テンシかアクマ QA

松見坂 作

  1. QA 前編
  2. QA 後編

にわです。

QA 前編

 強欲 ――非常に欲が深いこと。
 慈善 ――他人に対して情けや哀れみをかけること。


「彼女が目覚めるのは三日後らしい」
 病院の待合室は息が詰まるほど静かだった。非常灯の光と微かな薬品の匂いが充満している。そんななか、くすんだエメラルド色の椅子に一人、シスターが腰掛けている。やや深みのあるクッションの上で、彼女はうとうと船をこいでいた。
 受付の向こうでは書類と受話器が眠っていて、壁にかかったアナログ時計は午前三時半を差している。普段日の入りと共に寝ている彼女には、瞼を開いているのが大変厳しい。
「ねえ、聞いてる?」
 王子が手をひらひら振る。彼は、秋野が運ばれた病室の偵察から戻ってきたばかりだった。慌てて駆けつけた秋野の父に、医者が話しているのを、盗み聞きしてきたのだ。
「はい……起きてます」
「彼女が目覚めるのは三日後だ」
「……」
 彼女が半目となる。口づけを待つ少女のような顔だった。
「寝るな、おーい!」
「寝てません」
「じゃあ、俺がいま言ったことを復唱してみろ」
「つまり半額ってことですよね」
「は?」
「ごめんなさい寝てました」
 シスターが正直に頭を垂れた。両手で頬を打つ。ぺちん、と可愛げのある音が病院の廊下に響いた。
「夜は不慣れで……」
「ま、あんなことがありゃ疲れるか」」
 周囲が無人なのをいいことに、シスターは王子と普通に会話していた。
「あれ、ホントに驚きましたよ。気がついた瞬間は鳥肌立ちました……」
 このとき、既に二人は、秋野が跳ねられたことに関するとある問題を解決していた。そしてバランスを取る算段も立て終わっていた。いじめ騒動から息つく間もないタイミングだったため、シスターはもう疲労困憊である。
 王子は疲れ知らず、といった風に飛び回っていた。自身の冤罪がかかっているため、睡魔に負けてはいられないのだろう。
「ポイントは?」
「もちろん事故直後と変わらず、マイナス7だった。世話の焼けるお嬢さんだよ、まったく」
「7ならやはり、『感謝』されるのが一番手っ取り早いですよね」
「あぁ。さっき突き止めたあいつ(・・・)を警察に連れてった、と言えば確実に感謝されるだろう。それで今日のバランスはクリアだ」
 しかし、と王子がしかめっ面をする。
「秋野が目覚めるのは三日後……。どう考えたって間に合わない。マイナス7のままアセサーが来ちゃっておしまいだ」
 初日で分かったことだが、罪と徳は心の動きや言動によって積まれていく。そのため当然ながら、本人がそもそも眠ってしまっていたならお手上げだ。
 現状は詰みだと言えよう。
 二日目にしてかよ! と王子は天井を仰ぐ。こんなんで49日間もやっていけるのか。
「どう、しますか……?」
 シスターが恐々と訊く。その目元は陰っており、ここがソファでなくベッドならどんなに幸せだろうか、といういたたまれない願いが垣間見える。
 王子が苦虫を噛み潰した。そんな風に思いっきり眉をひそめ、唇をひん曲げた。
「しょーがない」倒産を受け入れる工場長みたいな素振りである。「彼女に頼もう」
「頼んだところで、受けてくれますか」
「ぜってー無理だね」
 ため息と共に彼は思い出す。彼女との初対面を――。

「まず勘違いをしないでね。僕は君の味方じゃない」
 なによりその眼が辛かった。育児放棄を直接言い渡された子供の気分である。
「僕の立場はあくまで無頓着。君の破滅とか冤罪なぞ、ハッキリ言って深夜の五分アニメほどもキョーミはない」
 彼女は絶世の美人であるため、好きだった。しかし永遠にその心へ信頼の手が届くことはないのだろう。いや、むしろ届かないほうが幸福なのかもしれない。なんて思うほど本能的な畏怖の対象であった。
「証人は見つけてあげよう。しかし、それまでね。あとは甘えてくるな」
 どうせお前なんて、と突き放されるような目線と口調。それが暗い記憶を刺激した。
 堕在を言い渡された裁判での、こちらの言い分をまったく聞いてくれない裁判官や傍聴席の天使ら。あのときの、分かってんだぞ、とでも言いたげな目つき。レッテルを張って得意気になるあの顔。それがズラリと並んだ景色。深い井戸に突き落とされたような、恋人に裏切られたような、孤独な絶望感。
 王子の脳にこびりついて離れない。その記憶は痣のごとく根を張り、押されると、自分を分かってやれるのはやはり自分だけだと自らを律することができた。
 彼女――つまり一号さんを頼るのは、そんなわけで気が引けた。

「でも、そうするしかない。秋野が今日中に目覚めて、そして君へ『感謝』させなきゃ、おしまいだからね」
 シスターはあまりに曇天な彼の顔を見て、気の毒になる。でも代わりに一号さんの元へ頼みに行くなんてのは嫌である。
「シスター、君は病院で待機してて。万が一、秋野が起きたときのためにね。少し寝させてもらったほうがいいかもしれない」
「えぇ、そうします」
 やった、と彼女は少し喜んだ。シーツの柔らかさが恋しい。
「……………………じゃ、行ってくるわ」
 叱られに行く子供のように、背中を丸め、王子はフラフラと外へ消えていった。


