死神タロット ~仲介人 蝶番の企み~

〈ドクン……ドクン……ドクン……〉


 先程から鳴り止まぬ鼓動。

まるで身体が、一個体の心臓にでもなった様な錯覚を起こす。

セキュリティーシステムの警報と、赤色を放ち、グルグルと忙しく回るサイレン灯。

壁一面を赤く染め上げる赤が、嫌が負うにも心拍数を立ち上げていく。

更に、後ろから飛び交う罵声、怒声。

不法侵入者を捕まえようと、躍起になっている黒服達。

 その革靴を履いた黒服達から、逃れる為に、走る、走る、走る。

 逃走ルートは、頭に入っている。

しかし、予想外な展開が起こり、結局、逃走ルートを変更。

 本来、あり得ない事をしでかしてしまい、隠密に依頼をこなせなかった。

 だから気は進まないが、そのルートを選ぶ。
 
あまり詳しく調べていなかった事を、胸の内に後悔しながら、

 任務完遂の為には、仕方なし、そう胎を括る。

 そして―――――――――。


『待てぇぇぇぇぇぇぇぇ!!』
「はぁ、はぁ、はぁ……待てと言われて、待つヤツがいるかっての! っくそ! あと少しぃぃぃぃぃ…………だぁぁぁ!」
 叫びながら、オレは何をしているかと言うと――――。
たった今、六〇階あるだろう高層ビルの屋上から、決死のダイブをカマしている途中だ。と、言っても、隣のビルに飛び移る、それだけの事。
「――――ッ! ウワッ! こえぇー!」
 それだけの事……と、強がってみたが、口は正直者らしい。
やはり足場の無くなった空間は、慣れているといっても、下を見下ろせば、深い闇が拡がっていて。それに飲みこまれそうな、そんな気持ちにさせてくれる。更に、後ろの方では、過激にも銃声が聴こえており。幸いにも、ゴルゴの様なスナイパーは居なかった様だ。お陰で銃撃にあたる事もなく、何とか命をつなぎとめる事は出来た。
 そんな状況の中にあって、オレは相も変わらず、自分を「冒険者である」などと思っていたりする。どうも、緊迫したシチュエーションになればなるほど、命知らずになるというか、命を惜しまないというか、そんな自虐的な性格になってしまうらしい。
 まぁ、それは『アイツ』が言っていた事なのだが……。
 それは良いとして、何故、今現在、こんな状況になっているのか説明したい所だが、予想外に逃走ルートの変更を余儀なくされた為、たった今、屋上からダイブしてしまい、回想している余裕も無いので、後で説明する事で御容赦願いたい。
「――――――――クッ!」
かなりの落差を降下しているらしいオレは、耳を劈(つんざ)いていた、ピューっという風斬音が、シュッという音に変わった事で、地面(誤解が無い様に言うと、屋上の事だが)が近づいてきた事を理解した。
だから、グルリと背中を丸めて、足を抱える。そして、背中から着地した、と思われた刹那のタイミングで、オレは両手両足を弾く様に広げて、衝撃を外へと変換する。
この態勢は、局所への衝撃を和らげる事は可能なのだが、衝撃を外に飛ばす事で、自分自身も、勢いよくバウンドしながら回転するため、身体全体を打ちつける事となる。それが些か考えようだが、足を折るなんていうリスクを負うなら、打撲程度で済む方が得と言うモノだ。
ザシュッ、ゴンッ! と、鈍い音を奏でながらも、何とか飛び移れたらしい。
しかし。
背中から足の爪先に掛けて、悪寒の様なモノが迸った。
それはそうだ。
何と言うか、この真っ暗闇の中を、人生お初となる中国雑技団御免レベルの空中浮遊をしたのだ。さしもの使うつもりが無かったルートの為、下調べなどジックリしていないかった隣のビルが、どれ位の高さなど分かるはずも無い。
「ガハッ! ……………………ゲフゲフ」
 打撲程度と言ってはみたが、その衝撃いわんや余りにも無謀すぎる。身体が資本のオレにとって、ソレはいいとしても、さすがに気分は少々萎えた。
ただ――――。
「ふぅ~、何にせよ………………振り切った様だな」
 隣の屋上を見上げながら呟く。
見上げると、多分だが十階程度は落下したであろう事が分かった。どうしてオレは、いつもこういった棘のある方に動いてしまうのだろうかと、萎えた気分に拍車を掛けてみる。が、それでも、まだ、この程度とは目っ気モノだろうと、単純に解釈を変換した。
「SPでも、ここまで飛んでこようなんて、バカげた事、考えるヤツは居ないだろうな。それに、ライフルでも持ってこない限り、ベレッタ程度じゃ届かない――――」
〈チュインッ!〉
と。
余裕をカマしていると、オレの頬を何かが掠めていったのだ。その掠めていった後に残った衝撃の余韻が頬を揺らす。
それを抑えるが如く、右手でそっと触れてみると……。
「ウ、ウソだろっ!? なんで一般企業のSPが、ライフルなんて持ってるんだよ!?」
 これこそ、不幸中の幸い。
むしろ、幸中の幸い。
心臓や腹部に当たっていたらヤバかった。まさに「ゴルゴ」レベルが居なくて助かった。
 右手に付着したAB型の血液を、各種耐性用に造られたブラックのパンツスーツで拭い、オレは低い態勢になりながら、屋上の入口目指して走り込んでいく。 
 すると、もう一度、バキューンと音が鳴り響き、オレは走りながらだが、思わず身体を硬直させていた。しかし、身体のどこかに被弾した様な気配は無い。
だからオレは、それに構わず入口に飛び蹴りをカマし、中へ逃げようとしたが……。
「――――っげ!」
ターゲットにケリを繰り出した瞬間、眼前にあったドアが、突如、開かれたのだ。
「なん、だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………………………………………………………………………………………よぉぉ! ――――っう~、いって~」
 勢いに乗ったオレは、そのまま、入口よりビル内に侵入成功。ただし、先程のダイブ程ではないが、空中を漂うオレは、身をよがす事もままならず。結果として、開かれた空間に躍り出て、階段を一段、二段と飛ばしながら、ゴロゴロと転がって落ちていく。
勿論、止まった時には、あられも無い姿になっていて。
ガニ股で股間をおっぴろげながら、背中と頭を、ビルの壁に預けていた。
オレは、そんな状態のまま、入口をそっと閉めながら、そのドアの横で、非常口の緑色に照らされるヤツに意見した。
「おい。なんで、お前って、いつも、こうタイミングが悪いんだよ!?」
「アハハ♪ 下手くそなダンスを空中で踊って、行きつく先が踊り場なんて、ホント愉快ね、アナタ?」
「上手い事言っているつもりかよ……イテテ~」
「アラ? 助けに来たのに、そんな言い草は無いんじゃなくて?」
「助けに来いと言った覚えも、助けられた覚えも無いぞ、オレは」
「フフフ♪ そうかしら……」
 そう言いながら、口元に手の甲を当てて、不敵な笑みを浮かべる頭上のコイツは『サポーター』と呼ばれる輩で、名前を『ヴァイオレット』という。
 その名の通り、服も、髪も、帽子も、カバンも、メイクでさえも、何もかんも紫色している。さすがに肌まで「紫」とはいかないが、それでも真っ昼間からこんな格好したヤツが居たら、避けて通るだろうと思えるくらい「紫」なのだ。
そんなヤツが、トンボの様なバカでかいサングラス越しに、妖しい光を放つ瞳で、オレを見据える。そして、緑と紫が混ざりあって青っぽく見えている唇が、ゆったりと動きだす。
「さて、戯言はこれくらいで……ダストネーム『グラス』、任務は完了して?」
オレは、ドッコイショと声を掛けながら、片膝を立てて態勢を元に戻した。そして、上から不敵に見下ろす、タイトなミニスカートの女に視線を送る。
「あぁ……じゃなけりゃ、こんな所に逃げ込んだりしてないさ」
「そう? なら……例のモノを、こちらに」
 腕を組みながら、物乞いの様に片手をこちらに差し出す女。それを見て、オレは黒のジャケットのジッパーを開き、内側にあるポケットに忍ばせておいた、例のモノとやらを取り出し、女の方に投げてやる。
 ヴァイオレットは、それを軽やかに受け取ると、マジマジ見つめて確認していた。
「――――。確かに間違いないわ。任務完遂よ、グラス? お疲れ様♪」
「お前に労われるなんて気持ち悪いな。なんか良い事でもあったのか?」
 不敵な笑みを零し続ける女に対し、オレはあえて皮肉を言い放ってみたが、どうにも効果はなさそうだ。
 片手でポンポンと例のモノ、否、USBメモリーを投げては取り、投げては取りを続けて、パシッと手の中に収める姿は妙に艶ていた。
「それじゃ、後は頼んだぞ、ヴァイオレット。ソイツをちゃんとアイツに届けておいてくれ」
「アナタに労われるのって気持ち悪いわね? なんか良い事でもあったのかしら?」
 片手に納めていたUSBメモリーを、紫色のショルダーバックに入れながら、階段を下ってくるヴァイオレット。やはりサングラスの奥の眼が、妖しい光を放っている。
「っち、皮肉返しか? ホントにイヤらしいな、お前達、仲介人は……」
「フフフ♪ よしなになさって、グラス? ところで、アナタもそろそろ行かないと、危ないんじゃなくて?」
 そんな詞を残し、ヴァイオレットは低い笑い声を残響させ、その場から忽然と消え失せる。どんなトリックを使っているのか知らないが、少なくともオレは、アイツラの言うESP(超能力)などというモノを信じる気にはなれない。
いや、信じるというより完全に否定している。
何故かといわれても、それには、それなりの理由があるのだ。
だから、オレにとって、ヴァイオレットの不可解な動きは不愉快極まりなく。少々の苛立ちを感じながら、口に溜まった唾をペッと吐きだし、眼を座らせつつ、先のダメージを感じさせないくらい軽やかに階段を上っていく。そして、先程、飛び込んできた入り口を蹴り開け、ソレを開け放ったまま、ビルの縁(へり)まで走り込む。助走をつけて、走り幅跳びをするかの如く、躊躇無しに屋上の外へとダイブした。
ヴァイオレットのお陰で、アドレナリン増出しているオレの脳は躊躇(ためら)いという感覚を置き去りにしてくれたらしく。
至って普通に、当たり前に、それが日常であるかの様に、世間で言う『飛び降り自殺』行為を行った。
「――――」
不夜城さながらのネオンを眼下に置きながら、落下するオレ。
 恐怖心など無い。
 先程のビルとビルのダイブは計算外だった為、恐怖心が拭えなかった。しかし、今は想定内の話でしかなく。計画された事であれば出来る。もし恐怖心があるならば、最初から、この計画は立てないだろう。
ビューっという風斬音が耳に響き渡る。
空中に浮遊するオレは、ブラックジャケットを広げて、ビルとビルの間に向かって走る風に乗っかった。そうすることで、オレの身体は落下しながらも、自然と斜めに切り込みながら、ビルの隙間に入り込んでいく。
どんどん降下していく身体を横に広げて、空気抵抗でスピードを調整するが、二秒後には地面へと叩きつけられるだろう。だから、オレは、腰に携えている直径三十センチ程の、特殊スチールで造られたロッドと呼んでいる銀色の警棒の様なモノを取り出し――――。
「っせい!」
背筋と腕力のみで、ソイツをビルの壁へとブッ刺した。
ガリガリと、けたたましい音を立てながら、突き刺さったロッドがコンクリの壁を穿(うが)いていく。その衝撃の凄さが手に伝わり響いている。
「とぉぉ~まぁぁ~れぇぇ~~!」
 制限時間二秒をロッドにより延長。
ロッドとコンクリの摩擦により、軽減したスピードのまま、残り三メートル程度の所まで降りてくる。その勢いを使い、オレはロッドを強引にひっこ抜いて壁を蹴り付ける。さながら、体操選手の様に宙返りをしながら地面へと着地した。
「……やっぱりスゴイなぁ、これ」
 着地した所は、追われていたビルと逃げ込んだビルの間で、人が歩くはずもない場所だ。
この方法は、最終手段として考えていた為、下調べを疎かにしていたとしても、ビルの周りの状況程度くらいは調べておかないと流石に厳しいだろう。しかし、正直な所、この方法を取るつもりは無かったので、こんな悲惨な結果になってしまった。
摩擦熱で真っ赤になっているロッドをパンパン叩いて冷やすと、痺れた手に息を吹きかけながら、一度、大通りの方に目を配る。
だんだんと人が多くなってきた。
騒ぎを聴きつけての事だろうが、多分、ヴァイオレットの仕業だろう。オレを逃げやすくするための『デコイ(囮)』だ。オレは、それを確認しつつ、ロッドを元の腰に戻し、大通りと反対側の路地から走って逃げだす。
背後からは、爆発に驚いた野次馬の喧騒と、通報により駆けつけたであろうパトカーや消防車などのサイレンが轟いていた――――。

 ……………………

「おい、入るぞ!? ――――って、なんだぁ!?」
『休診中』と札の掛ったドアをノックし、中に入ろうと、ドアノブに手を掛けた瞬間、鼻息を荒くした男が二人、飛び出してきて、オレと接触しそうになった。
『ふざけんなっ! おい、行くぞ!』
『へい、兄貴!』
 飛び出してきた強面の男達は、外に出ても、ヤンヤヤンヤと騒いでいた。
余程、仕事が気に食わなかったのか? 
それとも、余程、ここの主である『仲介人』が、気に食わなかったのか?
思案しながら、ドアノブを回す。
「おいおい、なんだぁ? 物騒だな……」
 そう言いながら、後ろ手にドアを閉めて、鍵を掛けるオレ。そして、靴も脱がずに、そのままヅカヅカと中へ入る。
相変わらず、殺風景な空間だ。
オフィスと言うには、余りにもみすぼらしい空間。
そんな空間の中心にヤツは居る。
 街のど真ん中にあるこの建物は、あれこれと店舗が入りこんでいる雑居ビルの一つで、その三階の外れに位置する、この部屋。
部屋の中は、全面の壁と言う壁をブチ抜き、ワンフロアにしてしまっていた。さらに、本人は明るいのが嫌いで、薄暗くしたいとの希望に添い、窓も電灯も一つしかない。
そんな部屋の壁面に置いてあるのは大量の本棚。それも桐(きり)で作られた、一竿ウン百万もする、高級アンティークなモノばかりを買い集めたそうだ。
正直、オレには分かりかねる感覚だが、コイツにとっては「本も一流であれば、それを納めるモノも一流でなくてはならない」との事らしい。
 オレは、その殺風景をグルリと見渡し、部屋のど真ん中に置いてある、総理大臣、もしくは大統領閣下が使う様な机を見つめる。その上、オレの身の丈をも遥かに超えている、王様が座る様なフカフカのアンティークチェアがあって。
そのアンティークチェアに、足を組みながら深々と座って、ふてぶてしい顔で笑うヤツがコチラを見ていたので、ソイツに声を掛けた。
「で? 今のヤツラは、新米の『スイーパー』か? 何が不満だったんだよ?」
「クスクス♪ キミだって、まだまだ新米のスイーパーじゃないですか? たかが五回の仕事で、一流面はどうかと思いますよ? まぁ、それでも? 先程の方々よりも、些かながらキミの方がスイーパー向きである事は確かです。アレは……ダメですね。一瞬で消されますよ。それはさておき……キミは、もっと美しくクランケ完遂を行わねばならない。ちゃんとサポーターを上手く使い、手際良く、怪我も無く、風の様に…………そう、ダストネーム・ウィンドの様に美しく慣行せねばならない。そうなって初めて――――」
「一流、だろ? 聞き飽きた。確かに二日前の事がニュースになってしまったのは、オレの落ち度だ。そんな事は分かっている。それよりも…………」
 大統領デスクの前にある、普通の、至って普通のパイプ椅子に腰をかけた。明らかに待遇が違いすぎる。これもコイツの嗜好によるものなのだろう。
しかしながら。
他の椅子が無いとなると、クライアントでも、パイプ椅子を使わせるのかも知れない。
自分は、高級アンティークで依頼人にはパイプ椅子?
流石にそれは無いだろう、そう括って思う事にしていたが、こうもあからさまにパイプ椅子以外の座するモノが無いとなると、誰でもコイツの神経を疑う方向に考えが向いてしまってもおかしくはないと思う。
若干呆れた面持ちで嘆息するが、とりあえず今はソレが話題ではないので、目の前にいる不敵な笑みを浮かべる相手に本題を尋ねてみた。
「なぁ、例のモノ。あれは間違いなかったのか?」
 クルクルと椅子を回しながら、どこから取り出したのか、先日、ヴァイオレットに渡したUSBメモリーをポイっとオレに投げてきた。
投げて来たコイツは、そのまま回転しつつ、説明に入った。
「間違いなかったですよ、確かに。でもね? 中身のデータ、半分近くがガードを施されていましてね……」
「――――ッ!? マジかよ!?」
 クルクル回る椅子をピタリと止めて、デスクに両肘を乗せて、組んだ手で口元を隠しながらオレの事を見据えてきた。
「結局? ボクの方でガードを外したり、なんなりしちゃいましたので。だから今回の取り分は、いつもの五対五ではなく六対四で。ボクの取り分多めに頂きますから御了承下さい♪」
 組んだ手の中の口は、確実にニヤケているだろう。
眼が明らかに悪役の眼になっている。
とは言うものの、元々、善人でもないコイツだから当たり前なのだが……。
 だから、オレも仕方なく、それに同意するように嘆息するしかなかった。
「交渉成立ですね♪ では、いつも通り、クライアントから振り込みがあるかと思うので、明日には確認の程、よろしくお願いいたします。それにしても…………今日は、キミらしからぬ様相で? 黒のロングTシャツに、キャップとジーンズなんて珍しい。どこかで、デートでもされるのですか?」
「服装なんて、どうでも良いだろう? 要はオレがオレだと分からなければ、それで良いんだから。入金は明日か…………確認しておく。それと――また仕事はあるか? 『蝶番 命(ちょうつがい みこと)』?」
 少し間を置いて、お互いがお互いを探り合う様な雰囲気を醸し出しつつ、コイツは口を開く。
「くっくっく♪ キミも好きですね、本当に♪」
 そう言って組んでいた手をほどく。
仕事の依頼がある事を尋ねると、滑らかな動きで、右肘をデスクに立てたまま、身体をやや斜めに向けてくる。足を組みながら、右の掌を上に向け、人差し指を伸ばし、その態勢で、不気味に口端を持ち上げて、眼に対し明らかに小さい、鼻に掛った眼鏡を通して、こう言ってくるのだ。

『……あるよ? ただし何を選ぶかは、キミ次第だけど……?』

 と。
 いわゆる決めセリフなのだろう。その後の「どや顔」と言ったら……毎回見ても、苛立ちを隠せない。
 
さて先程から、話をしているコイツの名前は『蝶番 命(ちょうつがい みこと)』と言う。ふざけた名前だと思うが、勿論偽名である。本名も、正体も、年齢も、不明。
それが、この――「蝶番」――だ。
蝶番は『仲介人(ちゅうかいにん)』と言われる、仕事をしている。単純に言うと、仲介人とは「なんでも屋」である。
二十一世紀は「人の為の世紀である」などと、ある政治家が言っていたが、二十年近くたっていながら未だに人間には『黒い鎖』を携えて生きている。
『黒い鎖』――『ブラック・チェイン』とは、この仲介人が言っていた事だ。
人間には「それぞれ色の違う鎖を持っている」と言う事らしい。要は……考え方、価値観と言いたかったのではないのだろうかと勝手に解釈している。
私利私欲に走る年配者、無気力な若者、人と隔たりを保ちながら生きる子供達。そんな闇を抱える世界では、まだ「人の為」とは言い切れないが、それでも「人」を『人』として慈しみ人間は生きている。例えソレが黒かろうが、白かろうが。
まぁ――その黒い世界、闇の世界を東奔西走しているのが、オレを含めた者達なのだ。
現在の、この日本という国は、西暦で言えば二千百年らしいのだが、結局、裏も表も、どこを切っても人間とは、今も昔も、かく成るモノの様だ。
いくら便利な世の中になろうと、結果、歴史は何も変わっていない。否、変わるべき人間(モノ)が変わらなければ、何も変わる事など無いのだろう。
だから、そんな世にあって、闇の世界があり、その中をオレ達は生きているのだ。
そして、オレ達は、蝶番の勅令により、決して表に出る事はしない。むしろ出てはいけないのだが、それでも少なからず表の世界に影響を与えるのが、この仲介人という存在なのだ。そして、その裏にいながらも、表に影響を与えてしまう『仲介人』に依頼をする人間は後を絶たない。それだけ、人間の欲望を満たすモノ(者、物)が少なくなっているのだろう。そんな事を推し量った所で、何があるわけでもないのだが、それ以上に興味も無い。
オレは与えられた仕事をこなす一粒の存在でしか無いのだから。
しかし――日本という国のみならず、その範囲は地球全体と言っても過言ではない。事実、オレがこの仕事に携わり、一人で依頼をこなせる修行をする為、行動を共にしていたヤツがいたのだが、ソイツと一緒に中東の方まで行った事もあった。
まぁ、一人発ちしてからは、基本的に日本の首都からやや外れた、しかし、電車、高速道路も通っている交通の便が良い首都の区外にありながら、新宿に負けず劣らずの不夜城と化している街、羽桜(はざくら)市、氷室(ひむろ)市を拠点としている蝶番のお膝元で、依頼をこなす方が多くなっていた。
ともあれ、そんな世界の中心にいる仲介人というヤツは『なんでも屋』と言う事で、表でも裏でも『クライアント(来訪者)』と呼ぶ依頼人から、人探しや裏取引、要は重さに担った金額を支払ってさえくれれば、どんな依頼でも引き受けてしまう。もし、提示した金額が払えなければ交渉決裂となるのだが、交渉が成立すると、その依頼を『スイーパー(掃除機)』と名付けた別の人間に受け渡すのだ。だから、蝶番本人が依頼を受けて動く事は殆ど無い。いや、むしろオレは動いている蝶番を一度も見た事は無かった。
さて話を戻すと、オレ達スイーパーは、任務事体やソレに関わる者を『クランケ(患者)』と呼び、任務完了時には、事前に蝶番と話し合い決めた報酬を、お互いの同意の元で分けて、お互いの取り分とする。これが仲介人と、オレのようなスイーパーの関係性だ。
そんな仲介人蝶番は、性別が「男」という事以外、詳細はほぼ不明で、それを嫌がりスイーパーを断る者も少なくないらしい。だから、コイツの年齢や経歴などを知っている者は、それこそ皆無と言っていいだろう。
しかし、そんなコイツを詮索したがるヤツもいたりする。ところが、どうやっても調べられないとの噂を耳にした。
どうして調べられないのかは不明。
何故なら、調べようとした者に蝶番の話を訊こうとすると、等しく瞳に脅えの色を漂わせ、皆、口を噤んでしまうらしい。
どんな手を使っているのか解らないが、少なからず蝶番という「男」は、世界を敵に回そうとも、決して自分の事を公表する事はないだろう、などと下らない思考を持たせてしまう程、脅威的な存在な事は確かだった。
ところが色々な噂に尾ヒレが付いて、蝶番その人は、物凄く屈強な人物像であると囁かれたり、物凄く姑息な陰険策略家の老人であると語られたりしているのだが、実の所、見た目は噂以上にクライアントを驚かせる結果となる。
一言で言えば――――妙に若いのだ。
それも、かなり若く視えてしまう。成人と言えばそうかも知れない。だが、学生と言っても通じる。
更に続けて言ってしまうが、コイツの髪は真白なので、それの効果もあるのか『一風変わった者』という認識が強すぎて、年齢どころでは無くなる。
その上、いつもコイツはオーダーメイドで作らせた薄い青色の燕尾服を着ている。何故なのか、尋ねてみると……。
「よく中世ヨーロッパでは、これが『正装』と思われがちですが、実は私服の一つなのです。ただし、文字通り「正しい服装」ではありましたが。これを纏う事で、このアンティーク家具達を美しく見せ、雰囲気を出す為に、このような様相をしているのです」と。
 言っている事は分からなくも無いが、いろんな意味で、これは「ナイ」と思う。
しかし、それ以上に――コイツを覆っている『空気』は、一般人のソレと絶対的な一線を画していると、オレは感じている。要するに『異質』なのだ。
それが、蝶番を『仲介人』たらしめている部分であると言っても、過言では無い。
とりあえずの所、世間体を気にしてか、表立っては『心療内科』となっている。なんでも、個人営業の探偵事務所的なモノだと、法務局の目が光り、税金がやたら高いとかなんとか……。
だから、一応は持っているらしい『心療内科』のライセンスを携えてはいるが、オレは一度も此処で患者というモノを視た事がなかった。だから、コイツがそれっぽい白衣を着ている姿も、勿論、視た事は無い。だからこそ、呼称が「クライアント」やら「クランケ」なのだろうと思ったりもするのだが、それは瑣末な事だと、オレの中では詮索対象外になっていた。
それにしても――蝶番――とは、良く言ったものだ。
『クライアント』と『スイーパー』をつなげる蝶番(ちょうばん)。
英語で言えば『ヘンジ』の意味を持つ、そういう隠喩(メタファー)的な意味でも込められているのだろう。
しかも、名前が――「命(みこと)」――ときた。
この仲介人というモノは、ハッキリ言って危険と隣り合わせの仕事が多いため、命がいくつあっても足らない、と、ヴァイオレットのヤツが言っていた。
なのに……名前が「命」だ。
ふざけているにも程があると、文句の一言も言ってやるのだが、それを飄々と往なされてしまう毎日を送っているオレだった。
ちなみに、スイーパーと言われる者は、何人もいるらしいが、基本的にスイーパー同士の交流は無い。だから、正確に何人居るのか、どんなヤツがいるのかは定かでない。しかし、この仲介人と言うヤツ自体は、現在、ヴァイオレットが知るかぎり、この『蝶番 命』以外いないという事だった。
そして、オレ達スイーパーは、蝶番の眼に適った者しか成れないのが主で。
スイーパーとなった者には、それぞれ等しく『ダストネーム』と言う字名(あざな)を、蝶
番から頂戴する。その際、どうやるのか知らないが、ソイツ自身の存在は過去から未来に至るまで抹消される為、元名も捨てなくてはならない。
ダストネーム――――直訳で「ゴミの名」とは。
まさにスイーパーらしい、うってつけの名だと思う。
何故なら、蝶番が気に入らなければ、いつでもソイツを捨てる事が出来る名だからだ。
ちなみに字名を付けるのは蝶番なので、コイツの趣味嗜好により決まる。
どうも、コイツは自然界のモノが好きらしく、先程も出てきた「ウィンド(風)」を初め、「ツリー(樹)」や「レイン(雨)」など、と、色々付けているようだ。
 オレは「グラス(雑草)」という名を付けられた。
雑草と付けられて、気分を害したかと言うと、そんな事は無い。別に嫌いでも無い。むしろ名を付けてくれた事に、感謝しているくらいだ。
 どうしてかと言うと――――。
オレには、一年前より過去の記憶が全く無い。
何故、記憶が無いのか、理由も分からなければ知る気も無い。ただ分かっている事は、オレが眼を覚ました時、一番最初に飛び込んできた映像は、この薄暗くオフィスとは言い難い部屋の、危なげにユラユラと揺れていた電灯だった……。
蝶番曰く、オレは氷室市の駅前にある公園で倒れていたらしい。しかも、大量の血を頭から垂れ流しながら。
あまりの出血の量で記憶が飛んだのだろうと蝶番は言っていた。実際、記憶は無いが、記憶が飛ぶであろうくらいの衝撃を頭に受けたのではなかろうかと、オレは括っている。髪で隠しているが、未だに右後頭部には長さ五センチ程の傷が残っているのだ。
それだけで事件性を感じ、それだけで殺意を感じ、それだけで「現在」のオレは「過去」のオレを問いただしたくなるのだ。もし――もしも何も無ければ、オレという『人間』は、もっと違う人生を歩んでいたかも知れないのだ。
それを思いだそうとしているのか、そうでないのか、雨の日など時折、オレを戒める様に、傷がズキズキと疼くのだった。そう言う事で、オレにとって蝶番は、仲介人であると同時に、命の恩人でもある、と言う事なのだ。
今でも印象に残り過ぎているくらいだが、その時の目覚めたオレに対しての第一声は、コイツらしい言葉で……。
「選択したまえ」
だった。
 何を選択するのか? 
それは記憶のないオレが、このまま外に出ていき生き抜いていくか、それとも、自分の行っている『闇稼業』の手伝いをするか? の二択。
 胡乱な頭で、しかもダメージを負っている頭で、記憶の無い頭で、突如、そんな事を言われても、上手く立ち回れるほど冷静ではなく、どう考えても選択肢は一つしか無かった。
訳も分からず、必死に首を縦に振った事を覚えている。
勿論、それからのオレの人生は、未だかつて味わった事は無いであろう地獄の様な日々が待っていた。しかし、それでも生きていくためのモノを、コイツは提供してくれたのだ。それに感謝しない訳にはいかない。
そして、倒れていたオレを見つけて運んできたのは、オレのサポーターをしているヴァイオレットで、悪態、罵詈雑言を浴びせてくる「女」だが、やはり、命を救ってくれた恩人であるコイツにも感謝の気持ちは忘れてはいない。
しかし――ここに一つ、疑問符が生じる。
それは、蝶番に絶対服従姿勢であるヴァイオレットが、見ず知らずのオレを、何故、この部屋に運び込んだのか、と、いう事だった。
それを尋ねても、ヴァイオレットは適当な事しか言わず、蝶番に至っては、記憶にございません、などと、ふざけた事を抜かしやがるのだった。何度か、同じ様な問答を繰り返してみたが、これ以上の詮索は無駄だと感じ、それ以来、訊く事を止めた。
 さて、こんな事件性プンプンのオレを、勝手に運び込んできたヴァイオレットの様な輩を『サポーター』と呼び、ソイツラは、オレ達スイーパーを補佐する役目を担っている。
仲介人を「マスター」と呼び、仲介人の代わりに動く「代行者」である。
しかし、補佐とは言い方だけで、単なるスイーパーの監視役でしか無く。もし、スイーパーが依頼を完遂できないと分かったその時点で、蝶番に報告。そして、別のスイーパーが送られる、というシステムになっているのだ。
 場合によっては――サポーターによりスイーパーが殺される事もある――らしい。
 サポーター達は、全員統一して色を名としている様だ。
しかし、その徹底ぶりと言ったら…………。
二日前に現れたヴァイオレットを見てもらえば分かると思うが、それこそ肌の色以外は全部、その色に統一しているのだ。
逆に目立つと思うのだが、ヴァイオレット曰く「我らの仕事は隠密」らしい。
 見た目からは想像出来ないが、確かに「隠者」の様な動きをするコイツらは神出鬼没なので、ときどき驚かされる。
とてつもないセキュリティーの掛った場所で、スイーパーが何重ものロックを外して、ヒーヒー言いながら入った場所でも、汗一つ掻く事も無く平然と入り込み、そして、平然と姿を消すのだ。
 ヴァイオレットは、その説明を求めると、それがESP(超能力)だ、と、興味も何もない無表情で答えてきたのだった。
 オレは、身体一つでやってきた人間だから、そんな非現実的なESPなどと言うモノ、信じちゃいないが。
さておき――コイツ。
目の前の眼鏡を掛けた、いつも薄い藍色の燕尾服に、血の様に紅い蝶ネクタイを付けた男「蝶番 命」の事で分かる事は、仕事の事以外、全て謎に包まれているという事なのだ。
まぁ、オレにとってはあくまで仲介人であり、仕事を提供してくれる人間であることに変わりは無いのだから、全く問題は無い。
だが――――気になる事は些細な事でも訊いておく。
それがクランケ達成のための重要事項である事を知っているオレは、つい仕事柄、毎回尋ねてしまうのだ。
「はぁ~、了解。どうでもいいが、そのポーズ……なんとかならないのか、ミコト?」
 オレはコイツ……『蝶番』の事を呼ぶ時は、名前の『命(みこと)』を使っている。理由は単純に「蝶番」というのが面倒なだけだったからだ。
 蝶番曰く、コイツの事を「ミコト」呼ばわりするのはスイーパーの中でも、オレか、もう一人のスイーパーしかいないそうだ。どうせ偽名なのだから、どちらでも構わないと思うのだが。
そんな事を備に思っていると、蝶番が、今のポーズについて語りだす。
「それは、どうにもならない理(ことわり)ですよ、ダストネーム・グラス。例えて言うなら、もし、この街で飲まれている飲料水。それが、実は水では無くて、水に似通った物質で、キミはそれを知らずに、口にしてしまう。そして、その成分が身体に合わないといって、細胞達が自ら、内部破壊を始めてしまったら、キミはどうするのでしょう? 体内で起こっている事です。どうする事も出来ないでしょう? それと同じ事なのですよ、ダストネーム・グラス?」
 コイツの例え話は、どこをとっても、例えになっておらず、どちらかというと、押し問答の様な感じを強く受ける。オレは、いつも蝶番の例え話は、軽く聞き流す事にしていた。
 そして、再度、仕事を催促することにした。
「要するに、手の施しようが無い、そう言いたいのか? 分かったから、早く仕事を紹介してくれ」
 フッと鼻で笑ったかと思うと、些か御機嫌を損ねたらしく、深く嘆息をして、オレに一瞥を送る蝶番だった。どうもオレの解釈は微妙に違うようだった。
「フム、分かりました。では、どれを選ぶかは、キミ次第。良いですね?」
「あぁ、分かっているさ。早く出してくれ」
「では――――」
 蝶番は、デスクの引き出しから、何かを取り出して、それらを、蛍光灯のデスクライトしか無い、デスク上にばら撒いた。
 それらを丁寧にかき混ぜると、ゆったりとした動作で、一枚一枚、円になるよう均等に並べていく。そして、蝶番は、形作られた円上で両手を広げつつ、不敵な笑みを浮かべる。
「……さぁ、選びたまえ? 選択肢はキミにある!」
「――――」
 オレは黙って、裏返しになっている二十二枚のカードによって作られた円の一部を剥がして、そのカードを空いている真ん中に、ひっくり返しながら、蝶番にも見える様、置いてやる。
 そこには、雷に打たれた『塔』の絵が描かれていた。
「フム。『タワー』のカードとは……? つくづくキミは運が良いのか、悪いのか、分かりかねますね」
「オレには良く分からないが、そのカードは良いのか、悪いのか?」
「一般的には「最悪」ですね。ですが、我々からすれば、危険極まる事ほど、報酬も高くなる。そう言った部分では「最高」ではないでしょうか? 受けるか、受けないかはキミ次第だけど?」
「ふ~ん、そうか。そしたら、その仕事受け持つぜ? 紹介しろ!」
「――――交渉成立♪ ――――」
 蝶番は、妖しい笑みをこぼしながら、デスク上のカード達を、一動作で、全てを手の中に押し込めてしまう。そして、トントンと綺麗に整頓してやると、また引き出しの中にそっとしまうのだ。
 そう、コイツの別名は……


――――『死神タロット』――――。


非常に変わっているが、蝶番、否、仲介人から依頼を受ける時は、どのような依頼が来ているか、事前告知される事は無い。こうやって、仕事の依頼を受ける時は、今みたいに「タロット」と呼ばれる二十二枚の占いなどで使うカードを、自らが選ぶ。そして、引き当てたカードで良ければ、初めて交渉成立となり依頼を告知される、というシステムになっているのだ。
しかも、それぞれカードの内容によって、クライアントの依頼が決まっている。
例えば、今、オレが引き当てたカード『タワー(塔)』は、タロットの中でも、最悪の部類に入る。と言う事は、それだけ依頼の内容が「濃い」と言う事だろう。
逆に『ワールド(世界)』と言われるカードは、善い部類に入るので、依頼の内容は簡単なモノになっている。だから、今回引いたオレのカードは、タロットをかじっているスイーパーなら、即刻、お断りする所だと思う。しかし、それを受ける、受けないは、こちらの判断。それで命を落としても、蝶番には何ら落ち度は無いのだ。
だが、オレには、そんなタロット予備知識も無ければ、今更、惜しむ命も無い。ただ、仕事をこなせれば良いのだ。だから、考えなしの一言返事で了解をした。
 しかし、心療内科同様、コイツがタロットカードで占いをしている所など、見た事が無い。もしかしたら、陰ながら占っているのかも知れないが、基本的に商売道具でしか無いのだろう。
 オレ自身、蝶番の事を詮索しない様にしていたため、それすらも良く分かっていなかった。
「さて、最悪の部類に入る『タワー』のカードを、引き当ててしまったオレだが――――」
「キミは、いつもいつも恵まれていると思いますよ、本当に」
 言葉をかぶせてきた蝶番。
その言葉の真意は推し量れないが、コイツがこう言う時は、良い感じにヤバイ依頼の時だ。
自らで動いて、クライアントの依頼をこなした回数は、たかが五回程度だが、下積みで……ダストネーム・ウィンドと一緒にやってきた期間もある。少なからず下手なスイーパーよりも経験値はあるはず、と括っていた。何故なら、ウィンドがいつも拾ってくる仕事は、危険極まりない仕事ばかりだったのだから……。
 ウィンドは、オレのスイーパーとしての師匠である。と、同時にスイーパーの中でも最高峰の人間。いや……人間なのかどうか、それは定かではない。
何故そう思ったのかと言うと、不思議なことに、ウィンドは決して『死』ぬ事が無かったのだ。誤解を招くようだが、これは一つの例えだと考えてほしい。
『ウィンド=風』
ウィンドは、風の様に、すぅ~っと入り込み、すぅ~っと仕事をこなし、すぅ~っとクランケ完遂をサポーターに告げる。
そんな者だからこそ、と、蝶番が即決で付けたダストネームが、今、スイーパー内で伝説となっている「ウィンド」と言う事らしい。
それくらいウィンドの仕事には、危なげな所は見当たらず、だから『死』ぬ事は無かった、という言い回しがシックリと嵌り込んでしまう。
そんな伝説的なスイーパーから独立して、はや二ヶ月。
オレも、自分でこなしたクランケの数も、通算五回になり、今回ので六回目となる。
しかも、今までは『ハングドマン(吊るされた男)』や『チャリオット(戦車)』『ハーミッド(隠者)』など、あまりよろしくないカードを引き当てつつも、モノ探しや裏取引の現場を押さえるなど、陰ながらのクランケばかりだったので、命に関わるくらい、そこまで酷いモノは無かった。
だが、今回のカードは『タワー』だ。
蝶番曰く、最強最悪らしい、このカード。早速、クライアントの依頼内容を尋ねてみた。
「ミコト? 今回の依頼はどんな内容なんだ?」
「今回はですね……。はい、これが資料です。確認してください」
 パスっと乾いた音を立てながら、無造作にデスクの上へと投げられた資料を手に取る。
全部で三枚の内容。いつもなら、もっと鮮明に書いてある為、最低でも五~六枚はあるはずなのだが「最悪最強」の依頼にしては、余りにも少なすぎる。
 気にしながらも、パラパラ資料をめくっていると、蝶番が、お得意の手を組みながらのポーズで話しかけてきた。
「今回、異例中の異例ですが、クライアントが直接、担当のスイーパーと話がしたい、そう言ってきています。なので、ダストネーム・グラス? 明日の夕方四時、また足を運んでくれますか? 詳しくはそこでお話しますので……」
「珍しいな、そんな事もあるのか…………分かった。明日の四時か?」
「えぇ。それまで、身体をゆっくり休めて下さい。少々、キツイ依頼になるかと思うので」
 了解、と言い残し、そのまま踵を返して、ドアへと向かう。
すると、いつの間にかドアの前に、オレのサポーターであるヴァイオレットが、相変わらず紫基調のタイトなスーツを着衣して立っていた。
オレは一瞬だけ、目を配るとすぐに資料に目を戻す。たった一瞬だったが、今日はどうしたのか紫女は、いつも背中で流しているロングヘアの髪を、ハット型の帽子に入れ込んでいた。
「……どうした? なんか、あるか?」
「一つ御助言をしておこうと思いまして。よろしくて? マスター?」
 目線を蝶番に送るヴァイオレット。
コイツから助言など、珍しい事この上ない。それくらいに厄介なクランケなのだろうか。
「どうぞ、ヴァイオレット? 選択肢はキミにあるのだから」
 と、常套句を述べる蝶番。それに殉じ、クスリと笑みを浮かべた紫女は、モデルの様な立ち姿でオレに向き合い、こう囁いてきた。
「ありがとうございます、マスター。では、グラス? 今日、自宅でも、どこでもいいから、必ずニュースを見る事、お勧めしますわ?」
「……それが、今回のクランケに関わる事なのか?」
「それはワタシの口から言う事ではないので。ただ、よく見ておいた方がよろしくてよ?」
 やや真剣な面持ちのヴァイオレットに、いつもの対応は失礼だと思ったオレは、真剣に応じる事にした。
「了解。今しがた、お前のマスターより、サポーターを上手く使えと、言われたばかりだしな。しっかりと助言、承らせてもらうよ」
「ウフフ♪ 素直なグラスなんて気持ち悪い。なんか良い事でも、あったのかしら?」
 コイツは……。
二日前の失敗を、ワザと彷彿させようとしているのではなかろうか? そう括ってみても、結局はオレの推し量る所ではない。
オレは二人に、簡単な挨拶を交わし、資料を読みながらその場を後にした。
 外に出ると、ちょうど夕方帰りのスーツ姿が、数多にも眼に飛び込んでくる。オレはそのスーツの流れに逆らう様に、駅前まで歩いて行く。理由は、ヴァイオレットに言われた、ニュースを見ておけ、という事を実践する為だ。
オレの家には、TVなどという俗的なモノは無い。あるのは、ベッドと冷蔵庫、それにデスク程度で、後はクローゼットに私服が何着かあり、それに仕事用と蝶番から何着かもらった、ブラックの耐性スーツがあるだけだ。
だから、駅前に設置されている巨大なTVスクリーンで、一日何があったのかを確認する事も、日課の一つとなっている。
既に春とは言え、夕方になれば、まだ肌寒さは残っている。だから、蝶番のオフィスで巻くっていた袖を元の長さに戻し、自販機でアイスのミルクティーを買う。それを片手に、いつも座っている駅前にある公園のベンチに腰を掛けた。
そう、ここでオレは大量の血を垂れ流し倒れていたのだ。その時の血痕だろう、一年経った今でも、その倒れていた場所に行けば、見る事が出来る。しかし、そこに行ってオレの記憶が戻る訳も無く、何度か足を運んだが、結局、行かなくなった。
だから、この公園に来るのは、自分探しの為では無く、単純にTVを視る為でしか無かった。
「ふぅ~、さて――――と」
オレは溜息を吐きながら、ミルクティーのタブを開けて一口飲み、スクリーンに目を配る。
スクリーンはやや遠めで、映像は見えても、さすがに音までは聴こえない。しかし、ソレはは瑣末な事で――オレにしたら全く問題では無かった。
一点に意識を集中させ、聴覚器官をフル稼働させれば、必然と音を取る事は出来る。
いくらESPを信じていなくとも、これくらいの芸当は出来なければ、スイーパーなどという危険極まりない事など出来やしない、オレはそう思っている。
静かに目を閉じ、深々とかぶっていたキャップを、更に深くかぶり直す。そして、耳に神経を集中させて、意識をスクリーンにぶつける。
そうすれば――――。
『今日のニュースです』
 ほら、聴こえて来た。後はこのまま、キャスターの声を聴き続ければいいのだ。
キャスターは続けて話をする。
『二日前に起きた、H社爆発事件に、新たな情報が飛び込んできました』
 これは二日前に、オレが潜入したクランケだ。やはり、かなりの話題になってしまっている。
 H社は大手大企業で、今後のIT業界を担うと言われている企業なのだ。が、裏では、かなりの悪どい取引を行っており、今回のクライアントは、そのH社をリストラされた、元会社員だった。
 クライアント曰く、表では公明精彩なブローガー会社として名を売っていたのだが、裏で、上層部が他国の有力権力者共に対し、アダルト向け内容のデータを流出して、世界的評価を上げてもらうよう指示していた、と言う事だったのだ。
 この日本という国は、世界の評価に流されやすい傾向性がある。その習性を利用した新手の手法をH社は思いつき、実行する。
結果――世界的評価に流された日本人は、その流れに乗っかってしまい、H社は一躍大企業へと発展したのだ。
 今回のクライアントは、その横暴が許せない、などと謳っていたが、心の奥底では、結局の所、リストラされたという単なる私怨しか無かったように思う。
 まぁ、そんな裏事情は、スイーパーのオレに関係の無い事。言われた事を言われた通りに遂行するのみ。
 だから、依頼を受けた後、下調べを済ませ、クランケのH社に忍び込み、上層部にあるセキュリティーが何重にも掛っていたPCからデータを奪い、USBメモリーに保存した。
しかし、さすが日本はセキュリティー産業が発達している国だ。その異変に気付き、息つく間もなく、追われる事となったオレ。
だが、逃げる為の準備を怠らないのもスイーパーの腕なのだ。
侵入した際、目暗ましと思って設置しておいた小型火薬弾を作動させると、どうも火薬の量を間違えたらしく、予想外な爆発を起こしてしまった。
これは大失態。追われる事に対しては免疫があっても、自分で設置し、自分の感覚では、こうなるであろう予想を覆してくれた小型火薬弾には、本当に驚かされた。それでも、冷静さを欠きつつも、何とか逃げおおせる事は出来だのだ。
しかし――――。
こうやってニュースで取り上げられてしまうという事は、これはこれは、どうしようもない失態でしかない事は覆せない。
見られていたのは、せいぜい体格程度だと思われるから、これ以上の失態――要は顔が見られて身元が割れてしまう、なんて事は無いだろう。
でも、些かながら気になってしまうオレは、今しがた流れているキャスターの声を聞きもらすまいと、さらに神経を集中させた。
『昨日、警視庁から急遽、H社宛てにFAXが送られた模様。詳しい詳細は分かりませんが、今現在、警視庁官より話があるようです。そちらに繋ぎます――――』
「『詳しい詳細』なんて……初歩的なミスだよな。もっと日本語、勉強しておけよ」
 一人ブツクサと、キャスターのかぶり日本語に文句を言いながら、再度、耳を傾ける。
幾ばくか分からないが、周りは更に喧騒が増え、斜陽を超えた夕闇が訪れようとしていた。
『国交に侵害を与えるかも知れない内容のモノが、H社より流出している、との情報が入りました。今後、詳しく捜査をし家宅捜索の方を――「国交に侵害を与える内容とは、どんな内容なのですかっ!?」――それには、お答えできません。私たちも先程そういった内容を知り、その上でH社に確認をした所、そういった事実が無い、と言いきれずにいたので――「その時のH社の反応はいかがでしたか? それに先日、事件に巻き込まれたH社の神童専務の件も絡んでの」――込み入った事は後日報告いたしますので、これで会見の方は終了いたします』
「ふ~ん、ミコトのヤツ、公表したのか。あのクライアントにさせておけば良いモノを……。なんだかんだ言いながら、お人良しなのかもな。さて――――」
 とりあえず、ヴァイオレットの言いたかった事はこの事なのだろうと思い、オレはそっとベンチから立ちあがった。すると、まだ集中が切れていなかったようで、先程のキャスターの声が耳に届いていた。
『続いてのニュースです。先週から起こっている、原因不明の器物破損事件の続報です』
「器物……破損、事件? あぁ、あの爆発した形跡が全く無いのに、コンクリの柱や壁が破壊されているっていう、アレか?」
『県警の調査によると、破損した原因は未だ解明には至っておらず、詳細は分からないのですが…………』
 オレはなんとなく、そのニュースが気になり、またスクリーンに眼を戻した。
どうも今日のニュースキャスターは、歯切れが悪い気もする。新人なのだろうか、などと、思うオレも、蝶番から言わせれば「新米」らしいが。
『今までの現場を検証していると、ある事が浮かび上がってきました』
「勿体ぶるなって……。なんだよ?」
『犯行は、深夜一時から三時の間。現場は全部、羽桜市の屋内駐車場か、高架下の駐車場で起こっています。羽桜市の皆様は、お気を付けください――――』
「ふ~ん。羽桜市、か。ここから、そんなに遠くないな……」
 飲みきった空き缶を、ポンポンと空中に投げていたら、突然、背筋に何かが迸った。
オレは、すぐに、その原因を身体全体で探す。すると、目視出来る所に見知らぬ人間が一人立っていた。
 距離にして、約百メートル。位置にして、オレを挟んでスクリーンと真反対。
夕方を通り越した夕闇の中にあって、電灯がチカチカと点灯し始めている。そのチカチカの光に反射して見えた人間は、背格好からして、どうも男の様だ。
男は、季節的にはちょっと暑いかと思われる、白い色のパーカーを着ていて、フードを深く顔が隠れるように被っていた。ズボンは七分丈のジャージ。体格から見て、格闘技などをやっている様には見えない。
ズキンと右後頭部が疼いた。
その直後、ヒンヤリした風が一陣、オレの横を通り過ぎる。その風を受けて、オレは上空を仰ぐと、先程まで晴れていたはずの空が、いつの間にか雲に覆われつつある。それこそ『雲行きが怪しい』と言う言葉が、やけに似合う風景と化していた。それに重ねるが如く、天候と同じくらいに、白パーカーの男のポケットに突っ込んだ手が、オレの感覚に何かを伝えていて、妙に気にさせてくれた。
こういった時の直感を、オレは信じる事にしている。ESPは信じちゃいないけれども、人間には秘められた力がある事は確かで、先程の過剰聴覚だって、それの一つでしか無いのだ。
動物も危険を感じれば逃げる。それと同じような能力を、同様の星に住んでいる人間が出来ない訳はない。
だからこそ、オレは警戒心をMAXにしておく。いつでも動けるようにしておく。相手がオレの事をスイーパーと知っていようがいまいが関係ない。
何故って? それは単純に『殺気』がむき出しなのだ、オレに対しての――――。
よく見てみると、その白パーカーは笑っている様だった。
やや長い前髪が垂れさがり、眼の辺りは隠れているのだが、それは明らかに挑発的な笑いで、間違いなくオレの事を『ターゲット』としている、そう思えた。だから、オレは、アイツから視線を外すことなく、先程から空中に投げていた空き缶を、手の中に納めず下に落とす。それが地面に落ちて、カランと音を奏でる。
「そらよっ!」
そのまま落下し、バウンドした空き缶を、オレは白パーカーに目掛けて、思いっきりシュートした。
曲線ではなく直線で真っ直ぐ飛んでいく空き缶が、百メートルも遠くにいる人間へ向かっていく。普通なら、それだけで驚き、尻込みするモノだが、コイツには全くそんな気配は感じない。ハッキリ言うと、微々たる気配すら醸し出してはいなかった。
 オレの中で感じ取ったコレは『直感』と言うより『確信』だ。
コイツは、間違いなく『プロ』な輩である、そう括る事にした。
何のプロか?
そんな事は些細な事。
言ってしまえば何でも良いのだ。
スポーツでも、格闘でも、芸術でも――――。
バカらしく聴こえるかも知れないが、プロとは、そういった気配を醸しだす。だから、どんなプロであろうとも、絶対に警戒心を解く事はしない。例え、この缶がコイツの額に当たったとしても、だ。
そして、オレの予想は正解だった。
確かに正解だったのだ。
だけど、間違っていた。
間違いなく、この白パーカーは、プロなのだが……。
「――――ッ!? なんだ、今のっ!?」
 オレの蹴り飛ばした空き缶が、コイツに当たる瞬間、突如、軌道を変えてしまう。
しかも。
「は、破裂するって、どんなトリック使ったんだよ!?」
 そう。
オレはコイツをプロと認定しても、一体、何のプロなのか思いつかなかったのだ。それくらい予想外で、理解不能で、理不尽な状況に陥ってしまった。
どんな状況かと言うと、なんの変哲もない空き缶が、前触れも無く破裂したのだ。それは、先程までオレが口にしていたモノで、一度たりとも、コイツが触ることなどなかったのだ。いや、破裂するまでの間、一回も触れちゃいない。その時点で、オレの理解域を超えてしまっていた。だから、何かは分からないが、コイツはある種のプロで、そして、たった今、オレはコイツのターゲットとなった。
それだけの話。
頭がそう考える前に身体は動き出していた。完全に思考を止める事で、脳は警戒心を最大限にする。そうしなければ、自らの判断ミスで自らを滅ぼすからだ。
「でぇぇやぁぁぁぁぁぁぁ!」
百メートルあった距離は、重力に逆らわず身体ごと前に倒す、まるで野獣の様な態勢で走るオレの鍛え上げた脚力の前では無いに等しかった。二呼吸後には攻撃範囲内に入り込める、オレの五臓六腑を含めた全身が、そう叫んでいた。
もう白パーカーの顔が目視出来る距離に入った。
『攻撃範囲内に入る』 
と、頭で考えた時には、もう右の拳が振り上げられている。
オレの拳なら、ちょっとした木材や、簡素な鉄の扉程度なら破壊する事はたやすい。ある程度のプロならば、そういった緊迫感を感じてもおかしくないのだが、白パーカーのヤツは、未だに、ニヤけていやがった。
「舐めるなぁ!」
 身体全身を拳に預け繰り出されたパンチは、瞬間的にシュッと空気を切り裂く音を轟かし、白パーカーの胎を抉った――――はずだった。
「な、んだ、って?」
「クス♪ おにいさん、その道のプロだよねぇ? だって、ためらいなく俺に攻撃してきたんだもの。それ、正解だよ。だけど、残念。届かないよ、おにいさんの攻撃は、ねっ!」
「――――ッ! ガハッ!」
 白パーカーの差し出した右手が、横薙ぎに振られた。たったそれだけの動作により、オレの身体の右側全体が、視えない何かに弾き飛ばされてしまったのだ。
「クス♪ 今日の所は、これくらいにしとくよ、おにいさん? もうちょっと強くなってくれないと面白くないなぁ。そうしないと『風に追い付けない』――それじゃ~ね♪」
「――――ッ! おいっ! ま、まて……よ!」
 白パーカーは、意味深な言葉を残していき、呼びとめるオレの声なんぞ聴こえていない雰囲気を出しながら、そのままオレに踵を返し、街中へと消えていった。
「ク、ッソ……。な、なんだ、よ、一体? 『風に、追い付けない?』 な、んだってんだ?」
 グググッと身体を起こすも、先程の視えない攻撃のせいで、上手く身体に指令を送ることが出来なかった。それもそのはず、攻撃が見えれば、ある程度、身体が衝撃に対して準備するモノだが、視えないとなると、その衝撃は全身無防備になっている身体に迸る。
 例えば、意識していない時にタンスの角で足の小指を撃つ。すると思いのほか痛い。
それは無防備な意識の中で、身体が痛みに抵抗しようと準備する間も無く、身体に痛みという衝撃が走るから痛いのだ。
 だから、それらの攻撃のエネルギーを一身に受けてしまったオレは、全身が蓄積されたダメージのため、意思どおりに機能しなくなってしまった、と言う事なのだ。
 しかし、そんな事よりも――――。
オレの攻撃は、立ち位置、距離、タイミング、相手の動作、全てを総合しても、確実に白パーカーの胎を抉っていたはずなのだ。しかし、オレの拳は白パーカーに触れることなく、それこそ服にすら触れる事すらなく、白パーカーの前で、一時停止を押された様に動きを止めた。
それは、今までの勢いをゼロにされている事と同じだったのだ。
こんな事は初めてだ。
ダストネーム・ウィンドと訓練している時だって、こんな事はあり得なかった。
オレは、かなり困惑していたのだろう。ヤツが不敵な笑みを浮かべているのを見て、何故か『蝶番』を思い出してしまった。アイツを思い出してしまうくらい、未知で計算不可能な相手だったのだ。
初めてかも知れない、相手から退いてくれた事。
そして、それに安堵している自分が存在している事が。
そんなオレを戒める様に、右後頭部が激しく疼いていた。何故なら、それは経験値としては良くとも、オレのプライドを引き裂いて、頭に血を滾(たぎ)らせるには十分だったからだ。
「くそっ! くそっ! くそっ! くっそぉぉぉぉ!」
 オレは、その場に蹲り、ドンドンと地面を叩き続けていた。
ただただ、叩き続けていた。
手が血に滲もうが、皮がむけてこようが、肉が見えてこようが、一向に構わず。
ずっとずっとずっとずっとずっと……………………。
そして、空には黒く厚い雲が覆いかぶさっており、一陣の風が舞い上がると同時に、それが天に着くころには、春先にも関わらず、ヤケに冷たい冷たい雨が、シトシトとオレの頭と身体に降り注いでいた。

