赤猩猩綺譚

草片文庫(くさびらぶんこ)

赤猩猩綺譚

幻想系ミステリー小説です。縦書きでお読みください。


 新聞社に勤めていたとき、事件記者からデスクに変わった頃から、ノンフィクションものを書き始めた。さらに定年退職してからも文筆家として活動している。六十で退職し十年経った。そんな今になって昔のちょっと不思議な事件のことを思いだした。
 事件記者になって五年ほど経った頃のことである。あまりにも奇妙な出来事だったので、当時は表に出さなかったのだが、もう、書いてもいいだろう。そう思い、当時のメモを見たり、当時のことを思い起こして、物語としてPCに打ち込んでいるところである。
 それは都内での出来事だったが、差し障りがあるといけないので、固有名詞は架空のものにする。

 それは私が三十過ぎのことだからもう四十年も前になる。六月の半ばごろであった。ある金曜の夜、夜中の十二時より少し前に若い女が自殺した。といってもまだ自殺と断定されたわけではない。年のころ二十三、四、出版社に勤めていた女性で、男関係などはない至極まじめな娘だったようだ。しかし腹を刃物で刺して死んでいること、遺書らしきものは無いことなど、他殺と疑われても不思議の無い状態だが、争った跡のないことと刃物に自分の指紋しかついていなかったとことから、とりあえず自殺の線で調べが進められていたようだ。今の世で腹を切って死ぬとは、自殺であったとしたらそれなりにセンセーショナルな事件である。しかも女性である。
 テレビのニュースならかなり大きく取り上げるだろうが、私の新聞社はちょっとした記事で済ますだろう。とりあえずデスクに電話を入れた。昔は携帯などがなかったので公衆電話が頼りである。デスクからもう少し粘れといわれたので、下山警察署の担当者に事細かな情報をもらって社に戻った。
 「奇妙な自殺ですよ」
 隣のデスクに座っているキャップの白井に詳細を話した。土曜日といっても我々取材担当の人間は休みではない。
 「夕方にはもう少し詳しい情報が入りますが、とりあえず夕刊にはどうします」
 「やっぱり触れておいたほうがいいだろう、どんな展開になるかわからないからな、朝刊までに原因がわかればいいがな」
 「担当の刑事も犯罪や裏の世界には全く関係のない女性だし、職場の聞き込みでも、何も出てこない、みな言うのは動物が好きで、しょっちゅう動物園に遊びに行っているという話しだけだ、動物のことをよく知っているし、自分でも猫を飼いたいのだが、マンションの一人暮らしだから無理だとよく言っていたそうだ。それくらいですね、あ、それがどうっていうことは無いんですが、両親兄弟、それに親戚もいないんですよ、いうなれば孤児院育ちでしてね、だからといって暗い性格ではなく、誰とでも仲良かったそうです。ただ男性にはむしろ、ちょっとした恐怖感があるのかもしれません。口を利かないわけではないのですが、仲良くなるっていうことはなかったようです、恋愛経験はなさそうです」
 「どうしてなんだい」
 「親に捨てられたようです、だから両親兄弟いるかもしれないけれど、わからないというところです、男親がいなかったから男性に慣れていなかったのだろうって」
 「ちょっと不幸だね、だからといってなぜ割腹自殺をしたのだろうね」
 「そこがどうも警察もはっきり言ってくれません、何かあるのかもしれないですね、もう少しはっきりしないとわかりません」
 「よし、やっぱり、夕刊には載せて朝刊までに詳細を明らかにするようにしてくれ、あまり割腹自殺ということを強調し過ぎないように」
 「はい、また下山署にいってみます」
 下山署にはかなりの新聞社から記者が集まっていたが、情報は朝以来変わっていないようだ。
 担当の刑事が、「この件に関しては、夕方、記者会見を行ないますので、記者の方たちは六時ごろきてください」とアナウンスした。
 さてどうするか、おそらく多くの記者たちは孤児院に行って、院長なり彼女の知り合いにインタビューするだろう。ここからだとそこまで一時間ほどかかる。私はもう少し他のところから調べてみようと思い、彼女の勤めていた鶯谷の出版社を訪ねてみることにした。
 「まじめな子ですよ、頭も良くて、文章をまとめるのが上手いので、当社としてもとても助かっていて、大きな損失です。会社では明るくて、全く自殺の兆候なんて無かったし、物取りなどではないんですかって警察の人に聞いたくらいです」
 出版社の係長は驚きを隠せないようである。彼女とよく動物園に行ったという同僚も、あまりにもおかしいと自殺を認められないようである。
 「動物園は下山動物園ですか」
 「よく行くのは下山動物園だったけど、サンシャインの水族館、多摩動物園、それに、アルパカのいる軽井沢などにも遠出していました。私もよく付き合ったの」
 「動物園では何が好きだったのでしょう」
 「みんな好きでしたよ、どっちかというと猫科の動物かな、レオポンを見たいって見に行こうとしていたわ、ライオンと豹の子ども、どっちも猫猫なんていってた。関西の動物パークに一匹いたんだけど、とうとう死んじゃって見れなかったの残念がっていた」
 「猿も好きだったの」
 「彼女猿の仲間は人間と似てて、ちょっと、と言ってたけど、それでも檻の前で長い間見ていたわね」
 そのような話ししか聞けなかった。それでついでに動物園に行ってみることにした。
 動物園は土曜日のせいか、圧倒的に子供連が多い。入口からちょっと入ると、ヤギやモルモットの触れることのできる動物たちのいる小屋の前には小さな黒い頭が集まっていた。
 さて、どうするか思案をした。だいたい動物園などとは縁がない。自分が小学生の時に田舎の動物園に連れられていったことをうっすら覚えているだけである。私みたいな男がボソッと一人で立っていると、胡散臭い眼で見られているようだ。大型の写真機のケースを肩に掛け、首から大きな口径の長いレンズをくっつけた写真機でも首からかけていれば様になるかもしれないが、どうも場違いの感じがしてしょうがない。
 駆け出しの頃、なにもねたがないときは動物園に行くと、面白い動物ねたが拾えて、新聞の空白を埋める記事にはなるよと先輩に言われたことがある。
 珍しい動物のしぐさとか、子供を産んだとか、写真をうまく撮れば記事にすることが出来る。しかし一度も行ったことが無い。刑事事件、特に殺人事件などのほうが自分に向いている。
