ノアの箱舟
prologue-about me
私にも正義を志した過去が有った。
私にも理想に燃えた過去が有った。
私にも世界を変えようとした過去が有った。
――世界は汚い。大人達は汚い。こんな大人には僕は為らない。こんな世界を僕は放っては置かない……。
彼の頃は若かった。何も知らなかった。何故汚れた大人達は、こうも汚い儘生きて行けるのかと思った。何故生き汚い事に耐えられるのかと思った。
其れは違う。今なら分かる。人が生きて行く事、其れが抑々汚いのだ。そして、生きて行く為には、愛する者を守る為には、生き汚くとも耐えるしか無いのだ。見えない所で手を回してでも、他人を蹴落としてでも、自分の利益を守らなくてはならないのだ。
だが、一方では未だに思う。
若しも、全ての人が若かりし頃の私と同じ思考なら、助け合って生きて行けるなら、世界は……。
詮無い事だ。世界はもう出来上がって居る。未だ成長の余地は在るかもしれない。だが、其れでも、世界の根底に渦巻いて居る汚い物は消えて無くなりはしないだろう。
そう。其れは必要悪。世界を動かす潤滑油。
頭では理解している。身体もその潤滑油に染まり切って居る。
……それでも、心の奥底には未だ、頭で何度否定しても割り切れない自分がいた。
the beginning of the plan
不意に机の上の電話が鳴った。一瞬丈、少し吃驚してから受話器を取った。
『社長、国土交通省の上村様からお電話です。お繋ぎしますか?』
秘書からの取次ぎ伺いだった。
私の部屋、則ち我が社の社長室に電話を繋ぐ方法は三つ在る。
一つ目は、我が社の受付に電話して取次ぎを求める。但し、社長、詰まり私に取次ぐ必要が有る丈の事情や、其れ相応の立場がないと、受付の判断で取次ぎを断る事が出来る。仮に受付が取次ぎを許可しても、次に繋がるのは私の秘書で、私自身迄辿り着く事は殆ど無い。可也確実性の低い方法だ。
二つ目は、社長室への取次ぎ専用番号に電話を掛ける。これは私の秘書へと繋がり、用件の重要度に関わらず、私が電話を受けるか否かを決定する事になって居る。此れは、此の番号が一部の人間、企業、官庁にしか知られて居らず、或る程度の立場に在る人間しか電話を掛けられない事から成り立って居る。今掛かって来た電話は此れだ。
三つ目は、社長室へ直接電話を掛ける。此れならば、何も通さず直接私と会話が出来る。だが、この社長室への直通番号は極一部の選ばれた者しか知らない。企業であれば、大企業で在る事が第一条件で、社長以上の役職の人間。日本政府で在れば、事務次官以上の人間だ。因みに、此処で態々日本政府と言ったのは、当然、諸外国の政府の上級職にも電話番号は知られて居るからだ。但し、小国には首脳クラスの人間にしか知らされて居ないし、その国の誰一人として知らない国も少なくない。又、特殊なセキュリティが掛けられて居て、此方から許可した回線で無いと番号を知って居ても繋げる事は不可能。更に、番号の打ち方に特殊な操作が要る。確実に私と話せるが、選ばれた者のみの方法だ。
今は勤務時間中だったが然し、今現在、私の仕事は無いも同然。する事も無く、ただ呆として居た丈だったので、少し驚いた丈で、さして問題は無かった。
「ああ、頼む」
そう短く告げると、プツンと回線が切り替わる音がして、上村なる男が電話に出た。真面目で、礼儀正しく、驕らず謙虚で、思い遣りも有る。だから正直、彼には一目置いて居た。若しも此の男の様な人間しか世界に居なかったらどんな世界に為って居ただろうかと度々考える。
『不知火社長、突然の御電話申し訳御座いません』
挨拶から本当に礼儀正しい。
「構わないよ。君とて大変だろう。未だ三年目だったか? 上司の意思を頑固な中年男に伝え、頑固な中年男の反意を更に頭の固くて自己保身の塊の様な上司に打付けなくてはならない。板挟みで、君の苦労は計り知れないよ」
『そう言って下さると幸いですが、然し不知火社長、間違いが二つ程。社長は未だ御若いです。中年には未だ遠い。青年と名乗っても問題は無いかと』
「ははっ。此の中年を青年と呼ぶとなると、君は歳の上では未だ少年だ」
『歳では納得為兼ねますが、中身は未だ未だ未熟な餓鬼ですよ。此れからもご指導の程、宜しく御願い致します』
「いやいや、若い純粋な心を失ってはいけない。私みたく、社会の澱に飲まれてはな。其れに君は成長も速い。少なくとも、名ばかりな君の上司の三井君よりは仕事は出来るし、頭の回転も速いから、柔軟な対応も出来る。きっちりとした、本当に御役所仕事しか出来ない連中に君の事を見習わせたいよ」
『私の事を買い被り過ぎですよ』
「謙遜はしなくて良い。自己の能力を正確に把握出来ない者は堕ちて行く。高めに見積もって居ても、低めに見積もって居てもね。扨、間違いの二つ目は何だ?」
上村君に問う。
『ああ、其れでしたら、先程社長が私の評価として仰った事を其の儘社長に御返ししたら大丈夫です。寧ろ社長程頭の柔らかい方は中々いらっしゃらない。古い考えや、自分の意見に縛られず、仮令新入社員の意見だとしても理が適って居れば受け入れる。貴方の様な方が社長をされて居る企業が世界一に為らない方が可笑しい』
「いやいや、企業は私一人で成り立って居る訳ではない。私一人の力など微々たる物だよ」
『ご謙遜を。御自分の能力を正確に把握出来なければ堕ちてしまいますよ』
上村君が笑いながら言った。
「おっと、私の言葉を其の儘返されるとは。此れは一本取られたな」
彼、上村君にはこういう所で頭の回転の速さを感じる。目上の者に対して敬意を怠らず、それで居て必要以上に臆したりしない。未だ若いのに立派な青年だ。
「扨、用件は何だい?」
談笑は此処迄にして本題に入る。
『はい。先日政府が許可を出したリニアモーターカーの路線拡大はご存知ですね?』
「ああ。ARの方の地下路線、東京―仙台間だな」
