超短編集
2〜3分程で読める短編集です。一つ一つは独立しています。
十分間
眼球に異物が触れる奇妙な感触がして、私は反射でギュッと目を思い切り瞑った。
「あー…」
なんとも間抜けな声を出しながら洗面台の鏡を覗きこむ。そこに映る、目の下に黒いマスカラインクをべったりつけた、これまた間抜けな下着一枚の私の姿。
失敗。
少し苛立って、横に置いたティッシュを数枚毟るように取り、雑に目の下を擦る。
スマートフォンの画面に表示される時刻は六時十五分。
集合七時。
目的地まで電車で三十分、家から駅まで十分。
乗り換えを考えるとプラス五分。
遅刻だ。
頭の中でシュミレーションを終えると同時に考えるのをやめた。
まぁいいか。
早々に諦めた私はメッセージアプリで「遅れる」と素っ気ない文を送り、新しく取ったティッシュを水で濡らして、今度は丁寧に目の下を拭った。 急ぐからマスカラだって失敗するのだ。あいつは今更遅刻なんて怒らない。
もう一度ファンデーションとマスカラを塗り直して、今度は強く目を瞑らないように気をつけながら髪を整え、丸めたタイツに脚を通す。
まだ濡れたインクがまつ毛の上にある、少し重たい不快な感覚。タイツが素肌を覆っていく布地の感触。
今日の「私」が作られていく。
あぁ、なんて気色悪い。
あいつは数ヶ月前まで毎日同じ制服を着て、顔を突き合わせてたような奴だ。きっと今日も、安いファストファッションの店のTシャツとジーンズで待っているに違いない。何も変わらない。愛しい恋人なんかじゃなく、ただの友人、悪友。お互い何も気にしない。
それなのに、あいつを置き去りに、私は変わっていく。変わってしまった。
寝不足の顔を剥き出しのまま、指定ジャージのポケットに手を突っ込んで馬鹿みたいに笑いかけていた私はもういない。
綺麗に顔を整えて、かわいい洋服で着飾らないと会うことすらできない。
自分を良く見せたいんじゃない。
かわいいと思ってほしいんじゃない。
義務感。強迫観念。確固たる自分の意志。
もう、私は私でいられないのだ。
洋服を着終え、マスカラが乾いたのを確認し、口紅を塗る。はみ出したところをマスカラインクで黒く汚れたティッシュで拭う。
「私」が出来上がっていく。
ティッシュを咥えながら時間を確認する。
六時二十五分。
通知欄には「了解」という二文字だけ、いつも通りの素っ気ない返事。
私は少し微笑んで、インクの苦味がするティッシュを口から離し、丸めてゴミ箱に投げ入れた。
近所の犬
それはほんの気まぐれだった。
模試の関係で授業が早く終わった。
まだ午後三時半。いつも部活だとか、委員会だとかで夜八時近くにならないと家に帰れない私は、久々に一緒に住んでいる祖母とおやつを食べられる、と少しご機嫌だった。少し浮かれていた私は、ふといつもの通らない道を通って帰ろうと思い立ち、いつも真っ直ぐ行く道を右に曲がった。
思えば、高校に上がってからはこっちの道には殆ど来ていない。家から数分の道でも少し見ないだけで変に懐かしく思えるんだなぁなどと暢気にスクールバッグを振り回しながら歩く。
そのままぶらぶらとしていた私は少しの違和感を覚えて、ある家の前で歩みを止めた。
そういえば、犬の姿が無い。
この家は獰猛な大型犬を外の犬小屋で飼っていて、家の前でちょっと立ち止まるだとか、目が合うだとか、そんなことで全力で吠えてくる犬がいる。 小学生の頃この道が通学路だった私は、毎日大袈裟な程ビクビクしながらこの家の前を通っていた。 汚い毛布と新聞紙が敷かれた小屋の中で寝そべりながらこちらを睨んでくる様子は文字通り番犬のようだった、と思い出す。
散歩だろうか。