……………………

「フム。ナルホド、ナルホド? お話は良く分かりました。それで、ダストネーム・グラス? キミは、その力を、何だと思っているのですか?」
「…………分からんから、訊いてるんだ。じゃなけりゃ、約束の一時間前に来るものか」
「クスクス♪ そうですね。ですが、もうお気づきでしょう? ダストネーム・グラス?」
「――――ッチ」
 オレは今現在、蝶番の「診療所兼オフィス」と呼ぶにはみすぼらしい部屋で、相も変わらず薄い青色の燕尾服に、眼にそぐ合っていない眼鏡を掛ける男の前で、ややふて腐れていた。
 話辛い事だったから、サポーターのヴァイオレットには、席を外してもらっている。
 オレの両手は、白い包帯を雑にグルグルと巻きつけているのだが、アドレナリンが大量に出ているのだろう。痛みよりも、怒りの方が強かった。
 オレは、昨日の白パーカーについて、洗いざらい仲介人に話をしたのだ。そしたらコイツときたら…………深刻な面持ち一つせず、ケラケラと、さも愉快そうに笑っているではないか。それが、さらにふて腐れる要因になっているのは、言うまでも無い。
蝶番が言わんとしている事は分かる。だが、オレは、ずっとその事を信じることなく、自らの力のみで、戦い、切り抜けてきたのだ。そうヤスヤスと認めてたまるか、それが今の心情。
 それを見透かして、蝶番のヤツは、更にオレに対し追い打ちを掛けるが如く、話を進める。
「前にもお話したかと思いますが、人間の脳は、一般人において、約二パーセントしか稼働していないのです。しかもそれは「右脳と左脳」両方を使って、二パーセントなのですよ? 如何(いか)にキミが信じようと、信じまいと、その脳の稼働率を上げた者が存在しているのです。そういった者が使える力を、総じて――――」
「――『ESP』そう言いたいんだろ? 分かってる、分かってんだよ。あんな未知な力、未だに信じられないんだからな。だがな、ミコト? オレはそれをずっと否定し続けながらも、こうやってクライアントの依頼を、こなしてきたんだ。それを今更、覆す気は起きない」
 どこか困り果てた雰囲気を態度に表しながら、蝶番は子供を諭すかの様に言伝るいてくる。
「しかしですね、ダストネーム・グラス? キミの感覚増強だって、一般人からすれば、超能力以外の何モノでもないのですが?」
 オレは思わず立ち上がり、蝶番のデスクにバンッと、白い包帯を巻いた手を叩きつける。
「あれは、訓練したら誰だって使えるようになるだろうがっ!? お前らの言っているESPなんて代物――修行とか訓練とか、そういった類のモノだけじゃ説明つかない事が、オレは気に喰わないんだ!」
「そうは言っても……。そろそろ、理解していただかないと、今回のクランケは、お断りしなくてはいけませんよ?」
「ハッ? どういうことだよ、ソレ?」
 蝶番は、少し間を置き、いつもの肘を付いたポーズで、いつもより低い声音を吐き出した。
「ここまで話して、まだ分からないのですか? ダストネーム・グラスともあろう者が……」
「まっ! まさかっ!? 今回のクランケは――――」
 ニヤリと笑い、眼鏡の中の瞳が妖しい光を放ち、ゆったりと唇を動かす蝶番。そして、オレの胸の内をグラグラ揺れ動かす、一言を言い放ちやがった。
「ご察しの通り。今回のクランケは、ESP絡みなのです♪」
「――――ッ! くそっ。そんな事、信じられるかよ!?」
 眼鏡越しの瞳が、電球に照らされて七色に光り…………しかし、それはあまりにも普遍的で、世間体でいう所の、秩序のカケラすら感じさせない冷たい光彩を放っていたのだった。
「信じる信じないは、キミが選択する事。しかし――それに対して準備もせず、みすみす依頼を反故するわけにはいきませんのでね? もし、キミが今回の選択を破棄するというのであれば……別に構いません? 何故なら、選ぶのはキミ次第なのですから」
「だが、反故するという事は……」
「仰る通り。スイーパーを剥奪させて頂きます。それが契約ですからね」
 そうなのだ。
一度依頼を受けると、その内容を知ってしまっているため、反故する事は出来ない。
 例外としては、蝶番が、このスイーパーには任せられない、そう判断した時のみ、反故しても大丈夫なのだが、たった今、コイツからスイーパーを剥奪するという言葉が飛び出したのだ。と、言う事は、オレでも可能なクランケである事を意味する。
 それを知っているオレは、ただでさえ、前回の取り分が四割になってしまっていた事もあり、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
 まんまと蝶番の話術にはめられた、そう言って間違いなかったのだ。
この時ほど、自分の単純な性格を怨んだ事はなかった。しかし、それは後悔先に立たずなのである。だから、オレは勢いに任せて、つい口走ってしまった。
「ッチ! 分かったよ、分かりました! やるよ、やる。どんな形であれ、オレは今回のクランケを遂行するぞ」
「そう言って頂けると助かります。いいでしょう? 今回に限り、取り分は……グラス? キミを六割としてあげます」
 またも瞳に妖しい光がともる。そう言いながらも、全くオレの方を見向きもせず、A四サイズの用紙をパラパラめくっていた。
 オレとしては「六割」という言葉は、非常にありがたい。それに喰いつかないはずなどないのだ。だから決意を新たにし、オレはこう呟く。
「分かった! それでいいなら、確実にこなすぜ?」
「――――交渉成立♪ ――――」
 いつものセリフ。依頼を受けた時に必ず言うセリフ。それを聞いた時、ふと今回のクランケ資料の内容が、あまりにも少なすぎた事を思い出した。
 オレは事前打ち合わせも兼ねて、それを尋ねてみる。
「おい、ミコト? 今回のクランケなんだが、これは後日相談になっている所を見ると、直接、クライアントから話があるんだろ? それはいいとして、このクライアント『遠霞 香澄(とほ かすみ)』ってヤツは、年齢十七歳って書いてあるけど、本当か? どこぞのゼレブなんだよ、このクライアント?」
「いえ? 今回のクライアントの遠霞様は、セレブでも何でもありません。どこにでもいる、いわゆる「女子高生」と、いうモノですが?」
「はぁ!? 普通の女子高生が、この報酬額……一千万なんて、出せるのかっ!?」
「出せるかどうかは、ボクが推し量る所でないのは、御存じでしょう? 依頼があったから、その依頼を受ける。あとはそれを自然発生的にスイーパーが「引き当て」て任せる。それがボク、仲介人の仕事ですから……」
 コイツにとって、クライアントがどんな境遇であろうと、どんな悪どいヤツだろうと、関係ない。
あくまで依頼は依頼でしかなく……コイツに依頼を頼めば、その時点でクライアントとなり、クランケが発生する。それをスイーパーが遂行する事で、この三角関係は廻っているのだ。
 だから、蝶番の言っている事は決して間違ってはいない。だが、そこには人間味のカケラすら感じないのは、オレが勘繰り過ぎているからなのだろうか。
 オレの訝しげな顔を横目に、蝶番はポンッと手を打ち、首から下げている、それこそウン百万するであろう高級アンティークの首掛け時計をパカリと開いた。
「さて、そろそろクライアントがお越しになりますね? …………ヴァイオレット、ヴァイオレットは居ますか?」
 蝶番は、オレの背後にある扉に向かって声を掛ける。すると、建付けが悪いせいか、ギィ~っとイヤな音を立てて、部屋のドアが開かれる。
「およびでしょうか、マスター?」
 声の方に振り向くと、勿論、そこにおわしますは、オレのサポーターである「ヴァイオレット」だ。
彼女は無表情で立っている。しかし、すでに両手で大きな御盆を持ち、その上にはティーカップが三着置いてあった。
それを見た蝶番が、感嘆の声を上げる。
「おぉ~。さすがは、長年サポーターをしているだけありますね、ヴァイオレット? 準備は整っていますか?」
「はい、マスター。準備は整っております。後は、そこのイジケ虫が、発起してくれれば、何も問題はございません」
「誰がイジケ虫だって!? おいっ!」
「勿論、アナタの事ですのよ? グラス、そろそろ、お気づきになったらいかがかしら?」
 ヴァイオレットは表情一つ変えずに、サラリと言い返してきた。しかし、それはオレのアドレナリン分泌を、更に増幅させてしまう。
また、気分を害されたオレは、ドカリと、態度で怒りを表現しようと簡素なパイプ椅子に腰かけた。
言わせておけば、言いたい事ばかり言いやがって……。だが、些か間違いでもないのだが。
 「だ、そうですよ♪ では――ダストネーム・グラス? そろそろクライアントがいらっしゃいます。粗相のない様に?」
「……粗相のない様にって言われてもな……スイーパーが、クライアントに会う事なんて殆ど無いだろ? オレ自身、初めての事だから、どうしたらいいのか分からねぇ」
 オレはいつもと違う展開に、かなり強引なのだが、先程から垂れ流しになっている脳内物質の分泌を抑えるため、眼を閉じながら呟いていた。
すると、背後から気配を感じる。どうも御客人が到着したらしい。
そう感じ取ったと同時に、ガチャリという音。診療所兼オフィスとは言えない、みすぼらしい部屋のドアが開かれた……。
 
オレはそっと眼を開ける。オレの目の前の男が、おもむろに立ち上がり、背後に居るであろう、クライアントに声を掛けた。
「お待ちしておりました、遠霞(とほ)様。どうぞ、こちらへ……」
 オレの横を通り過ぎ、蝶番はクライアントを席に促す。だが、オレは変わらず、デスクの方に向き続けているので、蝶番がクライアントをどこに通すのか分からなかった。
が……ガタタと。
横にあるパイプ椅子を、引く音が聴こえてきて、オレは思わずそちらを振り向いた。
まさかと思うが――――。
高額を支払うクライアントを……? まさか、パイプ椅子になんて……?
「どうぞ、お掛け下さい」
 マジかっ!? そんな事って!? しかも、物凄い笑顔で催促しているこの男。オレは、正直あり得ない、それしか考えられなかった。
「お前、ちょっと待てって!? 仮にも、クライアントに――――」
「――――――――」
「――――ッ」
 言葉の途中に入り込んだ無言の威圧感を感じて、つい気圧されて黙ってしまったオレ。威圧感というより、それは「殺気」で。しかも、ここまでのモノを感じるとは思わなかった。
さすがは、仲介人。生死を金で買う男なだけある、という事か……。
どうでもいい事だが、確か、何かの神話だったと思うのだが「オーディン」という戦争と死の神であり、最高神と言われていたモノがおり、グングニルの槍と言われる終焉を迎える為の槍を携えていた、そんな話があった。
そういえば、オーディンとは正確な言い方ではなく、古代ノルド語の「オージン」が正しいと、蝶番が言っていたと記憶する。
多分、そんなモノに睨まれたら、こんな気持ちになるのではなかろうか? と、そういう風に感じずにはいられない、それくらいの殺気というか威圧感を感じて取ってしまった。
だから、いつもコイツに出す事はないであろう「殺気」を放ち返してみた。が、柳の様なフワリとした笑みで、流されてしまう。
何か試されている、そんな気分だった。それはウィンドと一緒にいた時、いつもウィンドにヤられていた、あの感じ……。
 オレと蝶番の、意味深ながら意味のないやり取りを感じ取ったらしい隣のパイプ椅子に腰掛けたクライアントが、オレに向き合う事無く、声を発する。
「私は、これで結構です。この方が――仲介人さんが言っていた「スイーパー」の方ですか?」
 結局オレは、初めて対面することとなるクライアントに対し、どう行動していいのか分からず、ずっと前を向いていたのだが、どうも隣のヤツは、声質からして若い女。やはり情報通り、と、いう事を認識した。
 だからオレは、粗相のない様に、という蝶番の言葉通り、軽く腰を浮かして、今しがた座っていたパイプ椅子を、彼女の方に向きなおし、再度、腰を掛けた。
「そうだけど……アンタが、クライアントの『遠霞 香澄』……さん、か?」
 いつも、さん付けで呼ぶことのないオレが、初めて(記憶がないから、一年前と換算して)というくらいの可能性だったので、少々戸惑ってしまった。
 それに……初めて対面するクライアント。
オレにとって、この仕事をしてから、お初となる体験を一度に何度もさせてくれている『遠霞 香澄』というクライアント。
 資料にあった「女子高生」という様相は、全くと言うほど感じさせる事は無く、あるとすれば、俗的な言い方になるが『優等生』が当たるだろう。しかし、それすらも度外視してしまうくらいの大人びた雰囲気を纏っている事も確かだった。
 顔付きは、清楚な面持ちで、少し伏し目がちな瞳が濡れた感じに見え、大人びたソレを思わせる。それに、これこそ大和撫子と言うべき「日本の美」とも謳われた絹の様な髪が、背中を泳いでいて。
さながら最近の子とは思えないが、服装は至って普通。薄いピンク色のブラウスに、オブホワイトのカーディガン。そして、薄い水色のロングスカートに、茶色のローファー。
 オレは、失礼かも知れないが『香澄』と言う名前が、むしろ『遠霞』にある『霞』に感じてしまった。それくらい印象が濃く、それくらい存在感が薄い人間。
それが、この『遠霞 香澄』と言う少女の――第一印象だった。
「私の顔に何か付いていますか、スイーパーさん?」
 凛とした瞳で見つめてくる。オレは気付かずに、茫然と見続けてしまっていたようだ。誤解を招かない様に、気を配りながら言葉を紡ぐ。
「いや、すまない。ちょっと考え事をしていたモンでな。それと、オレはダストネーム・グラスと言う。その名で呼んでもらってくれて構わない。だよな、ミコト?」
 厭らしく口元を持ち上げる眼鏡の男。軽く頷く所を見ると、良いようだ。本当なら、それはキミが選ぶ事だから、などと戯言を言いたい所なのだろうと勘繰ってみたりする。
 ともあれ――――。
話を進めろ、という意思を込めて、蝶番が右手を差し出してきたので、オレはもう一度、クライアントに眼を戻した。
「良いらしい。それじゃ、クライアントさん。今回の依頼なんだが、クランケ……その、依頼内容が、ここには詳しく書かれていないんだ。それに、こういった形で「クライアント」と「スイーパー」が顔を合わせる事など、今まで皆無だったんでな。正直、何を聞いて、どうしたらいいのか分かりかねている。まず、何故直接話をしたかったのか、そこを教えてほしい」
「……私の事は……香澄で結構です。毎回毎回、クライアントだと不便だと思うので」
「あ、あぁ。分かった。今度からは、そう呼ばせてもらおう」
 本来なら、初対面であるわけだから、それこそ「さん付け」の方がいいのだろうが、オレは単純思考な人間の為『香澄』と呼べ、と言われればその通りにしてしまう。
しかし、どうも一般人の女性、しかも少女の名前を呼び捨てにするっていうのも、記憶の無い今の「オレ」には、どこか気が引ける。まぁ、オレという人間は、自分でも良く分かっていないから、仕方のない事だろう。
香澄は、顔に不具合なくらい小さくつぼめていた唇を、本来の大きさに戻し、声音も少し音量を上げて語りだす。
オレは、その言葉を一つ一つに耳を傾けていった。
「今回、初めて、この仲介人さんに依頼を頼んだんですが……。依頼内容を記載しなかったのは、あまり人に知られたくない内容だったからです。なので、少人数で済ませたい、それが私の出した条件でした」
「なるほど……? それくらい込み入った内容である、そう理解していいんだな?」
 香澄は、コクリと首を一回縦に振った。そのまま伏せてしまった顔を、横から落ちてきた髪が覆い隠してしまう。それがまた、妙な色気を出していた。
 それは良いとして、今までの経験上、記載内容を少なくし、仲介人の蝶番には詳しく話をしておき、スイーパーのオレ達には最低限の情報だけを伝える、そういうクライアントは少なくなかった。
 しかし、そういう輩に限り、依頼内容は個人的な私恨や表に出してはいけない、要は、法に触れる様な内容のクランケがほとんどだったのだ。だから、今回もそれと同じだ、と、オレは考えた。
 ところが香澄は、本題に入る前に些細な事を質問してきた。
「あの……失礼ですが……グラスさんは「スイーパー」と仰っていましたが、見た所、私とそれほど年が離れている様には思えないのですが……」
 あぁ、なるほど。
直接クライアントと話すという事は、こう言う事なのだ。
要するに、直に『見』れてしまう。直に『視』られてしまうのだ。オレという人間そのものを――。
本来、クライアントにとっては、スイーパーが誰であれ、依頼を遂行してくれれば、なんら問題は無いはずなのだ。しかし、直接『視』るという事は、そこに相手が居るわけだから、それが自分の依頼……クランケを完遂してくれるかどうか、疑問が湧いてしまうのもムリは無い。
 だからと言って、オレはその疑問を解消するつもりなど毛頭ありはしない。何故なら、選んだのは仲介人の蝶番ではなく、オレ自身なのだ。
だから、自信を持って話すのみ。
「そうかもな。それに、この青い目も気になる所だろう。まぁ、どこぞのハーフなのかも知れない。しかし……すまないが、実際の年齢も人種も良く分からないんだ。オレは一年前より以前の記憶が全く無いのでね」
「あ……ごめんなさい、なんか、お話辛い事を訊いてしまったようで……」
 オレはここまで話をしたので、念の為、自分の体格について補足説明をしておく。そうすることで、少しは不安感が取り除ければいいのだが。
「別に構わない。それに、アンタのイメージじゃ、多分だが……スイーパーと聴いて、何か格闘技をやっている様な筋肉質で屈強な男、をイメージしていたんじゃないか? 『だから』、ここに座っているヒョロっとした体格のオレを、スイーパーとは思わなかった。『だから』、オレに眼も合わせようとしなかった。むしろ、何故、ここに余分な人間が混ざっているのだろうか? そんな風に思わせたかも知れないな……」
 オレはワザと『だから』を強調して言ってみた。やや挑発的に話をすれば、この少女の感情の変化が視えるだろう、そう思ったからだ。
しかし、香澄はオレの青い目から一歩も退く事無く、目線を動かさないで、じっとオレの事を見据えてきた。
デスクの前にある高級アンティークの座椅子の上で、両手を組みながら肘を付いている、お得意のポーズでクスクスと不敵に笑う蝶番。
その蝶番のニヤケ面を『視』て、なんとなく分かった。これが人間同士の探り合いというモノらしい。
「なんか、見透かされてしまっています、ね。もし、それで気分を害したとあったら――――」
「さっきも言っただろう? 別に構わないと。オレはそれを気にも留めていない。むしろ、この童顔な顔付きのお陰で、一般人に紛れる事など楽で仕方ない。少し髪の毛をイジってやれば、最近の、都会をフラフラしている男共に似せた様相を作る事なんて、容易いしな。それに、この体格。例えば、オレが二十歳くらいとしよう。普通の成人男性よりも、遥かに細いと思われがちなこの体格は、特殊な特訓で筋肉を圧縮させている為で、一般人の平均体力の十倍以上はあるだろうと思う。それに……細い方が何かと役に立つんだ。こういった生業をしていると、拳銃と対面する事もあったりする。そんな時、細くて小さい方が的を狭くする事が出来、小回りも利くから、攻撃を受ける確率を急激に落とす事が出来る。その為、こんな様相をしている、そう思ってくれて構わない。あっ……あと、髪を後ろに結んでいるのは、その――色々と理由があっての事だ。気にするな」
 オレは、矢継ぎ早に言葉を並べていく。そして、ツンツンと立ちあがってしまうクセ毛を強引にまとめ上げて、襟足の辺りで小結にしている束を触ってみる。
これは、簡単に言えば「願掛け」及び「まじない」、何でもいいが、そういった気持ちを込めて、二か月前に結んだモノ。
香澄も、オレのその姿を見て、なんとなくだが分かってくれた様な面持ちをしていた。だから、オレは本題に入ることにした。
「それで? 依頼内容はどんなモノなんだ? 今回のクランケとは……」
 最後まで言葉を紡がず、相手に発言権を移動させたオレ。
これはウィンドがよくやっていた喋り方。結局、オレの動作、行動、思考はウィンドというスイーパーがメインになっていた。
 香澄は顔を上げて、オレに向き合う。
「はい……。依頼内容は――――私の兄を……兄を『殺して』ほしいんです」
「ほぅ? それはまた、物騒な話だな、おい」
 物騒――そう訊いて、また顔を伏せる香澄。
オレは、こんな仕事をしている人間だ。記憶も無い、ただ身体一貫でしか無い人間だ。常識も非常識も、モラルもリスクも何も感じない人間だ。
それでも――――。
このような顔をする人間が、本心で……そう、本音でそう言っていない事くらいは分かる。だから、オレは物騒な話と言ってやったんだ。
今、本当の事を――本心を聞いておかないと、オレは容赦なく実行に移してしまうだろう。
それが、スイーパーと言う稼業なのだ――――。
 オレの心粋を汲んでくれたかの如く、オレの言葉を蝶番が受け取り、補足をしてくれる。
「遠霞様? 先日、書面で依頼をお受けした際には分かりませんでしたが、ボクも今、お話を伺って正直、信じがたいと思っております。本来、仲介人は、クライアントの私情まで踏み込まない事が常なのですが……。御言葉過ぎましたら、申し訳ございません。遠霞様は、それを本心で御望みですか? 今のアナタの御顔を拝見するに……ボクにはそれが到底、本心と思えないのです。それは、このグラスも同じみたいですよ? ね、ダストネーム・グラス?」
 思いのほか、人間味のある事を言う蝶番。まぁ、オレが「人間味」などと言うのも可笑しな話だ。だってオレは、感情を持たない、持っていはいけないスイーパーなのだから……。
 しかし、突然話を振られたので、つい「動揺」という感情を表情に出してしまったオレ。
『まだまだな? 半人前のスイーパーである証拠だ』と、ウィンドに言われた事があった事を思い出す。
 少し嘆息を交え、蝶番に指を差しながら、香澄に言葉を投げかける。
「あ、あぁ。コイツの言う通りだ。オレにも、アンタが本心でそう言っているとは思えない。むしろ「苦肉の策」で、こうするより仕方がない、そんな諦めを感じるが?」
 伏せていた顔を持ち上げて、驚きの表情をしながら、ア、ア、と声が漏れてしまう香澄。
やはり、本心はもっと違う所にあるようだ。だから、オレは駄目押しの言葉を吐く。
「先に言っておくが、オレはあくまでスイーパーだ。クライアントとクランケが、どのような私情を持っていようと、クライアントから依頼されれば、言われた事を『容赦なく』実行する。それが、オレ達「スイーパー」という輩だ。それを理解した上でアンタが、今言った事を依頼するのなら、オレは甘んじて承るが?」
「――――――。ふぅ~……ちょっと、待って?」
 香澄は戸惑いを見せつつも、突然、オレと蝶番に掌を見せる様に両手を前に出して、ストップの意を表明してきた。そして、眼を閉じたと思うと大きく息を吸い込み、ゆっくりと細く息を吐き出していった。
それを三回繰り返すと、香澄は、伏し目がちだった眼を大きく見開いて、瞳の中に何か光を宿しながら、オレの事を見据えてきた。
 それは決意の瞳。
人間が胎を決めた時の瞳の色をしている。
その瞳は、決して十七歳とは思えない――美しさ――すら感じさせたのだった。
「…………言います。本心を――――」
 香澄は語る、自らの心内を、日本語という言語を使って。
オレと蝶番は、それに対し背筋を正し、それを受け取る。
「最近、巷で噂になっている『器物破損事件』を御存じですか?」
「器物破損事件? 昨日のニュースでやっていたアレを差しているらしい。もしかしてヴァイオレットが言っていた、ニュースを観ろ、とはこの事を伝えるためだったのだろうか。
「実は……あの主犯者が、私の兄、なんです」
「――――」
 無言。
 それが会話の間に、何か重みを加えてしまう。しかし、今、言葉を出そうにも出てくる言葉は、ありきたりな常套句程度しか思い浮かばず。
だから、無言。
「私の兄『神童 翼(しんどう つばさ)』は、いつからか分かりませんが、不可思議な力を扱える様になったらしいのです」
「しんどう? なんか、聞き覚えが――――っていうか、ちょっと待てよ? アンタの名前は『遠霞 香澄』だろ? 兄なのに、なんで名字が違うんだよ?」
 オレは、今の会話に何か引っかかりがありながらも、つい反射的な対応をしてしまった。
それを、止めろ、と、言わんばかりに、蝶番が一瞥の眼差しを送ってくる。
当たり前の事だ。
深い詮索をしない――それはクライアントが望まない限り、こちら側がして良い事ではないのだから。だがオレは、オレ自身を守る事も仕事の一つ。それに、クランケの事を知っておかないと、多分、香澄の思う「苦肉の策」を実行せねばならない、そう思った。
 凛とした瞳の中に、何か切なげな光を匂わせ、香澄は口を開く。
「大丈夫です、仲介人さん。ご心配せずとも、お話出来ますから。兄、翼とは義理の兄弟なんです。翼のお母さんは、翼を生んだ直後に亡くなりました。私は、その後、翼の父と再婚した母の連れ子なんです。だから兄妹と言っても、血の繋がりは全くありません。私が七歳の時、母は再婚しました。そこに翼が居たんです。翼は、私と二歳違いで、優しい人でした……。本当に、実の兄の様で。いつも環境に適応出来ない不器用な私の事を、気に掛けてくれていたんです。だから、私も翼を……実の兄、そう想って一緒に過ごしてきました。そんな生活を続けて、八年ほど経ったある日です。私が十五歳、翼が十七歳の時、ある事件が起こりました……」
 そこで、一区切りを置く香澄。
空気の雰囲気から察するに、それはかなり重い話なのだろう。それを言葉にするのは、簡単な事ではない。
俗的に言えば――「トラウマ」――というモノだ。
その「トラウマ」を誰かに語る事は、よほどの決意がなければムリだ、と、ウィンドが言っていた。オレには記憶がない分、そういったモノは欠落しているみたいだから、こんな黒い稼業を続けていくことが出来る、そうも言っていたか……。
香澄は、話をする前に、緊張した喉を潤す為、ヴァイオレットが入れてきた砂糖もミルクも入っていない紅茶を一口に飲み干し、そっとカップをデスクに置く。
「その事件とは――――義理ですが、父に……父と信じていた人に、その――――」
「おっと! それ以上は言わなくていい。今の雰囲気で大体の事は察したから、ムリして言葉にしなくていい。みすみす自分の傷に塩を塗る必要はない」
 思わず片手で香澄の言葉を制止するオレ。そうでもしなければ、それこそ「傷に塩を塗りたくる」事になる。
オレの行動を見て、香澄は少し困った様な顔をしながら、口を開くかどうか迷っているみたいだった。しかし、これ以上の言葉はいらない。わざわざ、この少女の「心の傷」を開く必要など無いからだ。だから、少々強引だったが、彼女の柔らかい唇に指を当てて、喋る事を赦さない、そういう意思表示をしていた。
オレは、自らを省みて不思議に思ってしまう。まさか、自分の口から相手を労う様な言葉を出すとは思ってもみなかったからだ。どこか、この少女といるとペースが崩されてしまう。そんな気分に「させられて」いると思うと、少し不愉快になった。
「――――ッチ。何、やってんだ、オレは…………」
 思わず、感情を言葉にする。
オレの横で眼鏡がニヤついていると思うと、それもまた不愉快だった。多分、どこかでサポーターのヴァイオレットも見ている事だろう。
「あ、あの…………」
 蝶番に眼を配りながら思考の中に入り込んでいたオレに、横から不意に、少々ドモった声が掛けられる。勿論、声の主は香澄意外に居ない。
だから無愛想に、ゆっくりと視線を戻しながら応じる。
「なんだ?」
「その、指を……どけて、もらえませんか……?」
 香澄の唇に当てられているのは、オレの人差し指。オレは、その事実をストンと忘れていた事に気付き、思わず後ろにのけ反る様に、その指を退ける。
いや……引き剥がす、そんな感じだった。
オレの頭には、香澄の唇がクローズアップされて、嫌が負うにも思いだされてしまう。
淡いピンク色の唇。やや下唇が膨れている。
そんなどうでもいい事を、備に考えているオレは、取り繕うために詫びを入れる事にした。
「あ、あぁ。すまない。悪気は無かった。許してくれ……」
「い、いえ……。ちょっとビックリした、だけ、だから……」
「さぁ、御話を続けましょうか。御二方?」
 蝶番の入れて来た合いの手に、ついドキリとしてしまった。
何をそんなに驚く必要があるのか、オレ自身もよく分からなかった。だが、今の一文は間違ってはいない。そう、オレは、こんな少女とジャレる為に、ここで時間を費やしている訳ではないのだ。
さすがに、自分自身のユルさを反省せざる負えなかった。だから、オレは、頭のスイッチを仕事用のONに切り替える。
「そうだったな。アンタの話そうとしていた、過去の話は、今のオレにとって必要は無い。だから止めた、それだけだ。さて……それで?」
目線を戻すと、香澄も自然と顔を持ち上げる。
「――――はい、では続きを話します。私は家庭内で起こってしまった、ある事件を切っ掛けに、家から……いいえ、正確には、部屋から一歩も出ない生活を送る事になります。約二年、そんな風に過ごしてきました。そんな時でした。翼が……兄が、ある日突然、家に帰ってこなくなったんです――――」
「行方……不明の兄、か」
「はい。優しく、家族に心配を掛けない様にしていた、あの兄が――――いつも私を守ってくれていた兄が、突然、姿を消したんです。勿論、捜索願いも出しました。ですが、一カ月経っても……有力な情報は手に入らなかった……」
 オレは、話しながら何かに耐える様な、ギュッと両手でスカートを握り締める香澄が、少し哀れに思えてきた。
こんな話は、ある意味、どこにも無くてどこにでもある話なのだろう。
しかしながら――何とも切ない話じゃないか。
感覚的に、オレはこの『遠霞 香澄』という少女は、その『神童 翼』に兄妹以上の感情を持っているのではなかろうか、などと、ムダな詮索をしていたりする。しかし、先も言った様にクライアントの心情は二の次。
だから、じっと次の言葉を待つ以外に、オレの取れる行動は一つも無かった。
 「でも、見つかったんです。……御二人はご存じですか? 最近、羽桜市で何件も起きている事件――――」
「それって、あの『器物破損事件』の事、か?」
 香澄は、大きく頷くと、少し語調を強めにして、口早に喋り出す。
「はい……。あの事件の犯人、それが私の兄、翼なんです! しかも、私がそれを知ったのは――――」
「お父様の死によって……でしょうか?」
「――――ッ!? えっ! なんで、それを……?」
 香澄の言葉に、蝶番が被せて放った言葉は、とんでもない事だったのだが、香澄の反応を見る限り、それは的中しているようだ。
それに……どうも、コイツにせよ、ヴァイオレットにせよ、策を弄している気がする。
ニュースを観ろだの、クライアントに会えだの、オレはコイツらの掌で転がされている感が否めなかった。
勿論、クライアントが情報を最小限にしたいが為に、直接談判を申し出たまでは分かる。
だが、コイツらは、それ以上の事を知り過ぎてやしないか?
本当に、香澄は書面上でしか依頼を頼んでいないのだろうか? 
オレには、事前に打ち合わせているとしか思えなかった。
やや不機嫌な顔を、眼鏡の男に向ける。その瞳には疑いの色を纏わせながら。すると、蝶番は手を持ち上げて、訝しげに肩を竦めると、オレに顔を向けることなく、嘆息しながら香澄に促した。 
「失礼、御言葉を拝借させて頂きました。どうぞ、続けて下さい?」
「はい……。あの、仲介人さんは、何故、その事を知っているんですか? 私、この事は誰にも話していないのに――――」
 これはこれは…………オレを騙す為の小芝居なのだろうか? と、無駄な思考が過るが、この者達が、オレを騙して得られるメリットはハッキリ言って何も無い。だとすると単純に、この仲介人という仕事の情報網だと括った。
「とりあえず、アンタから話を訊きたい。続けてくれないか?」
「あ、はぃ。そうですね、仲介人さんくらいの方なら、知らない事がある方が不思議な事なのかも知れませんし……。今、仲介人さんが仰った通り、私の父であった人が、事故に巻き込まれたんです」
「事故?」
「はい。正確に言うと、事故として処理された、と言った方がいいかも知れません。それくらい無残な姿になっていた、そう訊いています」
 軽く息を吐く。それは、さながら月を見上げ一人嘆息しているお姫様の如く。
「なるほど……? 要は、警察もどうしてそうなったのか、捜査しても分からなかった。そう言う事なんだな?」
「はい。そして、その事故が起きた頃、ちょうど羽桜市でも奇妙な事件が起き始めていたんです。それが『器物破損事件』です」
いまいち、真相がハッキリしない。
父の死と器物破損事件の絡み、それにその犯人が「兄」であると言っている。
所々を隠して話している事は分かっていたが、少し、隠し過ぎな所も感じざる負えなかった。だからオレ自身が、この少女の言葉から推察を行わなくてはいけないらしい。
勿論、彼女のせいではない事くらい承知の上だ。こうやって「殺し」の話をすること自体、彼女にとって、あり得ない話なのだ。少々の動揺は見逃そう。
それを踏まえて、オレは香澄の口の動作に手を出すことで制止し、オレから質問がある素振りをしてみた。
「悪いんだが、少し話が視えないんだ。オレはオレのクランケ完遂の為に、アンタから話を訊いて動こうとしている。それが曖昧だと非常に危険を伴う。もっと簡潔にしてもらえないか? それとも、オレの推察を訊いてもらえるならば、それを今から話すが?」
「あ、スミマセン……。まだ、私自身、頭の中が整理できていなくて……実際、信じられないんです。あの兄が、あの優しかった兄が、まさか、実の父親を殺すなんて。しかも――――」
香澄は本当に、まだ整理が付いていないらしい。しかし、次に紡がれた言葉は予想を超えて、オレの脳髄にズシリと圧し掛かってくる話だったのだ。
「――――妙な力を使って――――」
 香澄の言葉を訊いて、右後頭部が疼く。
「――――ッ!? 妙な、ちからっ!? それって、どんな……」
 伏せ気味の顔をバッと持ち上げて、険しい表情になっている香澄が口を開く。
「私、見ちゃったんですっ! だって、あの人が殺された場所は、私の部屋から見える公園だったから。しかも、全く手も触れていないのに、グシャグシャに……人が、あり得ない方向に下り曲がって、まるで人形みたいに、そう、人形、人形みたいになっていて。それで、下り曲がる度に、バキボキって音が聴こえて……暗くて良く見えなかったけど、尖った先から、血みたいなモノが噴出していて――――その後、アイツが、聴きたく、もない、断末魔を、叫んで、いたん、です…………」
 香澄がブルブルと震え、両手で肩を抱き、歯をガチガチとかみ合わせながら、細々とした声音で語る。
この様な症状は、俗的に言うパニック状態。嫌な思い出や、隠していた記憶を掘り返すと、こういった症状が起こる。ちなみに、この状態で下手な言葉を掛けたり触れたりすると、瞬時にパニックになってしまう。
今、香澄の頭の中には、その時の映像が鮮明に思いだされている事だろう。
だから、オレは――――。
「……わるいな」
 そう断りをいれて、首筋を手刀でトンッと軽く叩いた。その瞬間、ガクリと項垂れる香澄。オレは咄嗟に彼女の身体を支えてやる。
 その少女の身体は、思いのほか軽く……顔には出ていなかったが、かなり痩せこけてしまっている様子だ。
初めに見た時の印象は、些か間違いではなかったらしい。
 そして項垂れる少女の髪の毛から、フワリと石鹸の薫りが鼻を掠めていく。それが、この大人びた少女は、無理して大人ぶっている事をオレに教えてくれた。
「やはり、少女、か……おい、ミコト? この子を寝かせる場所はないか?」
 オレは香澄を抱きかかえ、デスクに突っ伏している蝶番に話を振る。
蝶番は、いつものポーズのままオレを見て、鼻から息を吐きだし、首を横に何度か振って、仕方なさそうな仕草で指をパチンと鳴らす。
すると、オフィスとは言えないみすぼらしい部屋のドアが開き、ガタガタと音を鳴らしながら何かが入ってくる。音のする方を見ると、狭い入口から皮の基調で造られた黒いソファーを抱えているヴァイオレットが立っていた。
 少し不機嫌そうにしながら、オレに一瞥の眼差しを送りつつ、縦に立っている黒い三人掛けソファーに余っ掛りつつ。
オレの麟に触れる事を趣味とするヴァイオレットの、ヴァイオレットによる相変わらずの悪態ぶりを発揮してくれた。
「お待たせいたしました、マスター。そしてっ! ちょっと、そこのイジケ虫! さっさと手伝いなさいなっ! 使えないスイーパーですこと」
「おいっ! ちょっと待て! オレの今置かれている状況を考えろ! オレは両手が塞がっているんだ。どうすれば手伝えるのか、ご教授頂きたいもんだな、おい!?」
 反論するが、こういうタイプは『あ~言えばこう言う』ヤツだから、辛辣な言葉をオレに投げてくる。明らかに憂さ晴らしとしか思えなかった。
「だったら、もう一本、腕を出せばいいっ!」
「お前はぁ~! 黙って聞いてれば、調子こいた事ばっかり言いやがってっ!」
「何ですの!? か弱き女子を守るのが、男子の役目でしょう!?」
駄目だ、コイツらは……自己中にも程がある。
 オレはそんな思いを込めて、この紫女の主人である燕尾服の眼鏡男に視線を送る。すると眼鏡は、眼の奥に妖しい光を宿しながら、紫女に指を差して指示を出す。
「ヴァイオレット? 気絶しているとはいえ、仮にもクライアントの御前なのです。慎みなさいな。それに、キミとダストネーム・グラスの絡みなど結構です。それよりも、それを早くこちらに持ってきて、クライアントを休ませてさしあげる事が先決なのですよ? 賢いアナタなら分かるでしょう?」
 話をしている口調は、いつもと然程変わらないのだが、出している威圧感は半端なかった。やはり、商売として仲介人をしているだけの事はある。この威圧なら、チンピラごときなど、一目で竦ませるだけの威力はあるだろう。
それだけ、コイツは『力とは何か、恐れとは何か』を知っているのだ。要は「人間」というモノを知っている、と、オレは備に思う。 
 蝶番の言葉に何も言えず、うぅ~、と唸りながら、渋々ソファーを運んでくるヴァイオレット。その立ち姿を言ったら、オレなんか全く必要としないだろう事請け合いだった。
紫女が、すっと腰を落としたかと思うと、黒い物体がグラリと持ち上がり重心がブレることなく動き出したのだ。縦に持たれているソファーの重心をブラさず運ぶ女など、オレよりも常人離れしていると思うのだが……。
オレは、それを感心して見ていた。すると、隣から半ば呆れた感じの声音で、蝶番が話しかけてくる。
「はぁ~……。前代未聞ですよ、ダストネーム・グラス? 確かにあの状態は危険ですが、まさか、失神させるなんて――仮にも「クライアント」依頼者ですよ? 分かっているのですか?」
「いや、分かっちゃいるが、さすがに、あのままにしておくのは、この子にとっても危険だろう? オレは、ちゃんとした手段を取った、と、自負しているんだが……」
「ホント、キミはお気楽で良いですね。ま、だからこそのスイーパーなのですが……。今回は眼を瞑ります。ですが、次、もしも、こう言った異例があって、クライアントに手を出したら、その時は――――よろしいか?」
「――あぁ。分かった。今後、気を付けるとしよう」
「えぇ。そうして下さると助かります。よろしくお願いいたしますね?」
 コイツは本当に狸だ。
ヘラヘラの中に、たった一瞬だがマジモノの殺気を混ぜ込んできた。
オレは、備にコイツ自身が、スイーパーをした方がいいのではないのか? などと思ってしまうが、それよりも、今は香澄を寝かせる方が先決であると思い、抱えていた香澄をソファーに寝かせた。
 ヴァイオレットが、いつの間にか持ってきた毛布を背もたれ側から、香澄にそっと掛けてやっていた。その姿だけを見ればちゃんとした女性なのだが、やはり、このサポーター達は謎が多い。
 とりあえず、そんな事よりも――――。
「だがな、ミコト。お前、どこまでこの子の事を調べ上げている? ここまで来て、知りません、は、通用しないぞ!?」
「おやおや……? 珍しく熱くなっていますね、ダストネーム・グラス?」
「話をすり替えるな! お前が知っているなら、初めからお前が情報をリークすれば済む話だろうっ!? なんでわざわざ、トラウマを呼び起こす様な真似をした!?」
「何を言っているのですか、ダストネーム・グラス? それはクライアントが望んだ事だったからに決まっているでしょう? もしクライアントが、ボクに全部任せる意向を示したのであれば、ボクはそれに従います。ですが、クライアントは自ら話すという条件を提示した。それに従ったまで……。何か問題でも?」
 クスリと笑う仕草が、妙にオレのカンに障った。
一年付き合っているヤツだが、こういう所は仕事とはいえ受け入れきれない。だから、蝶番に身体ごと向けて、視界が顔しか無くなる程、顔を近づけオレは正直な気持ちをぶつける。
「問題が有る無しに関わらず、遠回しに手の上で遊ばれるのは、ハッキリ言って気色悪い。だったらサクッと話を済ませて、クランケ完遂に走りたいんだ。お前だって、オレの性格くらい把握しているだろ? オレがどれだけ対人に疎いかくらい……」
 オレの言葉をサラリと受け流し、いつもの不敵な笑みでそれに応じる蝶番。
「いいじゃないですか? 折角の機会を頂けたのです。それをすることで、また、キミの世界観が変わるかもしれない。例えて言うなら、そうですね……ドングリの歌を知っていますか? あれって結構残酷なんですよ? だって、ドングリがお池にハマって大変な状況にあるというのに、ドジョウはのんびりと「こんにちは」なんて声を掛けているのですから。ですが、その時、ドングリの眼に、まぁ、有りませんが、あったと仮定して、ドジョウはどう映ったのでしょうか? 早く助けろっ! と思ったのでしょうか? それとも……水の中を自由に動けるドジョウを――――『羨ましく』思ったのか…………」
「……何が、言いたい? ハッキリ言え!」
 眼を座らせて、威圧的に迫ってみるが、余り効果は望めないらしい。
軽く口端を持ち上げながら、少しオーバーと思う身振り手振りで両腕を広げつつ、話を飛躍させて言葉を紡ぐ。
「単純な話です。世間を知らないキミに、もっと『俗世界』を観てもらって、沢山の事象がある事を知ってもらいたかった、という親心だと思って頂ければ結構です。事実、今、キミはこの少女に触れた事で、些か冷静さを失っているではありませんか? それだけでも、収穫があったというモノです」
「なんの収穫が有ったか分からんが……やっぱり、お前って『喰えない』よな」
「そうですか? こんなに分かり易い人間もいないと思いますけど♪」
 やはり『喰えない』男だ。
両手を上げたまま、天に益します神を崇めている神父気どりの男に、オレは中途半端になってしまった話の矛先を、どこに持っていくか提案をしてみた。
「――――ともあれ、残念な事に、たった今、クライアント様が寝込んでしまった。さっきの話の続き、お前がしてくれるんだろ、ミコト?」
「フム? 寝込ませてしまったのは、キミではないですか? しかしながら、この状況でお話をするとなると、少々時間が必要になります。全部話す終わる頃には、夜になってしまいますね。ボクも七時から用があるのですよ、ダストネーム・グラス? いた仕方ないですが………今日はもう御帰り願いましょう♪」
アチラからどうぞ? と、言わんばかりに手を前に差し出す蝶番。
オレは、コイツが一体何を考えているのか掴めず、それこそ動揺とは言わないが、感情を表に全開して、思考を掴む代わりに蝶番の肩を掴んだ。
「ちょっ! ちょっと待てぃ! 御帰り願おうって、今、コイツは気絶してんだぞ? それで、どうやって帰らせるんだよっ!? それに、この子は素人だろ? 頸椎を打ったんだ。そう簡単に起きるなんて出来やしない。例え起きれたとしても、まともに歩く事だって、ままならないんだ。それをどうやって――――えっ? ……マジ、で……?」
 オレが驚愕の声を上げたのは、蝶番のヤツが取ったアクションを観ての事だった。何故ならコイツは、事もあろうにヨイショッっと掛け声を上げそうな感じに、何かを負ぶるアクションを取ったからだ。そこから察するモノとすれば……一つしか無い。
「――――待てっ! 待ってくれ! オレが気絶させてしまった事は謝る! それは本当に申し訳ない事をしたと、全力で反省しよう! だが……それは、それは出来ない! ムリだ、絶対ムリだ! だって、年頃の女の子だぞ? そんな子を負ぶって歩くこと自体、オレが怪しい人間である、と、言っている様なもんじゃないか!? それに――――」
「はい、ブツクサ言わないの、ダストネーム・グラス! マスターが、そうしろ、と仰ったのであれば、それに従うがスイーパーというモノでしょうに? だ~か~ら! ちゃんと介抱してあげて下さいませ? グ・ラ・ス・様?」
 覗きこむ様に、オレの下方から顔を出す紫女。しかも、皮肉を込めた一瞥の眼差し。よほど、さっき蝶番に叱られた事を根に持っているようだ。それをオレに当てられても困るのだが、どうも、現状を打開する術は無く……その意向に従うしかないらしい。
 すでに蝶番は、テトテトと本棚の前まで歩いており、何冊か本を取り出している最中だった。もうコイツの眼には、オレと香澄は映っておらず、次のクライアントの事を思い描いている、そんな雰囲気を醸し出していた。
 こうなると、何を言っても聴こえないのが、この「蝶番 命」という男。
オレも一年付き合い、確かに分からない事ばかりな謎人間だが、時間厳守は、徹底的に守る男であり、それは全て頭で計算されているモノだと知っている。
だから、オレは、どうしようと迷う間も無く、それこそトホホと項垂れながら、ヴァイオレットに手伝ってもらい、香澄の身体をオレの背中に預ける事にした。
「やっぱり……軽い、な」
「女性の前で、そう言った発言はよろしくなくてよ、グラス?」
「良く言うな? お前なんて、ウン十キロあるソファーを片手で持ってきたじゃないか? そんなの女性として、認められ――――」
「――――チェストッ!」
「イタッ!」 
両腕が香澄を抱える為に塞がれてしまっているオレは、ドフッ! と、ヴァイオレットの正拳付きを額に喰らってしまう。
勿論、躱せなくもないが、躱せば後ろの少女の顔にクリーンヒットしてしまう事を計算に入れての紫女の攻撃と分かっていたので、あえて避けず受けてしまう。
どこか、オレの脳はバグを起こしている、そう感じて仕方なかった。今だって、後ろの少女を気づかっているオレが居る。それ自体、可笑しな話だ。
オレは嘆息しながら、蝶番とヴァイオレットに挨拶をして、また明日来る旨を伝え、部屋から退いた。
外に出ると、昨日同様、スーツ姿の波が出来ている。今回は、それに逆行することなく、流れに沿って歩く事にした。そしたら、後ろの少女が、吐息とも取れる唸り声を上げて身体をよじる。やや寝ぼけているだけだろう。彼女から、全くと言っていいほど意識の気配を感じる事は無かった。
「いつになったら、起きるのやら……」
 自分でした行動に後悔しながら、瑣末な事を考えていた。
クライアントから、クランケへ。クランケから、クライアントへ。
そんな報復だってあり得るのだ。
もし、そうなった場合、オレは、この少女『遠霞 香澄』を殺す事が出来るのだろうか? 
そんな問いに、誰も答えてくれるはずも無く……。
一人、いや、二人で、もう沈みきってしまった太陽を追う様に、西に向かって歩き出した。

……………………

「クシュンッ!」
「ようやく、御目覚めか……」
「――――ッ!? えっ! あ、その、えっ? ここ、は?」
「誰もいない、誰も来なそうな、二人きりの寂れた公園」
 と、オレは、自嘲気味に喋ってみる。
 ベンチで寝かせておいたクライアント様が、ようやくの事、御目覚めになった。
上半身を起こし、辺りをキョロキョロと見回している。
顔を見る限りでは、困惑しながらも、両手をニギニギしながら身体の状態を確かめたり、オレのことを観察したりと、頭の中で整理をする為、努力しているみたいだ。
 先程、オレ達に対しての対応といい、明らかに不審な今の状態に対し、然程、驚く事もせず、ひとしきり現状把握をしようとしている。それだけでも、かなり頭のいい少女なのかも知れないと思う。
「あの……グラス、さん? 何故、私たちは、この公園に居るのですか? 先程まで、仲介人さんの部屋に居たと思うんですけど……」
「……オレが訊きたいよ。突然、出ていけと言われて、寝ているアンタをオレが背負って行く羽目になったんだ。それで歩いていたら、丁度人通りが少なそうな所を見つけて、そこに立ちより、そこに丁度良いベンチがあったから、そこに背負っていたアンタを降ろし、そこに寝かせていた。たったそれだけの事だ。特に何かした訳じゃないから、安心しろ」
 指差し確認をする車掌さんの様に、一つ一つを指で示しながら説明する。しかし、次に出て来た香澄の声には焦りというか、驚きというか、そんな含みを持ったモノを感じた。
「あ、あのっ! 私、なんで寝てしまったんですか!? なんか、とても重要な話をしていたように思うんです。でも、まだ頭がハッキリしていなくて……ごめんなさい……」
 香澄は、身体に掛けられていたジャケットがオレのモノである事に気付き、それを、お礼の言葉付きでそっと返してきた。
まぁ、少女とは言え、クライアント様なので、風邪なんか引かせない様にと配慮しての事だったから、別段、お礼などはいらなかったのだが。
香澄は、本人の言う通り、まだ頭がハッキリしていないようだ。少し眼が虚ろになっている。だが、さすがにトラウマを呼び起こすわけにもいかず。
オレは香澄の頭に、手をポンッと置いて……。
「まだ、外に出る様になってから間も無いんだろ? それに、眼とか見ていると、そんなに寝ていない印象を受ける。ずっと兄貴を探す為、夜も返上してたんじゃないのか? だから、疲れてしまって眠ってしまった。良くある事だ、気にするな」
 本当にオレらしくない。労いの言葉はあっても、相手を気遣う言葉など、ほとんど掛けた事はなかった。と、いうより、そう言った言葉を掛ける相手が居なかったのだ。
 一緒に動いていたウィンドに、そんな気遣う事など皆無。むしろ、自分の身を守ることが最大の仕事だ、というのがウィンドの言い分だったから、それを忠実に守る事が、気遣いの代わりになる、そう思っていたからだ。
 その事はいいとして、オレは香澄が目覚めるまでの間、ずっと想い耽っていた。それは、本当に今までのオレでは、決して考えられない事ばかりの思考。まだ、人間というモノが良く分からなくても、一年前の記憶がなかったとしても、オレの身体のどこかに人間との付き合いという記録が残っているのかも知れない。
今までは、ずっと、どこか欠落しているモノ達を相手にしてきたのだ。だから、忘れていたのだろう。それが、ここで香澄と出会い、オレの中の記録レコーダーが動き出した。これが、正常な人間のあり方と言うやつなのだ、そう思う様にする事にした。で、なければ、思考迷路に迷い込んで、自らを滅ぼす事になってしまう危険性がある。
結局。
どこまでいっても、オレはスイーパーでしか無い。
「グラスさんの仰る通りです。やっぱり……ちょっと、ムリしていたのかも知れません。いろんな事が起こり過ぎて、頭よりも身体が動いていた、そんな感じだったので……。でも、少し、楽になりました! ありがとうございます」
「あ、あぁ。それなら……よかった」 
突然、振り撒かれた――――笑顔。
最初に見た無機質な感じの少女らしからぬ、年相応の笑顔で……。
グラリと。
それを見た瞬間、オレの中で何かが蠢く。
それは、オレの意思とは関係なく、どこか朧気な感覚でモヤが懸った様なモノ。記憶の先にある、過去の「記録」がオレを突き動かそうと必死になっているみたいだ。
だから、それを驚きと共に、オレは思っていた事を寸分違わず呟いてしまったんだ。
「なぁ、アンタ。何で、そうやって笑う事が出来るんだ?」
「どう、いう、事ですか?」