現在、日本の主な鉄道企業は二つ。JRとARだ。JRは主に地上路線を担当、ARは地下路線だ。また、どちらもリニアモーターカー業には着手しているが、JRとしては、高速道路や住宅地等との土地の兼ね合いがあり、リニアの路線を各地に作りこそすれ、それらを繋ぐことは出来て居なかった。しかし、ARは発想を変え、路線を地下に作れば北海道から沖縄までを繋ぐことが可能だと考えた。だが当時、地下路線を掘るのには可也時間が掛かった。そもそも穴を掘る速さが遅かった上に、既存の地下鉄や、地盤の頑丈さ、振動に因る公害等を考慮して可也深い所迄掘らなくてはならなかった。当時の技術であれば、ARが思い描いた北海道から沖縄迄を繋ぐのに五十年は掛かっただろう。
だが、四年前、我が社の研究グループが新たな掘削方法を考案した。地殻を構成する物質に対してのみエネルギーの伝達効率の良い特殊な電磁波を当て、原子構造を組み替え、物質を変化させ、粗空気と同じ混合物を作り出すと言う物だった。発案者に由来して、村上掘削法と呼ばれて居る。
未だ机上の空論でしかなかった此の案に乗っかったのがARだった。ARの投資により僅か一年で此の技術は完成。北海道から沖縄を繋ぐのに五年と言う驚異的なスピードでの掘削が可能と言う試算が出た。ARは既に東京から鹿児島迄路線を繋げて居り、東京―広島間に就いては既に運用が始まって居る。
そして先日、AR社内で東京―仙台間の路線拡大を決定。掘削の許可を政府に求め、許可が下りたのだった。
「この件に関してはARに一任してあるはずだが?」
『ええ。確かにそうなのですが、村上掘削法に反対するグループが地域住民を唆して居るらしく、一部で反対運動が起こって居るのです』
はぁ。溜息をつく。何時の時代も愚かな民衆には困ったものだ。村上掘削法は、発明されてから未だ日が浅い。だから、安全性に問題が有る可能性が有る等と言い張る輩が居るのだ。そして、そう言った輩に煽動されるのは無知な民衆。全く、我が社は安全性のチェックには全身全霊を掛けて居ると言って良い。社の信頼に関わるから、社長である私が徹底的に危険性を排除させた。だから、今迄一度も事故は起きて居ないし、毎年効率も安全性も上がって居る。我が社が無料で配布して居る村上掘削法に就いてのパンフレットを読めば、小学生でも其の安全性は判ると言うのに。
「全く、実に愚かな民衆には腹が立つな。無知が悪いとは言わないが、正しい事を知ろうとする位はしても良いのではないか」
『全く以て其の通りです。其れで、反対運動に因り工事が一向に進まず、其れで……えっと……』
此処に来て上村君が口を濁した。だから、私が後を続けた。
「我が社が裏から手を回して此の運動を止めさせば良いのだな? そして、見返りとして幾つかの仕事を国交省から我が社に回すと」
『……はい。そうです』
上村君は未だ純粋だ。だから、矢張りこう言った汚い裏の仕事を口にするのは抵抗が有るのだろう。
『済みません、本来私が伝えなくてはならないのに』
「いや、構わない。寧ろ君には何時迄も其の感覚を持って居て貰いたい。汚い事が当たり前に為っては御仕舞いだ。其れに君は上に言われて居る事を只伝えて居る丈だ。君は何も悪く無い。分かったかい?」
『……はい。其れでは失礼します、不知火社長』
「ああ」
電話が切れた。私も一旦受話器を置き、もう一度受話器を上げて内線七二九に。裏交渉専門の課への直通回線だった。
『もしもし、不知火社長ですよね。本日のご用件は?』
「ARの東京―仙台間の路線建設への反対運動を鎮めて呉れ」
『了解しました。其れでは』
「ああ、頼んだ」
伝えれば、彼らは独断で運動を鎮めて呉れる。其れも、最小限の出費で。本当に優秀な奴らだ。
社会の潤滑油。我が社にはそんな顔も有った。そして其の役目を受け持って居る私は油汚れで真っ黒だった。
……こんな自分を省みると、心の底の、未だ情熱を持って居る自分が声を上げる。
若かりし頃、世界を変える、そう息巻いていた私は、今世界を動かして居る物を大学で学ぼうと思った。
過去に於いては其れは宗教で在っただろうし、今となっては其れは政治だと言えなくも無いだろう。又、或る意味では発明は世界を動かす。
だが、本当の意味で世界を動かしている物、其れは、利益であり、経済だ。
発明は、使う人在っての発明だし、政治も利益が無いならば誰がこんな大変な仕事をしようか。論議を醸す事を覚悟で言うならば、宗教だってそうだ。
だから、私は大学で経済学を専攻した。
高校時代、既に世界に嫌気が刺して居た私は、先ず世界を動かして居る物に就いて知ろうと思った。そして、どうせなら最高の環境で学びたいと考え、日本一であろう国立東京大学を目指した。幸い私の成績は良く、僅かな勉強のみで入学試験に合格。其の後も世界を変えると情熱を燃やして居た私は、可也の学習意欲を持ち、勉強に励み、気付けば大学を首席で卒業して居た。
大学側からは院へ進む事を勧められて居たが、私の目標は世界を変える事だ。研究室に篭って、一般人には何ら必要の無い論文を書いて、如何やって世界を変えられようか。少なくとも就職する事は確定事項だった。
問題は何処に就職するかだ。
先ず思い浮かんだのは公務員。だが、公務員等、政府が決めた仕事を熟す丈の仕事だ。其れで世界の何を変えられるか。第一、仮に何かを変えられたとしても、其の範囲は日本に限る。世界ではない。
では政治家は如何か。確かに世の中を変える力は有るかもしれないが、此れも同じ。変えられるのは日本だ。世界ではない。
ならば世界的な大企業で在れば如何だろうか。世界の経済を担って居る存在の一つだ。少なくとも力は有るし、範囲も世界だ。
そう考えた私は、或る企業に目を着けた。幾つかの重工業で生産量国内一位を争い、海外に進出を始めて居り、尚且つ未だ成長途中の企業。
特に成長途中と言うのが大事だった。其れは、新たな人間が重役に入って行く事が出来る余裕が有ると言う事で、今後、世界を変える立場に就きたい私には必要不可欠な条件だった。
東京大学での成績優秀者。此のプロフィールは可也有利だった。又、経営学の授業も取って居た事が功を奏した。
入社希望の手紙を書き、履歴書を同封して郵送すると、当時は未だ新入社員募集期間でも無かったのにも関わらず、其れを取り合って呉れ、更には面接をして呉れる事と為った。
