ロンリー・レイニー・フィロソフィー

萌芽つゆり

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1

 雨は嫌いだった。どんなに朝可愛く髪をセット(それでもいつもより可愛さは半分以上減)しても気付いたら湿気にやられて酷い有様だし、靴は雨水をこれでもかというくらい吸い込んでびちゃびちゃになるし、スカートの裾も、制服も、鞄も濡れるのはいやだった。ひどいときは教科書やノートもやられる(乾いた後のあの何とも言えないヨレヨレ感はただでさえない勉強意欲を削ぐ)上、何も考えず水たまりの上を勢いよく通りすぎていく車に路面の雨水をぶっかけられた経験だって少なくない。だから雨は嫌いだった。それは制服を脱いでスーツに袖を通すようになってからも変わらなかった。
 どんよりとした重たい灰色の空から、ひっきりなしに雨が降っている。一昨日も、昨日も、明日も、ずっと雨。降水確率は朝から晩まで百パーセント。
「ほんっとサイアク。梅雨、はやくあけないかな」
「わかるわー。今日のあたし全然可愛くないもん。萎える」
 同じバスを待っているであろう女子高生たちが、髪の毛を指に巻き付けていじったり、ケータイを触りながら気だるげに会話していた。いつの時代も、可愛さを追求する彼女たちにとって雨の日は憂鬱なのだろう。他にも、ヘッドホンからがんがんに音を垂れ流しながらいたって気持ちよさそうに鼻歌を歌う男の子。それを迷惑そうに見ているスーツの男性。それから何が楽しいのかさっきから雨が水たまりに落ちる様子をジッと見ている幼稚園児と、手を繋いでいる母親らしき人エトセトラ。雨の日は、バスを利用する人が増えるから人口密度がやけに高い。
 家から駅まで自転車ならすぐなのに、と私は恨めし気に雨を見つめた。
 数分おきにやってくる都会の公共交通機関と違って、田舎の場合、ちゃんと時刻表を把握しておかないとただでさえ間隔があいているというのにさらに待ちぼうけをくらってしまう。次のボーナスが出たら今度こそ自分の車を買おうと思って、もう何度目だろう。
 と、ポケットに入れていたケータイが振動した。見るとメッセージが一件入っている。友人からだった。
  >余興の練習、いつする?
 私は指を滑らせ、カレンダーを表示させた。出勤日や休みを確認してから、再度指を滑らせてメッセージを送る。
  >今週の土日は空いてる
  >来週は平日じゃないと難しいかも
  >わかった
  >他の子の予定聞いてからまた連絡する
 はぁ、と思わずため息が出た。
 まだ、バスは来ないし雨は止まない。