〈憤怒-8〉
「あいつを……! お願い、あいつにバランスを……! 畜生!」
 秋野波はそう言い残すと、スッと上半身の力を抜いた。慌ててシスターがその身を抱える。白くて細い腕のなかで、秋野が白目を剥く。気絶したのだ。
 秋野波は車に跳ねられた。それは誰の目にも一目瞭然である。
 頭を強く打って意識を失った彼女。すぐ横にはガードレールが変形するほど突っ込んでいる車の姿。対向車線には、暗くてよく見えないが飛び散った液体の痕まである。血だろうか。
 ニャァ、と猫の鳴き声。
 仰向けになった秋野の身体がもぞもぞと動いて、アスファルトとの隙間から灰色の毛玉が這い出てきた。毛玉は秋野の左手をちろちろ舐めてから、アーウと心配そうな声を上げる。そして、ぴょんと飛んで路地裏へ消えていった。
「猫を……」
 猫を、助けたのか。そのせいで轢かれたのか。
 秋野を抱えた手に力がこもる。
「おい、とにかく歩道まで運ぶぞ」カフスコープを解除し、王子が云う。
 深夜だが車の通りがそこそこあった。シスターは声を絞り出して通行人を呼び止める。人通りは少なかったが、大学生くらいのマッシュでツーブロックな茶髪男が偶然後ろにいた。シスターには(完全に偏見だが)苦手なタイプであったものの、背に腹は代えられない。彼と、向かいにあるコンビニから出てきた初老の店長の助けを借りて、なんとか秋野を歩道まで運んだ。
 コンビニから持ってきてもらったペットボトルとタオルを枕にして、その後はできるだけ触れないでいた。ここに医療の知識が少しでもある者がおらず、そうするのが妥当だろうと意見が一致したからであった。
 通報は茶髪が済ませてくれた。「でも三十分くらいはかかるんじゃないっすかね」なんて根拠もないことを云っていた。沈黙に耐えきれなかったのだろう。彼はガードレールの曲がってない部分に腰かけてスマホをいじりだした。警察が来るまで秋野を見張ってくれるつもりのようだ。
 店長は、その様子をみてコンビニに戻った。「すまんが、店番をしてなきゃいけないのでね。イートインにはまだ客もいるし……。なにか入り用なら呼んでくれ。店にあるものは渡せる」
 ありがとうございます、とシスターが頭を下げる。その目尻は少し湿っていた。チャラそうな茶髪男も、小太りで頬の脂肪が垂れ下がった店長も、風貌のみでいえば彼女の苦手とするところである。しかし彼らは、自身の都合もあるだろうに、こうして非常事態に対処してくれている。世の中捨てたもんじゃない、と上から目線で胸が熱くなる。
「まったく、勘弁してくれ」
 王子が宙で頭を抱えた。
「活発な人間だな。こっちの都合も考えてほしい」
「……そういう言い方はないと思います」
「え?」茶髪男が顔を上げた。「なんすか」
 いえ、とシスターが顔を赤くして首を振った。うっかりしていた。
 つつがなく会話を続けるために、スマホを取り出してかけているふりをする。
「ほらみろ」王子が両指で額をつくり、カフスコープによってポイントを確認する。「マイナス7だ。もうマイナス7! 一時間くらい前にバランスをとったばかりなのに!」
「マイナス……ですか?」シスターは腑に落ちない。その身を呈して猫を助けた少女が、罪側にマイナス7も偏っているだなんて。明らかにおかしい。彼女は義憤に駆られて下唇を噛んだ。黒いマスクの下なので誰も気がつかなかった。
 この短時間で一体なにがあったのだろう。
 いじめがファミレスにて完結した一件より、さほど時間は経っていなかった。それまでシスターはパフェに舌鼓を打ち、王子はふわふわと人間観察に勤しんでいた。
 事故が起こった道路は、ファミレスから秋野宅へと往く途中にあった。駅より少し離れた、二車線道路の貫く閑静な住宅街といった感じである。そのため、時刻が深夜ということもあり、このような事故が起きても騒ぎはなかった。一、二軒ほどが窓を開いてチラチラ気にしているだけである。
「このまま目を覚まさなかったらまずいな……」王子が、歩道の脇で静かになっている秋野を覗き込んでいる。
 彼女自身の心配はしないのか、とシスターはその態度を不満に思った。
「さて、どうするよシスター」
「あいつを探します」その腹はとうに決まっていた。
「あいつって……秋野の遺言のことか?」遺言なんて表現は不吉であったが、王子は伝わりやすさを優先した。そもそも彼は、不謹慎だなんだと騒ぐやつが嫌いである。自分に害はないくせに、と冷めた目で見るのが常だ。
「遺言なんて不謹慎です。あの子は死んでませんっ」
 王子はシスターを無視した。
「マイナス7なら、『感謝』の徳を積ませてスパッと0にするのが一番だな。そう考えても、確かに遺言に従うのがいいだろう」
「あいつ、とやらを見つけて、バランスをとらせる……。でも、あいつって誰でしょう」
「そもそも秋野の云うバランスとやらは罰のことだろう。いじめの件もそうだった。なら、この場において『罰』を与えられるべき人間は?」
 そりゃあ、とシスターが答える。
「運転手ですかね」
 つい、と王子が浮遊して、未だガードレールに突っ込んだままの車へ侵入していく。ガラスに頭を突っ込んで内部を検めた。シスターは、思わず目をそらす。すり抜けるとは言えど、よくもまぁ、躊躇いもなくできるな。
 それは四人乗りの普通乗用車で、ガードレールに比べて被害が少なかった。バンパーが巨人に蹴られたように潰れていたが、その歪みは運転席まで届いていない。運転手は、軽症または無傷で済んだことだろう。
「あ」王子が声を上げる。
 シスターは、また良からぬことが起こったのではないか、と唾を飲んだ。
「そういや運転手がいない」


 日の出前の大通りを、真っ白な幽霊がフラフラと進んでいた。彼の目線の先には高層マンション。一号の居城である。のっぺりと夜闇にそびえ立ち、吸い込まれそうなほど遥かに高い。巨大な神が降り立ち、背を反っているようにも見えた。屋内より光は漏れておらず、上空で赤い光が点滅しているのが微かに分かる。
 気が重い。断られたら次の手はどうしよう。
 王子は何度めか分からないため息をつきながら、胸にうずくわだかまりを吐き出しては、飛んでいく。
 一号のいるであろう最上階には、このまま斜めに直進していけばすぐだった。しかしそうしないのは、審判が下されるのをできるだけ先伸ばしにしたいからであった。一日が終わるまでアト二十時間近くもあるため、急いでもいない。
 目の前に人影が躍り出てくる。王子は取り立て避けることもせずに、すり抜けた。
 すると、その人影――スーツ姿で顔の赤い、飲み会帰りだと思われる男性は、さらに前に出てきた。通せんぼするように。
 王子は、軽く驚きながらも、偶然だろうと気にせず進む。
 また彼は前に出てきた。人間が、三度同じことが続くと関連性を見出し始めるように、王子も明確に警戒心を持った。もしかして、この人間は、俺が視えている?
「おい、人間。邪魔だ」
 当たり前の科白を吐いてみる。
 男はじっと黙ったまま、地面に打たれた杭のように立っていた。目の焦点も、どうやら王子に合ってなく、ずっと後方の電柱を眺めているようだ。
 杞憂か、と通りすぎようとする。突如、彼が右手をこちらに突き出してきた。スマホが握られ、画面がこちらを向いている。
 間違いない、こいつは俺を認識してやがる。ゾッとして身を構える。それはありえないことだ。人間には、天使の姿はおろか声も気配も――。
 ――いや、もしかして、これは人間の仕業じゃない? 男の焦点は合っていなく、俺を見ていない。ここにいると認識しての行動でないとしたら、誰かに操られている、とか。
 突きつけられたスマホを見ると、『一号ちゃん』と表示された通話画面であった。
 なるほど、と王子は納得し、落とし穴に落ちたような気分に陥った。
「あー、ちょっと待ってて。僕もちょうど出かけたい気分でさ。お散歩しようよ」
 気楽で、ややアルトな、透明な声が聞こえる。彼女だ。
「いいですね!」王子が努めて明るい声で応える。一号の前ではオーバーだろうと明朗に振る舞うのが癖になっていた。己の怯えを悟られないためである。
 嫌だぁ~~~~~。行きたくねぇ~~~~~。
 という叫びをグッと抑えていた。
「じゃ、そっち今行くから待ってて」
 ぷつん、と通話が切れる。同時に、スマホを掲げていた男が我を取り戻し、しばらく四顧した後、腑に落ちないような顔をして去っていった。
 こっちに来る? と王子は上空を見上げた。マンションの最上階。それが彼女の居場所のはず。
 すると、キラ、と光るものが一瞬だけ見えた。空で星がハジけたように、粉のような光が上空で踊っている。
 まさか、と王子が身構える間もなく、そのなかから一際大きな黒い影が迫ってくる。加速度的に落下してきた。地面との距離が縮まると、吹き流しのごとくたなびく長髪がマンションの窓ガラスに映り込んでいるのが分かった。
 ッパーァン! と風船を針で突いた音が響く。しかし実際に弾けたのは頭部であった。
 赤いカラーボールを思い切り投げつけたように、マンション前の歩道に血が散乱した。その中央には首なし死体となった一号が横たわっている。
 少しして、その死体より黄金色のジェルが湧き出した。意思を持ったスライムのごとくそれは一号の身体を包み込み、しばらく半透明のなかで咀嚼すると、プッと吐き出した。そして役目を終えた氷のように蒸発して、消えた。
 吐き出された一号は普段と変わらない様子でケロッとしており、弾けたはずの頭部はおろか、身体にも黄色を基調としたゆったりめの私服が纏われ、たった今玄関をくぐってきた風である。黒い長髪も一房に結かれて揺れている。つまり、死ぬ直前の状態に戻っていた。
「おまたせー、行こうぜ」
 一号が王子に手を振る。デートに少しだけ遅刻してきた休日の恋人と変わらず、自身の血をバシャバシャ踏んで、駆け寄ってくる。「へいへい」
 ようやく王子は思い出す。一号さんは不老不死だったな。