 動物園に入った人たちはコース番号が立ててある通りに行くようだが、私はともかく、猫科の動物に会いに行こうと思った。
 ヤクシカだとかサイのところをを通り越して歩いていくと、新築したばかりのオラウータンの遊び場と宿舎があった。遊び場の周りは深い堀になっており、三頭のオラウータンが芝の上でのんびりと寝転んでいる。その周りで一頭の子供のオラウータンが大人にからみついたり、追いかけたり、実に無邪気に遊んでいる。人間も含め子供は遊ぶ生き物なのだ。遊びを削いだら全うな大人になれない。
 「危険、柵を乗り越えないように」と書かれた真新しい板がオラウータンの遊び場の周りの鉄柵に付けられている。
 何人かの親子連れが熱心にオラウータンを見ている。私も立ち止まった。猫族のところに行くつもりであったが、あまりにもオラウータンたちが気持ち良さそうでしばらく見入ってしまった。
 オラウータンの子供が手前のほうにかけて来てがけの縁でころがった。その拍子に、手前の柵をふと見ると、危険の札の下の柵の内側に花束がセロファンに包まれて置いてあるのに気がついた。花の名前もからっきしだめなのだが、西洋の花であることは分かる。真っ白な花である。あれっと思ったのは、黒いリボンでくくられていたことである。オラウータンに喜ばしくないことでもあったのだろうか。
 といつの間にか隣に、ジャケットを着た男性が立っていて、私と同じように花束を見ていた。男はいきなり私のほうに顔を向けて、「おたくさんですか、花束をおいたのは」と聞いてきた。
 「いいえ、私も黒いリボンの花束なので、何かあったのかと思って見てました」
 「失礼しました、誰が置いたかごらんになっていませんよね」
 そういいながら男は遠慮無しに柵の中に手を伸ばして花束を?みだした。そのまま男は私のほうを見ずに背中を向けて歩き出したので気になって声をかけた。
 「どこに持っていかれるのです」
 その声で彼ははっとしたように立ち止まり、頭を掻くような仕草をして、私のほうを向いた。
 「こりゃ、失礼しました、ここの係りなもんで」
 彼の胸元を見たら、ジャケットに動物園のマークが入っていた。作業着に長靴でも履いていればもっと早くに気付きいただろうが、客と同じような格好だったのでわからなかったのである。しかもピシッとしている。
 「今、園外の仕事から戻ってきて、直接ここにきたらこんなものが置いてあるんで、ちょっとあわててしまって、すみません」
 「いえ、あまり気持ちのいい花束ではありませんね」
 何かありそうである。さりげなく聞いた。
 「昨日、オラウータンが一頭死にまして、今日こんなものがあったので」
 「そうですか、それはお気の毒でした」
 彼は考え込むように呟いた。
 「それにしても、昨日と言っても真夜中ですし、関係者しか知らないことですからねえ、花束は関係ないかもしれませんね」
 「急に死んでしまったのですか」
 「ええ、一番元気だったオラウータンでした、人にもよく慣れていましてね」
 「心臓発作とか」
 人間も働き盛りの元気な男が脳梗塞や心筋梗塞でいきなり亡くなることがある。
 「いえ、違うんですよ」
 「どうしたのです」
 「うーん、ちょっと、おそらく園長が公にすると思いますので、私からは」
 彼は言いよどんだ。そこで、私は「ちょっと話を聞かせていただいていいですか」と彼に名刺を渡した。
 「あ、新聞記者さんでしたか、これは、まいった、お話していいかどうか、私にはわかりませんが、課長がいますので、どうぞ事務所にいらしてください」
 「お手数かけます」
 私は彼の後をついた。
 「尾木といいます」彼も名刺をだした。
 「今オラウータンのことで、都庁と保健所に行ってきたところです、貴重動物ですので、科学博物館のほうに送られると思います」
 「剥製にするのですか」
 「本来ならそうするでしょうけど、骨格標本になるかもしれません」
 彼はそれ以上言わなかったが、骨格標本と言うことは、外側が使えないのかもしれない。損傷を負っている可能性もある。
 倉庫に併設された事務所に入ると、課長の堀田に紹介された。尾木は着かえてから、オラウータンの宿舎に行きますと奥に入っていった。
 「尾木君の可愛がっていたオラウータンでした」
 尾木氏は均整のとれたスポーツマンタイプで、精悍なピューマのような感じなのに対し、年も違うが、堀田はまるで象のような巨漢である。
 「どうぞ、お座りください、とりたてて、秘密にするようなことではありませんが、園として発表するのは手続きが完了してからというところです」
 「たまたま、遭遇してしまっただけで、記事にしようと言うことではありません」
 「そうですか、ところで八木さんはどうしてこんな時間に動物園にいらしたのです、おそらく尾木君も、なんでこんなにはやく新聞記者さんが来たのか不思議に思ったでしょう、しかも花束もあったし」
 「そいういうことですか、私はある事件を追っていて、動物好きが関係しているので、何かヒントがあるかと思って動物園に寄ってみただけなのです、六時には下山署に戻らなければならないので」
 堀田氏は身を乗り出した。
 「大きな事件ですか」
 「いえ、女性が自殺したのですけど動機がわからなくて、その娘は良く動物園に来ていたということでした、時間が余ったので来てみただけなのです」
 「ほー、自殺と動物園とは難しいパズルのようですね」
 なかなか堀田は面白いことを言う。
 「いえ、関係付ける必要は無いと思います」
 「動物の好きな人は、動物に感情移入をしてしまっていることがあります、その方は自分の好きな動物がいなくなったので自殺したとかいうのではないでしょうね」
 「あ、いや、全くそんなことはないのです、猫科の動物が好きだったというので、どんなものか見てみようと思っただけで、そんなに深く考えたわけではありません」
 「そうですか、猫科の動物たちはみな元気です、よかった死んだオラウータンとは関係なさそうですね」
 「すみません、かえって、驚かせてしまったようだ」
 「猫の好きな人は、まあ人によりますけど、感情移入が強いかもしれませんね」
 そういうものだろうか。
 「可愛がりすぎる傾向があるでしょう、だけ、猫は野生的な性質の持ち主だから、そんなに主人が好きなわけではない、だけど好かれていると飼い主は誤解をする」