妙に気になってしまった私は、人通りが少ないのをいいことに、非常識にも近づいて門の奥を覗き込む。
昔と変わらない場所に置かれた犬小屋。その中に目をやると、空っぽだった。
汚い毛布も、いつのだか分からない新聞紙も、予備の首輪も、リードを掛けておく杭も、水や餌入れの皿も、何もかも、綺麗さっぱり無くなっていた。
死んだんだ。
あまりに単純で明快な結論。
何の感情も湧かなかった。
それも当然だ。親しい知り合いでもない飼い主に飼われている、いつも遠目で眺めてた犬が死んだ、ただそれだけのこと。しかし、私は何故か周りの気温がスッと下がったような、そんな寒気を感じた。
私は一つ気の抜けたくしゃみをすると徐に門から離れ、そのまま少し足早に家に向かった。
玄関を開けながら、少し声を張って「ただいま」と声をかけると、それを聞いて奥から出てきた祖母は、いつも通りの几帳面そうな顔で
「お煎餅あるから、荷物置いて手を洗っていらっしゃい」
とだけ言った。
私は扉を開けた姿勢のまま、祖母の顔を見つめると、無意識のうちに詰めていた息を大きく吐き出した。
夏の酒
「胸はやっぱり大きさじゃねぇ?」
「いや、大事なのは感度だろ」
夏の夜。頭の悪い会話が周りの喧騒に掻き消えていく。私は目の前で繰り広げられる会話を無視して、レモン汁がかかり過ぎた唐揚げを口の中へ放り込み、冷えたグラスの中身を煽った。 口の中で炭酸が弾ける。僅かに抜ける梅の香りに、私は小さく「薄…」と悪態を吐いた。
男二人、女二人。気の置けないいつもの面子。年頃の男女四人の酒の席。盛り上がるのは、下世話な噂話や猥談ばかり。意識の高い世間話なんて出てくるはずもなく。酒と熱気に煽られて、下品な会話は加速する。
「まぁ、こいつは貧乳だしなぁ。感度いいのか?」
そう言った私の目の前に座る奴の指差した先、私の隣でポテトフライに手をつけていた彼女は、ニヤニヤと笑う彼の言葉に「失礼な」と形だけの怒りを見せた。
本当、失礼極まりない。私ははっと笑いを零し、水滴でびっしょりと濡れたグラスを掴むと中身を口の中に流し込んだ。相変わらず殆ど水の味をした梅酒は、暑さで溶けた氷でますます味を薄める。
「どうだろうなぁ。まぁ、俺、こいつの身体はタイプじゃないんだけど」
先の言葉に反応した斜め前の彼は、私と同じようにはっと笑い、グラスに口をつける。隣の彼女は「私だって、もっと背高い方が好きなんだから」と律儀に言い返し、唐揚げを豪快に頬張る。
色気なく肉に齧り付く彼女の頬は赤い。酒に強くない彼女はもう酔ったらしい。しかし、私の目にはその赤い顔が違うように見えて、思わず目を逸らした。どうやら私も浮ついているようだ。誤魔化しとばかりに皿に伸ばした箸が空を切り、テーブルにある皿がほぼ空になったと気付く。
目の前で恋人の営みを明け透けに語る男たちに無断で、近くにいた店員に水を人数分と適当な料理を注文する。
会話は止まらない。
彼女はもう、自分たちの営みが次々に暴露されていくことに突っ込むのをやめたらしい。メニューを眺めながら、残ったポテトフライの残骸をひたすら口に運んでいる。
酒の力で暴かれるのは、私の知らない彼女の一面か、それとも彼女の本性か。
「友人」としてではない、ひとりの「女」としての彼女が丸裸になっていく。
私は聞こえる会話を遮断するように、グラスの四分の一程までに減り、ぬるくなった梅酒を一気に煽り、目を見開いた。
嫌に味が薄かったのは、氷で薄められたのではなく、グラスの底に酒が溜まったままだったかららしい。一気に口の中に広がるアルコールに私は顔を顰めつつ、なんとか嚥下する。
あぁ、あつい。
人の熱気で上がっていく店内の温度が。
アルコールが通ったばかりの喉の奥が。