『霧時雨(きりしぐれ)、永久(とこしえ)に冷めやぬ心持ち』

確か、蝶番がそんな事を言っていたと思い出す。
 意味は『霧の様な時雨が、この落ち着かない心を永遠に感じさせる』だったか。
何故、その言葉を思い出したかというと、この少女の笑顔を見た時、どこか大人びたモノを感じ……しかしながら、ソレは『無理』を重ねて重ねて造られたモノな雰囲気を感じたからだ。
 オレには「普通」という感覚は良く分からない。だが、彼女の受けて来た人生の仕打ちとは、それほど軽いモノでは無かったはずなのだ。だとすると「普通」ならば、こんな風に笑う事など出来やしないのではないか? そう思ってしまった。
 オレ如きが思う程度の事だが、この少女は、自分の気持ちにウソをつき続けて生きてきた。しかも、それは大事な人にまで及んでいて。しかし、そうしないと、この少女には人生という重荷を背負いながら「生きて」いけなかったのかも知れない。
それでも、オレは――『それでも』――と思うのだ。
もっと自分を出して「生きて」もいいのではないだろうか? 
そう思うのだ。
だから、オレは、ちょっと挑発的な事を彼女に述べてみる。
それで、この少女の本心が視えてくれば、クランケ完遂に近づくと思うし……それ以上に、自分を捏造して生きていくであろう彼女の『これから』が心配になった。
 可笑しな話だった。
たかが仕事の依頼を受けたオレなんかが、ここまで干渉しようと考えてしまう事自体が……。
しかし、彼女も、もう霧時雨の中を走る必要はないと思う。何故なら、彼女には「支え」という名の大切な人が身近に存在している。ただ彼女は今、それに気付いていない、たったそれだけの事なのだから。
だから――――。
「アンタ、自分にウソを付いて生きているだろう? それなのに、何で、そんな風に笑えるんだって訊いているんだ」
「……あの、だから、どういう――――」
「どうもこうも無いだろう? 自分は重く昏い過去を持っていて、他の「人」とは違う、そう思っている……」
「――――ッ!? そんな事――――」
「思っていないって、ハッキリ言えるのか? 顔から滲み出てるんだよ、悲壮感ってヤツが。それを、アンタは『翼』にぶつけて生きてきた。今、アンタのアイデンティティ(存在意義)は、翼がいないと成り立たないんだ。優しかった兄が心配で――な~んて言うのは偽善だな。いい加減認めろよ? アンタ自身が自分を保つために、こんな依頼をしてきたんだって。そうすりゃ、ちょっとは楽になれんじゃないのか?」
「――――――――ッ!」
 パシン! と。
 誰もいない公園に乾いた音が響き渡る。それは、香澄がオレの頬を引っ叩いた音。
オレは、それを無抵抗で受け止めた。勿論、頬が痛い事は無かったが、その分、どこか胸の奥がチクリと痛かったのを感じた。
 香澄の目には、涙が溜まっている。しかし、絶対に泣いてやるものかっ! そういう意思を含んだ怒りの瞳をオレに投げつけ、怒号を超えた叫びが夜の公園に轟いた。
「な…………なん、で……そんな風に、言え、るんですかっ!? アナタには、人を気遣う心は無いんですか!?」
 オレは、叩かれた頬を自分の手で撫でる事もせず、不敵に笑ってやる。それは、更に相手のアドレナリンをあぶり出すには、丁度良い感じで……。
 予想通り、香澄はオレの返答を待たず口早に喋り出す。
オレは、それを静かに聴く事にする。
「私はっ! 私は、兄が――――翼が心配なだけです! 確かに色んな事があって、苦しくて、哀しくて、死にたくなって、だけど…………それでも、私は生きて来たんだっ! それをアナタなんかに否定されたくない! 偽善だって構わない。依存しているかも知れない。それでも翼は、翼は、私にとって大事な人なの! その大事な人が苦しんでいるから助けてあげたい、そう思っちゃいけないのっ!? 私には、それすらも許されないのっ!? そうなら、もう生きてたって意味無いじゃん……だったら、今すぐ、舌を噛み切って死んでやるっ!」
 漸く。
漸く、本音が出て来たらしい香澄に、駄目押しをするオレ。
「なら……死ねばいいだろう? この程度の事で「死」を選ぶなら、オレは止めない。いや、止める権利なんて初めから無いからな。アンタが、今すぐここで死ぬってんなら、オレはこの場から消えてやるぜ?」
「――――ッ! き…………」
「き?」
「消えてよっ! 今すぐ私の目の前から消えろ! 消えろ、消えろ、消えろよぉぉ!」
「……………………」
「何よっ! 早く消えなさいよ!? アナタがいなくなったら、遺書書いて死んでやるんだからっ! アナタに殺されたって書いて死んでやるんだからぁぁ!」
 俯きながら地面に向かって、大いに叫ぶ香澄。その姿は、短い時間ではあったが、その中で一番「らしく」、彼女の本音、想いがこもっていただろう。
 聴いていたオレは、何処となく、口端が持ち上がってしまっていて。それこそ、ホッとした気持ちになってしまった。
 それが、頭から声帯を震わせるよう指令が出て、その震えが空気に乗り、彼女の耳に「声」として届いてしまう。
「ふ~ん……なんだ、アンタ、ちゃんと自分の気持ち、言えるじゃんかよ?」
「何を、何を言ってんのよっ!? いいから消えてよ、消えてっ! 早くしてよっ! じゃないと、今すぐ――――」
 パシン! と。
 二度目の乾いた音が公園に響き渡るが、それはオレの頬が叩かれた音では無く……。
「なっ!? なんで……なんで、私が、叩かれ、なくちゃ、いけない、のよぉ……」
 更に涙が溜まる。しかし、決して流す事はない。
やはり、この少女は根元に「強さ」というモノを持っている様だ。
その証拠に、立ち姿が『凛』としていた。
自信の無い人間は、どんな事を言われても、こんな風に立つ事など出来ない。その場から立ち去りたい、そう思うものだ。だが、この少女は、そうしなかった。自分が逃げる事より、オレを退ける事を選んだ。
人間、必死になっている時ほど深層心理が出てくると教えられた。オレは、それを露呈しない様にしているつもりだが、それでも出てしまうのは、まだまだ未熟だからなのだろう。
しかし。
この少女は違うのだ。スイーパーという特殊な人間を相手に、叩かれながらも立ち向かおうとする姿を見れば、誰がなんと言おうと、それが「強さ」と呼ばずして何と言えば良いのか、それ以外の解答をオレは持ち合わせていない。
だから、それをオレなりに伝えてやる。
「なぁ? アンタは、今、オレに「ここから消えろ」と言ってきた。もし、アンタが誰かに依存して自信の無い世界を生きてきたのなら、そんな事言えやしない。むしろ、逆に噛みついてきたんだ。それが、アンタの本質。それが、アンタの本音なんだよ。だが? ふとした事で自分を『押し殺してしまう』のが、人間という生き物らしい。アンタは『過去を乗り越えたから一人でも生きていける』と、自分に思い込ませる為のウソをついて生きてきた。そうでもしなければ、生きていけなかったからだろう。そうしないと、自分を保てなかったからだろう。しかし、それは……しょうがない事なのだと思う。何故なら、そうなってしまうくらい『気を張って』生き続けたんだもんな。オレには、アンタがどんな世界を観て、どんな世界を生きてきたかなんて分からない。分かるつもりも無い。アンタだって、オレがどう生きてきたかなんて分からないだろ? だけどな――こんなオレでも、これだけは分かる。そんなになるまで…………アンタは頑張って生きてきたんだと思うよ。それだけで十分だろ? これ以上、自分を追い詰める必要は無い、とオレは思う。もっと素直になれって言いたい。アンタは、確かに「強い」よ。でもな、たまには弱くてもいいじゃないだろうか? ただ純粋に翼を助けたい、そう言って、誰かに助けを求めればいいだろう? そうすれば、必ず誰かが動く。もっと「人」を信用してもいい。無理して背伸びしなくていいんだ」
「――――――――」
無言。
そして――――。
「……………グス」
「おっ! おいっ! どうしたっ!? な、何かマズイ事でも言ったか、オレ――――」
 いや、確かにマズい事を言いまくっていた事は確かなのだが。相手は、オレの依頼主で『クライアント』で……しかし、昏い過去を引きずっている一女子高生でしかないのだ。
蝶番にバレたら事だ、と、今更ながら後悔する。
オレの眼前に立ち、オレが買ってきたホットの缶コーヒーを、投げつけようとしている姿のまま茫然としている香澄の頬には、ホトホトと、今まで瞳に溜まっていた雫がスゥ~っと流れていたからである。
それは、街灯の光をキラキラと照り返していて。
オレは、いつもの冷めた態度で、とても無礼な事を言ったのかも知れないと、やや焦り気味に香澄に問う。しかし、香澄は小さな首を横に振りながら、下を俯いてしまった。
オレは、更にどうしていいものか分からずアタフタしていると、香澄がショルダーバックからハンカチをだして、自らの眼を拭ってオレに顔を向ける。
「お、おい? 大丈夫、か?」
「はい。驚かせてごめんなさい。私…………私は、今までそんな風に言われた事、無かったの。だから、ちょっとビックリしたんだ。そしたら、気付くと涙が出てた。でも……なんでだろ? 今の涙は、胸の中がとても暖かくなる、そんな涙だったの。初めてかも知れない。翼はいつも気に掛けてくれたけど、そんな風には言ってくれなかったし、慰めてくれても、決して叩かれる事なんてなかったから…………」
「そ、そう、なのか?」
「うん。翼は優しかったけど、グラスさんみたいにハッキリと厳しい事、言わなかった。私を傷つけない様に、傷つけない様にって考えてくれてた。それが私にとって唯一の『生きる力』だったの。だけど、優しいだけじゃいけないんだよね? 時には現実と向き合う為に、厳しい事も言わなくちゃいけないんだって分かった。だから今度は、私が翼にそれを返してあげる番なのかも知れない。その為にグラスさんと仲介人さんが居るんだもんね。私がしっかりしなきゃ……翼の事を、私が助けてあげなきゃ――――」
 ふぅ~っと、一つだけ溜息を付き、オレは腰に手を当てながら、蝶番の言っていた『選択するのはキミだけど』の意味を、ちょっとだけ解った気がして、やや自嘲気味に声を零した。
「そう、それでいい。オレは、その手伝いをするだけだ。後は、アンタが決めればいい」
 はいっ! と、香澄はオレに笑いかけてくれた。それはそれは、とても綺麗な笑顔で。
それに吊られてか、オレも口端を持ち上げてみると、香澄は、オレの顔に指を差して、こう言ってきた。
「あ、グラスさん! ようやく笑ってくれたねっ! ずぅ~っとブスッってしてたから、スイーパーの人って笑わないんだって思ってたから、ちょっと意外」
 その言葉自体、意外や意外だったが、仕事中は、ずっと険しい顔付きで居ることの方が多いのは確かだ。だが、あえて気にする必要も無いと思い、香澄の言葉を軽くはぐらかす。
「そうか? それよりも、アンタ、喋り方変わったな? なんか上手く言えないが、そっちの方が「らしい」のかもしれない」
「あっ、ご、ごめんなさいっ! 今日、初めて会った人に、タメ口は良くない、ですよね?」
「いや、別にオレは構わないぜ? 基本、クライアントと会話する事自体、ほぼ皆無な上、むしろ、クライアント様はビジネス上、オレ達スイーパーよりも上の立場にいる訳だ。だから、オレに気を遣う事は無いのさ、アンタは。それより悪かったな。傷に塩を塗る様な事を言うなと言っておきながら、オレが塗りたくる様な事をしてしまって……。これをしたのは、アンタの――――」
「本音を引き出したかったんでしょ? 分かってる、分かってるよ? だから、さっきまで頭にキテたのに、今は、むしろ晴れ渡ってる感じだもん。じゃなければ、今すぐ、この缶コーヒー、顔面に投げつけてるしねっ!」
 そう言いながら、満面の笑みでオレに缶コーヒーを見せつけてくる香澄。どこか垢ぬけた様な気がして、少しだけ胸を撫で下ろす。
 こんな所を蝶番に見られたら日にゃ、大変なお叱りを受けていた事だろう。しかも一撃叩いてしまっているのだ。だから、さり気無く、そこは詫びと共に釘をさす事にしておく。
「あ、あの……叩いてしまった事もすまない。そうしないと、アンタが落ち着かないと思ってした事なんだ。申し訳ない。この事は、その……ミコトには内緒にしておいてくれるか? もし、それが納得いかないようなら、オレの事を気が済むまで叩いても構わないから……」
「ふ~ん? やっぱりスイーパーの人達って、仲介人さんには頭が上がらないんだね? フフフ、分かりましたっ! でも、ちょっと痛かったからなぁ~。うん、それは後日、埋め合わせてもらいますっ!」
 とても悪い顔をしていらっしゃるクライアント様。
絶対、何か途轍もなく無謀な事を言ってきそうな雰囲気だ。少々たじろぎながらオレ。
「はぁ~…………分かった、いや、分かりました。その時は、ちゃんと承るよ」
 ニコリと笑って、宜しい! と、腰に手をあてているお姫様。そして、やや縮小しているオレに、自信満々の香澄が告げてくる。
「じゃ、こんな感じな私だけど、少しの間、よろしくお願いします」
 そう言って、オレに深々と頭を下げてきた香澄。
何故か「少しの間」と言う言葉に、チクリと胸を打たれるオレは、何か面白くなく頭をボリボリと掻き毟って、簡単に相槌を返していた。
 それよりも、今は全く全貌の視えないクランケの事を訊かなくてはいけない事を思い出す。
オレは気を取り直して、ニコニコしている香澄を見据えて、真剣な面持ちで尋ねる事にする。「さて、少し落ち着いたか? そうしたら、アンタのお兄さんの事、どうしたいのか話をしてもらおうか? 報酬の事もあるしな」
「あ……うん、そうだね。それなら話すけど……その前に、グラスさん、寒くない?」
「別に大丈夫だけど、アンタは寒いか?」
 少し肩を抱えてブルリと震える香澄が、人差し指と親指で小さく隙間を作って……。
「ちょっとだけ……。そこにファミレスがあるから入らない?」
「あぁ。丁度、腹も減ってきていたからな。行くとするか?」
「うんっ!」
 そして、オレと香澄はベンチから立ちあがり、ファミレスに行くため、公園を後にする。
しかし。
オレは感じていた。
肌に突き刺さる鋭利な刃物の様な――『殺気』――を。
だから、オレは感じた事のある殺気が放たれる方に向かい、一瞥を向けて、香澄に聴こえない様、ポソリと呟く。
「ちょっと待っていろ。今は、まだ、ヤる時じゃない。そうだろ? 『白パーカー』よ」

 ……………………

「さて、腹も膨れたし。そろそろ詳細を話してくれるか?」
「……グラスさん、これ、食べすぎじゃない?」
 ようやく香澄が食べ終わる頃に、オレはさり気無く話を聞く為、声を掛けたのだが、それ以上に目の前に広げられた皿の数に圧倒されているらしく。
 オレからすると、もっとも人間に金が掛るモノと言えば、限りなく『食費』だと思っている。だからこそ、身体が資本である者として、そこに対して惜しみない投資をしてやる事にしているのだ。そうすれば、身体は自然と喜び働いてくれるだろう、そんな瑣末な願いを込めて。だが、それを言葉にする事も無いので、他愛も無い返答をする。
「そうか? いつも、こんくらい食わないと、食った気にならないんだよ、気にするな」
「気にするなって言われても……。それ、十人前くらいありそうなんだけど……」
「そんなことより、早く話の続きをっ!」
 オレは、手に持っていたフォークを突き出し、話の趣旨を戻そうとする。
それを、はしたない、などと注意する香澄。やはり彼女のペースに持っていかれてしまう。
こんな形で相手に呑まれている時は、後から精神的にドッと疲れが来る事を知っている分、身体が欲するまま、目を瞬間的にオーダーに移し、追加注文をする。
それを見ながら、頬杖を付いた香澄が、再度、嘆息する。
「はぁ~、呆れた……まだ、食べるんだ。ん、分かった。話をするね。どこまで話をしたんだっけ?」
「義理の父親が、事故にあったという所までだな」
 オレは若干、ウヤムヤにした言い方をした。具体的な話は必要無し、と思ったからなのと、香澄がまた取り乱す事が無い様にする為だ。
「そう、かぁ。そこまで話したんだね? そしたら、その続きを……」
一口、ドリンクバーのカモミールティーを飲みこんで、深呼吸をする香澄。
話す準備は整ったようだ。
手にカップを包みながら、ゆっくり口を動かす香澄。
「私はあの日、翼が行方不明になって一月程した、あの日。一人で部屋にいて、本を読んでいたの。深夜一時過ぎだったと思う。私がベッドで寝転がっていると、突然、窓に何かが当たった音がした。それに気付いて、カーテンを開けたら――――」
 間を空ける。
声が詰まる。
ソレは口にし辛い事。
だから、オレは代わりに代弁してやる。
「ソイツが殺される瞬間を目撃してしまった、か?」
「うん。そう、あの人が殺される所を目撃した。でも、それ以上に驚いた事があった……」
「ソイツの前に、その『翼』が立っていたんだな?」
一回だけ頷く香澄。
オレは香澄が寝ている間に、ある程度の推察はしていたのだ。香澄の話をつなぎ合わせていけば、自然と出てくる答えではあったのだが、それもあくまで推察でしか無い。だから確認をしたかった。だが、香澄の頷く所を見るに、オレの推察は粗方外れてはいないようだ。
ただし、的を獲ているかと言われれば、それも違う気がするのだが。
「そう。アイツの前に立っていた人影、それが『神童 翼』だった。そして、翼はグシャグシャになったアイツの亡骸を踏みつけながら、私の方に顔を向けたの。そしたら――――何が、起きたと思う?」
 小首を傾げながら、問題を出す教師の様に。だが、オレは『出来た』生徒では無く。
「いや、分からない」
「即答しないで、少しは考えてよ? あんまり言いたくないんだからぁ」
 少しムクれて腕を組む香澄の姿は、本当に最近まで引き籠っていたのか、疑問符を持たせるには十分な雰囲気だった。明らかに最近の若者、そのままだ。
 オレは仕方がないので、姫の機嫌を取るため、やや考えている素振りをし、口を開く。
「じゃぁ、そうだな。翼がアンタに話しかけてきた。どうだ?」
「うん、あながち間違いじゃないけど……。グラスさん、超能力って信じる?」
「――――」
「信じていない、そんな感じだね。まぁ、私だって信じるも何も、そんなモノ、実際に視た事無かったから。もし、あの時以前なら、信じてない! って言ってただろうけど……」
「なんだ、その奥歯に何かが詰まった様な言い方は? まるで、目の前で視てしまったみたいな言い方だな、おい?」
 オレは、少々訝しげな面持ちをしていたと思う。勿論、その理由は、香澄の口からESP(超能力)と言う言葉が出てきたからだ。
 何故、オレがこんなにもESPを毛嫌いしているかというと、蝶番曰く、オレの師匠であるウィンドがESP使いだ、などと言ってきたからだ。
オレはずっとウィンドに付き添って、クランケをこなしてきたが、一度たりとも、そんな不可思議なモノを目撃した事は無かった。
蝶番は、ウィンド程になれば相手に悟られずESPを使う、そんな事も言ってやがった。
 しかし、オレにとっては、そのESPは『恨み』そのモノでしか無いのだ。
何故かって?
オレの師匠であり、大切な人であった「ダストネーム・ウィンド」を『殺』したモノが、そのESP使いだ、という噂を訊いてしまったから。
それが丁度、二か月前。
そう。
オレが一人発ちする直前の話だったのだ。
オレは信じなかった。ウィンドが死んでしまったなど、あり得ない話でしかなかった。そう思えるくらい、ウィンドは風の如く、颯爽と動く。風の如く、クランケ完遂をする人だった。
もし……もしもだ、仮にウィンドがESPを使えたとしよう。そうだとしたら、絶対に遅れを取るはずも無い、そう括れるほどウィンドは『しなやか』で強かったのだ。
だから、オレは否定しながらも、どこかで、そんな力を使うヤツに出会いたいと思っていた。そして、ソイツをESPなんぞ持たないオレ自身の力で、完膚なきまでに叩き伏せ、本当の強さとは、そういった特殊能力なんかではなく、人間本来の力である事を証明したかったのだ。
そして、オレはようやく出会えた。昨日の白パーカーといい、そして、目の前のクライアントが持ってきたクランケ。共通して言える事は、どうやらESP使いみたいだ。
顔には出さないが、オレの胸の中で何かが蠢いていた。
「眼の前で視ちゃったの。だから、依頼したんだ……」
 少し思考世界に入っていたオレを引き戻したのは、香澄の透き通った声。しかし、伏し目がちになっている。この少女は、何か苦いモノを思い出すと、必ずそういった行動をとる。そういった部分だけを見ると、引き籠ったトラウマが影響しているように思う。それ以外は、至って少女なのだが。兎にも角にも、今の言葉を受け取るに、それは兄の翼を差しているのは明白だった。が、とりあえず先走らず香澄に問いかける。
「フム。何が起きたのか、何を視たのか、まるで問題もヒントも無いクイズだな? それに答えるのは、ちょっと難しいぞ?」
「……そう、だよね? うん、そしたら話すよ。あの時、翼が、私の方を見ながら、アイツの身体を蹴っ飛ばしたの。そしたらね? そのアイツの身体が、何かに弾かれた様に……公園に植えてある樹に激突して――――弾けて、しまい、ました」
「それは、また…………なんとも、エグイモノを観てしまったな。だが……それだけでは、その翼とやらがESP使いと断定出来る要素にならないぞ? それくらいの芸当ならオレにも出来る」
 香澄は、眼を丸くして驚いている様子だ。
自分の観た非現実を「芸当」などと言い切るオレに対し、嫌悪感の一つでも抱かせてしまったかも知れない。そんな風に思っていると……。
「そう、なんですかっ!? 逆に、スゴイ……。これが「スイーパー」なんですね。でも、私が観たのは、それだけじゃないんです」
 香澄の口調が、突如、尊敬語に変わってしまった。それくらい、驚かせてしまったらしい。そして、畏怖を込めた瞳を向けながら、香澄はカモミールティーを一口すすり、話しだす。
「翼は、アイツが樹に激突した瞬間、正直、逆光で良く視えなかったんだけど、確かに笑ったんだ。それで、その後、私に向かって何かを投げつける素振りを取った、と思う。でも、その時、私も混乱していたから、それが現実かどうかもハッキリしてなくて……。あの時は、ただただ茫然とするしか出来なかった。だって、アイツは、確かに弾けてしまって、あの人影も翼か分からないのにっ! それをどう理解しろって言うの? 私には、ムリだった。でも――心の中でアレは間違いなく翼だ! って叫んでいた。それだけが、その気持ちだけが、私を突き動かしたの。あの人影が、何かを投げる素振りを取った時、フワリとした風が、私の横を通り過ぎた……」
「――――風? 横を通り過ぎる?」
 オレの中で、何かが引っ掛かった。
キーワードは『風』らしい。
一体、何が――――。
「そう――――風。そして、気付くと先程まで外にいた人影が…………」
 ザワリと。
 イヤな予感が背筋に迸る。
今の思考を言葉にして事実なら、ソレはどうしようもなく人間業では無く。だが、訊かざる負えないのだ。
「まさか…………部屋の中に、いたのかっ!?」
「――――うん」
 俯きながら、それこそ言っている本人も信じられていない様子を醸し出していた。
 オレはその言葉を訊いた時、このままでは明らかにマズイ事を理解した。
だから口に手を当てながら、自分の中で確かめなくてはいけない事があるので、一つ情報を香澄に尋ねる。
「マジかよ。そんな芸当、普通じゃ出来やしないぞ。マズイな、このままじゃ。なら――――アレをやるか。アンタの話から推測するに…………なぁ、アンタ、眼が悪いか?」
「あ、うん。普段はコンタクトつけてるよ?」
「……その時は?」
「眼鏡は掛けてたから、少なくとも普通に見えてたと思う。でも、それがどうかし――――」
 オレは、香澄が話をしている途中にも関わらず、両手で頭を抱えながら眼を瞑る。それは、自分の脳を高速回転させる仕草。
香澄の話を総合的に考え、イメージを膨らませる。勿論、大まかだが、香澄と翼の距離が幾程かを測る為だ。
 だから――――。
「グ、グラスさん? ブツブツと何を言って――――」
「…………クライアント約百六十センチの視点イメージを、昼からから夜に転換。視点を一Fから二Fに上昇。高さ約二メートルと設定。クライアント視点角度を六十度と仮定。現場街灯あり。クランケ画像処理、逆光により、やや不明瞭。結果、クライアントからクランケまでの距離演算完了。およそ百メートルと判断…………」
「グ、グラス、さん?」
「視点をクライアントからクランケに変換。室内灯により、クライアント画像処理、明瞭。クランケをダストネーム・グラスに転換。おおよそ百メートルの設定距離を、ゼロにする為に行動開始をイメージ。――――演算完了――――」
 オレはそっと眼を開けて、大きな溜息を吐き出した。
『ヴァーチャル・スペース』――――疑似空間を脳内で造り出す、オレの奥の手だ。
これをすると、脳に負担が掛る為、軽い眩暈を起こす事がある。今し方、クラリとしたが、それ程では無い様だ。酷い時では、そのまま意識を失ってしまう事もあるので、出来る限りの使用は控えるよう、仲介人蝶番から進言を受けていたのだが、今回は大した眩暈も無かったので、それに安堵の溜息を吐いていると、先程からチョコチョコ声を掛けていた香澄が、困惑した顔でオレに問いかける。
「あ、あの、グラス、さん? どうしたの、突然……」
「ん? あぁ、今、アンタの話をまとめて、脳内で『現場』を作りだしてみたんだ。もし、そのクランケ……あ、アンタの兄さんな? もし、アンタの兄さんが、オレだと仮定してみて、実際、アンタの傍まで行くとする。そうすると、大まかだが約四秒半は掛かる計算になる。そこで訊きたいんだが……アンタの兄さんは、そんなに時間を掛けたか?」
「四秒半って――――それでも十分速いと思うけど……でも、翼は本当に一息付く間もなく、私の部屋に居た。入ってきたというより、すでに其処にいた、そんな感じ。だから、四秒半は掛ってないと思うよ?」
 オレは顎に手を当てて、冷え切ったミルクティーに口を付ける。それを一気に飲み干し、もう一度、大きな溜息を付いた。
 もし、オレの計算通りにいけば、一般人を超越した身体能力があれば、何とかなる。しかし、すでにその場に居る、というふうに感じさせたという事は、入ってくる気配すら感じさせなかったに等しい。それは、さすがにオレでもムリだ。強引に飛び込んで、ようやく四秒半の計算なのだから。そんな芸当ができるモノがいたとするならば、オレの知るかぎり、やはりウィンドくらいしか思い当たらない。もしかすると、あのヴァイオレットの神出鬼没を使えば、出来るやもしれないが、それでも信じがたい。
これは、そう思いたくは無いし認めたくも無いが、もう『ESP絡み』である、そう判断しなくてはいけないようだ。
だから仕方なく、自分の心に言い聞かせる。

『今回のクランケは、ESP絡みだから、油断は禁物である』と。

「分かった。そして、翼は部屋に入りこんで、アンタに何を言ったんだ?」
「翼は『アイツは、俺が殺しておいたから、安心していいよ』って。そして、妙な笑い方をしながら『俺は、スゴイ能力を手に入れた! だから、香澄は何も怖がる事はない』とも言ってた。その言葉は、いつもの翼の様な気がしたんだけど、でも――――その、翼の服や顔には、大量の血が付いていて……私、とにかく、怖くて、怖くて」
 香澄は話しながら俯き、口に手を当てている。
多分、日常ではあり得ない、アニメの様な映像を観てしまったのだろう。しかもR指定モノの映像。それは、一般人では観る事の無い世界。それこそ、オレ達スイーパーの世界だ。
だから、香澄が蝶番に依頼した事は間違っていなかったのだろうと思う。
しかし、その映像を思い出して、吐き気を催している少女に、これ以上はやや酷なのかも知れないと、オレは香澄の代行で語る事にした。
「ムリに喋るな。人間、思っているだけなら大丈夫でも、言葉を口にすることで、それがフラッシュバックする事があるからな。なんか飲むか?」
 コクリと頷いたので、オレはこういった時には落ち着きを促す紅茶か、別の何かが良いだろうと思い、ドリンクバーにあるハーブティーを注ぎ、少し水を加え、すぐ飲めるようにと温(ぬる)めにして香澄に持っていく。
 軽く頭を下げながら、それに口付けると、コホンコホン、と咽せながら、涙目で「ごめんなさい」と謝る香澄。
この少女は、どこまで人に気を遣って生きているのか? 
などと、些細な事を考える。そんな瑣末な事を思い、またオレらしからぬ労いを掛けた。
「ムリして喋らなくていい。代わりにオレが話を進めるから」
「ケホケホ……。どういう事?」
「アンタが寝ている間に、粗方、話を推察しておいたんだ。それも、スイーパーとして大事な思考だからな――――」
 そう言いつつ、オレは香澄に紙タオルを手渡す。香澄は、それを受け取り口に当てながら、再度、ごめんなさい、と呟く。
それは良いとして、とにかくムリをさせない様に配慮しなければならない。
 正直、オレとしては、かなり面倒なクライアントを抱えてしまったと、後悔もあった。しかしながら、ここには、もしかするとウィンドの事を知る手立てが有るかもしれないのだ。だから、そこも汲み取りつつ、オレは香澄の代わりに話を進める事にした。
「さて、少し落ち着いたか?」
「う、うん。ホント、ごめんなさい。まだ、あの時の情景が、眼に残ってるみたいなの。夢にも出てくるし。それに、外に出る様になってから間もないから、どうも今日は……ホント、ごめんなさい……」
 オレは、またも不機嫌な面持ちで片肘を付きながら、ふぅ~と細い呼吸で落ち着きを取り戻そうとしている香澄に、少し語調を強くして意見してしまった。
「なぁ? なんで謝ってばっかなんだよ?」
「――――えっ?」
「謝る事じゃないだろ? 誰にだって思い出したくない事、あるだろうが? それを思い出して苦しくなるのは、普通なんじゃないのか? ソイツラを全部、自分で抱え込む必要がどこにある? アンタは、もっと自分を大切にした方がいい。もっと自分を守ってやった方がいい。もっと、自分を好きになった方がいい。もし、それらが出来ないのであれば、誰かにすがったっていいじゃないか? それが普通の……まぁ、オレには良く分からんが、それが普通に生きる上で、大事な事なんじゃないのか?」
 自分で自分を客観視した時に、記憶喪失のオレでは理解し難い内容を、平然と述べている自分が其処にはいた。思わず喋り切った自分の口を手で塞ぎながら、驚きを隠そうとした。
今のは、自分の、否、「今」の自分の言葉では無かった。これが、「記憶」では無く、「記録」なのかも知れない。
『脳は記憶を喪失していても、身体は記録している、身体は識っている』
 いつの日か忘れたが、オレが、ウィンドと一緒に南の方で仕事をこなしていた時の事だ。
クランケ完遂をしたオレ達は、人目に紛れながら現場から逃げていると、後ろから舗装されていない道を暴走しているダンプが一台、オレ達を追ってきていた。二人だけなら逃れる事なんぞ容易いのだが、たまたま横道から飛び出してきた子供が一人。ダンプは、子供に眼も繰れず、そのまま直進。母親らしき女が大きな声で叫ぶ。だが、ダンプは止まらない。このままでは間違いなく、子供は『挽肉』になるだろう。ウィンドが舌打ちをしながら、後ろを振り向いた瞬間、オレの頭の中で電撃とも取れるノイズが走った。
そして。
気付くとオレは、子供を抱えながら道路脇に転がっていた。どうも転がった時に頭を打ったらしく、クラクラしながら子供を確認する。
ギュッと眼と瞑り、身体を強張らせてはいたが、子供は無傷だった。
ホッと溜息を零すと、それで緊張が解けただろう、子供は眼に一杯の涙を溜めながら、泣き叫び、母の元へと走りだした。
その後ろ姿を観ながら、ウィンドがポツリ漏らした言葉が、先程の『詞』だ。
「これが、記憶じゃなく、記録、なのか? ウィンド?」
 口を塞いだ手の中で、ポソリ呟くオレ。そして、そんなオレを見ていた香澄が、濡れた様な瞳を大きく見開き、突然、クスクスと笑いだした。
困惑した表情で、香澄を見つめると。
「グラスさんって、本当に良い人なんだね? 記憶喪失って言っても本当に人間味を感じる。私、翼を助けたい、そう思ってる。でも、ずっと一人で何とかしようと思ってた…………。グラスさん、私、決めました。今回の依頼、グラスさんにお任せします。その上で、私にも出来る事をさせて下さい。やっぱり私自身の手で、兄を、翼を助けたいから……」
 決意のある眼。
自分が解らない世界があっても、この少女の様に、前に進む事が出来るのが『人』なのかも知れない。
それならば、オレも前に――――。
そう決意したからには、最大限、オレはオレの出来る事をする。
「元より、そのつもりだし、それを決めるのはアンタだ。オレは出来る事をする。それだけ」
「十分です。それだけで、勇気をもらえましたからっ!」
「そうか? なら良かった。そしたら、オレの方で推察した話をしていっても大丈夫か?」
「はい、お願いします」
 オレはユッタリと口を動かし始める。これはあくまで推察なので、途中、香澄に補足ももらわないといけない、そう思っていたからだ。だから、香澄にも発言出来る様に、間を作りながら語りかけた。
「先程、アンタが話をしていた続きをしよう。もし補足があったら言ってくれ。では――――部屋に入ってきた翼に、アンタは何を言ったのか分からないが、まぁ、大方、怖がってしまって、翼はその場を逃げるように出て行った。どうだ?」
 縦に首を振る香澄。
更に続ける。
「そして、その後に突如起こったのが、羽桜市内での『器物破損事件』だった。それをアンタは、あの例の力を使った翼の仕業だと思った。だから、その現場に立ちよって調べては、また夜中、街を徘徊し遭遇しそうな場所を探しまわった」
「うん。その通り、です……」
「しかし、足取りは見つからない。しかも、不特定な場所ばかりだから、全く予測が付かない。そこで、どこで知ったのかは分からないが「仲介人蝶番」の事を知り、依頼を頼む。だが、アンタは、それでも探し続けた。何故なら、毎日の様に起こっている事件が気掛かりだった。それをニュースで観ながら、いつもアンタは、冷や冷やしていたんじゃないか?」
 少し言葉を濁しながら、疑惑の言葉を呟く香澄。
「なんで――そう、思うの?」
「アンタが何で探しまわっていたかを考えていたら、自然とそこに辿りついた。アンタはこう思ったんじゃないのか? 『自分が怖がって翼を受け入れなかったから、こんな事件が起こってしまった。だから翼は、そのうち無関係の人を「殺」すのではなかろうか』ってな」
 オレは腕を組みながら、ややのけ反る様にして香澄に視線を送る。
その視線を、すっと躱すかの如く、香澄は横を向いてしまった。
どうやら……正解らしい。
そのアクションを受けて、オレは、もう少し、このクライアントの依頼内容を具体的にしていこうと思った。
「さて、一つ訊きたいんだが? アンタは、初め『翼を殺せ』と依頼してきた。でも、本音は違うと言っていた。では、本当はどうしたいんだ?」
「――――分からない。正直言うと、分からないの。でも、でもっ! 翼が、あんな事する人じゃないって私は知ってるっ! だから、アレは私のせい、私のせいなの。私は罪悪感を感じていて……でも本当は、ただ翼を止めてほしい、だけなんだと思う。だって翼は、翼は私にとって大事な人だから。それと、仲介人さんが受ける依頼って、重くダークなモノじゃないといけないって訊いたから……ウソをつきました。ごめんなさい……」
 ふぅ~と大きな溜息をつきながら、多分、テーブルの下にある手は、ギュッとスカートの裾でも握りしめているだろう事を予測出来る程、肩を竦めている香澄を見つめるオレ。
 すっと手を伸ばし、店員を呼ぶインターンホンを押すと、香澄は、その音を聞いてピクリと動いた。それを見つつも、すぐに店員が現れたので、オレは「チョコレートパフェ」と「イチゴのムース」を頼んだ。すると店員は、少々お待ち下さい、と笑顔で対応。ちゃんと指導が行き届いているのだろうと、どうでもいい事を思いつつ、スイーツが来るのを待ちながら、香澄に言葉を投げかける。
「別に気にする事じゃない。クライアントが望む形を提供するのが、オレと仲介人「蝶番」の仕事な訳だからな。あ……今、勝手にスイーツを頼んじゃったが良かったか? アンタ、さっきから「イチゴのムース」をジッと見ていたから、それで良いかと思ったんだが……」
「……ホント、スゴイね。なんか色々な意味で勉強になるよ、グラスさん。いっつも、そんな風に周りを観てるの?」
「何を言っているんだ? この程度、普通じゃないのか?」
「いやいやっ! 全然普通じゃないよ! むしろ、スゴイ事だと私は感心してます」
 どうも本当にそう思っているらしいく、顔がさっきよりも、キラキラとしている。あまり褒められ慣れていない分、照れくさく、無意識に頭をボリボリと掻き毟るオレ。
「オレにしちゃ、これが普通なんだがな? いつも師匠に、そうやって『生きて』いないと、気付かぬうちに『喰われ』てしまう、そう教わったもんでな」
「師匠って……?」
「オレをここまで引っ張ってくれた人で「ダストネーム・ウィンド」と言う」
 香澄は、へぇ~と、感嘆詞を述べながら…………。
「スゴイ……強い人だったんだね、ウィンドさんって」
「まぁな。さて、ちょっと話がズレちまった。それじゃ、とりあえず結論としては『翼を止める』それでいいのな? ただし……全く怪我を負わせない、というのは不可能だ。アンタの話を訊くに、かなりの相手だと思われる。だから、此方もガチでいかないと逆にやられちまう。それに報酬一千万、これは払えるのか?」
 うっ! と、喉の奥に何かを詰まらせたようなリアクションを取る香澄。
これはこれは…………。
 オレは、先程の依頼内容が「クライアント」本人から、ウソである、そう訊いた時から、すでにある程度予想は出来たのだが……。
しかし、困ったモンだ。これだけの話を訊いただけで、オレの中では、ずっとサイレンが鳴り響いているのに、それでも、この子にとって良き条件を考えてしまう。
呆れたヤツと笑いたくなった。何故なら、取り分が六割もらえるから交渉したからこそ、受けたクランケだったのだから。
本当に仕方がないと、諦め口調で香澄に促した。
「そんなに出せるはずもない、か……。そりゃ、そうだよな? 一女子高生が、そんな大金払えるはずも――――」
「い、いえっ! 翼を止める事が出来たら、何年掛ってでも、必ず、お支払いします! だから、だから、お願い、グラスさん! 手伝ってほしいの! お願いします、お願いします!」
 周りの目も気にせず立ち上がり、必死に頭を下げる香澄。多分、眼には涙の一滴でも溜まっている事だろう。
たった一日、人をじっくり観察すると、こんなにも色々な事が分かると学べた。蝶番の言う通り、確かに大きな収穫なのかも知れない。
 しかし、報酬に関しては、オレの死活問題に直結する。それに、モチベーションにも関わるのだが、まだ学生の香澄。後々払うと言われても、今のオレには『今』しかないのだ。
 オレは、先程から吐き出している溜息の何倍もある溜息を二度ほど零し、肩を竦めながら、こう言い放った。
「ムリして背伸びなんてしなくていい。分かった、分かったよ。今回の報酬に関しては、オレの方から、ミコトに伝えておいてやる」
 顔を持ち上げて問いかける香澄の瞳には、やはり涙が溜まっている。それを見て、やはりオレは、もう一度、溜息をつくのだ。
 そんなオレに掴みかかってくるかの如く、香澄は顔を近づけて、たどたどしい言葉を並べる。「どう、いう、事ですか?」
「だ~か~らっ! なんとか、ローン返済が出来ないか取り合ってやるって言ってんだ。それと……言いたくないが、オレの取り分はいらない。それでも、ミコトに支払う四百万は払うんだぜ?」
「そ、そんなっ! そんな事……グラスさんを無償で雇うなんて、そんな事、出来ないよ!」
「ば~か。だから、ガキが背伸びするなって言ってんだよ。だったら、ここの支払いくらい、持てよな? 今はそれで十分だ。どうする? 受けるか受けないかは、アンタ次第だが?」
 どっかで聞いたセリフを吐いているオレは、やはり、あの眼鏡男に毒されているらしい事を認めざる負えなかった。
『全ての決定権はクライアントにある』
アイツが言っていた事が良く分かった。私情を挟むと、今のオレの様に、こうやって自分がバカをみるらしい。
情けない話だ。たかが少女に振り回されるスイーパー。
それでも……それでも、これはオレが決めた事なのだ。全てはオレ次第なのだ。オレが決めたことであれば、アイツは文句を言う事は無いだろう。自分にちゃんと報酬が有れば、それでいいのだから。
 しかし、それ以上に、困惑しているこの少女に、オレに悪意はない事を伝えるのも、結構困難な事だと自嘲気味に笑って見せた。
「別に気にするな。これはオレが決めた事だ。あとはアンタが決める、それだけ」
「わ、私は、その……そうしていただけたら、どんなに嬉しいか……」
「なら、それで決まりな? よし、じゃ、行くぞ。支払い頼んだ」
 スクッと立ちあがり、とっとと出掛ける為、上にジャケットを羽織って、クルリと巻かれた伝票を手に取り、香澄へ渡す。すると、香澄も一緒になり立ち上がるが……。
「えっ!? どこへ?」
 と、分かり切っている事を訊いてくるので、半ば呆れた面持ちで答えてやる。
「どこって……。現場に決まっているだろ? アンタの家だよ、家」
「えっ――――っと、それは、ちょっとヤダかも。だって部屋片付けて無いし……」
 モジモジとしながら、香澄は会計を済ませているが、オレはそんな瑣末な事どうだっていい。弁解の余地は無しだ。
「そんな悠長な事、言っている場合か? 今だって翼がどうしているか、気になっているんだろ? 別にアンタの部屋に入りたい訳じゃないんだ。その、アンタの、義理の父親ってヤツが殺された現場を観たい。それだけだ」
 そう言い残して、オレはカラランと鳴るベル付きのドアを開け放つ。その後ろから、それなら、と言って香澄が着いてくる。
 そう。
今のオレには「ある意味」決定権が委ねられているのだ。だから、自らの判断で自らの任務を遂行するのみ。それに集中せねば、またどこで『白パーカー』と遭遇するやもしれない状況下にある中で、クランケ完遂など不可能だ。
それくらい未知数で理解不能な世界に、オレは足を踏み入れようとしている。しかし、それが唯一にして、最大の『オレの存在価値』なのだ。それを胃の腑に収めて置く事にする。
こうしてオレと香澄は、その現場に向かう事にした。
背中には、ヒシヒシと『殺気』と言う名の視線を受けながら――――。

……………………

 オレ達は、夜も深くなりつつある空間で、一本の樹の前に立っていた。
しかし、香澄は一人、違う方向に顔を向けていた。いや――背けているのだ。
ここは、この少女のトラウマが詰まった場所。だから、オレは一人、その樹に触れながら、また脳内でイメージを膨らませていた。
「ここか……なるほどな。この亀裂、これを一般人が「ヤ」るとなったら、何かユンボの様な工事車両でも使わないと……。それに、この曲がり方。余程な衝撃が掛らないとムリだろう。フム、これだけ見ても――――ッチ、厄介だな、本当に」
 しゃがみ込んで、樹の根元を確認しているオレに、香澄が声を掛けてきた。
「あの、もう、いい、かな?」
「あぁ、もう大丈夫だ。行こう」
 あまり長居をすると、またトラウマの反動で、この少女が倒れかねない。今日は、そろそろ潮時だろう、とオレは考えた。だから、本日最後の確認を家の前でとる。
「今日はこれくらいでいい。明日、また迎えに来るから、それまで家の中から絶対に出るなよ? それと、一つ聞きたいんだが――翼の姿形が分かるモノってあるか?」
「――――いえ、私の家族……『遠霞家』と『神童家』が一緒になってからは、父だった神童さんが忙しくて、旅行すらも行けなかったから、写真とか無いの。ごめんなさい」
「ん? しん、どう? 神どう……しん童……神童――――」
「どう、したの? グラス、さん?」
「――――ッ! もしかしてっ!?」
 オレの身体に電撃が迸った。それは、何か閃いた時のアレと同じだ。要するに、脳内のシナプス達が、色々と結合しあい、自らの中で結論を出した瞬間だったのだ。
「な、なぁ? アンタの兄『神童 翼』の親父は、もしかして――――H社で、働いて、いたか?」
 明かなる訝しげな顔付き。
 それが、答えとなり、オレの頭の中にリフレインする。
「偶然にしては出来過ぎているだろ? まさか、前に受け持ったクランケが、今回も関わってくるなんて。だって、このクランケは、ミコトのタロットから選んだモノなんだぞ? 前回だって、そうだ。なのに、何故――――」
「えっと、その、グラス、さん? それが、どうか、したの?」
 俯き、考え込んでいるオレに対し、小首を傾げて、オレを覗きこんでくる少女が問い掛けてくる。ハッとしたオレは、あまりの偶然性に、疑心暗鬼もさながら、更なる上の疑惑が浮上していたが、取り敢えずの所、この少女に、直接関係ないだろう事を思い、顔を上げる。
 関係があるとするならば、クランケ『神童 翼』だろう。それに、このクライアントを回してきた――――。
「分かった。それなら、身長はどれ位だ? それと、どんな髪型と服装をしている?」
 様相や特徴を尋ねると、香澄は顎に人差し指を当てながら、上向きに顔を上げ、考えている。ほんの二秒程だろうか、パッと顔を元に戻し、オレの目を見ながら、右の手刀でオレの首辺りを示して。
「えっと……身長は、グラスさんより、十センチくらい低いと思う」
「なるほど……。昨日のヤツくらい、か」
 つい思い出す。
あの屈辱的な瞬間を。だから、ヤツと重ねてしまったのだろう。
香澄は続ける。
「それに、髪型は、フードを被っていたから分からなかった。服装は、七分丈のジャージに――――白いパーカーを着てて……」
 白パーカーっ!? まさか、まさか、まさか。
「――――ッ!? 白い、パーカー、だと? それは、本当か?」
「うん、明るい所で見たんだから間違いないよ。でも、それだけで分かるかな?」
 やや不安な色を帯びていた香澄だが、オレは一度だけ大きく頷いて見せる。すると、よかった、などと、文字通り、胸を撫で下ろす仕草をする。それが、また、何処か少女の様相を醸し出していた。
「…………あぁ、十分だ。分かった。とりあえず、今日はユックリ休め」
 そう言うと、オレは香澄に顔を向ける事なく、後ろ手にヒラヒラと別れの合図を送った。
「あっ! ちょっと待って!?」
 後ろから呼びとめられたので、不意に、そちらに顔を向けると――――。
「手の包帯、巻き直してあげる」
「いや、別にいいって! 気にするなっ!」
「いいからっ! ちょっとくらい、ちょっとくらい、何かさせてよ」
 そう言って、両手に巻き付かれた包帯をゆっくり外し、それをクルクルと丁寧に巻いて、オレの手を取る香澄。そして、ただ傷口に当てがっていた布をひっくり返して、再度、オレの手に当てがう。その上から余り力を込めず、白い包帯を巻き直していった。
「……あり、がとう」
 自然と口から出て来た言葉に、オレ自身が、少々、驚く。だが、巻かれている時、一瞬だけ、ズキリと頭に刺激が走ったのだ。もしかすると、過去、オレが記憶を無くす前に、こういった状況があったのかも知れない。だとすると、過去のオレは「スイーパー」とまではいかなくても、怪我をし易い立場にあったのか、と、振り返ってみるが、どうやっても脳内の記録は、完全消去されている様だ。
 備に思い耽っていると、夜目じゃなくても分かる程、綺麗な白い歯を見せて笑っている香澄が、眼の前にいた。
「どういたしましてっ! こちらこそ、今日は一日ありがとう! また明日もよろしくお願いします」
 深々と頭を下げる香澄に、どう声を掛けていいのか分からず、結局、頭をクシャリと撫で、そのまま無言で踵を返した。
背後からは、香澄が、明日の十時に食事を取った店の前で、と言っていたので、また手をヒラヒラとさせて了解の意を示した。
が。
今のオレは、それどころではなかったのだ。
先の香澄の話を訊いてから、ドクドクと鳴り止むことの無い胸の鼓動と、背中を伝う冷汗。確か『冷静と情熱の間』と言う本があったと思うが、確かにいい言葉だ。まさに今のオレにうってつけの言葉。
 香澄には見せる事が出来なかった。
何をか…………。
間違いなく、オレは『破顔』していた……と思うのだ。
まさか、クランケと自分の仇になったモノが一緒だったとは。
それこそ一石二鳥。
薄々、そうかもしれない可能性は考えていた。だが、確信の無いモノに神経を注いでも、それは、むしろ自分を消耗させるだけである。だから、オレはあえてそこに触れず、ここまで来たのだ。そして、最後の最後に訊いてみた。その選択は、決して間違っていなかった。
オレは、心底、そう思えた。
だからこそ、破顔していたのだ。
こんな顔は、あの少女に見せることなど出来やしない。オレの顔は、瞳孔が開き、夜目も利く様になっていて、耳もどんな雑踏にあろうとも、大事な情報を訊き逃さない様、敏感に働いていて……。
ソレらが活動しているという事は、完全にスイーパーのソレに変わってしまっている事を意味していた。だから、片手で顔を覆いながら、クックと含み笑いをし、ネオン街に向かって歩くオレは、誰ともなく、そっと一人呟くのだ。
「さぁ、始めるとするか? 白パーカー? い~や、クランケ『神童 翼』……」
 こうして、オレは夜の雑踏へと足を踏み入れていく。やはり、背中には刺さる様な『殺気』を帯びた視線を受けながら――――。

……………………

「さて……? こんな夜中に何か御用ですか、ダストネーム・グラス?」
「あぁ、御用があったから、こうやって来てるんだ。しかし、何て言うか、その……すまない。こんな夜更けに叩き起こしてしまって、な」
 目の前には、いつもの燕尾服では無く、キッチリとアイロン掛けしてある青と白のストライプが入った上下お揃いのパジャマと、寝癖防止用のキャップを着用している眼鏡の男が、枕を抱きつつ欠伸をしながら、いつものアンティークチェアに腰掛けていた。
 オレは、夜中にも関わらず、コイツのオフィスとは言い難い部屋へ強引に入り込み(ドアを破壊したわけではなく、キーピックしてだが)先程、ヴァイオレットが持ち運んできたソファーに寝転んでいた「蝶番 命」を起こしたのだ。
 と言っても、オレとしては、そっとカギを開けて入ったつもりだったのだが、ドアを開けると、既にコイツは眼を開けてコチラを伺っていたのだ。伊達に「仲介人」などと言う、危険極まりない仕事をしていない。それこそ気配を消していても、それ以上の察知力で見透かされている、そう思う。
 更には、その察知力により、オレの来訪理由を言い当ててしまう蝶番。
「別に構いませんよ? だって、クライアントの事ですもの。これくらいの事、ボクとしては範疇内ですよ」
「おま……気付いていたのか?」
「何が、です?」
 デスクに両肘を付いているが、それはいつものポーズとは違えていて、何やら面白いモノをジッと見つめる子供みたいに、顎を手の上に乗せてニコニコと笑っていた。
 そんな素振りを見せられても、全く『萌』える事などありはしないが、どこかの紫女だったら、もっと別のリアクションを取るのだろう。
どうでもいい事を思いつつ、オレは、前に居る男が、全て知っている体(てい)で、話を進めた。
「あのクライアント……いや『遠霞 香澄』の兄『神童 翼』は、オレが遭遇した「白パーカー」と同一人物だったって事を、だ。それに、クランケの『神童』という名字。聞き覚えがあるだろう?」
「い~え、知りませんよ? 何の話ですか?」
 本当に知らない素振りを取っているが、コイツに限り、些か信じられない。何故なら、コイツは『喰えない』ヤツだからだ。
「しらばっくれやがって……まぁ、いい。とりあえず、まず確認したい事がある」
「何ですか?」
 小首を傾げながら、という表現が正しいかは解らないが、寝起きのコイツは何処となく動きが子供っぽい気がした。
 気を取り直し、軽く咳払いをしながらオレ。
「その、なんだ? 報酬金というのは、ローン返済は可能か?」
「クスクス♪ またまた面白い事を言ってくれますね、キミは♪ そんな事、クライアントが決める事でしょう? なんで、キミが、その交渉をしに?」
「それは…………」
 蝶番の言っている事は間違いではなく、オレが交渉する必要は全くない。
しかし。
それくらい分かり切っているのだ。オレだって、どうしてこんな事をしているのか良く分かっていない。
それでも、オレの中では、とっとと結論を付けて、あの白パーカーと心置きなく『殺(ヤ)』り合いたい、そういった衝動が胸を駆け巡っていた。そこに『遠霞 香澄』の意思は全く無い。
これは、オレの嗜好でしかなかった。まぁ、それを簡単に見過ごす蝶番では無いのだが。
「いくら、ダストネーム・グラスの言う事であったとしても、この交渉を受け入れる事は出来ませんね。キミだって気付いているのでしょう? これはクライアント『遠霞 香澄』様の意思では無く、キミ――『ダストネーム・グラス』の意思でしか無い。そんな軽率な事を受け入れるほど、ボクは寛大でも無ければ、慈善事業をしているつもりもありません。もし、キミがクライアントと接触した事で「この仕事が慈善事業である」そう認識を変えたのであれば、悪い事は言いません。今すぐ、ダストネームをお返しください。でないと、キミ自身を滅ぼす事になります。それに巻き込まれては、ボクも商売あがったりですのでね? そんな事、絶対に――――赦しませんよ?」
 いつもはチャランポランで掴み所が無いくせに、例の如く、仕事となると眼つきが変わる。 一塩に殺気を放ち、オレを見据える。それに対し、オレは自分の間違いを誠心誠意でお答えしようと努めたのだった。
「――――ッチ。わ~ったよ、マスターミコト様……それじゃ、この質問ならどうだ? 今回のクランケは、前回のクランケと、どう関わっている? それに、どういった力を持っているんだ? ハッキリ言って、ESP関連は全く分からない事だらけでな。でも、今回のクランケは必ず完遂したいんだ。だから、教えてほしい」
そう言う事なら……と、また笑顔に戻る蝶番。
「まず、一つ目の質問ですが、あくまで偶然の一致でしか無い。それは、キミが一番解っているはずです。何故なら、このクランケを選んだのは、他でも無い『キミ』自身なのですから」
 ある程度、予想していた答えだった。たとえ前回のクランケと今回のクランケが、深淵の暗闇で繋がっていたとしても、ソレを素直に言うヤツでは無いからだ。しかし、それでも、この二つのクランケは、ESP絡みだけでない、何か大きな『闇』がある様に感じてならなかった。
だからなのか、オレは、ずっと胸の奥で渦巻いている疼きが取れずにいた。
「まぁ、多分、そう答えるであろうことは予想していた。そこは、深く詮索しても仕方のない事だ。だったら、二つ目の質問はどうだ?」
 ニヤリと。
 サディスティックな笑みを携え、デスクの引き出しを開ける蝶番。そこから一冊の黒い大きめのファイルを取りだし、パラパラとめくり始めた。
ファイルのゴロには「ESPクランケの資料」などと、余りにも分かりやすい題名が付けられている。それを一枚一枚めくっていた蝶番の手が、ピタリと止まって、そのページをオレの方に向けて、見せてきた。
「これは?」
「このクランケ。これは、ダストネーム・ウィンドが何年も前に担当したクランケです」
 訝しげにオレは応える。
「ウィンドが担当した……クランケ、か」
「はい。その中に、キミが話をしていた『白パーカー』なる者と、似たような履歴があったのを思い出しまして。キミが、ESPに絡む初のクランケですから? 今回は特別に。と~く~べ~つ~に、お見せしましょう。多分、もうクライアントから深い話も伺っているかと思いますし……それを見て、キミ一人で研究してください。ボクは、もう……寝ます。さすがに、今日は疲れました」
「そうか、すまなかった。とりあえず、また明日、クライアントと一緒に来るつもりだが、何時なら大丈夫なんだ?」
 ふぁ~っと、欠伸をして眼を擦りながら、スゴスゴとソファーに戻る蝶番。そして、クシャクシャになっていたタオルケットを、パンッ! と、はたいて、背もたれ側に顔を向けながら、先程も同じ様な形で寝ていたのだろう、ゴロリとソファーに寝転がる。
「明日って言うか、もう、今日ですが……? 午後五時なら空いていますよ。取り合えず、予約を入れておきます。だから……とっとと、お帰りください」
「分かった、サンキュ。これ、明日、返すわ。それじゃ、午後五時に…………」
 そう言って、オレは部屋の明かりをパチリと消し、そっとドアを閉める。勿論、そのままにしておく訳にはいかないので、逆キーピックでカギを閉めた。
オレは、閉まったドアを見つめながら、さり気無く思う。
アイツのあの姿だけを見たら、誰も、アレだけの殺気を持っている輩とは絶対に思わないだろう。どんなに修羅場を潜ったとしても、あの殺気は異質過ぎる。
言ってしまえば、それは根本的な所から溢れてくる恐怖。
否、畏怖。
何人たりとも、眼を外す事が難しい、それほどの畏怖を、根源的に湧きたたせるモノなのだ。それは、ある意味で言えば――『神』――のソレに近い気もした。
 そんな輩でも、オレにとっては仕事仲間であり、恩人に変わりは無い。だからと言って、態度を改めるつもりは毛頭無しだ。
 オレは、ドア越しに、ば~か、と中指を立てながら呟き、ファイルをペラペラめくりながら、トコトコと、その場を後にしたのだった。
 