 なるほど、犬とはずいぶん違う。
 「そうかもしれませんね、いや動物園で人の性格のことを教わるとはおもいませんでした。自殺した女性の性格を調べてみます」
 堀田が身を乗り出してきて、ちょっと考えるようなそぶりをしてから私に言った。
 「もし、その女性が自殺だったら記事にはしないのでしょうね」
 「ええ、場合によりますが、自殺だけですとほとんど記事にはなりません、ただ特殊な場合には違います」
 「といいますと」
 「変った自殺の仕方をした場合などは、テレビが取り上げますから、新聞としても、載せないわけはいかなくなります」
 「殺人なら当然新聞種ですね」
 「そうです」
 「八木さんは、いうなれば、殺人などの事件記者ですね」
 「まあ、そうです」
 堀田はちょっと間をおいて話し始めた。
 「ご相談したいことがあります、オラウータンのことです、動物が死んでも、人の自殺と同じように、特別なことが無い限り、新聞にはのりません。貴重な動物だとか、伝染病だとかは報道されます、これからお話しすることは、公の発表があるまで伏せておいて欲しいのですが、よろしいでしょうか」
 私は即座に頷いた。動物園記事で他社と競うなどということはないだろう。
 「オラウータンはとても感受性が強く、飼育は難しい動物です。幸い私のところでは尾木君をはじめ数名の霊長類に明るい飼育員がそろっていて大変うまくいっています。子どもまで産ましているのはこの動物園ぐらいです。ところが一頭死んでしまいました。殺されたのです」
 私はそれを聞いてびっくりした。殺人ではなく殺猿である。
 「誰が殺したのですか」
 「わかりません」
 「昨夜の十二時ちょっと前でした。夜警の人が園の中を見回りに歩いていると、オラウータンの宿舎から変な呻き声がする。その声といったら腹にぐーんと浸み込んでくる、もの悲しい感じがしたとのことです。夜警の人はオラウータンが腹痛を起しているようだと、オラウータン担当者に無線連絡をしたそうです。
 尾木君がその日の当直で、オラウータンの宿舎に入ると、一頭の雌のオラウータン、マリという名なのですが、マリが寝室の小部屋からだされ、その外の通路の床に仰向けになって苦しそうに息をしていたそうです、マリのからだの脇に血が溜まっていて、胸には短刀が深く刺さって、血がどくどくと出ていたということです。
 短刀を抜いてしまうと確実に死ぬと思い、布でその回りを覆うと、急いで担当者や私や園長に電話を入れたそうです、私もすぐに行ったのですが、ほとんど虫の息でした。獣医も来ており、間もなく息を引き取りました」
 「刺されてそんなに時間は経っていませんね、誰も犯人を見ていないわけですか」
 「はい、寝所の鍵はきちんとかかっていたと尾木君はいっていました」
 「他のオラウータンはどうしていましたか」
 「オラウータンは個々に寝る習慣があるので、それぞれに寝るための小部屋を与えています。小部屋がいくつも連なっており、廊下側からはガラス越しに小部屋の様子がわかります。小部屋の反対側には出入り口があり、運動場から帰ったオラウータンはそこから小部屋入ります。掃除などもそちらから入って行ないます。小部屋といってもかなり広く、オラウータンたちは用意されている布や葉っぱなどを使って、自分の寝床をしつらえて寝ます」
 「小部屋の入口は自分では開けられないのですね」
 「はい、鍵をかけてあります、誰かが開けて外に出したとしか考えられません」
 「子供がいましたね」
 「子供はミドリの子で、ミドリと一緒にちょっと離れたところの小部屋に入れられています」
 「雄はいないのですか」
 「います、モリオも別の寝床にいます」
 「外で見たのは三頭でしたが、もう一匹いるのですか」
 「はい、雌のハナですが、それも個別にいます」
 「犯行に使われた短刀はどんなものでした」
 「刃渡り三十センチほどのもので、プラスチックの柄が付いていました。もう警察に渡してあります」
 「オラウータンに恨みを持つ人など考えられるのですか」
 「全くありません、動物園に恨みをもつ者もいないでしょう」
 「警察はなんといっています」
 「わかりません、犯人が捕まっても、不法侵入と器物破損だけです」
 「器物破損というのはなんです」
 「動物を殺したり、傷つけても器物破損罪になるだけです」
 その頃、動物愛護に関する意識が低く、動物が殺されても、そのような罪状しかなかった。今は動物愛護の観点から罪になる。
 「短刀を調べれば指紋が取れるでしょうから、犯人が捕まるのは時間の問題ではありませんか」
 「ところが、人の指紋が無いのです、マリの指紋はありました、抵抗したのでしょうね、オラウータンにも指紋はあります」
 「へんなことを聞きますが、オラウータンの一匹が犯人ということはありませんか」
 堀田氏は苦笑しながら大きく首を横に振った。
 「まずありません、仲間同士の喧嘩はしますが、このように刃物を使って相手に傷をつけるなどということはありません」
 「オラウータンが道具を使うということは無いのですか」
 「他の動物園では知りませんが、うちは教えたりしていません、不自然ですから、オラウータンの指紋は登録されており、短刀にはマリの指紋しかありませんでした」
 「オラウータンの宿舎は、野外運動場の脇にある、大きな建物ですね」
 「ええ、冷暖房完備の立派なもので、最近作りました。屋内運動場もそこにあって、木を立体的に配置し、遊べるようになっています。前面は強化ガラスで、観客はそこからオラウータンを見ることが出来ます」
 「寝室に入ろうとすると、もし鍵が開いていれば、屋内運動場からも入れますね」
 「はい、屋内運動場からは準備室を通り、寝室前の通路から寝室にいけます。備室には宿舎の廊下から入れますし、準備室がすべてのところにつながる場所になります。動物たちは寝室からでると、一端準備室に集まって、どちらかの運動場に出ます」
 「鍵の管理はどうなっていますか」
 「すべてのドアに鍵がありますが、使わないときにはかけておきます。鍵は管理室にあります。個々の寝所の鍵は管理室にもありますが、オラウータン担当者ももっています」
 「何時ごろ鍵をかけるものですか」