面接では先ずこう言われた。〝履歴書を見て君の能力を買った。募集期間でも無いのに勝手に手紙を送って来た思いと、其の行動力も評価する。今日の面接を最終判断とするが、今日確認するのは君の健康面位だ。後は多少の能力チェックをさせて貰うが、履歴書通りの君の能力なら全く問題無いだろう。〟
驚いた。こんなに頭の柔らかい人が居るとは。自分としては手紙も履歴書も全く無視されても仕方が無いと思って居た。其れを取り合って呉れ、有ろう事か其れを判断材料に大凡の採用を決めてしまうとは。
私は思った。こんな人の下に付いて、此の人柄を吸収したい。
そして芽出度く採用された。待遇は頗る良かった。研修期間を常務取締役の許で過ごし、研修終了後、行き成り部長補佐の役職を貰った。今後のスピード出世は決まった様な物だった。私は、此の期待に応えようと働いた。
主な役割は経営だった。最初は、我が社の持つ小さな分野の運用を任された。其の中で、新たなアイデアを積極的に採用した所、其の殆どが成功。此れに因り私の出世スピードは更に速まる所と為った。
常務取締役と為ったのは入社から五年経った時だ。其処で私は予てから考案して居たアイデアを会議で発案。其れは、より多くの業種の企業を配下に置く、と言う事だった。状態としては戦前の財閥に近い。
表向きの目的は各業種で世界で争える基盤を作り、より多くの利益を上げる事。だが、私個人としての本当の目的は、各分野にコネクションを作り、より世界を動かし易くする事。只、多大な利益を上げられることは確実だったので難無く此の案は採用させる事が出来た。
此の後の私の出世は時間の問題だった。
当時の社長が引退すると、私は副社長に昇進し、当時の副社長は社長と為った。だが其の後、社長の現金横領が社内で発覚した。其処で私は、此の件を極秘裏の内に処理し、社長を退陣させる事を取締役会から申し受けた。此れが、最初の私の汚れ仕事だった。
そして順当に私は社長と為った。社長と為って暫くは可也忙しかった。自分の提言した我が社の財閥化、此れを行う為に各方面との交渉が有ったからだ。或る時は既存の企業の吸収交渉。或る時は全く新しく企業を作った。
又、汚れ仕事も回ってきた。当時、我が社は大きかったとは言え、国内トップ企業と比べると可也劣った。だから、国単位の大きな裏の仕事は回って来なかったが、其れでも社内の問題は内々に処理する必要があった。僅かな問題が起こった丈で信用と言う物は消え去る。
民衆は買い物に於いて信用と言う物に重点を置く。だから、一度でも問題が起こったメーカー、製品は避ける。民衆にとって重要なのは問題が起こったと言う事実丈だ。仮令、企業側が問題が起こった後、直ぐに謝罪を行ったとしてもそんな事は関係無いのだ。
だが、逆に言えば問題が起こった事が発覚しなければ問題無い。当然、後程問題を隠して居た事が判れば企業の受けるダメージは測り知れない。然し、問題が起こった事が直ぐに知れても可也大きなダメージを受ける事になるのだ。如何考えても問題を隠した方が良い。又、遣り様に拠っては隠し切る事も可能なのだ。
若し、此の汚れ仕事をしなければ企業は利益を得られなく為る。そうすると、下請け会社に御金も払えないし、社員に給与も払えない。最悪、お金に困って路頭に迷う者も出るし、経済にも影響を与える。
汚れ仕事は必要なのだ。此れは、私が今迄考え抜いて出した結論だった。
そうして、極力企業の損失を抑え、多くの利益を上げて来た。世界各国に進出も果たせたし、可也幅広い分野に於いて結果を出して来た。そして気付けば、世界一、二を争う企業と為って居た。
「ふー」
一息吐く。汚れ仕事の後は未だに何処か喪失感がある。只、同時に此の喪失感が有る事が、私の心に未だ汚れ切って居ない部分が在る証明と為って居る様にも思う。
此の喪失感を振り払う為にコーヒーが欲しく為った。秘書へ電話を掛ける。
「コーヒーを頼む」
『はい、畏まりました』
秘書には此れ丈伝えれば十分だった。私の好みは細かく挽いた豆から可也濃い目に淹れた物だ。豆は秘書が自己流にブレンドした物。飽きない様、毎日ランダムに割合を変えて淹れて呉れる。
但し、濃い目に淹れて貰う為、時間が掛かるのが玉に瑕だったが、其の待ち時間を含めてコーヒーの味だと思う。
扨、何をしてコーヒーを待とうか。
と、不意に電話が鳴った。秘書からの電話とは音が違う。
……社長室直通電話専用の音だった。
余程の事が無い限り此の音を聞く事は無い。東日本大震災が発生した時、ビンラディンが殺された時、カダフィ大佐が殺された時、金正日が亡くなった時、朝鮮戦争の休戦が解けた時等に此の音を聞いた。
流石に少し緊張し、然しその動揺を出来得る限り消して電話に出る。
「……もしもし。不知火だ」
『もしもし、初めまして。私、〝ノアの箱舟〟の浦沢と申します』
ノアの箱舟? 旧約聖書の一説だ。ならば宗教団体か? 然し、社長室への直通電話が掛けられる宗教団体はバチカンかエルサレムくらいだ。旧約聖書で在る事を考慮するとエルサレムか? だが、私の取り込みを謀る派閥からだとすると――他の派閥を潰す事を考えているとするとカトリック系か? ……遣りかねん。或いはもっと別の新興宗教か? 私の様な立場の人間が教徒で在るならば、今後の布教活動も楽だろう。何より資金援助が望める。ならば十分に有り得るな。だが、その程度の存在が如何にして社長室へ直通電話を掛けられるか。
「浦沢君と言ったか。生憎だが私は無神論者だ。入信する事は無いし、金銭援助も有り得ない。宗教団体に金を出すと限が無いのでな。其れを先に言って置くから、其れを聞いた上で未だ話が有るなら御聞きしよう」
『……えーっと、先ず誤解を解かせて頂きます。こんな紛らわしい名前にした我々の責任も有るので謝らなくてはなりませんが、我々は宗教団体では在りません。敢えて言うなら政治団体です』
「…………………………………………」
『あ、あのー、不知火社長?』
うわぁ、恥ずかしい。数行に渡って推理を熟々と語って、結局間違って居た。如何しようか。該当範囲をドラッグアンドドロップしてデリートしようか。
『認めたくない若さ故の過ちでも認めるべきです、不知火社長。過去の操作は良く在りません』
電話口の声が心を抉る。と言うか心を読まれたか?