 そのまま蝶番のオフィスを出て、一人で夜中のネオン街を闊歩していた。しかも、片手にはやたら分厚いファイルを持ちながら。
 飲み歩いていたのであろう若者(もしかしたら、オレも、その部類に入ると思うが)と、仕事帰りのスーツの男共が、オレと逆方向に歩いている。
 オレはその中にあって、ファイルに眼を落しながら歩き続けていた。
「ふ~む。やっぱり理解出来ない。なんだ、これ?」
 ブツブツ小言を言いながら歩いていると、気配を感じたので横に避ける。更に、前から気配を感じたので、それも避ける。
 何とも器用な事をしていると思われるが、オレは、ファイルと前を交互に見ながら、歩いているのではなく、ファイルに眼を落としっぱなしで歩いているのだ。
まぁ、基本的に流れは逆向きな訳だから、前と横に注意をしていれば、然程難しい事ではない。だから、オレは大体、何かを読んでいる時に歩いていると、こんな感じになってしまう。
 しかし。
 ドンッ! と、珍しく正面から当たってしまった。
いつもの感覚なら、今の場所には誰もいないはずなのに、何故か、オレの感覚が外れてしまったようだ。
オレは顔を上げて、ぶつかった事を詫びようとした瞬間――――。
「やぁ、おにいさん? 久しぶりっ! 本なんか読んで歩いていると、ぶつかっちゃうぜ?」
「――――ッ!?」 
そこには、オレよりも、背丈が十センチ程低いヤツ。季節外れな白いパーカーフードを頭にかぶって、そのパーカートレーナーのポケットに、手を突っ込んでいる見覚えある……いや、忘れるはずもないヤツが、フードから小さく覗く妖しい光を携えた瞳で、オレの事を見ていた。
「お前は、白パーカーっ!? ――――い~や、間違えた。『神童 翼』だったな?」
「あれぇ~、もう名前、分かっちゃったのかぁ? さすがは、ソレ専門の仕事をしているだけあるよなぁ。ちなみに俺も、おにいさんの名前、知ってるぜ?」
 頭をボリボリ掻きながら、不敵に笑ってくる翼。それを、ザックリとした目線で、オレは脅しかけてみるが、効果は無さそうだ。
それよりも…………。
初めての近距離。
むしろ、ゼロに近い距離。
 その中にあって、オレと翼は二度目の対峙を果たした。それは、このネオン街では、余りにも普通で、だが、余りにも異質な世界が広がった。
 ザワリと。
 足元から背中を通り、頭に掛けて一陣の風が通り抜ける。
それの何が異質かと言うと……。

――風が縦に吹いたのだ――

しかも、オレだけをターゲットにして。
更に付け加えて、この空間。オレと翼を囲んだ半径一メートル四方に、何か壁でもあるかのように……いや、まるで全体が『モノクロ』になっている、その方がしっくりくるだろう。向こうからすれば、オレ達が『モノクロ』。要するに『隔たり』があるのだ。
先程と同じに、若者もいればスーツ姿も溢れかえっているはずなのに、この半径一メートルを避けて通るのだ。それは、視えない力に押し返されているかの如く。しかし、皆、その半径一メートルにぶつかり、グイッと押されて横に移動している異変に全く気付かない。否、気付かないのではない。気にも『留めて』いないのだ。
それくらい当たり前にぶつかって、サラリと移動し、そして、オレ達の横を通り過ぎていく。
 オレはグルリと周りを見渡しながら、一言呟いてしまった。
「なんだ、これ?」
「そりゃそうだろうな、おにいさん? な~んてな。もう俺の正体バレてんだから、そんな言い方しなくてもいいかぁ。ねぇ? ダストネーム・グラスさん? 仲介人「蝶番 命」の元で、スイーパーなる裏稼業をしている、名前の無い人――――」
 ふてぶてしく、見下すように口端を持ち上げる白パーカーの男。
そして、この緊迫感と威圧感が、吐息で測れる程の距離に居るのにも関わらず、同じようにふてぶてしく、見下すように口端を持ち上げる、スイーパーのオレ。
 まさに一蹴即発の距離でありながらも、オレ達は、静かに……ただ静かに、その場に佇む。お互いを見やりながら。
そんな緊張の中、初めに口を開いたのは向こうからだった。
「なぁ? なんで、オタクみたいな詳細不明な人間に、香澄のヤツは、あんなに笑ってるんだよ? 俺が久しぶりに戻ったってのに、しかも、アイツの仇(あだ)を、代わって手に掛けてやったのにっ! なんで、アンタに対して、あんな風に笑ったりする!? 笑ったり出来るんだよっ!? 可笑しいだろ、どう考えてもさぁ~!? そう思わね、グラスさんよぉ?」
 クックックと口は笑っていても、眼は笑っていない、そんな表情。それを、そっと見据えてオレは、あえて眼も笑っている風に笑いかけてやる。
 そうすると、どうだ? 
「なんだぁ、オタク!? 何様だよ!?」
あからさまに、嫌な色を表に出しやがる。それだけ見ても、やはり、この青年は早すぎたのかも知れない、などと心配をしてみる。そう、こういった世界に足を踏み入れたのは……。
 時に、人は強い力が手に入ると世界は自分を中心に廻っている、と勘違いする。それを、蝶番は『俯瞰(ふかん)で世界を観てしまった人間は、いつしか飛べると勘違いするのです』と、言っていた。
その言葉は、オレが初めて「ウィンド」とのクランケ完遂した後、褒められた事で浮かれてしまい、一般人に絡まれた時、その力を行使した際、言われたのだ。
 この言葉は、今でもオレの中で息づいている。そうしないと、いつ何時、オレは同じ過ちを繰り返すかも知れない。
そう思うと…………怖くて仕方なかったからだ。
 だが、コイツは、その恐怖を知らない。
全てを覆される様な、あの虚脱感。それに、あの悲壮感は味わった者でしか分からない。だから、この世界の先輩として、オレがすべき事は……香澄に、いや、クライアントに言われた通り、この白パーカーを止める事だと認識を改める事が出来た。
「そんな事、クライアントに訊いてくれ。だがな? 少なくとも、あの少女が言っていた『優しい兄』なんて面影は、今のお前を見ていると、全くどうして、オレには、どうやっても感じる事など出来やしない。一体、何を見て、あの少女は「優しい」などと言う形容詞を使ったのだろうな?」
 ヒュウっと口先を伸ばし、驚く素振りが、あからさま過ぎて。
「クックック♪ そうかぁ、そぉ~っかぁ! オタク、今すぐ、死にたいんだなぁ? 分かったぜ、いいよ? 今すぐ、この場で肉片に――――」
 グッと握り拳を作る翼。
 だが。
「――――ッチ! うろたえるな、素人が! この中でやり合ったら、周りに被害が拡がるだろう。それに、オレも仲介人も、その事で、とばっちりを喰うのは至って遺憾なんでな。こんな所では『ヤ』り合うつもりは毛頭ない」
オレは、翼の怒声を上から言葉を被せる事により制止する。
今すぐ『ヤ』り合いたいのは、同じ気持ちなのだ。しかし、時と場所を考えねばならない。それが、オレ達スイーパーの仕事なのだから。
「へぇ~。へぇぇぇ~♪ プロのオタクが、今しがた、自分で言った「素人」を怖がっちゃってるんだぁ♪ それはそれは……なんだ、大した事ないんだな? オタクらって」
 ピキリと。
オレの頭の血管が酷く軋んだ。それが、頭蓋中で響き渡る。
別にオレの事を言われても何とも思わない。如何に理解不能な力を携えていようと、コイツがどんな『メンタリティ』を持っているか、分かっているからだ。
しかし。
こんな素人に、スイーパーを……ましてや「ウィンド」を愚弄されようモノならば、今すぐ、この場で叩き伏せてやりたくなった。
こんな力の使い方も制御も出来ないバカ野郎に、この世界の事を語られるなどあり得ない。いや、あってはならないのだ、ド素人にナメられる事など。
 オレは、思わず拳に力を込めながら、ニヤリと笑い……。
「おい…………歯ぁ、喰いしばれっ! このド素人――――」
「は~い、そこまで! これ以上の愚行は見過ごせなくてよ? ダストネーム・グラス?」
 オレは強く拳を握り、ゼロ地点からの攻撃をかましてやろうと呼吸を荒くすると、全てを冷たく凍らせる声が背中越しに聞こえてきた。
 その声の持ち主は、勿論―――――。
「ヴァイオレット、か……。なんだ、邪魔しにきたのか?」
「アハハ♪ 良く言うわね、ダストネーム・グラス! アナタ、今何をしようとしていたのか、分かっているのかしら? それを愚行と呼ばずして何て言えばいいのか教えてほしいわぁ?」
 決して振り返る事はしない。
目の前に敵がいるのに目を反らすなど、スイーパーとしてあってはならない。
それがたとえ、仲間の助言であったとしても。
全てを凍らせる様な声だったとしても。
この怒りを止める事など、どうして考えられよう?
『冷静でなくては、クランケ完遂など不可能である』……もう、言わずとも分かると思うが、蝶番その人の言葉だ。
しかしっ! 
たった今、その中心者を含めた全てが、コイツの一言によって『穢(けが)』されたのだ。むしろ、それを愚行と言わないで何と言う? 
それを胸に思いながらも、身体が先に反応してしまいそうになる。そんなオレを見透かしてか、目の前の白パーカーは囀ってくる。
「ちょっと邪魔しないでくんない、紫色のおねえさん!?」
「黙りなさい、ド素人がっ! さぁ、どうするの、ダストネーム・グラス?」
 どんな姿で対応しているか分からない。ただ、オレを避けて背後を見ている所を見ると、やはり、ヴァイオレットは、オレの後ろにいるらしい。
 しかし、有ろうことか、コイツは更に――――。
「……んだよ、おねえさんじゃなくて、煩いオバサンかぁ? このおにいさんと同じ様な言い方してるし? なら、いいよ、御本人に訊くから! さぁ、どうしたのさ、グラスさんよぉ? 殴って来ないのか、おいっ!?」
「――――ッ!」
 更に囀りやがったっ!
唇から血が滴るのが分かる。
それは、脳で身体を必死に止めている証拠だ。
解放してやれば、どれだけ楽になろう。
しかし……それでもオレは、この拳を止めざる負えないのだ。だから、片方の手で爪が喰い込むほどに握っている拳を包み込むのだった。
「よく分かっているじゃない、ダストネーム・グラス? それでいいのよ。ここで事を起こせば、マスターの全てをアナタが奪う事になる。そんな事は、このワタシが絶対にさせない。アナタのサポーターたるワタシ『アンノウンネーム・ヴァイオレット』がっ!」
「――――ッツ! クソ……」 
珍しい事もあるモノだ。
この紫女が自ら『アンノウン(誰にも知られる事の無い)』を語るなど……。
サポーターとは、誰にも知られてはならない隠密の輩。だからこその『アンノウン』らしい。それを「誇りだ」と、この女は語っていた。『人』として扱われていないのにも関わらず、それはそれは――とても言葉では表せない、キラキラした顔をして語っていた。
だからオレは、この女からのサポートを甘んじて受けている、そう言っても決して過言ではなかった。その手前、オレは手を抑えるしかないのだ。
「分かってるよ……分かってる。悪かったな、その名を言わせてしまって――――だが、この気持ちも分かってくれ。お前のマスターやオレ達の事を、大した事ない呼ばわりしやがった、この男の顔面に、拳をめり込ませたいって事をな……」
 臓腑が引っ繰り返りそうになりながらも、その臓物を呑み込み、耐え忍ぶ。
 背後で立っていたヴァイオレットの緊張感が、スッと溶けていくのが分かった。そして、この半径一メートルの中に入り込んで、オレの横に凛として白パーカーの眼前に立ち会う。
 そうすると、クランケ『神童 翼』が、あからさまな溜息とリアクションを取りながら、オレ達に達者な口を利いてくる。
「物騒な事、言ってるけどさ? 俺が、そんな簡単に顔面受け渡すと思う? だって、昨日のオタク、全く手が出せなかったじゃん? それ以上に、大人げなく悔しがっちゃってさ。だっせ~♪ でも、ますます分かんねぇ~よな、ホント」
「――――何がだ? それ以上くだらない事を聴かせるなよ、小僧……」
 ただでさえ、イライラしている状態に油を注ぐような発言。脳内分泌物が限りなく出ている事が分かる。
「おぉ~、怖っ! で・も♪ そうそう簡単にイカせないって言ってんだろ? オタクも分かんねぇ~よな。でっ? 何が分からんかって言うとだな。なんで「蝶番 命」は、オタクみたいな弱気なヤツをよこしてきたのかって事さ。なんでか分かる? 紫のオバサン?」
 両肩を抑えながら怖がっている風に見せているが、そんなアクションは怒りを増幅させるだけだった。
それに伴い、隣の女は腕を組みつつ、顔をやや斜めにし、一瞥の眼差しを送りながら、重く昏い口調で語る。それは、臓腑に響き渡る重みを感じるモノだった。そう、それこそコイツらサポーター達のマスターと同じ雰囲気。そして、完全に口調が、ソノ筋の人間のモノへと変わってしまっていた。
「喧しいぞ、ド素人が。ワタシ達のマスターは、テメェ如きに測れる程、器がちっちゃくねぇんだ。こっちで場所指定してやるから、男なら、ウダウダ言ってねぇで身体一つ持って来い、そう言ってんのが分からねぇかっ!?」
「別にそんな事しなくても、ここで『ヤ』っちゃっても良いんだぜ? 俺は、それで捕まるなんてヘマはしないしな?」
 溜息を深く深くつき、項垂れるヴァイオレット。しかし、その項垂れた顔を持ち上げて、ビシッと指を差し、白パーカー、否、クランケ翼に言い放ってやった。
「うっせ~んだよ、ド素人! こっちで、その舞台を建ち上げてやるって言ってんだよ。ただでさえ横にいる男は「ESP」なんてこれっぽっちも持ち合わせてないんだ。だったら、どう考えても、テメェの方が有利だろがっ!? こっちの条件くらい飲めや! テメェだって、そんなナリでも男の端くれだろうがっ!」
 そうか……。
オレはようやく、ヴァイオレットの意図を理解した。ヴァイオレットは、この男の性質を利用して、あえて挑発的な発言をしているのだろう。そうすれば、多分、コイツは――――。
「ハッ! そこまで言われて手を出したら、ホントにダメ人間なレッテル貼っちまうなぁ。オタク、駆け引き上手いのな? しゃ~ない、分かったぜ。その条件とやら飲んでやる。で、どこで『ヤ』り合うんだよ?」
 やはり、挑発に乗ってきた。
さり気無くニヤッと口端を持ち上げて、ヴァイオレット。
「……場所は明日、夜中の二時に羽桜市の駅ビルにある屋上駐車場。条件は、そこでアナタとダストネーム・グラスが闘う。それだけ。どうかしら、それで良くて?」
 翼は、クスクスと含み笑いをする。フードの中から覗く細く長い目がオレを見すめてきた。そして、ニタリとして。
「いいよ、そこで。でも、そこって一度、俺が壊した所じゃん? 大丈夫なのかよ、紫さん?」
「ワタシ達を舐めないでもらいたいわね? どんな所でも、そういった舞台を整えるのが、ワタシ達サポーターの役目。造作も無い事よ?」
「そ? なら、お任せすんよ。それと、オタク。ダストネーム・グラス! これ以上、香澄に近づくな。見ていて不愉快なんだよっ!」
 ヴァイオレットを見習い、同じように指を刺してきた翼だが、オレは思わず、その指を咄嗟に掴んでしまう。つい、その行動に対し、本能的な行動を取ってしまったのだ。
翼は、それに少々驚いていたみたいだが、それでも今回は顔に出さなかった分、よくやった方だろう。だからオレは、そのやや成長した男にハッキリと告げてやるのだ。
「それはムリな話だ。なぜなら、あの少女は、オレの『クライアント』だからな」
「――――ッチ。その言葉、明日には後悔させてやる」
 そう言い残して、冷たい光を放った瞳を最後に、翼は陽炎が霞んでいくが如く、その場から消え去った。
「――――また、なんのトリックを使ったんだか……」
肺に溜めこんでいた二酸化炭素を吐きだすと、瞬間、オレの周りの空気がフワリと都会の匂いに変わって、いつもの様な淀んだ空気をオレは吸い込む事になった。ほんの少しの間、吸えなかっただけなのに、この当たり前の空気を吸う事が酷く懐かしい感じに思えた。
 それは一重に、オレも翼も一蹴即発にありながら決して手を出さないという、お互いの暗黙の了解という緊張感が漂っていたせいだ。
 オレは、ずっとアイツから手を出す事はないと踏んでいた。何故なら、オレの事を調べているという事は、少なからず香澄が何故、依頼してきたか、など容易に想像がつくはずだ。だったらアイツは『遠霞 香澄』の気持ちを大事にするはずである。そういう感情が多少でも残っていれば、手など出せるはずもない。
こんな事、ちょっと冷静に考えれば分かる事だ。
翼の一番恐れている事、それは……。
『遠霞 香澄に嫌われる事』
それ以外に考えられない。
だったら迂闊に手など出し、殺人事件の一つでも起こせば香澄は悲しむ。それ以上に、翼を怨むかも知れない。そうしたら、多分『神童 翼』という男は、生きていけなくなるだろう。
それは、哀しくも何かに依存している人間の辿る末路である、そう「ウィンド」から教えられた。だからオレは、忠実に、その事を胸に秘めて翼と対峙していた。
そう思えば、本当に、あのタイミングでヴァイオレットが来ていなかったら、危なかったと思う。それを、とりあえず言葉にしておこうと思ったオレは、ヴァイオレットに向き合ったのだが……。
「やっぱり、その紫ムラサキしてるのは、目立―――グフッ!」
 言い終わる前に、ドゴン、と。
オレの胎は、見事なまでの正拳突きにより抉られたのだった。
「アナタって人は……本当に、いっつもいっつも余計な事を。もっと感謝の意を表してほしいモノですわね?」
 オレは、抉られた胎を擦りながら、周りを流れている人の波を避けつつ、紫女が言う感謝の意を表明する言葉を、吐きだされた吐息と共に喉の奥から押し出した。
「……いや、感謝してるさ。あそこで、お前が入ってきてくれなかったら、前の様な事が起きていたと思う。マジで助かった。ありがとう」
「アハハ♪ アナタからそんな言葉を訊くなんて気色悪い。何か良い事でもあったかしら?」
 口元に手の甲を当て、イヤらしい笑みを浮かべて、オレの事を侮辱してくるサポーター。
それはいつも聞いている詞だが、たまに思う事がある。
本当にコイツは、オレのサポートをする為に居るのだろうか、むしろバカにして楽しみたいだけなのでは? 
などと。
しかし、ヴァイオレットには色々と世話になっているので、ちゃんと応じる事にする。
「良い事なら、あったさ。お前やミコト、それにウィンドっていう目標に出会えた事だ。だから感謝している。明日の事、よろしく頼むよ」
「――――珍しく真面目。つまらないわね? 言われなくても、そうしますわ? ワタシは、アナタのサポーターなんですもの」
「あぁ、頼りにしている」
 ヴァイオレットは両手で互い違いの肩を擦りながら、なんか悪寒が走る、と小言をぼやく。そして――――。
「マスターから頂いた資料、しっかり読む事をお勧めしますわ? そうでなければ、ESP絡みのクランケを相手取るなど、今のアナタには十年早いってモノですもの。十分に用心し、お気を付けて?」
「そのつもりだ。それに明日、ミコトにも話を訊く予定だ。舞台設定だけは頼んだぞ? 被害は最小限にしたい。オレはオレで好き嫌い言わずに、しっかりESPの事、勉強しておく」
 そう言って、オレは雑踏の中に足を踏み入れた。
これ以上、紫女を人目にさらす事は出来ないし、それ以上に、後は自分がどう動くのか以外無い事も良く分かっていたからだ。
 背後からは「よしなに」と、多分、周りの目に映る事は無い感じに、すぅ~っと消えていったのだろう、彼女の気配は全く感じなくなった。
 オレは、そのまま家路に付く事なく近場の公園へと行き、またホットのミルクティーを飲みながら資料を漁る事にした。
 気付けば東の空は、薄ぼんやりと碧く霞み掛かり、小鳥達がキャッキャと囀っていた。それは、世間一般でいう夜明けを意味する。しかし、オレにとっては、ようやく仕事が終わり、眠りに付くための合図でもあった。だが今回は、その合図を無視して……後頭部の疼きが止まなかったから、結局、一睡もせず一日目に幕を閉じたのだった。

……………………

「ふ~む……別に、何か変わった所も無いし、普通の駐車場か……。しいて言えば、夜中に車が止まっている事は無いって事くらいか。アイツの力は未知数。その上、もし車の一つでも持ち上げられた日にゃ、対処の仕様が無いもんな。まぁ……その代わり、オレも全く隠れる場所が無いときている。さすがヴァイオレットだよ。オレにもアイツにも、平等な条件を与えてやがる。普通ならオレに肩入れの一つでもしてくれたっていいんじゃねぇのかな、ホントに」
 一人でブツクサと文句を言いながら、闘いの舞台になるであろう立地を確認していたオレ。
 十時から香澄と待ち会う約束を取っていたが、今回のクランケ実行が今日の夜に施行されるとなると、香澄による蝶番へ対しての直談判は、後回しにせざる負えなかったのだ。
そこで、ヴァイオレットから香澄に連絡を取ってもらい、待ち合わせの時間を正午に直し、昨晩の店で一緒に昼飯を食する事となった。
「さて。この資料によれば……うぅ~ん、良く分からんな、このESPってヤツはっ!? なんなんだ、この計算式!? もっと分かりやすく書けよ、アイツも」
 ガリガリと頭を掻き毟りながら、更に不平不満をタラタラ流すが、どうしても、この資料の内容が理解出来ない。
出来る事なら、蝶番に会うまでの間に暗記をしたいのだが、一体どうしたモノかと、やや諦めた気持ちのまま、オレは頭の中で、この屋上駐車場を昼から夜に転換し、周りをグルリと見渡した。
 この屋上駐車場とは、要するに立体駐車場の一番天辺の事。その屋上には、勿論、屋根などは無く吹きっサラシだ。唯一、雨を防げるとするなら、このデパートの入り口になるエレベーターエントランス程度である。そして、現在、開店前の九時の時点で確認した所、この場所は夜になると閉鎖するらしい。そのお陰で、駐車する車などは全く無かった。
オレもそうだが、この閉鎖された空間に入れると言う事は、クランケもそれなりの実力を持っていなければならない。そして、ヴァイオレットが何故、この屋上を選んだのか。それが最も分かる理由を上げるならば――――真ん中にある給水塔以外、身を隠す所が全く無い。そういった所だろうと括っていた。
〈ザワザワザワ……〉
周りがザワつきはじめた。もしやと思い、腕につけている時計を確認すると……。
「もう十時、か。開店の時間だな。さて――――ここにはもう要は無さそうだし、そろそろ行くか」
ふぅ~っと風が吹いた時に、自分の身体から汗の乾いた匂いが鼻についた。クンクンと身体を嗅いでみると、汗臭さが際立っている。このままクライアントに会うのは如何なものかと判断し、オレは昨日から全く洗い流していない汗を流す為、一度自宅に戻る事にした。
だから、その場から立ち去る準備をする。エレベーターエントランスまで行くが、中には入らない。そのままエントランスの横まで歩いて行き、周りを見て、人目を確認した。
「よし、誰もいない、な?」
そう呟きながら金網のフェンスをヒョイッと飛び越えると、縁に降り立ったオレは、いつかのクランケ同様に、躊躇いも無く、サッと地上に向かって飛び降りた。と言っても、今回は、その屋上駐車場が設置しているビルのすぐ横にある、企業用のビルへと移り渡るだけだが。
オレは、前もって開けておいた隣のビルにあるトイレの窓の桟に飛び移り、そのまま中へ入り込む。勿論、人が居ない事を確認して。
そのまま、洗面台で髪を軽く水で濡らしオールバックにする。さらに懐にしまっておいた伊達眼鏡と掛けて、何食わぬ顔で、トイレのドアを開けてビル内に入る。
この会社は、IT関連や貿易関連の会社が入り込んでいるため、私服出社が多い所だった。だからオレは、昨日のナリのままで一階へとエレベーターで降りる。そして、普通の一社員を装い、正面玄関の自動トビラを潜って外へと出て行ったのだった。
多分、昇る時や降る時、はたまた何かの為に、このビルを使う事になるであろう事を思いつつ、汗で塗れた身体をシャワーで流す為、軽い日差しを浴びながらテクテクと歩き始めた。
周りからは、あの殺気を感じる事は無い。
オレの範囲内にいないのか、それとも、気配を消せるようになったのかは分からないが、そんな瑣末な事を気にするほど、オレは出来た人間ではない。
自分でも変な嗜好を持っているな、と、一息欠伸し、足首をポキリと鳴らした瞬間、ビルとビルの隙間にある薄暗い裏路地に身体を滑り込ませ、ギュンっと走り出した。
「待っていろよ……『神童 翼』め……」
オレはアイツに対し、よほど私恨を持っているようだ。
意味も無く口にした言葉に少々驚きながら、オレは自宅へと戻った。
その背後には、何も変わらぬ日常が通り過ぎている事を感じつつ――――。

 着替えを済ませて、自宅から昨日のファミレスへと向かっていくオレ。
 今夜のイベント会場の下見をし、一日ぶりとなるシャワーを浴びて、依頼専用の黒のジャケットスーツを着こむ。少し窮屈になるが、それは仕方がない。そうしなければならない理由があるから、そうするのだ。そして、その上から簡素なトレーナーと、ダボダボのソフトジーンズを履き、その黒が視えない様に仕込んだ。
こうして準備を整えたオレは、クローゼットの中にあるオレの存在を隠す為のアイテム、昨日とは種類の違うキャップを被り、のんびりと出掛ける。そんな姿で二十分程歩いていると、不意に背後から声を掛けられた。
「遅いですよぉ、グラスさんっ!」
「よぉ、昨日は休めたのか?」
 声の主は、勿論、今の時間ならばファミレスの御前でお待ち頂いているはずの、クライアント様『遠霞 香澄』だった。
別段、そんなつもりは無かったのだが、なんとなく気だるい感じに対応したらしく、香澄はやや語調を強くし、言い返してきた。
「もう、はぐらかさないで下さい! 御心配なく、昨日の夜は、いつもよりも寝つきが良くってスッキリ起きる事が出来ましたっ! まぁ、うん、多分それは、昨日グラスさんと色々お話させて貰ったからかも知れないね」
「フ~ム、それなら良いんだが。久しぶりに話した人間が、こんなヤツで大丈夫なのか? と、些かながら心配していたんだ。そんな風に言ってくれるなら良かったのかもな」
 そんな会話を交わしながら、残り二百メートル程先にあるファミリーレストランへと向かうのだが、香澄が思わぬ事を告げて来たので、驚きの表情を示してやる。
「あの、ね……グラスさん? ちょっと良いかな?」
「ん? なんだよ、改まって。どうかしたか?」
「あのね? 昨日、帰ってから考えたんだけど、やっぱり無償でお願いするのは気が引けるから、せめて幾らかは払わせてもらいたいの。まぁ、その……待っててくれるならっていう、勝手な条件付きになっちゃうんだけど……」
「おまっ!? 何、考えているんだ!? 別に気にする事は無いって言っただろうっ!? それに、これはオレがそうしたいと決めた事だ。あとその件に関し、昨日、ミコトのヤツと話を――――あぁ、そうだった。ローン返済に関しては、直接交渉してくれ。やはり、アンタとミコトの間にオレが入るのはおかしい、と、お叱りを受けちまったんでな」
「うん、そのつもりでいたから大丈夫。でも、グラスさんの報酬は何とかするから待っててくれないかな? 私、やっぱり何にも無い条件で、人にモノを頼めるほど図太いつもりも無いし、申し訳ないから――――」
 やはり、昨日と同じ様な伏し目がちに喋る香澄。
今日は、昨日と打って変わり、思いのほかカジュアルな格好をしていた。首にファーを付けたレプリカ皮バリの茶色いジャケットに、タイトな濃い色のジーンズパンツを履き、その裾を黒のロングブーツに入れ込んでいた。頭には、ボンボンの付いた淡い黄土色した毛糸の帽子を被っている。
こうやってみれば、今時の子だと思う。が、やはり昨日の見た姿が本来の姿なのだろうと思ってもいた。特に理由はないのだが、少し背伸びをしている様に感じたからだった。
「ねぇ、どうしたの?」
 腰を屈めながら、上目でオレの顔を覗きこんでくる少女。一瞬ドキリとしたが、それを表に出せる訳もなく、何事も無かったかの様に平静を振る舞う。
 しかし――――どうしたものか。
 この少女は一度言ったら聞かない。些細な事だが頑固な所があると思う。どうやって、オレの報酬の話を納得させるべきか思案していると、香澄から先に口を開いてきた。
「ねぇ、グラスさん? このまま仲介人さんの所に行かない?」
「あ? なんでだ?」
「イヤ……早めに話をしておいた方がいいのかなって。だって、今日のグラスさん、どこか『心此処にあらず』って感じがするんだ。もしかすると、今日の夜にでも……」
 なんとも、まぁ……どうしようもない。スイーパーであるオレが、こんな一般人の、しかも高校生の女に心理状況を詠まれた上、心配を掛けているではないか。
 こんなヤツを本当にプロと言えるのだろうか、と肩を落とすオレ。そして、心にも無い事を口走って後で後悔する事になる。
「――――ッチ。やっぱりアンタといると、どうも調子が狂う。どうして分かった? 心配掛けまいと気遣ったつもりだったんだがなぁ。こんなんじゃプロなんて言えやしない……」
 そう言って、思わず口を塞ぐオレ。
 訝しげに、その姿を見つめる香澄。別段、深い意味があった訳ではないのだが、どこか羞恥心というモノが胸の中から滲みだしてきた。
それだけでもオレは昨日より、いや、このクライアントと出会う前と今では、明らかに何かが違う自分が居る事を認識する。
別の言い方をすれば、これが『人間らしさ』と、言うモノなのかも知れない。
蝶番の言っていた事は少なからず的を獲てしまい、オレはその事実に気付いてしまった事で、更に落胆してしまった。だが、その程度の事で動揺している時間も無く、結局、深い溜息と共に今の状況をオブラートに包みつつ、説明する事にした。
「確かにアンタの言う通り、今日の夜、クランケと遭遇する予定だ。それとミコトとの約束は夕方五時になっている。それ以外の時間は、全く受け付けちゃくれないだろうから、それまでは時間を潰さなきゃならない。あとクランケの事で、アンタから少々話も訊きたいんでな。とりあえず飯でもどうだ?」
「う~ん……」
 オレの言葉を受け取った香澄は、突如、歩みを止めて、腕を組みながら何やら考え込んでいる。そのアクションが一体何を意味しているのか、オレには理解出来なかった。
それを払拭する様に、香澄が腰に手を当てて俗にいう『えっへんポーズ』を取りながら、またオレの口を開け放つ事を言い出す。
「それなら………………うん、決めた! グラスさんっ! ちょっと私に付き合って!?」
「――――? あ、あぁ。別に構わないが、どこに行くんだ?」
「最近出来た、街にある巨大アミューズメントパーク!」
「…………はぁっ!? アンタ、何を言って――――」
「いいから、いいからっ! ちょっとだけ付き合ってよ。これも依頼の一環だと思ってさっ!」
 オレの右腕を両手で強引に掴み、腰を入れながらグイグイッと引っ張る少女。オレは、それに倣って抵抗することなく、為すがまま引っ張られる。
 ハッキリ言って、この行動の意味が分からない。オレには理解出来なかった。
この緊迫した状況を、この少女はどう理解しているのだろうか。これが最近の若い者達の感覚なのだろうか、と勘繰りながら、後でヴァイオレットか蝶番に話を訊いてみようと、思ってみるのだった――――。

オレは一体何をしているのだろう?
そんな風に思っていると、隣に居る少女が目をキラキラさせて、感慨に耽りながら吐息の様な嘆息を零す。
「はぁ~……これが、テレビでやってた最新アミューズメントパークなんだぁ」
「で? ここで何をするんだ?」
 オレは、今の発言をした者をジトッと見据えてやる。別に威圧しようとかではなく、ハッキリとした理由が分からない上、勝手に感慨に耽られても困るのだ。すると、やりどころの無い腕を組んでいたオレに対し、指を差しながら喚き散らしてくるクライアント様。
「何をって!? 勿論、遊ぶに決まってんでしょ!」
 また腕をグイグイ引っ張られてしまい、結局、中へ連れ込まれてしまうオレ。
 もうどうにでもなれと、若干、自暴自棄になりながらも仕方ないので付き合う事にした。
「アハハ、すっご~い♪ こんなにたくさん遊ぶのがあるっ! よ~し、あっそぶぞぉ!」
 ケラケラと笑いながら、中を縦横無尽に駆け回る少女の後をスゴスゴと付いて行き、その度、オレも一緒になりながら遊ばされる。
 最新のミュージックゲーム、レースゲーム、クレーンゲーム、それに定番のモグラ叩きっぽいモノまで、なんでもアリのアミューズメントパーク。
周りを見渡せば、平日にも関わらず、家族連れだったり恋人達や若者世代の子達、かと思いきやスーツ姿の男性グループなども居たりする。
なんでも香澄は、確かに高校に所属しているのだが、ソレは「単位制」とか言われる学校らしく、自分で授業を選べる為、平日でも時間があるそうなのだ。だから、決してサボらせているわけではない。よく見れば、香澄と同じくらいの少年少女もいるから大丈夫だろう。
変な所で気を揉みながらも、楽しそうにしているこの少女の姿を見ていると、どこかホッとするオレも居たりするのだ。
この二年間、ずっと家の中で引き籠っていた少女にとって、この場所はある意味別世界であり、そしてこれから、もっとたくさん体験を積むための一つのステップなのだ。
そう考えれば、この時間も無駄ではないのだろう。
そんな暗いモノを抱えながら、それでも自分に抗おうとしている少女の走りまわる後ろ姿を見ながら、少しばかり口端も持ち上げていると、不意に動きを止めて、クルリとこちらに向き合ってきた。
「あぁー、楽しい♪ ホント、こういうの久しぶりなんだ♪ 付き合ってくれてありがとね、グラスさん♪」
「……………………」
 周りから見て――――。
この少女が義理の父と言われた男から犯され、二年もの間、心の傷を抱えながら引き籠り、その傷を更に上塗る如く、目の前で義理の兄が、その男を惨殺した所を見てしまった――――そんな重いモノを抱えているなどと思えるのだろうか。
 それくらい普通に、自然に、当たり前に…………笑っていたのだ。
オレは、昨日の夜、クランケである『神童 翼』に言われた通り、この少女を笑わせている事が出来ているのだろうか。
 考えてみれば、記憶のある一年前からの事を思うと、少女とこんな所に来るのも初めてなのだ。そもそも、こんな所に来るのも初めて。それは、記憶喪失のオレになってから考えると、数える事すらムダなくらい初めての経験なのだ。
 だが。
オレの中で違和感を抱かない所をみるに、もしかしたら、オレの中にある『記憶喪失前のオレ』は、昔にこういった経験をしているのかも知れない。それは、本当に「もし」の話だが、今のオレの記憶には無い『女性』と一緒に。
それはいいとして、この少女とオレは「心の闇」という部分で、どこか共通する所があると言っても良いだろう。だから、顔にやや疲労の色を浮きぼらせる香澄を、少々休ませる為に、今度はオレの方から誘ってみる。
「なぁ。そろそろ休憩にしないか? いい加減、走り回って疲れただろう?」
「う~ん、そうだね! そろそろお昼にしよっか? どこで食べれるんだろ?」
 キョロキョロと、首をしきりに動かす香澄に対し、オレは天井を指さしながら……。
「屋上のテラスでフードコートって言うのか? それがあるらしいから、そこでどうだ?」
「おぉっ! さすがプロの人! ちゃんと全体を把握してるんだね? 私なんて遊ぶ事だけで必死だったから……」
 何がプロの人なのか……。オレからすると、本当に瑣末な事でしかなく。
そう思いながら、頭をポリポリと掻き、自分が遊ぶ事しか考えていなかった事を照れている少女が、誤魔化す為なのか強引に引っ張って催促してきた。
オレは特に考えも無く、先程からこの少女が行っていた様に、その手を握り返し、トットと歩き出した。オレとしては、早く席について、このファイルにあるクランケのESPについて話をしたかったのだが、どうも、このクライアント様は勘違いしたらしく、バッと手を剥がしてきた。
「だ、だ、だい、じょうぶ、ですよぉ~! 一人で歩ける、から。うん、だ、大丈夫!」
「――――? どうした? あんまり大丈夫そうに視えないが……」
 もう一度、手を取ろうとすると、香澄は慌てて腕を背中に隠し、何故かテレ笑いと言うか、苦笑いと言うか、不自然な笑みを浮かべてオレよりも前を歩き出した。
「は、早く、行こうっ!? 席が無くなっちゃったら、大変だし……」
「あ、あぁ。そうだな」
 訝しげながらも、オレは、そんな香澄の後を追っていった。
 
オレ達二人はエレベーターを使い、屋上まで一気に上がる。
オレは、このエレベーターと言うモノが、こんなにも渋滞する乗り物と知らなかったから、些か面喰ってしまっていた。何故なら、乗るとしても夜中、たった一人で乗る事がほとんどだったからだ。それに、エレベーターには監視カメラが付いている為、極力使う事はしない。だから、こんなBOXの乗り物が、こんなにギュウギュウで人を詰め込むモノだとは知らず、乗りこんでしまったのだ。ハッキリ言って、かなり不愉快極まりない。
オレと香澄は、隅に追いやられてしまい、結果、オレが身体を張り、盾になりながら、角っこで小さくなっている香澄を人波から守っていた。
「ゴメン、グラスさん。邪魔かもだけど、ちょっと帽子取るね?」
 香澄はこの空間の為、どうも暑くなったらしく、オレに一言断りを入れてボンボンの付いたニット帽を外す。
 すると…………フワリ。
 香澄の髪の毛がオレの鼻をくすぐった。その髪からは淡いローズの香りが漂う。それが鼻腔に届くと、妙にドキリとするのは気のせいだろうか。
それに。
ジャケットのジッパーが少し開いており。時折、中に来ている白の首元が開けているシャツから、ひっそりと胸元が覗いていた。その所為で目の行き場に困ったオレは、仕方なく溜息を付き、天井を見上げる。
別に見る事が、どうこうという訳ではなく、この少女は常に警戒心を持っている環境下に置かれていて、今はその警戒心が解けている瞬間なのだ。だから、こんな些細な事を気にさせてしまえば、その分、また警戒心を張り巡らせなくてはいけない。そんな小さな事で彼女の気分を害すのは、オレの中で美味くなかったのだ。
チラリと香澄の顔を見ると、何故か、こちらを凝視していた。
「――――ッ!?」
素早く目を反らし、また天井を見上げるオレ。
ひたすら、何なんだ一体? と、心の中で叫びつつ『早く着け、早く着け』と、祈る気持ちで待つ。すると、チ~ンという軽い音と共に自動ドアが、グーンと開いた。
「プハァ~、苦しかったぁ~。大丈夫、グラスさん? なんかエレベーターに乗ってる時、顔が赤かったから心配したよ」
 小首を傾げながら人の気にしている事を平然と尋ねてくる少女は、世間で言う所の「天然」と言うヤツではないのだろうか? 少し照れ気味に、ポリポリと頬を掻きながらオレ。
「あ、あぁ。大丈夫、だ。その……アンタは、大丈夫だった、のか?」
「んっ? なんか喋り方変だよ? ま、いいか。大丈夫! 久しぶりの人ごみでドキドキしたけど、大丈夫そうだった。これからも、リハビリの為にちょくちょく来てみる……」
 屋上にある一つのテーブルに向かいながらに、今までの事を「リハビリ」と、言った香澄を見て、胸がチクリと痛む。
 彼女は、そう……オレと一緒に来る事を望んだのではなく、自らが一歩踏み出せるかどうかを確かめたかったのだ。
 そんな事、初めから分かっていた。
これは彼女にとって「遊びに行く」事ではなく、むしろ「闘いに行く」と言った方が、正しいのだと思う。それも、そのはず、それくらい『人間』と言うモノに嫌気が差していたはずなのだ。しかし、この子はそれを払拭する為、自ら闘いを挑んだ。
それは無謀でもあり、どこか勇敢でもあり――有体(ありてい)で言うなら「冒険者(チャレンジャー)」と、言ったところか。そんな気概と、凛とした姿がオレには眩しかった。
 はたして。
この、出店がたくさんあり、全体が屋根に覆われているフードコートのテラスになっている屋上の中で……否、このアミューズメントパークの中で……否、この街の中で、一体何人の人間が自らに挑み、自らを払拭し、自ら『本当の自分』を探そうと、冒険しているのだろうか。
オレには、そんな事分かるはずもない。だが、一つ厳然と分かる事がある。それは目の前の少女は、立ち止まる事を選ばず、前に進む事を決心したのだ。
それだけで……分かるだろう、ダストネーム・グラス? 
彼女にとって、クランケ『神童 翼』がどれ程の存在なのかを――――。
分かり切っているはずなのに、何故、胸が痛む? 
オレにとって、それはどうでもいい事なのではなかろうか、と自問自答してみるが、答えは全く聴こえない。それは、どちらでも無い、何かが胸の中にあるからなのだろう。それが如何様なモノであったとしても、結局、オレはクランケ完遂を全うする以外にない存在。
それが「スイーパー」というモノ。だからこそ、この胸の中のノイズは気になりながらも、必要無しと決めなければならない。こんなモノがあっては、やはり作業に支障をきたす事は目に見えている。出来れば、早く蝶番やヴァイオレットと話をして、このノイズを取り除いてもらいたい、そう思っていた。
 すると――――。
「グラスさん、ここ、空いてるから座ろ? なんか買ってこようか?」
「……あぁ、ホットのミルクティーを一つ頼む。あと、アンタの分も何か買ってこいよ? これ、お金」
 そう言って千円渡すと、香澄は笑顔で敬礼しながら走り去っていく。オレはその間に、カバンの中に仕込んでおいたファイルを取りだし、その内容に目を通す。
 何度見ても、今いち理解できない。それは、オレが「ESP」について知らな過ぎる事も功を奏している様に感じるが、蝶番の書き方が余りにも雑過ぎる事が一番の原因だと思った。
「……あぁーっ! マジで分かんねぇな、おい。アイツ、もしかして『ESP』っていうの理解してないんじゃないのか? まるっきり暗号だよな、コレ?」
 ブツクサ言っていると、後ろからニュっと顔が覗いてきた。
オレは思わず振り向こうとするが、それは余りにも近すぎて。だから、何食わぬ顔で前を見つめたままでいると……。
「ふ~ん? これ、物理の『波』の式じゃない?」
「物理の……波? なんだ、それは?」
「えっと、それはね――――」
 前を見つめながら、動揺の素振りも見せずに……それ以上に、キーワードを重要視し。
そのキーワードを呟いた少女は、何かを考えているのか、細々とした囁きとも取れる声音で背後にいた少女は、グルリとテーブルを迂回する。そして、オレの前に座り直し「はい、どうぞ?」と、ホットミルクティーを手渡してきた。オレは無言でそれを受け取ると、目の前でココアとホットドッグを嗜んでいる少女に問いかけた。
「なぁ、アンタ。今、言った事、もう一度詳しく教えてくれないか?」
「うん、そのファイルに書いてある数字とアルファベットは、高校物理で習う『波』ってヤツなの。でね…………え~っと、その式だと――ちょっと待って」
 そう言いながら、バックからペンと紙を取り出して、何やら計算を始めていた。
 オレは、物理自体、何度も蝶番のヤツから話を訊いていたので、どのような学問かは理解していた。しかしながら、その中に『波』なるモノがある事は知るはずもなく。
 それはそうだ。基本的に、オレの知識は一年前から構築されていったのだ。もしかしたら初耳では無いのかも知れないが、身体の中で反応が無い所を見ると、知らないと括るべきだろう。
 しばらくすると、香澄が計算し終え、感嘆というか、呆れたという感じの溜息をつく。
「――――はぁ~? これ、とんでもない事になってるんですけど? えっ? これ、どうやって作りだしたの?」
「あ~、その、なんだ? なんか納得いっていないところ悪いが、オレにも分かるよう話してくれないか?」
「あっ、うん。えっとね、ザックリ話をすると……」
ファイルの中にある、ちょっと強面で髪が金色をしている二十代後半らしき写真の男に指を差しつつ、香澄はオレの目を見据えて語りだした。
「この人――――このESP『スロー』――――って、多分、直訳の『投げる』でいいんだよね? これは、この式の答えっていうか、計算上の話だし、あくまで私のイメージだけど……この人の『投げた』モノ――――『ジェット噴射』――――くらいの威力があるみたい。あっつ、でも『あくまで』の話だからね? 実際は分からないよ?」
 と、怪訝な顔付きで、必死に弁解をする彼女だが。
「投げた、モノが? ジェット機レベルだってっ!? なんだ、それは? あり得ないだろ、そんな事!?」
「――あり得ないから、ESP(超能力)なんじゃないのかな?」
「…………確かに、そうだが。でも…………」
 腕を組み、唸りながら考え込んでいると、香澄はオレの手元から、パッとファイルを取り上げ、ジッと読み始めた。
「……なんか、分かるか? オレには、どうしてもその内容が理解出来ないんだが……」
 目を右から左にくり返しくり返し動かすと、また感嘆したかの如く、嘆息を零す香澄。
「ん、大まかだけど、分かった気がする。ねぇ、グラスさん? 私が説明するのは、この力についてだけでいいんだよね? 事件の内容は分かるでしょ?」
「バカにしてるのか、アンタ? これでも一年はこの仕事をしているんだ」
 そう言うと、そうだよね、と、テーブルに肘を付き、ファイルをオレ側に向けて、そっと置いた。そして、細く白い人差し指で、一番厄介だった『力の属性』という項目を、撫でる様に指し示していく。
「私も完璧に理解したわけじゃないんだけど、このESPっていうのは、色々とタイプがあるみたいだね? 大まか言えば、二種類に別けられる。そこまではいい?」
「あぁ、この資料に書いてある『外的作用』『内的作用』だな? 多分『外的作用』とは、文字通り――外に力を出して、外の何かに作用する――そう考えていいと思う。『内的作用』っていうのは……今いち、分からないが「自分を強化する」そんな類かと思うんだが」
 香澄は一つ頷き、オレにアイコンタクトで次に進む事を示唆するが、オレはこの時、この『内的作用』と言うのに、些かながら疑問を抱いた。
なぜなら――――。
「いや、ちょっと待てよ。この『内的作用』の例を見てみると……」
 オレは今のページを指で押さえながら、ペラペラと違うページを開き、西洋人の女のファイルを香澄に見せた。
「この人は?」
「あぁ、この資料によるとだな? この女は『内的作用』を使って、瞬間的に動きが速くなるって書いてある。だが、それくらいならオレにだって出来る事だ。そうすると、オレなんかも知らず知らずの内に、この『内的作用』ESPを使っているってことになるのか?」
 訝しげな顔でオレの質問を受け取る香澄だが、その淡い唇から飛び出した言葉は、やはりあり得ないモノだったのだ。
「でもさ、グラスさん? 瞬間的って言っても、その――『音速』で動く事なんて出来る?」
「はぁ!? 音速だってっ!? そんな事、どこに書いて――――」
 オレの言葉を遮って、香澄が指差したのは先程と同じような数式だった。ずっとオレが引っ掛かっていた、この数式。これは全てのページに書いてあった。だから、オレには理解が出来なかったのだ。
それを見ながら、香澄は肩を落とし気味で説明してくれる。
「良かったよ、ホント。私、高校で理数専行だから、分かるんだ。グラスさんには分からないかもだけど、この数式で出る答えは…………マッハレベルだよ?」
 マッハって言うと、そう、確か『音速』レベル。その思考が頭を過った瞬間、弾けるように立ち上がり、年甲斐(年齢も記憶喪失しているが)も無く、声を発してしまうオレ。
「――――なっ!? そんな速度を人間が出したら、身体がっ!?」
「うん、もしも出せたなら弾けちゃうかもね。でも…………それより、やっぱり仲介人さん、スゴイよ。これは全部、誰かに見られても、おいそれと分かる様にしない為の工夫。だって、これだけ見ても何が何だか分からないでしょ?」
 小首を傾げてオレを覗いてくる瞳には、確かな核心を持っている感じを受けた。そのプレッシャーは、前にも一度感じた事のあるモノで。
 しかし、それ以上にこの難しい難題を、名探偵御免いとも容易く解き明かした少女に感服していた。
「まぁ…………だが、その解らない様にする工夫を、なんでアンタは分かったんだ?」
「だ~か~ら、言ったじゃん! 私、理数系の専攻なの。こういうのが元々好きだったから、自学で相対性理論まで勉強しちゃってるから、さ」
 言っている事は良く分からないが、経った今、オレは物凄い味方を手にしている事を、重々理解する事は出来た。
まさか、このクライアントと絡む事で、オレの毛嫌っていた『ESP』絡みのクランケに出会い、そして理解出来ないオレを導いてくれる役目まで果たしてくれている。蝶番のヤツやヴァイオレットでは、ここまで話もしてくれやしないだろう。
 オレは、この少女を侮っていた。
それを心から反省する。それだけの事を、この少女は行ってくれているのだ。もし、オレがこれを理解しないまま、クランケとぶつかっていたら、幾らかゴリ押し出来たとしても、最終的に『ヤ』られてしまっただろう。
『最大の防御は事前の準備である』
これは師匠である『ウィンド』が言っていた言葉だ。オレは、まさに今、それを体現している、そう感じずにはいられなかった。
香澄の真剣な瞳は、やはり濡れている様に見えて。しかしながら、何とも頼りがいのある凛とした光を帯びていて。
オレは、それに素直に甘んじる事にする。それがクランケ完遂の為に必須だと、身体の細胞一つ一つが叫んでいたからだ。
久しぶりに、身体の奥から高揚するのが分かった。
「で、話を戻すけど……多分『内的作用』は、人間の限界を超えている力を負荷が有る無いにせよ、身体に由現出来る事だと思う。だから『外的作用』よりも、ある意味『内的作用』の方が性質悪い気もするよね……」
「そうだな。下手をすれば、気付かない内に一撃で殺されていても、おかしくは無い。そうか…………そう言う事か、なるほどな? ミコトが、あのページを見せて来た理由は、今回のクランケ『神童 翼』の持っている力が――――」
「――――『外的作用』である可能性が高いって事、だよね?」
 オレは、軽く相槌を打つ。
本当にこの少女は一高校生なのだろうか? 
そんな瑣末な疑問すら持たせるほど、一般人のソレよりも洞察力に長けている気がする。
初めはクライアントに会う事に対し、嫌悪感を抱いていたが、これほどの知識、経験を積める事は滅多にない。
それは『今』のオレにとって、とてもありがたい事だった。
知識と経験が交差した時、初めてアウトプットが出来るモノもあるからだ。だからオレは、年上だろうと年下であろうと関係なく、学べる事は幾らでも学んでやろうと思える様になっていた。そして、この最大の味方にオブラートを包んだ話しかしていない事を思い出し、純粋に助言をもらう事にする。
「あぁ、多分、そうだ。その、実を言うとな……昨日、一昨日とオレは『翼』に会っている」「――――えぇっ!? えっ? ウソ、ホントに!?」
 驚きの表情の香澄に対し、オレは首を縦に振った。
「ウソを言ってどうする? 本当は初めに伝えるべきだったのだろうが……色々と諸事情があって伝えていなかった。すまない……で、話を戻すが、一回目会ったのは、あの駅前にある大きな公園。その時はまだ、アイツがアンタの兄とは知らなかった。アイツは、あの公園で、オレに対し、只ならぬ殺気を放ってきた。だから、持っていた空き缶を蹴り付けてみたんだ。そしたら、その空き缶は……触れてもいないのに爆発した。その事を考えても『外的作用』と考えても良いかも知れない。そして、二度目は――――」
「もしかして――――昨日?」
「察しがいいな、アンタ。その通り、アンタと別れた後、オレは蝶番の所に行って、このファイルを借りたんだ。その帰り際、街中でオレは翼と相対した……」
「そ……それ、で?」
 やや声が震えている香澄。
それもそのはず、彼女の願いは、クランケ『神童 翼』が街中で、あの力を使い、殺人を起こさない事なのだ。香澄の心中は、考えずとも察する事は出来る。だから、オレはちゃんと何事も無かった旨を伝えた。
「何も無かった。ただ、アンタに――『遠霞 香澄』に近づくな――そう言われたがな。しかし、それは願い下げだ。何故なら、アンタは「仲介人」に依頼を頼んだクライアントな訳で、そして、アンタが出した条件は、直接スイーパーと話をさせてほしい、な訳だ。だとしたら、オレは、クライアントとの約束を優先せざる負えない」
「でっ、でもっ! そんな事言ったら、翼は、翼は――――。ねぇ、グラスさん! 翼は、あの力を人に向けて使わなかった!?」
 どこまでいっても、翼を中心に考えている優しい少女。それがどこか、オレの胸をグッと締めつけた。
「大丈夫だ。そこはヴァイオレット……あぁ、サポーターの事な? ソイツが、上手い事納めてくれた。だから、今日の夜二時にクランケ『神童 翼』と闘う事になっている」
「そ、それは、それはどこでっ!?」
「クライアントとは言え、さすがにそれを教えるわけにはいかない。アンタだと、乗り込んできそうだからな。それをされると返って迷惑なんだ。だから、それは教えない」
「そ――――そうで、すか……」
 肩を落とす少女を見て、少々悪い気もしたが、このESPと言うモノが未知数な分だけ、一般人を巻き込むわけにはいかない。それに、そこを気にしながら闘う事が出来るなら、元よりここまで苦労などしていないだろう。だから、香澄には決して場所を言わない。
「まぁ、そうしょげるな。そんな事より、話の続きだが、アンタの見解を教えてもらいたい。アイツを見た時の事を思い出させるのも酷だが、考えてみてくれ。アイツの力は『外的作用』であって、何に作用するモノだと思う?」
「――――え~っと、なんだろう……」
 オレは冷めてしまったホットのミルクティーをグイッと一気に飲み干して、カップをドンっと置いた。すると、香澄はビクッと身体を震わせた。まだ対人間が苦手な証拠だが、オレは構わず口を開く。
「オレが思うに、キーワードは『風』だと思う。二回会ったが、その二回とも、やはり風が吹いたんだ。アイツがアンタの部屋に居た時も風を感じたんだろ?」
「う、ん。そうだ、そうだよ、あの時、フッと風が私の横を通り過ぎたと思ったら、翼が部屋の中にいた。そう考えると――――翼が作用させる力って『風』って事?」
「い~や、それだけではないってオレの中の本能が叫んでいる。こう言う時は、まだ何かピースが足りないんだ……『風』だけでは足りない。では、なんだ? 風、風、風――――」
 オレと香澄はお互い腕を組み、目を瞑りながら考え込んでいると、遠くの方でガヤガヤと遊んでいる子供の声が聴こえた。
『ねぇ、ママァ! あの風船のクマさんで遊びた~い♪』
『しょうがないわね、一回だけよ?』
 と、その瞬間。
「――――? 風船っ!?」
 オレは目を開き、素早く、その声がした方に振りかえる。その視線の先には、クマをモチーフにした巨大バルーンを膨らませて、その中でトランポリンの様に跳ねて遊んでいる子供達の姿があった。
 無邪気に遊ぶ子供達。その姿を見た時に、オレの中で何かが動き出した。そう、いわゆる一つの閃きと言うやつらしい。
 眼を見開き、素早く頭を抱えて思考をフル回転させる。
「ね、ねぇ、グラスさん? どうかしたの?」
「ちょっと待てっ! 今、何か出てきそうなんだ。話しかけるな――――」
 うっ! と、喉を詰まらせて両手で口を押さえる香澄。オレは構わず、じっと一点を見続けて、脳内に自分を潜り込ませる。すると、いつもクランケ完遂の為に行う『イメージ空間』へと誘われる。そして、思考に絡まった真っ暗なラビリンスに、天から一筋の光明が瞬くのを感じた。
「…………風船…………? 膨らませる? その為に必要なモノ、それは――『空気』――?」
 思考のラビリンスから発せられる情報を口にしながら、意識は元の世界に引き戻される。それは、自らが発した言葉の内容に驚いたためだった。オレは、思わず柏手(かしわで)を打ち、香澄の目を見つめて、やや興奮した語調で口早に喋る。
「そうかっ! そうだ、分かったぞ! 翼が操るのは『空気』だ。間違いなく『外的作用』の力を持っている、そう考えて良いと思うぞ!」
「えっ! ちょっと待ってよ、グラスさん? その根拠は!?」
「あぁ、それはだな。まず、アンタの義理の男が『殺(ヤ)』られた時の事を考えると――」
 オレは一つ一つ、バラバラになっていたモノを『空気』というキーワードで繋げていく。それが確かなモノかはハッキリと言えないのだが、それでもかなりの確信があった。
 あくまで仮定でしかないが、内容としてはこうだ……。

