彼岸の光(12)

尾川喜三太 作

第十二章 世にも生真面目なふたりの実存(習作1)

 夜はしら〴〵と明(あ)け離(はな)れた。明(あけ)六(むッ)つにも未だ満たない。空(そら)の氣色(けしき)は目出度(めでた)きに、緑青(ろくしょう)を作(な)して霑(しお)らす朝露(あさつゆ)が、屋根(やね)の勾配(こうばい)を繁(しじ)に辷(すべ)って、樋(とい)を傳(つた)わる律動(りつどう)と、樋口(ひぐち)を落ちる滴(てき)又(また)滴(てき)、湿潤(しっとり)とした雀のさやぎを兩三聲(りょうさんせい)、眞(み)幸(ゆき)は戸外(こがい)に聞いた。
慵(ものう)い眼(まなこ)を強(し)いて睜(みは)ると、身體(からだ)はぴんと気を付けの姿勢で、掻巻(かいまき)の袖(そで)も亂(みだ)さず、今しも葬礼(そうれい)に出され兼(か)ねない體(てい)で納まっている自分を見出した。何だか無性に眩(まぶ)しい。櫺子(れんじ)が白(しら)むは未(ま)だしきに、何(ど)うした具合か、天井が丁度霜夜(しもよ)の白浪(しらなみ)を映すかのように波搏(なみう)つのが見える。それでもしやと思い當(あた)った。この鈍重に凝(こご)った水銀のような重圍(ちょうい)を衝(つ)いて出(で)るのは大儀だが、止むを得まい、發奮(はずみ)をつけて夜具(やぐ)を刎(は)ねると、そのまゝ窓邊(まどべ)に寄った。窓下(そうか)に据えた唐机(とうづくえ)越しに、及(およ)び腰(ごし)になって、肘(ひじ)懸(か)けの玻璃(ガラス)障子(しょうじ)をがたぴし云わせて左手(ゆんで)に排(はい)した。
 や、これはと聲(こゑ)を呑(の)んだ。春霞(はるがすみ)だ。然も異樣(あや)に濃(こま)やかな綿飴のようで、向(む)こう山(やま)の腰(こし)を纏(まと)うた無垢(むく)の餘波(なごり)が腰(こし)屋根(やね)と擦々(すれすれ)なところを棚引(たなび)いている。まるで洪(で)水(みず)の跡(あと)だ。山(やま)の端(は)はハヤ薔薇(しょうび)に色解(いろと)け初(そ)めても、夜(よる)の潮(うしお)が退(ひ)くだけで、一道(いちどう)の光(こう)芒(ぼう)とてないが、この綿飴が自ずから光を孕(はら)んで四邊(あたり)を照らした。よう〳〵家屋敷(いえやしき)の瓦屋根(かわらやね)がぽつ〳〵天窓(あたま)を擡(もた)げるほどで、暁(あかと)闇(きやみ)の濡(ぬれ)色(いろ)に照(て)り栄(は)える状(さま)が、鼇(ごう)背(はい)のようである。左手(ゆんで)は山留(やまど)め、右手(めて)は谷(や)戸口(とぐち)、前は野良傳(のらづた)ひの細道(ほそみち)に面(めん)しているが、徐(やお)ら裾(すそ)山(やま)が左(さ)右(ゆう)に分かれて里方(さとかた)と落ち合うあたりまで、頽(なだ)れ入ったような同じ霞であった。山峡(やまかい)は其分(そのぶん)浅く、百有餘丈(ひゃくゆうよじょう)の葉山(はやま)繁山(しげやま)は満潮の離(はな)れ磯(そ)を見るに異(こと)ならない。
「あゝ、矢(や)ッ張(ぱ)り越して来て正解だった。こういう風景が未だ世に残って居るとはね。怪我(けが)の功名(こうみょう)だ」
 雲間(くもま)を洩(も)れる高樓(たかどの)に御簾(みす)を挑(かか)げる心地して、遊魂(ゆうこん)半(なか)ば天(てん)に朝(ちょう)したが、それも良(やや)あつて我(われ)に復(かえ)ると、我(わ)が意(い)を得(え)たりと手(て)を拍(う)ちて、笑(ゑ)みまく欲(ほ)しき心地(ここち)しつ。あゝ奈麻餘美(なまよみ)の甲斐(かい)こそあれ。
 謂(い)ふ時遲(おそ)く、燧石(ひうち)を打つようなガスライターの音がした。思わずと(、)胸(むね)を吐(つ)いて窓際から二三歩後邊(あとべ)に身(み)を退(ひ)いた。