 運動場への出入り口は四時の閉門時後、係員の整備が終わるとかけます。使ってないところはいつもかかっています。寝る小部屋はその時の担当者の判断です。七時ごろには当直担当者と研究をしている者以外はだいたい家に帰ります」
 「事件があったときはどうでした」
 「七時十分頃だったようです」
 「夜警は中も見るのですか」
 「何かおかしいと思われる時には入りますが、宿舎内は基本的には当直者が行ないます。その日も尾木君が十一時半に見回りに行っていますが、おかしなことは無かったようです」
 「奇妙な事件ですね、動機がわからない、あの花束の出所も、犯人探しのヒントになりますね」
 「そう思います」
 そこで私が時計を見ると、もう五時になる。そろそろ戻ったほうがよい。
 「お話ありがとうございました。すぐに記事にするようなことはしません、警察署に行かなければなりませんので、何かあったら連絡ください」
 私は自宅の電話番号を記した名刺を堀田に渡した。
 「こちらこそまた、これも縁ですので何かご相談するかもしれません、報道関係の知り合いが全くないので、いろいろ教えてください」
 私は動物園を後にして、下山警察に行った。
 記者室にいくとき、鑑識課のドアが開き黒い半ズボンの少年が出てきて私とすれ違った。場違いの感じがしたのと、ズボンの黒い色が動物園の黒いリボンの巻かれた白い花束が連想されたが、それはそれだけだった。
 記者室には誰もいなかった。顔なじみの刑事が入ってきた。私が駆け出しの頃からの知り合いである。同じ年ということがわかってから、ちょっと親密な中である。お互いの立場を守りながらの付き合いといったらいいだろう。
 「オーイ、メイメイちゃん、来たのが見えたからきたよ、あの自殺の件はまだ進展していなくてね、何も話すことは出来ないよ」
 濱田猪造刑事は私のことを、メイメイチャンなどと呼ぶ。私の名前が八木だからだ。しょうがない。
 「それじゃ、記事には出来ないね」
 「うん、おそらく自殺だろうけどね」
 「明日は新聞がないし、書けないのだからもうちょっと教えてよ」
 「そうね、事件性がなさそうだし、まだ内緒だが」と声を小さくした。
 「妊娠していた」
 「男関係はないって言ってたよね」
 「うん、その男っていうのが誰だかわからなくてね、ともかく、産婦人科で見てもらって帰ってくると、その夜に自殺したようなんだ、子供が欲しくないなら、まだおろせる段階だったし、妊娠三ヶ月より前だったからな、自殺する動機がわからん」
 「刀物はどうしたんだ」
 「産科の帰りに、デパートによって買っているんだ」
 「妊娠が一つの原因だね」
 「それは確かだ、それでね、短刀がね、腹の中の胎児の頭を刎ねていたんだよ、子どもが憎らしかったんだな、まあ偶然にそうなった可能性もあるがな」
 ちょっとそれにはびっくりした。
 「ということは、生みたくなかった、相手の男を憎んでいる」
 「たぶんな、もう少し調べれば明らかになるだろう、なにせ遺書が無いからな」
 その頃遺伝子検査などなかった。いまだと胎児の遺伝子検査で相手も特定しやすいのであろう。
 「それじゃ、デスクに、まだ明らかじゃないと連絡しとこう」
 「ああ、それに今のことはまだ誰にも言うなよ」
 私は頷いた。そこはきちんと守っておかないと、なにかのときに大事な情報をもらえなくなる。
 「今、鑑識課から少年が出てきたが、あれは誰だい」
 「少年なんて見てないね」
 彼はそう言うと、「また」と奥の部屋にもどっていった。
 これで、今日は女の自殺の件も、オラウータン殺しの件も夕刊には載せられないということで仕事は終りだ。デスクに連絡して、一杯飲んで直接アパートに帰ることにした。
 
 日曜日は休みのはずであるが、事件記者というのは休日など関係がない。ともかく警察が動いていれば動かなければならない。ということで日曜日はほとんどつぶれている。しかし今日は何もないはずで、ベッドの中でぐずぐずしていた。
 そこに電話がなった。自宅の電話に掛けてくるのは、九州の隼人に住んでいる両親か、刑事の濱田ぐらいだ。手を伸ばしてベッドの脇の受話器をとると、「下山動物園の掘田ですが、八木さんですか」と声が聞こえた。あわてて襟を正すと「はい」と答えると同時ぐらいに「大変なんです、また雌のオラウータン、ハナが一頭殺されました、こちらでお話できませんでしょうか」と勢い込んで堀田がしゃべった。
 あわてて、ベッドの上に起き上がると「はい、すぐ行きます」「入口にいらしたら、守衛に堀田まで連絡するように行ってください」という会話をした。
 時間は九時十分過ぎである。歯を磨くのを省いて買っておいた缶コーヒーを開けると咽に流し込み、それにしても警察に電話すれば済むものを何で事件記者の俺に電話をかけてくるのだろう。という疑問を持ちながら出かける用意をした。
 それにしても、なんだってオラウータンを殺さなければならないんだ。久しぶりの日曜日を潰されたのでちょっといら立ったが、どんな裏があるのか興味もわいてきた。オラウータンが殺されるということだけでも、ある意味で記事になる。それが二匹も殺された。
 タクシーをつかまえて動物園まで飛ばし、守衛に話して待っていると、堀田が急ぎ足でやってきた。
 「お休み中すみません、こんなことになって、ちょっと大変なのでご意見をいただこうと思いまして、今度は警察も二人見えています」
 「あの、私は新聞記者で警察の人から疎まれていますよ」
 と笑いながら言ったのであるが、堀田は真顔で「いや、昨日お話が出来てよかったと思っています、報道関係の方のご意見も大事なので、是非お願いします」
 そういうことで、今日はオランウータンの宿舎に入り、廊下から一つの小部屋の中でオラウータン担当者と二人の警察官、それに獣医師が調べているのを見ることになった。今回は寝室で殺されている。
 「他の小部屋のオラウータンたちは室内の運動場に連れて行かれているのです」
 掘田が説明してくれた。
 人と違わない背丈のオラウータンが仰向けになり血を流している。胸には確かに短刀が刺さっている。警察官に説明しているのは尾木である。
 すると、「おい、メエメエちゃん、何でこんなところにいるんだ」
 後ろから声がした。振り返ると刑事の濱田が笑っている。
 「山羊も動物園にいても不思議ないか」
 と余計なことを言いながら、堀田に、
