テンシかアクマ 初日戦

松見坂 作

  1. 一日目 前編
  2. 一日目 後編

一日目 前編

テンシかアクマ 


 エピローグ


「姉ちゃんがペシャンコになる少し前のことなんだけど」
 父と二人きりの夕餉、学生服を着た娘はそう切り出した。
「自動販売機の前にお爺さんがいてね。飲み物を買ったはいいけど、腰が曲がらなくて、取り出し口に手が届かなかったみたいなの。それ見た姉ちゃん――そうそう、あれは、私の洋服を買いに行った帰りだった。そのとき私、まだ小学生だったし。……でね、姉ちゃんはそれを見て、バッと飛び出していって、飲み物をとってあげたの。どうぞって、無表情のまま」
 あの子らしい、と父が顔をほころばせて頷いた。
「そしたら甚く感謝されちゃって、缶ジュースをニ本おごってもらったの。さっそく公園のベンチに座ってそれを飲んでいたら……姉ちゃん、突然、しまった、って顔をして。私が、どうしたの、って訊くより早く、空き缶を花壇にポイ捨てしたんだ」
 驚きに、父の箸が止まる。
「しかも、公園の横にあった幼稚園の花壇にだよ? それで私がぽかんとしていたら、姉ちゃんはやっぱり無表情のまま、口に指を添えてしーっと合図したんだ。そして云ったんだ」
 ――バランスをとったんだよ。
 父はすっかり食事の手を止め、箸を茶碗の上に置いて、娘の話を反芻していた。
 迅速なる善意でお爺さんを助けた人間が 、その直後、ポイ捨てをした。しかも幼稚園の花壇なんて罪深い場所へと。それは確かに違和感である。
「そういえば……」娘の話をとっかかりに、父の記憶も掘り起こされる。「こういうことがあった。定期考査前の日曜日にも関わらず、あいつはリビングのソファで一日中ごろごろしていた。勉強はいいのか、と声をかけると、私はいま怠惰なんだ、と返された。てっきり夜にあるドラマでも楽しみにして勉強が手につかないのかと思ったが、いざ放送時間になると、あいつはテレビの電源を落としたんだ。歯を食いしばり、じっとこらえるように目をつむりながらな。そんなに見たけりゃ見ればいい、と言ったが、あいつは無言で首を振るだけだった……」
 一気に話し終えて、父はほうと息をつく。
「あれは果たしてなんだったのか」
「姉ちゃん、変だったよねぇ」娘はイカリングを頬張って、それを麦茶で飲み込んだ。
「あぁ」箸を持ち、食事を再開させる。「あいつは昔から、どこか世界を見下ろしているような、誰にも分からない内に隠し事を増やしていくような、そんな掴みにくい性格だった」
「姉ちゃんさ、ペシャンコになる前、空に向かって一人で喋ったりしてなかった?」
「本当か」ぎょっとして、父はゲソを落としそうになる。「あいつ、いよいよやばくないか」
「やばいよ、姉ちゃん」娘が楽しそうに笑う。それは、久々に父へ見せた笑顔だった。
親子二人での食事。律儀に顔を合わせて行われるそれは、思春期の彼女には小っ恥ずかしいものであった。普段は素っ気なくコミュニケーションをとっているはずの父親に対して、まるで面接のように緊張してしまい、つまらなそうな表情を浮かべるので精一杯である。
 しかし今夜は違った。姉を肴に、会話がはずんだ。
 ありがと、姉ちゃん。娘は手を合わせる気持ちで席を立った。「ごちそうさま」
 そして、あっ、と止まる。
「林檎あるんだった。切る?」
「あぁ、うん。頼む」
 父は、やに下がった顔を右手で隠し、そう答えた。彼もまた、久々の会話らしい会話に舞い上がっているのだった。



 三メートルはありそうな鉄扉が、床と擦れ合う重たい音を響かせながら開く。向こう側より溢れ出したのは痛罵の嵐だった。
「進め」
 背中を小突かれて、青年は扉の向こうへと歩き出す。両手首には分厚い手錠がかけられていた。
 ワックスで丁寧に整えられた眩しい金髪。中性的で、ゾッとするほど綺麗な顔立ち。胸元には大量のロケットがぶら下がっており、歩くたびに果実のごとく揺れるので、金属製の音が規則的に鳴っていた。そして彼の背中からは純白の羽が生えていた。
 中に入ると、そこは裁判所であった。人間のつくったそれと違う点は、ギャラリーが設けられていることだろう。闘技場よろしく、ぐるりと取り囲んで、被告人である青年を見下ろしている。
「死んでしまえ!」内へ進むことにより、青年の耳に誹謗の声がくっきりと聞こえだす。ギャラリーにずらりと並んだ、青年と同じく背中に羽のある者共が、嗜虐的な笑みをたたえた顔で叫んでいた。「偽善者め!」「何もしなければよかったのに!」「お前は間違っている!」「さっさと死ね!」「無駄なことを!」「これは報いだ!」「邪魔をしたせいだ!」「反省しろ!」「罰を受けろ!」「堕天使が!」彼らの数は、ゆうに二百は超えていそうだった。
 円柱状の段になっている証言席に立ち、やれやれ、と青年は溜息をもらす。
 俺の天使生活は果たしてどこで間違えたのか。
 見上げると、裁判長の席は空白であった。どうやら俺の死刑を決める出来レースが始まるまで、まだ時間がかかりそうである。それまでずっと、この耳を聾する罵詈雑言たちに付き合ってやれるほど俺は強くない。先程から毅然と振る舞ってはいるが、正直なところ、手足の震えを悟られないようにするので精一杯だった。
 恐怖と緊張に押しつぶされそうだ。
 奥歯を噛みしめておかなければ、すぐにでもガチガチ鳴り出すだろう。
 青年は、現実逃避をするように目をつむった。外界からの情報をできるだけシャットアウトする。そして、今日ここに至るまでの経緯を思い出し始めた――。


第一話



 【傲慢 ――驕り高ぶって他人を見下すこと。己の惨めさという「人間本来の状態」に無知であること。】
 【謙虚 ――控え目で、つつましいこと。己を偉いと思わないこと。素直に相手の意見などを受け入れること。】


 とあるスーパー銭湯の女湯。一糸まとわぬ裸体を晒した女性たちが、シャワーを浴び、広い湯船につかり、銘々疲れを癒やしている。
 その中央で、青年が一人、宙に浮かんでいた。
 輝く金髪に、女性だと言われれば疑わぬほど綺麗な顔立ち。たっぷりとまつ毛が縁取った明らかなる双眸。シャープな顎のライン。スラリと伸びた長身。胸元にかかった大量のロケット……。そして背中には純白の翼が生えていた。
 女性らは、そんな異様な存在がふわふわと浮かんで自分の露わな姿を観察しているにも関わらず、騒がない。まるでそこに何もいないかのように、平生を振る舞っている。
 長い脚を組んでふんぞり返っている彼は、女性たちの顔や肌色の膨らみに目をやって、何やらぼそぼそと呟いていた。
「……二十点。……十五点。……三十点。……二十三点」
 採点。赤点の境界近くを行ったり来たりしている。
 そして、はぁ、と挑発的な溜息をついた。
「程度が低い。これだから地上は」
 羽を傾け、その場でくるりと華麗に回る。湯気に目を凝らし、他にそれらしい『点数』はいないか、と探す。
「……」
 しかし退屈そうな彼の顔は崩れなかった。
 この場を見限るようにして、彼はふわりと空へ去っていった。
 天井をすり抜けるとき、地に足つけた女性たちへ、心底見下したような目で一瞥くれた。そしてわざわざ鼻で笑うと、その後は女湯のことなど頭から消去し、とある場所へと飛んでいった。
 彼は天使2550号。
 地上での渾名は王子という。