2

 高校を卒業し、大学を卒業し、その中で友人の何人かは華やかな都会に向かう電車やバスに乗って行った。目をきらきら輝かせ、夢と希望を荷物の中に詰め込んで。私はといえば、田舎の不満を口に出しつつ、テレビや雑誌から流れてくる煌びやかな情報を目にするたび「都会で暮らしたい」と思いながら、だらだらと実家で暮らし続けている。
 将来の夢も、就きたい職業も、結局何一つ見つからなかった。これといったものがないまま、ただ何となく地元の大学に行って、何となく会社を選んで、採用されて、休みもそこそこあるし残業はないことはないけどまあこんなものだろうし、給料だってめちゃくちゃ少ないわけでもなくて、だから何となく働き続けて今に至る。
 小学校や中学校の頃、少女漫画をめくりながら高校生にきらきらとした幻想を見ていた。制服は可愛く着こなして、放課後は彼氏とデートして、みたいな。高校生になったら、ファッション雑誌をめくりながら大学生に憧れていた。バイトをして、サークル活動をして、恋愛をして、みたいな。
 見ていた幻想や憧れ通りとはまではいかないが、そういうものは人並みに経験してきたつもりだった。だからこそ、このまま誰かと結婚して、妊娠して、出産して――そういう風に生きていくものだと思っていた。漠然と、ただ、何となくそう思っていたのだ。
「私、結婚するんだ」
 ちーちゃんからその話を聞いたのは、私が二十六の誕生日を迎える前だった。
 上京した彼女は、ファッション雑誌に載っていそうなおしゃれなOLになっていた。真っ黒だった髪は派手さを感じない明るい色に染まっており、眼鏡はコンタクトレンズに変わり、綺麗に整った顔でワンピースを着こなして、ほんのりと花の香りを纏っていた。対して私はといえば、そろそろ切ろうかと思っていた髪を無造作に束ね、年相応のメイクをし、ノーブランドのTシャツにGパンを合わせただけだった。
「……へぇ、そっか! おめでとう!」
 返事が一拍遅れた。
 不自然な間を悟られないように、私は努めて明るい声で言った。
「ありがとう」ちーちゃんは嬉しそうに笑った。「結婚式、来てくれる?」
「もちろん、とーぜんでしょ。いつものメンツで余興でもしようか」私も合わせるように笑顔を作る。「えぇと、ユカにミサトでしょ? それから……」
 友達の名前を指折り挙げながら、私はそこではっと気付いた。学生時代から今まで連絡を取り続けているメンバーの中で、私だけが、唯一結婚していないことに。
「ブーケトスは、めぐみに決めてるんだ」
 ちーちゃんが満面の笑みを浮かべて、混じりけのない純粋な好意という毒を吐く。耳から入った毒が全身に回って、動悸が激しくなり、頭痛に襲われる。
 ほんのついさっきまで意識していなかった現実を目の当たりにした。それは、何かに裏切られたような気分に似ていた。
 運命の赤い糸だとか、白馬に乗った王子様が迎えに来るだとか、女はクリスマスケーキだとか、そんなもの昔の話で。同い年で独身の人だって周りにたくさんいるし、晩婚も珍しい話じゃない。でも、そうは言っても――みんなと同じような人生を送ってきたはずなのに。いつの間にか、私だけみんなから外れてしまっている。ユカも、ミサトも、みんな、ちーちゃんだって結婚するのに。
 その日からしばらくは、テレビを見ても、ケータイを見ても、街中を歩いても、出会いだの婚活だのという広告しか目に入らなかった。妙な焦燥感から手当たり次第に行ってはみたものの、その場その場をそこそこ楽しく過ごしただけ、連絡も数回お互いにしただけで自然消滅という結果に終わった。

  ☆
  
 ただでさえ月曜日の雨の日で憂鬱なのに、なんでさらに気落ちするようなこと思い出してるんだろう。私は二度目のため息をついた。ため息をついたら幸せが逃げるというが、もう私の中の幸せはとっくの昔に逃げてしまっているから今さら問題ない。
 何気なく視線を動かした先に、伝言板があった。電話だのメールだのメッセージアプリだのが発達したこのご時世、わざわざ使う人はいない。その証拠に、このバス停を昔から使っていた私でさえそれを今認識したくらいである。使われなさ過ぎて存在感も本来の用途も消えてしまったそれは、不良たちが残したカラースプレーの落書きだらけである。だが――その片隅に、明らかに最近書かれたであろう文字を見つけたのだ。文字というか、呟きというか、手持ち無沙汰を紛らわすために何気なく書いたような。
  あ~~だりぃ、雨うざい
 私はそっとチョークを手に取って、その下に「わかる」とだけ書いた。
 特に意味はなかった。売り場の試し書き用紙にぱっと思いついたことを書くのと同じだ。
 その時だった。ワイパーを動かしながらバスが止まった。入り口のドアが開き、みんなぞろぞろと乗っていく。バスの中にも結構な人がいて、いつも座る一番後ろの窓側の座席は埋まっていた。仕方なく吊革を持つ。
 バスが発車しますという運転手の声と同時、ドアがゆっくりと閉まった。
 ……今日は取引先に電話を入れて、あと会議の資料も仕上げてしまわないといけなくて。あー、そういや余興の練習全然してなかった、ユカに怒られる。
 そんなことを考えていると、バス停で見たものなんてすぐに頭の隅に追いやられてしまった。

