眼鏡
「ちょっとこの眼鏡をかけてみてください」
いきなり銀座のホコテンで声をかけられた。
相手は眼鏡こそかけているが、どこぞの女優と言ってもよいような綺麗な女性である。彼女は眼鏡を私に突きつけた。やはり眼鏡売りか。
手の中には何の変哲もない眼鏡があった。
「かけてみて」
ただかけるだけでは問題ないだろう。眼鏡を受け取りかけてみた。
なんだこれは、銀座の歩行者天国を歩く人々がみんな茸に見える。
多種多様な形をした茸が、くねくねと銀座通りを歩いていく。
思わず、「え」と声を上げてしまった。
眼鏡をはずした。
そこはいつも銀座の通りだった。新しいタイプの玩具のようだ。
もう一度眼鏡をかけてみた。
茸が銀座の通りを歩いている。鎖に繋がった茸を連れた茸がいる。
眼鏡をはずしてみた。
ポメラニアンを連れた女性であった。犬も茸だ。
「いかがです」
女性が私をみた。
「いかがって、売っているのですか」
「ええ」
「でも、茸に見えてどのようなメリットがあるのでしょう」
「おや、あなたには茸でしたか」
「それ、どういうことです」
「人によっては、人間が猫に見えたり、犬に見えたり、インコだったり、さまざまです、ときには蝙蝠が見える人もいます」
「なぜ、私は茸なんですか」
「それは、私のほうでお聞きしたいくらいなのですが、茸がお好きなのではないでしょうか」
「特に茸が好きという事はありません」
「それでは、あなたの好きな人が茸を好きだとか」
それを聞いて、あっと思った、そうなのだ、彼は茸が好きで、写真を撮ったり、世界中の茸の切手を集めたりしている。
私はうなずいた。
「そうでしょう、どうです、この眼鏡、買っていただけますか」
彼は無類の茸好きである、喜ぶことは目に見えて分かる。
「お高いのでしょう」
「ええ、五万です、でもそれだけの事はあります」
「彼がかけたら必ず茸がみえるのですか」
「いいえ、一人用のものを貸しても見えません。もし共有したいのなら、友人用とか、家族用のものがあります。ただ値段は高くなります」
「それじゃあ、彼には茸がみえないのですね」
「はい、ただのガラス眼鏡です、しかし二人用を特別に五万でおゆずりしましょう」
五万とは私にとって大金であるが、彼が喜ぶかもしれない。考えていた以上の原稿料が入ったばかりである。
私はもう一度その眼鏡をかけてみた。茸たちが群れていたり、歩いていたり、二人で寄り添っていたり、銀座の道を茸が行きかっている。
彼の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。仕掛けがどうなっているのか考えもしなかった。ただそのときふと疑問に思った。
「なぜ私には自分の好きなものが見えないのかしら」
「今までの経験では、その人が特別に好むものがなかったり、その人が余りにも誰かを愛していたりすると、自分の好みではないものになってしまうのです」
恋愛中の自分に当てはまる、彼がいなければ私は仕事に打ち込めない。
「どちらにも当てはまらなかったどうなるのかしら」
「そういう方もいらっしゃいました、そういう方は眼鏡をかけると、何も変わらないじゃない、とおっしゃいます」
「その時はどうするの」
「人間を何かに変えて差し上げます、私の好きな揚羽蝶にしたり、その人がこのみそうな生き物にしてさしあげます」
「それで売れますの」
「ええ、かなり売れました。銀座の真ん中を綺麗なアゲハチョウが歩く姿はすてきなものです、ただ一度失敗しました、その方は昆虫が大きらいで、おー気味が悪いと、逃げてしまわれました」
想像するとちょっと頬が緩んだ。
「これどんな仕掛けなのです」
とうとう聞いた。彼女はそれを聞いてちょっと笑みを浮かべた。
「企業秘密なのです、もしそれを説明しても一般の方には難しいかもしれません」
「現代の科学ですか」
「はい、超未来的です、もう一度おかけになってみますか」
「いえいいわ、原理なんて難しくて私にはわからないでしょう、いただくわ、彼に土産にしましょう」
「ありがとうございます、この眼鏡の欠点は目に負担をかけます。あまり使いすぎると疲れますので楽しむ程度にしてください」
ピンク色のケースに眼鏡を入れて渡してくれた。
私は、銀行でおろした中から五万円を渡した。