「逃げた、といっても、まだ時間はそこまで経ってない。行ける場所は限られてるだろう。ざっと空から見渡してみたけど、それらしい人影も見当たらないし」
「まぁ、こんな夜遅くなんで」
「そもそも視えない、か。まー確かにそうか。動いてるのも、車くらいしか確認できなかった」
 パチン、と王子が指を鳴らす。
「手分けしよう。こういうときのための協力関係だ。俺は周囲をぐるりと回ってそれらしい人間がいないか見てくる。君は、現場から離れていない可能性にかけて、周囲の路地裏やコンビニなんかを探してくれ」
「分かりました」
「家の庭とかトイレとか、そーゆーとこにいたら、じゃんじゃん不法侵入してよ」
「するわけないでしょう」
「俺が許すから!」
「私が許さないんです!」
 そゆことで、と王子は飛んでいった。
 ふぅ、と息をついてスマホから耳を離す。横を見ると、茶髪男が訝しげな目線をちらちらと送っていた。
「えっと……すいません」恐る恐る話しかける。「あの、この場を任せてもいいですか」
「あ、はい」彼が何でもない風にうなずく。耳に打たれたピアスが白く光る。「全然いっすよ。明日一限ないし」
 すいませんお願いします、とシスターは小声で云って、コンビニを振り返った。
 さて困ったぞ。
 今すぐ調べに行きたいが、コンビニが車道を挟んだ向こう側にある。距離的には目と鼻の先で、五、六歩往けば着くだろう。しかし、横断歩道のない場所を渡るわけにいかない。つまりあちらへ向かえない。
 うーん、少し面倒だけど、遠回りして横断歩道を探すか。歩道橋はさすがにないかな。仕方ない。そう考えてくるりと横を向くと、眼前に王子の顔があった。
「うひゃあ!」
 素っ頓狂な声に、茶髪男がいよいよ首をひねりだす。
「そんなこったろーと思ったよ」王子がじとっとシスターを睨む。「そうこうしてる間に逃げちまうかもしれないだろ。ほら!」
 シスターの右手をがしっと掴む。「触らないでっ」そのまま引っ張って、半ば無理矢理に道路を渡らせる。なんとも荒治療であった。
「ひ、ひ、ひ、」力では敵わないシスターが、ずるずるとコンビニに最短距離で近づいていく。「人殺しぃ」罪悪感に震え、唇が紫色に染まっていく。茶髪男からは、車の気配もないのにきちんと手を上げて横断する律儀な人に見えた。足がムーンウォークのように滑っていたのが妙に違和感だったが……。
「アホめ」車道を横切り、コンビニ前の歩道に到着する。彼はようやく右手を開放した。「じゃ、上手くやってね」そう云い残し、今度こそ本当に飛んでいった。
 ぜーっ、ぜーっ、とシスターが息を整える。全身に鳥肌が立っていた。嗚呼、なんてこと! 悪魔に手を引かれ、罪を犯してしまった。あの男は死後地獄に堕ちる間違いない私がそうする。
 この罪悪感をどうしてやろう。そうだ、早急に善いことをして埋め合わせよう。秋野流に云えば「バランスをとる」ってやつだ。運転手を見つけて警察に突き出すのだ。
 駐車場を突っ切ってコンビニを目指す。そこそこ広く、左右に三台ずつ停められるスペースがあった。現在は0台である。正面を見ると、入り口の自動ドアと、その横にズラッと窓越しのカウンター席が見えた。イートインコーナーがあるようで、退屈そうに座って読書したりスマホを弄ったりする人影がこちらからよく見えた。店内の蛍光灯が溢れ、白線や車止めが照らされている。
 自動ドアをくぐり、それらしい人間がいないか見回してみる。店内には、そもそも人がほぼいなかった。レジのなかで先程の店長が作業しているだけである。なにやら物を探していた。
「あぁ、君、大丈夫かい」シスターに気がついて、彼が話しかけてくる。
「えぇ、まぁ」曖昧に返事をしてしまう。「まだ救急車待ちってとこです」
「そうかい。夜も遅いから気をつけてな」そして、彼はまた捜索作業に戻った。
 イートインコーナーを探すか。と身体の向きを変えようとして、止まる。待て、私。この場でまだやることがあるんじゃないか。
「あ、あの」
 店長に再度話しかける。しかし反応はなかった。声が小さかったのだろうか。
 もっと近寄ろう。そう考えて、シスターは商品を持たずにレジの前に立った。カウンターを挟んだ正面には、タバコの銘柄たちがマンションのように羅列している。すぐ横には業務用フライヤーが置かれ、冷えた油が溜まっていた。レジの奥は見れば見るほどごちゃごちゃで、一番くじのゴミや、片方が空になったカラーボール置きなどがある。カードゲームの拡張パックなんかも並んでいた。
「あの!」
「あぁ、はい。なんですか」しゃがみ込んでモノをひっくり返していた彼が、振り返る。夏でもないのに、頬には大粒の汗が浮かんでいた。
「あの車の、運転手を探してるんですけど、見ませんでしたか?」
「運転手……。あぁ、確かにいないねぇ」店長がうんうんとうなずく。「すまない、夜勤中は裏の事務所にいることが多くてね。事故の瞬間も見ちゃいないんだ」
「そうですか」せっかく勇気を出したのに、収穫はなかった。とシスターが肩を下げる。
「あぁ、でも、気にしすぎかもしれないが」店長が声を潜めて、指を店の奥へ向ける。「事故があってから、トイレがずっと使用中なんだ。もしかすると、もしかするかもしれん」
 なるほど、とシスターがそちらを気にする。逃げ込んでいるという可能性は多いにある。
 ぺこり、と店長に頭を下げてから、彼女はトイレのドアの前に立った。
 ……ここを調べるのは最後にしよう。関係なかったら迷惑だろうし。シスターは怖気づいて、そう自分に言い訳した。