 「下山署の濱田です」と挨拶をしている。
 「あ、これはどうも」
 「現場に案内してもらえますか」
 濱田にいわれ掘田が準備室のドアを開けた。やはり廊下に面しているところがガラス張りの窓になっている。廊下から寝床にいるオラウータンも準備室にいるオラウータンも全部見通せるわけである。準備室には体重計やオラウータンの遊び道具などがおいてありかなり広い。
 準備室には三つのドアがあることになる。室内、室外に出るドアと、寝床前の通路に行くドアである。我々は寝床の小部屋の前に行った。死んでいる様子を直接見ることができる。
 「部長がちょっと行って見てこいというものだからな、だけどなんでおまえさんがいるんだい」
 「昨日、あの自殺した女の子のことで動物園に来てみたんだ、そうしたらたまたま、オラウータンの殺害について知ってしまってね、それでいろいろ話をした関係から、課長さんから今日も来てくれという電話をもらったんだ」
 「全く、何でこんなことするやつがいるのだろうな、昨日もあったんだろ」
 「そうらしいね」
 濱田が中に入ると、警察官が敬礼をして状況を説明した。前の時とほとんど同じである。尾木が私に気がついてお辞儀をした。目が赤くはれている。泣いていたようだ。
 濱田はオラウータンの胸に刺さっている短刀を目を凝らすように見ている。
 警察官に「短刀を証拠品として、持ち帰るように」と指示した。
 おおよそのところを見ると、濱田は後を警官に任せて檻を出た。私にも出ろという合図を送ったので一緒に出ると、園長が廊下に来ていた。
 園長は濱田に「申し訳ありません、よろしくお願いします」と腰を低くしてお辞儀をした。
 「話は事務所のほうでお聞きします、検死が終わったら、あの担当の方も呼んでください」
 濱田と園長、堀田課長、それに尾木と私が事務所のテーブルに集まった。
 堀田課長が私に「刑事さんとお知り合いですか」と聞いてきたのでうなずいて「昔からよく知っています」と答えるとなんとなくほっとした顔をした。
 その場では二匹のオラウータンの殺害された時刻やその時の状況が詳しく話された。今回も本当に最初の時と同じだったようである。それととても奇妙なことが報告された。黒いリボンがかかった花束がオラウータンの柵の前にまた置かれていたそうである。
 「何が目的なのだろう」
 尾木は焦燥しきっている。寝ずの番をしていたようだ。
 それにもかかわらずまた事件が起きた。
 濱田刑事は、「オラウータンの死因はしばらく外に出さないほうがいいでしょう、犯人を捕まえるにしてもそのほうがいい」とみなに釘を刺した。
これを聞いた園長は安堵したようだが、私のほうを見た。濱田はそれに気がつき、「そこにいるブンヤさんは大丈夫、書いたりしないから」と勝手に決め付けた。しかし私も頷いた。
 話を終えると、濱田は私の肩に手をおいて「ちょっと署によってくれ」と小声で言った。私はパトカーに乗せられて下山警察署に連れて行かれた。
 「なんですあの自殺者のことですか」
 そう聞いても濱田はだまったまま、私を鑑識課につれていった。鑑識課の中に入るのは始めてである。ファイル類が棚に奇麗に整理されており、日曜日でも何人かの人が書類に目を通したり、その頃としては珍しいコンピューターに向かっていた。
 濱田は空いている椅子に座るように指示した。自分も一つ引き寄せて座った。
 「なあ、ブンヤさんに聞くのもなんだが、どう思う」
 「どっち」
 「猿だよ」
 「犯人の足跡もないし、動機も想像できないし、薄気味が悪い、その上、あの花束はなんだろう」
 「そうだな」
 私がふっと窓際の机を見ると、あの少年が椅子に腰掛けている。机の上の何かを眺めている様子である。
 「あの少年は誰」
 「え」っと、濱田が振り返ると少年はすっと出て行った。「ほら、今出て行った少年だよ」「誰もいないよ」彼が不思議そうな顔をして私を見た。
 なんだかぞくっとしたが、確かにもういない。私は机の上の籠の中にあるものが気になった。「あそこにあるのはなんだい」
 「あれは自殺した娘の証拠品だ」
 私は立ち上がって机の前に行くと籠の中を見た。ビニール袋に入った短刀、ビニール袋に入った衣類、それにガラス瓶がある。ガラス瓶の中に首の離れた胎児が浮いている。
 「これからきちんとしたところに保管されるのだが、ちょっと、仮に置いてある」
 「これが胎児か、気味が悪いな」
 濱田は籠の中の短刀に目を留めると顔色を変えてそれを取り出した。
 「ちょっと待っていてくれ」そう言うと、鑑識課から出て行った。私がまた椅子に腰掛けて待っているとあわてて戻ってきた。
 「これをみろよ」
 彼は机の上にビニールに入った短刀を置いた。一つは娘が自殺に使ったもの、もう二つはオラウータンを殺害した短刀である。全く同じものである。
 私も頭の中が混乱した。
 「偶然だろうか」濱田も考え込んでしまっている。
 「娘が動物園好きだということしか関連性がなかったんだが、ここに関連性がある証拠品がでてきてしまった」
 「だけどこの短刀は良く売っているものなんだろ」
 「それは確かだがな、料理用のものだ、しかし柄の色からすべて全く同じ会社のものだ」
 「両方の事件を関連付けて、もう一度考え直してみるか、とすればもっとはっきりするまで報道は控えてくれ、お宅の特種になるかも知れねえな」
 私は頷いた。

 それから一週間、全く二つの事件は進展しなかった。下山署には毎日のように出かけたが、自動車事故や押し込み強盗、万引きや女性へのいたずら程度のものは毎日のように量産されたが、幸いなことに大きな事件はおきていなかった。
 土曜日の三時ごろだった、今日は下山署に顔をだしてもう帰ろうと社をでた。下山署にはいると、鑑識課のドアが開いて少年が出てくるところだった。黒い半ズボンをはいて白いシャツを着ている。いつも同じ格好である。すれ違いざまふっと自分のほうを見たようだが、気のせいだったのだろうか。そんなことでちょっと鑑識課を覗いてみることにした。
 ドアを開けて中を見ると、やはり何人かが机に向かって書類を作成している。その中の一人が私を認めて、「新聞社の八木さんですね」と聞いてきた。
 頷くとその女性が「濱田刑事から、八木さんが来たら動物園に来て欲しいと言ってくれとのことでした」