 目的地へ向かう途中、人通りの少ない横丁を往く一人の女性が目に入った。背格好は十代後半くらいで、縮こまるようにして歩いていた。
 王子がじゃらじゃらとロケットを鳴らして宙を飛んでいると、彼女はぎょっとしてそれを見上げ、すぐにさっと顔を伏せた。気がついていないフリをしたのだ。
 もちろん彼はそれを見逃さず、スッと彼女の元へ近づき、並走し始める。
「やぁ!」
 ニッコリ微笑んで彼女を覗き込む。小さな顔が黒いマスクで覆われており、覗いた目がじっと舗道を睨んでいる。
「今こっちを見たよね。ということは、君がシスター?」
 シスター、と呼ばれた彼女は応えない。ここには誰もいない、私は話しかけられていない、と自分に言い聞かせ、早足で過ぎ去ろうとする。無視を決め込んだ。
 実際、この場において、彼女以外に王子の姿は視えていない。いくら人通りが少なかろうと、突如宙に向かって「はじめまして」なんて言った暁には不審な目で見られてしまうだろう。道路の向かいを歩く親子連れや、たった今通りすぎていった八百屋の店主……。彼ら一般の衆人が近くにいる内は、ここに王子なんて男はいない。そう思おう。私は一人きりだ。
 シスターは、背負ったリュックのショルダーストラップを握りしめた。顔が赤くなっていくのが分かる。耳が熱い。まだなにも注目されていないというのに、彼女は想像だけで恥ずかしくなってしまったのだ。
「ねぇ、無視するなよ」
 そんな彼女の態度に構わず、王子は話しかけ続ける。
堕天使のくせに、天使を無視するな(・・・・・・・・・・・・・・・・)。一号さんに呼ばれたんだろ。聞いてるよ」
「……」
「君――」王子は、自分をないものとして扱ってくる彼女に一矢報いてやろうと言葉を探した。「なんというか、地味だね。服も、メイクも、愛想もさ」
「……」
「その黒い、趣味の悪いマスクはなに? さっさと外したほうがいい」
 このマスクはシスターの外界への自信のなさを体現したものであったが、もちろんそんな風に言い返せるわけもなく、彼女は黙って目をそらすだけであった。
 やれやれ、と王子は頭を振る。彼女への挑発は諦めた。目的地に到着するまでの暇つぶしも兼ねて、懐より林檎を取り出した。
 ――林檎。
 それは地上にて栽培される真っ赤な果実。
 もしくは、楽園追放の原因となった、善悪の知識の木に成る禁断の果実。
 天使と呼ばれる存在は、この地上に対して不干渉を貫いている。人間は彼らを認識することができず、また建造物や気候といった、その他地上にて起こるいかなることにも影響されない。また、与えられない。そういう存在であった。
 しかし例外が二つだけ。
 林檎と堕天使だ。それらには触ることができ、また食すこともできる。
 王子が、シャグッ、と噛み付く。そして飲み込んだ。彼の喉仏が合わせて動く。「西洋において――」独り言でも構わない、と彼は話し出す。生来お喋りの気質があった。「喉仏は『アダムのリンゴ』なんて呼ばれるってね。それは旧約聖書の『創世記』において、アダムがリンゴを飲み込もうとして喉に引っ掛けた、というエピソードを元にしていて――」
しかし今、彼が林檎の破片を喉に引っ掛けたのは、突如シスターが振り返ってきたからである。
「おっと」王子が驚いて止まる。
「それ」シスターが、うつむいたまま指してくる。その先には食いかけの林檎があった。「どうしたんですか。どこで手に入れましたか」
「ん?」王子は一瞬、話題が掴めなかった。「あぁ、そこで貰ったんだよ」顎で、くい、と合図する。数メートル後方に、先程通り過ぎた八百屋があった。
「盗んだのですね」
 と、シスターが初めて顔を合わせてきた。相手の心を見透かしてやろうといった具合に、鋭い目で射抜いてくる。
 王子は再び驚いて、思わず唾を飲み込んだ。
「絶対にバレないって。視えないんだから。それに、こんなもの、百円にすら満たない」
「……そういう問題じゃない」
 シスターは踵を返し、すたすたと八百屋へ歩いていった。そして、いきなり目の前に現れた娘に面食らう主人の、皺だらけの手をとり、数枚の硬貨を握らせた。
「どうぞ。九十八円ピッタリです」
 主人は、一応それを受け取っておきつつも、事態がまったく分からず首をひねっている。
「なにかぁ、お釣りが多かったかね」
「いいえ。ですが、受け取ってください」
「お嬢ちゃん……、ちょっと説明してくれないか」
「すいません。できません」そこで、シスターはハッと我に返った。一体自分はなにをしているんだ。これじゃただの変人じゃないか。
 みるみる顔が赤くなっていく。
「……お嬢ちゃん?」
 主人が、心配そうに顔を覗き込んでくる。シスターにはそれすら耐えられず、「とにかく渡しましたから!」とだけ言い残して足早に去っていった。
「君、面倒なやつだな」
 大股で歩くシスターに、王子が横から茶々を入れる。
 彼女はなにも応えなかった。そして目的地に着くまで、これでよかった、これでよかった、とひたすらぶつぶつ唱えていた。


「証人が見つかった」
 一号が、目の前にいる王子とシスターにそう云った。
 都内一等地にある高級マンション、その最上階である。壁全面がガラス張りのため夕刻の都会が一望できる。そんな風景をバックに、一号は、バスタブのなかへ首から下を沈めていた。しかし中を満たしているものは湯や水でなく、小麦色とチョコレート色とクリーム色が混ざり合って甘ったるい匂いを漂わせている――エンゼルフレンチだった。
 大量のエンゼルフレンチに埋もれたまま、一号と呼ばれる絶世の美女は会話を続ける。
「名前は秋野波。年齢は十七。彼女を、55日後……だっけ? その裁判に連れて行けば、君の冤罪とやらは晴れ、天界に返り咲くことができるだろう。――王子ちゃん」
「さっすが一号さん! 美人なだけはある!」
 王子がガッツポーズをとり、素直に喜んだ。じゃらり、ロケットたちが擦れる音がする。
「冤罪……?」
 一人だけ話についていけてないシスターが、恐々とそう訊いた。目線は相変わらず伏していたが、これは人見知り云々という理由ではなく、全裸のままドーナツの海に溺れている一号を直視できないからであった。
「そ。冤罪」一号が、照れるシスターのことなど毫も気にせず、飄々と応える。「王子ちゃんはね、数日前に仲間の仕事を邪魔しちゃったんだって。それが訴えられ、『堕在』の刑をくらい、今こうして地上にいるってこと」
 ま、真実は分かんないけど。と一号は付け足した。
「このまま地上にいたら、やがてこの羽は消えて、俺は君のような堕天使に落ちぶれる」
 王子が説明を引き継いだ。その顔は曇り、拳は固く握られている。
「それだけは絶対に避けなくちゃいけない。だから俺は再審請求をして、55日後の裁判に証人を連れて行くことにした。俺が、意図的に仕事の邪魔をしたわけじゃないって、証明できる人間をね」
「人間を……」
 それは無理でしょう。
 すぐに、シスターはそう思った。
 人間や動物、そして羽を失くした天使――つまり私達のような堕天使は、天界への侵入を許されていない。天使や幽霊といった、質量を持たぬエネルギー体ならば話は別だが。
「問題は、秋野波を裁判所――つまり天界へ連れて行く方法なんだけど」
 一号が、鎖骨あたりに乗っていたエンゼルフレンチに噛み付いた。
「ひぃふぅふとふぁふいふぅふふぁふぁる(いいニュースとわるいニュースがある)」
「なんですか」容易く聞き取れた王子が、訊く。
「まずは」ごくん、と一号はつややかな喉を動かして嚥下した。「秋野波はアト少しで死ぬ(・・)。壁とトラックに挟まれてペシャンコになる。つまり魂の存在となる。よって、天界に連れて行くのは簡単だ」
「マジか! よっしゃあ!」
 二度目のガッツポーズをする王子。
 そんな素直に喜んでいる彼を見て、シスターは軽い反感を覚える。他人の死をこうも喜んでいいものか? 悪い出来事であるのに。
 ……いや、とシスターは思い直す。
 彼にとっての至上命題は、冤罪を証明すること。そうして天界へと戻ることだ。彼が本当に濡れ衣を着せられているのならば、それを公のもとで拭えるのは「善い」ことだ。だとすれば、秋野波という少女の死は、「善い」ことであるとも言える……? しかし、彼女には家族だっているだろう。その家族が深い悲しみに落ちるのであれば、やはり「悪い」ことだと言える……。だが、しかし……。
 シスターはこっそりと眉をひそめた。
――今感じているこの苛立ちはなんだ?
「しかし」一号が続ける。「彼女が死ぬ(・・)のは49日後だ。つまり55日後の裁判を待たずして、彼女は天国か地獄に去ってしまう。残念でした!」
「は」
 王子が呆気にとられる。蜘蛛の糸を目の前で切られたがごとく、無様な表情であった。
「い、いや、待ってくれ」
「待たない」
「そんなわけあるか」
「これが事実だよ」
「な、なんとか、6日間だけ死を――」
「人間は決して逃げられない。神の定めた運命からね」一号の言葉は、釘のごとき鋭さを持って王子を刺した。「それは君たち天使が誰よりも理解しているはずだよ」
「……」
 シスターが、ちらりと王子を見る。愕然としたまま、彼は動かなくなっていた。少し同情する。今、この瞬間、自らの破滅が決定したに等しいのだから。
 彼女はそろそろ疑問に思い始めていた。
 どうして私が呼ばれたのだろう。
「さて、王子ちゃん。ここが君の分岐点だよ」
 一号が、バスタブより立ち上がる。彫刻品のごとき完璧なラインを持つ裸体は、クリームまみれでベタついており、長髪によって漆黒のカーテンがかけられ、むしろ扇情的に隠れていた。
「裁判の日を待たずして、天国か地獄に去ってしまう少女――。君ならどのように、証人として連れて行く?」
 王子は、顎に手を添えて少し唸った後、指を鳴らした。
「――バランスをとります」
 正解、と一号が口角を上げた。