 見上げた都会の空に星はなく、王子は大変に綺麗だと思った。なにより、己の輝きが損なわれなくていい。天界の、ミラーボールのような星空は目に痛い。そして厚かましい。
「飲むかい?」
 駅のホームのベンチに腰かけた一号が、真っ白な腕を伸ばし、水筒を差し出した。
「……えぇ、ありがとうございます」
 中身は得体が知れなかったが、王子はそれをうやうやしく受け取る。機嫌取りが最優先だ。持った感じは重く、中身は液体であるらしい。
 蓋を取ると、ズンと脳に響くほど甘い匂いが溢れ出た。思わず顔をしかめそうになるのをこらえて、「いただきます!」ごくりと一口飲む。
 ドーナツを凝縮したような味が舌に襲いかかってきた。
「うっ……。これ、まさか」
「エンゼルフレンチスムージー。手作りだよん」
 一号がけらけらと肩を震わせて笑った。はは……と王子も愛想笑いを浮かべるが、さすがに頬が引きつっていた。
 味は我慢できるが食感が最悪だ。他人の吐瀉物を流しこまれているようだ。
「ごちそうさまでした」
 吐きそうなほど甘い後味に苦しめられながら、王子は水筒を返却した。
「美味いでしょ」
 受け取った一号が、それをごくごくと飲み干していく。王子は見るに耐えなくて目を伏せた。胸焼けがする。
 くそ、こんなことしにきたわけじゃないのに。
「こんなことしにきたわけじゃないだろ? 要件はなんだい、王子ちゃん」
 ぎくり、として静止する王子。やはり一号には敵わない。
「あの……非常に言いにくいんですけど……」
 胸元のロケットをカチャカチャといじりながら、罪を告白する少年のように、彼は切り出す。
「秋野波が意識不明の状態でして……。起きるのが三日後らしくて……。どうしようもないなって……」
 さて、どんなに冷たくあしらわれるのだろう。でもどうか、許してくれ。そしてそのチートを貸してくれ。
 王子は背中に冷や汗が伝っていくのが分かった。
「……」
 チラ、と一号を見ると、彼女は真顔のまま深い穴のような眼で見つめてきていた。思考をすべて読み取られた気になって、総毛立つ。あぁ、やはり言わなければよかった。
「全然いいよ」
 しかし返事は快諾だった。
「あ、え、ほんとうですか……?」信じられない、と彼が目を見開く。
「うん。というか王子ちゃん、なにをそんなに怯えてるんだ」
「いや別に……」彼は素直にそういうことを認めない。「怯えてはないですけど……」
「あぁ、確かに僕は、君に対して無頓着な態度を貫くつもりだ」一号に隠し立ては不可能である。「つまり、この僕が持つチート能力――『過干渉』を使ってはあげない、ということだね」
「はい……」王子が塩らしく縮こまっている。ベンチに座る一号よりも、少しだけ視線を低く滞空しているのは、無意識であった。
「でもそれは、天使全てに言えることだ。僕は天使全てに冷たいからね。……で、なんで王子ちゃんの頼みを聞いてあげてもいっかなぁ、と思ったかというと、君が僕の正体を見事に当てたからだ。昔ッから、それを成せたヤツの願いは一度だけ聞いてやることにしている。もっとも、世界が始まってから今んとこ十二人しかいないけど」
 一号が水筒の中身を飲み切った。
 ぷはぁ、と清々しく息を漏らすと、彼女はそのまま空の水筒を放り捨てた。それはクルクル回転しつつ方物線を描くと、虚しい金属音を響かせて、ホームを転がり、線路内へと落ちていった。脱線するかも、とは気にしないようだった。
「正体」王子が復唱する。その言葉の意味を必死に探していた。「それは、つまり、どういうことでしょうか」
「将来なにかしてくれた、ということ」一号は上機嫌そうにニコニコ笑っている。「君はそう遠くない未来で、私の正体をピタリ言い当てる。で、私はマイルールに従い、その報酬として願いを一つ聞くのさ」
「はぁ」
 分かるような、分からないような。理屈はうなずけるが時系列がおかしい。
「とにかく、君は、一度だけお願いごとができるんだよ」
「なら、秋野が48日後に死ぬ運命を変えて下さい」
「無理」一号が首を振る。「死ぬ、なんて大イベントは変えられないね。他の全約聖書にどんな被害を及ぼすか想像もできない」
 全約聖書。
 それは、とある人間個人が世界に生を受けてから、死んで天国だか地獄だかに連れて行かれるまでの運命が大雑把に記された『四次元DNA』の名である。分厚く古めかしい本のかたちに視認できる。発行しているのは天界にいる神だ。
 王子は天使のくせに、その存在が大嫌いだった。
「何故、被害なんて起こるんですか」王子は、天使として仕事を始めて以来、ずっと疑問に思っていることを口にした。訊くなら今だと本能が告げた。「天使や、人間の強い自我によって、ちょくちょく全約聖書の運命は邪魔される。しかしそもそも、どうして運命は、不変でなくちゃいけないのですか」
 どうして被害だなんて形容されなきゃならないのだ。あの冤罪の一件も――。
「被害ってか、正確には影響と言うべきかな」
 一号はおもむろに王子の頬をつねった。
「いだだだだだなんですか!」
「いや、君、ホント珍しいね。天使は普通そんなこと考えないのに」
 王子がその手を払い除ける。バシッと強めだった。そして、一号への恐怖や立場を忘れて、怒鳴りだす。
「俺の顔に触らないで下さい! 傷がついたらどうするんですか! 許しませんよ!」
「ごめんごめん」へらへらと謝る一号。「綺麗なもんは汚したくなるだろ?」
「まったくもー」王子の機嫌は一瞬で直った。「……ま、珍しいせいで、鼻つまみ者にされて、今じゃ堕在なんて食らってますけど」
 彼は自虐的に笑う。実際、自身の好奇心を不快に思っていた。疑問が解消されなければわだかまりが心に残るし、誰かに訊けば変人(変天使)扱いされるからだ。こっそり図書館に忍び込んで渉猟したさいの、余計な知識だけが内へ積まれていく。
「人間の運命は神によって定められている、ってのは常識だよね」
「はい」天使として働きだしたとき、いの一番に教わったことだ。
「じゃあ、どうして定められなくちゃいけないのか、とは考えた?」
「……いえ」そういうものだ、と思っていた。林檎は食材として育てられ、天使の腹に収まる。同様に、人間も全約聖書という四次元DNAに従って、生を全うする。それが世界のあり方なのだと、思っていた。
「うーん」一号が右手を頬につき、頭を傾けた。「どっから説明しようかな……。人間のさ、カオス理論とか知ってる? あと、バタフライ効果とか。風桶とか」
「えぇ」詳しくはないが、概要は知っていた。
「つまり、そーいうことなんだ。神が発行した全約聖書たち、その幾重にも絡まった運命どもは、互いが互いに影響し合って時間を流れていく。そう、まさしく、四次元的に、コンピュータのごとく演算している! つまり全約聖書の邪魔をしてしまうと、いつかどこかで、多大なる運命の齟齬が発生してしまう恐れがある。計算が狂っちゃうかもしれない。もちろん、そういった事態は、人間に自我があり天使が地上に降りている以上、避けられない。何度も起こっている。神はその度に、修正案として新たな全約聖書を発行しているんだよ」
「修正案、ということは」王子が、一号より視線を反らして続ける。駅のホームは消灯されて、無人のため張り詰めたように静かだ。闇に浮かぶ電光掲示板の光を見上げた。
「前提として、目指すべき運命がある、ってことですか」
「正解」一号が口角を吊り上げる。「私は説明が上手いね」
 正直分かりづらい、とはさすがに云えない王子。
「目指すべき運命。到達点。それを叩き出すため、この世全ての全約聖書が発行され、人間はその通りに動いている。王子ちゃん、地上は巨大な電子計算機なのさ」
「なら、その到達点ってのはなんですか。遥か未来に、なにが計算されるんですか」
「秘密」一号が人差し指を立てた。「自分で探してご覧なさい」
 王子は頬を膨らませたが、何か文句を云うことはなかった。これ以上訊いても無駄だと、本能が告げていた。
「これ、見て」
 一号がどこからか蝶を取り出した。生きたアゲハチョウである。
 彼女が、そっと開放してやる。アゲハは無人のホームを後にして飛んでいき、白みだした空を目指した。
「あの蝶が、まず駅前まで飛んでいくんだ」
 王子は飛んで追おうかと思ったが、止めた。このまま横で、大人しく一号さんの話を聞いていよう。
「すると、それに気がついたある男が蝶を見上げる。その視線の先には、偶然、ミスタードーナツの看板があって、さらには偶然エンゼルフレンチの広告写真まで張ってある。ある男はそれを見て腹の虫を鳴かす。偶然夕飯を食っていなかったのさ。そして、これまた偶然先程まで見ていた犯罪映画にテンションが上がっており、近くのミスタードーナツから盗んでやろうと考える。何故なら、彼は偶然そこの店長だったからだ。昨晩に偶然バイトが忘れていった合鍵を使って、裏口を開けて、偶然売れ残って偶然キッチンに置き去りになっていたエンゼルフレンチを手に取る。そのとき偶然緩んでいた蛇口からしずくが垂れて、男は怖くなり、外で食べようと考える。裏口を出た瞬間、偶然目の前にカラスがいた。そのカラスは、先ほど別の人間に追い払われて、ここへやってきたのだ。カラスは光るモノを集める習性があるため、チョコレートコーティングがギラリと光ったエンゼルフレンチに反応する。それ目掛けて飛んで、くちばしで男の手から奪う。滑空して逃げ去っていく。そして収穫物を巣まで運ぼうと飛んでいる途中、浮遊していた蝶が顔に当たって、驚いてくちばしから落としてしまい、エンゼルフレンチがここに飛んでくる」
 云い終えると同時に、指揮者がタクトを振り上げるがごとく、一号さんは右手を上げた。その指の隙間に、すっぽりとエンゼルフレンチが落ちてきた。
 パスッ。
 パクッ。彼女が頬張る。
 王子は奇跡に呆然としていた。いや、これは奇跡に非ず。とすぐに気がつく。運命の絡まりあった必然なのだ。計算結果なのだ。
「今――」一号はもう食べ終わっていた。「一つでも偶然が消えれば、私の腹にエンゼルフレンチは収まらなかったろう。つまり、そーゆこと。分かった? 全約聖書は人間の運命を定めて、互いに影響し合い、時には修正しあい、世界をとある到達点(・・・・・・)へと運んでいく。だから秋野波の死は変えられない。悪ィ」
 王子は軽いショックを覚えつつも、自身の胸の高鳴りに気がついた。頬がゆるむ。こんな面白い話、天界では聞けない。そもそも、人からものを「教わる」という行為が久々だった。なるほど、地上は巨大な電子計算機なのか。到達点とは一体なんだ。
 神とは、全ての因果関係を把握し、計算を進める存在――。
 確か、人間はそんな存在を『ラプラスの悪魔』と呼んでいたな。