3

「めぐみ、バス通勤も大変だろ。車使うか?」
「いいよ、別に。どうせ駅までだし」
 私は、あくびをしながら用意してもらった朝食を済ませた。テレビを見ると、数字が画面の隅っこの方で出掛ける時間を指していた。雨さえ降っていなければもう少しゆっくりできるが、バスを利用するならそうも言っていられない。
 ビニール傘を軽快に雨粒が叩いている。
 はやめに寝よう寝ようと思ってはいるのだが、ついついドラマやバラエティ番組を見てしまって、気付けば深夜一時や二時なんてザラである。学生の頃は明け方近くまで起きて、一時間やそこらの仮眠だけで何とかなったのに、睡眠時間が減ると日中眠気がなかなか取れない。これが年か、なんてぼんやりと考えながら眠気覚ましのタブレットを噛んだ。口いっぱいに異様な爽やかさが広がるが、それだけだった。
 このつきあたりを曲がればバス停に着く。その時だった。
 自動車が私の横を猛スピードで通り抜けていった。田舎の住宅街にガードレールなんてものはなく、派手に散らかされた水たまりが思いっきりかかる。思わず声をあげたが、自動車は私なんかを気にも留めず走り去っていった。
 スーツも、ストッキングも、靴もびしょぬれ。これで一日過ごさなければならないかと思うと、それだけで憂鬱度が増した。
「雨嫌い……」
 ストッキングはコンビニに立ち寄れば買い替えられるが、その他はどうしたものか。ハンカチで拭いてみるが、雨に濡れた不快感はほんの気持ち程度も解消されなかった。げんなりとした気分のまま歩いてバス停に入り――そしてふと、顔をあげる。
 伝言板があった。
 昨日見た文字が消されている。そして、私が書いたメッセージに矢印が付けられ、こう書かれていた。
  雨の日なんてどこにも出たくねぇ、家にいたい
 びっくりした。まさか返事が返ってくるなんて思ってもみなかったからだ。
 私は不自然にならない程度に辺りを見渡す。ほとんどの人がケータイを触っていて、誰も伝言板なんて見向きもしていない。それもそうだ。デジタルが発達して、例え近くにいない人とでも簡単に繋がれる時代に、こんな方法は非効率的で誰も好まない。
 なんだか不思議な気分だった。カラースプレーの線にそって伝言板をそっと触ってみると、指の腹に薄く埃がつく。
 もう一度メッセージを見た。少し角ばった、斜め上がりの字。
 それは明らかに、私宛だった。
 私は少し考えて、チョークと黒板消しを手に取った。これを持ったのなんて何年ぶりだろう。
  家で撮り溜めてるドラマ見てたい、あと映画とか
 書き終えて、私は次の休みは映画を観に行こうと思った。昔は「映画は映画館でみるもの」だと思って疑わなかったのに、今ではレンタル店でDVDを借りる程度である。映画館にだっていつ以来だろう。
 ケータイを操作し、近くにある映画館の上映スケジュールをチェックする。最近流行りなのか、漫画から映画化したようなタイトルがずらっと並んでいる。スクロールしていく中で、以前コマーシャルを見て面白そうだと思った洋画を発見した。これにしよう。バッグの中にしまってすぐ、バスが前に停車した。
 仕事には行きたくないし、憂鬱は憂鬱だ。でも、ほんの少し心が軽い気がする。
 私は案の定満員のバスの吊革につかまり、だんだん小さくなっていくバス停を見ながら小さく笑った。