 秋野波の頭上に〈-3〉という文字が浮かんでいた。
「つまり罪側に3傾いているってことか」
 王子は、両手の親指と人差指を鉤状にピンと伸ばし、それを組み合わせることで長方形の『額』を作っていた。その額越しに覗けば、対象の罪と徳が分かるという仕組みである。その異能は王子自身のものではなく、一号より授かったとあるアイテムの効果だ。
 カフスコープ。
 そう呼ばれる、ワイシャツの袖口を切り取ったような形状をした、両手首に取り付けるものだ。
 とある都立高校の正門前。秋野波は、そこでせっせと箒をはいていた。時刻は放課後近く、陽はオレンジ色に染まりつつある。すでに学校を後にしている生徒もちらほらと見受けられた。
 無表情のまま、一人きりで、ひたすらに箒をはいている。そんな秋野の周囲をぐるりと回って、王子が観察している。もちろん彼女は気がつかない。
「ふーん」
 王子は、果たして何を納得したのかは分からないが、うんうんと頷いた。そして街路樹の影に隠れているシスターの元へ戻った。
「よし、シスター。アプローチだ」
「アプローチ、ですか」声を潜めて応える。
「まずはどんな人間かを知る。それによって、今後の対応も変わってくる」
「はぁ……」
 シスターは不満気な溜息をついた。なんで私がこんなこと、とでも言いたげである。
「それで、アプローチといっても具体的にどうするんですか? あなたは彼女に、触れも話せもしないのに……」
「あぁ。俺は、無理だな」
 王子の含みある言い方に、シスターが「まさか」と身構える。
 その予感は的中した。
「ほら!」
 王子がシスターの右手を掴み、そして投げ飛ばすように振るった。
「きゃあ!」
 突如強い力で引っ張られたシスターは、正門前に躍り出て、そしてバランスを崩し倒れ込んだ。
 アスファルトに手をつき、混乱で目を白黒させる。今、私はなにをされたんだ。投げられた? まさか! 出会って数時間にも満たない相手にそんなことするだなんて、考えられない。
 バッと振り返り、王子を見る。
 彼は、右手の親指を突き出して「グットラック」と口パクで伝えていた。
 シスターは激しい憎悪にかられる。この場で睨み殺せるものなら、そうしてやりたいと強く願う。
「大丈夫ですか」
 秋野が駆け寄ってくる。彼女は、手際よくシスターの怪我の具合を確認すると、右膝が少し擦れていたのを発見した。
「これ……」
「あ、あぁ! いえ、お気になさらず」
「ちょっと待ってください」秋野は、制服のポケットから小さな財布を取り出した。そしてこれまた小さな絆創膏を引き抜いた。
「私、妹がいるんです」秋野が、絆創膏の封を切る。「小学生になったばかりなんですけど、男の子たちに混ざって走り回るので、よく怪我をするんです。だから、こーゆーのも持ち歩いていまして……はい」
 実に慣れた手付きで、秋野は擦り傷の対処を終えてしまった。
 そのとき、学校の方からチャイムが鳴り響いた。
「では、私はこれで」
 秋野はウィンクでもするように右手をさっと上げて挨拶すると、スカートを翻し、颯爽と校内へ去っていた。
 一連の出来事を、王子はカフスコープ――『額』越しに見ていた。
〈慈善+5〉
 それが今回の徳であった。
「なるほど、イイやつか」
 これはやりやすそうだ、と王子は甘い推測を立てて、やに下がった。やはり人生、都合のいい方へ廻っていくものだなぁ!


「――バランスをとります」
 と云った王子に、一号は「待ってました」と言わんばかりに手を叩いた。
「君はよく勉強しているね! 天使にしちゃあ、珍しい」
「そうですかね。そうですよね!」たっはー、と王子が気楽に笑った。先程までの絶望はどこへやら、おだてられると図に乗りやすい性格であるらしい。
 シスターは、王子の腹筋に合わせて揺れる金髪をなんとなく眺め、趣味が合わぬ、とつくづく思っていた。
「罪と徳の増減せしポイント。その傾きによって、人間は天国だか地獄だかに連れて行かれる。ならば――そのポイントを『0』にすればいい。そうすれば、天国にも地獄にも行かず、現世に『幽霊』として留まることができるって寸法だ。分かった?」
王子がシスターに振り返る。
「へ?」彼女は、まさか自分に会話のボールが飛んでくるとは思わなかったので、鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんとした後、「えぇ、まぁ、そもそも知ってますよ」と慌てて言い返した。
 そんな彼女の様子に、王子は首を傾げる。はて、どこか具合でも悪いのか。はたまた万が一にもあり得ないが俺が嫌われているのか……。
彼には、いわゆる会話下手という存在の生息が分からない。異国の習慣がごとくである。
「幽霊ならば天界にも連れていけるしね」一号が補足する。もちろん、この場において意味のない補足であった。確認、と表すべきかもしれない。「ただし王子ちゃん、忘れてないかい? 君はまだ天使だ」
 あっ、と王子が再び静止した。
「秋野波の罪と徳を『0』にする……。口で云うのは簡単だけど、具体的にどうやるんだい。君たち天使はこの地上に干渉できないじゃないか!」
「それは……」王子の弁舌がしどろもどろになる。「この、唯一触れる林檎でも使って、なんとか……」
「無理だよ、ムリムリ」嘲るように一号が笑う。
 王子が肩を落として、しょんぼりしだした。林檎を持つ手がだらんと垂れる。
 シスターは、一号さんはワザとやっているのではないか、と恐怖した。つまり、絶望と希望を小分けにして、さらにはジェットコースターのように緩急をつけて提供することで、素直な反応をみせる王子をからかって遊んでいるのではないか……、と。彼を手助けする素振りを見せてはいるが、その実、新たな玩具を弄んでいるだけなのでは……。
「そこで彼女を呼んだのさ」
 今度は「希望」のターンだった。
 一号が、たった今己に向けられていた邪推を見透かしたかのように、シスターを指す。
「堕天使である彼女なら世界に干渉できる。君の相棒として、もしくは傀儡として、協力してくれるに違いない」
「絶対に嫌です」
 シスターは言下に否定した。
「……」
 一号は、そんな彼女をじっと見つめる。オーケストラの鑑賞中に耳に障った喋り声へ一瞥くれるがごとく、冷たい目であった。
 思わずシスターは怯える。
「拒否権はないよ、シスターちゃん」視えない手で頭を掴むような言い方であった。「君は私に借りがあるだろう。それを今すぐ無効にしたっていい」
「……」シスターは無言で頷いた。そうするより他になかった。
 王子に、そんな二人のやり取りの真相は分からない。借り、ってなんだろう。シスターには、こんな面倒事押し付けられても首肯するしかないような、大きな弱みでもあるのだろうか。……今度訊いてみようか。いや、現状での彼女はきっと教えてくれないだろう。もっと仲良くなってからだな……。
「よろしくね、シスター」
 王子が、右手を差し出した。
「はぁ」
 仕方なく、シスターもそれに応える。
 ぎこちない握手が交わされて、ここに、とある少女の罪と徳のバランスを取らんとするコンビが結成されたのであった。


 一号より渡されたメモによると、罪と徳のポイントは以下の通りに増減するらしい。

〈浄化に至る七つの罪〉 〈浄化に至る七つの徳〉
傲慢    10    謙虚
色欲    9     純潔
憤怒    8     忍耐
嫉妬    7     感謝
怠惰    6     勤勉
強欲    5     慈善
暴食    4     節制