 俯(うつむ)け樣(ざま)に、立(た)ち籠(こ)めた霞をなおよく透かすと、納屋(なや)の軒頭(のきさき)に人(ひと)影(かげ)があって葉巻(シガー)を一服吸い付けていた。果(はた)して叔父に極(きわ)まった。この人は以前泊まりに来た時も夜(よ)聡(ざと)くて夙興(はやおき)だった。褞袍(どてら)に庭下駄を亂次(しだら)なく突ッ懸けて其處等(そこいら)一回りするのが習慣(ならわし)になっている。独語(ひとりごと)を聞かれたか知らと果敢(はか)ない事に拘泥(こだわ)ったが、叔父は此方(こなた)を見も返らず、長閑(のどか)に煙(けむり)を輪(わ)に吹(ふ)いていた。
 この晨朝(しんちょう)の勝景(しょうけい)に唯(ただ)一人(ひとり)相對(あいたい)していると思ったばかりに、他に遊客(ゆうかく)がいると分かると、奇観と云うことから来る感興も忽地(たちまち)削(そ)がれた。夥しい衆生(しゅじょう)の目に晒す爲だけに殊(こと)更(さら)管理されている名所舊跡(めいしょきゅうせき)、或いは土地の者には最早日常と化して、人目(ひとめ)の繁(しげ)くありしかば、數(かず)限(かぎ)りもない手垢(てあか)の着(つ)いた凡庸(ぼんよう)な一風景、そんな感じがした。
 滔天(とうてん)のうつろいを具(つぶさ)に見ようとも考えたが、嚏(くさみ)を一つしたのを機會(しほ)に、よう〳〵寒さを覺えて渠(かれ)は障子の陰に身を蔵(かく)した。
 パーカーを引(ひ)ッ張(ぱ)り、蒲團(ふとん)を脇(わき)に片寄(かたよ)せて、卓上燈(たくじょうとう)のスイッチを捻(ひね)り、昨夜(きぞ)の夜(よ)から持ち越したエックハルト説教集の机へと這い摺るように座(ざ)に直(なお)った。昨夜中に濟ませる心算(つもり)が、拾った言葉が意味になる前から目先を上擦(うわず)るばかりで、捗々(はかばか)しくなくなると、五十頁ほど残して屑(いさぎよ)く就褥(しゅうじょく)した。僥倖(さいわい)、目が醒めて可(よ)かった。恰(あたか)も日曜で、今日には直生(なお)に却(かえ)したかった。
 大學の寄宿舎から退いて以来(このかた)、既に六日を數えた。半ば逐(お)われた形で、半ば諭旨(ゆし)で爾(しか)する形で。何、詰まらぬ顚(てん)末(まつ)だ。地體(ぢたい)同僚との折合(おりあい)が悪かったところへ、一小事を契機(けいき)に破裂したばかりだ。また云う機会もあろう。
 さは云え、叔父の処置(はからい)で宛(あて)がわれたこの一間、思(おも)うさま使えと云われたものの、二人部屋の六畳敷(ろくじょうしき)から越して来た行(ゆ)き懸(が)かり上、些(ち)と広過ぎる。舊(もと)は蚕室(さんしつ)だったと覺(おぼ)しき納屋の二階を、無理に畳敷(たたみじき)に直した十二畳間に、総桐(そうぎり)の箪笥(たんす)、頭(ず)陀(だ)袋(ぶくろ)、揚板(あげいた)、火桶(ひおけ)、長机、座蒲團、掃(は)き出(だ)せないのをそのまゝに、或種(あるしゅ)集會所の體(てい)をなしている。長(なげ)押(し)からは幾多の賞状や書画の類(たぐい)が額縁入りで懸かって、三方に採光(さいこう)の窓はあるが、漏斗状(ろうとじょう)の笠を被った電球一つで當(とう)面(めん)立ち行くか否か、甚だ怪しい。それでも寝覺(ねざめ)の狭間(はざま)にある時は、ここが何処か、姑(しばら)く思い出せなかった。