酒のせいだけではない、高められた体温が。
この空気を、熱を冷ましてくれ。
そんな私の心の声に呼応したかのように怠そうなアルバイト店員がやってきて、「水お持ちしました」という台詞とともに氷水の入ったグラスが乱雑にテーブルに置かれた。
解放
内臓が何か重い物でじわじわと押し潰されていくような鈍痛。自分の意思に反して溢れ出す血液。朦朧とする意識。起き上がることを忘れた私の身体は、布団の上に突っ伏したまま沈んでいく。
「う"ーー……」
どうにか苦しみを紛らわせたいと足掻く私は、呻き声を出しながら目を固く瞑る。いつもより体温は高いように感じるのに、いくら着込んでも冷えたままの下腹部を手で摩る。もう今日は何もする気が起きず、なんとか申し訳なさそうな声を出してバイト先に欠勤の連絡を入れると、無意味にベッドの上を転がり続けた。
「ちょっと、今日夕飯何食べたいのー?」
どれ程時間が経ったのか、いつの間にか帰ってきていたらしい母が扉越しに声をかけてきた。起き上がる気力すら無いのだから、当然食欲も無い。私はぶっきらぼうに「なんでもいい」と答えると、母は「なんでもいいが一番困るのよ」と文句を言いながら部屋の扉を開け、不機嫌そうな顔を覗かせた。
「あんた一日中布団に寝っ転がってないで、ちょっとくらい勉強でもしたら?」
始まる小言。私は拒絶するように布団を頭から被る。
煩いなぁ。頭に響くからその高い声で喚かないで。私の態度を見てますます声を荒げる母をどうにか黙らせようと、「生理」とだけ呟くと、母は小言をやめ、大きくため息を吐いた。
「薬は?」
「飲んでない」
「なんで?」
「効かなくなるから」
「靴下は?」
「履いてない」
「じゃあ今日鍋でいいわね?」
「うん」
すっかり慣れた様子の母の質問に布団を被ったまま答える。もう一度ため息を吐いた母は、少し柔らかい口調で「足先冷やすと余計痛くなるよ」と細かな気遣いを口にする。その言葉に私は目だけ布団から出して母の方を見やり、言葉にならない声で返事をする。
すると、そんな私の姿が面白かったのか、母はふっと笑いながら
「まぁ、母さんはもう生理こないから」
と呟いた。
その悪戯っ子のようで、どこか開放感のある笑顔が何故か目に焼き付いた。母の言葉と表情が霞んだ頭の中をぐるぐる回る。しかし腹痛はそこからの思考を容赦なく邪魔する。内側から蹴られているかのような酷い痛みを下腹部に感じて早々に答えを出すのを諦めた私は、
「そりゃ羨ましいね」
と一言、同じように笑いながら返した。
春の朝
意識が浮上する。
途端に暑さを感じて、自分の身体を覆っていた毛布を蹴り飛ばす。光が差す狭い部屋にばっと埃が舞って鼻を刺激した。
起き上がりながらくしゃみを一つ。ズビっとマヌケに鼻を鳴らして、枕の元へ逆戻り。
顔の側で充電ケーブルに繋がっていたスマートフォンを手に取って、画面を告げる。見慣れた青地に鳥のマーク。
光る画面の中、顔の見えない誰かが思い思いに何らかの言葉を発信している。それらに反応を返すでもなく画面を眺めるだけの、自堕落な時間が過ぎていく。
暖かな布の感触と音のない静かな空間。いつもと変わらない春の朝といつもと少し違う自分。
何に触発されたかぼんやりと火が灯った私は、剥き出しになった腹を労わるように手を置いた。
大の字に寝転んだまま、鳩尾を撫で、臍を擽り、右手は下へ下へと降りていく。そのまま、まるで何かを抉じ開けるかのように肌と下着の間に右手を滑らした。
無意識のうちに止めていた息を細く長く吐き出す。
午前十時半。両親はとっくに仕事に行っている。
家には誰もいない筈なのに何処かから見られているような感覚が、息を詰めさせる反面、言いようのない興奮を覚えてカチリとスイッチが切り替わる。