 王子はメモをポケットにつっこむと、バランスをとる算段を考え始めた。
「現在のポイントは-2。これはちょっと面倒だな……」
 絆創膏の一件から少しして、二人は高校の裏門前にあった公園のベンチに並んでいる。
「ピッタリとプラス2になる徳がないんだよなぁ。ねぇ、どうすればいいと思う」
「……」
「まぁ、なにか、大きな徳でもドーンとプラスして、そして『暴食』なり『強欲』なりで削っていけばいいか。なぁ?」
「……」
「どちらにせよ、今みたいに一からタイミングを作ってやるのは厳しいだろうね。現実で、既にあるイベントで、秋野のバランスをとってやらないと……」
「……」
「君は、」王子がシニカルに笑う。「俺を無視するのが大好きみたいだね」
「別に」シスターは、黒いマスクの下で頬を膨らませた。うつむき、貼ってもらった絆創膏をしきりに撫でている。「そんなんじゃ、ないですけど」
「怒ってる?」
「怒ってませんっ」
「いいや、怒ってるね」王子が、女心は分かってるぞ、とでも言いたげに決めつける。「そういう感情は逐一報告しないか? 俺らはこれから――少なくとも49日間は、協力しあっていく仲になるんだからさ。互いに慮って、やっていかないと」
 ぶん殴っていいかな、とシスターは思わず拳を固めた。誰のせいでの腹の虫が収まらないと思っているのだ。
 彼女は空を仰いだ。そして自身の不幸を嘆いた。人目がなければ、涙でもホロリと流したい気分である。嗚呼、何故私がこんな目に。ここまで自己中な男には初めて出会った。私が最も苦手とするタイプだ。ニッと白い歯を見せて笑う、その笑顔には女性を軽んじている浮薄さが察せられる。きっと私のことだって、無口な根暗だと、見下しているに違いない。
 あぁ、今すぐ帰宅して、募金活動でもしたいな。炊き出しボランティアでもいいな。献血だって最近忙しくて行けてない。小学校前での交通整理なんてどうだろう。
 この目の前にいる金髪男が、世界に与えた不道徳さの分だけ、私が世界へ優しくしてやらなくてはいけない。そんな妙な使命感に駆られた。
「ちょっと待ってて」
 そう言って、王子は空高く飛び上がった。
 びゅん、と風が鳴る――ことはない。何故なら世界に干渉できないからだ。
 高校を斜めより俯瞰できるくらいまで飛び上がり、目を凝らした。パッと見で、都合のいい『機会』がないか探すためである。
 すると、それはすぐに見つかった。
 屋上にて『それ』はあった。
 絶好の機会と言える『それ』が――。
「あれと会わせよう」
 いとも簡単に獲物を見つけることができ、王子は得意になって叫んだ。
「シスター! 屋上! 屋上! 屋上に秋野を連れて行こーう!」
 うるさいなぁ、とシスターは無視して、裏門を出て帰路につく学生たちを眺めていた。この世に怖いものなどないように、極めて牧歌的に、友人等と談笑している。あれこそ世界平和というものだ。


 屋上での『それ』がいつ終わってしまうか分からない。そのため、急いで秋野を連れて行かなければならなかった。
 もちろんシスターの役目である。
「なんの御用ですか?」
 場所は再び正門前。学生鞄を肩にかけ、今まさに帰宅せんとしていた秋野が、眉をピクリとも動かさずに訊いてくる。右手には空になったゼリーの容器が握られていた。『いちごづくし』と書いてある。小腹でも空いていたのか。
「えっと……その」
 シスターが怖気づく。立ちふさがったはいいものの、さて、なんの言い訳も用意していなかった。『それ』に会わせたい、だなんて不気味なこと言えない。
「絆創膏……。そう、絆創膏のお礼を、したくて……」
「そうですか」秋野がうなずく。「では、どうぞ」
「はぇっ!?」まさかこの場ですぐ要求されるとは思ってなく、焦るシスター。「えー……と、ありがとうございました。助かりました」
「いいえ。人として当然のことをしたまでです。では」
 すたすたと去っていく秋野。
 思わず、シスターはホワンと彼女に見惚れた。善意の手を見ず知らずの他人に差し伸べて、絆創膏まで貼っておいて、それを「当然のこと」だなんて……! なんてできた人なのだろう!
「おい、追いかけろ馬鹿!」
 横から王子の叱責が飛んできて、我を取り戻す。
「あ、ま、待って!」
 秋野が再び振り返る。
「なんですか」薄い眉が訝しげに寄っていた。「なんの、御用ですか」
「えぇっと、それは」表情の変化に、まずい、とシスターは思う。こんな善い人に嫌われたくない。「屋上! そう、屋上に来てほしくて」
「はぁ、屋上」
「そう、そうです」落ち着け私、と胸に手を当てる。
「誰かが、私を呼んでいるんですか」
「いやそういうわけでは……」
「だぁーっ!」我慢しきれなくなった王子が、とうとう叫んだ。ワシャワシャと金髪をかきむしっている。「じれったい! テキトーに嘘でも言えばいいだろ! 人が、呼んでますって!」
 なるほど、とシスターは面食らう。嘘をつくだなんて思いつきもしなかった。
「人が、呼んでいます。屋上に、来てください」
「……分かりました」
 警戒するような目つきは消えなかったものの、秋野を屋上へ誘い出すことにはなんとか成功したのだった。

「こっちです」
 学校の内部へはいとも容易く侵入できた。放課後で出入りが自由になっていたのと、シスターが童顔であることがその要因だと言えよう。
 そういやコイツ何歳なんだろう、と王子はひそかに考えた。
 非常階段を最上部まで上がり、屋上への錆びれたドアに手をかけたところで……シスターが止まった。
「どうした?」
「どうしました?」
 王子と秋野、その二人から声がかかる。
「ちょっと、高いところが苦手で」
「そうですか。なら、ここまでで大丈夫ですよ」
 そう言うと、秋野はシスターを追い越してさっさと屋上へと入っていった。思いやりがあるんだかないんだか分からない振る舞いである。
 実のところ、彼女は、一刻も早く帰って家事を片付けたいのであった。そして夜にはバイトもある。学校なんざ今すぐオサラバしたいのが本心である。
「いや、ちょっとくらい我慢できない?」王子は、秋野とは打って変わって、シスターの背中を押した。「なにか不測の事態が起こったときに、対応ができない」
 それもそうか、とシスターはしぶしぶ納得し、押されるがままに屋上へ足を踏み入れた。こんなあからさまな高所に立ったのは久しぶりである。一号さんの居城は確かに高いが、一面が窓ガラスで覆われているため、端に近寄らなければ平気であった。
 しかし、今は違う。重たさを持った風が直接身体に当たってくるし、空が近い。フェンスを超えれば眼下には遠い地面が見えるだろう。あぁ、これが『高所』というものだったっけ……。
「あ」
 秋野が声を漏らした。
 視線の先に、『それ』があった。
 ――女子数人が、一人を囲み、嘲笑と罵声を浴びせている。攻撃を一身に受けている女子が、無言で輪より脱しようとしても、無邪気な笑いと暴力がそれを許さない。
 手法が、実に古典的で記号的である。
 簡単な言葉で表せば、それは『いじめ』というものであった。
「絶好のいい人アピールチャンス(・・・・・・・・・・・)だっ!」
 王子が、誰にも(シスターを除く)聞かれていないのをいいことに、そんな冒涜的な言葉を叫んだ。
 ――作戦通りだ、と彼がニヤつく。
 秋野波は「いいやつ」である。それは先程の絆創膏の件で分かった。そして現在のポイントは-3……なので、徳を積ませる、つまり「いいこと」をさせてやればいい。
 そこに鴨が葱を背負ってくるように現れた『いじめ』。「いいやつ」である彼女を遭遇させれば、必ずやアクションを起こすだろう。そしてそれは、徳の方へ傾いた行動であるに違いない。
 見よ、これぞ試合巧者!
 王子は得意気に鼻を鳴らした。
「……」
 秋野が黙った。身体に重たい沈黙をまとう。そして、いじめの現場へとゆっくり歩んでいく。その集団は彼女に気がついて、まるで百獣の王を退ける草食動物のように、サッと退いた。彼女らの顔は怯えて引きつっていた。そうして開けられた道を行き、いじめらっ子の元へ近づいていく。
 いいぞ、助けろ。
 王子が期待の眼差しを注ぐ。そして、来るべき瞬間に備えて『額』をつくった。
「――大丈夫?」
 秋野が、いじめられっ子に優しく声をかける。
 そして、近くにあった牛乳瓶を手に取り、その中身を彼女へぶっかけた。
〈傲慢-10〉
「なっ……!?」
 驚愕に目を見開く王子。
「じゃ、続けて」
 そう言い残して、秋野は屋上を去っていった。
 いじめが再開される。
「……」
 王子は呆気にとられ、その場から動けなくなっていた。
 ――なんだ。
 一体何が起こった。
 どう見たって今のは、彼女がいじめに参加していた。さらに、「続けて」とまるで自分が主犯格であるかのようにも振る舞っていた。
 あんな「いいやつ」である彼女が?
 いじめを?
 王子は混乱し、金髪をワシャワシャとかく。くそ、全くの想定外だ。なにが試合巧者だよ、俺の馬鹿。えぇっと、次の計画は――。
 そのとき、ばたり、と人の倒れる音がした。
 見下ろした先で、シスターが仰向けになって気絶していた。


