エンヴィー・ナルキッソス
夕陽が雲を焼き始める頃なのであろう。やや俯いていれば、己の影の伸び方で大凡の空の顔色に予測も届く。
水仙。僕の前を通り掛かる人間は誰もが屈んで此方を見詰め、物珍し気に此の名を口にしていた。どうやら、現在根を張っている場は水仙には不相応。人間からは〝綺麗だ〟なんて褒め言葉を幾度と無く渡されて来た、というのに。背側にはいつもゴミ袋が積まれ、時々収集業者の手と大きな車両で悪臭の山は除かれる。然し太陽が三度も昇ればまた、僕は不快な臭いを背負う羽目になる。此のような場に、美への称賛を浴びせられる僕が。どうして此処に生きているのか、記憶をまさぐれど其れらしい解は見付からない。運悪く自生してしまったのか、或いは僕が成長して得る美に嫉妬した誰ぞの手で植えられてしまったのか。黴の気が立ち込め、蝿も訪れる。斜陽もせせら笑うであろう環境だ。其れでも尚、授かった美は見失うまいと、自己愛を何があれども潰すまいと、僕は気高く背筋を伸ばして生きてきた。
長い月日を独りで吸い込んで来たのだが、先々週であったろうか、隣に妙な奴が捨てられた。角張ったヒトガタをした、ロボットの玩具。引っ掻いたふうな傷だらけで所々の色が剥げたそいつは、僕の近くに放り投げられた時から右肩が外れていた。やんちゃな子供に所有されていたのだとの予想も容易い。いつ見ても奴はおんぼろで、薄汚く、如何にも捨てられるべきモノと云った容貌。見落とされているのか、どうなのか、収集業者の手が触れたためしが有りやしない。あまりに陰気で、総ての人間に見捨てられ続けるさだめに在る姿だからかもしれない。
なあ、おい。俯いた儘、今日になり初めてロボットへ呼び掛けようと試みた。なあ、汚いおまえは、情けすら貰えていないという自覚が有るのか。然し、待てども反応は得られず。なんだ、こいつは僕のように生命を宿してはいないのか。つまらない。美しい僕から、少し構ってやろうと、否、貶めてやろうとの心算を握っていたのに。美しい僕は、愛されていて当然! 今迄何人もをひとときであれ魅了してきた。なのに、おまえときたら。僕と並んでいるのが失礼なくらいに、みじめだねえ! そう罵ってやれど、窒素を揺らしすらせず。気に入らない。意思疎通の出来る生命を用意していなかった事も、みっともない外見も。今度は、誰ぞに首でもへし折られ、泥に沈んでしまうがいい。汚いおまえには、そんな最期が似合いだよ。
不意に、人間の気配が寄せられた。僕を褒めてくれるのだろう。確信して窺った先に居たのは、好奇心が全身に巡っていそうな、黒いランドセルを背負った子供だった。小さな彼は此方を一瞥。ほうら、矢張り興味が注がれるのは僕だけ。だが、直ぐにまあるい黒目は、隣のがらくたを映すようになった。孤独を憐れむが如くの双眸。それはそれは、とても温かくて穏やかな目だった。迷いを帯びるでもなく手指が伸びた先は、僕では、なくて。
彼は拾い上げたがらくたを愛おしそうに撫で、そいつの眼を象った部分を眺めて両の口角をきゅっと持ち上げたかと思うと、攫うように抱えて駆け出した。小さな背中が段々と、更に小さくなってゆく。残された僕は一つの思考も起こせず。あれには宿っておらず自分には在る感覚すら、微動たりとも。自身が現実を受け入れられる迄、只管にして、呆然と。
徐々に思考の靄が去り、漸く僕の内側が機能する。ねたみ。唯一湧きつつある其の感情が、とどまり知らずの膨張を進めてゆく。何故、僕じゃないんだ。あいつは誰にも選ばれる道理は無し、と決めて掛かっていたのがいけなかったのか。生命を宿していないくせに。使い道のないがらくたのくせに。なんて、此の感情が、嫉妬心が、其等を内に秘める僕が、最たるがらくた、なのだろうか。