原理など分からなくてもいいという気持ちがいつも私の心の角にある。不思議だ不思議だ、だけど面白い、そういう世界に浸っている方が楽で幸せなのだ。テレビだってどうして映るのか全く分からない。
私は幻想小説家のかけだしである。それでも月にいくつかの依頼はくる。本はまだ三冊しか出していないが、読者からの反響は悪いものではない。小説を書くことに情熱を燃やして、三十も半ばになってしまった。いっぱしに結婚や恋愛は無理と思っていたが、彼とは秋田の湯沢で出会った。
秋深まった季節に、私のほうは雪の深い湯沢地方を舞台にした幻想的なものを一本書くつもりで風習と風景の取材に行った。彼は動植物写真家の卵で、好きな茸の写真を中心に撮っていた。湯沢駅の近くにあるホテルの夕食会場でテーブルが隣になった。話を聞くと、次の日には湯沢の奥の小安峡にいくということだった。そこは渓谷もあり、からふきという蒸気が噴出す渓谷があり、山には茸も多く、幻想的な場所だと彼は言った。小安の温泉はひなびていてとてもいいということもきき、彼の予約している太郎兵衛旅館に私も一泊することにした。
次の日、湯沢駅から一時間ほどかけバスで小安峡にいった。宿に荷物を宿にあずけ、山の中に入った。山道を歩いていくと茸がたくさん出ていた。彼は茸の写真を撮り、名前を調べるため採取してバックにいれる。
私にとってはじめてみる茸の群れは幻想的であり、林の様子や山の様子は幻想をうみだす状況描写にはもってこいのところであり、丹念に記録を取った。そうやって、一日、山の空気に包まれてすごした。小安はとても雪の深いところだそうで、冬の雪景色もすばらしく、雪女も出そうな場所だと、宿の人は言った。
夕飯食べながら彼の顔をつくづく見た。色が白く少年のような彼はとても繊細で、気を使い、私のたりないところを補ってくれるようなところがあった。彼は幻想小説についても私より詳しいくらいだった。彼は何日か逗留して写真を撮る予定だという。もっといたかったのだが、自分の本を贈る約束をして私は湯沢を離れた。
その後、本を贈ったり会ってお互いの作品に意見を言ったりしているうちに、私のほうが彼の虜になったようである。五つも年下であるが、感覚的には私などよりはるかに大人で、強い柱を体の中にもっている。彼の仕事も順調で、茸の写真集が二冊出版されている。といって、それだけでは食べていく事は難しく、百科事典の編集を手伝ったり、有名写真家の助手をつとめたりして生計を立てている。
私はたまに彼のアパートに行き、差し入れをしたり、時として下手なりに夕食を作り一晩をすごした。
今日もそのつもりで、ワインや食材を買い込んで、土産に何かないか銀座にきたわけである。この眼鏡が土産になった。
私は眼鏡を買いもの袋にいれると新橋駅にむかった。振り返えると、眼鏡を売っていた女性の姿は無かった。
新橋から品川に出て、彼のマンションに行った。十階建てのマンションの三階に住んでいる。呼び鈴を押した。
彼は自分の作品をコンピューター上で作品集に仕上げているところであった。
「いらっしゃい」、彼は玄関にでて来ると、買い物袋を私から受け取り、台所に持っていった。
「今日、塔舷舎の原稿料が入ったの」
「へー、それはすごいね」
「五十枚書いて二十五万だった」
「すごくいいね」
本当はもっとほしいところだが、駆け出しだからしょうがない。
「書き下ろしの幻想小説集で、結構偉い人の作品も入るのですって、意識しちゃって、書くのに二ヶ月かかっちゃった」
私は、キッチンで、スパゲッティーの用意をするため、買い物袋から食材を出した。
「そうだ、こんなもの買ってきた。ちょっと掛けてみて」
私はピンクのケースに入った眼鏡を彼に渡した。
「なんだい、女性用の眼鏡かい」
「いいから、かけてみて」
彼は眼鏡ケースを開けて、中から銀縁の眼鏡を取り出した。
「目は悪くないよ、老眼には程遠いしね」といぶかしげに眼鏡をかけた。
「あ、君が緑色の茸に見える、ずんどうな茸が動いている」
「エー、私が緑色の茸になっちゃったの、しかもずん胴ってなによ」
彼はそのまま窓際に行って地上を見下ろした。
「ははは、茸が自転車に乗っている。なんだいこの眼鏡は、どういう仕組みなんだ、面白いおもちゃだな」
「分からないわ、銀座で呼び止められて売りつけられたの」
「小さな茸をいくつもつれた大きな茸が歩いている」