 白い天井。
 そして消灯された蛍光灯。遠くからは吹奏楽部のラッパの音や、演劇部の発声なんかが聞こえる。その反響が、室内の静けさを引き立たせていた。
 ベッドに仰向けになったまま、ブランケットの下で、シスターはここが保健室であることを察した。微かに消毒用エタノールの香りが漂っている。窓には薄いピンク色のカーテンがかけられ、空間は仄暗い。
「高いところ、ホントに苦手だったんだな」
 声がして、横を見ると、王子が背中を向けていた。ベッドと同じくらいの高さに腰を合わせるように浮き、うなだれるような姿勢をとっていた。試合に負けたボクサーのようだ。
 彼はぽつりと云った。
「……ごめん。調子に乗っていた」
 シスターは耳を疑った。もしかして、まだ夢なんじゃないか。とまで思った。あの自己中男が、ひどく傷ついたような声で、短くも謝罪の辞を述べてきたのだから。
「いえ……その」
 ブランケットを抱き寄せ、背中を見せるように寝返る。
「もう、大丈夫ですから」
 こんな男にも「申し訳ない」という感情があるのか。
 シスターは妙な関心を抱いた。もしかして自分は、まだ彼の一側面しか知らないのではないか。確かにその「一側面」は業腹で据えかねるものだが、尖った金髪やじゃらじゃらとうるさいロケットの裏側には、やわこくて暖かいような心が、考えにくいが、隠れているのではないか。
 それは王子に限った話ではない。
 ――秋野波。彼女だってそうだ。
「あの子は……」
 背中を向けあったまま二人は話す。
「もう帰ってしまいましたか」
「あぁ。シスターを友人らとここに運んだあと、慌てて帰っていった」
「いじめ……、やはり、あの子がしていたんでしょうか」
「どうやらそうらしい。会話をずっと聞いていたが、秋野が主導権を握るかたちで、一人の女子を色々と痛めつけているみたいだ。……古典的にな」
なってない、と王子は思う。
 秋野ほどの年齢の者が、他人を痛めつけて悦びを感じるとき、もっと謙虚にことを済ませるはずだ。あれは『いじめ』という型を再現しているにすぎない、そんな印象を受ける。
 そういう意味では天使のほうがタチ悪い。王子は自身の冤罪を思い出し、自虐的な笑みをこっそり浮かべた。
「ポイントは?」
「現在、-12。……徳が全然足りない」
「私に考えがあります」シスターが上体を起こし、丸まった華奢な背中へ云った。「いじめを止めさせましょう」
「ダメだ」王子が振りむき、首を振る。「いじめは続けさせる」
「は?」
 目が点となるシスター。
「ど、どうして? いじめですよ?」
「だからだ。いじめは罪の温床だ。これから49日間バランスをとっていくのだと考えれば、あったほうが都合いい」
「そんな――」シスターが、カッとなり声を荒げた。「そんな問題じゃないでしょう!?」
 その怒りには、正論だとも言える王子の言い分に対し、咄嗟に言い返せない悔しさも混じっていた。
 正論めいても、それは確かに間違っているのだ。だから私は否定しなくてはいけない。
 そんな使命感に駆られていた。
「俺にとってはそれが問題なんだ!」王子も負けじと言い返す。「絶対に冤罪を晴らす! だからバランスをとらなくちゃいけない!」
「だからといって、誰かが苦しんでいるのを見逃すの!?」
 ぐ、と今度は王子が言葉に詰まった。
 そして、己を戒めるように云う。
「……見逃すね」
「この外道!」
「外道で結構! 俺は絶対に天界へ帰りたいんだ!」
「もういいです! いい人かもなんて一瞬でも思った私が馬鹿でした!」
 シスターはブランケットを投げ捨てるようにして、ベッドから飛び起きた。その勢いのまま、保健室のドアへずかずか歩いていく。
「どこへ行くんだ!」
「秋野の家です!」彼女が叫んだ。誰かに聞かれてるかもなんて微塵も気にしないまま、高らかに宣言する。
「私がいじめを止めさせる!」

一日目 後編


「えぇ、いじめは本当によくないですね。同感です」
 秋野は苺柄のクッションを抱きつつ、飄々とそんな風に云ってのけた。
「……え?」
 シスターが口をパクパクとさせる。
 正座で向かい合って座る二人に、しばし沈黙が降りた。
 秋野の自室。高校での友人を装ってまんまと家へ侵入したシスターは、「誰ですか」「警察呼びますよ」と警戒心をむき出しにする秋野に、「まぁまぁ」「いいじゃないですか」と謎の行動力を見せると、強引に自室で二人きりとなった。
 これが火事場の馬鹿力か。
 王子は部屋のなかをフワフワと浮きながら、肩をすくめた。
 もしかすると、どう転んでも悪い人には見えないシスターの容姿やオーラが、他人に無条件の信頼を許しているのかもしれない。さすれば、そんなオーラを練り上げた彼女の『善』が、侵入成功の要因といえるかもしれない。
「いじめなんて、一刻も早くこの世から消え去るべきです」
 そう云うと、秋野は、なにかに気がついて立ち上がった。
 シスターが、ようやく声を出す。
「だって、あなた……さっき学校で」
「あれはバランスですよ」
 秋野が向かった先はカレンダーであった。彼女は壁にかけられていたそれを掴み、くるりと裏返す。
 何を隠した、と気になった王子が見ようとするも、もちろんカレンダーは掴めず、また壁とピッタリくっついているため裏側から覗くこともできなかった。
「バランス……?」
「あのいじめられていた子は、中学生のとき、私の親友をいじめていたんです。だから今度は逆」
「でも」ここで否定しなければ、なにかが壊れてしまう気がした。「そんなの……」
「同類かよ」王子が呟いた。
「同類です」その言葉を、シスターが借りた。
「同類……ですか」秋野は静謐に目を閉じた。じっと考える素振りを見せる。実際それは演技で、相手のペースを自分に取り込むためのものであった。
「しかし考えてみて下さい。この世は不公平だから、目には目を、歯には歯を、なんて綺麗事が通じない。だからせめて、私だけでも均衡を保ちたいのです。あの子の、罪と罰の均衡を! さらに言いますと、あれが見せしめや捌け口となるので、うちのクラスじゃ他のいじめが起こりません。起こりえません。――なにか、悪いですか?」
 シスターは、咄嗟に言い返すことができなかった。
 彼女が会話下手で、頭のなかで巡る言葉を上手く発することができないのは確かだ。
 しかしそれ以前に、彼女は、己の傾倒せし正義や善といった概念に対し、よほど無知であった。
 だから言い返せなかった。
 それを見かねたかは分からないが、王子が秋野の耳に向かって叫んでいた。
「お前、なんだ!? 神様か!?」
 ピリピリと空気が痺れるようで、思わずシスターが耳をふさぐ。
 秋野にはその声が聞こえていないため、奇行に走った彼女を訝しげに見下ろしている。
 それに構わず、王子は続ける。
 柄にもなく真剣な剣幕で。
「他人の罪だの罰だのって、お前の勝手で決めるんじゃねぇ! 人間のくせに!」
 ぐーぎゅるるるるる。
 ヒートアップしかけた室内に、そんな気の抜けた音が響いた。
 秋野が耳を赤くして、腹をさする。腹の虫が鳴いたようだ。
 そして彼女は、トドメと言わんばかりに、
「……いじめは悪いって云いましたよね。私のこれも、悪いのですか」
 そう告げた。
 ここで、そうだ、と堂々と言えたならどんなに格好いいだろう。
 シスターはうつむいて拳を固めた。
 しかし悔しいとか悲しいなどといった感情は、湧いてこない。
 あるのは苛立ち。
 本日三回目の苛立ちだ。
 それはある種の揺らぎとも言えた。


