実態のないミーム
インターネットの所在不明の悪意について考える事がある。
いつ、だれが始めたかわからない偏見や悪意や噂や嘘は、とりとめもなく攻撃的に、あるいは被害妄想的に何者かを理解不能な存在にしてしまうインターネットの議論は、結末を必ず“理解”で終える必要がない。けれどこれに足りない何かを補う人的労力と、資金と、慈善組織や事業は存在しない。
ならば日々急速に生まれ、広がるミームや、悪意や、独りよがりな善意をどう扱うべきか、それらはすべて、現実での解釈をする時間的余裕が必要だ。時間的余裕とは、結果的にインターネットを取り扱うユーザー間の質になる。SNSは常に敵や、嘘や、噂をつくりだす。それらは急速にミームとして悪い成長をする。成長した娯楽は、敵を見つけて完全に排除するまで同じ場所に留まる事をしらない。噂は一人でに広がり、一人でに悪意ある存在を作り出し、一人でにインターネットの使い手とミームの共有存在を正義にしてしまう、一体どこでそれらはキリがつくのだろうか?彼等は他者にレッテルをはる事で結束し、また彼等を批判する事は、その娯楽性と道楽を批判する事になる、つまり彼等との異なる意見の接触自体が、そのものが偏見や悪意をもたらされる危険性をはらんでいる。
もしインターネット上で本当に他者を理解しようと思うのならば、必ず最後には、ミームとして、娯楽として世界を見るのではなく、現実と同じように、何らかの理解を個人がその心の中で認めなくてはいけない。ミームは実態がなく共鳴し、噂は根拠のない情報を誇張し、誇張が新たな誇張をうんで、存在しなかった、ネットユーザーの天敵を作り出してしまう。ありもしない人を妄想し、ありもしない攻撃におびえ、ありもしない主張を、その対話もしない人々の本心だと決めつけてしまう。
その無責任な結束は、思わぬ形で、自分たちに帰ってくることになる、必ずそうなる。
実態のないミーム