「何の話だ。私はもう若くないよ。して、政治団体とは?」
話を途切れさせる。
『あ、はい。改めて申し上げます。私、〝ノアの箱舟〟の浦沢と申します。〝ノアの箱舟〟の創始者の一人で、暫定的な代表に就いて居ります』
浦沢は切り替えが速い様だった。
『我々は此の汚れた世界を変えたいと思い、長年議論を続けて来ました。我々の相手は人々に根付いて居る汚れた心。如何行動すればそんな物を消し去る事が出来るか。相手は数千年掛かって成長し、がっしりと根を張って居ます。だから、答えを出すには本当に時間が掛かりました。長年そんな人間の心を現場で見て居た不知火社長ならお分かりでしょう?』
浦沢の言葉は客観的に聞くと要領を得ない。彼の言葉丈だと何も理解する事は出来ない。だが、彼はそれを解って居る。解って居てこんな話し方をして居る。そうだ、彼は……
『不知火社長が世界に対して持って居る感情、貴社に入社し社長と言う地位まで上り詰めた理由を知り、我々は貴方にコンタクトを取る事を決定しました』
……私の心の奥底に根付く小さな炎の正体を、知って居る。
「君達の思想と、私に連絡を取った切っ掛けは理解した。私に連絡した目的は私の地位の利用と金銭的補助の要求と言った所か。
何か案が在っての行動だろう? まさか私に何か良案を挙げて貰おうと泣き付いて来た訳ではあるまい?」
『話が早くて助かります。此の電話、盗聴の可能性は?』
先程の要領を得ない話し方は盗聴の可能性も考慮しての事だったのだろうか。底知れない。
「全く無い。仮にも世界トップ企業の社長室の電話だ。クリーニングに抜かりは無い。秘書も暫くは近付かない」
『心得ました。先ず、我々、〝ノアの箱舟〟に就いてです。先程政治団体と言いましたが、正確には極左派の秘密結社です』
「秘密結社か。其れを聞くと思い浮かぶのはフリーメーソンだな。彼の組織はアメリカ独立革命やフランス革命に影響を与え、歴代のアメリカ大統領の何人かも会員だったと言われて居る。彼の坂本龍馬も接触が有ったと言う説も在る位だ。彼れだけの規模有っての影響力だ。本来は秘密結社等では無かったと言うが、矢張り比べたくなる。〝ノアの箱舟〟の規模は如何程なんだ?」
『少なくとも、世界の主要各国の重鎮の何人かは我々の仲間です。其れと、核兵器所有国の全ては我々の仲間が其の国の政治的決定権を握れるような地位に居ます。ふふっ』
最後の笑いは何だろうか。
『まぁ、その辺りは不知火社長に直通電話を掛けられた事より察せられるでしょう』
……その通りだ。失念して居た。余り気にして居なかったが、冷静に考えると私に直通電話を掛けて居る時点で可也の地位の人間にコネクションが有る事は察せられた。いや、此奴自身が可也の地位に居るのか?
『では本題に入りましょう。我々は世界を変える為に如何行動すれば良いのか、其れを追い求めて来ました。そして先日、或る結論を出しました』
「ふむ。結論が出た、と言うのは凄い。或る意味パラドックスに答えを出したのではないか?」
『いえ。出た結論、というのは〝世界を変える事は即ち現在生きて居る人間粗全ての心の中に根付いて居る汚れた心を完全に取り除く事で、最終的に其れは不可能である〟という事です。そし
「無駄な時間を過ごした。もう話す事は無いだろう」
今使われて居た回線は今後繋がらない様、プロテクトを掛けて置かなくては。
『あ……ままま、待って、あの、待って下さい!! お願い、待って!! 切らないで!! 話は未だ終わってないです!!』
「私はもう話す必要が無いと判断した。其れを結論としたらもう如何しようも無いよ」
『そんな事言わないで下さいぃいいいい。お願い、もう少しだけ話を! 結論を出すのはそれからでも遅くないですぅうううううう』
浦沢は五月蠅かった。
「……分かった、続きとやらを聞こうじゃないか」
『有り難う御座います』
如何でも良い事だが、浦沢の声の調子が戻って居た。本当に切り替えの速い奴だった。
『さて、今の世界を変える事は不可能だ、と言う結論に辿り着いた我々ですが、一つの打開案が浮かびました。仲間内で物議を醸しましたが、画期的で、効果も高い案でした』
「ふむ。其の案とは?」
『世界を新たに作り上げるの
受話器を耳から離し、机の上に置いた。電話は此の儘放置。
扨、我が社の裏の仕事専門の奴等にはハッカーも居たかな。取り敢えず其奴を呼んで、相手を特定させよう。後は各種サイバー攻撃。一先ずDOS攻撃で機能停止を起こさせるか。
『あの、御願いです。最後迄、如何か最後迄話を聞いて下さい。本当、我々の仲間同士のコンタクトはインターネットがメインなので、サイバー系は本当に不味いんです。お願い、ハッキング丈は、其れ丈は止めて下さい。お願いします』
置いた受話器から何やら聞こえて来る。と言うか、心を読まれたか?