下生えを指で遊ぶように弄り、更に下へとゆっくりと手を伸ばした。
きちんと風呂で清めたそこはじんわりと濡れていて、人間の身体の単純さを物語る。
昨日あったかどうか分からない膜を失ったばかりの身体は、今日も今日とてあっさりと熱を上げていく。
内側からじわじわと溢れ出す粘液を指で掬い、小さな肉芽に触れる。ピリッとした感覚が走り抜け、思わずあふれた吐息が部屋に響いた。
なんだか堪らない気分になって、蹴飛ばした毛布を脚で寄せて掛け直す。
その更に奥、ぽっかりと空いた穴を指を挿し入れてみるが、異物のある違和感が勝り、あっさりと諦めた。
たかだか指一本なのになぁ、と身も蓋もないことを考えながら、一つ、ふっと笑いを零す。
布団の中で蒸れて焦れた身体は早々に直接的な快感を追いかけたくなり、正直に手前の神経の芽を擦り始める。
下品に脚を広げながら快楽を追いかける様はとても人に見せられたものではなく、脳の隅に残った冷静な自分が「はしたない」と嘲笑う。
熱は留まることを知らないかの如く上がっていき、いよいよ理性と本能のバランスが崩れたその時、稲妻が走ったように身体が強張り、爪先がピンと伸びた。
数秒。
ようやく弛緩した身体と共に、ゆっくりと息を吐き出す。
気怠さをそのままに顔の横に手を伸ばしてティッシュを数枚取り、指を拭うとゴミ箱のある方に放り投げる。ちゃんと入ったかは確認せず、そのまま腕の力を抜いてマットレスの上に落とした。
頭の横に放置されていたスマートフォンがポコンと音を立てる。ゴロンと頭を横にやりながら通知を見ると、インターネット上の知り合いからのメッセージだった。
いつものようにふざけた言葉を投げかける相手は、私の変化も、こんな朝から馬鹿げたことをしていることも、何も知らないのだ。
妙に愉快な気分だ。
自嘲なのか、悪戯が成功した時のそれなのか、自分でもよくわからない笑みを浮かべながら、私は再びスマートフォンを持ち直した。
にんにく味の
「あ、これ美味しい」
騒がしいとも静かとも言い難い、丁度良く音が溢れた空間に素朴な呟きが一つ落ちた。
強かそうな女店主が営む街角の小さな居酒屋の、メニューに「おススメ」とデカデカ書かれたこの料理は「アヒージョ」と言うらしかった。パチパチと音を立てる熱い油の中に、魚介や野菜などの具材が沈んでいる。
ちなみに、俺は先程迂闊に口に入れてしまい、舌をちょっと火傷した。
目の前に座って熱い具材をふうふうと冷ましながら口に運んでいる彼女は、独り言に近い感想を零したきり、テーブル上の料理に夢中だった。
高校時代部活の同期だった彼女は若干派手な見た目になっていたものの、相変わらずマイペースだった。酒が入ってもかつてとあまり変わらない穏やかな時間が流れていく。
しかし、店に入る前から空腹を訴えていた彼女は、口に食べ物を運ぶ手を緩めようとしない。完全に視界から外された俺は、自分の食料を確保するべく負けじと箸を動かしていた。
沈黙。途切れる会話。箸と食器が擦れる音。店主が串カツを揚げる音。二階ではサラリーマン達が宴会をしているらしい、ワッという歓声。
環境音がやけに耳につく。しきりに音を立てていた油は、少しずつ静かになり始めていた。
空腹が解消されるにつれ、段々と沈黙が気まずくなってくる。彼女は変わらず皿に夢中だ。口紅が落ちることも気にせずに、油の池からイカを掬い上げ、口に運んでいく。そういえばこいつ、食べる時は無口になるタイプだったな。
俺は少し働くようになった頭で、何か話題はないか考えていた。
今大学では何をやっているのか?バイトはどうだ?観てるドラマはあるか?