「まーなんか色々云ってたけど、秋野が『いいやつ』である事実は消えない。だから、あと12だけ徳を積ませるなんて簡単だ。さ、早く立った!」
 秋野波がアルバイトに赴いたので、シスターは家から追い出された。そしてそのまま、彼女は歩道にしゃがみ込んで動かなくなってしまった。
 地上には、すっかり夜の帳が下りていた。街灯が、白い光を丸くなった少女に落としている。会社帰りのサラリーマンや、犬の散歩をする子供なんかが、怪しげに眺めては通りすぎていった。
 どこかの民家からカレーの匂いが漂っているが、これは王子には分からない。
 王子が、気怠げに鼻から息を吐く。
「なぁ、分かってるとは思うが」
 眼下に見える彼女の頭頂部に言葉を落とす。
「このバランス取りにはタイムリミットがある。天国行き地獄行きを査定しにくるあいつ(・・・)は、午前零時にやってくる。あとほんの数時間だ。そのときポイントが『0』じゃなければ、死後の行き先は決定し、俺はおしまいってわけ」
「……苛々しているんです」
「苛々か」これまた面倒な、と王子は思う。地上にいる女は、外見のレベルも低ければ中身までだるいときた。
「でも私、どうして自分が苛々しているのか分からないんです。今日ずっと! ……あなたもそうだし、あの子もそうだし、……言い方は悪いんですけど、とっても面倒」
 君も大概だぞ、と言いかけたが、火に油を注ぎたくはないので止めた。
「なんでしょうね……これ」
「わからん。とにかく、立って追いかけてくれ」
「苛々していて、そして、迷ってもいるんです」
「迷う?」
「あの子を救うべきか否か。そしてあなたに手を貸すか否か」
 君は、一号さんに借りがあるらしいから、どの道俺と協力しなきゃいけないのでは……と思ったが、これも黙っておいた。
 王子の会話スキルが、「うんうん、なるほど」、と彼をうなずかせた。
 さて、どうしたものか。
 王子は腕組みをして唸ってみる。
 アト数時間で秋野のバランスを取る方法――これに関しては、実際のところ、なんとなく解決法が浮かんでいた。割と一瞬で、パッと徳をプラスさせる方法が。もちろん完璧とは言えない。確実とは言えない。そして、実行に移すためにはアト三つだけピースが足りない。それは、まず、秋野の自室へもう一度忍び込み『確証』を得ること。次に、そこで必要不可欠な『とある情報』を得ること。最後に、このうじうじと情けない『協力者』を再起させること。
 この内の一つでも欠けてしまったり、またはゲットした結果浮かんでいる方法ではダメだと判断せざるを得なくなったりした場合、早急に別の手を打たなくてはいけない。
 そうなると厄介だった。
 さすがに幾つもの手を試している暇はない。大至急、今挙げた三つを満たさなくては。
 ……しかし、そのためにはまず、彼女をどうにかしなくちゃならない。
 なぁに。
 大丈夫さ、俺よ。
 女性を元気付けるなんて、手慣れたもんじゃないか。
 王子は、胸元にかかったロケットを弄び、じゃらりと音を鳴らした。
「なぁ、飯食いに行こうか!」
 突然の明るい声に、シスターが顔を上げる。
「……めし?」
「あぁ。お前が苛々してるのも、世の中上手くいかないのも、全部、お腹が空いているせいなのさ。だから飯を食おう!」
 シスターは、地面に目線を落として少しだけ逡巡してから、立ち上がった。
 確かにお腹が空いていた。


 二人は近場にあった牛丼チェーン店に入った。
 夕飯時だというのに店内に人は少なく、がらんとしていた。
 シスターは、オーソドックスな牛丼の小盛りに半熟卵をトッピングした。そして味噌汁を豚汁に変更するか否か、悩んで、悩んで、悩んで、そのせいでマスクの下が汗で蒸れるほど悩んで、結局止めた。そして、私はいつもこうなんだ、と軽く凹む。
 カウンター席に座って、食券を店員に渡す。若い英国風の外国人であった。受け取ると共に厨房へなにやら叫んでいたが、その合図が独特だったため、内容は聞き取れない。
 置かれたお冷をすぐに飲み切る。やや離れた場所にあったピッチャーを申し訳なさそうに引き寄せて、もう一杯注いだ。そして飲む。ちびちびと、一口は小さいが、しきりに飲む。空になったので、また申し訳なさそうにピッチャーから水を注いだ。歯に痛いほどキンキンに冷えていた。また、飲む。そうやって、牛丼が来るまで時間を潰しているのだ。
 シスターは、天界から堕とされて何年か経っている。地上での暮らしもそれなりに送っている。しかし未だに、一人で飲食店にいるとき、料理が届くまでなにをすればいいのか分かりかねていた。読書するには短いし、じっと一点をみつめるには長すぎる。
 シスターがそうこうしている間、王子は厨房を飛び回って社会科見学に勤しんでいた。「ほぉー」「なにこれ」などと好奇心に溢れた声が聞こえてくる。天使は林檎しか食さないため、それ以外用に開発された調理器具や調理方法が珍しいのだろう。
「おまたせしましたー」
 どん、と牛丼が置かれた。味噌汁と半熟卵と七味唐辛子も一緒だ。
「いただきます」
 シスターは優雅に手を合わせると、さっそく食べはじめた。熱い牛肉をかき分けて、白米を一口大に切り分けていく。なんと箸を使いこなしていた。地上に堕とされてから二年目に猛練習した賜物である。
「さて、そのままでいい」
 王子がカウンターの向かいに浮かんで、話しかける。
「さっき君は……俺に手を貸すか否か悩んでいると云った。その気持ちは分かる。なにせ俺と君は――まぁ有り体に言ってしまえば、反りが合わない」王子がわざとらしく肩をすくめた。「だから俺は、冤罪について話をするよ。俺がなぜ、この地上に堕とされたのか、話そう。……つまり自分の弱い部分を君に晒すわけだ」
 シスターは、目も合わせずに牛肉を頬張っている。
 その一心不乱さに、聞いてんのかな、と心配になる。
「だからというわけではないけど、協力してほしい」
 反応がなくとも聞いているだろう。嫌でも耳に入ってくるはずだ。
 王子は、少し深呼吸をしてから、自身が『冤罪』を被るに至った経緯を語りだした――。


 一度にまくし立てた王子は、さすがに疲れて、ふうと息を吐いた。そして正面を見ると、シスターが大粒の涙を零していた。
 いつの間にか客数の増えていた店内は、空のどんぶりを前にして泣き出した少女に困惑し、騒然となっていた。
「え、ちょっと」さすがに驚いた王子が近づいて訊く。「なんで泣いているの!?」
「……」シスターはうつむいたまま応えない。衆目にいるため当然であった。
 二人は、とりあえず店を出ることにした。
 夜の大通りを歩く。片方は、浮く。
 信号機の事務的な音が聞こえる。車のライトが通りすぎていく。すれ違う人々は、独り言を呟きながらぐずぐずと泣いている少女に、ちらと視線は送るものの、取り立て気にはしなかった。
 シスターが泣き止むまで数分を要した。
 王子は、自分の代わりに彼女が泣いているんじゃないか、なんて思えてきて、気まずい。
「……なぁ、ぎゅうどんってうまいのか」
「美味しいですよ。林檎より」
 シスターが顔を上げる。目の赤みは暗くてよく分からなかったが、泣き止んでいるようだった。ツヤツヤと輝く、得意気な彼女の顔を見て、王子は初めて地上に興味が湧いた。牛肉とは、白米とは、半熟卵とは……一体どんな味なのだろう。
「あなたは間違ってない」
 しばしの沈黙を挟んで、シスターはそう云った。
「あなたは罰を受けるような人間じゃない。……いえ、完全にそうだ、とは言いません。歯に衣着せぬなら、アナタのあらゆる点が嫌いです」
「それはそれは」王子が軽口で応える。
「しかし、全てがそうじゃない」
 言葉を紡ぎながら、シスターはあっと気がついた。これが苛々の正体か。
「必ずやバランスをとりましょう」
 彼女は、握手を求めた。
「あぁ」
 彼は、その手をしっかりと握った。
「じゃあまず、してもらいたいことがある」
「なんなりと」
「秋野の家へもう一度忍び込もう。不法侵入だ!」
「絶対に嫌です」


 真っ暗な秋野波の自室を物色していると、お目当ての『情報』はすぐ手に入れることができた。王子はその『情報』を頭のメモに書き込む。
「どうして私まで……」
 シスターが、スマートフォンのライトで室内を照らしながら嘆く。もちろん、秋野家にいる家族にバレないよう、声にならない声である。
 秋野家侵入の手口は実に単純で、まずは王子がスッと壁をすり抜けてお邪魔する。そして台所の冷蔵庫にて『林檎』を探し、持ち去り、それで上手いこと内側から鍵を開けてしまう……というものだった。
 成功はしたものの、内側のノブがぐしゅぐしゅに濡れてしまった。この力技に問題点は多い。もしノブの形状が林檎で回せないものであったら、詰んでいた。
 室内は非常に質素で、がらんとした印象を受ける。彼女の趣味すら把握できないほどだった。神経質に畳まれたベッドの上の毛布や、教科書や数冊の文庫本がラックに収納されている勉強机……。それ以外は、クローゼットのなかを除いて、ほとんどものがなかった。年頃の女の子であろうに、洋服すら両手の指で足りるほどだ。そのため捜索が楽であった。
「あぁ、これは立派な犯罪です……。もう死にたい……」
「静かにぃ!」王子が大きな声で云う。もちろんあてつけである。「家族がいるんだぞー!」
「なんで私まで……。どうせ視えないんだから、あなた一人でいいでしょう……」
「それだよ」王子が壁を指した。そこには、裏返ったカレンダーがかけられていた。「それを、表向きにしてくれ」
「あー死にたい」
 ぶつぶつ言いながらも、シスターは言われた通りそれを表向きにした。そしてライトで照らし、日程表に書かれたことをザッと読んでみる。
「夕方ここに来たとき、秋野がこれを隠していたんだ。何種類か予測を立てたんだけど……。よし、なるほど……。作戦が定まった」
「これを使って、バランスを取るんですか?」
「あぁ。でも絶対じゃない」王子が、暗闇に慣れてきた目で室内を見回す。「あ、見てよ、これ」
 シスターがそちらにライトを当てる。
 使い込まれた勉強机の上に、一冊のノートが置かれていた。表紙には物騒なタイトルが筆ペンの流麗な筆致で書かれていた。
「『罰リスト』、ねぇ」王子が興味深そうに覗き込む。
 シスターがそっと手にとって、一ページ目をめくってみた。そこには、日記形式で、とある人物の『行動』とそれに伴う『罰』がひたすらに書かれていた。