「突如打っ飛んだ案を挙げる団体に興味は無い。世界を作る? 何処のS○S団の団長だ」
『いえ、本当、御願いですから話は最後迄御聞き下さい』
「……ちっ。分かった。話せ」
『我々の出した案、其れは世界を新たに作り上げる、と言う事です。勿論此れはS○S団的に妙な力を使って新世界を作り出す訳では在りません。飽く迄常人的に、科学の力を用いて世界を再編するのです』
「再編? 其れは世界を都合の良い様に組み替える、という事か? それとも……リセットする、と言う事か?」
『リセット……其れは可也的を射た表現ですね。そうですね、リセットです』
「其れは人間に可能か? 世界を一度真っ更にしてしまうと言う事だろう?」
『答えは、イエスで在り、そして、ノーでも在ります。只、先程仰った世界の組み替え依りは遥かに容易です。だって、其れは人間の心も操作しなくてはならない。其れこそ神か、S○S団の団長か長○さんの力が要りますよ。今の我々には不可能です。当然、不知火社長が宇宙人でも未来人でも異世界人でも超能力者でもない事が前提ですが。まぁ兎に角、リセットは可能でないかもしれないが、少なくとも不可能ではないのです』
何処か矛盾している様な、然し、それが解答。〝不可能ではない〟という言葉に全てが詰まって居る様な、そして其処には可能性という名の
「希望を感じる。少なくとも話は聞こう」
此れが私の返事だ。話を聞く丈ならば何も損は無い。何より、賭けてみる事は悪く無い。
『有り難う御座います。では、話を戻しましょう』
「あぁ。世界をリセットすると、そう言う話だったな」
『ええ。リセットです。人間達に根付いて居る汚れた心の消去。そして生きる人間全てが綺麗な心を持ち、種の繁栄の為に相互に尽くす。此れが私達の想い描く、世界の最終形態で在り、そして最高の姿です』
「汚れた心の消去、か。然し其れは人類全てに再教育を施し、心を入れ替えさせる必要が有るのではないのか? 百億は居る人類相手に其れは流石に時間が掛かり過ぎないか?」
『再教育なんて必要無いですよ。既に心が綺麗な、そう言う人は一杯居るでしょう?』
「ああ、そうだが……」
『其の人達が居るなら十分でしょう?』
「いや然し、其れは〝生きる人間全て〟ではないだろう?」
『いえ、其れを〝生きる人間全て〟にしてしまえば良いのですよ』
「………………………………」
何をする気なのか、想像が付いて来た。想像が付いたから、黙る事しか出来なく為って居た。
暫く無言の間が空く。
然し、はっきりさせたかったから、口を開いた。
「何を行う?」
『人類の99.99999%の削減です。今、世界に存在している核兵器を全て発射して、地上を一度滅ぼします』
浦沢は、何でも無い様な、四月一日に子供が嘘を吐く様な気軽さで、今日が四月一日であるかを確認したくなる様な事を言い放った。
今日は六月八日であった。浦沢の言った事を理解し、今日が四月一日ではない事を確認し、そして、大分前の浦沢との会話の中の浦沢の笑いに納得した。
納得して、其れ以上頭が回らなくなって、一分程経ってやっと頭が回り始めた。
「済まない。私とした事が、動揺してしまった」
『無理も無い事ですよ。我々も今でこそ平気でこんな事を口に出来ますが、当初は議論も激しかったし、口にするのさえ可也抵抗が有りました』
扨、落ち着き始めた所で考える。核兵器に拠る世界の破壊か。
「残りの0.00001%はどうする? 其の人間は何者だ? そして如何やって生き残らせる?」
『ええ、其処が此の計画の最重要ポイントです。心が汚れて居ない、正しい考えを持つ人を集めるのです。此れは既に汚れ仕事に手を付けて居る、そう、不知火社長の様な人でも構いません。正しい考えを持って居れば良いのです。
そして其の様な人達を集めて、地下深くに核シェルターを掘り、其処で生き延びます。当然、食料に困らないよう、野菜や家畜なども生き延びさせます』
「其れは本当に可能か?」
『今回不知火社長に連絡した理由の一つが正に其処に在ります。貴社の技術力が有れば何の行為も可能でしょう?
そう、地球上が一度滅ぶほどの核攻撃を受けてもびくともせず、千人もの人を収容出来、其の人数を養える丈の食物を保存出来るシェルターの製造も、地下に在って尚、野菜等の植物を育てられる人口太陽の用意も、家畜を育て上げる設備も、用意出来るでしょう?』
「……まぁ、確かに可能だ。我が社の傘下の企業全てを使えばな。但し、莫大な金と時間が掛かる。
だが、今全世界に在る核兵器全てを爆発させたら世界は二十回位滅びるんじゃないか? 確かそう言う試算が在った筈だ。流石に其れ丈のエネルギーを遮るシェルターは造れない」
『その点に関してはお任せ下さい。全ての用意が終わる迄何位掛かりますか?』
「恐らく五年。シェルター製作に三年、残りの準備に二年と言った所だ。」
『ならば簡単です。五年後、地球上の核兵器を現在の二十分の一にします』
「如何遣ってだ?」
『簡単です。アメリカとロシアの大統領が大量の核兵器廃棄を宣言し、中国も其れに従い、必要最低限の量以外を廃棄。そしてフランス、イギリス、インド、パキスタン、北朝鮮、その他の核保有国が全ての核兵器の廃棄を決定すれば良いのです』
楽しげに浦沢は言う。本当に簡単そうに。人間の汚さは測り知れない。嘘を吐いて核兵器を隠し持って居る可能性だって否めない。楽天視し過ぎの感が有ったが、然し、任せて大丈夫なのだろうと、疑っても仕方無いのでそう信じる事にした。私には信じるか、或いは突っぱねると言う選択肢しかない。
「破壊後の世界は如何するんだ? 放射性物質に因る汚染が凄い筈だ。其れが世界規模だ。ヒロシマの時の様に数年での復興は有り得ない。
まさかコスモクリーナーをイスカンダルから取り寄せるとは言うまい?」
『言いませんよ。実は我々、ガミ○スと同じなんです。多少の放射線が生きて行くのには必要なんです。だから、そんな物要りません』
「……冗談だよな?」
『当たり前です』
「じゃあ、如何する気だ? 如何やって放射性物質を取り除く? 我が社には未だそんな技術力は無い」
『いいえ、其れは違います。貴社には其れ丈の技術力は有ります。只、アイデアが無い丈です』
「そんなアイデアが有るのか?」
『有ります。既に論文まで完成して居ます。我々の仲間は特に学者が多いですから』
「そんな論文は聞いた事も無いが」