 「そうですか、でもよく鑑識課に顔をだすということがわかりましたね」
 「いえ、みんなに言っていました、もし来たらということで、来なければそのままでいいと言っていました」
 「電話をくれればいいのに、ところで今ここから少年が出てきてすれ違ったのですが誰ですか」
 「いえ、誰も出て行きませんでしたよ」
 「そうですか、ありがとうございました」
 そう言って警察署を出た。あの少年は誰なのだろう。誰も気づいていないようだ。
 それにしても土曜日なのにまたアパートには帰ることが出来ないかもしれない、そんな予感がした。
 下山動物園の脇にパトカーが止まっていた。守衛に名前を言うと堀田が迎えに出てきてくれた。
 「すみません、濱田刑事がお待ちです、私のほうから新聞社に電話をしようと言ったのですが、あいつは必ず来るとおっしゃったので、何もしなかったのですが、よくわかったですね」
 「いえ、下山署に顔をだしたら濱田刑事からの伝言があったのです」
 事務所に濱田がいた。
 「おーきたな、メイメイちゃん、どうだい今日徹夜しないかい」
 なんだか判らないが、付き合うほかないだろう。
 「いいよ、オラウータンでも虎でも一緒に寝るよ」
 「いい心構えだ、実は今夜何かありそうなんだ」
 話だと、昨夜、警備員がおかしなことに気がついたということだ。オラウータンの宿舎の脇で青色の光が見えたそうである。その晩は警備員を始め、オラウータンの飼育係りも総出で徹夜で見張っていたそうである。尾木はオラウータンの宿舎の中にいたそうだが、確かに青い光がちらちらと、檻の天井に見えたそうである。しかし見張っていると、いつの間にか消えていたということだった。
 「それは、何時ごろですか」
 「一時ごろだと思います」尾木が答えた。
 「青い光って、懐中電灯の明かりとは違うものでしたか」
 「ええ、本当に青色でした」
 「懐中電灯に目立たないように色をつけて工夫した可能性はあるな」
 濱田刑事が口をはさんだ。
 「外に面した窓はないのでしょう」
 「ありません」
 「と言うことは、外で警備員さんが見た青い光が部屋の中に入ったのではないのですね」
 「そうですね」
 「ということは、何者かがすでに中に入っていたかもしれないのですね」
 「うーん」濱田も考え込んでしまった。
 「尾木さん、それからずーっと起きているのですか」
 「いえ、課長に言われて、昼間は家に帰って寝ました。しかしさっき出てくると、また黒いリボンのついた花束が置いてありました」
 「それで、あんたに来るように伝言を頼んだんだ」
 「電話をくれればいいのに」
 「新聞社に俺から電話を入れるのはまずいと思ったからさ」
 確かにそうかもしれない。刑事がブンヤを呼び出すのは個人的なことに限られる。
 「守衛室の二階に宿泊施設もありますので使ってください」
 堀田が気を使って言った。
 「ありがとうございます、だけどそれじゃ意味がないので、我々は檻の前で見張っていますよ、なあメイメイちゃん」
 全くここでメイメイちゃんと言わなくてもいいだろう。もちろん頷いた。
 家に帰れないどころか、動物園に徹夜で張り込みということになった。濱田が「どうだ、外でメシを食って、七時か八時頃もどろうじゃないか」と誘ってくれたので、濱田と動物園の外に出た。
 彼はどこに行っても横丁に入り、仕事の前だろうがなんだろうが臓物の煮込みで一杯飲む。私もよく付き合ったものである。それで彼の性格も知ったし、彼の正確な判断力も判って来た。だから誘われたら行くしかない。
 「今度の事件、不思議だが、きっと絡み合った糸は解けると思う、だが簡単にはいかないな、トリックは全くない、だから俺には想像できないことが起きている」
 彼はモツの煮込みを口に入れ、ビールを流し込みながら私を見た。
 「なんでしょう」
 「なあ、ブンヤさん、あんた警察署に来て、黒い半ズボンの少年を見たと何回言った。俺に二回、今日鑑識に一回、三回も言っている。それはなんだ」
 彼は私の言ったことを気にしていない様で、頭の隅で覚えていたのだ。
 「え、さっき鑑識の人に言ったのも伝わっているんだ」
 「連絡があった、あんたは一体何が見えるんだ」
 「いや、何もみえないよ」
 「今回の出来事は、あの娘の自殺とつながっている、そう思っているだろう」
 私は頷いた。
 「もう、そこから現実では解決できないことが根本にあると思うよ」
 彼はその話はそこで打ち切った。
 我々は少し酒の入った状態で、動物園に戻った。九時になっている。
 我々はその後、残りのオスのオランウータンと、子供を持った雌のオラウータンを見張ることにした。
 「ちょっと回りを見てから、中に入ろう、もし何か起きるにしても、十二時前後だろう、いつもそのくらいに起きている」
 二人して園内のオラウータンの遊び場と宿舎を中心にぶらぶら歩いてみた。何人かの警察官も派遣されているようで、途中で二人ずれとすれ違った。警官に化けて入る可能性もあるので、濱田はいちいち警察官の顔を懐中電灯で照らして確認をしていた。警察官の方でびっくりしている。
 一時間ほど外にいてから管理室に戻り、堀田と一緒にオラウータンの建物に入った。寝所の前でオラウータン担当者の一人が椅子に腰掛けている。十一時に尾木と交代するということである。宿舎内の廊下の明かりは極弱いものになっている。動物たちへの配慮である。
 我々は二人で宿舎内を巡回することにした。屋内運動場を見て回ったり、それぞれの部屋の鍵の状態などをチェックする。寝室の前は食事を準備する部屋や倉庫がある。その中も見るのだが、ひと回りするのにあまり時間がかからない。結局寝るための部屋の前に戻ってきてしまい。椅子に腰掛けているしかなくなってしまう。
 尾木が、やってきて私たちに挨拶した。十一時になったのだろう。椅子に腰掛けていた担当者が尾木に「オラウータンたちは何事もなく寝ています」と報告している。
 尾木が椅子に腰掛けたので、「青い光というのはどこに見えたのですかね」と聞いてみた。尾木は広い宿舎の上のほうを差して空調の風の出る穴を示した。
 「外からの光があそこに映ることはありませんよね」
 「ええ、奇妙なことなのですが準備室には外の明かりがはいりますから、それが、廊下の何かに跳ね返って寝室に映ったのかもしれません」