以前までは当たり前のようにできた話題が、どこか気恥ずかしい。
変な興味があると思われないだろうか。余計なことばかり頭を駆け巡り、実際に口に出すことはなかった。
沈黙が辛い。唇を油で光らせる彼女を、恨めしげな目で見る。そろそろ空腹もマシになっただろ。
不満を流し込むように、水滴で濡れたジョッキを持ち、ハイボールを流し込む。ゴンと音を立ててジョッキを置くと同時に、口に箸を咥えたままの彼女がバッと顔を上げた。
「……あ、にんにく食べちゃった」
唐突なその言葉につられて皿の中に目をやると、大きめに切られたにんにくがあることに気付く。
まぁ、美味いだろうな。
一瞬しまった、という顔をした彼女は、ふと俺の顔を見つめて
「まぁ……お前ならいいか」
と零した。
静寂。
ワンテンポ遅れて、脚に死球が掠ったような、強烈ながらじわじわと効いてくるような衝撃。
俺の脳は、彼女の言葉を咀嚼しようと突然動き始める。
なんだそれは。
俺の阿呆面を眺めながら、彼女はにんにくをガリガリと噛み砕く。たまに食べたくなるんだよねぇ、なんて呑気に笑う彼女に「わかる」と形だけの返事をする。
青春かよ。何を意識してるんだ。
頭の中を占めるのは怒りなのか呆れなのか、はたまた軽蔑なのか。もしかしたら、そんなネガティブな感情ではないのかもしれない。
俺は、アルコールに浸かった上に重労働を強いられている脳を休めるためにハーッと大袈裟に溜息を吐いた。
「……お前」
責めるような声色で話しかけられた彼女は、二つ目のにんにくを口の中に放り込みながら訝しげにこちらに目線を寄越した。
目が、合う。
「あー……、一人で全部食うなよ……」
「あ、つい……」
すっかり空になって冷めてしまった皿の中の油が、一つ寂しく泡を吐いた。
コーヒーと爪と
ガチャンと耳障りな音が深夜の静かな店内に響いた。
一瞬顔を歪めた僕は、厨房内の先輩に声をかけると、道具一式を手に音の発生源に向かう。
ドリンクバーでコーヒーを注いでいたサラリーマンが文句ありげにこちらを視線を送ってきたが、文句を言いたいのは僕の方だった。
「お怪我はありませんか」
無惨に割れたガラスのコップと、散らばる氷、中身はミルクの入ったコーヒーだろうか。
白く濁った茶色と床の茶色が混ざり合う。
床の惨状を横目に、目の前の客にマニュアル通り、まるで心のこもっていない言葉をかけながら客の様子を観察する。
怪我や服に飲み物がかかったなどは無いようだ。理不尽なクレームをつけられたら堪ったものではない。
目の前に座っている女の客は、こちらをチラリと見て、「すいません」と僕と同じく全く心のこもっていない声で謝罪を口にした。
溜息が出かかったのをグッと堪える。
幸い、こんなガラガラの店内、空席なんていっぱいある。さっさと退いてもらって、さっさと掃除するのがいいだろう。
鍛えられた愛想笑いを貼り付けて、隣の席に移るように促すと、女は目にかかりそうな黒髪の隙間からこちらを睨め付けるように見て、もう一度「すいません」と小さく零した。
女が緩慢な動きでふらりと立ち上がる。
灰色の草臥れたスウェットに、ボサボサの長い髪が垂れる。ささくれ立った細い指先で、ソファに無造作に放られていた財布を手繰り寄せる。
彼女の心ここに在らずといったようなノロノロとした動きは、反対に僕を苛立たせた。彼女の調子や事情など関係なく、ただ自分の仕事が邪魔されていることに対しての苛立ちだ。それを発散させることもできない為、熱が腑に蓄積されていくようだ。
冷静さを失いつつある僕は、何の意味もなく彼女の行動を目で追う。
ようやく廊下に出た彼女の、その足元がふと視界に入ってそのまま視線が固定された。
灰色のスウェットから出る生白くて細い足首と、数百円程度であろう安っぽい焦茶色のサンダル。
そしてその先から覗く、真っ赤に塗られた爪が店内の照明の下に晒された。
床には白く濁ったコーヒーが未だに飛び散ったまま。
強烈な違和感を発する滑らかで鮮やかな赤色が、僕の目に突き刺さる。
何が僕を吸い寄せているのか、自分では分からない。先程とは違う理由で冷静さを失って熱に浮かされたような僕の脳は、それでも染み付いた接客マニュアルを思い出したらしい。
「こちらの席にお願いします」
僕は彼女に負けず劣らずな緩慢な動きで隣の席を指し示す。 彼女はこくりと頷くと、自分の前を通って隣の席に移動しようと歩き出す。