私が下をみると、五匹も犬を連れた男の人が歩いていた。
「あ、茸が飛んできた」
鳩が窓を横切っていった。
彼が眼鏡をはずしたので「ちょっと貸して」と私は自分で掛けてみた。
彼を見た。
「僕はどんな茸に見える」
「ふふふ、白くてくねくねしている」
テレビの中の人間も茸に変身した。
「これを記録できないかなあ、面白いアニメーションになる」
テレビを見ながら彼は残念がった。
「今年の八月の終わり頃から十月まで、長野の貸し別荘を借りようかと思っているの、書き下ろしの小説集を頼まれたのよ」
「いいね、ちょうどいい季節だ、茸にも」
「あなたも来る」
「うん、九月の終わりか、十月にはいくよ、長野なら車で行く」
「それはいいわ、私もいろいろ連れてってもらう、刺激がないと書けないものね」
「僕は茸探しだよ」
「それでもいいのよ、部屋にこもって書いていると面白いものができないもの」
その日は眼鏡で大いに遊び夜が更けた。
八月に入り暑い日が続くようになった。私は出版社の伝で長野の富士見町に貸し別荘を借りた。中央本線小淵沢駅からタクシーで三十分ほどのところにあるリゾート地である。私は運転ができないので、タクシーを利用する他なかったが、彼がくれば車がある。色々なところに行ける。
貸し別荘は林に囲まれたとてもいい環境にあった。部屋は寝室にくわえ、二部屋があり、一つは私の執筆、もう一つは彼の写真を整理する部屋に当てた。
九月の終わりになって彼が来た。彼は貸し別荘の一階の広いベランダに椅子を出し腰掛けて眼鏡をかけて周りを見て大声を上げた。杉の木に茸がちょろちょろ登っていると笑った。茸がさえずっているよといちいち報告しに来た。
ベランダから降りて蟻の行列を見て、小さな茸がぴょこぴょこ行列してらと、私を呼んでかけて見ろと眼鏡を渡された。いろいろな色の米粒のような茸が一列で歩いているさまは確かに微笑ましい。
十月いっぱい、彼は貸し別荘を根城にして茸や植物の写真を撮る計画をたてた。私にとっても嬉しいことであった。今回の小説は短編の連作にする予定である。五十から七十枚のものを七-八編書くつもりであった。九月にはいっても、まだ二編しか完成していない。しかし彼と一緒に茸の写真を撮りに山に入るようになって、書くスピードもあがった。十月の半ばには六編ほどできた。最後の一遍のモチーフがなかなか浮かばない。
私が夜遅くまでコンピューターを前に考えていると、彼が夜に外に出るようになった。私が部屋から出てみると、頭にヘッドライトをつけ、フラッシュをつけた写真機を携えていた。なぜか銀座で買った眼鏡を必ずもってでた。
「これから撮影にいくの」
「うん、夜の動物を撮ってみようと思っているんだ」
「気をつけてね」
私が眠気を覚えベッドに入る時刻になっても、彼は帰ってこなかった。朝になると、隣のベッドでぐっすりと寝ていて、食事のときにもなかなか起きてこなかった。それが毎晩続くようになった。
「あなた、大丈夫」
私は少しやつれたような彼に声をかけた。
「大丈夫だよ」と声は元気であるし、私も最後の小説がうまく進まない事もあり、彼のことは気にかけることをしなかった。
彼はだんだん痩せてきた。私に手を伸ばそうともしなくなった。少し前までは、ぐっすり寝ている私に覆いかぶさってきて起こされたものであったのだが。
だんだん彼は昼間も寝ているようになった。
私もそうなると、気になってきた。
「何か面白いものをみつけたの」と聞くと、「まあね」とはぐらかす。
そんなある日の夜、私はなかなか進まない文章に嫌気が差していた。いつものように、彼が外に出る支度をしている音が聞こえた。書いている小説の中に組み込めるようなことがあるかもしれないと思った私は、彼の邪魔をしないようにそうっと後を付けることにした。小さなペンライトを持って、気付かれぬように外に出た。彼のヘッドライトの灯りが道の脇を進んでいくのが見える。私は彼の後を付いていった。
貸し別荘の脇に外灯があるが、家と家が離れていることもあり、辺りに明かりはほんのちらほらとしか見えない。光が木でさえぎられると、まわりは真っ暗である。
彼は貸し別荘から少し下におりたところで、林の中にはいっていく。茸がでそうなところではある。しかし茸なら夜中でなくても良いはずだ。夜行動物の観察か