 まるで神とは悪魔じゃないか。

QA 後編

 いつもの癖で、黒マスクを補充しておこう、と目が店内を探し始めた。慌てて止める。今はそんな場合ではない。
 次はイートインだ。と、シスターは窓伝いに歩いていく。雑誌コーナーを通り過ぎればすぐだった。なかはコンクリの匂いがして、細長い。壁も椅子も机も白く、無機質な印象を受けた。空気が硬く、落ち着かない。駐車場から見たとおり、数人が気怠げにスマホなり文庫本なりに興じている。他に目立つものといえば、イートインコーナー用にトイレがもう一つあったのと、無料の求人雑誌と旅行案内の刺さったラック、そして低い駆動音を響かせているプリンター、そのくらいであった。
 空調がよく効いていて肌寒い。なんだか雰囲気も素っ気ない感じだった。もし今ここで私が転んでも、一瞥すらくれないかもしれない。
 茫洋たる深夜の駐車場を映す窓。そこに面したカウンターの一席で、物が置きっぱなしになっていた。近寄ると、ノートと教科書が広げられている。そして筆箱も口を開けていて、椅子の下にはシャーペンが転がっていた。
 秋野だ。とシスターはすぐに察する。あの子がここで、勉強をしていたのだ。
 そして、たった今いなくなった様子だった。まるで慌てて飛び出していったような……。
 どうして自宅に帰らなかったのだろう。家族の迷惑になるからだろうか。父親と、妹を、起こしたくなかったのか。しかしそれでも勉強する道を選ぶとは、勤勉な娘である。
 勤勉。つまりこの場で、プラス6がされたかもしれない。秋野の現在のポイントはマイナス7。嫉妬でも抱いたのかと思ったが、複数の罪と徳が重なった可能性だってありえる。勤勉と、それと……憤怒、だったか。憤怒は、今追っている『あいつ』――つまり運転手への怒りだろう。勤勉でプラス6、憤怒でマイナス8、そして現在はマイナス7……。
 計算すると、残る一つの罪はマイナス5の強欲ということになる。
 強欲だって? 猫を助けたから慈善じゃないのか。シスターはますます訳がわからなくなる。右手の人差し湯で黒マスクを引っ張っていじりだす。
「すいません!」
 突如、声をかけられた。顔を上げると、四十代前半くらいの女性が立っていた。
「女の子を、見ていませんか」不安げな目尻にシワが寄っている。「ピンク色のワンピースを着ていて、まだ四歳くらいなんですけど……」
「いえ……」首を振る。「すいません、私も、今来たばかりで」
「そうですか……ありがとうございます」女性は礼もそこそこに、店の方へ去っていった。今度は店長に訊くのだろうか。
 見つかりますように、とシスターはその背中に手を合わせた。
……しかし、四歳くらいの女児が、こんな時間に迷子なんておかしい。自宅の暖かい毛布のなかで動物と遊ぶ夢を見ているはずだ。
 まぁ、人には人の家庭事情とやらがあるのだろう。それに悪そうな人には見えなかった。邪推するだけ野暮というものだ。
 さて。
 イートインにもそれらしい人物はいなかった。やはり、店の方のトイレ内にいるのだろう。さっそく向かおうじゃないか。
 店へ戻ると、レジでは先程の女性が必死になにかをまくし立てていた。「ちょっと目を離した隙に!」「トイレに行ってただけなんです!」「監視カメラを見せて下さい!」相手をする店長は「落ち着いて下さい」となだめているものの、女性は興奮してしまい聞く耳を持たない。錯乱状態に近かった。
 そんな騒ぎから離れて、トイレの前に立つ。ふうと息を整えてから、ノックした。
 こんこん。
「はぁい!」ドアの向こうからは驚いたような声が聞こえた。若い男の声だった。「ななななんでしょう……。入ってます……」
 言葉は震え、シスターの出現に怯えている。
「あなた、轢きましたか」
「えひゃい!」
 なかからガタガタッと物音がした。そして、ドスン。飛び上がって便器からずり落ちたのかな、とシスターは想像する。図星を突かれたのだ。
「うぅ……ゴールドだったのにぃ……」
 さめざめとすすり泣く声が聞こえだした。
「こんなトイレに逃げ込んでいないで、罪を償ってはどうですか」
「うううううぅぅぅぅ!」
 シスターの言葉には遠慮がなかった。ドアを一枚隔てているため、そしてこちらには正義という後ろ盾があるため、いつもより強気なのだ。
「だって仕方ないじゃないか!」
 トイレ内で彼が叫ぶ。悲痛なくぐもった声が響いた。
「俺は普通に走らせていただけなのに! 確かに深夜で、注意力は下がっていたかもしれない……。でも、俺はゴールドなんだ! ブレーキを踏んだときには遅かった!」
 いきなり懺悔を始めた。降ってきた不幸に耐えきれないのだろう。
「突如、右側から女の子が飛び出してきて、ニ、三秒後にはバンだ!」
 ふんふん、とシスターがうなずく。その必死な訴えを聞いていたら、なんだか可哀想になってきた。考えてみればあそこは横断歩道ではないのだし、道路だという認識が猫にはない。この向こうにいる男も、被害者だといえよう。
 店長と我が子を探す女性が、シスターを心配そうにじっと見ていた。深夜のコンビニで、生娘がトイレに向かってぶつぶつ何かを云っているのだ。ある種のオカルトである。
「どーっしようもなかったんだ! 死にてぇ!」
 また情けない泣き声。
 シスターはもう、これ以上言うことはなかった。言えなかった。
「……まぁ、きっと、善く生きていれば良いことがありますよ」
 そう励まして、彼女はコンビニを出た。自動ドアの横で立つ。茶髪男は向かいの歩道に座り込んでいた。傍には秋野が横たわったままで、意識は未だ醒めていない。パトカーや救急車はまだのようだった。ひしゃげたガードレールにも、乗り上げた車にも見慣れてしまった。
 あいつ、とやらは見つけた。コンビニの前に立っていれば逃がすこともないだろう。このまま警察に突き出せば、秋野の望みは叶うはず。それで『感謝』されればバランスもとれる。今回の件はこれで落着だ。
 ……落着、なのだろうか。
 なんだか腑に落ちない。