 吉野ちゃんにひどいいことをいった。 吉野ちゃんが優しくて、言い返さないで笑って
るのをいいことに、ずっといっていた。 罰:取り囲んでの誹謗中傷。
 教科書の隅で吉野ちゃんを叩いた。 罰:後頭部への殴打。
 プリントを吉野ちゃんにだけ渡さなかった。 私が気がついて見せなければどうなって
いたことか。 罰:集団での阻害。
 吉野ちゃんがお手洗いに行っている隙に、筆箱を窓より落としていた。 罰:所有物の
取り上げ。
 吉野ちゃんの前髪を裁ちばさみで切った。 罰:爪。

 パタン、と思わずノートを閉じるシスター。
 その分厚さは四十枚ほど。
 一枚に書かれた量から計算するに、三年間に渡る日記だろう。
 たった一人の人間の、三年分の罪と罰が記され続けている。
「……」
 王子は、シスターの唇が微かに震えているのを見た。
 そして自分の鳥肌が立っているのにも気がついた。
 深い谷でも覗いてしまった気分である。
 秋野波の発言の意味が、それを裏付ける絶望が、だんだんと具体性を帯びて現れてくるようだった。
「誰?」
 そのとき、背後より声がかかった。
 しまった。
 見つかった。
 二人が、冷たい銃口を背中に当てられたかのごとく、ゾッとして振り返る。
 いつの間にかドアが開いていた。その向こう、消灯された廊下に、小さな影が立っていた。
「お姉ちゃん?」
 目を凝らすと、そこには小さな女の子がいた。背格好は小学生になりたてくらいで、キャラクターもののパジャマをまとい、眠たげに目をこすっている。
「お姉ちゃんなの?」
「あ……えと」
 焦燥に言い淀むシスターを、その女の子は怪しんだようで、
「ねぇお父さーん! 知らないお姉さんがー!」
 最悪の反応をみせた。
「まままままま、待って! 待って下さい!」
 慌ててストップをかけるシスター。両手を突き出し、静止のジェスチャーを示す。
「待って! 静かに!」
 不法侵入者のそんな命令など常人ならば耳を貸さないが、相手は幼児期終わりたての子供である。上手いこと言えば誤魔化せるかもしれない。
 ……しかし、口下手な自分にそんなこと可能であろうか。一歩間違えれば、すぐそこのリビングにいる父親へ報告されて、私は前科者になってしまう。
 そのとき、シスターの肩にぽんと手が置かれた。
 王子による助太刀の合図であった。
「あのね、と優しく話せ。刺激しないように」耳元で指示を出す。それはシスターを落ち着ける意味もあった。
「あのね」女の子に届くが、リビングまでは聞こえないほどの声量で、話しかける。
「私は、お姉ちゃんの友達だよ」
「わ、……私は、お姉ちゃんの友達だよ」
「今日はお泊りに来てるんだ」
「今日は、その、お泊りに来てるんだ」
「そうなんだー」女の子は、あまり興味がなさそうにあくびをした。「おとまりね。なんだ」
「うん。……ご、ごめんね。驚かせちゃって」
「ううん。へいきだよ」女の子が胸を張った。
 かわいいなぁ、なんて思う余裕が、今のシスターにはない。
「あれ」女の子が首をかしげる。「お姉ちゃんは?」
 ギクリ、とシスターが固まる。
「お、お、お、お姉ちゃんはその……」
「どこにいるの?」
 冷や汗が背筋を伝っていく。
「落ち着けシスター、大丈夫だ」
 王子が、肩に置いた手に力を込める。
「ゆっくり、ゆっくりと話せ。相手はガキだ。簡単に騙せる」
 こくり、とうなずくシスター。
「……お姉ちゃんはね、もう寝ちゃった!」
「寝ちゃったの?」
「そう。だから静かにしてね」
「ふーん」女の子が、またあくびをした。「でもまだ、おやすみのキス、してもらってない」
 そう云って、部屋のなかへすたすたと入ってきた。
 シスターが息を呑む。焦燥。まずい、お姉ちゃんなんていないのがバレてしまう。騒がれてしまう。
「キスしろ、シスター」王子がそう囁いた。「キスしてやれ」
「お姉ちゃん? どこ?」森で迷子になったように、ふらふらと、暗闇のなかを、女の子が近づいてくる。
「――ここだよ」シスターはそう云って、跪くと、女の子の肩を抱いた。
 そして、小さな接吻を額につけた。
「おやすみなさい」
「おやすみ、お姉ちゃん」
 女の子は満足したようで、目をこすりながら部屋を出ていった。ぱたぱたと廊下の奥へ消えていく。それきり、リビングから音がすることはなかった。告げ口はされなかったらしい。
「……はぁぁぁぁぁぁ………」
 脱力し、その場で崩れ落ちるシスター。鳶座りになって額の汗を拭う。
「よくやった」
 そんな彼女を、王子が素直に褒める。彼も内心バクバクであった。
「生きた心地がしなかったですよ……」彼女の両手は今になって震えだしていた。
「俺もだよ」
「視えないからいいじゃないですか。やっぱり、不法侵入なんてするもんじゃない」
 王子は、全くだ、とうなずきながら、部屋の時計を見上げた。「……さて、休んでいる暇はないぞ。もうすぐ午前零時が来てしまう。さっさとバランスを取りにいこう」


 駅前のファミレスに入ると、秋野波はすぐに発見できた。高校生にしてはギリギリアウトな時間でのバイト帰りだ。空になった小さなドリアの皿を前にして、手を合わせ、「ごちそうさまでした」と呟いていた。至極まっすぐな育ちの良さが伺えた。
 店内に客はまばらであった。ドリンクバーで粘る大学生ぐらいのグループに、スーツに身を包んで安いワインを飲むサラリーマン、一心不乱にスマホをいじり合うカップルなど、誰一人として秋野波を気にしてはいなかった。
 それが違和感なのは、秋野波が未だに学生服を着ているからだ。時刻はもうすぐ午前零時。都の条例として、十八歳以下の午後十一時以降の外出は認められていない。おまわりさんと鉢合わせれば一発で補導ものだ。
 しかし客も、しいては店員も、気にする素振りを見せていない。
 地上もこんなもんか、生きやすいな。と王子は思った。
 嘆かわしいことだ、とシスターは胸を痛めた。
「あなたのいじめを止めにきました」
 そう云って向かいに座ってきた黒いマスクの娘に、秋野がぎょっとして固まる。
 しかしすぐに、いつもの無表情を取り戻した。
「……説得ですか?」慣れている、とでも云いたげに、秋野が頬杖をついた。余裕、の態度である。「なら今日はもう遅いので、明日の暇なときにお願いします」
 そんな彼女へ返事をしないまま、シスターはスマートフォンを突きつけた。
「どうぞ」有無を云わさぬ眼力で、秋野を見据える。
「……なんですか?」
 秋野は少したじろいた。目の前の女性は、ここまで場の主導権を握れる女性であっただろうか。
 警戒して、スマートフォンを受け取らない
「そもそも、あなた一体誰なんですか? 今日一日私に付きまとって……。別の高校の方ですか」
「私ですか? 私は――」
 堕天使ですよ、とはまだ言わない。
「――とにかく、通話をして下さい」
 秋野は、このままでは話が進まないと判断し、しぶしぶスマートフォンを受け取った。そして耳に当てる。
「……もしもし」
「波ちゃん!」
 そしてスピーカーから飛び出してきた声に、驚愕し、目を見開いた。
「え、よ、吉野ちゃん!?」
 通話相手は、秋野波の親友にして、中学時代いじめを受けていたという、あの吉野であった。 
 秋野波の自室をあさっているとき、中学校の卒業アルバムの寄せ書き欄に、吉野の電話番号が書かれていた。恐らく、中学卒業を記念に買ってもらったスマートフォンの連絡先だろう。そう推測し、頭にメモっていた。
 え、なんで?
 秋野波は混乱する。と、同時に少し気分が上がった。久しぶりに大好きな友人と言葉を交わせたのだ。最近は色々あったから……。
「波ちゃん、聞いたよ」語気は強く、言葉を印鑑で一つ一つ押してくるような話し方である。
「なにを?」
「いじめ、してるんだって」
「しっ、ししっ、してないしてない」秋野が目を白黒させだした。どうやら、彼女は吉野に頭が上がらない関係であるらしかった。
「全部聞いたよ、お友達さんから」
 秋野が目の前のおせっかいをキッと睨む。
「今すぐ止めて。というか、仕返しはするなと、私散々言ったよね」
「うん……。云った……」
「なんでダメかも言ったよね」
「……でも」
「でもじゃないの!」吉野が、正面にいるシスターの耳にも届くほど、大きな声で云った。
 ビクッ、と秋野が身体を震わせる。
「人として善くないとか、同類になるとか、そーゆーわけじゃなくて、単に私が不快なの! あなた、親友を不愉快にさせてるの! 分かる?」
「うん……分かる……」
 しょぼーんとして、秋野はうなだれた。
 吉野とやら、我の強い子だ。
 だからこそいじめられたのかもしれないな。馬鹿たちにとって、自我とはすなわち罪であるのだから。――と、王子は身につまされる思いであった。
 秋野は、高校でのいじめを、中学時代にあったいじめの『罰』なのだと話していた。そして部屋には、『罰リスト』なるノートも三年分つけられていた。すると、ここで一つの疑問が生じる。何故彼女は、中学時代にさっさと罰を与えなかったのか、という点である。あんなに至近距離でいじめを観察し、あろうことか詳らかに記して、憎悪を蓄積していったというのに。なぜ、高校に入るまで待ったのか?
 中学では『罰』を執行できなかった、と考えるのが筋だろう。
 そのときはまだ、ストッパーとなる人間が近くにいたのだと――。
「波ちゃんは優しいよ。だからもう止めて。……ね?」
 秋野のスマートフォンを持つ手が震えだした。
 ギリッと歯を食いしばる。
 そして――、
「……分かった。我慢する」
 彼女はそう声を絞り出した。
〈忍耐+8〉