 そして明け方は寂寞(ひっそり)として彌(いや)が上にもうそ寒い。有明(ありあけ)の薄明りの中に、書棚(しょだな)も茶箪笥(ちゃだんす)も一閑張(いっかんば)りの机も、いずれ調度(ちょうど)は色(いろ)の褪(さ)めた年數物(ねんすうもの)で、死(し)灰(かい)のように冷たくなって片隅に蹲(うずくま)っている。一丈の寝床(ねどこ)を中央に据えると、身體(からだ)を横たえてさえ何となく心許(こころもと)ない。眠って居る間に、滄海(そうかい)に一艘(いっぱい)の捨(すて)小舟(おぶね)という鹽梅式(あんばいしき)で、見も知らぬ沖に流されても少しも怪しむに足らない、山なりに竿(さお)縁(ぶち)を渡した、廓(かく)廖(りょう)たる屋根(やね)裏(うら)だった。
 一時(いっとき)が半刻(はんこく)は書見に餘(よ)念(ねん)なかった。
 終盤にかけて抄出(しょうしゅつ)に足る記述が減る。どれも異口同音(いくどうおん)の反覆だ。扨(さて)やっとこれで片付くと思った頃、座敷の脇に取り付けた段(だん)梯(はし)子(こ)が、足音を得(え)盗み敢(あ)えず、鼠鳴(ねずみな)きする檜板(ひのきいた)をそろ〳〵攀(よ)じて、誰かが登って来るらしい。
 隔(へだ)ての唐紙(ふすま)を細目(ほそめ)に明(あ)けた、僅(わず)かな隙間に、身を側(そば)めて、擦り抜けて、遠(とお)寄(よ)せに渠に近寄って来る。自分では未だ足音を盗み果(おお)せている心算(つもり)やらむと最(いと)可笑(をか)し。笑いたさをば堪(こら)えつゝ、眞幸は一心に読み耽る眞似(まね)をした。「……」
 とばかりの間、書面に目を落としているばかりで、豫(かね)て大仰に所(しょ)作(さ)る構えは怠(おこた)りないが、背中をど衝(つ)くなり、撓(しな)垂(だ)れ懸かるなりしそうに思って居ても、一向にうんともすんとも云わない。些(ち)と氣味が悪くなって、肩越しに背後(そびら)を見返ったが、誰も居(ゐ)ない。
「あれ?」と口の裡(うち)で云いつつ、身を捩(よじ)るといよゝ誰も居ない。狐に抓(つま)まれたような気がして、
「ちぇッ、矢鱈初心振(ぶ)っても、結局獨芝居(ひとりしばい)で終わるんだから、馬鹿々々しい」
など獨語(ひとりご)ちて、小学生對手(あいて)でも芝居氣(しばいげ)を出そうとする自分の下等さが、心に一抹(いちまつ)の苦汁(くじゅう)を垂らして、苦り切った顔色(がんしょく)でまた舊(もと)の座(ざ)に復(かえ)った。
「馬鹿々々しいなら讀(よ)まなけりゃいいじゃん」
「わあ!」と思わず血聲(ちごゑ)を絞(しぼ)って、がたんと机を膝で蹴上(けあ)げてから、二三尺飛(と)び退(すさ)った。従妹(じゅうまい)も皿大(さらだい)の眼(まなこ)を睜(みは)って、後樣(うしろざま)に畳に手を支(つ)き、勿怪(もっけ)な顔付。洗髪(あらいがみ)の結目(ゆいめ)を切(き)って、山吹(やまぶき)色(いろ)の寝(ね)間着(まき)に棒(ぼう)縞(じま)の綿入(わたいれ)を羽織っている。當(とう)年(ねん)十一。
「え、なに、ゴキブリでも居(ゐ)たの」
「もう、居たんなら聲(こゑ)懸けて呉れなきゃ」
「いや、だって、私は知(し)らないもの」
何だか噛み合わないので、一圓(ひとまど)間(ま)を措(お)いて、「居たんなら何か云って呉れないと。餘(あんま)り心(しん)の蔵(ぞう)に悪いよ」つく〴〵知らぬ間に忍び寄るのに達(たっ)した家族だ。「大學生の癖に、ビビりなのね」「大學生は關係ないでしょ」
 様子から察するに、従妹はそう狎(な)れ狎(な)れしい挨拶(あいしら)いを控えるだけの、品(しな)よい慎みを持って居た。年嵩(としかさ)に對しては誰彼を問わず、黙って後に従おうと云う、巧(たく)まぬ礼節が辨(わきま)えられている。こう云う人間は謂わば良師(りょうし)を見出す伯楽(はくらく)で、人に憾(うら)まれず、海(かい)綿(めん)のように素直に知識を蓄えるだろう。それに引き替え、笑止(しょうし)や自分の性(さが)無(な)さよ。