 「なるほど、そういう可能性もあるのですね」
 みんなちょっと緊張気味である。
 ガラス張りの窓から中を覗くと、モリオは葉っぱを引きつめてその上に寝ている。ミドリと子どもは準備室の隣の少し大きな寝室で寄り添って寝ている。これだけ厳重に監視されていれば誰も入ることはできない。
 「いつも、こんなに静なのですか」
 周りは雪が降っているときのように物音がしない。空調機の音すら聞こえてこない。
 「確かに言われてみればそうですね、いつもここにこのように腰掛けて見張るということはしたことがなくて、廊下から様子をちょっと見るだけでしたので、音のことを気にしたことがないのですが」
 「巡回の時は部屋の中には入らないのですか」
 「普通は入りません、ここから懐中電灯で確認します。何かありそうなときには入りますが、よほどのことがない限りそうしません」
 それはそうであろう。寝ているのを邪魔をしてはストレスになる。
 「どうだろう、我々はもう一度外を見ないか、中はもうこれ以上の警備は出来ないだろう、尾木さんがいるし」と濱田が私を外に出るように促した。
 「じゃあ、尾木さん、ちょっと外を見てきます」
 そう言って、廊下を歩いていくと、堀田が仮眠室から戻ってくるのに出くわした。
 「我々、もう一度外の見回りに行きます、尾木さんが一人でいますのでよろしく」
 「はい、後で見にいきます」と彼は頷いて管理室の中に入っていった。
 坂を下りると屋外運動場になる。二人の警察官がオラウータンの野外運動場の前で立っている。
 「何も異常ありません」
  濱田刑事を認めると、敬礼の姿勢をして「我々は、回りをみまわってきます」とその場を離れた。
 野外運動場の柵の前に立った。別段なにも見られない。そう思ってふっと、脇の大きな木を見ると、青白い玉のような光が枝の中をうろうろとしている。
 「濱田さん、ほら、あれ、青い玉がいる」
 彼もそれを見て驚いたようにいった。
 「昔の人がよく言った人魂のようだ」
 青い玉は宙に浮かぶとすーっと、オラウータンの屋外運動場の上に降りた。青白い玉の後ろに影のような形が浮かび上がった。影は形を変え、細長くなると、次第に人の形になった。頭ができ手足ができ、そろりそろりと、はいずくばって、オラウータンの屋外運動場を登っていく。次第に形がはっきりしてくると少年になった。少年の首がこちらを向いた。少年の口が青白く光っている。青い玉は少年の口から出ていた。
 「あれはなんだ」濱田が叫んだ。
 「あ、あの少年だ」と私が叫ぶと
 「おい、中に入るぞ」
 濱田が私を引っ張るように、今降りてきた坂を駆け上った。
 「あの雄のオラウータンだ、あぶない」
 廊下を走っていくと、尾木が真っ青になって震えていた。
 「男の子が」
 見ると、よく寝ている雄のオラウータンの寝室に少年が立っている。
 「あれは、人間じゃない」
 私が叫ぶと少年が我々のほうを向いて、にっと笑った、口から蒼白い玉がのぞいている。手には短刀が握られている。
 あっという間もなく振り下ろされ、オラウータンの胸に刺さっていた。
 「早く、部屋の中に、それに救急道具も」
 私の声でわれに返った尾木はモリオの部屋に飛び込んだ。
 見るとオラウータンの脇に少年はもういなかった。
 尾木を追いかけてモリオの寝室に行くとオラウータンはまだ生きていた。
 「心臓は外れているようです」
 尾木は短刀を引き抜くと、血が流れ出す傷跡に強くガーゼを当て止血を施した。やがて待機していた獣医師たちが園内の動物病院から駆けつけ、オラウータンを担架で病院に運び入れた。これから手術なのだろう。血がだいぶ出ているので助かるかどうかは判らない。
 後は獣医師に任すほかはない。
 「みどり親子を守らなければ」
 と私が言うと、濱田は「今日はもう大丈夫だ、十二時を過ぎている、今までの犯行はすべて十二時前までだ、明日に備えなければ、これではいくら鍵を確かめてもだめだ」
 と言って、管理室にみんなを集めた。
 みな放心状態である。特に尾木は見る影もないくらい焦燥しきっている。
 「何が起きたのです」
 堀田はあの少年を見ていない。
 「また、殺られちまった、今後のことを考えなければ」
 と濱田が切り出した。
 「犯人を見なかったのですか」
 堀田は奇妙な顔をした。
 「逃げられた」
 濱田は言った。彼は少年のことを言わない。何か心づもりがあるのだろう。尾木はむっつりと黙ったままである。私も余計なことは言わないことにした。
 「おそらく、また、残った親子を狙うだろうし、もしモリオが助かってもまた狙われる危険性がある」
 「これだけ守備をしてもだめだとすると、どうしたらいいのでしょう」
 堀田は頭を抱えている。
 「動機がわからない、何の目的だ」
 同じ解けない鍵があの自殺した娘にもある、そう思ったときふっと、聞かなくては思って「あの、オラウータンの野外運動場の柵のところにある、危険という看板はいつ建てたのです」と訪ねた。
 堀田氏は何でいきなりという顔をした。
 「二月前ほど作りました、女性が落ちたので」
 「どうして、落ちたのですか」
 「きっとあの子どものオラウータンが可愛かったからでしょう、身を乗り出して、ふらっとして落ちたようです、閉園時間間じかで誰もいなくて、尾木君がオラウータンを室内に入れようと思って運動場に出たときに気が付いたのです」
 「その女性は大丈夫だったのですか」
 「ええ、ちょっとした脳震盪でした。もっと打ち所が悪いとひどい状態になっていたかもしれません、結構高さがありますので、それで看板を立てました」
 「尾木さんが、発見されたのですか」
 彼は頷いて、「すぐ、救急車を呼びました」
 「動物園として、謝罪をしたのですが、その女性は自分が悪かったのだから、ととても柔らかい方で助かりました」
 「なんという方ですか」
 「春川しのぶさんといいました」
 それを聞いて、私も濱田もあまりにも驚いた。あの自殺した女性である。もちろん、動物園の人は知らない。濱田がどう言うかと見ていると、はっきり言った。
 「驚きました。その方は十日ほど前、最初のオラウータンが殺された夜に自殺しました。お腹に子供がいました」
 「え、それと、オラウータンの件と関係あるのでしょうか」
 堀田氏の質問に濱田はこう答えた。