 まず、香澄の前で見せた翼の力を見るに、義理の男を殺した時、男の身体を拉(ひしゃ)げさせたのは、あの空き缶と同じ要領と考えたのだ。
 翼は、飛んできた空き缶に対して、ソレを取り囲む空気を瞬間的にだが、強力な圧力を掛けてやった。そうすることで、内部が空洞の空き缶は一気に潰れる事になる。男を拉げた方法もそれと同様に、男の身体の部位を取り囲む空気に圧力を掛けて、グシャリ――――。
と、仮定したのだ。それに、これはある本で書いてあった事でうる覚えだが、過去十数年前らしいが『空気』密度の濃い圧縮した玉、否、塊にすると『鉄球』並みになる、という研究が進んでいたそうだ。そう考えると、今までの「器物破損事件」は、火薬を使った形跡が無いのにも関わらず、アレコレと破損している訳だ。普通、いや、翼は普通ではないのだが、それでもあのもやしっ子が、コンクリの柱を素手で破壊する事など絶対に不可能だと思う。たとえ獲物を持っていたとしても、だ。だとすると、その周辺にあるモノで破壊せねばならない。あるとするなら――そう、やはり『空気』である、そう仮定しても差し支えは無いだろう。
それを香澄に話すと…………。
「なるほど……空気圧を操る事が出来れば、空き缶を爆発させたって事も頷けるね。それに、器物破損も今の理論で考えれば納得いくし…………あとは本当に翼の力が『外的作用』であって『空気』を操るモノなのかどうか、だよね?」
「そうだな。ここで結論付けるのは、少し急ぎ過ぎな所もあるだろうしな」
 オレは顎に手を当てつつ、更に考えを深めていく。が、それの思考を止めたのは、目の前の少女だった。
「ねぇ、グラスさん。確か仲介人さんとの約束って五時だよね? そろそろ行かないと、時間的に間に合わないよ?」
 そう言って携帯の時間を確認している香澄。オレも、それに習って腕時計を見てみると、すでに針は、三時半を刺していた。
「おぉ……もうこんな時間なのか? ついさっきまでお昼だと思ったんだが、思いのほか時間を喰ったな。よし、行くとするか?」
「う、ん。そうしようか……」
 どこか曖昧な態度を取る少女。先に立ちあがり歩き出そうとしたオレは、一度足を止める。
「――――? どうした? まだ、なんかあるのか?」
「ううん、そう言う訳じゃないけど……」
 奥歯に何かが詰まった様な喋り方と重苦しい顔をする香澄に、オレは訝しげな視線を送る。
オレの中では、もう此処にいる意味は全く無くなっていたので、香澄の言動に対し、違和感を抱かずにはいられなかったのだ。オレが不可思議な顔をしていると、香澄が俯きながら、そっと口を開く。
「あの……グラスさん? 今日は、その、ありがと……」
「何を言っているんだ? アンタはクライアントだから、これくらい大したことじゃないし、むしろ、オレの方がアンタに力添えしてもらって感謝しているくらいだ」
 そう言うと、モジモジしながらチラチラとオレを見据えて。
「そう、かな? なんか、お役に立てたかな?」
「あぁ。正直な気持ちを言うと、オレは、かなりな人間を味方に付けた、そう思っているくらいだ。アンタ、スゴイよ、本当に。ありがとう」
 オレの一言で、俯いていた顔を持ち上げて「エヘヘ」と、白い歯を見せて笑ってくれた。先程の重苦しい顔が一遍したことで、オレは少し胸を撫で下ろした。
そして――――。
「改めて、よろしく頼むよ」
 振り返った身体を香澄に向けて右手を差し出すオレに、やや照れくさそうなハニカミ顔で、その手を握り返してきた香澄。
その手はとても柔らかく、温かかった――――。

……………………

「女心が分からない人って、ホント、イヤよね?」
「……突然現れて一言目がソレか? 何が言いたい?」
「フフフ♪ それは、ご自身の胸にお確かめになったら如何かしら?」
「――――ッチ。本当に『喰えない』ヤツらだな、お前らは……。どこで観ていた?」
「さぁ~ね♪」
 ただ今。
オレは、雑居ビルの三階にある外れの部屋の前で、壁に背中を預けながら、廊下の際にあるたった一つの窓より眼下を歩くスーツ姿を覗いていると、不意に横から訊き慣れた声が聴こえて来たのだ。
 何故、オレは廊下で壁にもたれかかっていたかと言うと、今回のクライアントの香澄が、仲介人である蝶番と二人で話をしたい、と言ってきたからだった。だから、オレは一人、お呼びがかかるまで外で待機。そこで、今夜のイメージを膨らませる予定だったはずなのだが、予想に反し、突如現れた紫女により意識を引き戻されてしまった。
 オレは特にソチラを向きなおす事もなく、窓を見つめるその態勢のまま、質問に応えてやっていたが、何処となく頭を過った事を、純粋かつ繊細に尋ねてみた。
「それはそうと…………今夜の準備、滞りなく、か?」
「愚問ね、ダストネーム・グラス? その程度の事なら造作も無い事。それよりも――――なんでアナタって人は『女心』が分からないのかしらね?」
 さすがに何度も同じセリフを訊いていると、オレの方もいい加減カチンと来る。
「だぁかぁらっ! その『女心』って言うのは何なんだよっ!? オレは何かマズイ事でもしたのか?」
「えぇ、えぇ、しましたわぁ? 折角、彼女が勇気を振り絞って「記念にプリクラを取ろう」ってお誘いをして来られたのに? それを無下にもお断りしやがって……ホント使えない男」
「酷い言われようだな、おい? あんなのを撮って身元が割れる様な事があったら、お前達にだって影響しかねないだろ? だったら断る事が普通なんじゃないのか?」
 ヴァイオレットは、今日、胸元が開いている開襟シャツを着ている。その開かれた胸元の前で腕を組み、たわわな胸を寄せながら、いつものトンボグラサンの奥にある瞳が妖しい光を放ちつつ、クスリと微笑んでいる。
 オレは備に、全体が紫色で無ければ普通に良い女なのだろうな、などと考えてみたり。しかしながら、それは瑣末な事でしかなく。オレの思考などお構いなしの紫女は、口を開く。
「その考えは良い心掛け。でも、クライアントの言い分は聞くものじゃなくって? それに彼女は、今回初めて、男性と一緒に、あの様な場所へ行ったのではないのかしらね? だからこそ、その記念として、彼女の大きな一歩を踏み出した記念として、何かを残したかったんじゃないかしら? それを、まぁ! アッサリと「任務に差し支えるから遠慮する」……な~んて……余りにも酷い仕打ちと言わずして、何と言うのかしらっ!?」
 オレが何故、ここまで言われなくてはいけないかと言うと……先程、香澄と過ごしたアミューズメントパークから出ていく際、香澄がサクサク歩くオレの服を引っ張ったのだ。 そして、彼女はこう言ってきた。
「あの、グラスさん? 今日の記念に……プリクラを……一枚だけでいいから撮りませんか?」
 何故か敬語。訝しげなオレは、ちょっと考えた結果、間を置いて香澄の質問に対し、こう応じた。
「いや、それはちょっと厳しいな。任務に差し支えるから、遠慮しておく」
と。
 それを聞いた香澄は、そうだよね、と、やけに不自然な笑顔を作って、オレの腕を引っ張りながらスタスタ歩いて、早く行こう、と促してきた。
 と、言うのが事の顛末。
 そして、オレと香澄は、アミューズメントパークを後にし、蝶番のいるこの雑居ビルへと足を運んだ。そうしたら、突如現れた紫に説教じみた事を言われてしまった、と言う事なのだ。
オレは大きく深い、あからさまに呆れた溜息を吐きだし、腰に両手を当てながら……。
「だったら――――後で、あそこにあった携帯ストラップの一つでも買ってきておくさ。それで良いだろ?」
「フフフ♪ まぁ、今回はそれで許して上げましょうか♪ さて、そろそろお話も終わる頃かも知れないわね」
「……ふぅ。お許しを得て光栄ですよ、ホント――――」
 そう言って頭をボリボリ掻いていると、ヴァイオレットの言う通り、ガチャリとドアが開く音が、灰色一色で冷たい印象を持たせる廊下に響き渡った。
「あ、あの~、グラスさん? もう良いよ、入っても」
「……あぁ。コイツも一緒で大丈夫か?」
 親指を立てて、横にいるヴァイオレットに指さしながら、ドアからちょこっとだけ顔を覗かせる少女に尋ねてみた。首を縦に振る所を見ると大丈夫なようだ。
ヴァイオレットも、それを肯定と見なし、恐れ入ります、と、堅い挨拶を交わして、オレと一緒にスゴスゴと部屋の中に入っていった。
 部屋の真ん中で、ドンと構える大統領デスクに、相変わらず肘をつきながら不敵な笑みを浮かべる眼鏡男。ソイツに向かい歩いて行くと、昨日、コイツが寝ていたソファーの横まで来たオレに対し、眼鏡男としては珍しくも大きな声を上げてきたのだ。
「あっ! ダストネーム・グラス! それ以上、こっちに来てはいけません!」
「……あっ? 何言ってんだ、ミコト?」
 なんとか足を止める事が出来たのだが、言っている意味が分からないオレは腰に手を当て、そんな事を尋ねてみる。しかし、コイツは立ち上がる事もせず、淡々とした様子でオレを見据えつつ、理由になっていない理由を吐く。
「言葉通りですよ? それ以上は入って来ないでください」
 訝しげに見据えるオレ。それは無言での促しに他ならなかった。
「好奇心旺盛なスイーパーですね、キミは♪ では、お答えしましょう。そこには先程、ボクがあるトラップを仕掛けたのです。それは、キミの様なスイーパーや人智を超えたモノにしか反応しない様になっています」
「なんだ、それ? なんでそんなトラップを仕掛けたんだ?」
 蝶番は、クックック、とイヤらしい笑みを浮かべて、目よりも小さい眼鏡を鼻に掛けながら、上目遣いでオレへと目を配る。
「それはですね? キミが……クランケと二度も接触してしまったから。なのですよ、ダストネーム・グラス?」
「――――ッチ、なるほど、な? 要するに……今夜の約束ではあるが、もしかしたら、ここにクランケが来るやもしれない可能性を考慮している、そう言う事か?」
「まぁ、近からず遠からずと言った所でしょうか。ボクとしては、クランケが乗り込んで来る事は別段構わないのです。ただ、ここでESPを使われて、このオフィスにあるアンティーク・ジュエリー達が破壊されるのは願い下げなのですよ。それを防ぐためのトラップ、と言う事にしておいてください」
 また、コイツは……いつもの嗜好が大きく影響しているようだ。オレは仕方なく、香澄にパイプ椅子を取ってもらい、それをソファーよりもドア側に置いて、腰を据える。
 当の香澄は、仲介人蝶番の前で、やはりオレと同じパイプ椅子に腰掛けていた。
「さて……今、遠霞様からローン返済の話がありました。それにつきましては、承る事にします。ですが、キミの報酬が無くても構わない、と言う事に関してなのですが、それは確かにキミが決めた事なので、口を出す必要は無いかと思ったのですが、一つだけ宜しいか?」
 オレは腕を組み、首をやや傾けながら蝶番の言葉を受け取っていた。それは明らかに主従関係にあるモノとは思えない仕草ではあったが、どうにも今のオレには、この態度が一番シックリくるのだ。だから、その態勢のまま眼を細めて、了解の旨を無言で伝えた。
「今回は異例ですが、あまりクライアントに肩入れしすぎない事です。ボク達は、これを商売にしている訳ですから、もし他のスイーパーにも同じような現象が起きてしまうと、非常に事なのです。たった一つの綻びで、ボク達は破滅してしまう危うい存在。その事を、ちゃんと把握し、認識し、しっかり理解しておいてください。もう一度言います。今回は『あくまで』異例中の異例――――宜しいか?」
 勿論、そんな事は分かり切っている。だから、そんな重い空気を纏う必要も無いのに、それでも用心の為なのだろう。
『たった一つの綻びは自らを滅ぼす』
それは、どこの世界でもあり得る真理であり、真実である。巨大な巨大な大地でさえ、地震により九十九パーセントが破壊を免れたとしても、残り一パーセントが綻んでいれば、そこからひび割れを起こし、亀裂が走り出す。それと同様に、オレ達も九十九パーセントではダメなのだ。百パーセントでなければならない。そうでなければ、たった一パーセントの綻びが、ひび割れを引き起こし、亀裂を生み、そして最終的には中身を喰い破られるのだ。それはまさに『獅子身中の虫』の方程式。
いつものオレなら、そんなモノはクソ喰らえだが、今は蝶番の詞が、深刻且つ重く、耳朶に圧し掛かる。
「……あぁ、分かった。今後、このような形でクライアントと会う事も無いだろう。だから、今回限り。それに、他のスイーパーや仲介人であるお前に迷惑を掛ける真似は決してしないと誓おう。それでいいな?」
「分かればよろしい♪ では、お話をしていきましょうか? あ、ちなみに今夜の件は、ヴァイオレットから伺っているので、ご安心を」
 そう言いながらも、まだ妖しげなオーラを放っているこの男。本当に『喰えない』ヤツで、この雰囲気のギャップのせいか、今も何を考えているのか掴めない。しかし、コイツが「ご安心を」と言ってきたという事は、余程な想定外が無い限り、まだコチラに分がある、と考えても差し支えは無い。
結局の所。
コイツはさり気無くだが、世間様で言う『お人好し』なのだ。
「では、本題に。遠霞様からお伺いしたESPに関してなのですが……ボクは、実際にクランケを見たわけでは無いので断定出来ません。しかし、そこにいるダストネーム・グラスの話から推察するに、ある程度『外的作用』のESPである、そう仮定して構わないと思われます。が……その力は『空気』に作用するというのは……正直、頂けませんね」
「何故だ?」
 当たり前の疑問だ。それ以外の返答がどこにある。それくらい当たり前の疑問符を、オレは蝶番に投げかけたのだ。すると蝶番は、何故か、艶やかな雰囲気を纏った小川の清流の様に、ユラリと唇を動かす。
「フム、そうですね? ここまで来たのなら、もうお話をしても良いでしょう。ハッキリ申し上げます。その『空気』という力を使えるのは、ボクの知るかぎりでは、現在、一人しか居ないのです」
 眼線もしっとりと蝶番。
 オレはゴクリと生唾を飲み込みながら、更に尋ねる。
「……それは、どんなヤツなんだ?」
 眼鏡の鼻掛けを持ち上げて、襟を正しながら、オレの目を見つめる男は、コホンと一つ咳払いをして、ゆっくりと話し始めた。
今度は、どこか子供を寝かしつける母親の様な雰囲気を醸し出していて、オレを含め、香澄もヴァイオレットも、言い知れぬ不可思議な空間に誘われていた……。
「いいですか、ダストネーム・グラス? キミの仮定した『空気』というのは、総じて『大気』乃至、この地上の『空間』全て、と言う事になってしまいます。それ程の力を、今回のクランケが持っているとは考えにくいのです。これが事実ならば、とても恐ろしい事なのですよ、ダストネーム・グラス。もし――――そうですね、その力から逃げ遂せる事が出来る方法があるなら――――」
「――――ッ! そうかっ! そうですよねっ!? もしも、その力から逃れる事が出来るとしたら、それこそ空気の無い世界……『宇宙』に逃げるしかない。そう言う事ですよね、仲介人さん?」
 いきなりオレと蝶番の間に割り込んで口を挟むは、クライアントの香澄。だが、今、眼鏡白髪男が言っていた事自体は、こんなオレにでも分かる事だから、特に口にする事は無いので視線を蝶番と香澄を交互に動かす。しかし、蝶番はまるで、その通り、と言わんばかりに笑顔で香澄の事を見つめていた。それは、決してオレやヴァイオレットに見せる事のない姿。
これが、仲介人『蝶番 命』の、ある意味『外』での姿。
オレ達スイーパーに見せる事の無い姿。
 その姿に妙な温かみを感じて、ずっと昔にそんな事があった様な錯覚を起こさせる。それはオレの消えてしまった記憶のせいか、身体に染みついた記録のせいか……それでも、少なからず、今、目の前にいる少女の心を解(ほぐ)すには十分な笑顔だった。
 しかしながら。
オレは、やはり空気が読めないらしい。その雰囲気を一瞬でブチ壊す様に口を動かす。
「で? そんな驚異的な力では無いとすると、クランケの使うESPは一体何なんだ?」
 香澄への目線はしっとりとしていたが、オレに対してはそうでは無いらしい。ビシッとした一瞥の眼差しが飛んできた。
「だから、ボクは直接見ていないから断言出来ない、そう言っているじゃないですか? 仮定は出来ても、それ以上の事をボクに求められても困ります。ただ、もしかするとですが……クランケ『神童 翼』の使う力は、空気では無い別の何かを圧縮させている、そう考えていいかとは思います。実際、そのようなケースをボクは知っているので……」
 ギシリと。
深くアンティークチェアに腰を落とす蝶番。そして、何かを思い出すが如く、天井を見上げていた。オレは、その姿をちょっとだけ見ていた。何か……そう、何か切なげな感覚を受け取ったからだ。だからか、オレは、しばし蝶番がもの想いに耽る時間を与え、頃合いを見て言葉を発したのだった。
「そのケースって言うのが、さっき言っていた『空気』に作用するESPを使う者の事か?」
 更にギシリと。
「…………そうです。その力を使っていたのは、キミも良く知っている者ですよ」
「オレ、の、良く知っている、人物……?」
 やや声が震えてしまった。
そうだろう? そんな事を言ったら、この記憶喪失であるオレに取って知りえる人物など、今、この場に居ない一人しか考えられない。
「も、しかして、アイツ、なのかっ!?」
 ニヤリとする眼鏡男。
 オレの中で何かがザワリと蠢き、爪先から髪の先まで電撃が迸る。
そして、ヤツはオレの思っている事を口走る。
「えぇ、キミの思考通り『ダストネーム・ウィンド』その人です」
「――――ッチ」
 予想はしていても、やはり驚きは一塩で。香澄もオレの横で、只ならぬオレの雰囲気を感じ取ったのか押し黙ってしまった。
静まり返った空間には、ゴクリとオレの飲みこんだ唾が喉を通る音だけ響き渡る。だが、このままでは話が続かない。無理にでも、唇が震えていても、それでもオレは何とか口を開く。
「そうか……ウィンドは『ESP』使い、だったのか」
「そうです。ダストネーム・ウィンドは、ボクが付けた『ウィンド』という名の如く、その力を『風』の様に、それは上手く上手く使っていました。もし何か異変があれば、それこそ幾ら関心の無いキミとはいえ気づくでしょう? でも、そのキミに気付かれる事も無く、静かに静かに………………」
「――――ッ! クソッ!」
もう、この話が始まった時点で、とうに解ってはいたのだ。今起きている現実と、今まで見てきたウィンドの姿が、どこか重なるのを認めなくてはならない、その事実に。
しかし。
オレは思わず立ち上がり、一歩踏み込もうとしていた。どうしても身体が頭の言う事を聞いてくれないのだ。そんなオレを見かねてか、横にいたヴァイオレットが右腕を横薙ぎに振り、オレの胸にパスンと当ててくる。それは、これ以上の進行は赦さない、そういった意味が含まれていた。
 そうだった。
つい頭に血が上り、ここにトラップが掛っていた事を忘れてしまっていたのだ。だから、その場でやや語調を強くして蝶番に問いかけたのである。
「それで!? それで、お前はウィンドの何を見たんだ!?」
「ある程度、推察出来ているのでは無いのですか? ダストネーム・ウィンドが、堅い扉などを爆破している所は見た事があるでしょう。ソレは、ダストネーム・ウィンドがESPで『空気』を圧縮し、造り出した「エアーボール」と呼んでいる『モノ』をぶつけていたのです。アレは重さ、堅さ、全てにおいてダイヤモンド並みでしたから」
 蝶番の言った事は、先程オレが『翼』に対して推察した内容に酷似している話だ。
しかし。
今、オレが聞きたい事は、そんな簡素な事実ではないのだ。
ウィンドが一体、何を持って、何を完遂していたのか? 
オレの興味はそこの一点に絞られていた。しかし蝶番は、それ以上の言葉を紡ぐ事はせず。
オレが痺れを切らし、焼ける様な乾きつつあった喉から絞り出した声を発する。
「それ、だけ、か?」
「えぇ、それだけです。それ以上は企業秘密だ、と『彼女』は言っていましたから♪」
「あ、あのぉ~……」
 そぉ~っと手を上げて、静かに会話に入り込もうとする香澄。それを蝶番が、何か? と、尋ねると、コイツはとても不思議な事を言い出したのだ。
「あ、あの、話の腰を折って申し訳ないんですけど……その『ウィンド』さんって、その、女性なんですかっ?」
 それに素早く対応するのは蝶番。さすがサービス精神旺盛だ、瞬時の事も見逃さない。
「えぇ、そうです。ダストネーム・ウィンドは、れっきとした『女性』です。ダストネーム・グラス? お話されてなかったのですか?」
オレは首を傾げて考えてみたら、確かに「ウィンド」の話はしていたが、性別までは言ってなかった事を思い出す。
「あぁ、言って、無かった、かもなぁ」
タドタドしく言葉を発するも、オレは別段気に留めなかった。と、言うよりオレ達スイーパーに性別なんぞ無いに等しい。力社会と思われがちだが、実のところ腕っぷしだけでは生きてはいけない。知性、体力、技術、全てが必要だからこそ、この世界に性別など瑣末な事なのだ。
「そう、なんで、すか……はぁ~、スゴイですね? 女の人でも生きていける世界なんだ――」
 少し理解の仕方が変わりそうだった気配を感じたから、オレはソレをしっかり修正しておかねばと釘を刺す。
「勘違いするなよ? ウィンドは特別だ。オレは、あの人の事を『女』として視た事は無い。そんな事より、ミコト? ウィンドの話は、それで終了か? そうなると、後は直接『ヤ』り合ってみないと分からない、そういう事なんだな?」
話を蝶番に振ると、コイツはニヤリと笑って首を縦に動かす。それを見たオレも、同じくニヤリと笑ってドアに向かい歩いて行く。すると……。
「あ、グラスさんっ! どこにっ!?」
 背後から香澄が声を掛けてくる。オレは振り返らず、そのままドアノブに手を掛けて応対すする。
「……アンタはここにいろ。今日は家には帰らない方がいい。何があるか分からないからな。いいだろう、ミコト?」
 無言の返答を返す眼鏡の男。了解と取って良いのだろう。
「よし。オレは、これから準備をしてくる。ヴァイオレット、今日の舞台はもう出来あがっているんだよな?」
「えぇ、大丈夫よ。夜十一時には閉まってしまうはずだから。……でも、それを訊いてどうするの? もしかして、もう行くつもり?」
「あぁ、先に行って準備しておく。だが、何かトラップを仕掛けたりする訳じゃない。ただ、下見をしながら『イメージ』を膨らませたいんだ。それくらいならいいだろ?」
「まぁ……アナタらしいっちゃ「らしい」わね? 仕方ない……いいわ、了承しましょう。そうしたら、ワタシは一時までクランケを監視した後、向かうから待っていなさい」
オレは、バタンッとドアを雑に閉め、その速度のまま街中へと飛び込んでいく。またもスーツ姿と若者の群れを逆走するオレ。
しかし、今日は妙に頭が冴えている気がするのだ。目の視点の中心が、いつもより拡がっていて、沢山の情報が頭に入り込んでいく。
 かなりの速度の中で『ネオンの文字は何だったか。今、すれ違ったヤツはどんな服装だったか』などの情報が一気に入ってくる。それは、まるで携帯のメールを一秒ごとに受信して、それを瞬間に読み千切っている、そんな感覚。
 オレは、三呼吸程度、肺に酸素を入れるだけで、今まで溢れかえっていた長い長い人の波を超えていき、隣の羽桜市まで走っていった――――。

 ……………………

「はぁ、はぁ、はぁ…………準備運動としては、ちょうどいいだろう。さてと」
 見上げると羽桜の駅ビルが煌々と光って、やや曇り掛った空を照らしている。雲達は、その光を反射させて、瞬間、昼間を思わせるほど明るかった。
 オレは、虚ろに見上げながら、その煌々と光り輝く今宵の舞台へと足を踏み入れる。
 中は至って普通のデパート。特に変わった所は見当たらない。帰り際のサラリーマンを顧客としているのか、食品売り場のみ閉店が十二時と、かなり遅くまで開いている事が分かった。
「なんだよ、ヴァイオレットのヤツ。間違ってるじゃんか……」
誤情報に文句を言っているオレではあるが、その情報自体は大したことではないので、ただ口から零れてしまった程度の感覚で呟いた。
まぁ、それでも、オレは本当に世間というのを知らな過ぎると思わざる負えない。基本的にこの時間帯は、どこか暗闇に潜んでいる事が多いので、また一つ世間を知ることとなった。
 エレベーターに乗り込み、屋上まで昇る。多分、まだ車は停まっているだろう。それでも身を隠す所はあるはずだ。今朝方見た給水塔ならば、誰にも気付かれずに時をやり過ごせる。そこで、ジックリとイメージを膨らませられれば、それが一番だ。
 オレはそう思いつつエレベーターを降りると、周りに何人か家族連れが居たので、自動販売機にあった季節外れのホットのミルクティーを買って、それをエレベーターエントランスのベンチに座りながらクイッと飲み込む。
 すぅ~っと入ってくる紅茶は、走って温まった身体を更に温めようと貢献してくれる。それを両手で握り締めつつ、目を瞑って周りに意識を飛ばす。
「……あと、二人、くらいか……」
 とりあえず気配を読み、誰も居なくなった所を見はからってから外に出ようと思った。
一般人は邪魔になる、ソレも理由の一つだが、翼は昨日使ったヘンテコな力を使って、周りに自分の気配を感じさせない技術を持っている。もし、ヤツが約束を反故し、オレよりも早く外にいたとしたら、それを考えた時、迂闊に外へ出れば何か攻撃を受けかねない、そう思ったからだ。だが、昨日の雰囲気を考えると、それはあり得ないとは思う。それでも、やはり用心に越した事はない。
「よし……行くか」
 オレは、誰も居なくなった事を目でも確認すると、素早く給水塔に駆けあがる。ハシゴもあったが、これは面倒な上、目に映り易いので、あえて反対側から簡素な足場を見つけ、助走を付けて一回だけ蹴りあげて飛び乗った。
「さてさて、まずは……」
 着込んでいた黒のジャケットに変えるため、今着ている服を脱ぎ捨てる。
事実、脱ぎ捨てる。
脱いだ服をビリビリに破き、袋に詰めて何処かに投げ捨てる。いつもならそうするのだが、ここではさすがに難しいので、その場で燃やす事にした。何故、そんな事をするかと言うと、 こういった物品から顔が割れてしまう可能性もあるのだ。だからオレは、クランケの実行時、この黒ジャケットのまま、人に見られないよう物陰を走り進んでいく事にしている。
 今回は直接の来訪だったので仕方がない。だから袋に火を放ち、炎の轍が漏れないよう耐性用である黒ジャケットを上から被せ、そのまま放置することにした。
くすぶっている音を聴きながら、オレは腰に差しこんでいる前回のクランケ完遂の際に使った『ロッド』を取りだす。
 ロッドは、スイーパーがそれぞれ自分の特性にあった形になっている。クランケ完遂に役立つようにと、蝶番がどんなモノが良いかをリサーチして、こさえてくれるのだ。
オレの場合、真ん中にあるボタンを強く押すと、そのロッドが縦に真ん中で割れる。そして、ロッドの刀身半分ずつ、折り重なっていたモノがバラバラになり、三本のカギ爪になるのだ。
オレは、これも耐性仕様だが、指が出る黒い皮の手袋を両手にはめ込む。そして、カギ爪を指と指に掌の中に三センチほど入れて、挟みこみ握り締める。そうすると簡素な鉄製の爪が完成するのだ。
ウィンドからは、手の甲に装着する様な鉄の爪でいいのでは? と言われた。しかし、それだとオレの力に耐えきれず、根元からポッキリ折れてしまうのだ。だったらオレの握力で握りつつ、指の力加減で微調整が出来る様にしておいた方が対応しやすい。
だから、オレは『コレ』を選んだ。
 これで準備は万全。後は、これから起こるであろう闘いのイメージを、視覚と聴覚、触角と更には嗅覚もフル活用して脳内で繰り広げていく。
「よし、疼きも無い。これなら、かなり鮮明なイメージが出来るだろう」
 この屋上駐車場を見渡して、目にその光景を焼き付ける様にする。その状態で、そっと目を瞑り、給水塔の上で胡坐をかいて、感覚だけでイメージを創り上げていく。
「今夜の温度、約十八度。風は西から、やや微風。ガスなどの呼吸障害になる様な気体の検出は無し。駐車場の全体の広さ、約六百平方メートル。中心にある給水塔の高さ三メートル。ソレを囲んだこの空間は、ほぼ正方形。死角となる場所、クランケと相対して給水塔の角を対角線とした所のみ。それ以外は死角無しと考える。外堀を抑えるフェンスは直径三ミリの金網格子。圧力三百キロを加えると根元から破壊され、転落する可能性もあり。戦闘が行われた際、外側に逃げる事は危険。避ける事にする。それを踏まえて―――――バトル開始――――」
 オレは、空想の屋上駐車場で……目の前に白パーカーの男を出現させる。
オレは、イメージの中で、香澄と蝶番、それにオレが実際視た攻撃方法を総合して、相手の立場に立ち、どう動くかを連想していく。
結果――――。
「遠距離に立つ限り、クランケにしか有利にならない。例えカギ爪を投げたとしても、途中で薙ぎ払われる。かといって、至近距離が有利かというと、そんな事もない。相手の視点に居るかぎり、攻撃範囲はどこまでもあると考えるべき。ならば、取れる手段は……超接近戦。ほぼゼロ距離での殴り合いが好ましい。その為には………………なんだ、お早いお着きだな?」
 オレはイメージの途中だったが、そのイメージの中に突如、オレと違う気配が入り込んできた。しかし、その気配は知っているモノだったので、オレはそのままの態勢で背中越しに声を掛ける。
「あら、そんな事なくてよ? もう一時になったわ」
 聴き慣れた喋り方。
そう、一時に待ち合わせをしていたサポーターのヴァイオレットが、またどんなトリックを使ったのか分からないが、突如、オレの背後に現れたのだ。
「ふぅ~……もう、そんな時間、か……」
「お邪魔しちゃったかしら? 『ヴァーチャル・スペース(仮想空間)』に居たのに? それで、どうなの? ヴァーチャル・スペースでは、クランケに勝てたのかしら?」
 オレは首をポキポキ鳴らし、燃やしていたモノを隠す為に被せておいた黒ジャケットを手に取り、立ち上がりながら、それを着衣する。 そして、その傍に置いておいたミルクティーを取るが、さすがに冷え切っていて。それをグイっと一口で飲み干して、ヴァイオレットに向き合う。
「いや、情報が少なすぎて正直厳しいな。だが、闘い方は分かった。多分、それ以外の方法は見込めないだろう。で? クランケは来るのか?」
 ヴァーチャル・スペースを長時間使った後は、大概、眩暈や軽い頭痛があるのだが、今回は無く、体調が万全であると、勝手に思い込む事にする。
「さすがは、ダストネーム・グラスの『ヴァーチャル・スペース』ね? さて、ご質問にお答えすると……そうね、クランケは来るわ。ただ――少々、お早いお着きになりそうよ。妙にイライラしているご様子だったから」
「そうか……ならば、準備しておくかな」
 そう言うとオレは、高さ三メートルほどの給水塔から、ヒョイっと飛び降りる。そして、手に持っていたカギ爪をギュッと握りしめて、一度地面に突き刺してみる。
 ガキン! と、けたたましい音を奏でながら、銀色にキラキラ光るカギ爪と、ソレを握っているオレの手は全く問題ない事を確認する。その代わり、叩いた地面に亀裂が走った。
 叩いたと同時に、背中をザワリザワリと電撃が迸る。それは、身体と本能が「戦闘態勢に入れ」と、スクランブルしているのだ。
 だから、それを戒めるかの如く、そっと呟く。
「さぁ~て……おいでなすったか」
 エレベーターエントランスから、音も無く陰も無く、すぅ~っと現れたのは、印象の強い白いパーカートレーナー。それに七分丈のジャージ。髪がやや被っている瞳には、憎悪の色が浮かび上がる。それがオレを更に高揚させてくれた。
「よう、グラスさん。死ぬ覚悟は出来たかよっ?」
 パーカーの腹部にあるポケットに手を突っ込みながら、ユッタリとコチラに近づいてくる。その時、フュ~っと一陣の風がオレの横を通り過ぎ、翼に向かって走っているのが視えた。
「では――――これより始めるわよ。両者とも宜しいかしら?」
 ヴァイオレットが給水塔の上より、号令を掛ける準備をしている。それに、オレは無言で応える。しかし、合わせて応じたと思った翼がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
そして、そのままの顔付きで、スッと右手の人差指を天に差し示した。
「それでは、始めっ!」
 ヴァイオレットの左腕が上がり、スタートの号令が掛かった。
 オレは、グッと足に力を入れてストンと膝を折る。そして、足の親指に重心を乗せて、力を一点に集中。それを意識しながら、カギ爪の両手をダラリと下に落とした。呼吸をゆっくりと吐き出しながら、身体をやや横に開いて、まるで孔雀の様なポーズを取りつつ、助走無しの全力を出せる態勢を取る。
 これは、中国拳法で言う『無寸剄(むすんけい)』と呼ばれるクンフーの一つだ。例えていうなら、ブルース・リ―という映画役者でありながら、超人級のクンフー使いで、自らの武術を編み出した者がいた。その者が得意としていた技で『ワンインチ・パンチ』という身体の体幹を駆使した無動作、無助走のパンチ。それの脚術版だと思ってくれればいい。
この、その無寸剄で地面を蹴る。更に身体を地面と水平に近い形にすれば……。
「――クランケとの距離、約十三メートル――行くぞ、翼ぁぁ!」
 ダンッと。
 耳にゴゥっと風斬音が入り込んでくる。
無寸剄の反作用で、この距離を一呼吸もない間に詰める事が出来る。そして、一気に間合いを詰めたのだ。
詰めたのだが…………普通、それだけの間合いを一瞬で詰められたら、焦りの色が出てもいいはずなのだ。しかし、翼の不敵な笑みは全く消えない。
それだけでも戦慄モノだが、高々と持ち上げられた指は未だ堕ちる事は無く。だとすると、何の為に…………そう思った瞬間、頭に電気が走り、一つの思考が閃く。
「――――上かっ!?」
「遅いよっ!」
 翼がズンと指を下に薙ぎ降ろした。オレは咄嗟に上を向く動作を省いて、カギ爪を持った両腕で、頭を覆う様に防御の型を取る。
「――――ッグ! …………うぉぉぉぉっ!」
 目に視えない巨大な鉄球の様な衝撃が、両腕のカーテンを通り越し、オレの頭に降り注ぐ。しかし、前とは違い、事前に身体の準備は出来ていた。だから、ダメージはそれ程ない。
 オレは、その視えない鉄球を力ずくで交差している両腕を弾く様に広げ、再度、膝をカクッと落とすと、臨戦態勢の無寸剄型を取る。更にスピードを付ける為、先程よりも身体を、それこそ地面に寝そべるのではというくらい平行にし、一気に距離を詰める。
 ヴァイオレットの言っていた『ヴァーチャル・スペース』内で、オレがこのクランケに対抗しうる方法として、相手の攻撃を受けずに近づくには、攻撃範囲を狭めるよう低い態勢で近づく事だった。しかも、ギリギリまで標準を絞らせない様に、右往左往しながら走り込む必要があり、その為、カギ爪を地面に当てながらバランスを取って走り込んだ。
ガリガリとコンクリートの地面を削っていくカギ爪の摩擦による火花が、オレの背後を追い掛けるように飛び散っていた。その上にオレは、怒号を引き連れながら翼との距離を縮め、攻撃範囲内に入り込む事に成功。
そして。
「攻撃範囲内侵入――――仕掛けるっ!」
右手に持っているカギ爪を、やや短めに持ち直し、一番力の込められる長さにする。そのまま、下方から翼の左わき腹に向かって逆袈裟に斬り上げた。しかし、それはガンッと視えない何かに邪魔され、狙っていた肋骨の隙間を防御されてしまう。それでも、そんな事は想定内。だから、オレは右手をそのまま残し、引っ掛かっている右のカギ爪を中心にして、身体を左に回転させた。そして、左手を逆手にして、持っているカギ爪を翼の足へと向けて斬り付ける。否、足を払う為に遠心力を付けながら、攻撃を放った。
だが――――。
「おっとぉ~、あぶないあぶない。さすがスイーパーさんだよなぁ。動きが速くて、ギリギリ追い付けなそうだぜ?」
「ッチ、クソが……」
 言葉とは裏腹に、全く余裕綽々な顔でオレの事を見下げる翼。
 右手も左手も何かに邪魔されてしまい、結果、再度止められてしまったオレの攻撃。
イメージでは、コイツのESPは『空気』と判断していたが、どうも、この手の感触からするに違う気がする。
 コイツには全く攻撃死角が無いのだろうか? 
備に考えてみるが、しかし、今、それを考えても仕方がない。何故なら、この距離はオレの攻撃範囲内と同時に、コイツの攻撃範囲内でもあるわけだ。だから、急いで事を進ませねばならない。そう思い、オレは両腕に力を込める。
「なら――――これで……どうだぁぁ!」
「なっ! にぃ!?」
 オレは、視えない何かに引っ掛かっているカギ爪を、先っぽ辺りで握り直して、腕力だけで翼を左側へと弾き飛ばした。そして、強引に投げられ態勢を崩した翼は、ゴロゴロと給水塔近くまで転がっていく。
「遠距離は危険。早急に近距離に入る」
 オレは一人呟きながら、危険だが跳躍し、翼の頭上に舞い上がる。丁度視界に、給水塔に立つヴァイオレットが入る。細い目をして、オレ達の顛末を見つめていた。
その眼前を通り過ぎ、オレは両手のカギ爪を最大に伸ばして、翼の脳天目がけて飛びこむ。
「喰らえぇ!」
 給水塔傍で膝立ちになりながら翼は、オレの方も視ずに蹲っていた。もうカギ爪は振り下ろされているのだ。今からの対応は無理、オレの身体は『殺(と)』ったと叫んでいる。それに従い、カギ爪を一気に振り下ろした。
が。
 その瞬間、翼が『クスリ』と笑ったのだ。
「クス♪ 甘いよ、オタクッ!」
「――――ッ!? ガハッ!」
 キュンという音が耳に張り付いたかと思うと、オレの腹に何かがドスッとぶつかった。それは、先程から例えて言っている『鉄球』レベルの衝撃で。まるで『鉄球』を振り子にしながらビル解体をしているクレーンの攻撃を受けている、そんな印象を思わせる衝撃。
 空中で、しかも攻撃するため防御を疎かにしている所に入った攻撃。
オレの口から大量の鮮血が飛び散る。そして、オレの身体はそのまま受け身も取れず、駐車場の地面に身体を叩きつけられた。
「……クッソ、何本持っていかれたっ!?」
 吐血の量を考えると、肋骨を何本か折られ、内臓器官にも支障をきたしている、そう考えるべきだった。しかし、それを冷静に考えさせてくれる程、相手も甘くはない。すぐ様、次の攻撃へと転換してきた。翼が右手を横薙ぎに振ってきたのだ。
オレの右横から柔らかい一陣の風が吹いたかと思うと、ゴォウという音を脳がキャッチする。咄嗟に右側に意識を集中し、衝撃に備えた。
が、しかし、それは視えないのだ。しかも、何時、飛んでくるか分からない攻撃に備えるも何も無く。一瞬にして、オレは給水塔の柱に弾き飛ばされてしまった。
「ガハァッ!」
「キャハハ♪ 脆い、脆いな、オタク! 次は……握り潰されちまえっ!」
そう言って、翼は両手をオレの方にかざしてきた。
若干頭を打ったせいで、視界がぼやけている。脳内で必死に指令を下すが、身体は上手く動いてくれない。背中を預けている給水塔を支える、六本柱の一本が妙に冷たさを感じさせた。
その冷たさは、何処か『死』を連想させてくれる様な冷たさで。だが、それでもオレは、クライアントとの契約を護らねばならないのだ。それが彼女にとって、人生のターニングポイントになるはずだから。それだけの理由で闘うスイーパーも珍しいのだろうが、異端である事が過ちであるとは思わない。そういった部分では、ウィンドなんぞ異端中の異端だろう。そんな懐かしい出来事を思い出しながらも、先の空中攻撃のせいで、ヒューヒューと荒くなった呼吸を整えようとする。しかし、次に来る攻撃を躱さなくてはならないのだが、呼吸を整える間も無く、翼は…………。
「死ねぇ、グラスゥ!」
 グッと両手を握りしめる翼。
 その行動の理由が理解出来ていないオレは、どこに逃げればいいのか分からなかった。だが本能的にその場は危険と感じ、咄嗟に片足に力を込めて右側に跳ぶ。
「――――ッ!」
 グシャリと。
 ほんの一瞬だった。
給水塔を支える真ん中の柱が、ある一点を中心にグシャリと拉げてしまったのだ。もし、あとコンマ秒遅かったら、オレがあぁなっていただろう。冷や汗が背中を伝うのが分かった。だからこそかも知れない。突如、今の現象を『視』ていたオレの身体中を、強力な体内電気が駆け巡ったのだ。
そう、それは単純に『何か』に気付いたのだ。
要するに閃き。
思いつき。
第六感。
何にでも例えられるが、そんな本能的な意思が働いた。
オレは、ほんの一呼吸程だろうか、それくらいの刹那な感覚でズキズキと疼き始めた脳をフル稼働させ、推察を施す。
それは、どんなモノなのか。
 翼の繰り出したソレは、一瞬にして柱を拉げた。しかし、オレ達の推察では『空気の珠』を投げている。もしくは、それに近い何かを施している、そう考えていた。だが、今の現象で大事な部分は『ある一点を中心に柱が拉げる』というところが重要なのだ。
あるモノに何かをぶつけた時は、その力、または圧力により外側の組織から破壊される。
ところが今のを考えるに、柱は中心に集まるかの如く拉げたのだ。となると、ソレは考えられない。単純に言えば、何かを、そう、何かを収縮させているのだ。その影響を給水塔の柱が受けてしまった。だから、中心に集まる様に拉げた。現に柱は、地面と給水塔の土台の付根を残し、ちょうど真ん中がポッカリ空いてしまっている。もし鉄球などをぶつけるなら、力の加減次第で決まるが、余程正確に中心を打ち抜かない限り、どちらかの根元ごと持っていかれるはずなのだ。その上、その拉げた瞬間に、その柱の周りの空間が歪んで視えた。これは、光を屈折させているせいで起こる現象。そうなると、これは『空気の珠』を投げつけているのではなく、逆に空気を中心に圧縮している、そう考えるべきである。
しかも…………瞬間的に、だ。
 しかし、ただ空気を圧縮させただけでは鉄やコンクリなどの堅い物質は破壊出来ない。だとすると、その歪んだ空間で何が起こっているのか。その答えは、翼と二度、対峙した経験から導き出されたのだった――――。

