れているうち、ひとつふたつ、また銃声が鳴った。今度は五、六歳の子供が倒れた。背後でどさりと音がする。
「僕は何も知らない。助けて、秋彦」
少年が大きな声で叫ぶと、彼女は一瞬気圧されたように息を飲んだ。その隙に思い切り手を引くと、ようやく拘束が解ける。とはいえ、少年に逃げる場所などどこにもない。それでも彼は踵を返して走ろうと身構えた。
「徹!」
 丘の上に大きな影が乗り上げたのは、その瞬間だった。見ると影は赤色のセダンで、運転席には秋彦の姿がある。その光景に徹は呆然と彼を見た。
「早く乗れ」
秋彦が運転席からそう叫ぶ。その声にようやく我に返って徹は走った。助手席の扉を開くと、素早く車に乗り込む。それを確認した秋彦が、ようやく届く足でアクセルを踏んだ。車は勢いよく走りだす。
「どうしてここに」
早鐘のような心臓を押さえつけて、やっとのことで徹は問う。秋彦はそちらを一瞥したのち、小さく呟くようにして答えた。
「君が心配だった」
その言葉に、徹は胸の辺りがちくりと痛むのを感じた。喧嘩別れしてしまったことを、今更のように思い出したのだ。彼は眉を下げてごめん、と一言詫びる。
「いいよ。そんな言葉が聞きたかったんじゃない」
「じゃあ、なんて言えばいい」
「無事でいたらそれでよかったんだ」
けれど、と徹は口ごもった。口ごもったあとで笑った。秋彦がそう言うのならば、それで正しいのだとそう思った。
「結局失敗したよ」
秋彦は徹を振り返る。
「思いを物に託そうなんて、きっとそれ自体が間違いだったのさ。君が言うように、僕は少し欲張りだった。いくら思い出があったって、願いがあったって、それは壊れてしまえば皆同じさ。大事なのは、思いがあること。願いを込めた人がいること。僕にとっての先生や君が、そこにあるだけで十分なんだ。形だけの物じゃない。心や血肉を持った人々の存在が、僕のある場所になる」
徹は俯きがちにそう語った。秋彦はただ静かにそれを聞いている。自分だけの思いを込めた物に固執していた自分が、徹にとって今は馬鹿馬鹿しかった。自分という存在が、秋彦という存在があればただそれで満足だというのに。特別な物などなくてもいい。大切な誰かの元へ自分が帰ることができればいいではないか。徹は寂しさを物で埋めようとしている自分に気が付いた。
「君の元に帰れてよかった」
「俺も、君が戻ってきてよかったよ」
少年らは顔を合わせて微笑み合う。なだらかに隆起した道を走る中、銃声はもう聞こえてこなかった。ふと後ろを振り返るが、もうすでにあの少年らは見えなくなっている。
「逃げきれたかな」
「ああ、きっと」
 緑ばかりが広がる草原に、黒色の棺桶がちらつき始めたのはしばらく経ってからだった。いつの間にか変わった景色を徹は窓ガラス越しに見送る。棺桶はどれも綺麗に閉じられ、動くことなく横たわっていた。とすると、ここは秋彦と最初に来た丘なのだろうか。おまけに空の様子まで変わり、太陽がぐんぐん西の空に落ち始めている。徹が自分の手首を見やると、そこにはリボンの彼からもらった腕時計が巻かれたままになっていた。しかし針を読もうとした途端、それは灰色の砂となってシートの上に散っていく。
「なんだ」
秋彦の声に徹は顔を上げる。見ると、進行方向に棺桶が直立していた。秋彦はゆっくりとその前に車を停車させる。二人は辺りに警戒しつつ車を降りた。
 棺桶は真っ黒に塗られ佇んでいる。西日をうけたそれはかすかに橙色に艶めき、その静かな様子は少年らの疑問を加速させた。
「これはなんだろう」
徹が言う。すると秋彦がすかさず言った。
「開けてみよう」
言うが速いか、彼はすでにその棺桶に手をかけていた。徹は再び冒険が始まったかのような喜びを感じてそれに倣う。ぎい、と呻いた蓋は、意外にもあっさりと開いた。
そこに眠るのは秋彦自身であった。聖書やドライフラワー、色とりどりの折り紙に埋もれた彼は、今にも目を開きそうに安らかな死に顔でいる。硬質な黒髪に小さな鼻、薄い唇。彼は黒色のスウェットにジーンズ姿で棺の中に納められていた。
これに二人は目を見開くと、お互い了承したように頷き手を握り合った。しばらく死体を眺めると、二人の少年は西日に照らされた明るいそこへ、揃って一歩踏み出す。

十六

 どこからか響いていた。それは低い音だった。ドン、ドンと響くその音は鼓動に似ている。はたまた、人の足音にも打ち寄せる波にも似ていた。
聞こえていたのは木製の扉を叩く音だった。そこは秋彦の自宅だ。白いダイニングテーブルの上には書き損じのメモと冷たくなったカフェオレ、ノートパソコン、砂糖の結晶。扉は音に合わせて振動している。それは静かな初秋の朝だった。扉を叩くその音は、空虚な部屋の中にこだましている。
 鳥のさえずりを聞きながら、来客は天色の空を仰ぎ見た。彼はいつもなら早々に出てくるこの家の主の顔を思い浮かべ、頭を掻く。風に揺れる果樹がさらさらと鳴り、それは身に付けた服や髪をなびかせた。
 取り付けられた小さな窓からは、朝日が煌々と射していた。それらはダイニングテーブルに散らばったものと、その足元にある紙袋を照らす。ドン、とひとつ、再び戸を叩く音が響いた。部屋の中に飾られた時計の時刻は、七時で止まっている。≪終≫

フリーライターである主人公・秋彦はここ最近眠れぬ夜を過ごしていた。 とある初秋の静かな晩、彼を訪ねる一人の来客。それはかつての親友・徹だった。 葬儀を抜けだし冒険へと繰り出した少年たちの行方は?そして、徹が彼を訪ねた真の目的とは一体。 秋の夜と少年たちの幻想世界を舞台に進展する中編小説。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-06-28

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