その時、床に撒き散らされたコーヒーがピチャリと跳ねた。
あっ、と無意識に口の形が動く。
跳ねたコーヒーは、ピッとその真っ赤な爪を汚した。
その瞬間、ぱちんと目の前が弾けた、ような気がした。
途端に脳内がクリアになるような感覚。
身体は自由を取り戻し彼女を見やると、既に指示された席に座って再び虚空を見つめながら物思いに耽っている。
僕など最初から居なかったかのような彼女の振る舞いに、冷めたはずの腑の熱が温度を上げた。 それを無理矢理消すかのように一回大きく首を横に振る。
徐に床に目をやると、散らばっていた氷が少し溶けて角が丸くなっている。
溶けてしまわぬうちにさっさと片付けなければ。
僕はこちらを見ようともしない彼女に「失礼します」と小さく声をかけて背を向けると、掃除道具に手を伸ばした。
これも一つの恋愛論
「どんなタイプが好きなの?」
日本に限っても、何億回と問われてきたであろう問い。一瞬の間の後に、その場にそぐわないような深いため息が落とされた。
「好きだねその話」
「女子会と言えばやっぱりこれでしょ」
「自分だって好きな人いないクセにさぁ」
藺草香る広い和室に、色とりどりの浴衣が三つ。コロコロと高い声が響く。机の上には菓子の袋と酒のボトルが乱雑に置かれている。
時折、涼やかな風が障子の隙間から入り、肌を撫でて通り過ぎる。が、部屋の中は煮詰められた蜜のように、ドロリとした熱を持っていた。
「っていうか、彼氏とはどうなの?」
「えっ私?うーん、普通?」
「普通って」
「会ってるの?」
「会ってるよ……先週も会ったよ」
「会って何するの?」
「ご飯食べて、ホテル行ってセックス」
「うわぁ」
スナック菓子の袋が破られる音と、酒がグラスに移される水音とマドラーが氷をかき回す音。大袈裟なリアクションで仰け反った身体は、抵抗することなく、そのまま布団に崩れ落ちた。
「でもなんだかんだで続いてるよねぇ。今何年目だっけ?」
「えぇと、五年目?」
「もうそんなに経つかぁ」
「結婚とかって考えてる感じなの?」
「さぁ?」
「さぁって」
「適当だな」
封を切られたビンは、その水位をどんどん下げていく。きちんと身に付けられていたはずの浴衣は既にはだけ、淡く色付いた脚が布団の上を滑る。
「あー、彼氏欲しいー!」
「それ、いつも言ってるじゃん」
「大学で良い人いないの?」
「えー……あ、この前、サークルの友達と出会い系アプリ入れてみた」
「それはやめときなよ」
「使ってみた?」
「この前メッセージきた」
「マジか」
「見たい」
スマートフォンの小さな画面が顔で埋まる。
点けられたまま、誰も見ていないテレビ画面からワッという歓声が聞こえた。
それと対比するかのように、彼女らのクスクスという湿度の高い笑い声は、段々とボリュームを落としていく。
「出会い系はやめなよ。どうせ身体目当てってやつでしょ」
「そうだけどさぁ、彼氏欲しいんだよ」
「本当に欲しいの?」
「彼氏がいるっていう事実が欲しい」
「正直か」
「わからなくもないけどね」
「それ、彼氏持ちに言われてもね」
溶けた氷がカランと音を立てたが、それは誰の耳にも届くことはなく、空気と混じって消えた。ビンの中の液体も、気が付けば残り僅か。それはこの小さな宴の終わりが近づいてきたいることを告げていた。
「だって大学生だよ?彼氏欲しくない?」
「私に聞くなよ」
「最近良い人いないの?」
「いないよ」
「つまんない!そんな枯れたこと言わないでさぁ」
「じゃあ今度付き合うとしたら?」
「えー……」
会話が途切れる。
空になった菓子袋がグシャリと音を立ててゴミ箱に放り込まれた。氷はすっかり溶けて、最早飲むことさえ忘れられたグラスの中の酒を薄めるばかり。
「あ、気を遣わなくていい人」
「無難!」
「ジャージで会っても許されるくらいの」
「女子力ないなぁ」
「らしいと言えばらしい」
「うるさいなぁ……毎回飾らないといけないなんて疲れるんだよ」
「そうだけど、乙女心ってやつがあるでしょ」
「私はないの」
「やっぱり変わってるよねぇ」
「あんたに言われたくないけどね」
深夜にも関わらず賑やかな声を発していたテレビが静まり返る。静寂の中、窓の外を流れる川の流れに三つの声が溶けていった。
ビニール越しの空
雨が止んだ。