  ☆

 伝言板の相手は、住所不定、年齢不詳、性別はたぶん男。どうやらその人もこのバス停を利用するらしく、私が書いた次(正しく言うと次にバスを利用する日、だ。利用しない日は立ち寄らないから)には決まってメッセージが残されていた。メッセージと言っても、紙に書かれた落書きだったりSNSの呟きとそう大して変わらない。話題が続くこともあったし、変なイラストを描きあうだけや、と思ったら突然「タピオカ好き?」なんて突拍子もない質問を投げられるときもあった。
 おかしな話だ。今どき伝言板なんて。
 ネットというデジタルで便利なものがある時代に。
 私にも、SNSを通じたいわゆるネット繋がりだけの友達が何人もいる。仲良くなったとしてもそのアカウントが突如消えたり、ある日を境に放置されてしまったら連絡は取れなくなり縁は切れる。逆もまた然りだ。そういう意味ではこれも同じかもしれない、と私は思った。私かー―もしくはこの相手が、飽きたり、毎日の中でこれの存在を忘れてしまったら途切れてしまうような関係。
 でも、いつの間にかバス停に着いたら一番に目をやるようになったし、書かれてあればいそいそと書き返してしまう。私は焼肉食いたいという文字の下に「ハラミがいい」と書きながら、ふと、考えた。
 そういえばあまり深く考えたことがなかったが、インターネットで交流する人よりかは身近で生活している可能性が高い。どんな人だろう。イケメンだったらいいなと、昨日見たドラマの相手役の若手俳優の顔を思い浮かべてみる。想像や妄想は自由だ。あそこでうたた寝している学生と同じように学校に通っているのか、それとも、ケータイと睨めっこしているサラリーマンみたいに会社勤めなのか。何となく分かっているのは、私と一緒で雨が嫌いで、家で過ごすのが好きで、最近流行りのアイドルが好き(CDが発売された時にえらく興奮したような文字だった)で……そうやって手持ちの情報を改めて整理すると、驚くほどにパーソナルなことに関して知らないことに気付いた。
 名前も、顔も、何が好きで、何が嫌いで、毎日どう過ごしていて。家族構成、彼女や奥さんや子どもの有無エトセトラ。でも、そんなこと知らなくたって関われるのが今の世の中だ。
 私が何気なくケータイを触っていると、間違えて天気のページを開いてしまった。閉じようとして、明日の天気予報が目にとまった。
 明日はどうやら久しぶりの晴れらしい。そうするとここには立ち寄らないだろう。私はふと伝言板を見上げた。
 何故か少しだけ、寂しいような気もした。

  ☆

 天気予報の通り、次の日は気持ちいいくらいすっきりとした青空がどこまでも続いていた。薄曇りの日や曇りのち晴れなんて日はあったが、朝からこんな晴天は久しぶりな気もする。水たまりが残った道路の上を軽快に自転車で通り抜けた。跳ねる水音すら今は心地いい。気持ちのいい風が髪を弄び肌の上を滑っていく。
 よく雨が降った後は空気が綺麗だというが、空気中に含まれた不純物が雨水に溶けて地面に落ちるからなんだとか。……誰だっけ、教えてくれたのは。
 こんな気持ちのいい日でも会社には行きたくないし、仕事はしたくない。だが昨日は睡魔に襲われていつもより早く寝た分、頭はこの青空のように晴れ晴れとしていて気分はよかった。向かう先が職場でなければどんなによかったか。
 住宅街。通学路を歩く学生たち。日向ぼっこをしている野良猫。車の止まっていない駐車場。いつも何気なく通り過ぎていく中に例のバス停があった。何となく、ペダルを漕ぐスピードが落ちる。
 バス停にはスーツを着た男性が一人、座っていた。その顔に見覚えがある気がして思わずじっと見ていた時、――目が合った。
 彼が大きく目を見開いて、僅かに唇を動かす。
 やばい、と私は慌てて自然さを装って視線を外した。まじまじと見すぎたかもしれない、恥ずかしい。既視感はそっちの感情に上塗りされてすぐに消えてしまう。
 私は駅への道を急いだ。

4

 梅雨明けが発表されたのは、それからすぐのことだった。
 すっかり真夏の顔をした太陽がじりじりと焼き焦がすような直射日光を容赦なく浴びせてくる。日焼け止めを塗ってもすぐ落ちそうだし、アームウォーマーは外に出て数秒で汗を吸って気持ち悪い。クールビズなんてしてても暑いものは暑い。
 晴れていればバスは使わない。私はほぼ誰も乗っていないようなバスを横目に、自転車で横断歩道を渡った。
 通勤途中にあるあのバス停に何気なく視線を向けるだけで、立ち寄ることはなく日々は淡々と過ぎていった。