『当然です。隠してましたから』
「隠して居た?」
『ええ、隠して居ました。最早、此の汚れた世界で其れを明かしても悪用される丈ですし、ならば我々が世界を変革する際に初めて使用するのが良いと思いまして。
ですが、今の我々の技術力、経済力では迚も実用化出来ない』
「其れで其の点に関しても我が社の協力を仰ぎたいと」
『ええ、全く以てその通りです。矢張り頭の回転が速い方は助かります。説明が非常に楽です』
褒められた。
「其れはそうと、その論文だが、後で私の元に送っておいて貰えるだろうか? 目を通して置きたい。メールアドレスを教えて呉れ。其処に私の仕事用アドレスを送るから、其のアドレスに論文を送って欲しい」
『それは構いませんが、不知火社長は理解できるのですか?』
「違う、私から我が社の其れ専門の者に回すんだ……とでも言いたい所だが、実は理解出来ると思う。少なくとも物理学には大学卒業程度の理解度は有る。其れ以上の理解を求められると無理だがな」
『いえ、其れ丈の心得が有れば十分に理解出来ます。理解丈なら私でも出来ましたから。難しいのは閃く事ですよ』
「其の通りだな。発明家が立派なのは其処だ。私も製品開発に携わった事が有るから良く解るよ」
同意を示す。
「だが……」
黙りこくる。その直ぐ後、浦沢が口を開く。
『未だ、何か問題点や疑問点は有りますか?』
「……いや、もう無い」
『いやはや、流石です、不知火社長。成功率、確実性を高める為に、僅かな疑問点も詰めて行く其の姿勢に感服致しました』
「いや、企業のトップに立つ者として当然だ。企業を正しく、間違い無く導くには、問題は全て取り除かなくてはならない」
言って、何処か自分自身に疑念を感じる。
「分かった、話は此処迄だな?」
『ええ、御理解頂けましたか?』
「ああ。理解したさ。今後の連絡手段も此の電話で良い」
自分に嘘を吐いて居る様な息苦しさを感じる。
『今後、という事は?』
「入ろう。私も君達の〝ノアの箱舟〟に」
胸が鷲掴みにされる様な痛みを感じる。
『有難う御座います。では、又後々話は詰めて行きましょう。本日は此れで。お忙しい中、時間を割いて頂いた事に感謝します』
「ああ」
そう一言答えて受話器を置いた。今度はちゃんと電話機に置き、確かに電話を切った。
話が終わると少し落ち着いて来た。
何が成功率を上げるだ。何が確実性を上げるだ。私は自分に嘘を吐いている。
咽喉がからっからに乾いて居る事が、其の証拠と言える。
別に喋り過ぎで咽喉が渇いて居る訳ではない。たかが数分喋った丈だ。
私は……びびって居た。恐れた。目を向けたく無かった。
浦沢を質問責めにした理由、其れは疑問が有ったからじゃない。
――否定材料を探していたのだ。計画を海の藻屑とする為の。
無駄事だった。浦沢は、彼等〝ノアの箱舟〟は、其れに対する反論を完全に持ち併せて居た。
――私は、世界を変える事の代償の大きさに、押し潰され掛けて居た。
頭に浮かんだ。目を掛けて居る上村君の声。信頼して居る秘書の顔。
――未だ私には人の心が残って居た。
其れ等全てを打っ飛ばす覚悟が要る。
人間には不可能で無いが、可能でも無いかも知れない。其れは、心の問題。
遣れる丈の度胸が有るか否か。
ふと、頭に思い浮かんだ。
――果たして、今の世界は、私が此処迄悩む程の価値が有るのか。
負の感情。
同時に頭に思い浮かぶ。
――此の価値の無い汚れ切った世界を変えるには全てを投げ遣る必要が有る。
正の感情。
正負が一致する。
――悩む事も無い。此の価値の無い世界を変える。正しい道へ。
こうして私は、未練を断ち切った。
心の奥底から〝ノアの箱舟〟に入ろうと決めた。
扨、当面の問題は……此の渇いた咽喉を潤す事だ。
と、ドアをノックする音が響いた。
「御待たせ致しました。コーヒーを御持ちしました」
秘書だ。
「ああ、入って呉れ」
そう言えばコーヒーを頼んで居たな。丁度良い。
扨、彼の黒い液体で、此の渇いた咽喉と、未だ落ち着かない心に安息を与えよう。
the plan on the way
社長室直通電話専用の音がした。此処三年で何度目だろうか。もう数え切れない。
「もしもし、不知火だ」
『浦沢です。準備は進んで居ますか?』
「当然だ。間も無くシェルターが完成する。住居、田畑等の各設備の設計は当然済んで居るし、シェルターの完成と同時に着手出来るだろう」
『流石です、不知火社長。放射性物質除去装置の開発の方は?』
「もう少しで完成、と言った所だ。君達の所の論文のレヴェルの高さの賜物だな」
『其れも貴社の技術力在ってこそですよ』
「ならば、何方も欠かせなかった、と言う事だな。
其方の方は如何だ?」
『順調です。〝ノアの箱舟〟の〝乗組員〟の選定も殆ど終わりに近付こうとして居ます。地球上に存在する核兵器の削減に於いてはテレビや新聞の報道で既に御存知なのでは?』
「ああ、そうだな」
浦沢の言う通り、アメリカ、ロシア、中国と言った大国が一年以内の核兵器の大幅な廃棄を決定し、其の他の核保有国は全ての核兵器を既に廃棄したと発表されて居た。
『我々の計算では、予定通りに核兵器が廃棄さえされれば丁度地上を一回滅ぼせ、且つ放射性物質除去装置が約一年で放射性物質の除去を完了させられます。
ああ、勿論、各核保有国の核兵器の発射を制御して居るコンピューターは既にハッキング済みで、何時でも此方が好きなタイミングで好きな目標に対し核兵器を発射出来る様にして在ります』
「そうか、分かった。然し……」
一度間を置いて大きく息を吸い、そして其れを全て吐き出す。
『然し、如何しました?』
「然し、其の昔、神話の時代に神の起こし給うた洪水を、まさか人で在る私が此の手で起こす事に為るとは思わなかったよ。自分が神に為った錯覚さえする」
『そうですね。でも実際、私達は旧い世界を破壊し、新世界を創造するのです。此の行為は神の所業に等しいとは思いませんか?』
「私達は破壊神で在り、創造神で在る訳か。其の通りだな」
浦沢に一つ、疑問を打つける。
「所で、心配事が一つ有る」
『何でしょう』
「〝ノアの箱舟〟の〝乗組員〟の選定に就いてなのだが」
『ええ』
「選定は誰がして居るんだ? まさか浦沢君が一人で遣って居るのでは在るまい?」
『ええ、私も多少は選定を行って居ますが、私の仕事のメインは〝ノアの箱舟〟全体の統率。選定は選定員が十数名程でやって居ります』