 …………………

「戦(そよ)ぐ、戦ぐなぁ………………」
 風が心地良い。
そっと肌を撫でる自然風は、どこか心地良くて。
こんな状態で無ければ、もっと楽しめたのだろうに、オレには、このギリギリの状況で受け止める一陣の風が、心のどこかを、戦(そよ)がせてくれていた。
「あん? オタク、何言っちゃってるの? とうとう頭にキちゃったってか!?」
「分かったぞ。お前は『空気』をESPで操作しているんじゃなくて、その逆を行っている。そう――『真空』――を作り出しているんだ」
 コメカミを指でトントンしながら、ふてぶてしくニヤけている翼に向かい、一瞥の眼差しを送りながら、オレはそう呟いた。
先程の柱を拉げた攻撃で一緒に持っていかれたカギ爪四本を投げ捨て、ダメージの蓄積されている身体を持ち上げた。そして、立ち上がりながら、先程よりも強くなった風を身体全身で受け止める。さすがのオレでも、何度も視えない攻撃を受けていれば、精神的ダメージも考慮すべきだが、思いのほか、頭は鮮明に回転してくれていた。だからこそ、あの給水塔の柱を拉げた瞬間を見て、オレはピンと来たのだ。
オレが導き出した結論。
それは、翼がESPを使う際、何度か身体に受けている一陣の風。これは、空気を圧縮する時に起こる現象。要するに台風の様に、周りの空気を一気に取り込むのだ。そして、それをある一定空間で圧縮してやる。
すると、どうだ? 大量の空気が一点に集約する。そこには、かなりの圧力が掛ると考えていいのではなかろうか? しかも瞬間的な集約により、そこは真空状態になる。香澄曰く『圧力』と言うのは、裏返せば『重さ』になるらしい。その原理があるからこそ、ダイヤモンドは強靭な硬さをほこるとも。ならば、その圧縮した空気が夥しい圧力、否、重さを持っていてもおかしくは無い。
オレは、そういった類の知識に疎いが、たったそれだけでも、今の攻撃で十分に理解することは出来た。しかし……『空気』に作用させるESPならば、こんな面倒な攻撃方法を取る事はないはずなのだ。だとすると、一体、何に作用しているのか、それだけは分かりかねた。
裏腹に翼はパチパチと乾いた音を奏でて、手を打ちながら、ふてぶてしく口を開く。
「クックック♪ ご明~答! って言いたい所だけど? 残念、近いけど、実は違うんだぜ?」
 口を歪ませて笑ってくるクランケ。それに対し、オレも口を開こうとするが、そこに何故か傍観していたはずの紫女が口を挟んできた。
「そうね? 『真空』を作り出している事は確か。でも、実際にESPが作用しているのは『空気』ではなく――――『水』―――に対して、でしょう?」
「おぉ、オバサン、スゴいね?」
 給水塔に向かって、賛美の拍手を送る翼だが、それが気に喰わなかったらしく、以前に見せた、その筋のヴァイオレットが顔を覗かせる。
「オバサンじゃないわ、小僧! お姉さんと呼びなさいっ! そんな事よりダストネーム・グラス。いい事? このド素人は、空気中の水分を一点に向かって急激に集めている。そして、その一定空間を真空に変えている。だから、空気を集約して放っているわけじゃない。そうなると、私の経験上だけれども、空気を扱う訳ではないから空間ベクトル演算が必要だと思われるわ。だから、その空間を目視しなければ発動する事は出来ない。単純に、目に視える範囲が攻撃区域。それに遠方はムリなはず。やれば、その分、脳に著しいダメージを受ける事になるから決してヤる事は無いはずよ。その上、その子はまだ力の使い方に慣れていない。だからこそ、脳内での座標演算に時間が掛る分、まだ打つ手はある」
 バッと口早に喋ったのは、いつ何時、相手が動き出すか解らないからだったのだろうが、翼は余裕綽々の表情を持って、腕を組みながら傍観している。
 ソイツに一瞥を送りながら、オレも持論を口にした。
「なるほどな? 真空状態を作り出す事が出来たから、あの街中で誰にも気付かれなかったんだ。真空は光を通しても反射させない……だから、誰も認識出来なかった、か。それでも、あの『空間』は『異質』過ぎる。認識は出来無くても、気配は感じるはずだろう。だが、あの『空間』は気配、いや、存在自体を消していた。明らかに、オレと翼以外の『第三者』が関わっていると思うんだが……」
 オレは、ヴァイオレットの話と経験から総合して考えた時、何とかピースが重なり合わせる事が出来た。あのアミューズメントパークで感じていた違和感は、こういう事だったのだ。しかし、それでも疑問符は残る事は確かだが……。
まぁ、それが分かったからといって、今の状況がどうなるモノでも無い事は百も承知。だからこそ、どうような手段を取らねばならないか必死に考える。そこへ、あの憎たらしい口がオレを挑発するかの様に、あるキーワードを言い放ってきやがったのだ。
「クス♪ オレの力がどんなモンか分かった所で、そう易々と躱せるモノでも無いだろう? 俺、あれから……そう『ウィンド』さんからコレを教えてもらってから、死ぬほど練習したんだぜ?」
 と……。
 その『ウィンド』という言葉に反応しない訳は無く。
「――――ッ! おいっ! お前、今、何て言ったっ!? ウィンドに、教えて、もらっただと!? ふざけるなっ! だって、アイツは……アイツは――――」
 はぁ~と深い溜息を付きながら。そして、自分の想いをリアクションに託す素振りを見せ付ける為、足を交差させて両手を肩の辺りに持っていき、首を横に振っていた。
「死んだ……って聞かされてんだろぉ? 可哀想になぁ♪ 蚊帳の外なんだよ、オタクは。なぁ、ダストネーム・グラスさんよぉ……言っておくけど―――――」
 言うな、言うな、言うな、言うな、言うなぁぁぁ!
「―――あの『人』は死んじゃぁいないぜぇ」 
「ち、違うっ! 違うっ! 違ぁぁぁぁぁうっ!」
 オレは、二か月前に『ダストネーム・ウィンドは死んだ』と、蝶番から聞かされた。勿論、初めは信じちゃいなかった。しかし、時間が経てば経つほど、段々と実感が湧いてくる。
ウィンドと一緒に行った最後の任務は、度し難い程に過酷を極めた。オレなんかの小物は、自分の身を守る以外、何も出来ず。結局、オレは、最後の最後にウィンドから押し出されて、外へと逃げ出したのだ。
そう。
あの中東にあったテロリストのアジトから、命からがら逃げ出してしまったんだ。ウィンド一人を置いて…………。
それから一週間待ったが、彼女は還ってこなかった。途方に暮れているオレに、一人のサポーターが現れて、ウィンドは死んだ、と告げられた。頭が真っ白になったと同時に、復讐心というのか、胸の奥から黒く弾ける様な憎悪が滲みでて来たのが分かった。そして、その事実を告げに訪れたサポーターと言うのが、今、給水塔に立っているヴァイオレットなのだ。
「ヴァイオレットォォォォォォッ! 一体、どう言うことだぁぁぁ!」
怒り、恨み、憎しみ、要は『負の感情』がオレに圧し掛かってきた。だから、その感情を吐きだす為に、給水塔の紫女へ憎悪の瞳を向けながら叫んだのだ。
そのヴァイオレットから、逆にオレへ対しての叱責が飛んできた。
「耳を貸してはいけない、ダストネーム・グラス! 小僧の言う事を真に受けると、次の一撃で『ヤ』られるわ! 一瞬、水分が飛ぶ事で、空間が歪んで視えるはず。そこに集中なさい! 良くて!?」
「それどころじゃ――――」
「黙らっしゃいっ! 今は眼の前の事象に全精神を傾けなさい!」
「ふざけるなっ! コイツからウィンドの事を訊き出さなくては――――」
「それは後で――――あぁ!」
 気付いた時には遅かった。既に目の前には歪んだ空間が拡がっていて。身体全身に『護れ』と指令を出すが、その歪んだ空間の先にいる翼がポソリと呟いた。
「遅いよ、おにいさん♪ 死ねっ!」
「ふざけんな、よっ!」
 ドシュっと見えない何かが頬を掠めた。オレは、本能的に身体全部を護る事は難しいと認識したらしく、一番単調にして最短の動きでヤツの攻撃を躱した。まぁ、身体ごと右に動かし、頭の位置をズラしただけだが……。だが、強引に動いたせいで踏ん張りが効かなくて、ザシュっと埃を立てながら、滑る様にして地面に倒れ込んだ。
なんとかギリギリの所で、それこそ首の皮一枚といった所で躱したが、しかし、この頬に残る衝撃の余韻は、あのライフルで撃たれた比じゃない。肉ごと抉られたのではないかと、勘違いする程だった。
 オレは一度翼と距離を取るため、後方に飛びつつ足早に着地すると、給水塔と反対側に向かって横に旋回する。
「――――っつ~、くそっ! ウィンドの事は後回しだ。今は……このクランケを止める!」
「出来るモンなら、やってみろってのっ! それっ!」
走りながら翼を見ていたのが仇になった。
オレは――――。
ドシュン! と身体内部に響く衝撃を、急激に且つ、冷静に受け止めてしまった。それは、どうやっても躱せる状況ではなかった。それほどオレは走り込んでしまっていたらしい。車は急に止まれない、とはよく言ったものである。まさに、ソレと同じだった。
 そして、ガシャンという音が駐車場に響き渡る。
「グハッ…………かは、かは、かは…………」
「ダストネーム・グラス!」
 ヴァイオレットが叫んでいるらしい。ハッキリ聴こえない所を観ると、聴覚器官が少々ヤラレているみたいだ。先程の攻撃によりオレの身体は、有ろうことか駐車場の真ん中から、一撃でフェンスへと吹っ飛ばされてしまった。
簡易な針金で組んであるフェンスでは、今の一撃を抑えるのが精一杯で。次、同じ攻撃が来たら間違いなく場外に飛ばされるろう。さすがのオレでも場外に飛ばされた後まで、想定していたわけではない。だから、次の攻撃を躱せなかったら、その時点で『THE・END』だ。
口に溜まった血が、口端から垂れてくる。それをグイッと袖で拭うと、生まれた小鹿の様な足付きで立ちあがった。
「アハハハハ♪ 無様!」
 胎を抱えて笑う仕草が、あの時の記憶を甦らせる。あの時とは、初めて翼に会った時の事だ。
「クソッ……」
フツフツと沸騰しそうなオレの血流は、口に溜まっていた血でさえも温めてしまっていて。思わず気持ち悪くなり、ペッと吐き出した。
身体の状態を考えると、次で死ぬかもしれない……。
今までいつでも死んでも悔いなど無いと思っていたオレだったが、経った今、死ねない理由が出来てしまった。それは目の前にいる白パーカーが握っている。それを訊き出すまでは、死ぬ事なんて出来やしない。それくらいオレにとって『ダストネーム・ウィンド』という人間は大きかったのだ。
「絶対、訊き出してやる」
 オレは、すぅ~っと息を吸い込み、グッと足に力を入れ込む。多分、どちらにせよ、次の一撃が勝負である事を本能で理解していた。そして、血流が勢いよく足に流れているのを感じていると、不意に頭の中で、ある日の昼下がり、蝶番の言っていた言葉がリフレインしてきた。
 …………。
「知っていますか、ダストネーム・グラス? 自然界の中で、もっとも強靭な力を持つモノは何か、を?」
「――――? いや? ライオンとか、か?」
「い~え、違います♪ それはキミの名――『ダスト(雑草)』――なのです」
「はっ!? 何を言ってるんだ、ミコト?」
「何って……言葉通りですよ、ダストネーム・グラス? 考えてみてください。例えば、ライオン。竜巻や津波が来たら、どうなりますか? 飛ばされるし、流されるでしょう。動物、植物、人間、等しく自然界には敵わないのです。勿論、人間の創り上げた巨大建造物も然り。しかしながら、ダストネーム・グラス? 『雑草』というのは、例え竜巻が来ようと津波が来ようと、それこそビクともしないのです。だって、しっかりと大地から離れない様に生きているのですから」
「そりゃ、そうかもしれないが……火山とか火災などの火はどうするんだ? 全部燃えてしまうだろ?」
「はぁ~。やはりキミは愚かですねぇ。折角、良き名を差し上げたのに……では訊きますが、火山や火災があった後、一番初めに芽吹くのは一体何ですか?」
「なんだよ、それは? オレを褒めているのか? それとも雑草を褒めているのか?』
「勿論――――」
 ふてぶてしい笑顔になった仲介人『蝶番』は、こういう時こそ本領を発揮する。この「勿論」の後は、予想通り「雑草に決まっています」で締めくくられる訳だ。
限りなくドSな仲介人。
それに苦笑いをした一風景。
そんなどうでもいい事を思い出した。
だから、オレは先に受けたダメージが残る鉛の様な身体に、未だ血流が蠢いている事を足に感じ、生きているのなら大地から離れないようにしてやる、そう、強く強く思った。そして、今の今まで優位になっていたヤツに向かって、ふてぶてしく笑ってやったのだ。
「ククク。――――知っているか? 自然界で一番強いのは何か?」
 膝がガクガクいっているが、そんな事は気にしない。どんなに無様でも、オレは立つ以外に選択肢はないのだ。
「はぁ? 何を言ってるんだよ? 最後の最期に負け惜しみ? それとも遺言? どっち?」
「どちらでもね~。この自然界で一番強いのは何か知っているかって訊いてんだよっ!」
 何とか態勢を立て直したオレは、話している今も足へと血液を流し続けていく。
この世で一番滞りの無い伝達物質は『液体』だ。だから、オレは身体の動きを筋肉でなく血液に転換してやる。初の試みだが、あの昆虫の身体など液体、空洞のオンパレードなのだ。それの最たるモノが『ゴキブリ』な訳で。その結果、ヤツらは平面で空気抵抗の無いフォルム、液状化された身体、一歩動いた後、身体への抵抗を少なくする為の空洞、それらが揃っているからこそ、あれだけのスピードで動けるのだ。
ある意味、それに近い事をしてみようじゃないか、と決意するオレ。しかも、相手は今まで否定しまくってお目にしようとせず、今、非常に苦しい闘いを強いらされている『ESP使い』その人な訳だ。本当に無謀極まりない。しかし、オレは高揚していた。だから、先の質問をしてみたのだ。決して時間稼ぎとかセコい事を企てての事ではなかったのだ。
そんな不敵なオレに、翼が面倒臭そうな態度で応じてくれた。
「はっ! そんなの人間に決まってんじゃん! だって俺にはこんな力があるんだぜ!? ソレを止める事なんて出来やしない!」
「やっぱり、お前はド素人の小僧だな? ヴァイオレット……お前は知っているか?」
 荒い呼吸を抑えながら、あえて紫女に振る。オレの意図を伝えるためだ。すると、やはりサポーター、良い答えが返ってきた。
「えぇ、存じ上げてるわ? ダストネーム・グラス? こんな小僧には分かりかねる事よ?」
「そうだよなぁ。あの仲介人の所にいれば分かるよなぁ?」
 そう言ってニヤリと微笑んでやる。そうすると、今までの表情が険しくなり、目を細めて見やってきやがる。良い感じだ……間違いなく頭に血に上らせているのが、一目で分かった。
「三歩、三歩だ……」
 指を三本立てて宣言をするオレ。
正直、身体はダメージの蓄積のせいでガクガクとしていたが、しかし、こう言えば、更に。
「あっ!? 何がだよ!?」
 やっぱり噛み付いてくる。だから、もっと精神を揺さぶっておこう。
「三歩あれば、お前の顔面にオレの拳をめり込ませる事が――――出来るっ!」
「うっわぁ、何か、スッゲ~感じワルいんだけど? もういいか、強いのは俺だし?  そんなホラ話になんて全く興味無いし? もう良いから、とっとと死んじゃえよっ!」
 冷静さを装っていても、オレには分かった。
顔から余裕が消えているんだよ、クランケ? 
眉間にシワを寄せた顔付きで、スッと手を肩の高さまで上げる翼に対し、オレは――――。
「それが、お前の――――命取りなんだよ!」
 叫びつつ翼に向かって走り出す。それは、今まで溜めに溜めていたバネを放した時の様に、文字通り、弾けて飛びだした。その瞬間、オレの身体の中で『一筋の電撃』が迸るのを感じたが、それも一色多にし、翼へと向かっていく。
翼は険しい顔をして、向かってくるオレに対し、脳内で『演算』とやらを繰り返しているのだろう。心なしか口がパクパク動き、目も虚ろになって、意識が脳内に入り込んでいる事をあからさまにしていた。
「それが『ド素人』って言ってんだよぉ!」
「――――演算完了。コンデンセーション(圧縮)!」
 翼が上げていた掌をギュッと握りしめた。
「――――ッ!」
 オレの眼前に歪んだ空間が視える。光の薄い世界しか拡がっていない屋上駐車場だが、夜目の利くオレにとって、ソレを認識する事は造作も無い事だ。だが、それ以上に今のオレは、不可思議な感覚に陥っていた。それは先程、蝶番のオフィスからこの羽桜市まで走ってくる時の感覚。言ってしまえば、風景というか全体がやけにハッキリ視えているのだ。いや、むしろ映像が頭に直接飛び込んでくる、そう言った方が正しいのではないだろうか? 極限な状態だからこそ、何かオレの中で拓(ひら)いたのかも知れない。それは今の状況で、最高のプレゼントだった。
オレは、その高揚している状態を満喫しながら、ギリリと歯を食いしばる。
 お互い譲れない、次の一撃。
それをオレは、必ず中(あ)てなくてはならない! 
だからコイツの一撃は絶対に――――。
「躱す!」
 ギュンっと空間が引き締まるのが視えた。
オレは身体を強引に右回転させて、地面に対し、斜めな状態になりながら、ソレを躱す為、地面とソレの間を走り込もうとする。
が――――。
 ガギュンという劈(つんざ)く音と共に、オレの左肩がボキっという鈍い音を奏でた。その後に訪れるであろう痛みを頭で予想しながらも、オレは構わず翼に一直線で突っ込んでいく。ダンダンと近づいてくる翼の姿に、オレは、ほくそ笑む。
何故なら……この白パーカーの顔に、焦りが視えたからだ。
 翼は次の攻撃に間に合わない、オレの脳よりも身体がそう判断した。だから、迷わず翼に向かう。
そして、大いに叫んでやったのだ。
「教えてやるっ! 水にも風にも負けない強者、それは――――」
 グッと拳に力を込める。
 再度、口から空気を一口吸い込むんで。
「――――グラス(雑草)だぁ!」
目の前に、白パーカーを着た、クランケである『神童 翼』の姿がある。ダラリと落ちる左腕を更に右回転させ、中空で身体を捻じりに捻じりながら、右腕に力を集約させた。
「くっ! クッソォ!」
「遅いっ! 喰らえぇぇぇぇぇ!」
〈ドゴォォォォン!〉
「ガハァ!」
「よしっ! 入ったわ、ダストネーム・グラス!」
スローモーションになりながら、オレの拳が翼の顔面にめり込んでいくのが観えた。
その感覚を右拳に感じながら、助走の勢いを乗せて、先程ヤられた様に翼をあのフェンスへ殴り飛ばした。そして言葉通り、翼は身体を捩りながら直線でフェンスに向かい飛んでいく。
当たり前だ……。
オレの拳檄をまともに受けたら、骨折どころの話ではない。あのウィンドでさえ「腕力だけは適いそうに無い」と零した程の握力。五百円玉を指だけで曲げる事すら造作も無い。身体中の骨が砕けてもおかしく無いだろう。少なくとも、それだけの訓練は積んできた。それだけで、もただじゃ済んでいないはずだ、そう予想できた。
 ガシャン! と、フェンスにぶつかる音が拡がる。その瞬間、事切れたかの様に翼の腕がパタリと地面に落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁ……どうだ、ド素人め……」
 息使いが荒れているオレは、ダラリと下がった左腕を抱えながら、ユックリと翼に近づいて行く。感覚から左肩が外れただけの様だったので、強引にゴキンと肩をはめ込んだ。
手ごたえはあった。しかし、まだ油断は出来ない。だから慎重に目を凝らしながら、近づいていくオレだった。
 そして…………。
「どうだ? これが……お前の言っていた『プロ』の力ってヤツだ。例え、腕がへし折られようが、足が折られようが、スイーパーとしての『誇り』までは折らせやしないっ!」
 見下しながら、満身創痍の身体を支える様に立ちつくすオレは、翼が白眼を剥いている所を確認して、クライアントの香澄に言われていた『止める』という任務を完遂したと判断し、給水塔に立つ紫女へと目を移す。
 すると紫女は、オレの方に指を差しながら、ガナリ声を上げて叫んできた。
「バカッ! まだ終わっていないわっ!」
「なにっ!」
 その声に反応して、すぐに翼へと顔を向けたが、すでにヤツは立ちあがっていて。オレに不敵な顔を浴びせてきやがった。
 あの一撃を受けて立ち上がる事は、一般人ならあり得ない、という先入観がいけなかった。考えれば分かる事だった。コイツは一般人ではなく、あくまでESP使いなのだ。もしかすると、ESPを使える様になった時点で、身体の構造自体に変化があるのかもしれないという事を想定していなかったオレのミス。
今更だが、香澄は、さり気無くオレにヒントを与えていたのだ。
あの香澄の義理の父、要は翼の実の父を、翼本人が殺した時に「風が入ってくると同時に、気付いたら翼が部屋の中にいた」と。
ソレの本意はこうだと思われる。
真空状態の中なら空気抵抗が無い分、いっぱしのスイーパーレベルであれば、その真空空間を走り抜けて一瞬で部屋の中に入れるはずだ。あの時のイメージは、その空気抵抗とコイツの身体能力を『常識』的に想定してしまっていた。もう、その時点で過ちは起こっていたのだ。しかし、そんな事は後の祭り。すでに後を取られてしまっている。
「クッソ!」
翼の右手が、着々とオレの顔面に寄ってきて『殺られる』そう思った時だった――――。
「やめてぇぇぇ! やめてよ、つばさぁぁ!」
「――――――――ッ!」
 聞き覚えのある声。
それは、兄である翼を止めてほしい、と、泣きながら懇願してきた少女の声。
このクランケの義理の妹『遠霞 香澄』だ。だが何故、此処に? 決して居てはいけない所にいる事で、オレ同様、翼も驚きを隠せなかった。
オレと翼は、ほぼ同時に声のする方を見遣ると、エレベーターエントランスから走り寄ってくる少女の姿があり。だからオレは咄嗟に叫んだ。
「バカッ! 来るなぁ!」
 しかし、叫んでも香澄には声が届いていないようで、一目散にコチラに向かってくるではないか。瞬間、ズキリと右後頭部が疼く。思わず右手で、その部位を抑える。
「ッチ! こんな時にっ!」
歯軋りしながら、オレはバッと翼に目を移す。すると翼の手はオレではなく、走り寄ってくる少女に向いていた。
「待てっ! オマエ、何やってんだ!? あの子はオマエの大事な妹だろうっ!」
 こちらを見向きもせず、少女に一瞥喰らわせている白パーカーが吠える。
「煩ぁぁぁいっ! オタクは黙っていろ! 俺がどれだけ苦労して、この力を手に入れたと思ってんだ!? 誰の為に? 誰の為に、あんな死ぬ様な思いをして? 全ては『香澄』、オマエの為だろう? なのに、あんな態度を取った。俺の苦しみも知らないで、のうのうとしたコイツを赦せるものかぁ!」
 苦渋の色を滲ませながらの咆哮。自分でも収集が付かなくなっている様に視える。色々な思いが交差して、自らを律せていない。その証拠に、眼がギラギラと夜目化していた。
「香澄ぃ、これ以上近づいてみろっ!? その場で肉片にしてやる! あの『男』と同じようになぁ!」
 その言葉に、一瞬ビクリとして足を止めた香澄だが、一つの決意を込めた面持ちをし、ユッタリと歩いて近づいていく。その姿を観て『危険』と判断したヴァイオレットは、給水塔から飛び降りて香澄を止めようとするが……香澄は左手をバッと横に開き、ヴァイオレットを制止させたのだった。
「サポーターさん、手出し無用です。私はどうなっても構わない。ただ……翼にこれ以上、酷い事をさせたくないだけ。…………ねぇ、翼? もう、こんな事止めて帰ろ? 一緒に、一緒に家に帰ろうよ……」
 濡れた様な瞳を翼に送る香澄。
オレは心の中で、その想いが届いてほしいと思う所と、この闘いを邪魔をしないでほしい、両方の複雑な感情が入り混じっていた。
が――――翼は違うようだ。
「マズイッ! 離れろっ!」
 そう言いながら、ヒュンっと風の様な殺気を感じ、本能の赴くまま、オレは香澄に走り寄っていった。
 その直後、翼は何か叫んだと同時に、容赦なく翳していた手を横薙ぎに振りかぶったのだ。
 その瞬間!
「キャァ!」
 ドンッという鈍い音が耳に届いた。
「なっ! 何て事を――――」
 ヴァイオレットが呟くが、それどころの話ではない。オレの頭が、虚ろにヨタヨタとしながら、ちょっとずつ現状を把握しようとする。
 嘘であってほしいと思いながらも、今、オレの眼に映っているのは、血を吐き出しながら中空を浮遊する少女の姿と、それを傍観している男の姿。そして、先程までユッタリと歩いていた香澄は、再度、吐血したかと思うと、その場で前倒しに倒れこんだ。
 オレは、その姿を目視し、カラカラになっていた喉にゴクリと唾を飲み込む。
「カッ、カスミィ!」
気付くとオレは、香澄の名を呼びながら駈け寄っていた。翼はというと、自分の仕出かした事に茫然としている様子だった。自分の手を見つめながら、ブルブルと震えていた。
オレよりもヴァイオレットが先に香澄の介抱をする。心拍と呼吸を確認して、コチラに視線を寄こすと一回だけ頷いた。その動作で香澄は無事である事を理解出来た。
だが。
駈け寄るもオレは、それ以上、香澄に近づく真似をしない。オレには彼女の傍に駈け寄る権利は無い、そう思ったからだ。
そっと目を閉じて天を仰ぐ。
そして一呼吸を入れ…………。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
叫んだ。
ひたすらに。
声の尽くす限り。そうでもしなければ、収まりはしない。
何に? 
俗的な言い方をすれば――単純に『腹が立って』いた。
「グ、グラス? 一体、どう――――」
「ッチ、クソッ! チクショウ、ホント、どうしようも無い。オレは………女の一人も護れないのかよっ!」
 ガンガンと屋上のコンクリを踏みつける。
それで何が起こるわけでもないが、それを数回続けていると、倒れている少女を介抱している紫色の女がポソリと呟く。
「アナタのせいじゃない。これは予想外の出来事。決してアナタのせいじゃない……だから、お願い、この子の願いを叶えてあげてっ!」
 まるで道端で物乞いをしている切なげな子供が、通行人に懇願するかの様な呟き。それだけ力が無く、説得力も無い、ただ有るのは願いを込めた想いのみ。
 それを理解出来ないで、何が「仕事人」だ? 
何が「スイーパー」だ?
自問自答し、自己嫌悪に陥り、自暴自棄になるオレ。
「あぁ、分かっている、分かっているさっ! 絶対に……止めてやるっ! クランケ神童 翼!」
 翼の仕出かした事に対し、ズキズキと疼きが激しさを増している右後頭部を軽く叩き、眉間にシワを寄せて、怒りを顕わにしながら翼の方に振り向く。すると、コイツも同じような、苦虫を潰した顔をしていて。この男も、自分の仕出かした行動に対し、困惑と疑念、それに後悔が渦巻いている様に感じた。それだけでも、まだ救いがある。しかし、オレの怒りはそれだけで中和される程、軽くは無い。
 オレはスッと腰を落とし、獣が獲物を捉える時の姿勢を取り、翼へと走り込む準備をする。すると翼がブツブツと言葉を漏らしてくる。
「……さい、るさい……うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい! みんな、うるさいっ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇ!」
 翼の叫びと共に、周辺からベゴンベゴンと何かが拉げる音が木霊する。その度に、オレの横を一陣の風が通り過ぎる。目に映る事は無いが、何かが飛び交っているのだ。動揺を越して混乱している。そう思った矢先、背後にいるヴァイオレットが声高に叫ぶ。
「マズいわ、ダストネーム・グラス! クランケはESPを制御出来ていないっ! このままだと脳に激しい損傷を与える事になる。その前に止めないと!」
 その声を汽笛とし、オレは獣の態勢で両手両足を使い駆けだす。
だが、リスクは大きい。
背後の二人を考えれば、彼女達と翼を結ぶ同一線上を駆け抜けねばならないのだ。幾ら冷静さを欠いていたとしても、それくらいは脳で理解する以前の話。だからこそ全力で、最小限のダメージになるよう低く低く、そして彼女達を護るように走り込む。
その動きに翼が激高している。
そう見えた。
そんな顔をしていた。
そこにオレは、腰に残っていた特殊ロッドの長いカギ爪を二本、指に挟み、地面をガリガリと削りながら翼を見遣るのだ。
そこから分かるのは、暴走している分、オレにあの『真空』の珠が当たる可能性は低くなっている事。それでも、この力にはある種の恐怖や警戒心は持たねばならない。どこから現れるか予想が付かないからだ。しかし、アイツの目に見えてる範囲でしか繰り出せないこの力は、間違いなくオレの背後の者達に当たる事はない。仮定でしかなかったが、ソレに掛ける以外になかった。
その一重の仮定を胸に、オレは走り込む。たかが数メートルの距離、一呼吸あれば届く。
「いい加減、目を覚ませぇ!」
オレは、地面を削っていたカギ爪をブンッと振り上げ、翼目がけて振り下ろす。
しかし――――。
「うるさぁぁぁぁい!」
 ベゴンと。
 翼の叫び声と妙な音が耳に届く。オレには何の音なのか理解出来ない。と、同時に身体が空中へと舞い上がっているではないか。
その後に続くは、内臓を持っていかれたらしいオレの口から、また大量の血が噴き出す。ほんのり光る朧気な星達の瞬きを、オレの吐き出した紅色が、キラキラと反射させている。
 それを認識出来るほど、オレの感覚はユックリ動いていたらしい。
パーカーフードが肌蹴た翼の髪が風に靡き、口元が持ち上がっているのを確認した。
『あぁ、オレはモロに受け止めてしまったようだ。アイツの義憤の塊を……』
痛みはオレの身体を突きぬけて、天に昇ってしまったかと思うくらい、身体の感覚は無に等しかった。
 そして……。
ドサリと地面に落っこちた衝撃を背面に受ける。
その事で、自分はまだ生きている、そう思えた。何故ならオレは、地面に着地した後にも関わらず、五体がバラバラになっているかも知れない身体を強引に持ち上げて、立ち上がろうと努力しているからだ。
 遠くに翼の姿が視える。アイツの目は、オレをしっかりと捉えている。
「それで……いい。こい、よ?」
 負け惜しみかも分からない。だが、アイツのターゲットが香澄に向かっていない事が、せめてもの幸いだった。
「オレは、どうなっても、いい……約束したんだ、あの少女と……」
そう、目の前にいる男を「止める」と。
 だからオレは、グググッと身体を持ち上げて、両足でしっかりと地面を踏みしめる。口から流れ出る流血も飲み込んで、我が力にしようと努力してみる。
それは、まるで踏みつけられても踏みつけられても立ち上がる……。

――――『雑草』――――の様だ。

 そんな瑣末な事を思い描きながら、翼が焦りの色を浮かべて。
「も……もう、いいだろっ? そのままぶっ倒れろよっ! なぁ、グラスさんよぉ!」
 オレの横二メートル程の地面に、鉄球が落ちた時に出来る亀裂が迸る。オレは、その光景をチラ見すらせず……否、そんな力は残されていなかった。ただ立ち上がり、その場で翼を見やる以外に力など残っていなかった。しかし、オレの目に飛び込んできた映像は、身体の奥から力を呼び起こすモノだった。
「うっ! ~っつ、なんだ、コレッ!? くそっ! イテェ~、イテェ~よっ!」
 先程までふてぶてしく立っていた翼が、跪き、うろたえ、唸りながら頭を抱えているのだ。これを観ていたオレの背後から、ヴァイオレット。
「だから言ったのよ! ド素人がESPを乱用すると、こうなってしまう。脳がエネルギー切れを起こして『演算』どころの話じゃなく、多大な損傷を受けてしまうの! これ以上、力を使えば、アナタは『廃人』と化してしまうっ! もう、やめなさいっ!」
「うぅぅぅぅ~うる、さぁぁぁい!」
「バカッ! 止め――――」
 オレの目にも視える程の歪みが、翼からヴァイオレットと香澄に向かって飛んでいく。
それは、今までの翼の力の使い方と少々異なっている様に感じた。今までは一か所の空間を真空にする以外出来なかったのに、ここにきて……。
「なんてヤロウだ、コイツ、『進化』しやがった! ヴァイオレットッ! カスミィ! 逃げろっ!」
 オレの叫びは、その半径二、三メートルはあろう歪な空間に飲みこまれてしまった様に、木霊すら許してもらえなかった。それ以上に、周りの空気を弾き返している為、まるで竜巻が起きているかの如く、この屋上駐車場は突風に見まわれた。『動かない』とはいえ『動かなければ』ならないオレは、一歩前に足を踏み出すが、吹き荒れる暴風により押し戻されてしまう。身体が完全であればまだしも、今の状態ではどうする事も出来なかった。
 あるのは――――『絶望』――――。
「チクショーッ! やめろぉ!」
「ヒャハハはははハハハハハははハハハはははははハハハハ」
 気狂いが笑う。
目が二人を『視』ていない。
それだけのエネルギーを使ってしまい、もう、まともな思考が出来なくなっているのだ。
ひたすらひたすら笑い続けている。
 オレはそれを無視し、なんとか、なんとか、あの場に辿りつこうと努力するが。
「逃げろぉ、ヴァイオレット!」
 そんな瑣末な事しか言えない無力なオレでしかなかった。もう歪な空間が二人の眼前ギリギリの所まで迫ってきていた。
 オレは、オレは……目を瞑る事しか出来ない。
祈る事しか出来ない。
こんな絶望的な状況で祈る事以外に。
 誰に? 
分からない。
どうでもいい事を頭の中を巡らせているが、あと数秒後には……そう思った瞬間、オレは声高に叫ぶ事しか出来ず、無様にも声が掠れるほど叫んでいた。
「カスミィ! クソォ! ――――ミコトォォォ!」
 このシチュエーションで、何故か蝶番の名を叫ぶオレ。
自分でも分からなかった。
何故、こんな時にアイツが出て来たのかを。
だが、その時、オレの耳にあり得ない声音が届いたのだ。