 にも拘わらず、叔父一家がここへ越して来たのも、一つは長女が學校に馴染まなかった爲だと聞いた。まだ詳しくは訊(き)いて見ないが、いかさま曰(いわ)くありげだ。
 そんな愚物の思惑(おもわく)を餘所(よそ)に、机上に熱心に眼を注(そそ)いで、「何読んでるの?」
「あゝ、これ。左(さ)まで面白くもないよ、退屈だし」と、寄木學(よせぎがく)問(もん)の手前(てまえ)、極(き)まりの悪(わる)さも手傳(てつだ)って、思っても見ない事を口(くち)の端(は)に上(のぼ)せる。
「矢(や)ッ張(ぱ)り、面白くないんじゃん。だったらどうして」
「曲(まが)りなりにも學問って云うからは、そうじゃないとね。坂路(さか)に腕車(わんしゃ)を押すような」
「變(へん)なの。好きな事をすれば可(い)いのに」つく〴〵合點(がてん)し兼(か)ねる風情(ふぜい)にて、眞幸と几(き)案(あん)とを等分(とうぶん)にた比(くら)べる。
「神學書(しんがくしょ)だよ。ほら、聖書中の寸言隻句を擅(ほしい)まゝに曲盡(きょくじん)する奴。これはマイスター=エックハルト」
「ふうん。それ、人(ひと)の名前?」
「そう、十三世紀の獨逸(ドイツ)人でね。マイスターはまあ敬称を冠(かん)してるだけで」
と、亦要(い)らぬ不洒落(ぶしゃれ)を思い付(つ)いて、
「斷(だん)じてエッグタルトぢゃないぜ」
 咄嗟(とっさ)の事とて無言(だんまり)だったが、良(やゝ)あって飮(の)み込んだらしく、得(え)たりと虚(すか)さず揚足(あげあし)を取って、
「うわあ、寒ッ、大學生にもなって親父ギャクなんて、自家(うち)の父(パパ)も跣足(はだし)で逃げるわ」
 矢張りこの年頃は、かにかく批點(ひてん)を論(あげつら)うことに快感を覺えるものか知ら。それが自分に與えられた一つの権威であるかのように。ではその権威に媚(こ)びる自分とは一體。容儀(かたち)を更(あらた)め、
「ねえ、それ、ひょっとして、直生(なお)先生に貸して貰ったんでしょ」
「直生先生、ね。フッ、皆(みん)なそうやって呼ぶの?」
「うん。あ、じゃあ今日からその筆法(ひっぽう)を以(もっ)てして、眞幸(みゆき)先生って呼んだげる」
「いや、僕は御免蒙(ごめんこうむ)るよ。何だか擽(くすぐ)ったくて不可(いけ)ない」と云うをいっかな肯(き)き入(い)れず、
「で、先生(せんせい)。どうなの?」
「まあ、そうなんだけどさ」一(ちょ)寸(っと)打(うち)案(あん)じて、「よく知ってるね」
「だって、教會行くと毎(い)ッ時(つも)書庫室に垂(た)れ籠(こ)めて、晩(おそ)くまで書き物とかしてるもん。この間だって」と、やゝ沈思(ちんし)の體(てい)で、
「ダビデ、ぢゃない。えゝと、そう。ダンテって云う人の本藉(か)して呉れたし」
 眞幸は不審(ふしん)の眉(まゆ)を打(うち)顰(ひそ)め、「『神曲(しんきょく)』?」
「んーん。『新生(しんせい)』」
「野郎、何てもの藉(か)し出してるんだ」いずれ彼女の趣味だと思うと、さても不覺(そぞろ)に笑(ゑ)みまく欲(ほ)しく、
「らしいね。それで、讀めた?」
「何かてんでよく解んなかったけど」と露聊(つゆいささ)かの衒氣(てらい)なく、實(げ)にも恁(か)うこそあらまほしけれ。
「それでも一応、大尾(たいび)まで?」
「まあ」と事(こと)も無(な)げに云う。
「流石(さすが)だね」感歎(かんたん)の聲(こゑ)を惜(お)しまず、眞幸は空樣(そらざま)に天井を仰(あお)いだ。「最後まで読み切るのが、偉いね」