「其の十数名、信頼出来るのか?」
『……と、言いますと?』
「高額な資本を以て、力業で〝乗組員〟と為ろうとする輩も居るのではないか? 浦沢君は違うだろうが、富に目が眩み、そんな人間を〝乗組員〟にしてしまう選定員が居たとしても可笑しくない」
『流石、不知火社長は御聡明でいらっしゃる。確かに、我々〝ノアの箱舟〟の噂を何処からか聞き付け、資本を以て取り入ろうとする輩の存在は確認されて居ます。ですから其れは尤もな御心配ですが、如何か御安心を。我々も信頼、そして信用出来る選定員を選んで居ります。其の点に関しては私が神に誓って保証致しましょう』
「神に誓って、か。此れから神に為ろうとする人間の言葉だと思うと、何とも言えないな。自分自身に誓えば良いのだから」
笑いながら言う。
『御尤もですね、不知火社長。では、此れから神に為る人間の一人で在る貴方に誓いましょうか』
浦沢も笑いながら答える。
『扨、御心配は解消されましたか?』
「ああ、此れで安心して計画を進められるよ」
『其れは良かった。では今日の所は此の辺りで失礼致します』
「そうだな。御互いに確りと準備して行こう」
『ええ、勿論です。では』
「ああ」
こうして私達の会話は終わり、私は受話器を置いた。
the end of the plan
最初に浦沢から社長室に電話が在ってから五年。
其の時に彼の提案した計画は、最終段階に在った。
六ヶ月程前から私と浦沢は最終調整の為、電話ではなく直接会って話をする様に為って居た。だから当然互いの顔は見知って居たし、五年の付き合いだ、関係も良好だった。
「不知火社長……いえ、代表、御報告します。〝乗組員〟は全員〝ノアの箱舟〟に乗り込みました」
浦沢が報告して来て呉れた。詰まり、我が社の造った核シェルター内に、生き残る人類として選ばれた人達が全員入った、と言う事だ。
「分かった。ではシェルターを閉ざそう」
〝ノアの箱舟〟の代表は、暫定代表で在った浦沢から私に為って居た。創始メンバーでもない私が就任するのは気が引けたが、浦沢や他の創始メンバーから年齢、経験、計画への貢献度、判断力等から私が適任だと指名され、断り切れる雰囲気でもなかった為、私が引き受ける事と為った。
敢えて私の意思から就任理由を加えるとすれば、私が責任を負いたいと思ったから、だろうか。〝ノアの箱舟〟の創始メンバーは皆未だ若い。詰まり、此の先の人生が私より長い。そして、本当の汚れを知らない。我々は此れから人類の99.99999%を殺すと言う途轍も無い規模の汚れ仕事を行おうとして居る。当然、其れに因って受けるショック、感じる責任も小さくはないだろう。そんな物を汚れる事に慣れて居ない前途有る若者達に背負わせたくはない。此の汚れ仕事に因る重責を背負うのは、汚れ仕事に慣れ、汚れに染まり切って居る私丈で十分なのだ。
手元のシェルターの制御盤を操作し、シェルターを完全に密封させる。此れで約一年、此のシェルター内に人は入れないし、出る事も出来ない。〝ノアの箱舟〟は完全に閉じられた。
「シェルターは閉じた。扨、後は核兵器発射のスイッチを押す丈だ」
浦沢に向かって言う。
「分かりました。然し、此の儘黙って発射と言うのも味気無い物です。全〝乗組員〟に向けて代表に簡単な挨拶の一つでもして頂ければな、と」
「あ、挨拶か……急に言われると困るな。何も考えて来てないよ」
微笑を携えながら言う。
「不知火代表なら大丈夫ですよ。貴方の頭の回転の速さなら、簡単な挨拶文を考える位容易でしょう」
浦沢も僅かに笑いながら言う。
「……分かったよ。余り期待はしないで呉れよ」
「ええ、シャ○・アズナブルやクワ○ロ・バジーナの演説並みの挨拶を期待して居ります」
「だから期待はしないで呉れよ……と言うか二人とも同一人物じゃないか」
「細かい事は御気になさらず」
「……分かった。じゃあ此処、メインスペースに〝乗組員〟を集めて呉れ」
「ええ、御任せ下さい。代表は其の儘御待ちを」
そう言うと、浦沢は放送設備の在るメインスペースのステージ下手側の奥へと入って行った。
因みに、今私が居るのがメインスペースのステージの上手側だ。シェルターの制御盤、放射性物質除去装置の作動スイッチ、そして此の計画で最も重要な核兵器発射スイッチが置かれて居る。
『〝ノアの箱舟〟の〝乗組員〟の皆様に伝達致します。〝ノアの箱舟〟は全ての〝乗組員〟を収容しました。間も無く〝ノアの箱舟〟の〝出航〟と為ります。セレモニーを行いますので、如何かメインスペースへと御集まり下さい』
浦沢のアナウンスだ。
〝出航〟か。上手い事を言った物だ。其の真の意味は〝一度地上を滅ぼす〟。勿論、〝乗組員〟全員が其れを知って居るが、敢えてぼやかして言ったのだろう。
アナウンスの直後から続々と人が集まって来た。
数分して再び、
『間も無く、〝ノアの箱舟〟の〝出航〟セレモニーを開始致します』
と、浦沢のアナウンスが流れた。恐らくメインスペースに集まった人数を見てアナウンスしたのだろう。
『皆様御集まりの様なので、只今より、〝出航〟セレモニーを開始致します。セレモニーと言っても短く簡単な物なので、皆様、どうぞ御気を楽にして御過ごし下さい。
では先ず最初に、我々〝ノアの箱舟〟の創始メンバーを御紹介致します……………………』
〝ノアの箱舟〟創始メンバーの名前が読み上げられて行く。私の知り合いと為った名前、聞いた事丈は有る名前、全く知らなかった名前が無秩序に並ぶ。そして最後に、
『……………………そして私、浦沢。以上、〝ノアの箱舟〟創始メンバーでした』
と自分の名前を名乗り、創始メンバー紹介は終わった。
『続いて、〝ノアの箱舟〟不知火代表より御挨拶です』
……私の出番だ。正直、何も考えて居ない。
――ふっ。
心の中で笑う。まさか地上を一度滅ぼす直前の挨拶が、一切下書きの無い完全なアドリブに為るとは。
ステージの真ん中には演説台が在る。其処へステージ上手から私が歩いて向かう。
マイクを口許へ。扨、何を話そうか。
『〝ノアの箱舟〟の〝乗組員〟の皆さん、こんにちは。〝ノアの箱舟〟代表、不知火です。
先ず、此の計画を考え付き、実行に移す迄に昇華させた、〝ノアの箱舟〟創始メンバーに心からの賞賛を送りたいと思います。皆さん、拍手を』
メインスペースが拍手の音で埋め尽くされる。
或る程度拍手が収まってから、再び言葉を紡いで行く。