私も間をおいて林に入った。ペンライトで脇を照らし彼の姿を見失わないようにすすむと、最近木を切り出したと思われる、少し広い草地で彼は立ち止まった。木々に囲まれて、いくつもの切り株が羊歯におおわれている。私は藪の中でライトを消した。
彼は斜面脇の切り株に近寄ると、あの眼鏡をかけてヘッドライトを消した。黒い影が切り株の脇に立っている。彼の影が動いて、黒いものに抱きつくように倒れこんだ。
なんだろう、全く分からないがこれ以上近づく事はできない。黒い影が揺れているが、動いているのは彼だけのようである。暫らく見ていたが、その動きは終わることなく、私も疲れてきたので、そのまま引き返すことにした。もっと近づいて確かめたい気持もあったが、彼の邪魔になるようなこともしたくない。きっと彼なりの目的があるのだろう。そのうちはなしてくれるだろう。昼間に来てみることにしよう。
その夜も彼は私の気付かない間にベッドに戻っていた。
彼が起きてくるのは昼過ぎのことが多くなっている。今日の朝も起きてくる気配は全くない。
朝食を準備する前に、私は彼が机の上においておいた眼鏡をもち、昨日行った林の中に入ってみることにした。
藪をかき分け、切り株のところまで来ると、今まで見たことのないような大きな茸が脇に生えている。高さは私と同じくらいだから、一メートル六十センチもあるだろう。白い幹に奇麗な赤い傘がのっている。とても綺麗な特大の茸である。何かに似ていた。私は諏訪の北澤美術館で見たガレの一夜茸のランプの傘を思い出した。
私は眼鏡をかけてみた。そこで驚愕の事実が分かった。この眼鏡をかけて生き物を見るとみな茸に見える。まさかであるが、茸そのものをこの眼鏡をかけてみると生身の人間に見えるのである。私は大きな茸の近くに生えている小さな茸を見た。それはかわいらしい人間の子どもであった。
私はため息が出た。彼はこれにおぼれていたのだ。
切り株の脇に生えている大きな茸は、それはそれはとても綺麗な女の子であった。しかも一糸まとわぬ綺麗な体にわたしはまたため息をついた。その女の子は絹のように白い足を少し広げ、大きな目をして私を見た。綺麗な足、可愛い顔、私はすべてを理解した。
眼鏡をはずした。そこには大きな茸が生えているだけである。近寄ってみると、茸の幹に穴があり、粘液が満たされていた。それが何であるかすぐに分かった。
私は、落ちていた枯れ枝を拾うと、その茸の傘をずたずたに引き裂いた。幹にも枝を打ちつけた、穴から白い液が漏れ出した。私は後も見ずに逃げ出した。茸に嫉妬する、そんな馬鹿なと思うかもしれない。だが私はそうだった。あんな綺麗な子が世の中にいたら、どんな女性でもその女の子がいることそのものに嫉妬するだろう。私はそれだけでなく、彼をとられたのである。嫉妬することが許される。そう思った。そんな情熱は私には備わっていないと思っていたのだが、その高まりは逆に自分に女を感じた初めてのむしろ嬉しさかもしれない。
私は貸し別荘に帰ると、眼鏡を元にもどして、執筆の部屋にもどった。私はコンピューターを前に、キーに指をのばした。今あったことを自分の気持ちと共に書き留めたかった。
夜中になると彼は起きだし、眼鏡を持って外に出て行った。私は居間で彼の帰りを待った。
それは、そんなに時間がかからなかった。彼は目を真っ赤にむき出して、髪の毛を逆立てて、走ってもどってきた。家に飛び込むと私がいるのも目に入らないようで、がたがたと震えながら、居間の隅で足を抱えてうずくまり、眼鏡を放り出した。彼の大きく見開いた瞳は空をみていた。
私は、放り出された眼鏡を拾うと、懐中電灯を持って切り株のところにいった。眼鏡をかけた。そこには切り裂かれ、顔のあちらこちらに赤い血にまみれた肉がはじきだされている女性が、赤い目をむき出して死んでいた。手足は千切れそうになるまで深く切りつけられ、股間からは血が垂れていた。
貸し別荘に戻ってみると、彼は壁に自分の頭を打ちつけ血を流していた。私は彼の手足を縛り救急車を呼んだ。
彼は今、都下の病院の閉鎖病棟でうつろな目をして闘病生活を送っている。
私はこの話をフィクションとして発表し、幻想小説の登竜門といわれる賞をいただいた。彼の感性のおかげである。彼が元に戻るのをいつまでも待つつもりでいる。
眼鏡
私家版 第十三茸小説集「珍茸件、2022、一粒書房」所収
茸写真:著者: 東京都日野市南平 16-6-26