 叔父はその昔(かみ)出版社から獨立(ひとりだ)ちした一介(いっかい)の筆耕家(ひっこうか)で、眞幸が知る限り、腕は確かだ。そう云う父親譲りの怜悧(れいり)さが閃(ひらめ)くのはこう云う時だ。惟(おも)うに、この子は屹度自分の性(せい)向(こう)を枉(ま)げることなく、ただ赴(おもむ)くまゝに信(まか)せさえすれば、第一(だいいっ)等(とう)に及第(きゅうだい)すること疑いない。明晰な頭脳と云うものを嘸(さぞ)かし自然に身(み)に纏(まと)うだろうと思う一方、何(なに)不自由なく得た従妹の幸運に理(わり)ない嫉妬を覚えた。それと云うのも、眞幸が所謂(いわゆる)書斎的に身(み)を粉(こ)に仕出(しだ)したのがこゝ四五年と可成(かな)り遅蒔(おそま)きで、先刻(さき)にも云った通り、自分の性向に白々地(あからさま)に逆らっている。六十の聲(こゑ)を聽(き)くや聽(き)かずで、漸(よ)う漸(や)っとその妙味(みょうみ)を味到(みとう)する人も居ると雖(いえど)も、天来(うまれつき)相應(ふさわ)しからぬ笊(ざる)の手(て)で知識の泉を掬(むす)ぶのか思うと、眞幸は淋しかった。それに引替(ひきか)え、従妹はこの歳で難(なん)なく文藻(ぶんそう)の道(みち)に分(わ)け入(い)っている。あゝ、これが本(ほん)統(とう)だと眞幸は思った。
 してあと五年も經(た)てば、今でこそ慕わしいこの一青年が、世にも通途(つうず)な瓦(かわら)の破片(かけ)なるかを悟るだろうと云う考えが、飛燕(ひえん)の影(かげ)がさすように眞幸の腦裡(のうり)を掠(かす)めた。且つ又、下手な小刀(こがたな)細工(ざいく)で地金(じがね)の悪さを誤魔化(ごまか)せるのも、精々(せいぜい)従妹の年齢(とし)くらいまでだろうと云う気がした。それ以上ねび勝(まさ)ると、自分では最早(もう)愼莫(しんまく)に負(お)えない。厭(いや)な考えだ。
「もう少し片付けた方がよくない? 最前(さいぜん)まで那麼樣(あんな)にがらんどうだったのに」
 打(うち)連立(つれだ)って朝間(あさま)の膳に向かう時、後手(うしろで)にあとを閉(し)めむとするを、従妹が振向(ふりむ)き樣(ざま)何の氣なしに云った。部屋は眞幸が持ち込んだ段ボール箱から、あるほどの秩(ちつ)ども取(と)り散(ち)らして、足(あし)の蹈處(ふみど)も覺(おぼ)束(つか)なげなり。轉宅(てんたく)の時もこれが物(もの)を云(い)って、叔父を大分梃(てこ)摺(ず)らせた。
「矢(や)ッ張(ぱ)り、そうだよね」
「これ悉皆(みんな)身銭(みぜに)を切(き)ったの?」
「まあ、バイト代は脱落(ぬかり)なく本に消えるね」
「然も古典ばっか。圖書館で藉(か)りれば可いじゃない」
「何かね。圖書館の空気がどうも苦手で」と、眞幸は痒(かゆ)からぬ頭を掻(か)いて、
「それに直接(じか)に鉛筆で書いたり不審紙(ふしんかみ)貼った方が、読み返す時に便宜(べんぎ)じゃん」
「ふえゝ」とばかり、心(こころ)も空(そら)に梯子を下りる。無駄(むだ)を云ったのを詫(わ)びる氣持から、嬌嗔(きょうしん)を宥(なだ)める如く、
「そう云えば見た? 今朝(けさ)のあれ。あゝも霞(かすみ)が濃(こま)やかだと六尺四方も碌々(ろくろく)目先(めさき)が利(き)かないよね」
 すると如何にも所在(しょざい)なさそうに、
「あれくらいほんの有内(ありうち)よ。夕景(ゆうけい)に狭霧(さぎり)はお定(おさ)まりの景物(けいぶつ)で、肌膚(はだ)はじめ〳〵、衣類(きもの)は漬(しと)って、陰氣ったらないんだもん」
「あ、そうなんだ」と尻(し)ッ腰(こし)もなく口(くち)を噤(つぐ)んだ。

彼岸の光(12)

彼岸の光(12)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日 2019-06-14

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