 一旦整理してみようか。今夜、秋野波は、ファミレスを後にして、家族に迷惑がかかるのを恐れコンビニのイートインにて勉強することに決めた。あのカウンターの席だ。そこで『勤勉』によりポイントがプラス6されたのだろう。その後、彼女は道路に飛び出してきた猫を見つけて、イートインを飛び出し、身を挺して助けた。結果、車に跳ねられて、頭を強く打ち意識不明。その直前に「あいつにバランスを……!」と『憤怒』でマイナス8された。以上だ。
 しかし現在のポイントはマイナス9。マイナス5だけ、まだ把握しきれていない増減があるということだ。数的にそれは『強欲』に値する行動である。
 猫を助けているのに、どうして強欲がカウントされているのだ。慈善じゃないのか。
なんだろう。違和感が多い。
 よくよく考えればおかしな点や、見逃しているような点がありそうな気配がする。だが、頭を捻ってみてもその正体は分からなかった。
 ――ま。
 どうせ私には分からないだろう。王子はまだ帰ってこないのかな。彼ならなにか思いつくだろう。
そういや、女の子は見つかったのかな。店内にいればいいけど。もしそうでなければ一大事だ。こんな深夜に四歳くらいの女児が歩き回るなんて、トラブルを招いているようなものだろう。良からぬ衝動を起こした悪い大人になにをされるか分かったもんじゃない。
 ……嗚呼。思考が散漫としてきた。なにか、甘いものでも食べて切り替えよう。そして彼を待とう。そう考え、シスターはコンビニへ舞い戻った。小銭はどのくらいあったっけ。がま口財布を取り出す。カパと開いて覗くと、百円玉がニ枚だけ。あとはお札だった。
 彼女はなし水を買って、ドアの前に再び立った。パックの口をあけて、頼りないストローを刺す。ちゅうちゅう吸うと透明な梨の味が口腔に広がった。いくらでも喉を通っていきそうだ。
「あ、あの!」向かいにいる茶髪男に声をかける。彼はすぐに気がついて立ち上がった。「はい?」
「これ! よかったら!」
 シスターは、レジ袋から小さな包を取り出して、掲げた。「チョコです!」秋野を見張ってくれているお礼がしたかったのだ。
「あ、それは、どもっす」
 茶髪男が軽く会釈した。そして両手を上げて、バンザイのポーズをとる。「投げてよこして」という合図だろう。
 食べ物を投げるなんて行儀の悪い! とシスターは戦慄したが、そう言えば自分は道路が渡れない。今すぐ彼にチョコを差し入れするには、投げるしかない。
 苦悶の表情を浮かべ、歯を食いしばり、葛藤する。
「あの、大丈夫すか?」
 そんな茶髪男の声も聞こえないほど悩んでから、彼女は決心した。投げよう。
「えいっ」
 ふにゃふにゃな投球フォーム。下投げだった。アイドルの始球式のようだ。一直線に投げたはずのチョコは、すぐさま高度を落としたものの、なんとか茶髪男の手に収まった。彼のキャッチが上手かったのである。
 瞬間、シスターは、ピコン! という音を聞いた。
 脳内で、バラバラだったピースが当てはまり、一つの有力な推測を導いた音である。
 これか(・・・)
 すごいぞ私、と正解だと決まったわけでもないのに、誇らしい気分になる。昔からどんくさいとなじられてきた自分が、推理をするなんて、考えられないことだった。しかし同時に落ち込んだ。何故なら、浮かんだ推測はひどく性悪で、意地悪な代物だったのだ。
 シスターは目の前の道路に近づいた。しゃがみ込んで、飛び散っている液体の痕に目を凝らす。薄暗さにすっかり眼は慣れており、その色までもがハッキリと分かる。
 最初は血かと思った。そりゃあ、傍には倒れている少女があったのだ。そう思うのが普通である。
 しかしそれは思い込みなのだと分かる。その液体はオレンジ色だった。


「で、どうするんだい」
 一号がうーんと伸びをして、訊いた。
「王子ちゃんがいつか僕の正体を見破る、そのリターン。一度きりのそれを、今日、消費してしまうのかい」
 彼女がはわわとあくびをする。右手を口元で揺らし、ビブラートを奏でる。小さな唄は無人のホームによく響いた。
 王子は顎に手を添えて、悩む。これからもっと、そのリターンとやらを活用する場は現れるだろう。
 しかし――。
「お願いしてもいいですか」
 ここで切り札を使うと消めた。そもそも、降って湧いたような「お得」である。
 それに、意識不明の人間をどうにかする術など、今日中に思いつけるとは思えない。
「じゃ、病院まで行こっか」
 一号がふらりと立ち上がる。ホームの端まで近寄ってから、長い手足を揺らしてほぐしている。なんだろう、と王子は見ていた。彼女の身体は朝霧のなかで黒くぼやけている。キメ細やかな毛を蓄えた筆で、やや反るように、払う。そうして描かれた繊細な習字を思わせるシルエツトだ。
 彼女は、右手を真横に突き出した。朝焼けに飛び立つ戦闘機への敬礼である。そして、ガシッと、空を掴む。なにもないはずなのに、金庫のハンドルでも握ったかのごとく、力がこもっている。
「よい、しょっと!」
 そのまま一気に、彼女は右手を左へ振り切った。ストライクを放つピッチャーのように、豪快かつスマート。王子は、線路の上に巨大な襖を錯覚する。
 ぼん、と突風が起きる。とんでもない勢いで電車が滑り込んできたのだ。ズガガガガガと車両はホーム端にこすれて、火花が散っている。電車はぐらぐらと揺れつつもなんとか脱線せずに長身を現していき、やがて金属の絶叫を響かせて止まった。
「乗ろう乗ろう」
 一号が手招きしてくる。その長髪の房は、朝日を反射して、波のごとく揺れていた。
 王子は、もはや疑問に思うことすらバカらしく思えてきた。
 これが彼女の持つチート能力、『過干渉』である。簡単に言えば、現実を物理的に操れる代物だ。この世界を、我が身のように好きに動かせる。どこから可能でどこから不可能か、具体的な線引きは一号以外に知る由もない。その能力を得るに至った経緯も、「私の正体と関係するからダメー」と教えてくれないのだった。
 一号さんの正体か、と王子はやや不安を感じる。そんなものを、俺は本当に突き止めるのだろうか。できるのだろうか。
 突き止めたとして、きっと馬鹿らしいんだろうな。なんとなく、そんな気がした。