 「彼女はもう死んでしまっていますし、彼女がなにかしようとしても出来ないでしょう」
 「偶然なのでしょうか」
 「実は、この事件と彼女の自殺に共通点があります、調べても、どちらも動機がわからないことです、奇妙なのは、彼女が自殺に使った短刀とオラウータンが殺された短刀はまったく同じ型のものです」
 「その女性の相手の方は分かっているのですか」
 堀田は女性の関係者を疑っているようだ。
 「その相手もわからないのです」
 濱田はそう言って、さらに「今日はもうこれで帰りましょう、夕方またきます、報道は控えます」そう言って立ち上がった。堀田も頷いた。
 濱田は黙ったままの尾木のところに行くと、小声で「少年のことは我々三人だけのことにしておきましょう」と言った。尾木は濱田と私を見て、ふかぶかとお辞儀をした。大事にしていたオラウータンが二匹も殺され、一匹は深い傷を負っているのである。大変な気落ちだろう。

 外に出た。夜中の三時だからまだ暗い。動物園を出ると濱田がパトカーで署まで来るかと、誘ったが家に帰って寝ると答えて、タクシーでアパートに戻った。きっと、また夕方には動物園に来ることになるだろう。風呂を沸かして久しぶりにゆっくりつかった。
 
 十時ごろ気持ちよく目覚めて、朝食をとった。天気がいい。今日はどうするかと思案をしているところに、電話がなった。濱田からだった。
 「尾木が死んだよ、自殺だ、署に来ないか」
 なぜ尾木が死んだのか。もしかするとすべてが解決したのではないか。そんな予感がして下山署に出向いた。
濱田を訪ねると、自分のデスクの脇に椅子をもってきた。そこに腰掛けろということだ。濱田は「終わったようだな」と言った。
 「尾木は首をつった。遺書があったよ、すべて私の責任です、とあった」
 「オラウータンのことだけなのかな」
 「堀田課長は、尾木はまじめな男だったから、自分の子どものようなオラウータンを殺害されて、自責の念に駆られたのだろう、と言っていた」
 「でも、犯人はわからないし、動機もわからない」
 「なあ、メイメイちゃん、あんた、きっとわかっているのじゃないか、ちょっとこっちに来てくれよ」
 彼は立ち上がって鑑識課の部屋に私を連れて行った。春川しのぶの自殺の証拠品の入った籠の前で胎児の瓶を指差した。
 胎児が浮かんでいるがどこか違う。首が離れていない。くっついている。
 「な、あんたなら、わかるだろう、もうオランウータン殺しは起きないのじゃないか、どうだオラウータン殺しがどうして起きたのか、どうして春川しのぶは死んだのか、教えてくれよ」
 私の頭の中で、つじつまのあった話が出来上がりつつあった。
 「春川しのぶが自殺したことは確定させる、精神的不安定でナイフで自害程度の発表だ、オラウータン殺しは殺虫剤中毒死で、その責任を取って尾木が自殺だ」
 「そういえば、昨日刺された雄のオラウータンはどうしました」
 「よかったよ、命は助かった。あれだけ血が出たのによく助かった、出来のいい獣医さんだったんだろう、尾木はそれを知ってから自殺した」
 「そうですかデスクのほうにはそれなりに報告しておきます、あまり記事にならないようにします」
 「そうしてくれると嬉しいね、他社にも特に質問がない限りはこちらからは発表しない、オラウータンの中毒死は園の責任になるが、殺害事件よりもいいと、堀田も了解済みだ」
 「そんなことできるのですね」
 「そういうもんだ、どうだ、今日、一杯、そこで、メイメイちゃんの名探偵振りを聞かかせてくれよ、動機なんかをね、本当のことは判らないけど、お前さんのいうことなら正しいだろう」
 
 夕方、下山駅の周りにある、ごみごみした飲み屋街の一つの店で彼と飲んだ。
 「どうして、春川しのぶは腹を切って、胎児の頭を切って死んだんだ」
 「オラウータンの野外運動場の谷のところに落ちたとき何かあったんだろう」
 「そのとき、やられたのか」
 「そうだと思う、それでオラウータンが襲ったと思い込んだ」
 「そうか、妊娠を知って、オラウータンの子供ができたと思ったのか」
 「春川しのぶはレオポンを見たがっていた」
 「ライオンと豹のあいのこか」
 「簡単にはいかないが、猫科同士なので、子供が生まれることがある、それを知っていたのじゃないだろうか」
 「でもオラウータンとじゃできないだろう」
 「出来ないと思いますよ、だけど、オラウータンの説明書きにはヒト科とある、それを覚えていて、ヒト科同士で子供ができると思い込んで、自殺したんだろう」
 「だが、検死官は胎児のことをそんな風に言っていなかったぞ」
 「と言うことは、人間の男が襲ったことになる」
 「あ、オラウータンの担当者、尾木か」
 「そうだと思う、あの胎児は尾木の子供だろう、尾木もそれを知ったんだと思う」
 「つじつまが合うな、お前さんの説明は、だがオラウータン殺しは説明できないだろうな」
 「濱田さんが言ったように、説明できないことも重なって起きた」
 彼は頷いた。
 「あの胎児は男の子だった、オラウータンを殺したのは、尾木に対する復讐だ、違う世界の者がやった復讐と言うことだよ、尾木の子供のようなオランウータンを殺したのさ、だから、オラウータンが憎いのではない、それで花束だ」
 「それじゃ、あの娘はあの世に行ってから真実を知ることになったわけだ」
 私は頷いた。
 「あの娘の思いが少年を生んだのか」
 「そう、尾木は自分の子供に殺されたんだ、あの娘は死んであの少年を生み出したのだ」
 濱田はビールの追加を注文した。
 「今の世でそんなことが起こるのか」
 「今の世ってどうして存在しているんだ」
 「そうだな、まあビールが上手いということは存在していてもいいか」
 彼はそう今度の事件を締めくくって、次の話題に変えた。
 私に彼の妹はどうだという話になり、とうとう一緒になり、連れ添って、今年で四十年になる。濱田は退職後信州に引っ込み畑作りに精を出している。私が書く本のいい読者である。
 

赤猩猩綺譚

赤猩猩綺譚

動物園のオラウータンが刺された。一匹だけではない。

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  • 短編
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