 通話を終えてスマートフォンを返却した秋野は、テーブルに額を打ち付けた。
 ガンッ。
 上半身の力を全て吸い取られたように、人目も気にせず突っ伏した。
「大丈夫ですか?」店内の注目を浴びてしまい、シスターが慌てる。
「……余計なことをしてくれましたね」アクロバティックなお辞儀みたいな姿勢のまま、秋野が云う。「私の計画が、台無しですよ」
「別に続けてもバレないんじゃないですか」
「いや……」秋野が、むくりと起き上がる。諦めたように目を細めていた。
「もう、いいです。止めます。二度も親友を裏切れません」
「逆らえない、の間違いだろ」と、王子が茶々を入れる。
 あぁ、よかった。
 シスターが胸を撫で下ろす。
 そして悲鳴した。
 現在、午後十一時五十九分。あいつ(・・・)が来訪する時刻であった。
「うわぁ、きも」
 王子がそれを見て顔を引きつらせる。
 二人の視線の先で、人間には不可視の化物がファミレス内を闊歩していた。
 大きさは成人男性くらい。巨大なきぐるみが動いているようだ。その姿は人間の『手』を模しており、それがチョキのポーズをとってひっくり返っていた。そして中指を右足、人差し指を左足、のように動かして、のそのそ秋野波へ近寄ってくる。
 『アセサー』と呼ばれる、罪と徳の査定者である。
 王子が秋野へカフスコープを向ける。
〈-4〉
 0にはまだ、アト少しだけ足りない。間に合うのか――。
 王子が焦る。無意識に親指の爪を噛んでいた。
 シスターがこちらを振り返ってくる。大丈夫なんですか、と不安になったのだろう。
 アセサーが、左手――つまり親指を秋野波の胸元へと伸ばす。すると彼女の体内より一冊の分厚い本が抜き出された。アセサーはそれを浮遊させながら引き寄せると、今度は右手――つまり薬指を想像したくない方向へと曲げて、本を両手で抱えるようにした。
 するとアセサーの前に浮かんだ本が、一人でに開き、バラララッとページが高速でめくれていく。
 査定が始まったのだ。
 最後のページまでめくられれば、完了となる。
 つまり、タイムリミットはあと数秒――。
「おまたせしましたー」
 そのとき、アセサーをすり抜けて、一人の店員が料理を運んできた。
 それは、シスターがファミレスに入店すると共に注文しておいた――苺パフェである。
「ど、どうぞ!」慌てて秋野へそれを差し出す。「今日一日、付きまとってしまったお詫びです。食べてください!」
 苺パフェ。
 苺。
 それは秋野の大好物であった。
 ごくり、と彼女が唾を飲み込む。
 そして、
「……いえ、夕飯は済ませたので」
 じっとこらえるように目をつむり、断った。
〈節制+4〉
「査定完了」
 アセサーがくぐもった声をだした。機械的で抑揚がなく、合成してつくったような低い声。
 ……というか声出せるんだあいつ。どっからだよ。てかなんの意味がある。
 王子はツッコミを飲み込んだ。
「秋野波。ポイント総数0。よって、査定は翌午前零時に延期」
 云い終えると、アセサーは両脚――人差し指と中指をぐっと屈伸させ、一気にそれを伸ばすことで、垂直に飛んで消えていった。無音である。蛍光灯も天井も透過するため、その姿はすぐに見えなくなった。
 ――秋野の自室にあったカレンダー。そこには体重の変移が記されていた。秋野波は、急な来客にそれを見られたくなくて裏返したのだ。乙女心、というやつだろう。
 要するに彼女はダイエット中で、それを利用したのだった。
「じゃ、帰りますね。明日も学校あるので」
 秋野が立ち上がる。アセサーの動向に釘付けとなっていたシスターが、慌てて「そっか!」と返事をする。
「礼は言いまふぇんふぁ――」
 ぐわっと、秋野が泣き出した。
「あれ?」
 彼女は、自分が泣いているのが不思議で仕方ないといった風にキョトンとしていた。慌てて制服の袖口で涙を拭う。
「おかしいな……。やっぱ人間、溜め込んじゃダメですね」
 拭っても拭っても涙が止まらなくなってしまった。
 やがて彼女は、濡れそぼった袖口を見て、拭うことを諦めた。ぼたぼたと涙が垂れっぱなしになっている。
「あの」シスターがハンカチを差し出す。「これ、どうぞ」
「いえ」秋野は断った。「このまま、流しながら帰りますので。それが私への罰です」
 その言葉を最後に、彼女は自分のぶんだけ会計を済ませ、店内から去っていった。店員や客は、その背中を呆然と見送っていた。
「ふー、やれやれ」
 王子が、シスターの正面に移動し、座るように高度を合わせる。
「なんとかなったな……」
「えぇ」どっと疲れがきたようで、シスターはテーブルに上体を投げた。行儀が悪いとか今は言ってられない。「疲れました」
 はぁー……と、二人はそろって長い溜息をついた。
 シスターは、上目でチラリと王子を見て、言うべきか否か迷ってから、こう呟いた。
「いじめ――、やはり続けさせても良かったでしょうか」
「……」
 珍しく王子は応えなかった。彼にも分からなかったのだ。
「それ、食べれば」
 誤魔化すように、苺パフェを顎で指す。
 高さは30センチほどで、放置されていたため結露の汗が輝いている。ドーム状のアイスや苺味のウエハースを頂上に、ムース、コンフレーク、ゼリー、と糖分の断層が立っていた。
 そう言えば最近、甘い物食べてなかったな。
「まぁ、疲れてますし……」
 誰に対してなのかよく分からない言い訳をしてから、シスターは長細いスプーンを手に取った。そしてパフェの最上部に盛られている、苺ジャムがまんべんなくかかったバニラアイスを、少量すくい取る。
 黒いマスクを下にずらして、久々の甘味を舌の上に乗せた。
「……美味しい」
 思わず顔が綻ぶほどに、それは甘かった。


 しばらくパフェを楽しんでいると、店の外から大きな音が響いてきた。
 甲高いブレーキ音と、衝突音。そして鉄製のなにかがひしゃげる音。
 王子が様子を見に、店をすり抜けて飛んでいくと、少し離れたところにある道路にて車がガードレールに突っ込んでいた。
 そして傍には、跳ねられたのか、女性が一人倒れている。どう見たってその学生服は秋野波であった。



 【第一話 了】
 【秋野波死亡まで残り48日】

テンシかアクマ 初日戦

七話くらい続きます。

テンシかアクマ 初日戦

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-06-20

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