 白く清潔なシーツと薄い毛布に挟まれて、秋野が眠っている。薄いピンク色のカーテンにろ過された日差しが、柔らかく彼女を照らしている。額から首元までが油絵のごとく浮かび上がっていた。
 綺麗だな、と傍らに座ったシスターは心底思う。つん、と高い鼻が誇らしげである。
 昨日の保健室でも、高所への恐怖で卒倒した私を、あの金髪天使はこのように待っていたのだろうか。
眠る人間を待つという行為はなんだか後ろめたい。背徳の香りがする。シスターは、このまま百年でも待っていようか、なんて意味のないことを考えた。そして百合の白い花弁に接吻するのかな。――数日前に読んだ小説の一部分である。同じ著者で云うのなら、彼女が最も好みとする作品は、山へ入って画の描けぬ内容のものである。始まりの二行で涙を流した経験は忘れられない。
 床頭台に置かれた紙コップを手にとる。真っ黒なテレビ画面に自分の顔が映った。マスクが黒いため、下半分が切り取られたように見える。百円のコーヒーは冷めていた。残りを飲み干してしまう。
「……ただいま」
 声が聞こえて、顔を上げると、部屋の反対にある閉まったドアから王子の顔がニュッと現れた。眼にはくまができ、頬はやややつれている。シスターは鹿の頭部の剥製を思い出す。
 部屋には四つのベッドがあり、それぞれの接線がキャスター付きのカーテンで仕切られていた。この病院で最もグレードの低い部屋だ。その他のベッドは全て埋まっており、そして全て老人だった。朝早いのに全員起きている。あぐらをかいて瞑想したり、スポーツ新聞を読んだり、銘々好きに過ごしていた。もちろん、誰も王子の存在には気がつかない。
 秋野波は、専用部屋に移される前に、とりあえずここで安置されていた。
 スッとドアが開く。長身長髪の美人、一号が入室してきた。老人たちは皆作業を中断し、突如やってきた流麗な客人に目を奪われた。そして、拝むように手を合わせだした。敬虔な様子で静かに頭を下げる。途端に、この部屋は神聖なる祭壇と化した。
 老いた祈りのなかを一号が歩く。生贄のように眠る秋野へ近づいてくる。シスターも流れで手を合わせようとして、止めた。一号さんは、祈る対象としては不道徳すぎる。あとドーナツ食いすぎ。
 一号と王子が、秋野の傍へ着いた。
「ふーん」
 一号が、秋野の顔を覗き込む。キスするんじゃないかとヒヤヒヤするほど至近距離だった。品定めをするように、顔のラインを確かめている。
「これが秋野波ちゃんか。確かに、死ぬには惜しいほど均整のとれた顔をしてる」
 そして、彼女の制服の胸元に手を置き、その感触を味わうようにまさぐった。シスターは恥ずかしくなって目をそらす。そらした先で、王子が浮いていた。悩み事でもあるのか腕を組んで黙っている。一号の前だから緊張しているのか。
「じゃ、生き返らせるよ。いいね」
 一号が王子を振り返って訊いた。彼は、こくりとうなずいた。「お願いします」
 一号が、蜘蛛の糸を地獄より引っ張り上げるお釈迦さまのように、やおら手を上げた。人差し指が垂れており、その先端に釣り上げられて、古めかしいハードカバーの本が現れる。分厚く、シスターくらいなら殴って殺せるのでは、と王子は最低なことを考えた。
 全約聖書である。
 一号は浮遊しているそれを、両手で掬い上げるように持つと、バララララッと繰りだした。本日この時間のページを探しているのだ。
「というか君たちさぁ、二日目にしてチートの切り札使っちゃうとか、恥ずかしくないの?」
 シスターは、秋野が助かるなら悪いことではないと思うので、なんとも思っていない。王子は、バランスをとって冤罪を晴らす目的が達成されればそれでいいので、同じくなんとも思っていない。二人ともケロッとしていた。一号の悪態が彼方へ飛んでいく。
 一号がとあるページで手を止める。見つけたようだ。そしてどこからか羽ペンを取り出すと、聖書に直接書き込みだした。運命の変え方は案外アナログであった。
「よし、これでいい」
 修正が済んだ彼女は、全約聖書を秋野の胸へ押し込む。抵抗なく、それは沈んでいった。
「ありがとうございます」王子が頭を下げる。
「ほら、起きるよ」一号はベッドに腰掛けた。髪がシーツに敷かれる。
 三人(三天使)の衆目のなか、秋野が瞼を開いた。そして、後頭部の腫れた痛みに顔をしかめる。シスターの助けを借りて上体を起こしつつ、周囲を眺めていた。すぐさま、ここが病院だと分かったようだ。非常に落ち着いている。
「あなたは……どうしてここに」
「あぁ、いえ。成り行きで」シスターがビクッとして応える。確かに、赤の他人である自分がここにいるのはおかしい。
「あなたは」今度は一号に訊いた。
「気にしないで」彼女が頭を振る。
「え……いや、気にしますが」秋野が食い下がった。
「いや、気にしないでって、別にお願いじゃないけど」一号は平坦な口調で云う。「命令したんだよ」
 秋野は呆気にとられて、それ以上文句はなかった。明らかに気圧されていた。
 そして、ハッと我に返る。
「そうだ! あいつは!?」
「大丈夫です」シスターが、なだめるように秋野の手を包んだ。その手は古くなった絆創膏が二、三枚貼られ、ゴワゴワしていた。シスターには分かる。料理初心者がよく拵える、包丁の生傷だ。
「ちゃんと、すぐに発見して、警察に突き出しましたから。女の子も無事です」
 よかったぁ、と秋野が泣き出しそうなほど破顔する。
「ありがとうございます! 私、たぶん、そんな助けになるようなこと言えてないですよね……。それなのに、ホント……ありがとうございます……」
 彼女はシスターに向かって深々と頭を下げた。毛布が擦れる音がして、シワがよる。
〈感謝+7〉
 王子が満足気に鼻を鳴らした。合計、0ポイント。これで一安心である。