『ふぅ~。全く、相変わらず、キミは騒がしいですね?』


「――――ッ!?」
 パァンっと。 
まるで風船を破裂させたみたいな音が轟く。
その瞬間に、先程まで暴風の中心になっていた歪な空間が弾けて消えた。そして、巻き上がる埃の中に座りこんでいる二つの影以外に、その二つを護るが如く、一つの人影が立っていたのだ。
 先程の声音は、その人影から発せられた事くらい容易に分かる。何故なら、その人影はオレの良く知っているモノだったから。
 段々と晴れ渡る砂埃から颯爽と現れたるは、この風景に似合わない薄青い燕尾服。それに、今時あり得ないと思う、眼鏡についている金色のチェーン。
そして――――。
「ここまでやって下さるとは……少々、侮っておりました。クランケ『神童 翼』?」
 不敵に口端を持ち上げて、挑発的な口調で喋りかける独特な言い回し。
 ズキリと。
 ようやく疼きが止まったと思っていたモノが、また意識を現実に戻させる為、動き始める古傷達。それはオレの中で何か警戒心を持っている証拠だった。
そう――――。
香澄だけでもあり得ないのに。
まさか、今回の依頼の大元である仲介人『蝶番 命』が、埃と風の中、髪と前ボタンを外している燕尾を靡かせつつ、普通のトランプより二回り程大きいカードを二指で挟み、立っているとは。オレは、有り得ないソレらの光景に、問う事しか出来なかった。
「ミ、ミコトっ!? なんで、お前が!?」
 その質問に対し、蝶番はオレに向き合う事すらせず、クランケ『神童 翼』を睨みつけながらポソリと呟く。
「何故って……分かり切っている事でしょう? まさか、クライアント『遠霞 香澄』様が、この現場に来るなど、キミは想定していましたか? していないでしょう? どこで聴きつけたのか、どこで知ったのか、それはボクが推し量る所ではありませんが……少なくとも、クライアントの安全を保障する事は『仲介人』として最低限のマナーです。それを今回は、ちょっとしたミスで反故してしまった。だから、ボクが出張る事にしたのです。決して、キミを助けに来たわけでは無いので、あしからず……」
 相変わらずの減らない口だ。しかし、それが本物の蝶番である、と、証明している。その証拠に、腰の砕けたヴァイオレットが、いつもなら絶対に見せない濡れた瞳を燕尾の眼鏡に送っていた。
 オレは、その減らず口に対し、同じように減らず口を叩いてみせる。
勿論……強がりなのだが。
「べ、別にっ! オレは助けてくれ、などと言った覚えは無いぞ、ミコト! これから、チャチャっと、ヤってやろうとしていたのに――――」
 幾分回復したのだろう、口調は流暢になっていた。しかし、足は生まれたての小鹿の様に、ブルブルと震えている。それを隠しつつも悪態を付くが、それは蝶番の溜息を出させるだけに終わったみたいだ。オレのそんな言葉を受け取り、あからさまな態度で両手を肩まで持っていき、深く嘆息する蝶番。
「見苦しいですね、負け惜しみというのは……? 先程、キミは「ミコトォォォ!」とかって叫んでいたじゃないですか? アレも本当に見苦しい。それこそ、ヤレヤレです。黙って、そこにひれ伏しているがいいです」
「ッチ、クソ――――『死神』め」
 ギリリと。
 口の中に鉄の味が拡がるのを感じた。それは、自らの情けなさを模倣している様に感じて。やや伏し目がちに蝶番を見遣ると、蝶番は、しかしながら、と言って言葉を紡いだ。
「ダストネーム・グラス? 初のESP絡みの、しかも、これ程性質(たち)の悪いクランケ相手に、よくぞここまで『ヤ』り合いました。そこは褒めておきましょう。さて、ヴァイオレット? クライアントは御無事ですか?」
 しっとりとした流しで目を追わせる眼鏡男。それはどことなく気品溢れる花魁の様で。ヴァイオレットは襟を正し、それに倣い、報告する。
「ハ、ハイ、マスター! 気を失っていらっしゃいますが、クライアント『遠霞様』は、御無事でいらっしゃいます」
「フム、分かりました。では、クライアント『遠霞様』は、ヴァイオレット? キミにお任せします。しっかりと任務を果たして下さい。宜しいか?」
 軽く眼鏡の位置を直しながら、またクランケ『神童 翼』に目を向ける蝶番。
背後からは、ヴァイオレットから、ハイッ! と、いつもよりも語尾が上ずっている声が響いていた。
しかしながら……先程から、クライアントの事しか尋ねていない蝶番。やはり、サポーターは心配などされる存在ではないのだろうか? 少々、人間味の無いやり取りに苛立ちを持つ。
だが、まだクランケ『神童 翼』が残っている。クライアント『遠霞 香澄』のクランケ完遂は終わっていない。
オレは、その実行の為に、一歩一歩と蝶番に歩み寄った。
が――――。
「死にたくなければ、それ以上、近づかない方がいいですよ、ダストネーム・グラス。まぁ、キミなら、巻き込まれて死んでも良い、などと言いかねませんが? さておき…………再度確認です。今回のクランケ『神童 翼』は、アナタで間違いありませんか?」
 またも、クイッと眼鏡を持ち上げ直す蝶番。
顔からは、いつものお茶らけた雰囲気は全く無く、あの一瞬垣間見た『オーディン』の様な殺気を放っていた。
 それを悟っているのか、そうでないのか分からないが、翼は言葉の代わりに、呼気を吐き出すアクションで、ESPの力を発動する。それはもう、オレの目でも確認出来る程、真空の珠は歪になっている。中心には、圧縮したであろう空気中の水分が集まっているのが視えた。
 しかし――力を使えば使う程、翼は吠える様に天を仰ぎ、声にならない声を上げていた。やはりヴァイオレットの言う通り、もう限界なのだろう。ちょっとずつ集め、一つの珠を創り出したら、片手で痛む頭を抱えながら片膝を付き、大きく息を吸いこむ。もうボロボロの癖に、それでも目だけは一丁前に獲物を喰らってやろう、そう言った気概を感じる光を放っていた。
「シネェェェ!」
 ありきたりなセリフだが、今の翼には、それ以上の言葉を求めるのは難しいだろう。語調、語尾、共に不自然な発音になっていた。
 それを自然体で見ている眼鏡の男は、二指に挟んでいたカードを顔の前に持っていき、タイミング良くサッと横薙ぎにする。
その瞬間、先程と同様、パァン! といった軽い音が轟く。
「――――ナッ!?」
 翼は驚きと苦痛の表情をしながら、口をパクパクと動かす。もう声すら出ないようだ。
 挑発的な態度を取っているのか、それとも素なのか分からないが、徐に溜息を零し、髪を掻き上げながら蝶番。
「フム、なるほど。キミのESPは『外的作用』の『水』ですね? 空気と聞いていたので、些か用心していたのですが……そうですか。やはり、あの力を扱えるのはダストネーム・ウィンドしか居ないようですね」
 ザワリと足元から痺れみたいなモノが走ってくるのが分かった。
それは、やはり蝶番本人に訊きたかったからなのかも知れない。だから『緊張』という名の電気が身体内を駆け巡るのだ。
「おい、ミコトっ! ソイツ、力の使い方を「ウィンドから教わった」と言っていたっ! ウィンドは、まだ生きているじゃないか!」
「いちいち会話に口を挟むのはキミの悪い癖ですよ、ダストネーム・グラス? それはクライアントの依頼外の話ですので、ボクには関係ありません。少し黙って見ていなさい」
 そう言って、オレに一瞥の眼差しを送ってくる。
その瞳には、底知れぬ『闇』を感じた。
全てを飲みこんでしまう『闇』だ。
その例えが一番シックリくる。そんな……光すらも感じない無機質な色をしていた。
 そして、蝶番は語りだす。
「クランケ『神童 翼』? アナタはご存じですか、このカード?」
 ピッと挟んでいたカードの絵柄を翼に見せる。
「これはですね、二十二枚ある『大アルカナ・タロットカード』と言われています。ちなみに名にある『タロット』とは、西洋の言葉、主に、ジプシー達が言っていますが『神秘的』と言う意味合いが込められています。起源は、エジプトやメソポタミア、はたまた、ローマ教会から始まった、などなど諸説ありますが、正直な所、良く分かっていません。しかしながら、このカードを使って『占い』やら『呪い』を行っていた事実は、厳然としてあるのです。では何故、このカードをそう言った『神秘的』行事に使用していたか――――分かりますか、クランケ『神童 翼』?」
 翼は、荒い息遣いで佇んでいる。跪いていた姿勢を起こし、立ち上がっている所を見ると、蝶番の余分な話の間に、徐々にだが回復しているのかも知れない。
 それをオレは、蝶番に伝えようと口を開こうとするが――――。
「余計な気遣いは無用です、ダウトネーム・グラス。では、話を続けましょう……」
 見透かされていた。と、いうより『心を詠まれた』と言う方が正しい感じがした。
 蝶番は胸元から、ゴッソリとクランケを決める際に使用するタロットカードを取り出し、それをシャッシャと切りつつ、ユッタリと語る。
オレもそれに耳を傾けた。
「それは偶然にも、このカード達に力が込められたからなのです。そう、偶然が偶然を呼び、さらなる偶然を呼びこむ。そして、色を重ねるごとにその力は増していく。それが、この『タロット』に限らず『カード』に秘められた力なのです。ただし、カードも使用者を選びます。認められなければ単なるお遊戯になってしまうのですが……しかし、ボクくらいのモノが使うと、こんな事が出来ます」
 そう言って、蝶番は一枚のカードを取り出し、軽く腰を落として地面にソレを置いた。
オレの目に絵柄が届く。しかし、知識の無いオレには何のカードなのか分からない。理由は単純に『初めて見る』カードだからだ。
 蝶番がカードを地面に置いた瞬間、不思議な現象が起きた。
この辺り一帯を取り囲む空気が変わったのだ。いってしまえば先程までが『暖』とするならば、今は『冷』、色にすれば『赤』から『青』、それくらいの変化が訪れた。
 それについて、軽く折り曲げた人差し指を地面にチョイチョイと向けながら、蝶番がご丁寧にも説明を加えてくれる。
「さて? 現時点で、この屋上駐車場は…………ボクの『モノ』になりました。ここで何か行おうとしても、ボクの許可が無い限り、絶対に行う事が出来ません。要するに、ボクがこの場所は「こう有るべきだ」と決めてしまったので、それに反する行為は全て無かった事になるのです。そして、今、この場を制したカードは『エンペラー(皇帝)』と呼ばれているモノ。意味合いは――――「支配」――――」
 ゾクリと。
ふてぶてしく翼に向かって歩きながら、ツトツトと語る蝶番。
今度は天に指を差しながら、まるで世界の中心にいるが如く、凛とした出で立ちでニヤリと笑いかけている。その姿に……背筋に冷たいモノが迸った。
「カァァッ!」
 翼の叫びと共に一陣の風が巻き――――起こらなかった。
そこには、ただ四つん場でしゃがみ込んでいる男が、雄叫びを上げただけになった姿があっただけだった。
「ムダだと言っているでしょう? この空間では何者だろうと、ESPの使用許可を出していませんから決して発動しません。だから、余分なエネルギーを使わずに、ジッとしている方がよろしいかと。更に言わせて頂けば、先程、非常に驚かれた様ですが、アナタのESPを消し去った、あのカード。あれは『テンプレンス(節制)』と呼ばれるカードで、意味合いは「調和」です。ESPと言われるモノは、この普通なる世界を『順』とするなら、ESPのソレは『逆』に位置するモノなのです。だから、ソレを単純に「調整」し、この世界の『順』と『和合』させただけなのですよ、クランケ『神童 翼』? お分かりか?」
 余りにも言っている事が突発的すぎて、反応の仕様がない。しかし、言っている意味が分からない訳では無いのだ。言ってしまえばコイツは、そのタロットカードを使用することで、あらゆる現象を司る事が出来る、という事なのだろう。
 蝶番は、ESPを『逆』と言っていた。そうすると、コイツの力は『逆』どころの話ではない。むしろ、世の中から外されてもおかしく無いモノ。それ以外にあるとすれば――――世界を、否、『順』自体を飲み込みかねないモノ、そのどちらかしか無いだろう。
知識の無いオレでさえ、それくらいは分かる。それが、あまりにも危険極まりない力である事くらい……。
「さて――そろそろ理解してきたのではないでしょうか、クランケ『神童 翼』? それにダストネーム・グラス? 要するに、キミが選ぶカードは一見、キミが選んでいるように見えますが、実はカード達に選ばされているのですよ」
 凛として。
天を差し示していた指を降ろし、流し目でオレを見据える蝶番に、オレはただ茫然としている他に無かった。妖しい光を放つ瞳を見返すと、蝶番はフッと顔を背けてしまう。訝しげに思いながら、カードに選ばされている事実がどうであれ、現実的に今のオレは、この空間に居るかぎり無力だ。
いや――。
この空間だけではなく、自分が思っていた以上に、オレは『無力』だった。ESPに対しても、今頃になって慣れて来たわけで、常識外でも常に適応し、常に学ぶ事をしなければ、いずれ朽ち果てる。それが、傲慢になり怠ったモノへの『運命(さだめ)』否、末路なのだろう。そういった意味でも、今しがた、蝶番の行う事は、オレに対して何かを学ばせようとしているモノである、と勝手に解釈しておくようにする。そうすれば、ヤツの一言一言が脳内を駆け巡り、オレをもっと高嶺に昇らせてくれると思ったからだ。
しかしながら、先程、眼鏡の男が言っていた「この場では何も出来ない」と言う事に、疑問を抱いているオレは、ちょっと試しに、少しだけダメージの解けた身体を動かす意図も含め、地面を思いっきり殴り付けてみる。オレの力なら、少しくらいはヘコむか、ヒビが入るかはするはずだ。そう思って叩いてみたのだが――――。
「…………なるほど、な。『壊れる』等の変化さえ受け付けないって事か……」
 叩いてみたものの、それはまるで鋼鉄の扉を素手で叩いた時の様な、動かざる衝撃を身体が感じ取っていた。その感覚は「あがいても無駄である」ソレと同意で、オレのスペックを持っても変化する事は無かった。だからオレは、何も出来ない事を悟り、蝶番と翼の動向を『観』る事にした。
「クス♪ やはりキミは、相も変わらず試してみないと気が済まない性分なのですね。経った今、無駄な事だとお話したのに……。そういう自虐的な事が好きなのは理解しかねます。さて―――そんな事より――――」
 蝶番の一言により、その場の雰囲気が一瞬にして変わるのが分かった。
先程の『冷』と違って、更に深い感覚。
言うなれば『凝』か? 
集まり、固まり、完全に動きを止める『凝』と言っても過言ではない程、凍りついた空気。そこに立っているだけでも、やや息苦しさを感じて止まなかった。
「自らの家族が、こんなにも心配をして、己(おのれ)を止めようと努力しているのに、そのお返しが、この仕打ちとは……」
 蝶番の回りの空気がフワリと持ち上がる。その反動で、地面に零れていた埃が舞い上がったのが視えた。そして、蝶番の眼の奥にある瞳の先に灯る光が、メラッとした様に感じた刹那。
「キサマ……人間、ナメるのも大概にせぇよ?」
 蝶番は、いつもの柔らかな丁寧語を、纏う空気と共に急激に変化させた。それは一介のヤクザ宛(さなが)らだ。いや、もしかすると、これがコイツ本来の喋り口調なのかもしれない。そう思える程、川の流水の様な滑り出しある慣れた感じ。ムリやり使っている口調とは、全く訳が違う。勿論、言葉や訛りで脅す訳ではないが、そんな瑣末な事ですら、今のコイツには凄味を増す為のスパイスでしかなかった。
 場の空気を『凝』にした眼鏡の燕尾服は、静かに内ポケットへとカードをしまい込む。ユッタリした歩みを止めて、近場にあるフェンスの下地に腰を掛けて、足を組みながら、その足をデスク代わりにし、両手を組み、いつものポーズを取る。眼鏡が、ほのかな光に反射して白く曇り、奥にある瞳を確認する事は出来なかった。が、冷静さを装うながらも、威圧感がダダ漏れていて。十二分に怒りを持っている、という事を頑なに想像させてくれた。
「フム。ちょっと……いつもと違うボクを出してしまいましたね。仲介人として、これは失態です。お忘れ下さいな? では、少々お付き合い願いましょうか、クランケ『神童 翼』。と言っても? 今のアナタに選択肢は無い。何故なら、この屋上駐車場の『支配者』はボクだからです。飽きるかも知れませんが聴いて頂きます。面白くない……『昔話』を……」
「ふ、ざけ、るなぁ……」
 悪態を付く翼だが、何かに圧迫されているのか、四つん場の姿から態勢を変える事は出来ないでいた。ソレを見て、フッと鼻で笑い、さり気無く香澄の方に目を配る蝶番は、コメカミに指を当て、小鳥の囀りに似た鮮麗な声音で語り出す。
「フム。まだ言葉を吐きだせるのであれば、何とかなりそうですね? では、お話をさせて頂きましょうか? さて――――ある所に四人の家族がおりました。父と母、八歳になろうかという少年、それに五歳の妹がいたのです。父は一般企業の社員で、母はパートタイマーで働く主婦。二人とも、とても優しい人達でした。少年は活発な子供で、いつも外で遊びまわっていました。妹は保育園に通っていて、来年には小学生になるのにも関わらず、いつも少年がいないと何も出来ない甘えん坊です。そんな四人は慎ましいながらも、それはそれは楽しい生活を送っておりました。しかし――――ある時、異変が起きたのです。いえ、起こってしまったのでした。それは、少年の妹が六歳になろうという、皆が待ち望んで楽しみにしていた日の事だったのです。その日、早く帰りたかった少年ですが、学校の掃除当番の件で少々帰りが遅くなってしまいます。もう父親も帰っている時間であると思い、少年は気持ちを逸らせながら、斜陽の中、息を荒げつつ走って帰りました――――」
 ふぅ~っと吐息を吐き出す男が、懐から一本の透明な小瓶(ボトル)を取り出す。中に赤っぽい液体が入っているようだ。アンティーク好きなコイツの事だ。中身もアンティークを装って、年代モノのワインか何かかも知れない。それをクイッと一口飲み込んで、細い目をしながら遠い所に目線を送って、再度語り出す。
 オレ達は、その穏やかに感じる一風景をも飲み込んでいる奥深いプレッシャーで、動く事は許されていなかった。
「学校から一人帰ってきた少年は、急いで家の扉を開けました。そしたら、どうでしょう。いつもなら柔らかい家の光と、暖かい母の作っている夕飯の香りが漂うはずなのに、その日に限り、家の中からは固くなった暗闇と冷たい空気が流れて来たのです。少年は初め、その異変を誕生日の為、皆、買い物に出かけているのだと思っていました。ですが、玄関に立ち、彼はようやく家の中で起こっている異変に気付いたのです。何故、気付いたかと言うと……父と母、そして、妹の靴が玄関にキッチリと並べて置かれていたからでした。すぐさま少年は、靴を脱ぎ捨て、家の中へと入ります。激しい動悸を抑えながら、彼は玄関から一番近い部屋、そこはリビングなのですが、滑り込むようにして、リビングのドアを開け放ったのです。そしたら、そこには――――」
 オレの胎の中が、グググっと押しつぶされそうになる。蝶番の話す『昔話』に影響されていると言えば、そうなのかも知れない。が、それ以上に、アイツの語る言葉一つ一つから、色で例えるなら『黒』いモノが、耳を通って胎の中に流れ込んでくるのだ。
 ソレは、この場にいる全員が感じていたモノだろう。何故なら、この場の『支配者』は、コイツなのだから…………。
 その影響か、古傷がズキリと痛む。疼くのでは無く痛んだ。こんな事は初めてだった。それを見抜いたのか、悟ったのか、オレにシレッとほくそ笑みながら呟いてくる。
「ヤレヤレですね、ダストネーム・グラス? この程度の『闇』に呑まれそうになるのは、まだ新米の証拠です。ここで少し修行なさい。では続きを――――」
「マ、マスター! それ以上は――――」
 まだ気を失っている香澄を抱きかかえている紫女が、眼鏡の男に進言する。しかし、それを片手一つ突きだすことで制止した。その意味を理解し、ヴァイオレットは口を噤む。その代わりに、また蝶番が言葉を紡ぎ始めた。
「――――そこには、少年自身の精神を疑いたくなる光景が拡がっていたのです。今まで豊かでは無くとも、楽しく、明るく暮らしていた世界が一変して、赤黒い色に染め上げられてしまっていたのです。少年の眼前で父と母は…………。それを見た少年は、大声を上げて叫びました。リビングの真ん中で寝そべっていた父と母に駈け寄ったのです。しかし父と母は、既に…………事切れていたのでした。二人からは夥(おびただ)しい赤色が垂れ流されていて。父は母の上に覆いかぶさり倒れていました。それは、まるで母を護る様にして。少年は気付くと涙を流し、ひたすら父と母の名を叫んでいました。ですが二人は、いつもの優しい笑顔で、二度と少年の名を呼ぶことはありませんでした。どうしようもない虚脱感と激しい吐き気に襲われながらも、少年はある事を思い出すのです。そうです――それは少年の妹の存在でした。妹の靴も玄関に置いてあったのです。ならば……妹も家の中に居るはず、そう思い、少年は走り出そうとしました。すると何処からか、か細き囁きが聴こえるではありませんか? それに気付いた少年は、その声がする所に向かってゆっくりと歩いて行きます。その声が聴こえるのは、リビングを出て、すぐ右側にある父と母の寝室からでした。少年は意を決し、その扉に手を掛けます。震える声で、なんと弱弱しい声で妹の名を呼びながら、扉をそっと開ける少年。そこで観たモノは――――」
 今まで語り続けていた男は、突如、言葉を止めた。流れる様な仕草で、降ろしていた腰を持ち上げて、ゆったりと香澄に向かい歩みを進めた。
 オレも翼も、ヴァイオレットでさえも、その動きから目を離せなくなってしまっている。それは一重に、この男が、次、語るであろう『昔話』とやらの結末が嫌が負うにも視えてしまったからだ。
 オレ達は一種、憐れみの目で視たであろう。一種、哀しみの目で視たであろう。しかし、そんな瞳の交差など気にも留めず、男は紫色の女が膝に抱えている少女の元まで辿りつき、懐からそっと一枚のカードを取り出す。ついで男は膝を付き、そのカードを少女の胸元に置く。すると、少女の身体が淡い金色の光に包まれた。
「このカードは『ザ・サン(太陽)』と呼ばれるカードです。このカードには「復活」の力が込められています。これでクライアント『遠霞 香澄』様は大丈夫でしょう」
 そう呟き、スッと背筋を伸ばすと、天を仰ぎながら、まるで宇宙(そら)に届けと言わんばかりにツトツトと言葉を吐きだす。
「もし――もし、この少年が、この時、このカードの事を知っていて、その力の事を知っていたのなら……妹を助ける事が出来たかも知れない。しかし……結局は「もしも」の話なのです。『真実』は他に有ろうと――『事実』は変わる事は無いのですよ。何故なら現実に起こってしまったモノを変える事など出来やしないからなのです…………。おっと、話がズレてしまいましたね? もう少々、お付き合い願いますよ? さて、その少年は何を観たかと言うと、少年の目の前で、その日、ようやく六歳になった妹が、大柄の男に――――『犯されて』いたのです。男は、なんとも醜悪な荒い息遣いで身体を揺さぶり、その男の下にいた妹は、激痛と凌辱されている恐ろしさに、涙と鼻水を垂れ流し、慄いた顔をしていたのです。少年は、恐怖よりも愕然となりました。これは夢なのではないか? そう思ったくらいです。しかし、ソレは現実で。目の前で繰り広げられている光景は現実だった。少年は叫んだ。そして、叫びと共に扉を開け放った少年に気付いた妹は、少年の方に顔を向けて「お兄ちゃん、助けて……」と、もう事切れそうな声音で少年に助けを求めて来たのです。その瞳は虚ろになり、まるで人形の様な印象で……。少年の思考は完全に停止し、気が狂った叫びを発しながら、その大柄の男に突進していくのです。ですが――――」
 ゴクリと。
再度、ボトルと傾け、喉を潤す眼鏡の男。
その姿を見て、頬に雫を流している紫色の女。
オレは何も考えていなかった。否、何も考えられなかった。
 オレには、一年前より記憶が無い。しかし、この話に出てくる少年は、この苦しみをずっと抱えながら生きて来た。それを考えると、オレは記憶を無くした事に些かながら安堵する。
 蝶番は小瓶のフタをキュッと閉めて、空中にクルクルと投げ回すと、中の液体がタプンタプンと渦巻く。ソレを見つめながら話の続きをする。
「現実は、そう甘くはありません。その体格差で、万が一にも少年が勝てる要素など一分も無かったのは明白です。少年は、その大柄の男に殴られ、蹴られ、叩かれ、投げられ、死ぬ寸前まで追い込まれました。ですが、その時です。外から叫び声が聴こえました。推測ですが、ちょうど御近所の方が尋ねてきて、開け放たれたドアを不審に思い、中を確認したのでしょう。そして、そこにあった惨劇を見て、叫び声を上げた。それは、ごく普通のリアクションだと思います。しかし、そのお陰で、大柄の男は窓ガラスを破り、急いで逃げ去ります。どうする事も出来なかった少年は、部屋の地ベタに寝そべり、その後ろ姿を見つめていました。男が居なくなった事を胡乱ながら理解した少年は、ほとんど虫の息でしたが、ただただ妹の事が心配で這いずって妹の傍まで寄っていきます。その時、少年の目は、ぼんやりとしか視えていなかったと思います。それくらいのダメージを受けていたのです。ですが……少年は、真っ直ぐに妹の所に向かいました。ようやく、ようやく届いた、妹の手。それを力強く握りました。ですが妹の手は、パタリ、力無く落ちてしまいます。その瞬間、少年は悟りました。たった今、この世で、この家族の中で、自分一人だけが生き残ってしまった事に。それと同時に、自分という人間は、最大に無力であるという事も……。その後、少年は一人で生きていきます。無力な自分を払拭する為、死に物狂いに力を欲し、そして、力を手にした。その末路が――――まぁ、色々とありまして『何でも屋』などという愚行に走る事になるのです」
 それはともかく、と。接続詞を付けながら、クルクル回転させていたボトルをパシッと受け止め、今は『大人』である元『少年』は語調を強くする。
「この時……負ける事を理解しながらも、それでも立ち向かった無力な少年。そして、全てを護ろうと力を身に付けたはいいが、勘違いをして『ソレが全てである』などと幻想を抱き、仕舞には自分を救おうとしてくれた者を貶(おとし)めた男と――――一体どちらが『勇敢』だったのでしょうね? クランケ『神童 翼』?」
 右の掌を上に向けて、人差し指だけを伸ばし、小瓶を持った左手を腰に当てて、翼に一瞥と不敵なモノを混ぜ込んだ笑みを送る蝶番。
 そんな質問、余りにも愚問すぎる。どっちが『勇敢』だなんて……訊かなくても分かる事だ。それは勿論『前者』に決まっている。
所詮、目の前のクランケは『ESP使い』と言えど、闇の世界に対してのド素人。オレ達の生きる世界に、気を失っているクライアントや目の前の白パーカーなどが踏み込んできてはいけなかった世界なのだ。それを遠回しにだが、ヤツは伝えようとしているのだろう。
 やはり、この男は『お人好し』なのだと思う。
だからこそ、オレはこの男から依頼を受けている、そう思えた。それは、偶然なんていう簡素な言葉では片づけてはならないモノで。
オレは、ボロボロになりながらも、次の依頼も『タワー』であれば良いのに、などと無謀極まり無い嗜好を持ってしまい、一人ほくそ笑んだ。
どうも、オレは何かに充(あ)てられたみたいだ。それは、この謎に満ちた男を、ほんの一部だけだろうが垣間見る事が出来た、それが、どこか心地良かったからだろう。
そして、蝶番は『最後の審判』を降す。
「さて、お話が過ぎましたね。そろそろ、クライアント『遠霞』様も、お気づきになるでしょう。が、その前に? 二つの選択肢をアナタに与える事にします。さぁ、クランケ『神童 翼』に施しましょう、選択の時間――――」
 蝶番は、ややズレ落ちた眼鏡の位置を直し、また燕尾の内ポケットから一枚のカードを取りだした。そのカードを二指で挟みながら、鼻歌を謳うが如く、ヒラヒラとユラユラと、クランケ『神童 翼』の眼前へ歩み寄っていく。
オレは、自分が茫然と立ち竦んでいた事に気付き、香澄の元へ足を向ける。勿論、目は蝶番から離さない様に。先程、コイツが言っていた「巻き込まれたくなければ」の言葉を解釈するならば、近寄ってきてはならない、そういう意図が含まれていると思うのだ。だから、どれだけの範囲まで近寄っていいのか分からなかったオレは、遠巻きに歩き、香澄達の元へ向かう。アイツに限って、この二人を巻き込む様なマネはしないだろうし、してはならない事だから、その場が一番安全だと括ったのだ。
「フム。そうです、今はボクから距離を取る事が懸命ですよ? これから起きる事象に巻き込まれたら、キミは間違いなく『死』にますから♪ まぁ、死にたければ御一緒にどうぞ?」
 蝶番から視ると位置的に背面側となるオレ達なのだが、コイツは肩越しに首を傾げて、コチラを見据えて呟いてきた。
 今の発言からも分かる様に、やはりオレは、この男の掌で遊ばれている感が拭えないのだ。それくらい先を見透かされている様に感じる。かといってソレを推し量る事は出来ない。否、出来やしない。コイツの『仲介人』という立場から観た世界は、オレなんかでは考えられない世界なのだろうから。しかし、それでも尋ねるべき事は尋ねた方が懸命だと思ったオレは、声高に蝶番へ問い掛ける事にする。
「なぁ、ミコトっ! ソイツをどうするつもりだ!?」
 当たり前の疑問を投げたオレに、コイツは肩の高さまで手を持ち上げて、呆れた時に取るアクションを示してきた。
「どうするも何も……選択肢はボクで無く、ここに居らっしゃるクランケにある。だから、決めるのはクランケ自身なのですよ。宜しいか、クランケ『神童 翼』?」
 苦渋の顔でしかめている翼の眼前に片膝を付き、視線を合わせる蝶番。
それを見つめるオレは、先程から一つ気になっていた事があった。
それは――――蝶番が喋って聴こえる声と口の動きが微妙に合っていないのだ。スイーパーたる者、会話の一つくらい、読唇で読めるように訓練している。だから、つい癖で唇を読んでいると、聴こえてくる言葉よりも口の動きがやや速い事に気付く。言ってしまえば、ソレは文と文の『間』に、オレ達には『聴こえない言葉を入れ込んでいる』そんな感じだ。
それが気になり聴き取ろうと聴覚に意識を集中させると――――。
「……☆*#&……lkwdm……sxlr……」
「なんだ……これ、は?」
 蝶番の『声』に混じっている『音』は聴き取れても、全く理解出来ない言葉が羅列されていた。それは会話の間と間に入り込む訳だが、文脈が意味を為しているとは思えなかった。
気味が悪く、妖しい言葉の羅列。
背中に悪寒を感じながらソレを聴いていると、蝶番は徐に小瓶を懐に戻し、空いた左手を翼の眼前に差し出した。更にコイツは、その羅列していた言葉を、ヴァイオレット達にも聴こえるくらいの大きめな語調にし、唇の動きを加速させる。
「さて、仕上げですね――――☆*#&……lkwdm……sxlr………………」
「おっ、おい、ヴァイオレットッ!? アレは……なんだ?」
 オレは、後ろで座りこんでいるであろう紫女に質問してみる。
常軌を逸したスピードで繰り出される言葉のマシンガンは、あたかも音楽CDを何十倍にも加速しているみたいになっていて。
ソレは既に言葉では無く、キュルキュルという『音』でしかなかった。
「あれは、マスター特有の話術――――『ロスト・ワールド』――――」
「ロスト……ワールド? 失われた――世界?」
「そう、マスターにしか出来ない催眠誘導術――――いいから黙って視ていなさい」
 ヴァイオレットから進言を受けたが、些か疑問符は拭いきれなくて。だからオレは、女の方を見やる為、一度背後に振り返ったものの、紫女はジッと眼鏡の男を目で追っていたので、その姿を拝見するに、事が起きるのはもうすぐらしい事を理解した。だから、ヴァイオレットを見ていても仕方が無いので、オレも蝶番に視線を合わせる。
すると蝶番は、そっと左手を引っ込め、右手に持ち合わせていたカードをユックリと翼の前に持っていく。翼はというと、催眠誘導のせいか、すでに何処か意識が飛んでしまっているようで、明後日の方向を見つめながら口を半開きにし、混沌の世界へと堕ちていた。そんな状態の翼に向かい、蝶番が口端を妖しげに持ち上げながら、右手のカードを翼の額に当てた。
 その瞬間。
「さぁ、選択の時です! 『ウェール・オブ・フォーチュン(運命の輪)』」
 カッと翼の身体が光り出す。 
人間が発光するなんて、あり得ない現象だ。
しかし、香澄にも同じような、発光現象があった事を思い出すオレだが、その事すらも忘れさせてくれる程、眩いという言葉で一括り出来ない光量を出していた。
それは、あたかも近くで水銀灯を照らされている、そんな輝きだった。
「……ぅ、うぅん……」
 それに合わせた様に、背後では吐息とも取れる唸りが聴こえる。それは、心配な兄を助けに来たのに、逆に返り討ちにあってしまった居た堪れないクライアントである少女の声。
「カスミッ! 大丈夫か!?」
 オレは咄嗟に後ろに振り向く。そうすると、片手で目の前を覆いながら、やや眩しそうに顔をしかめていた。既に淡く光っていた身体は元に戻っており、気だるそうにオレを見つめてくる少女が深呼吸をしながら、問いかけてくる。
「あ……グ、ラスさん? それに、ヴァイオレット、さん……? 私、一体……」
「大丈夫だ。アンタは、この現状に驚いて気を失っていただけ。だが――――」
 オレは、超発光の盾になるよう、香澄の目の前で片膝を落とし、目線を合わせた。しかし、そんな行動を取っているオレ自身、ヤキが回っている、そう思った。
多分、それは瑣末な思考。
強引かも知れないが、この少女には、クランケ『神童 翼』の愚行を知ってほしく無い。そう思ってしまったからだ。
それを思うと、些かながら自分に腹が立ってきて、その矛先を香澄にぶつけてしまった。
「なぁ、アンタは何でここに来たっ!? こんな危険な状況なのに、なんでっ!? ミコトの所に居たんじゃなかったのかっ!? アイツがいながらどうしてっ!?」
 まだ頭がハッキリとしていない様子で、目を瞑りながら、オレの怒声を聴いている。その姿がヤケに癇に障り、もう一度声を荒げようとした時……。
「――――ご、ごめんなさい。私、どうしても翼とグラスさんが心配で、仲介人さんに「一度家に帰りたい」って言って、コッソリ出てきちゃったの。駅に着いたら、上からスゴイ音が聴こえてきて。私、それは翼とグラスさんだって思ったから、非常階段使って上がってきちゃった……。そしたら、やっぱり居るんだもん。二人を見た時、居ても立ってもいられなくなっちゃって……だから、その、ごめんなさい……」
 身体を上半身だけ起こし、淑やかに低頭する香澄だが、そんな事はお構いなしだ。偶然とはいえ、見つかった事は百歩譲ってオレの責任でも構わない。
しかしっ!
危険だから来るな、という忠告を無視し、危険際なり無い所に飛び込んでくるバカが、どこにいる? それを「ごめんなさい」の一言で片づけられたらスイーパーなんぞやっていない。
オレは、それがどうしても許せなかった。いや、許してはいけないのだ。
何故なら……。
「――――ッチ! 勘違いするな! アンタはもっと自分を大事にしなきゃいけないんだ! 一歩間違っていたら、自分の命を失っていたかも知れないんだぞ!? それを軽々しく投げだすなんて、どうかしている! せっかく繋いで繋いで、必死にしがみ付いていた自分の命を、アンタの単なる「心配だから」で投げ捨てられたら、翼はどう思う!? 苦しむのはアンタじゃない、翼なんだ! アンタは確かにスゴイ。色々分かっているし、乗り越えてきたと思う。でもな? アンタは一人っきりで生きてきたのか? そうじゃないだろ? 翼が居たからこそ、生きてこれたんだ。自分の命を大事に出来ない人間なんて、そんなもん、偽善で自己中以外のなにものでもない。自分だけの命じゃないって事を自覚しろ! そうじゃないと残されたヤツが哀しすぎるだろっ!?」
「グ……グラス、さん……?」
 驚きの表情の香澄。
オレは、ずっと彼女の前ではスイーパーで在り続けようとしていた。だが、もうそんな事は関係無くなってしまっていた。
香澄を見ていて思い出してしまったのだ。オレの脳裏に潜んでいた、いや、忘れようとしていた『あの日』の事を。
それは、ダストネーム・ウィンドと最後に会話した時の事。
その時の彼女は、オレをかばった事で傷つき、ボロボロになっていた。オレは、自分の身すら守れない無力な人間で、何も出来ない自分を責め立てた。そんな事をして何か解決するのであれば幾らでもすればいい事だが、その時の現状を払拭できる訳が無い。何故なら、オレとウィンドは、荒廃しボロボロになっているビルの一角に隠れていて、その回りには、オレ達を追ってきたテロリスト達の自衛軍が何百と潜んでいたのだ。絶体絶命のピンチにあったオレは、性懲りも無く取り乱しそうになる。しかしウィンドは、こんな状況でありながらも、血に濡れた左手でオレの口をそっと押さえつけ、フッと微笑んできたのだ。そして、ガクガクと震えながら立ち上がる彼女が、オレの事を殴り飛ばしてきた。
その常軌を逸した行動に戸惑いを隠せなかったオレに、ウィンドはこう言ってきたのだ。
「自分の命を大事に出来ないヤツなんて『偽善者』でしか無い。もっと、もっと自分の事を大事にしろ、ダストネーム・グラス」
「お、おい、ウィンド!? 突然、何を――――」
 彼女はオレを殴り付け、言いたい事を言った後、再度、優しさを滲ませた微笑みを浮かべた。
その瞬間、オレの視界がグラリと動いた。
首の辺りに鈍痛が走ったのを認識した時点で、ピチャリと音を立てながら、自分が倒れた事を悟った。どうやら、ウィンドの身体から流れ落ちる紅い血が、一端に水溜りを作りあげてしまったらしい。その生暖かい温度が、頬を伝って脳に信号を送るのだが、すでにウィンドから施された意識破壊を止める事は出来ず、深く昏い意識下へと堕ちて行った。
 次にオレが気付いた時、周りに数多にいた自衛軍は何処かへと消え失せていた。勿論、オレを突き飛ばし、気絶させたウィンドと共に――――。
 オレは、どうしようもない焦燥感に駆られた事を思い出し、今、眼の前に居る少女が取った行動と昔のオレが重なって見えたのだ。だから、思い出したのだろう。
「こんな気持ちだったのか、ウィンド?」
 オレは口の中で囁く。
これは誰にも聴かせやしない。
オレは、オレの感情に正直になって、気持ちをぶつけてやったのだ。
それを聞いた少女が、今後、オレに対し、どう思おうが知ったこっちゃない。それくらいの気持ちでぶつけてやった。
 香澄を抱えているヴァイオレットが、目を瞑りながら嘆息している。多分、オレの変わり様に呆れているのだろうと思う。しかし、それを度外視せずとも、やはりオレは、この少女にコチラの世界に関わらず、人並みの生活ってヤツを手に入れてほしいと願っているのだ。どうして、ここまで入れ込んでいるのか自分でも分からない。それでも、オレという人間を形成している感情(モノ)が叫んでいるのだ。
何故なら、彼女は十分――――。
「……地獄を観続けたんだ、もう、いいだろ?」
 その呟きに対し、香澄は小首を傾げながら。
「――――グ、グラス、さん? 何か、言った……?」
「……いや、なんでも無い」
 そんな想いを口にしたのは、もしかすると、過去のオレ、要は、身体の中に記録されているオレが、同じような経験をしたからなのかも知れない。それを今のオレに分かる術は無いが、それでも『言いたい事』と『伝えたい事』は違うと思うのだ。
これは、間違いなく前者。そうで無ければ、ここまで激高する事など無いはずだ。
オレは、漸くこの時、自分の感情や想いというのは、スイーパーとして考えるに余分なモノであるのだが、人間としての自分を形成するには、とても大事な『一部』である、という事に気付いた。
そう考えているオレは、やはり、どこかバグを起こしているのだと思う。この思想のお陰でオレは、一歩『死』に近づいたのだ。それを理解しながらも、頭のどこかでソレを受け入れてもいいだろう、そう考えていた。だから、いつまでも怒っていると、驚いている目の前のクライアント様が驚きを通り越して怖がってしまうので、彼女から視線を外し、大きく息を吸い、そして、ユックリと吐いた。
オレは、こうして自身の脳内物質調整を図ろうと試みた訳だが、それを茫然と見つめる香澄と、やはり嘆息しながら見つめるヴァイオレット。二人の視線がヒシヒシとして、やや居心地が悪い気分になっていたが、その時、先程まで長く伸びていたオレの影が消えている事に気付き、背後を振り返る。すると、激しい発光をしていた翼は、香澄と同じく発光を止めて、仰向けになりながら静かに倒れ込んでいた。
「つっ! 翼っ!」
 香澄は、まだ本調子でない身体を起こして、ヴァイオレットを押しのける様に翼の元へと駈け寄っていく。時々、躓きながら、転びながら、脳の指令に上手く反応してくれない足を懸命に動かし駈け寄っていく。それを観ていると、やや切ない気持ちが溢れてくる。
この気持ちは一体何なのだろう? そう疑問に思いつつも、オレは立ち上がり、しゃがみ込んでいるヴァイオレットの手を取って起こしてやると、一緒にクランケの横で片膝を付いている男の元へと向かった。
「翼! つばさぁ!」
「大丈夫ですよ、遠霞様。今、彼は気を失っているだけですので、時期に目を醒まします。しかし――――彼の選択により、アナタも選択せねばなりません」
「な…………何を、です、か?」
駈け寄って翼を抱きかかえた香澄に対し、蝶番が意味ありげな眼差しを送る。しかし、香澄には「選択せねばならない」という言葉が些か理解出来ないようで、懇願する様な瞳を持って眼鏡の男を見つめる。蝶番は、彼女と視線を交差させながら、何も答えず立ちあがった。そして、あと一歩の所まで歩み寄っていた、オレとヴァイオレットの方に目を向けてきたので、あえて香澄の代わりに、オレが訊く事にした。多分、話の切り口を求めての事だろうから。
「どう言う事だ、ミコト?」
 ここの場の空気は『冷』から『暖』に変わっている事にオレは気付く。それは、ちょっとした変化を見逃さない少女への配慮だろう、という勝手ながらの解釈をしてみる。
 やや風で乱れた白髪を掻き上げて、下方でしゃがみ込んでいる少女と、白パーカーの男を見据えながら、ピッと二指に挟んであるカードを見せつけながら、具体的な説明を始めた。
「今、クランケ『神童 翼』は、意識下の中で選択を迫られています。ボクが先程、彼に施したカードの名は『ウォール・オブ・フォーチュン(運命の輪)』と呼ばれるカードです。このカードの意味合いは――「転換点」――。要するに、彼の中で選択させているのです」
 転換点は分かるにしても、意識下で何の選択を迫られているのか分かりかねたオレは、もう少し詳しい説明を要求する。
「――――もう少し、分かり易く説明してくれるか?」
「はぁ~。ダストネーム・グラス? キミは、ちょっと見ない内に頭の回路がおかしくなったのでは無いのですか? 前はそんなに説明せずとも理解したでしょうに……? 仕方ありませんね? 分かり易く説明しますと――――」
 蝶番の説明だと分かり辛いかと思うので、オレが代わりに解説しよう。
蝶番曰く、今、クランケ『神童 翼』はトランス(意識を超えた)状態にあり、そこで本能と理性が鬩ぎ合っているそうだ。そして、最終的に翼自身が『今のESPを使う自分』か、それとも『過去のESPを使えない、否、知らない自分』かを選ぶ、その様な選択肢を与えたと言う。
単純に考えれば『ESPを使う自分』を選びそうなモノだと思うが、ここが蝶番と言うか仲介人というか、どちらにせよ、非情な性質を感じざる負えないのだ。
それは『ESP』を選べば、既に脳のダメージが著しいであろう翼は、その負荷に耐えきれず『廃人』と化すだろう。そして、過去の自分を選べば、脳の負担は無くなり元に戻る事が出来る……のだが、既にダメージを受けている脳の為、今まで通りになるとは限らない。間違いなくESPの記憶は無くなるだろう。もしかすると脳障害が残り、まともな生活が出来ないかもしれないのだ。
 ソレだけの選択肢は、些か厳しいのではと思い、オレは蝶番に尋ねてみた。
「先程、香澄に使っていた『ザ・サン』を使う事は出来ないのか?」
と。
しかし、ヤツは小瓶の赤い液体を一口飲み込み、こう応えた。
「ボクはですね、ダストネーム・グラス? 慈善事業で、この仲介人をしている訳ではないのです。少なくとも、クランケ『神童 翼』が選んだ道は人道に反するモノだった。だから情けはここまでです。これ以上の配慮をするつもりは決してありません。だからこそ……遠霞様? アナタは選択せねばならないのです。クランケ『神童 翼』が、もしESPの自分を選んでしまったら――――どうなさいますか?」
 余程、香澄に手を上げた事が尾を引いているらしい。コイツの言った通り、オレ達は慈善事業で行っている訳ではない。
誰にでも昏い過去はある。例え、ソレを聞いたとしても、コイツが先程話していた「少年」の話を聞いてしまえば何も言えなくなるだろう。
オレ自身、コイツの過去を垣間見た事で、今後、こういったクライアントやクランケに出会ったとしても容易く揺れ動く事は無い、そう思える。
私情を挟めば、そこには『死』が迫る。それがオレ達「スイーパー」というモノなのだろう。だが『死』が迫ってくるだけで『死』ぬわけでは無い。今回学んだ、この『人としての感情』は大事にしたいと真剣に思ったのだった。
 備に思い耽っていると香澄は、抱きかかえる翼を見つめて淡いピンクの唇を動かす。一瞬だが柔らかな春風が吹き、その風に乗せて香澄の髪の毛の香りがオレの鼻をくすぐる。それが、どこかまた切ない気持ちにさせた。
「私は――――私はこれ以上、翼に苦しんでほしくない。私の為に苦しんでいる姿を観るのは私も辛いの……だから、もし翼が……ESPを使う翼を選んだなら、その時は――――」
 無言に俯く香澄に対し、オレは……。
「分かった、それ以上は口にしなくていい。その時は任せておけ」
「グ、グラスさん…………」
 ポンっと香澄の肩に手を乗せて、オレは諭すように呟いた。それを濡れた瞳で見つめる香澄に、安心を与えるつもりで笑いかけてみた。すると香澄も、切な気な面持ちでありながらも、口端を持ち上げて笑い返してくれた。
 しかし、言葉を返してきたのは香澄では無く、白髪眼鏡燕尾服男だったわけで。
「フム。なかなかな事を言う様になりましたね、ダストネーム・グラス? カッコ良いじゃないですか」
「一言多いっ! 少しくらいカッコ付けさせろ。ただでさえ今回は、お前に頼り切ってしまった節がある。オレも筋を通さないと『スイーパー』の名が泣く。だが――――」
 文句を言いながら腕を組みつつ、視線を翼に落としてみる。まだ彼は眠っていた。
「後々、どの様になるか…………それは彼自身の選択によります。もうすぐ目を覚ますでしょうから、少々待ちましょう♪」
 蝶番は何故かニコニコとしていて。天を仰ぎながらググっと背伸びをする姿を見ていると、本当に単なる燕尾服の可笑しな男にしか見えない。
 そんなコイツの余裕綽々な態度を見ていたら、コチラの緊張感も少し和らいでしまった。
「そういえば……」
ふと思い出した。
あの蝶番の話術を。
訊くだけムダだろうと思っても、やはり習性なのだ。首をポキポキ鳴らし、つい質問をしてしまう。
「なぁ、ミコト? さっき翼に語りかけていたアレ……ヴァイオレットが言うには『催眠誘導術』とかなんとか。して――その実態は?」
 訝しげな顔で尋ねると、不敵な笑みを浮かべ、眉間に人差し指を添えながらヤツは応える。
「クス♪ アレはですね、人間の脳に直接語りかけて、催眠効果を誘導するモノですよ」
「直接……語り、かける?」
「そうです。脳と言うのは意識下にあっても、無意識下にあっても、気付かない内に膨大な情報を汲み取ろうとする習性があるのです。そういう経験は有りませんか、ダストネーム・グラス?」
「――――」
 少しの間、顎に手を掛けながら考えてみた。すると、これもやはり思い出した事なのだが、この羽桜駅まで来る時に、意識していないのにも関わらず、情報が勝手に飛び込んできた感覚があった。
「あ、あぁ。確かに、あった。しかも、ついさっきの話だ」
 そう言うと、ニヤリとしながら、そうでしょう? と相槌を打ってくる蝶番。
 ちなみに、と言う接続語を付けながら語り出す。
「ボクの場合、相手に気付かれない所に、さり気無く言葉を乗せて誘導を促す。すなわち人間の脳とは、通常のリズム、違う言い方をするなら、宇宙のリズムでしょうか? それが八分の六というリズムで働いているのです。しかし、それを意識して喋る人間など、そうそういません。日本人なら――――そうですね、分かり易く言うと『五・七・五』ですね。ボクは、その『五・七・五』のリズムの間に、その八分の六リズムに仕立てた言葉を、約四十倍の速さで脳に送り込むのです」
「はぁっ!? よ、四十倍!?」
 オレは目を丸くしていただろう。更にクスクスと含み笑いをし、口元を右手の甲で隠しながら妖しい光の瞳を向けてくる。
「はい♪ 人間とは面白いモノで、実際聴こえていないと思っている音でも、脳が音と認識すればソレは音になってしまうのです。丁度、四十倍というのは、耳は認識出来ないが脳は認識出来るギリギリのラインなのですよ。だから四十倍♪」
「はぁ……そいつはスゴイな。で? ちなみにその『音』って言うのは、タロットと同じような特殊なモノなのか?」
 オレの質問に対し、蝶番は頭にクエスチョウンマークを付けている顔をして。
「――――いえ? 単なる『アメイジング・グレイス』の早送りですけど?」
「アメリカ国歌かよっ!」
 つい突っ込んでしまったオレ。その突っ込みが可笑しかったのか、蝶番は「なかなか御上手に突っ込みましたね?」などと茶化してきた。
 いや、普通、催眠誘導するのなら特殊なナニかがあると考えるのが筋だろう。それが単なる歌、むしろ誰でも一度は耳にした事があるであろう某大国の国歌な訳だ。それを突っ込まずして、いつ突っ込むべきなのだろうか。
 何かバカにされている感が拭えなかったオレは、ジトッと蝶番の事を見据えると、下の方から男の呻き声が漏れる。
「うぅ……」
 それに反応するは、クライアントの香澄。
「つっ! 翼……? 翼、翼!」
 しきりに呼び叫ぶ香澄のソレに応えるかの如く、翼がユッタリと瞼を上げた。
 オレと香澄、ヴァイオレットは事の動向を見守るしか出来ない。翼の取る動作一つ一つがやけに長くユックリに感じてしまう。
 もし。
もし翼が、先程までの翼だったとしたら、その場で『廃人』化してしまう。その瞬間、オレは、この少女の目の前で、少女の最愛なる人を手にかけなくてはいけないのだ。
 ゴクリと。
 生唾を飲み込む音が頭に響き渡る。その音すらも長く感じてしまう。
「……ん、うぅ……ん」
 翼は胡乱な瞳でキョロキョロと目を瞬かせて、辺りを伺っている。そこに香澄が優しい柔らかな口調で翼に声を掛けた。
「翼、私だよ? 分かる?」
「か、かす、み? 俺、どうして、こんな所で……寝ているの? それに、この人達は?」
「――――ッ! つ……つばさっ! つばさぁ!」
 香澄は、たった今、零した翼の声音に安堵したらしく、ブワッと目に涙を溜めて、頬から滂沱として流し始めた。
 翼は半身体を起こし、抱きつき嗚咽を零す香澄の肩をそっと支えて抱きしめてあげる。まだ状況が把握出来ていないような困惑した顔が、オレ達と香澄を行ったり来たりしていた。
 オレは心の中で胸を撫で下ろした。
本当に良かった。
この少女に――また、地獄を見せつける事がなくて。
それが何よりだった。
 隣の蝶番が再度、腰を落とし、片膝をついて、二人と同じ目線に立つ。それと同時に、後ろではヴァイオレットが救急車の手配をしていた。
 そう、今の言葉から分かる様に、クランケ『神童 翼』は選んだのだ。
今さっきまでオレと蝶番と争いを起こし、香澄を傷つけてしまった愚かな自分ではなく、昔の……香澄が言う優しかった『翼』を――――。
 しかし、だからといって、翼の脳は著しいダメージを受けている事は確かなのだ。それを確かめねばならないと思い、オレは翼に声を掛けようとしたら――――。
「こんばんは。それに……はじめまして」
 蝶番が先に声を掛けていた。そこには、いつものお茶らけた眼鏡の男は無く、ほのかな温かみを感じる雰囲気を醸し出している。
「……は、はじめ、まして……」
「ボクは『蝶番 命』と申します。コチラの『遠霞香澄』さんが通っている病院の医者です。突然、アナタが倒れたとお聞きし、ここに馳せ参じた次第なのですが。ちなみに横でデカイ態度を取っているこの男は、ボクの助手の『草刈』と申します。以後お見知りおきを……」
 戸惑いながら、オレと蝶番を身比べる翼。
その姿を見るだけで、もう以前の翼で無い事は明らかだった。それに蝶番が言った「はじめまして」に対し、同じく「はじめまして」で返してきているのだ。
これは、まさに決定的だろう。
 傍らでは、まだ泣き伏せている香澄がいたが、それを気にせず蝶番は話を進める。
「さて? 精神的な病をお持ちの方には、念のため、携帯電話の番号をお教えしてあるのですが、まさかこんな大事になっているとは思いもよらず、ボクは一切の器具を持ってきておりませんで、応急処置しか施せませんでした。ですが……目が覚めて良かった。今のお加減はいかがですか?」
 スッと手の脈を取る仕草をする蝶番に、オレは一瞬笑いそうになってしまった。
本当に、やる事なす事『喰えない』ヤツで。
オレは後で色々な含みを持って言ってやろうと思う。
確かにお前は尊敬出来るヤツだ、と。
 そんな医者っぽく脈測りをしている姿に、信用と言う釘を心に刺してしまったのか、翼は事もあり気なく蝶番の質問に答えてくれた。
「えっと……はい、俺は大丈夫です。ちょっと頭がズキズキしますが、それよりも――」
 それよりも、の後の翼が言いたい事は分かっている。
右手で頭を掻きながら困っていたからだ。
何に……? 
勿論、泣きながら抱きついて離れない少女。そして『神童 翼』の義理の妹である『遠霞 香澄』が、何故、こんなに泣いているのか、分かりかねていたのだろう。
それを若干見下している形になってしまうが、オレは簡単な言葉で説明してやる。
「そんなになるくらい心配していたんだよ、アンタの事を。それだけは分かってやれ」
「はぁ、そう、なんですね? そっか……香澄? ゴメンな、心配掛けて」
 香澄はその言葉を聞くなり、ガバっと顔を持ち上げて、翼の顔にググっと顔を近づけた。
「しん……心配なんてっ! スッゴイしたんだからねっ! この埋め合わせは……グス、ちゃんと……してよ、ね?」
「分かった。ゴメン、香澄」
 そう言いながら香澄の頭を撫でる翼の目は、明らかに兄の目で。香澄が話していた通りの男なのだと、心のどこかで安心した。すると二人とオレの会話をジッと聞いていた蝶番が、開けていた燕尾の前ボタンを留めて、香澄の名を呼び、自らの方に顔を向けさせる。そして、襟を正したと思ったら、突如、正座をし、地面に付きそうな程、深々と頭を下げたのだ。
「あ、あのっ! 突然、どうされたんですか!? 頭を上げてくだ――――」
「いえ……この度は申し訳ございません。この不始末は――――ボク『蝶番 命』が取らせて頂きます」
 香澄は翼を支えていた手を離し、大丈夫か確認を取る。すると翼は、香澄を蝶番の前まで促した。香澄は困惑しながら両方を目で追うが、翼はにこやかに笑いかけ、心配無い事を無言の内に伝えていた。そして翼自身は、自力で立ち上がろうとしたのだが、やはりダメージは拭えない様で。グラリと倒れそうになった所を、オレの『サポーター』である紫女が、素早く受け止めて肩を貸した。
「じきに救急車が参ります――先にクランケと降りております、マスター」
 そうヴァイオレットが声を掛けても、蝶番はずっと香澄に頭を下げているばかりだった。
 香澄もオレも一体何がどうしたのか把握できず、お互いを見あうが、その空気に耐えきれず香澄が口を開く。
「あ、あのっ! 仲介人さん!? 頭を上げてください。不始末なんて……何もないじゃないですか! だって、ここまでしてくださって、その上、翼も助けて下さった訳ですし……」
焦りの中に感謝を込めた言葉が香澄の口から送られる。その気配を察したかのように、今度は蝶番が、地面と自身の身体に挟まり籠ってしまった声を香澄に届けるのだ。
「いえ、今回、遠霞様の依頼は完遂出来ませんでした。何故なら遠霞様の依頼内容は――」
 その言葉で、オレはハッとした。 
そうだったのだ、忘れていた。
それをオレは、今頃、思いだしたのだ。
蝶番と話をする時、オレは香澄に「ローン返済」と「オレの報奨金はいらない」旨を伝えろろ、そう言った。しかしながら、考えてみると一番大事な事を伝え忘れていた。
それは――――。
「そうか、そうだった…………」
 オレも蝶番と横並びになり、一緒になって、いわゆる一つの土下座をブチかます。すると香澄が、グラスさんまで!? と、それこそ混乱きたしている声を上げる。しかしながら、この件はこうしないといけないくらい、いや、それ以上に重大な案件なのだ。蝶番の意図どうこうではなく『仲介人』と『スイーパー』の仕事は、クライアントから与えられたクランケを『完遂』するで成就される。そう考えると、今回のクランケは全くもって『完遂』されていない。それに香澄は気付いていなかった。だから、オレは申し訳なさそうに言い放ってやったのだ。
「申し訳ない。オレが不甲斐なかったばっかりに今回の依頼は完遂出来なかった。頭を下げて赦される事じゃないかも知れないが……」
「だからっ! 何でですか!? お二人はちゃんと――――」
 頭を下げているせいで、どんな面持ちか分からないが、多分、非常に困った雰囲気を醸し出しているだろう。そんなどうでも良い思考を持っているオレとは裏腹に、香澄の言葉に割り込んで蝶番がボソリと告げる。
「いえ、ボク達はクランケ完遂を出来ていません。何故なら遠霞様の御依頼は……

『クランケ神童 翼を「殺して」ほしい』

……だったではありませんか?」
「――――ッ! あっ!」
 驚き顔の香澄。
驚きすぎて開いた口が塞がらないとは、まさにこの事だろう。
 そうなのだ。オレは伝え忘れていたのだ。オレと香澄の間では、今回の依頼内容をクランケ神童 翼を『殺す』から、『翼を止める』事に変更していたのだ。それは、両方納得の上での話なので問題無いのだが、大元である蝶番に、その事を伝え忘れていたのだ。だから、コイツに対しての依頼は、変わらず『クランケ殺害』のままだったのだ。
それに気付いたからこそ、オレは頭を下げた。だからこそ、蝶番は頭を下げたのだ。蝶番の配慮とかそういった類のモノではなく、単純に依頼完遂が出来なかった事を、プロとして謝るしかなかった。
そう思いながらも、オレは心の中で、なんて粋な計らいを、と柏手を打っていたのだが、蝶番は相も変わらず土下座の態勢で、決め手となる言葉を紡いだ。
「情けなくもプロとして任務を完遂出来なかった事をお詫び申し上げます。なので、もし、お赦しいただけるのであれば……今回の依頼料は、無料とさせて頂き、ボク達の方で持たせていただけませんでしょうか? その程度の事で赦しを頂けたら、ボク達も救われます。どうか御容赦を――――」
「どうか御容赦をっ!」
 蝶番に重ねてオレもクライアント『遠霞 香澄』に頭を下げる。
「え…………えっ……と――――」
どうしたら良いのか香澄は分かっていない。だからオレは、ちょっとだけ顔を上げて、香澄に片眼を瞑り一回だけ頷く。勿論、そこには蝶番の言っていた事実を認めてしまえ、そういった意図を含ませて。それを通して、ようやく事の顛末を理解したらしい香澄は、一度だけ目を見開き、深々と頭を下げて……。
「あ、あのっ! こ、こちらこそ……その、ありがとうございますっ! えっと、はい、それで仲介人さん達が救われるのであれば私としても…………その、ありがたい、です。で、でもっ! その、本当に宜しいのでしょうか? 私、厚かましくないですか?」
「いえ。決して遠霞様に落ち度はございません。それでお赦し頂けるのであれば、ボク達も救われるのです。どうぞ……お受け取りください」
 決定的だった。
 この時点で『仲介人』蝶番と『スイーパー』ダストネーム・グラスの報酬はチャラになり、これにより『遠霞 香澄』は、一千万という大金を背負わなくても良くなったのだ。更に言えば、この時点でクライアント『遠霞 香澄』との契約は終了し、オレも蝶番も、今後、向こうからの依頼以外では『遠霞 香澄』と接触することを禁じられる事になる。それについては、どこか一抹のモノがあったのだが、この少女がコチラの世界に触れなければ、それでいいと思えた。しかし、その気持ちが思ってもみなかった形で否定されてしまうのだが……。
 オレと蝶番が下げていた顔を起こそうとした時に――――。
「あ、あのっ! お支払いが無くなったのは嬉しい事なんですけど……」
 香澄がオレ達の目線でも分かるくらい、両手をギュッと握りしめながら、何か必死なモノを伝えようとしている。オレも蝶番も、それが何なのか分からず同時に顔を上げると、蝶番がオレを見遣っていたので、オレは顎を癪って蝶番に、訊いてみれば? と促してみた。
「まだ、何かおありで?」
 すると香澄は、更に必死な声音で。
「は、はいっ! やっぱり、このまま何もしないでお別れするのは何と言うか、その……偲びないんです。だから……えっと、その――――」
 じれったいのは好きではない。だから立ちあがりついでに香澄の背中を押してやる。
「なんだよ? ハッキリ言ってみろって?」
「えぇ~っと…………もし、良ければ……………△□○□△○□△をしたいっ! です!」

「「――――はぁ~~~~~~~~~~っ!?」」

 誰も居ない屋上駐車場に木霊する、二つの叫び。
後にも先にも隣にいる燕尾服の眼鏡男の驚愕した叫びを聴いたのは、この一回だけだろう。それだけの爆弾と言うか、何にせよ、最近の女子高生というのは、全く持って何を考えているのか理解し難いモノがあった。
まぁ、この少女に限り、少々、異質である事は確かなのだが。しかし、その提案があれば、またこの先も…………。
 ある意味、驚愕し、ある意味、笑顔があり。
そうこうしている内に、下界では翼を乗せるであろう救急車が、遠くから登場のサイレンを鳴らしながら近づいてくる。紫の女と白のパーカー男は、オレ達が降りるのを今か今かと待っている事だろう。やはり香澄は、クランケ『神童 翼』の親近者であり、良き理解者であり、後には禁忌を犯してでも……一緒になるであろう二人なのだから。
色々と思い耽っていると、下でのサイレンが鳴り止んでしまった。さすがに、その催促を反故する訳にはいかないので、仕方なしと仲介人『蝶番 命』は、渋々、香澄の提案を受け入れるのだ。
そして、香澄は笑顔で。
「ありがとうございますっ!」
 と、また理解不可能な言葉を発した。
 オレもあれこれと考えるのが面倒になり、トットと翼を病院に連れて行かなくてはと、香澄を前にして歩きだそうとした。すると、オレは肩を掴まれ、強引に振り返らせられた。
その振り返らせた人物とは、言わずもがな『蝶番』その人だ。
 オレは訝しげに尋ねてみる。
「どうした、ミコト?」
「ちょっと宜しいか、ダストネーム・グラス? キミには伝えておこうと思います」
「……何を、だ?」
「今回のクランケ『神童 翼』の事です――――。ボクの情報網で色々と調べてみたのですが、彼は過去、遠霞様に乱暴を施した父から虐待を受けています。そのせいでしょう、いつもは優しく穏やかな性格なのですが、感情が高まると、ある一定の所で酷い残虐性を見せていた、との事です」
 突如、今回のクランケ『神童 翼』の過去を話してきた眼鏡男は、オレの背後を歩いている少女に目を配りながら、クスリと口角を持ち上げる。オレは、その素振りに何の意図が含まれているのか理解し難かったので、単純に自分の思った事を告げてみた。
「おいっ? 虐待とか残虐性とか…………もしかして、それはESPを使う翼の性格の事を言っているのか?」
「フフフ♪ はい、その通りです。ESPを扱えるようになったからと言っても、性格は極端に変わる事などあり得ないのですよ。だってキミも思ったでしょう? 本当に目の前の『神童 翼』と、遠霞様のお話していた『神童 翼』が同一の人物なのだろうか? と疑問に思ったのではないですか? しいて言うなら、彼の残虐性と言うのは、基本的には『彼』の基準よりも弱者と見なされたモノに対して施されていた様ですね。例えば……子猫の目に瞬間接着剤を垂らし瞼を開かなくしてみたり、ウサギの耳を掴んで暴力を奮い、その勢いで耳を引きちぎってしまったり……などなど。それこそまさに虐待を受けていた人間の『心の傷』が為す事です。覚えておきたまえ、ダストネーム・グラスよ。人間の本質は、臨界点に達した時――否、苦しい時に自問自答を繰り返し、自身の存在起源を見つめた瞬間、最も安定した所に還ろうとするものなので。それがクランケ『神童 翼』にとってみれば、あの残虐性に秘められていた、そう解釈してよいかと思います」
 オレは、蝶番が語る『人間の方程式』を聴いていて、ある事を一つ思い出していた。それはダストネーム・ウィンドと一緒に行った中東の『テロリスト』を壊滅に向かった時の事だ。
 
あの時、寂れた町に滞在していたオレとウィンドは、ちょっとしたミスを犯してしまう。ずっと罪の無い人間、誰一人傷つけない様にクランケをこなそうといていたのだが、そのミスのせいで、誰も通りそうにない路地裏にいた一人の兵士を、やむなく撃つ事になってしまった。生存確認をする為、そっと近寄ると――――。
その兵士は、年端もいかない黒肌の少年だったのだ。
 ウィンドはその場で腰を砕き、膝立ちになりながら、腹部から夥しい血を垂れ流す少年の亡骸を抱きかかえる。
よほどの痛みを被(こうむ)ったのだろう。その痛みにショック死したと思われる少年は、カッと目を見開いていた。ソレは恨みを灯らせている様にも視えて……。
ウィンドは、その開かれた瞼を手でそっと閉じてやった。オレはウィンドの背中を見つめながら、思わず呟いてしまう。
「こんな少年を兵士にするなんて――――惨過ぎる」と。
 今思えば、なんて軽い言葉なのだろうと思う。しかし、その時のオレには、そんなチャチな事しか言えなかったのだ。オレの言葉を訊いたウィンドは、背中をフルフルと震わせていた。
何故か、その背中には威圧感が漂っていて。それは半端のないモノを感じていた。が、それ以上に『切なさ』が込められていた。
その背中越しに、ウィンドがドスの利いた声で、オレに言ってきたのだ。
「黙れ、小僧…………お前に何が分かる? 確かに「こんな少年」かも知れない。だがな? この小ぶりな両肩には……支えなくてはいけない、護らなくてはいけない家族(モノ)が圧し掛かっていたんだ。たとえソレが重かろうと、この少年は両足をグッと踏ん張り、闘い続けた。ソレを護ろうと必死になって、自分の恐怖心を抑えながら、ここに立った。それを……お前は出来るのか、グラスよ? その恐怖を知らずして、この勇敢な兵士に『憐れみ』の言葉なんぞ掛けるなっ! この兵士に失礼だ……」と。
 その後ウィンドは、一言も喋らず、グッと少年の亡骸を抱き寄せて、数十分の間、身動き一つ取らなかった。オレは警戒網を張り、他の兵士に気を配り続ける事にする。それは、ウィンドに対して、少年に対しての罪滅ぼしのつもりだった。
そして、ウィンドは動き出し、そっと少年を地面に寝転がせ、両手を胸の辺りで組む様にしてやる。少年の血に染まった上着を脱ぎ、少年の亡骸に掛けた。少年は、かなりの量の血を流したのだろう、ウィンドの着ていた上着の下のTシャツまで、血のりが染み込んでいた。
 その亡骸の頭を、まるで子供をあやす様に撫でてやると、ウィンドは立ち上がり、吐息を吐く様に零す。
「……いこう、グラス。こんな事、終わらせてやる」
 オレは一回だけ首を縦に振り、走りだすウィンドの後ろを追いかけた。その時……たった一瞬だがオレは、ウィンドの上着を掛けられた少年の亡骸を目で追った。
「……そうか、だからウィンドは、ずっと……」
 オレはウィンドの後ろを走りながら、驚きと納得の両方を交えた言葉を零していた。既に死後硬直が始まりつつある、心臓は完全に止まってしまった亡骸にあり得ない事が起きていたからだ。
それは、先程まで苦痛に歪んでいたはずの少年の顔が、柔らかい微笑みを携えている面持ちに変化していたのだ。しかも、幾らか赤みさえ帯びている。もし、この瞬間、その少年を見る者がいたならば、こう思った事だろう。
『ただ、眠っているだけ……』と――――。
それくらいに穏やかで安らいだ『死』に変わっていた。そう、ウィンドは、自らの体温を使って彼を弔って「あげた」のだ。「あげた」というのも、おこがましいくらい自然すぎる『抱擁』という弔い方。もしかすると、過去、古(いにしえ)の人々は、こうやって死者を見送ったのではないだろうか? 
戦場では死者に対し花を捧げる事はしない。何故なら、それが目印になり、近くに人がいる事を示唆してしまうからだ。だから亡くなった者は、その場で朽ち果てるしかない。それが戦場で闘う兵士の運命(さだめ)。しかし、その掟を覆し、最も無防備な状態に身を置き、最も危険な方法でウィンドは彼を弔った。それは、彼に対して最大限の敬意だったのだろう。
今思えば、それはESPによるモノなのかも知れない。だが、その時、オレの胸に去来したモノは……いつも冷静沈着で、それこそ『風』の様にクランケを遂行する『ウィンド』という人間は、実の所、奥深くに秘められた『人間性』と呼ばれるモノを隠してながら、沢山の苦しみや悲しみ、そして決意によって固められ形成されているモノなのだろう、というオレなんかでは推し量ることの出来ない瑣末な思考が過っただけだった。
 その後、ウィンドとオレは、ある組織に乗り込み。
結果、オレだけが此処(ここ)にいる――――。

 そんな事を思い出しながらも、決して、それを口にする事をオレはしない。
翼の件もそうだが、コイツの情報網は凄い。だが、いくらコイツの情報網が凄かろうと、それでも知りえない事があったっていいだろう。それを、みすみすコイツに露呈する必要はないのだ。少しくらい、オレにもプライバシーというものがある事を示しておいてやろう、そう思うのだ。そんなチャチな思考で優越感を得ようとしているオレは、軽く相槌を打つ。
「ふ~ん……そうか…………」
「おや? 思ったような反応は返ってきませんでしたね?」
 オレは目を細くして、零す様に嘆息交じりに訊いてみた。
「オレにどんな反応を求めているんだよ? 期待通りに応えられるほどのリアクションは取れないぞ?」
「いえ♪ 少々、感情が芽生えつつあったので、哀しそうな顔の一つでもするものか、と。しかしながら、キミはいつも通りだったので些か――――不満です」
「不満なのかよっ!? やっぱり『喰えない』よなぁ。別に大した事じゃないさ。お前が言っている事は間違っていない、そう思っただけだよ。確かに『神童 翼』は大きなトラウマを抱えて生きてきたのかも知れない。だけど、それって誰でも持っているモノだと思うんだ。誰だって心の中に『光』を持ち『闇』を持ち合わせる。それが『人間』だと思うようになれた。いうなれば、さっきお前が話していた「少年」も、そうやって生きてきたんだろ?」
 クスリと。
 妖しい光を携えた瞳と笑みがオレを見据える。
「あ~……アレ、良く出来たお話だったでしょう? 即興とはいえ、あそこまでちゃんとしたお話を造れるとはボク自身も驚きです♪ これは、とうとう小説家デビューしちゃいましょうかね、ダストネーム・グラス?」
 妖しげな光の瞳を、五秒ほどジトッと見つめ返したが、表情に変化は現れず、再度、嘆息してしまった。根負けしてしまった様だ。
「よく言うよな、ホントに……。まぁ、即興にしては、なかなかリアリティがあったよな? それが本当に――――即興――――であれば、の話だけど?」
「………………どういう意味でしょうか、ダストネーム・グラス?」
「どうもこうも無いさ。言葉通りの意味だ――――」
 そんな会話をしていると、目の前を歩く少女が「遅いですよ、お二人ともっ!」と、生意気にも催促してきたので、はぁ~っと溜息をつきながら、少女に歩み寄る事にする。すると、横にいる仲介人は、一緒に歩み寄りながら、ブツブツとオレに悪辣な言葉を投げかけてくるのだが、オレは、仲介人の珍しい一面を沢山見る事が出来た今日に感謝を込めながら、眼鏡男の眼鏡がズレるくらいバシバシと肩を叩いてやった。
いつものクランケ完遂の後とは違う感情を持ちながら、オレの横でユッタリと歩きながら、相変わらず文句を言っているコイツに目配せしてみる。すると、ちょっとだけホッとした様な面持ちで、前を嬉しそうに歩く少女を見ていた蝶番が居て。
オレは、軽く口端を持ち上げるのだった。でも、これは絶対に言わない。否、言えない。
何故って?
「今回、キミのせいで散々でしたから、前回の入金分より幾らか頂かないと割に合いません。
なので、明日中にボクの口座へ入金よろしくお願いしますね? う~ん、総額、幾らにしま
しょうか…………そうですねぇ、百万、で手を打ちましょう♪」
 と、言ってきたのだ。オレは勿論、必死になって、それを制止する。
「――――ッ! いやっ、ちょっと待て、それはちょっと待て! 早まるな、ミコトっ! そんなに生き急いじゃダメだってっ!」
 そんなオレの必死の説得虚しく、コイツときたら手を頭の後ろで組み、クスリと笑って、オレを更に深淵へと突き落としてきた。
「生き急いでいませんよ♪ むしろ、キミが『ダメダメ』だったわけですし? それが妥当でしょう。さぁ、グズグズ言わないで、とっとと歩きなさい♪」
「チックショ~! 不幸すぎるっ!」
 蝶番の言葉に頭を抱えていると…………。
「こら、グラスさんっ! 我儘言っちゃダメだよ♪」
 香澄も人差し指を突き立て、ケラケラと笑いながら、合いの手を下しやがった。
「グゥ~。アンタもコイツの味方かぁ!」 
オレを含む三人は、そんな他愛もない、いや、オレにとっては死活問題なのだが、そんなユルい会話をしながら、下で待つサポーターとクランケの元へ急ぐ。
そんな中でも、オレの中で芽生えつつある決意が声になって零れた。
「……アンタが『生きている』なら、必ず探し出すぞ……ウィンド」
口に含みながら独り言を呟くと、どこからか柔らかい春の南風が、オレの横を通り過ぎる。それに対し、軽く微笑んだ。
こうして、長い長い一日が終わりを告げ、ようやくオレは、二日ぶりになる、睡眠という欲求を貪る事が出来る、と、二人にバレないよう安堵の溜息をついたのだった――――。

そして――――。

「はぁ、はぁ、はぁ……」
 オレは、追われていた。真っ暗で細い細い路地裏を、無様に走っていた。
『誰』に追われている?
 分からない。
 とにかく逃げなくては、逃げなくては、逃げなくては……逃げなくてはっ!
 オレの思考は、それ以外に無い。
捕まったら…………。
 ずっと全力で走り続けていたから、息切れが激しい。ずっと逃げ続けているから、脇腹が痛い。滂沱と流れ落ちる汗が眼に入って、上手く開ける事が出来ない。
〈ガコンッ! ガラガラ……ズシャッ!〉
 どうやら、この横幅の無い空間に、所狭しと大きなポリバケツが置いてあった様だ。
 それにぶつかり、足を取られ、顔面から地面に素っ転んだ。頬がヒリヒリとしている。地面との摩擦で切った様だ。しかし、そんな事は関係ない。今は……。
「逃げなくては……」
「いや、逃げられない。お前は、もう既に――――」
「――――ッチ! だ、誰だ、お前は!? 一体、オレが何を――――えっ?」
 ポリバケツに入っていたゴミが広範囲に散らばり、悪臭が鼻につく。
 その異臭と暗闇のベールを抜けて舞い降りた月明かりが照らした『ソイツ』の顔は……。
「――――オレ!?」
 オレは驚いて立ち上がろうとするが、『ソイツ』オレの眼前に手を翳してきた。
 オレは恐くなり、顔を背ける。すると、耳元に声が拡がる。
「お前は逃げられない。この『呪縛』から、決して、な?」
〈ブシャッ!〉
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 両脚が太股の付根から千切れ落ちた。
〈ブチリッ!〉
「ぎゃぁぁぁぁぁ! いてぇぇぇぇぇぇ!」
 今度は両腕が肩から千切れ落ちた。
「やめろぉ! やめてくれぇ!」
 オレは泣き叫びながら、同じ顔をした『ソイツ』に懇願した。
 何を?
 分からない。
 激痛と恐怖の両方で、オレは泣き叫ぶ以外に出来なかった。
「やめろ? あんな事をしておきながら? どの口が言ってるんだい?」
〈ブシャッ!〉
「*W%$#!?」
 今度は、舌と唇が引き千切られた。
『あんな事』とは一体何なんだ? 
 分からない。
声も出せない、思いだせない、泣く事しか出来ない。恐怖で失禁だってしている。汗と涙と小便と血が混ざり合い、オレの体液が路地裏を濡らしていった。
 悲哀の眼をしていたのだろう、最後に『ソイツ』は、こう言ってきた。
「裏切り者には――『死』――あるのみ」
 
……………………

「うわぁぁぁ!」
 ガバリと。
オレは、眠りから覚醒した。びっしょりになっているシャツが、ヒヤリと身体を包んだ。
「…………また、あの『夢』、か……」
 汗だくで目覚めたオレは、どうやらベッドにも入らずに、いつの間にか床の上で寝ていた様だ。だからなのか、また、あの『夢』を視て、起きてしまった。
 寝ていると時々視る――『夢』――。
 それが過去のオレと、今のオレを、どう結び付けるのか分からないが、それでも、あの『夢』の恐怖は拭えず、その場でギュッと両肩を抱き締めて、身体の震えを止めようと努力する。
 そんな明け方に、オレの携帯がブルブルと震えていた。着信の名前をみると……。
「――――タイミングがいいのか、悪いのか、分からないな、ホントに」
 携帯には『ヘンジ』の名が出ていた。
ヘンジとは『蝶番』を『ちょうばん』と読み、更にそれを英語で訳すと『ヘンジ』になる。直接的に『ちょうつがい』名を使う訳にはいかないので、それで対応していた。
ちょうど、あの夜から二日経ち、身体が幾分マシになってきた所に蝶番からの連絡だ。何か重要な事があったのかと思い、電話を取ると、妙に明るい声が電話越しに届いてきた。それが少々、癪に障り、オレの蠢く気持ちの矛先を蝶番にぶつけてみる。
「おはようございます、ダストネーム・グラス♪ よく寝むれましたかね?」
「……寝れたが、身体が痛くて悪夢を視た。お前の所為だ、ミコト」
「そうですか、それはそれは……。今度、診療して差し上げます。何故なら、ボクは『心療内科』のお医者様ですからね? さて、それは置いておいて、ある方から昨日、依頼が来ました。キミを名指しで指名してこられたので、早速、今日の午後一時に、駅前の公園で合流してください。合流した後、ボクのオフィスに来て下されば大丈夫です。決して粗相のないよう、御配慮頼みますよ♪」
と。
言いたい事を言って、すぐにガチャン。それが蝶番流。しかし、今はソレで良い。じゃないと、先程の『夢』で取り乱していたオレを悟られてしまうかも知れないから。
 とりあえず、依頼相手は分かっていた。正直な話、クライアントからの直接依頼だったから断る事も出来たのだ。何故なら、蝶番の依頼は、あくまで『タロットを使って』選び出すモノだからだ。その選んだクランケをこなす事が、オレ達スイーパーの仕事な訳で、今回のクランケは別段、そう言う訳ではない。しかし、さすがに頬を叩いてしまったり、叱り付けたり、色々と無礼極まりない事ばかりしてきたので、無下には出来ず、オレは依頼を了承していたのだ。
 しかし。
「あの『夢』は、本当に、夢、なのか?」
 そんな愚問を口に零しながら、汗で濡れているシャツを脱ぎ捨て、外行きに着替える事にした。まだ翼に持っていかれた肋骨は折れたままだ。歩くたびにズキリとするので、腰に巻く用のコルセットを胸の辺りに付ける事にする。
 ピューッと、ヤカンの煙管が笛を吹いているので、火を止めて、ティーバッグを入れたカップに、今し方、沸騰したお湯を注ぎこむ。例の如く、そこにミルクを入れて……なのだが。それを一口に飲み込むと、ザックリした格好で現場へと向かった。
傷は昨日よりも幾分マシになっているので、特に薬局や病院に行く事もしない。考えてみると、オレは一年前から病院というモノに行った事が無い事に気付く。別段ソレを不思議と思わず、毎度毎度外へ翻すのだが、よくも、まぁ、大丈夫なモノだと感じる。
 兎にも角にも、現在、オレは指定された公園――――あの白パーカーこと『神童 翼』と初めてあったあの公園で、いつもニュースを聴く時に座る、ペンキの剥がれた茶色いベンチに腰掛け、日向ぼっこをしていた。
「ちょっと早かったか? まだ、昼前だもんなぁ」
 愚痴をこぼしつつ、まだ本調子じゃない身体を解す為、ググッと背もたれに背筋を押しつけてみる。が、ミシミシいっているこの背もたれじゃ、今いち効果は望めない気がしたので、身体を起こす事にした。すると、目の前に鳩の群れがクルッポーと囀りながら、コチラに向かってくる。
「悪いが、エサになる様なモンは持ってないぞ?」
 そう語りかけるが、鳩の群れは変わらず「クルッポー」と、オレの足元をウロウロしていた。
コイツラは鼻が利くのだろうか? 
首を傾げて群れを見つめる。実は、ここへ来る途中買ってきた菓子パンが懐に潜んでいたのだ。もし、それを察知して、オレの足元に集まって来ているのならば、『野性の嗅覚』というのは素晴らしきモノだと認識を改めねばならない。その感覚こそが、この間のESPクランケの一件から学んだ常識変換の一つだと認識している。
やはり、師匠である『ダストネーム・ウィンド』がESP使いであった事、これが大きくオレの心に作用していると思う。しかし、一番揺さぶられたのは、あの夜の数々起こった事象の影響が図らずもあると思う訳だ。それは不可思議なカードを扱い、不可思議な催眠誘導をし、不可思議な昏い過去を持つ、あの『眼鏡男』の扱っていた力の事。
オレは、あの日の夜、事が済んだ後、蝶番が別のサポーター『アンノウンネーム・グリーン』が運転するリムジンに乗り込もうとうした瞬間、ふと思いついた事を口にしていた。
 それは――――。
「なぁ、ミコト? お前って…………『ESP使い』だったのか?」と。
 すると、アイツは――――。
「そんなわけ無いでしょう? ボクは至って普通のピープルです♪ 言ったではないですか?
アレは『カード』の力です。カードに選ばれたモノであれば、誰にだって使えます」と。
そんな呆気らかんとした眼鏡男を『普通の人間』と、思えだなんて言う方がムリな気がするのだが、それでもコイツから、あのクランケだった『神童 翼』や、自称ESP使いの『ヴァイオレット』から感じる未知数なモノは感じないのは確かで……。しかし、それ以上にコイツは、異質なモノを放っているものだから、その感覚をオレ自身、信じていいものか甚だ疑問を持っている。
更には、あの少年の話。
アレについては『即興のお話』と、表向きはそういう事にしておいた。そうでもしないと、あの話をしている間に『ロスト・ワールド』を使われて、トランス状態にさせられて、記憶操作の一つでもされたら困るからだ。まぁ、それくらい、あの話題を振った時に放っていた、この男のオーラは、威圧的で強力なモノだったのだ。
もしかすると、今回のクライアント『遠霞 香澄』を、自身の妹と重ね合わせていたのかも知れない。そんな雰囲気を漂わせている時が何度かあったからだ。しかし、それを、オレが推し量る事では無いので口を噤んだ。
そう言えば……。
付け加えて、アイツは「ESPを使う者を、俗的に『パワーズ(能力者)』と呼んでいます。覚えておいてくださいね」などと。
またも、はぐらかされた様に思えた。
オレは、笑顔でリムジンのドアを閉める蝶番と、やはり名の通り『緑』であるサポーター・グリーンを交互に見て、静かに走り去る黒塗の車を見送った。
 結局の所、何も分からなかった、それが一番理解した事だった――――。