『皆さん御存知の通り、此の計画は汚れた世界を一度リセットし、崇高な理念の下、新たな美しき世界を創り直そう、と言う物です。皆さんは美しい心の持ち主で在ると認められ、選ばれた方々です。選ばれた事を誇り、然し驕る事無く、そして新たな美しき世界を創る為に、共に尽力して行きましょう。
皆さんの此れ迄の御協力に感謝し、此れからの助力を御願い申し上げます。
では皆さん、間も無く〝ノアの箱舟〟は〝出航〟します。新たな歴史の創造の瞬間を共に生きましょう』
言葉を紡ぎ終わった。もう言葉は出て来ない。終わろう。
演説台から一歩下がり、礼をする。
拍手が巻き起こった。
『以上、不知火代表の御挨拶でした。では皆さん、〝ノアの箱舟〟の〝出航〟と行きましょう』
浦沢がアナウンスし、歓声が起こる。
浦沢がステージの奥から出て来た。
「代表、見事な演説でした。誰一人として彼の演説が即興だったとは思いませんよ」
微笑みながら浦沢が言う。
「有り難う。演説ではなく只の挨拶だけどね」
私も軽く笑って返す。
「扨、〝出航〟のカウントダウンは代表に御任せしましょうか。私はスイッチの所で待機して居ますね」
「いや、カウントダウンは君がすると良い。スイッチは私が押そう」
「えっ、でも矢張りカウントダウンの様な表に立つ目立った仕事は代表が行われた方が良いのでは?」
「スイッチを押したいんだ、私が。世界を一度滅ぼすと言う、神に為った感覚を味わいたいのさ」
微笑みながら言う。
――嘘。
「成る程、そう言う事でしたら分かりました。私がカウントダウンを。スイッチは代表に御任せしますね」
「ああ。宜しく頼むよ」
そう言って私はスイッチの在るステージ上手へ向かう。
――大量殺人の最終的な実行犯と言う業は、私が担えば良い。
『皆さん、御待たせしました。〝出航〟へのカウントダウンは私、浦沢が、スイッチは不知火代表が押されます。では皆さん、御唱和下さい。十、九、八、七……』
浦沢のアナウンスと、〝乗組員〟に因るカウントダウンの声が響く。
私はスイッチに手を掛ける。
『三、二、一……』
――私が押す。私が99.99999%を手に掛ける。
『零!!』
〝出航〟の合図だ。
私はスイッチを押した。
――99.99999%を、手に掛けた。
『皆さん。我々〝ノアの箱舟〟はたった今〝出航〟しました。新たな世界の始まりです。そして此れより一年後、我々は新たな世界を創って居る事でしょう。此れにてセレモニーを終了します。皆さん、有り難う御座いました』
暫く続く大きな拍手。
拍手が鳴り止むと、メインスペースに集まって居た人々が其々の自室へと帰って行った。
「大任、御疲れ様でした、不知火代表」
浦沢が話し掛けて来た。
「いやいや、君こそ。見事なカウントダウンだったよ」
「有り難う御座います。恐縮です」「扨、此れから一年間待つ訳か」
「そうですね。そして一年後には私達が世界政府を作り上げ、新世界を創造します」
「世界政府、か」
「ええ。旧約聖書に肖って〝バベルの塔〟と名付けようかと」
「其れは又縁起の悪い名前だな」
笑いを溢す。
「彼れは神の逆鱗に触れたから完成しなかったんですよ。今、其の神は私達です。完成させられますよ」
「そうか。其れもそうかもな」
「では不知火代表、今日の所はそろそろ自室に戻って休みましょうか」
「そうだな。おやすみ、浦沢君」
「おやすみなさい、不知火代表」
こうして私達は自室へと帰って行った。
epilogue-the end
〝ノアの箱舟〟の〝出航〟から一年が経った。
地上の除染作業が終わった頃だ。
「不知火代表、そろそろ」
浦沢が声を掛けて来た。
「ああ、私もそう思って居た頃だ。〝ノアの箱舟〟代表として命じる。地上視察部隊を向かわせろ」
「分かりました。直ぐに向かわせます」
私は制御盤でシェルターの蓋を開け、地上視察部隊を向かわせた。放射線量等を測らせ、人間が地上で暮らせるか確かめさせる為だ。
暫くして、地上視察部隊が帰って来た。彼等の報告は驚くべき物だった。
「想定外の事態が起きました。放射線量が迚もじゃないが人間の過ごせる程度じゃない」
「如何言う事だ。放射性物質除去装置は機能しなかったのか」
「いえ、其れは機能して居た様なのですが……其の除去能力を遥かに超える放射性物質が残留して居た様です」
「何だと……如何言う事だ。
浦沢君、計算では完全な除去は可能だったのだろう?」
「ええ、間違い有りません。何度も計算して確かめましたし」
「と為ると……」
頭が回転する。考えられる可能性は何だ。何故計算以上の放射線汚染が起こって居るんだ。
放射性物質の量が多い。此れが鍵ではないか。いや然し、確かに各国は核兵器の所持量を発表して居た。
いや待てよ。其の発表が正しかったとは限らないじゃないか。そうだ、各国が嘘の発表をして居たとしたら……本当はもっと多くの核兵器を所持して居たとしたら……。
合点が行った。矢張り、人間は醜かった。核兵器保有国は嘘を吐いて居たのだ。発表通りの核兵器の廃棄等して居なかったのだ。
汚い人間を信じた我々の自業自得なのか。
資本を以て〝乗組員〟に潜り込んだ者が居たから罰が当たったのではないか。
いや、違うな。
我々が、私が、驕って居たのだ。
神に為ろう等と考えて居たのがいけなかったのではないか。
何だ、正に〝バベルの塔〟じゃないか。
神に為ろうとした人間に、神からの本当の罰が与えられたのだ。
我々の不穏な空気を感じ取ったのだろうか。〝乗組員〟の間で諍いが起こり始めた。〝一体如何言う事だ〟等と罵声が飛んで来るのが聞こえる。端から見て居ると話が全く噛み合って居ない。
其れは丸で、怒った神に拠って言語をバラバラにされたノアの一族の如く。
人類の滅亡は決定的だ。此れで完全に人間に拠る汚い世界は滅びた、と言う事か。
シェルター内の食料が尽き、我々が死に行くのもそう遠い事ではないだろう。
扨、私の、そして人類の残り少ない寿命。何をして過ごそうか。
ノアの箱舟
一昔前に書いた、今は正直見るのが恥ずかしい作品です。
勝負はオチです。
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今思えば笑い要素は邪魔だったかな……とか。
まぁ、楽しんで読んで貰えたならば幸いですし、そうでなければ時間を使わせてしまってすみません。
お読み頂きありがとうございました。