 ――違和感が多かった。
 まず、イートインから飛び出したという点。その行為自体になんら不思議はないが、猫の救出には間に合うわけがない。カウンター席にいて、轢かれそうな猫に気がついても、それを救いに行くまでには長い道のりがある。イートインを出て、店の自動ドアを待って、広めの駐車場を突っ切らなければならない。どんなに強靭な脚力を誇っても、やはり車のスピードには勝てないだろう。そして、この事実は当事者にとって明白であるはず。車に轢かれそうな猫を見たなら、そもそもイートインを飛び出さないでご冥福を祈るのが普通だ。
 次に、運転手の証言。彼は「右側から飛び出してきて~」と云っていた。しかし日本の道路は左側通行である。その理由には心臓の位置が関係していて、また世界で右側通行が多い理由にはナポレオンが関係しているらしいが、今は関係ない。とにかく、件の車道にて、秋野が本当に「右側から飛び出してき」たのなら、すなわち彼女は、そもそも「道路側」にいたことになる。もちろん単に反対車線を超えて突っ込んできただけの可能性もあるが、今回は違う。それは次の違和感で分かった。
 猫を助けたのに強欲とカウントされている。強欲とは、欲が深いこと。必要以上に、過度に、求めてしまうこと。では、なにをしたのか。
 猫を救出しようとすることは強欲か? 違う。
 猫も救出しようとすることが強欲だったのだ。
 昨晩、あの場所には、救出すべき者がもう一人いた。それが、あの女性の探していた四歳児である。秋野はそもそも彼女を救おうとしていて、連れ去った犯人に憤っていた。
 事の真相はこうだ。
 深夜のコンビニのイートインにて、秋野が勤勉に勉強している。ふと前を見ると、薄暗い駐車場がある。コンビニの白い光が落とされている。そこに停められた一台の黒いミニワゴンの前で、なにやら揉めているのが分かった。二十代くらいの男が、嫌がる女児を、無理矢理車内へ積めているではないか。そして、たった今ドアを閉めた! 秋野は突然のことに声もでない。しかし、身体は動いた。駐車場ならば間に合うかもしれない、と駆け出したのだ。
 秋野は、無人のレジからカラーボールを一つ奪った。
 悪い予感は的中し、店を出ると、ワゴンは既に走りだしていた。秋野がコンクリートを蹴り飛ばし、なんとか追う。ナンバープレートを記憶しようとする。車はどんどん距離を離していく。男がもし衝動的に犯行に走ったのならば、女児への被害もすぐ起こるかもしれない。事態は一刻を争う。しかし、女子高生の脚力ではどうしたって敵わない。いいさ、そのために、コイツを持ってきたのだから。カラーボール。確実に当ててやる。
 ワゴンを追いかけて、秋野は道路に躍り出た。
 瞬間、反対車線にヘッドライトの光が滑った。照らし出されたのは、一匹の灰色の猫。
 秋野は反射的に手を伸ばす。だが、そのまま勢いで歩道へと飛び込んだなら、ワゴンを取り逃がす。カラーボールは当てられないだろう。
 ならば、この身を犠牲に、どちらも成せばいい。
 彼女は猫を掻き抱き、そのまま車を避けずに、カラーボールを投げた。それはワゴンのタイヤ付近になんとか当たり、飛沫が定着した。マーキングは完了だ。タイヤの回転に弾かれた液体が、道路に飛んで、オレンジ色に汚す。
 やがて、彼女の強欲さを罰するが如き衝撃がやってきた。彼女は軽く浮遊して、頭を地面へ打ち付けた。そして、残る意識のなかで、逃げていった犯人へ憤怒したのだった――。


「お父さんを呼んであげないと。きっと今頃、心配で胸が張り裂けそうだから」
 秋野はそう云って、シスターのスマホを借りた。だが病院内のため律儀に電源が切られており、肩を落とす。目覚めた秋野を見て慌てた医者が既に連絡をしただろうに、心配性である。
「番号を教えてくれれば、かけておきますよ」
 彼女を安心させる目的で、シスターがそう云う。秋野は、お願いします、と番号を走り書いたメモを渡した。
「あの」秋野がいつもの調子で話し出す。「お名前はなんでしょう」
「名前……」
 2230号、という番号を訊いているのではないだろう。シスター、と応えるのが気恥ずかしくて、彼女は云い淀む。
「私は秋野波です」
「はぁ、知っています」
「私は名乗りました。バランス的に、次はあなたが」
 そんな理不尽な、と思ったが、観念した。
「シスター、と呼ばれています」
「シスター……」秋野が真顔のまま反芻した。「いい響きですね」
「どうも」
「シスター、第三者であるあなたに訊きたいのですが」
 シスターは、なんとなく質問内容を察した。
「訊かないで下さい。お願いですから」
 右手の平を掲げて、彼女に止めるようお願いする。似たような疑問が昨日一日で溢れてしまって、もうさすがに勘弁してほしい。質問はたくさんだ。警察からの事情聴取からもなんとか逃げてきたのに。それでもまた、出向かなければいけないらしいけど。
「私だって分かりません。何も言えません」謝罪するように、シスターは続けた。「だから、自分で考えましょう。私もそうします。精神的に向上心のないものは――」
「馬鹿、ですよね」
 秋野が薄く微笑んだ。
 使い方合ってるのかな、とシスターは唇を突き出して考えた。

 病院を出ると、眩しい日差しに襲われた。眩しくて目を細める。そして空気の冷たさに驚いた。病院の空調管理の素晴らしさに感動した。
 街は、通勤・通学に急ぐ者たちで溢れかえっていた。大きな街路樹が揺れ、道路は車で埋まっている。ここから自宅まで地下鉄で一駅だが、歩いて帰ろう、とシスターは考える。このコンディションのまま電車に乗ったら、寝落ちして乗り過ごしてしまう。
 そういえば、王子はどこへ消えたのか。彼のことだから、また女湯で覗きに行ったか。
「世のなかどーしよーもないことはあるね」いつの間にか横を歩いていた一号が、そう呟いた。「良いことしようとして、痛い目にあうとかさ」
 シスターは、軽く目線を送っただけで、歩みを止めない。
「何故なら全約聖書にぜーんぶ決められているから!」
「……そうですか」
「運命なんだ、うん。到達点に至るまでの」
「一号さん」シスターは、珍しく一号に話しかけた。彼女は一号のことが苦手なので、共にいるときは基本的にうつむいて黙っている。
「なんだね」
「おかしいです。基準が」
「罪と徳の?」
「はい」シスターと一号は、人混みの流れに逆らって歩く。幾度となく肩がぶつかるも、謝罪の言葉が交わされることはない。「彼女のあれが、慈善じゃなくて強欲だなんて、おかしい……。大体、罪と徳の種類が七つしかないのも変です。世のなか、そう単純にはいかないはずです」
「いいこと云った」一号が手を叩く。サラリーマンたちが、怪訝そうにこちらを向いた。
「そこがね、私が天使全てに冷たい態度をとる所以なんだよ」
「天使、ですか?」
「あぁ。その杓子定規がすぎる基準を大昔に設けたのは、天使なんだ。いいかい、シスターちゃん。天使って存在はね、馬鹿にデザインされてるんだよ」
「馬鹿に?」
「下手したら人間よりも馬鹿に、生を受けるんだ。探究心も、好奇心も、持たない。ノホホンと天界でふんぞり返り、地上を見下し、チンケなプライドをひたすら磨いている。神にとってはそれが都合いい」
「そうなんですか」
 お前は元来馬鹿なんだよ、と決めつけられたようなものだった。堕天使だって元々天使であるのだから。
しかしシスターは落ち着いている。自己肯定感が著しく低かったのと、天使たちが馬鹿であるなんて身をもって体験しているからだ。
「天使は白痴」一号が歌うように云う。「幸福なことにね」



 第ニ話 了
 秋野波死亡まで残り47日

テンシかアクマ QA

六億円欲しい

テンシかアクマ QA

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-06-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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