人々は歩みを止めて空を見上げた後、それぞれの傘を閉じて何事もなかったかのように再び歩き出した。
わたしは慌ただしそうに動き始めた大人たちにぶつからないように道の端まで避けると、古い駄菓子屋の軒下に入った。
小さな手に不釣り合いな、大きな白い柄。
いつも持っている色とりどりの水玉模様が描かれた小さな傘とは違う、飾りが何もない大きなビニール傘。勝手に傘立てから取ってきた、お父さんの傘だ。
空はすっかり明るくなっていたが、なんとなくそれを閉じてしまうのが勿体なく感じ、わたしは徐に傘を目の前に掲げ、くるくると回した。
ビニールについていた水滴が弾かれて宙を舞う。
駄菓子屋の古い木造屋根からぽつぽつと雨粒が落ちてきて、曲線を伝って落ちていく。
透明な膜越しに見る空は、徐々に厚い雲が切れて青が現れ始める。隙間から差し込んだ光が弾かれた水滴に反射してキラキラと光った。
雨によって少し冷まされた、湿気の多い空気が身体にまとわりついた。
前の道を歩く大人たちは、いつまでも傘を閉じようとしないわたしを不思議そうに眺めながら早足で通り過ぎていく。傘越しに色々な目と目が合う。それがどこかいい気分で、思わず口元が緩んだ。
その様子を暫く見ていたわたしは、ようやく傘を閉じようとゆっくり上はじきに指をかけ、力を込めた。
固い。
子供用の傘と違い、固くしっかりとした留め具は、わたしの力ではビクともしない。爪を立ててみても結果は変わらず、むしろ指を挟んでしまいそうになって慌てて指を離した。
すると、突然背後から現れた駄菓子屋の店主であるおじさんが、わたしの手から傘をひょいと取り上げた。驚いて視線を送ると、彼はあっさりとそれを閉じて「はい」とこちらに寄越す。
思わず店主を見つめていると、彼は人の良さそうな笑顔で「傘が閉じられなかったんだろう?」と笑いかけた。
わたしが半笑いを浮かべながらを受け取ると、彼はなんでもないように店の奥に引っ込んだ。
手に残された、閉じたビニール傘。
それを少し寂しく感じながら、わたしはもう一度上を見上げる。
すっかり雲が切れて、澄んだ青が広がる空。初夏の太陽光が鋭く降り注ぎ、アスファルトに突き刺さるのをわたしの裸の目が映していた。
忘れられていたかのように、遅れて屋根の先から生まれた水滴がわたしのまつげを掠めて頰に落ちた。
"私"の話
沈んではいない。浮いてもいない。
私はそこに、二本足で立っていた。
ただ、口を開けばぷかぷかと泡が出るばかり。
辺りを見渡すと、色とりどりの丸い泡が浮かんでいる。綺麗だと思った。だから、真似しようと思った。
でも私の口から出るそれは、形がやけに歪、絵の具に大量の水を入れたかのような薄っぺらい色で、ふよふよと根無し草のように漂っては消えてしまう。
何度やってみても上手くできなくて、早々に飽きてしまった私は口を閉じた。
口を閉じると楽だった。相変わらず息苦しさはなかった。漂ってくる綺麗な泡たちを愛でて、ちらほらやってくる失敗作のような濁った色をのらりくらりと避けながら、気ままに歩くだけ。
私は口を開かなくなった。そうすると時々、喉の奥から何かが迫り上がるようになった。
衝動に逆らわずにそれを吐き出そうとしても、叶ったことは一度もない。口の代わりに目の奥からボロボロと涙が溢れては零れ落ちる。
唇を意味なく開閉させてはなんとか歩みを進めながら、苦しさに腕を掻きむしった。
ゲホッと汚い咳を一つ。
いつの間にか知らないところまで来ていたらしい。ここら辺に泡が漂ってくることはない。私は見慣れない周りの風景を眺めながら影になっているところを探して仰向けに倒れこんだ。遠くに何やらある気もするが、確認するのも面倒だった。
気が向いたら、来た道を辿って帰ろうか。帰り道があるかも知らないけれど、もう少しくらい、こうしててもいいだろう。
どれくらい経ったか分からない。そろそろ寝転んでいるのにも飽きた私は、徐に立ち上がった。さて、帰り道はどっちだったか。
まぁ、いいや。
ぐぐっと大きく伸びをして、今までいた場所を振り返る。そこにはただ、私の寝転んでいた跡がくっきりとついていた。
それが妙に綺麗な形をしていたものだから、私はくすりと小さく声を上げて笑った。
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