ぽつり、ぽつり、落ちてくる雨粒。そろり、そろり、這いずり寄る夜。一部始終を知る後ろで積まれたゴミ袋達だけでなく、己を包む自然現象までもが、人間達にとっては些事も些事といった処であろう片隅の悲劇を嘲笑っているかのよう。意図的な俯きは、望みが飛び去った項垂れへ。今更、前を向く気にはなれない。背筋だって、もう伸ばしていたくない。天を仰いで慰めを乞う気も葉を流れ落ちて行くしずくに削がれきってしまった。一人の興味を持っていかれただけの事だというに、世の総てを呪い恨んでしまいそうな僕を、どうか、誰か。何れの力でもいい、僕を楽にしてくれ。叶うならば恵まれた美ごと、浅はかなる傲慢を殺められたい。殺せ、殺せ、殺して。殺してください、後生だから。
小雨が地を叩き続ける淡い拍の向こう側、些か遠く。飽く程に浴びてきた短い旋律の繰返し。次第と不格好な体躯を現す、がらくた玩具と同様に感情を表しはしない車両。今日のメロディに限ってひどく尖った湿気を帯びて取れるのは、隣に居た奴があれの乗員に存在の破壊をされるではなく、未来にしか繋がらなさそうな清潔な手に抱かれていったからだろう。
収集車は無遠慮に僕と此の身には不相応だった筈である背景の近くへ滑り込む。間も無く、清掃業の青い制服を着た初老の男が降りてきた。手袋を嵌めた男は慣れ尽くした力加減で、僕の後ろから選び掴んだゴミ袋を、二つ続けて車両後部にて轟々と唸る簡易的地獄へ放り込んだ。ぱりぱり、袋が裂けてゆくらしい悲鳴も直様に空中から居なくなり、次、そしてまた次とゴミ袋達は収集車の大口に喰われてゆく。ああ、あの中に、飛び込めたら。ゴミと共に何もかも潰れてゆけたなら、どんなにか僕は。
人間が去ったなら溜息でも落としたかったのだが、初老の収集業員が前に屈んで僕を珍し気に眺め始めた。用は済んだろう、早く去ってくれ。此の気分じゃあ、水仙だ、綺麗だな、などという浴び尽くした科白など素直に受け取れないから。
ぷつん。突如、僕の首周りに、鋭い熱さが駆け抜ける。「うわっ」と云う跳ねた声と共にしたたかに地へと叩き付けられる迄は一瞬の出来事だった。首から摘み千切られて即座に手放されたのだと、切断面から液体が漏れてゆく感覚の増幅と共に理解が及び広がる。
気味わりぃな、持って帰るなってか、と顔を背けて場を後にする男の手袋には、確かに張り付きたがっている様子の赤色が広がっていた。人間の血液と酷似した彩度。僕が切断面から流していたのだろう。感覚や心を持ち備えていた僕にとっては、己に血が通っていたらしい事実を受けたとて不思議でも何でも無かった。其れよりも、嗚呼、僕は。発していた願いに沿って、彼の手で。生涯の終止符を、与えて、貰えた。
心を含めた自身の凡ゆる部位が、麻痺めいたものを帯びてゆく。悪天候で臭いの濃さを上げるゴミ捨て場にて不気味な赤を撒き散らしての、雨晒しの死。嘗て、あのがらくた玩具に浴びせた罵言を想起する。首でも捥がれ、泥に沈んで。汚いお前には、そんな最期が、似合いだ。さだめかはたまた偶然か、僕の最期には是等が綺麗に用意された。大きな自嘲が、はじける。
片隅の物語に、生まれ持った心、そして気高くあるまま尽きる筈だった命。凡そ望み通りの終末は得られた。然し悲劇の終いには拍手どころか、落とされる簡易的な幕すら、何処も彼処も汚れた僕が主役であるなら用意される筈も無かった。
エンヴィー・ナルキッソス