……………………

昼下がり、待ち人来ず――――。
とりあえず、指令通り「動きやすい格好」できたオレは、ちょうどこんな春先の暖かい日なら良いだろうと、白いTシャツにジーンズを着て、髪の毛はいつものように後ろで一つ結びにしながら、それが引っ掛からない様にキャップを深めに被っていた。
いつもの公園で、いつもの昼下がりをエンジョイしている親子連れが目立つ巨大公園。
オレにとっては曰くつきの公園である事は確かだが、それでも、ここを大切にしている人達も少なくないのだという事を理解する。そんな中、オレは、相変わらずクルッポーを連呼する彼らと日向ぼっこをしていた。
ある意味、コイツラとオレは同じなんだ、そう思うと、思わず笑みが零れてしまう。
「いかん、いかん……こんな姿、ヤツラに見せたら何を言われるか分かったもんじゃない」
自分の変化と共に、周りの認識が変わる事を恐れているオレ。
それは、香澄が『ESP前』の翼と『ESP後』の翼への認識が、明らかに違うモノだったからだろう。オレは、あくまで『今(オレ)』でしか無いのだが、それでも、進化したが故の変化と、『記憶喪失(いま)のオレ』と『記録内(かこ)のオレ』がぶつかって、後者が勝った時の変化の二種類があったとしたら、この両方の変化の違いは一体何なのだろうと、ここ数日間、ずっとこの疑問が胸の中で蠢いていて、答えを探す為、自問自答していた。
更に今朝方視た、あの『夢』――――それらを重ねてしまったのかもしれない、この『生きている』のか『生かされている』のか、どちらの選択をしたのか分からない鳩等(かれら)を見ていて。だから「らしく」なく、悲観的で無駄な想像を繰り広げてしまったのだろうか。

「出来れば、今のオレは『仮初め』で有りませんように…………」

心の声を払拭するかの様に、懐から菓子パンを取り出そうとする。それを視ていた何匹かの鳩が、ピクリと動いた事をオレは見逃さない。ちょっとソレが面白く、今は待っているだけで何もする事は無いので、鳩と『出すか、出させるか』の心理戦を繰り広げてみた。そんな惚けた、でも、混沌とした昼下がりを過ごしていると、遠くの方からテトテトと小走りしている足音が耳に届く。
「お出ましか……?」
 足音が聴こえた方に顔を向ける事なく、オレはのんびりと鳩を見つめていた。
鳩は円らな瞳でオレを見返してくる。
その鳩の眼(まなこ)の中には、今のオレが居て。
それを見てホッとしているオレは、確実に感性、感覚が変化してきている事を分かっていても、認める事が出来ずにいて。
それでも、やはり『オレ』は、『今(オレ)』のままでいたい…………。
その答えを持っている者が、経った今、小刻みに足音を立てて近づいてきていた。
「グ~ラ~ス~さぁ~んっ!」
 バサバサバサと。
 突然、群れの中に飛び込んできた少女に驚いて、鳩達が一斉に透き通るような青の空に向かって羽ばたいてしまった。折角、心理戦を楽しんでいたのに、と少々肩を落としながら、オレは冷めた瞳で時計に目を配る。
「五分遅刻……それに、その名を大声で呼ぶな。色々と問題だ」
「そ、そうだったっ! ごめんなさいっ!」
 いつもの様に低頭する香澄だが、こんな昼下がりに、こんな公園で、こんな若い女の子が、こんなヤツに深々と頭を下げているシチュエーションは、正直、頂けない。目立つにも程があると思い、オレは香澄に頭を上げるよう促す。すると香澄は……今日の事だけじゃ無くて、と切りだしてきたのだ。オレは、彼女が何を言わんとしているのか分からなかったので、シレッとした態度を取り、それに応じる。
「何の事だ?」
「……この前の、夜の事、です……」
「あぁ~、アレか? 別にアンタが気にする事じゃ――――」
 伏せ気味だった顔を上げた香澄は、とても険しい表情になっていて。オレの声に被せて、高い声色を重ねてきた。
「違うのっ! 気にするとかじゃなくて、その……グラスさんの言ってた事、本当にその通りだなって思って……私、自分の事ばかりで、実は人の事を考えて無かったんだって思ったの。だから――――」
 今度はオレが、それに重ねて言葉を紡ぐ。
「そうじゃない。あれは単に、オレが『言いたかった事』であって、アンタに『伝えたかった事』じゃない。むしろアンタは、自分を蔑(ないがし)ろにして、人に気を遣い過ぎているくらいだ。それをされて喜ぶヤツと、そうじゃないヤツがいる……それだけの話だったんだよ。だから、そんなに深く考えるな。逆に悪かったな、余計な気を遣わせて……」
「ううん。ありがとう、グラスさん。私の事、色々と考えてくれて……とても嬉しいです!」
「そ、そうか……? なら……いいけど」
 また出てしまった、この少女の必殺技。名づけるなら『笑顔返し』か? ハッキリ言って、卑怯だ。ここまで『悪意』の無い笑顔を向けられては、なんて返したらいいか分からなくなる。これはオレだけではなく、他のヤツにも言えるのではなかろうか? 
時として『純粋』なモノは『悪意』にも勝るほど『性質が悪い』事がある。それこそ『純粋な正義』もあれば『純粋な悪意』もあるのだ。どちらも『純粋』が故に偏ってしまう。片方から観たら、どちらも正義で、どちらも悪なのだ。
だからこそ、この純粋無垢な少女を、コチラ側の世界に踏み込ませてはいけない。
それは、今まで暗黙で造られた『黒き円』というオレ達の中に、一粒の『白い点』を入れるのと同じなのだ。しかも、それはガン細胞の様に、黒き円を侵食し、白き円に変えていこうと働く。そういうモノの事を、この世の中では『反対勢力』や『抑止』などと呼んでいる。が、もっと厳密に言うと、この純粋無垢な白は、最終的に黒を喰い破ると、自分も生存出来なくなってしまう事に気付く。何故なら、反対に位置するモノが無くなってしまうからだ。黒の反対に位置していたから、白は白として成り立っていた。しかし、黒が居なくなれば、白でいる理由が無くなる。そうなると、自分は何色でも構わなくなってしまうのだ。
そこで、白が取る大概な行動パターンとは――『自らの消滅』――だそうだ。
例の如く、蝶番からの受け売りだが、それでも分かる気がする。漸く自分の存在価値を探し始めた『今(オレ)』だからこそ、なのかも知れない。
話が前後するが、こうやって自らも滅ぼす反対勢力の事を、蝶番は『反物質(アンチメーター)』とも言っていた。
 それはさておき、そんな究極とも言える彼女の必殺技を出されたオレは、その場に居た堪れずベンチから立ち上がるが、彼女は先のオレの話なぞ全く聞いていない様子で、嬉々として笑っているではないか。その行動が些か理解出来ず、オレは問いかける。
「なぁ、アンタ、なんで、そんなに嬉しそうなんだ?」
「えっ!? だって……グラスさんに、ちゃんと謝れたし。それになんかグラスさんと、またデート! って思ったら楽しみでっ!」
 などと、まぁ、よく言ったものだ。本日は、全く持ってそんなピンク色な予定は一つも無く。むしろ、この少女の格好は、どこかにスポーツしに行く様な、上半身はピンクのラインの入っている鼠色のジャージに、柔らかい素材のチノパンでスニーカー。決して、話題に出ていた様な所に行く様相では無い。
それに――――。
「アンタには、ちゃんと連れ合いが居るって言うのに……」
 少し呆れた雰囲気を醸し出す為、横を向きながら、軽く咳払いと溜息混じりに呟きつつ、前を譲歩する気も無く、元気に行進し始めた少女に、ちょっと早く歩くぞ? と促し、オレは歩き出す。
「はいっ!」
と、言って、オレの横に並ぶ香澄。
チョコチョコと動く急ぎ足の少女を見ると、やはりどこか心を和んだ。
 昼下がりの公園を出ると、ちょっと遅いお昼を食しようと、スーツ姿がチラホラと目に飛び込んできた。その慌ただしい状況を傍観していると、隣の少女が訊き忘れてしまっていた振ってもいない話題を話し始める。
「あのね、グラスさん? 翼の事なんだけど……」
「あぁ、どうだった? 精密検査の結果は――――」
「うん……。身体の衰弱が激しくて、少しの間、自宅療養しなさいって。でも、一番は辛いのは「二カ月間の記憶が『ゴッソリ』抜け落ちている事」だって翼が言ってた。それって、どういう――――」
 その件に関しては、オレが推し量る所では無い。仲介人蝶番が施したのだ。アイツの考えがあっての事だろう。しかしながら、オレとしては、その空白の二カ月間が気になって仕方がなかった。勿論、理由は、翼が言っていた――――「ウィンドさんに教えてもらった」との言葉の答えが訊けずに終わってしまったからだ。丁度、ウィンドが居なくなった時と、翼の証言が同刻を踏んでしまっていて。気になるが、それでも十分収穫はあったのだ。どんな形であれ、ウィンドが生きている事が分かったのだから……。
「ねぇ、聞いてる? グラスさんっ?」
「あ……あぁ。すまない、考え事していた。で、なんだ?」
「もうっ! いいよ、大したことじゃないし……それより、ちゃんと、お腹減らしてきたでしょうね?」
 横にいる少女が、やけにオーバーなリアクションで落胆の様子をオレにぶつけてくる。対応に困っているオレに、ブツブツと文句を言う少女の手には、右手にピンクのエコバック、左手には心なしか重そうなクーラーバックがあったので、とりあえずクーラーバックの方を持ってやる事にした。
オレという職業の人間を相手取って、あからさまな態度を示してくるこの少女は、多分、オレなんかよりも遥かに広い懐を持っているのだろう。と、思ってもみるのだが、やはり最近の若い子は、今一、理解し難い種族である事を脳内で再確認してみたり。
 オレは辿りつく前に、もう一度、依頼と報酬の内容を尋ねる事にした。
「なぁ、本当にこんな依頼でいいのか? 多分、未だかつて居ないんじゃないのかと思うぞ、こんなクライアント? しかも報酬が『それ』だろ? なんで、こんな話になったのか、オレには理解出来ないんだが……」
 そう言って、クーラーバックに指差すオレ。それを、また笑顔で返す香澄。
「いいじゃない、別に♪ それで二人も納得してくれた訳だし? 月に一日くらい、お付き合い願いますよ~♪」
「はぁ~、しょうがない、クライアント様からの直接交渉だ。それに従うがオレ達――――」
「スイーパーでしょ? でも私は、グラスさんの事、スイーパーだからって別に気にならないけどね? あ、後で翼も来るって言ってたから、宜しくね? さぁ、行こう行こう行こう!」
 グイグイ腕を引っ張られて。もうダルンダルンで歩いているオレの首は右に左に振られて、あのみすぼらしい雑居ビルの入り口に着くころには、車酔いした気分になっていた。
だけど、上を向けば、丁度、オレ達の頭上で『お天斗様』が天辺を示していて。それが気持ちよくて空を仰ぐと、飛行機雲が一筋、空に白線を引いていたのが、とても目に眩しく、とても心地良く、とても美しく見えた。
それは、目の前にいる少女が、本当の笑顔で笑った時と同じ様に。だから、あの『夢』の事やオレが何者なのか、などの瑣末な事、野暮な事は今日くらい無しにしておこう、折角の笑顔を曇らせたくないから――――。

 ……………………

「でも――――」
 と。
 突然、振りも無く蝶番が喋り出す。
ようやくクランケ完遂をやり切り、いつもなら絶対に座ることのない、このみすぼらしいオフィスの冷たい床面に座しながら、一息付くための紅茶を楽しんでいる所に出て来た言葉。
一体、何に対しての「でも」なのか分からないのだが、そんな事はお構いなしの様だ。まぁ、いつもの事だから、オレは気にしないが、多分、眼鏡の仲介人様には、今回のクランケ完遂の意味は難解難入(なんげなんにゅう)で合っただろう事は、この妙に疲れている顔を見ていれば良く分かる。しかしながら、こちらに居わす『クライアント』様に取っては、それはそれは嬉しかったようで……。
さておき、あの翼との対決の夜、彼女がオレ達に提案してきた、オレと蝶番が驚愕の声を上げた報酬とは――――。
 
みずぼらしいオフィスに到着した瞬間、こんにちは♪ と言ってきた蝶番の顔を見て、ニヤニヤしながらデスクに向かうクライアント様。そして、早々にバサバサとエコバックを逆さまにして、色々なアイテムを取りだしたのだ。
 仲介人は、そのグッズを初めて見るらしく、興味津々に更にはマジマジと手に取っていた。その姿を見ただけでも、この二人は、どこか息が合うのかもしれない、などと苦笑してみる。
オレは、その光景を見つめながらも、さすがにこんな姿を見られてはマズイと、ドアに掛っている『診療中』の札を『休診中』に掛け直して、カギをガッチリ閉める。
いつもなら開く事の無い窓がバカンと開かれ、クライアントの指示により、オレと蝶番の頭には俗に言う『ホッカムリ』と、身体には『割烹着』なる白い白布を着せられて。先っぽに毛の付いた棒、それに水のタップリ入ったバケツ、更に「これが秘密兵器っ!」と取り出したるは、吸水性抜群のマイクロファイバー仕様のゾウキン。
はい、クライアント遠霞 香澄からの『依頼、及び報酬』とは。
「もし良ければ――――あの部屋のお掃除――――をしたいっ!」
だったのだ。要するに、彼女は報酬金が無くなった事は嬉しいと言うのだが、しかし、それだと余りにも気が引けるので、その報酬金の代わりに、このオフィスの掃除をしたい、と提案してきたのだ。それは彼女の好意だから受け取るとしても、それに拍車を掛けて、更にとんでもない事を言ってきたのだ。それは、今回のクランケ完遂が出来なかった事を『本当』の意味でチャラにしたいのなら…………。
「毎月一回だけ『大掃除の日』を作って?」
これが、この理解不能少女の新たなクランケ内容だった。しかも、その日は必ずオレも同行せねばならないという事なのだ。
もう何が何だか――――折角、コチラの世界に足を踏み込ませずに済む、そう思っていたのに、自らズカズカと上がり込んでくるバカがいるのだろうか? いや、目の前にいるのだけれども。確かに、オレも一年、ここに通ってはいるが、掃除なんぞしている所を見た事は一度たりとも無い。
蝶番はオレに対し『世界観を拡げてくれるクライアント』と、この少女の事を言っていたがまさに願ったり叶ったり……余分なオマケまで付いてきた。
冷静さを努めていても、燕尾服と白髪が白布に覆われて、あり得ない醜態をさらしているコイツの姿は『レア』過ぎで、そんな面白いモノが見れた事は、オレにとって最高の収穫だった。
サポーターのヴァイオレットが居ない所を見るに、よほど、この姿を見られたくなかったのだろうと、括っておいてやった。
なんとなく、そう思わないと可哀想な気がしたので。
と、まぁ、こんな感じで、今日がそのクランケ完遂の日になったわけだ。
 一通り部屋の埃を取り、本棚も机も床すらも全て水拭きをして、思いのほか汚れていたらしいこのオフィスは、どこかスッキリし、光の反射率が上がった様に思える。一個しか無い電灯すら、こんなに明るいのか、と感慨に耽ったくらいだ。
感嘆の声を上げていると、香澄がホッカムリを外しながら、タオルで顔の汗を拭いている。
「どう? スッキリしたでしょ♪ 思った通り、スッゴイ汚れていたモンねぇ~。たまには、お掃除しないとダメだよ、仲介人さん?」
「フム。これはこれは……本当にスゴイですね? ボクには掃除スキルなど無いモノでして。いや本当に感謝しています。ありがとうございます、遠霞様。御礼と言う訳ではないですが、後で面白いお話をしましょう♪」
 疲れていながらもクランケ完遂の為、嬉々とした瞳になり、やけにご機嫌な歌を口ずさみながら燕尾服の上から割烹着を着こなすコイツは、色々な意味で異色に見える。そして、香澄と軽く談話を交わし、最後の仕上げ掃除をこなす仲介人だった。
こうして、ようやく脱ぐ事を許された割烹着を雑に畳んで、先日より置きっぱなしになっているソファーに置いた。
このクランケには終了と共に、クライアント様の手作り軽食が付いてくる特典があり。オレは、からかい気味に「アンタ、飯なんて作れるのかよ?」などと、笑いながら訊いてしまったものだから、それに腹を立てたらしい香澄様は、妙な力を発揮し、今日は軽食どころの騒ぎじゃなくなってしまっている。予想を遥かに超える量と品ぞろえで、結局、デスクの上に置く訳にもいかないので、床面にレジャーシートを敷いて、車座になり食させて頂いた、と言う事なのだ。まぁ……美味かったのだが……。
そこに突如、埃まみれになっていた眼鏡を、レースの布で拭きながら呟いてきた一言が、先程のセリフだった。

アンティークチェアに深く腰掛け、手に持っていたボールペンをクルクルと回し、その切っ先を見つめながら滔々と。
「初めてにしては、よく頑張りましたよ、ダストネーム・グラス?」
「――――何がだよ?」
 香澄とオレは変わらず、床面に座していたため、やや見上げる感じで気だるく訊き返す。
「はぁ~、これだから、ボクはこうして海よりも深い溜息をつくのです。やはりキミの思考回路は、どこかショートしたようですねぇ」
 またもバカにしたリアクションの蝶番。それをクスクスと笑いながら見守る香澄。ちょっとだけ軽い冗談の威圧のつもりで香澄をジトッと見やると、そらぞらしく口笛なんて吹き、そっぽを向きやがった。
 オレは、そっぽを向いてしまった香澄を見やる代わりに、蝶番に目を配る。すると妙なニヤケ面でオレを見ているではないか。だからオレも香澄に倣い、そっぽを向き、ボソリと呟く。
「バカにしているなら、聴かないぞ……」
「まぁ、そう言わずに♪ ボクはですね、よくぞ『初ESPクランケ』で在りながらも、あのクランケ『神童 翼』と相対する事が出来た、それを褒め讃えているのです」
「ほぅ? 全く、そんな風に聴こえないのはオレの耳が悪いせいか? それとも、お前の言い方が悪いからなのか?」
「両方でしょう♪」
コイツは、やはり一度、息の根を止めておいた方がいいのではなかろうか、と胎の底から臓腑を持ちあげる程の憎悪が溢れ出そうになり。すると蝶番のヤツは、クルクル回していたボールペンをピタリと止めて、いつもの手を組むポーズでオレに向き合う。
目には妖しい光を携えて。
「あのクランケのESP……アレは、稀少的な『外的作用』でしたので、いいサンプルが取れました。キミは、あの力を『真空製造』と括っていたようですが、実は、若干違うのですよ。まぁ、あの状況では、そう考えても仕方ないでしょう。キミの今後のクランケ完遂の為、少々享受しておきましょうか。心してお聞きなさい、宜しいか?」
「イヤだ――と言っても喋るのだろう? それに、これはクライアント様も気になる所だろうし…………仕方ないが聴くさ。話せよ?」
 横目で香澄に視線を送ると、香澄はコクリと首を縦に振る。
「お願いします、仲介人さん」
それが合図となったのか、雄弁に率なく、しかしユックリと語りだした。
「では――――あの力は『水』に作用する、それは存知の通りです。しかし、そこには物凄い意図が隠されています。本来『水』を扱うESPは、純粋に『H2O』にしか作用しない。しかしながら、彼は空気中に浮かんでいる微量な水分に作用させてきた。勿論、冬など乾燥している時期には厳しいでしょうが……それでも微量なモノを扱うのは、非常に困難なのです」
 少々の無言が轟く。
この『間』を扱うのも、蝶番が『仲介人』としての技術の一つなのだろう。
「さて、ヴァイオレットの話では、空中の水分を急激に集めた時に発生する引力で、凝縮させた水玉のソレに酸素を取り込ませ、仮の『真空』状態を作り出す、という事でした。しかし、物理的に、そんな単純な作業では『真空』など造れやしないのです。何故なら、凝縮させた水玉の周りが瞬間的に『真空』状態になったとしても、水分中にある酸素と外気の酸素がぶつかってしまって、超高濃度の酸素が出来上がり、ちょっとした火花で炎上してしまいます。と、なると、石や金属類などの摩擦で火花が飛ぶ可能性のあるモノに、それを行えば、言わずもがな。起こり得ることは、明白の理。ですから、ボクの今回の力の考察を述べましょう。簡潔に言うと、これは『原子レベル』の作業です。原子に飛び散る『電子』を使って、中学生の授業でもやる『水の電気分解』を行う――――」
 蝶番の話している途中で、いきなり香澄が立ち上がって、ググっと前に乗り出してきた。
この分野は彼女にとって大好きなモノだから、質問応答したくて仕方ないのだろう。口を二度パクパクさせてから、遅れて声が飛んでくる。
「そっ! それってっ!? 空中の水元素にある電子を使って、密閉された一定空間でなく、外部で、しかも空中で電気分解を起こす、そう言う事ですかっ!?」
「さすがは物理学に精通されている遠霞様♪ その通りです。正解ついでに、一つ問題を……さて? 電気分解された水は、何に変化しますでしょうか?」
 なんだか変な雰囲気になってきた。全く話に着いていけないシチュエーション。完全に置いてけぼりだ。なるほど、さっき眼鏡男が言っていた「楽しい話」とは、この事だったのか。二人とも目が爛々として、顔には妙な笑みが張り付いている。
「水素と酸素に別けられますっ!」
「完璧ですね、遠霞様♪ どっかのダストネームに訊かせてやりたいものです」
 瞳が四つ、レーザービームでも出るのではないか? と思わせるくらい強力な光を放って、オレに向かって飛んでくる。オレはそれを躱す様に、床面からソファーに腰を掛け直した。
「訊いているよ。よく分からんけども」
「だ、そうです♪ そんなヤツは、ほっときましょう! では、続きを――――。さて、ダストネーム・グラス曰く、彼は『神童 翼』の攻撃を受けた時、鉄球がぶつかってきた、そう言っていましたね?」
「――――チッ! 突然、話を振るな。まぁ、確かに。アレはかなりの衝撃だった。後になってもダメージが取れなかったからな?」
振られた事もあったが、なんとなく癪だったので、オレは二人の会話に割り込んでやった。
解答権を取られた事がイヤだったのか、微妙な空気を漂わせている香澄だが、あえてオレはそれをシカトする。ダルさもあり、首をポキポキ鳴らしながら胡乱な瞳で蝶番を見やると、目があった瞬間、バンッとデスクを叩きながら、駅の車掌のような仕草で、オレに何度も何度も指差してきた。
「それですっ! ボクが疑問に思ったのはっ! 机上の話ですが、ヴァイオレットの言ったやり方でも『真空珠』程度ならば作り出せるでしょう。しかしっ! 真空珠にそんな鉄球レベルの『重さ』があるなどあり得ない。それこそブラックホール級の重力珠を造ったのならば分かりますが、それでも造った側にリスクがあり過ぎて使えないでしょう? では、何故、真空珠が鉄球レベルになったか? 分かりますか、遠霞様?」
「ムムムゥ~、なかなか難解な……ですが、今の理論だと、この場合、それを『重さ』として捉えるのではなく『圧力』として捉える方が良い、のかも知れないですよねっ!?」 
あぁ~……完全に、オレは蚊帳の外へと放りだされたようだ。
オレ自身、あの闘いの最中に、ある程度の理論は組み立てていた。だから、話の内容を些か理解は出来るが、正直、どうでもいい。もう勝手に話を進めてくれ、そんな想いで背もたれに肘を付き、気だるい態度を取っていたオレだが…………周りでは嬉々として、小難しい内容の言葉が飛び交っていて。疲れているオレからすると、こんな話は何のメリットも無い気分になってしまい、イライラし、足をトントン床に叩いていたら……。
「その足、うるさいですよ、ダストネーム・グラス!?」
ブチリと。
オレの脳内血管の切れる音が、耳の奥で響き渡り『いい加減、我慢の限界だっ!』と、堪忍袋の緒も一緒に切れた。
「あぁ~っ! ゴチャゴチャと…………もういいっ! 頭痛くなる! それに、ホラっ!」
 頭を抱えながら、髪をグシャグシャ掻き混ぜて、イライラを解消しようとしたが、それはムリなようだ。しかし、もう、この時間はお開きになる。ありがたい事に、蝶番の話し相手であった香澄を訪ねて、お客様がいらっしゃったようで。だから、オレは立ち上がり、ドアに向かい歩いて行く。
訝しげに小首を傾げる香澄と蝶番。二人は、その知性溢れるお話のお陰で、全く気付いていない様子だ。香澄は分かる。しかし、あの蝶番が熱中しすぎて気付かないとは……。
ある意味、あの蝶番を手玉に取る『末恐ろしい』少女である。
その気配に気づき、オレは背後にあるドアのカギを開けてやる。そして、またソファーに座り直すと、タイミング良くガチャリと。
たった今、初めて来る者に「ここは病院です」と言っても、決して信じられない的なリアクションを期待しながら、建付けの悪いドアが音を立てて開かれるのを待つ。
「あ、あのぉ? ここって……『蝶番』さんの病院ですか……?」
 ギギギとイヤな音を立てるドアから、物凄く神妙に入ってくる男が一人。
昨日のあの態度では考えられない程の警戒心で、ドアを開けて来た。オレとしては、それがあのふてぶてしい『アイツ』と同一人物とは思えなくて……。そのギャップに耐えきれず、ギリギリまで抑えていた笑いを、塞いでいた手の隙間から零してしまった。
「クッ……クフフ♪」
「あっ、翼っ! こっちこっちっ! ――――って、ちょっと、グラスさんっ!? キモイ笑い方止めてよ!?」
 デスクに腕を預けて、その手の甲に顎を乗せながら、眼鏡男と漫談していた香澄がクルリと背後のドアに向き直る。そして一言、オレに悪態を付いた後、入口の男に爽やかな笑顔を送って手を振っていた。
「あっ! 香澄ぃ~……いやぁ、ドキドキしたぁ~」
 そう呟きながら、余程精神力を消耗したのだろう、トボトボと近づいてくる男『神童 翼』は、先日の白パーカーではなく、今日は香澄と似通ったジャージを着用。勿論、下のジャージは七分丈。この二日間で伸びきっていた髪を切ったらしく、今は天辺がツンツンと、こげ茶の髪がワックスによって固められていた。
そんな嘆息気味に入ってきた翼に対し、蝶番は訝しげな態度を取っている。多分、今の「ドキドキした」という言葉の意味を理解出来なかったのだろう。その上、先日の事もあって警戒心をやや上げているようだ。その雰囲気をさり気無く感じとっているみたいで、翼が……。
「あ、あのぉ~…………」
 と、顔を下に向けながら、口を尖らせて、蝶番の距離を測っていた。で、蝶番と言えば、いつものポーズを取っている。
しかし、その二人の姿と言ったら♪ 
この間、屋上駐車場で現実離れした闘いを繰り広げた二人とは到底思えない。オレはとうとう堪え切れず、腹を抱えて笑いだしてしまった。
「ヒャッハッハ♪ 初めて来たヤツに取って、それはそれは緊張する所だろうよっ! ようこそ、おいで下さいました。ここが精神科医『蝶番 命』の診療室にございますっ!」
 翼には、世間体では『心療内科』で通っている『蝶番』ではあるが、あの夜の一件の後、更に誤魔化す為、香澄からアレヤコレヤとウソを塗りたくって貰い、一応は『行き付け』として通してもらっている。ちなみにオレは『助手』らしい。
「キミは、また……ボクが御紹介差し上げなくてはならないのに……。さて――ようこそ、おいで下さいました『神童 翼』様。本日『遠霞 香澄』様が、リハビリと兼ねて、御本人の希望で当院の清掃を行ってくださいました。心より感謝申し上げます」
「あ、はい。お役に立てましたでしょうか?」
 ギシリと。
 アンティークチェアに深く深く腰を預け、ニヤリと笑う蝶番。その姿を見ただけで、一般人なら少し後ずさると思う。そう思いきや、立ち止まっている翼は、オレの前を軽く会釈して通り過ぎ、蝶番の目の前にあるパイプ椅子に手を掛けて、断りを入れてスッと座したのだ。
それに倣い、香澄も一緒にパイプ椅子に腰を掛けた。それを見て、翼が真剣な面持ちで蝶番に尋ねてくる。
「あの、先生? 香澄は……妹は大丈夫なのでしょうか? 俺、二カ月間の記憶が無くて、その間、香澄はどう過ごしていたのか、どんな心境だったのか……覚えていなくて。もし、それで悪化していたとしたら、俺は香澄に何が出来るのでしょう? 教えて頂けますか、先生?」
 コイツは――――。
 自分の方が大変な状況にあるのに、それでも妹を……香澄を心配するらしい。
あのESPを手に『入れた』翼よりも、ESPを手に『入れよう』と努力した翼は、多分、こんな気持ちで香澄を思っていたんだと思う。言ってしまえば、コイツらは、ひたすらに『純粋』なんだろう。だけど、お互いがお互いをかばい合い、上手くいかない。
もっと自分を出せば、もっと自分を出せれば…………。
だがしかし、この二人の関係が義理とは言え『兄妹』だという事実。それが無ければ、違う人生を送っていたのかも知れない。しかし、ソレを考えた所で何が解決するわけじゃない。
結局、最後には二人で『選択する』しかないのだから。
まるでオレの心情を察したかのように、燕尾服の可笑しな医者は、ユッタリと安心感を与えるが如く、優しい声音を発する。
「大丈夫ですよ、神童様。もし悪化などしていたら、掃除はおろか、当院に通う事すら出来ません。それに……御記憶が無いかと思われますが、この二カ月間、遠霞様とアナタは、ずっと一緒に来られていたのですよ? 今日は御本人様の通院がある為、遅れてくるとお伺いしていましたが、このお掃除を御提案して下さったのも、神童様、アナタなのです。遠霞様のリハビリにも通ずるからと御提案を頂き、ボクはそれを了承した。そして、経った今、神童様が来られた時……遠霞様のお顔は曇っておられたでしょうか? とても良い御顔で笑っておられました。それだけで十分、回復されているかと思います。だから、まずはご自身の身体を案じておあげなさい。それが遠霞様の心に安心を与えます。今のアナタが遠霞様に出来る事で一番なのは『元気な笑顔を見せてあげる』それだけです。後は、どんな逆境が起こったとしても、お二人で話し合い、しっかり『選択』していけばいいのです。これからアナタ達には、たくさんの事が起こるでしょう。迷う事もあるでしょう。だが、そんな迷った時には、当院を思い出して下さい。出来る限り、御相談に乗りますので♪」
「せ、先生――――あ、ありがとう、ございますっ!」
 深々と頭を下げる翼。それに合わせて、香澄も一緒に頭を下げた。
顔は見えないが、多分、頬には雫が零れていたかも知れない。翼は、この二日間、そんな些細な事に悩んでいた。しかし、それは本人にとって、ひどく大きな事で…………。
人にとっては大した事が無くとも、その人にとっては大きな事。だから、それを軽んじる事をしてはならないのだ。
オレは、今回のクライアント『遠霞 香澄』、クランケ『神童 翼』、それに仲介人『蝶番 命』の三人を通じて『人間らしさ』というのを学んだ。もしかすると、この感情は『スイーパー』として必要無いと思うが……それでも案外心地が良い事を、オレは知ってしまったのだ。それも一つの経験であり、それがアダになって死んだとしても、それはそれで心地良いのかも知れない。だから、たくさんの事を学ばせてくれた三人に対して、そっと、バレない様に頭を下げてみる。しかし、それがバレると恥ずかしいので、すぐ頭を上げると、蝶番が指を差し示しながら……。
「あ、それとですね、神童様? 神童様が二日間、行方不明になってらっしゃった時、心配し過ぎて苦しんでいた遠霞様の気晴らしに、あそこでブスっとしている助手の草刈が、アミューズメントパークにお連れしていました。特に何もなく楽しんだようですので、ご安心を♪」
「おまっ! 余計な事をっ!」
 思わず反射的に立ち上がり反応してしまうオレは、振り返る翼の目から、何か刺さる様なモノを感じてしまったが、それは大したことは無い。その奥に居やがる眼鏡男の目の方が、明らかな悪意が籠っていたからだ。だが、蝶番の想いとは裏腹に、翼はヒョウっと軽いタッチで言葉を吐きだす。
「えぇ、存じています。その節は本当に香澄がお世話になりました。草刈さんの事は色々と聞いています。香澄は、アナタのお陰で一歩前に進む事が出来た、と言って感謝しています。多分、こんな性格だからハッキリ言ってこないでしょうけど…………」
 そう言って苦笑いする翼を、横から「そんな言い方はしてないっ!」と、バシバシ叩く香澄。 しかし……うん、オレに取っても大事な一歩だった。それが香澄に取っても大事な一歩になってくれていたのなら、それだけで十分だ。
 だから、心の中で呟いておこう。

――――『ありがとう』――――と。

「そうか、なら良かった。おいっ、カスミ? そらよっ!」
 オレはポケットから取り出した、何故かオレンジ色のタコのマスコットが付いている、携帯ストラップを香澄に向かって投げてやった。それを慌てて取ろうとして、アタフタしながら、何とかキャッチ出来た香澄が口を開く。
「えっ? なになに? ――――あ、これって、あのアミューズメントパークの……」
「あの時、何か記念になるモノがほしいって言ってただろう? だから、さっき買ってきた」
「そっか……ありがと、グラスさん。それに――初めて「香澄」って呼んでくれたね?」
 ヘヘヘ、と、ハニかんで笑う香澄。草刈で通していたのにコイツときたら……バッチリ「グラス」で呼んでしまっている。その辺は何とかなるが、当の本人は気付いていなかったらしい。まぁ、確かに気を失っていたわけだから、それは当り前の事なのだが……。しかし、それは、オレに取って好都合。やはり、気軽にクライアントの名前を連呼するのはどうかと思う。だからオレは、そうだったか? と惚けてみる。すると香澄は、そうだよっ! と語調を強めて指摘する。そんなオレと香澄のやり取りを、翼は笑いながら見守ってくれていた。
もう、安心だ。
これで彼女は、ちゃんと前に進めるだろう。
オレが居なくても、翼が横に居てくれるはずだから――――。
「おい、そろそろお二人さん、お帰りの時間じゃないのか? それに……これから診察が入っているんだよ。なぁ、ミコト先生?」
 足を組み直しながら首だけ蝶番に向けつつ、二人に帰宅を促すオレ。気付けば、もう四時前になっていた。何故、急に催促したかと言うと、事実、四時から予定が入っているのだ。オレも蝶番も……だから、オレの言葉に乗っかって、蝶番が言葉を繋げる。
「あぁ、もうこんなお時間なのですね? 申し訳ございません、遠霞様、神童様。四時より一件予約が入っておりまして…………。今日は本当にありがとうございました。あっ、あと神童様? 遠霞様の『お掃除リハビリ』は、月に一回実行したいと御本人の要望がございました。その時は、どうぞ、よしなになさってくださいませ」
 アンティークチェアから立ち上がり、白い髪をバサッと垂れ降ろしながら低頭する蝶番に、慌てて翼も頭を下げ返す。それを見ていると、本当にあんな昏く重い言葉のやり取りをしていた二人とは思えなくて。オレは遠くの景色を見る様に、そっと、その光景を見つめた。
その横でセッセと片づけをする香澄が、翼に隠しつつ片眼を瞑りながら、オレに向かって両手を合わせて来た。
読唇術を使える事を知っている為、淡い唇だけ動かしてきた。
『ごめんね、グラスさん! 本名言っちゃったっ! また来月』と。
 オレは軽く右手を上げて、了解の旨を無言で伝える。それを見て、白い歯を出しながら笑う香澄。そして、二人が蝶番に挨拶を交わして、ドアから出る時、オレは俯きつつ、最後に二人の未来を願い、香澄を見送る為の言葉を紡いだ。
「おい、カスミ?」
「はい、どうしたの?」
 クルっと身体ごとコチラに向く香澄。やはり律儀な子だと思う。だからオレも、香澄の目をしっかりと見つめ一言こう言った。
「負けるなよ?」
「はい、負けません!」
 香澄と翼、二人は再度会釈をし、そのまま出て行った。
 たった一瞬の対話。
それでも……オレは確信した。あの少女は、もう『負ける事』は無いだろうと。
オレには記憶が無いから分からないが、それでも青春の一部を、ほんの些細な欲望で切り取られてしまった少女。ほんの些細な行き違いで削り合ってしまった兄妹愛。それでも二人は、その、ほんの些細な出来事を一生忘れる事は無いのだと思う。
いくら過去を払拭出来たとしても、起きてしまった事実は『変える事』は出来やしない。だが、変える事は出来無くとも、人間はソレを『超える』事は出来るのだと思う。何故なら、それをやってのけた人間が目の前に居るからだ。
 そんな事を備に思って、人間について哲学しているそんな自分に嘆息していると、先程、閉じられたはずのドアが、また嫌な音を奏でながら開いて、見なれた紫色している奴が現れる。
 そっとドアを閉めると、そのドアを見つめながら……。
「何とも仲睦まじい雰囲気で……とても御兄妹とは思えませんわ。でも、これで宜しくて、ダストネーム・グラス?」
 こっちを向く気配はなく。オレは背中越しで、問いに問いを重ねてみる。
「――――何がだ、ヴァイオレット?」
「アナタは、この結果で満足しているのか、そう訊いているのよ?」
 フワリと。
 振り向いた瞬間、今日は帽子に隠れていない髪から、ほのかな香りが漂う。
丁度、掃除をし終わった後には、おあつらえ向きかも知れない。まぁ、そんな事より、コイツの言わんとしている事が理解出来ないオレは、ちょっとだけ話の主旨を変えてしまう。どうしても気になる事があったのだ。
「……そんな事より、あの屋上駐車場はどうなったんだ? あの日のニュースに出てくるかと思ったんだが、全くニュースになっていなかった。気になって現場を行ってみたら、どうだ? 全て元通りに戻っているじゃんか…………あれは、どう言う事なんだ?」
 やや困った顔をして、蝶番に顔を向けて確認を取るヴァイオレット。蝶番はニコリとしているだけで何も答えなかった。それを見て、更に困った顔をして、ヴァイオレット。
「あれは――――マスターが手を施して下さったので、ワタシには応えられないわ」
「ふ~ん。また、あのカードを使って元に戻したとか、か? ミコト?」
 振り向きざま尋ねてみると、いつもの手を組むポーズを取っている蝶番。
またも口元を見せずに話す姿は、あの『ロスト・ワールド』とか言う催眠誘導術を思い出させるので、少々戦慄を覚えてしまう。
「い~え? あれは、単にボクの知り合いの土建屋さんに頼んで、緊急施行をしてもらっただけですよ? 十時前だったら何も問題は無いでしょう?」
「あの時間で、しかも不法侵入レベルの行動力がある土建屋って、どんなヤツラだよ? そりゃ便利な方々がいるようで……お世話になりました。ありがとうございました」
 オレにとって、未だにコイツらは『喰えない』ヤツラで。深く詮索すると、アレコレ出てきそうだから、これ以上の質問は避けようと思い、気の無い返答をしたのだが、それがコイツには不愉快だったらしく…………。
「何です、その単調な言い方は? もっと感謝と尊敬、それに畏怖と神を崇める様な瞳で言って頂かないと、実感が湧きませんねぇ」
 と、ドSな発言をしてくる。元々こういうキャラだから、あまり気にせず、いつもの蝶番である事を脳内で再確認していると、ドアの前に立つヴァイオレットが、どうも『憐れみ』を含んだ目でコチラを伺っているのだ。だから、ちょっと尋ねてみる。
「なぁ、どうしたんだよ? それに「満足しているのか」って、どういう意味だ?」
「いえ、なんとなく、アナタの心境に変化が生じていた気がしたので――――」
 オレとヴァイオレットの会話に、背後から蝶番が静かな声色を零す。
「…………ヴァイオレット? それ以上の発言はボクが赦しませんよ? 自重なさい」
「――――はっ! 出過ぎた真似を致しました。申し訳ございません、マスター」
 頭を垂れるヴァイオレットの髪の毛が、バサリと下に落ちる。二人のやり取りに疑問を抱きながらも、何か心配をしてくれての発言であろうと、勝手な解釈をしてしまうオレだった。
何となくだが頭を下げている紫女を見ていると、オレのせいで謝っている様に感じたので、オレは、ちょっとした合いの手を入れる事にした。
「なぁ、ミコト? ヴァイオレットが何を言おうとしているのか、よく分からんけども、何か心配しての言葉だろ? そんな無碍にする事もないんじゃないのか?」
「キミは…………。ボクは、これからのクランケに支障をきたすかも知れないから、注意を促しているのです。現に、キミは『遠霞 香澄』という少女に触れたことで、かなりの変化が起こっています。自覚していますか?」
「……まぁ、そうだな。確かに変化している、そう感じなくも無い。だが、それをオレは気にしていないし、気にすることでも無いだろ?」
 今度は蝶番が憐れみの光を帯びて、オレを見つめてくる。
オレは、そんなに憐れまれる存在なのだろうか……。
「本当に『極楽とんぼ』なキミを羨ましく思いますよ。自分の気持ちに気付きながらも、それを何とも思わない楽観さ。しかし、それがキミの良い所なのかも知れませんね?」
「おいっ! ソレは褒めているのか、貶しているのか分からんぞ!? オレからしたら、お前らの方が『極楽とんぼ』な気がしてならんけどな」
「ちょっと、ダストネーム・グラス!? 今の発言、マスターを侮辱する意味が込められているなら、このワタシが許さないわよっ!?」
 今度は、ヴァイオレットが突っ込んでくる。
正直、隠し隠しの探り合いは面倒だ。別段、二人を侮辱するつもりはサラサラ無い。今回のクランケに関して……いや、それ以前からコイツらには世話になりっぱなしだ。それを貶すバカがどこにいる? 恩をあだで返すなんて事、オレには出来ない。だから否定するのだ。
「違うって。むしろ、オレはお前らに感謝してるんだ。路頭に迷っていたオレに仕事を与えてくれて。こんなオレ向きな仕事はなかなか無いだろうしな? それに…………まぁ、これは、いいか」
 二人に感謝の意を表明してみるが、やはりコイツらは『喰えない』ヤツらだと言う事を忘れてはならない。ちょっとでも緩みを見せると、そこをツンツン突っついて来るのが、コイツらだからだ。だから「それに」の後に告げようとしていた感謝の言葉を呑み込む事にしておく。
「クックック♪ 本当に素直じゃない子ですね、ダストネーム・グラス? こんなに肩入れしているスイーパーも居ませんよ。だからこそ、もっと自身の『存在価値』に気付いてもらいたいところなのですがね?」
「……存在、価値? オレの?」
 疑問形の言葉を投げかけるも、蝶番は今の事は何処吹く風やら、手元にあるファイルをパラパラめくりだし、そこに眼を落とす。その状態のまま、オレの問いに応える事なく、滔々と言葉を紡ぎ始めた。
「今回のクライアント『遠霞 香澄』様は……ボクが出会ったクライアントの中でも、本当に気持ちの良い方でした。その人間性に惹かれない人間は、やや感情の欠落した人間……例えば『記憶喪失』の人間などが、うって付けかと思っていました。だから、正直に言うと、初めにボクがお話した「世間を知ってもらう」事は、あくまで、お釣りだったのですよ。ですが、キミは、ボクの予想を遥かに凌駕してくれました。勿論、クランケ完遂の事もそうですが、それ以上に、ダストネーム・グラスに『人間味』というモノが存在していて、それを引き出してしまったクライアント『遠霞 香澄』とは、運命の糸が絡んでいる様に思う訳です。なので、ボクもヴァイオレットも心配なのです。キミが彼女に特別な感情を持たないか、どうか……」
「特別な感情? 何だ、ソレ? 今いち分からんけど、お前達がオレを心配してくれている事は良く分かった。それとカスミ、いや、クライアントの事を深く詮索するな、と言ったのは、お前なわけだし? オレは運命の糸がどうこう言われようとも、カスミがコチラの世界に足を踏み入れなければ、それが一番嬉しい。まぁ……なんていうか、本音を言えば、少し……淋しい気もするがな」
 そう言いながら、ちょっと遠い目で、先程、二人が出て行ったドアを見つめるオレ。
今頃、二人は楽しく会話を繰り広げながら、夕飯の買い物でも済ませ、夕焼けの道をユックリと歩いているのだろう。斜陽に照らされた二つの影が長く伸びていて、いつまでもいつまでも寄り添っているのだろう。
そんな二人に……いや、香澄に対し、一抹の淋しさを感じ、そんな思考を持ち合わせている自分が可笑しくて。思わず俯きながら、クスリと微笑んでしまう。
 それに何を感じたのか、青色白髪眼鏡がオレを茶化してきた。
「おやおや♪ ダストネーム・グラスともあろう者が――なんとも『切なさも消せやしない』雰囲気を醸し出して? そんなキミの姿を見られただけでも『遠霞』様には感謝せねばいけませんね♪ それに……変化があったと言う事は、それなりの収穫有り、と、観て宜しいのでしょう、キミに取っての収穫が……」
 いつの間にか、いつもの手を組むポーズを解いて、ギシリと背もたれに寄りかかっている蝶番。やや上向きに首を上げて、オレの返答を待っている様だ。
「そうだな、お前が思っている以上の収穫はあったと思うぞ。今回は、沢山の事を学ばせてもらった。それに、ウィンドが『生きている』と分かっただけでも十分だろ。あっ……ウィンドの事は当分訊くつもりはないからな、ミコト。オレはオレのやり方で探す」
 人差し指を上にしながら、オレはちょっと自信に満ちた面持ちで、二カッと笑った見せた。それに応じるが如く、蝶番もフッと笑い返してくる。
「そうですか? ならば、何も言いません。では――これから、どうするのですか?」
「そんな事、決まっているだろう? オレは仲介人『蝶番 命』のスイーパーだ。オレは、それを全うするだけ。だから――――」
 一つ大きく息を吸い込むオレは、蝶番を見据えて、こう言うのだ。
「なんか仕事はあるか、ミコト?」
 眼鏡の奥がキラリと光る。こう言えば、コイツは斜に構え、デスクに肘を付き、右掌を上に向けて、人差し指をスッと前に突きだしながら、不敵な笑みを浮かべる。
そして、例の如く、こう返答してくるのだ。

「……あるよ? ただし何を選ぶかは、キミ次第だけど……?」

こうしてオレは、夕闇に変わり、不夜城と化す街中に戻っていく。
たった今出て来た廃屋寸前のビルの三階からは、掃除の時、閉め忘れたらしい滅多に開く事の無い窓より、柔らかいピアノの旋律が零れ落ちて来る。多分、弾かれている楽器は、彼の趣味嗜好によるアンティークモノに違いない。
立ち止まっているオレの前を通り過ぎる人々も、その音律に振り向いたり、立ち止まって耳を澄ましたりしている。
「アイツ……労いのつもりか? クックック、しかも、曲がベートーヴェンの『月光』とは。オレ達スイーパーにお誂(あつら)え向きの選曲だな。ホント、アイツ『らしい』よ」
 一度だけ三階を見上げたが、オレは、その音と共にまた歩き出す。
スーツ姿と若者の人波を逆に歩き、どこかで起こっているらしい事件を解決するため、けたたましいサイレンを鳴らす緊急車両の音を遠くに聴きながら、ノラリクラリと歩いて行くのだ。
 ビルからの月光は、その喧騒の中に混ざり込んで空へと昇っていく。
天を仰げば、青と藍色、紫、黒と、空がグラデーションしていて。
もう沈み切りそうな太陽の残照を、雲がそっと受け取っていた。
その情景がとても美しくて、思わず道のど真ん中で立ち止まると、スーツの男の肩とオレの肩がぶつかり、一言文句を言われてしまう。
オレとしては失態かも知れないが、ちょっとくらい、いいじゃないか。だって、ほんの少しだけ首を上に向ければ、こんなネオンの煌びやかな不夜城の上にも、これだけの空が広がっている事に気づけるのだから――――。
「だから、ちょっとだけ……」
そう呟いて、人波を邪魔しながらでも、一人、太陽が沈み切るのを待っているオレ。
その時、ヒュッと一陣の風がオレの横を通り過ぎる。それはどこか、暖かく柔らかい香りと優しさを乗せていて……。不意にアミューズメントパークで、はしゃいでいた少女の笑顔を思い出させた。
そして、ユックリ目を降ろすと、前から仲睦まじく手をつなぐ若い男女が歩いてくる。
丁度、二人の進路にいるオレは、二人に道を譲る為、そっと横道に逸れた。
私怨、私恨の満ちたこのロクでもない世界でも、こんな穏やかな一風景を見せてくれた、あの二人を思い出しつつ、背中越しに「いつまでも末長く」そう呟いて……。
オレは歩き出す。
また、新たなクランケを、完遂する為に――――。

……………………

「クックック♪ 彼は本当に面白い男です、ヴァイオレット。今回引いたカードが『ジャッジメント(審判)』だとは……。ある意味、不幸を背負っているとしか思えない引き当て方です。やはり一年前、カードが表した『啓示』に、間違いは無かったようですよ、ヴァイオレット。あの日感じた不可思議なモノを信じて占った事が、まさかこんな形でボクを楽しませてくれるとは……クックック♪ さて――ダストネーム・グラス? キミの選択した『黒い鎖』――今回のクランケは、早々、簡単では無いですよ。クックック♪」

「お言葉ですが、マスター。宜しかったのですか? 『あの事』を、ダストネーム・グラスに伝えなくて?」

「……キミはESPを使う『パワーズ』である……を、ですか?」

「はい。あの動きは『内的作用』のESPである事は間違いない、と思われますが……」

「知っていますよ? あれだけの動き、あの治癒能力、それに『ヴァーチャル・スペース』が出来るのは、神経伝達物質が尋常じゃない証拠です。もし名づけるなら、そうですね――――『トランスミッター・ノン・オーダー(秩序なき伝達物質)』と言ったところでしょうか? ですが、それを教えた所で、彼はソレを使いこなす事など出来やしません。だって彼は、頭で動くよりも、身体で覚えていくタイプですし♪ 勿論、あのイメージ力は測り知れません。それでも彼は、まだまだヒヨコなのです。もう少し手助けの方をお願いします、ヴァイオレット」

「はい……了解いたしました。今回はマスターのお手を煩わせぬ様、尽力いたします」

「よろしくお願いします。しかし、彼の動向は、よく観察しておきなさい。アレを酷使し過ぎると、只でさえ脳に損傷を負っているのです、まともに脳が稼働してくれなくなるかも知れません。そうなると、今後に支障をきたし――『餌』――としての役目が果たせなくなってしまいます。そう言う事ですので、宜しいか?」

「ま、まさかっ!? 行方が分かったのですか、『あの男』の行方がっ!?」

「えぇ、まだ確定ではありませんが――やはり『あの男』の件には、ダストネーム・ウィンドが関わっている様です。それに……ハッキリ言えませんが、どうやら『神童 翼』も『あの男』の被検体になってしまった可能性があります。さしもの、あの力の使い方は、人成(な)らざるモノにしか使えません。よほど苦しい訓練を強いられた事でしょう。そこに関しては、お察しします……が、ボクが仲介人をやっているのは慈善事業では無く、『あの男と組織を殺す』為にやっている訳ですから。ウィンドという人材も惜しむ事などしませんよ」

「存じております、マスター。ダストネーム・グラスが、今回のESPクランケに関わったのは、やはり必然としか言いようが無いと思われます」

「そうですね。しかしながら、今回は、本当に良きサンプルが手に入りました。まさか、水のESPに、あの様な使い方があるとは……。『神童 翼』本人は気付いていませんでしたが。真空圧縮での物質破壊だけでなく、何かが触れた時、あらかじめ電気分解して分けておいた水素が瞬時に化学反応を起こし、小規模の核爆発に近いエネルギーを形成するなど、思いもよりませんでした。その結果、水のESPにも関わらず、地上で鉄球レベルまでのエネルギーを生み出す……。悔しい事ですが、まだ『あの男』の方が上手(うわて)の様です。早く、ボク達もレベルを上げないとなりませんね、ヴァイオレット?」

「はい、マスター。ワタシ達『アンノウン』は、マウターの仰せのままに……」

「だが――あと少しです。あと少しで『あの男』を、この手で――――。おっと、お喋りが過ぎました。そろそろ時間ですね? 席を外しなさい、ヴァイオレット」

「はい…………マスター」

〈…………ガチャリ…………〉

『あの…………ここが、お金を支払えば何でもやってくれる『仲介人』さんの居る診療所で、間違いないですか?』

「えぇ、間違いございません♪ お待ちしておりました。ボクが、ここの支配人、仲介人の『蝶番 命(ちょうつがい みこと)』でございます」

―――以後、お見知りおきを♪ ―――― 

死神タロット  ~仲介人 蝶番の企み~ 終り

死神タロット ~仲介人 蝶番の企み~

死神タロット ~仲介人 蝶番の企み~

  • 長編
更新日
登録日
2012-10-19