  ☆

 その日は、急な夕立ち(というかゲリラ豪雨)だった。しかも自転車で帰っている途中に急に滝のような雨粒が勢いよく振ってくるものだからたまったものじゃない。私はひとまず雨宿りをしようと慌てて自転車を漕ぎ、例のバス停まで辿り着いた。頭のてっぺんから爪先までびしょ濡れである。
 入ってから気付いたが、どうやら同じように雨宿り目的で来ていた人がいるようだった。一目でわかった。あの晴れた日にここにいた人だ。そして――、
「やっぱり、樫木……だよ、な?」
 恐る恐るそう聞かれ、私はこくりと頷いた。「岸本じゃん、久しぶり」
 高校の時の同級生だ。大学は別々だったし、一度あった同窓会も私が行っていないから八年ぶりだろうか。ちゃんと年相応に老けた岸本の顔は、しかし、「忘れられてなくてよかった」と笑うとあの頃の面影が残っていた。
「卒業式以来だよね、なつかしー! そういや家近所じゃんってなって、たまに通学路で会うこともあったね」
「そうそう。そんでそれ見かけたクラスメイトにいろいろ言われてな」
「あー、あったあった。相合傘とか書かれてたこともあったっけ? 私らそんなんじゃ全然なかったのにさー、……ね!」
 私が軽口をたたくように言うと、岸本は一拍間を開けて「そうだな」と言った。
 岸本とは席が前後ということと、家が近所という共通点から仲良くなった。毎日くだらない会話をして、バカみたいに笑って、そんな風に学校生活を三年間続けていたと思う。ティーンエイジャーという多感な時期は異性同士そこそこ仲が良ければ冗談まがいで冷やかされることも多かったと思う。めちゃくちゃイケメンではないにしろ、勉強もスポーツもそれなりにこなせる岸本はそれなりに女子から人気があったから、彼に迷惑かけたくなくてその都度はっきりと否定していたけど。
「そういえばさ」岸本が話題を切り替えるように続けた。「お前、タピオカ好き?」
「は?」
 突然すぎる質問に私は思わずそう返していた。「え、何いきなり」
「いや、最近流行りじゃん。女子……つかお前も好きだろ、よく放課後コンビによってなんとかティーとか買ってたし」
「ま、まぁ……嫌いじゃないかな」
「じゃあ、今度飲みいこーぜ。確か駅前にできただろ、あのいっつもこの時間帯になると行列になってるやつ」
「別にいいけど」私はこてりを首をかしげて言った。「岸本、甘いもの好きだったっけ」
 確か高校の時は、あまり好きじゃないと苦笑いしていたはずだ。だからバレンタインデーの時に友チョコだのなんだのと貰うたびちょっと憂鬱そうな顔をしていたのを思い出す。
「あっ」岸本は一瞬口ごもった。「あー……え……っと、タピオカは好きなんだよね! でも、ああいう店って女子しかいないじゃん。俺一人だとちょっと行きづらくて」
「――彼女か奥さんと行けばいいんじゃないの」
 ぽん、と気付けば口から出ていた言葉は、自分でも驚くくらい刺々しかった。
 だが岸本はそれに不快感を見せる様子もなく笑っただけだった。「いねぇーっつの」
「そっか」
「じゃあ、連絡先交換しといていい?」
「いいよ」
 私のケータイに岸本の連絡先が追加される。次は私のを岸本のケータイに登録しようとした矢先、短くクラクションが鳴った。見るとバス停の近くに車が一台止まっている。岸本は「悪い、迎え来たから! またな!」と言って車に乗り込んだ。
 私も家族に連絡してみるか、それかタクシーか。そんなことを考えながらケータイを操作して――ふと、伝言板がちらついた。
 もうすぐ梅雨明けですね、よかったらメッセージ下さい
 小さく並んだアルファベットの短い羅列。それがメッセージツールのIDだと気付いた私は、何気なく入力だけして、
「……あ」
 思わず声が漏れた。
 そこに表示されていたのは、もう追加されていますという文字の下についさっき交換した岸本のアイコン。
 何だろう。この気持ちを一体何と表現すればいいのか分からない。もう当の昔に忘れてしまったような甘酸っぱい感情がじわじわと広がっていく。変ににやつく顔が抑えきれない。
 そういえば彼の連絡先は貰ったが、私の連絡先は、私が彼に何か送らなければ伝わらない。どうしようか。無難にいつ遊ぶ? とかにしようか。そう思いを巡らせて数秒、ぱっと思いついた文章を送信した。
  >タピオカより焼肉にしよう
  >ハラミ食べたい

ロンリー・レイニー・フィロソフィー

ロンリー・レイニー・フィロソフィー

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
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