PRIVATE STORY《 Requiem #5 》 天涯のタルタロス
私の名は希望。
希望の灯りを点す物だ。
私は、ゴールドブラッシュに仕上げられたケースの横に、大きくHOPEと名を刻み、その傍らに弓矢のレリーフを埋め込まれた、誇りあるZIPPO社のオイルライターだ。
私は、似た名を持つ煙草――あいつはショート・ホープ、短い希望だ。似て非なる名だ――の懸賞として生まれた。
私は、常に主(あるじ)の懐で暖められ、タンクのレーヨンボールには常にオイルが満遍なく滲みわたり、それを押さえるフエルトパッドの狭間には、二つのフリントロックが予備として仕込まれている。
私は、私を手にし、真のライターとして、いつでも本分を発揮できる状態に置く主に尽くす。
数多の先覚を受け継いで生まれ、尽くすべき主に恵まれ、私は形ある限り、希望の灯を点し続ける。
私の名は希望。
希望の灯りを点す物だ。
私の主は希望の灯りを点す者なのだ。
※
車体は、前が下を、後ろが上を向いている。
シートベルトは外され、エアバッグはヒューズが抜かれ、どちらもその機能は発揮されなかった。
かろうじて車内にいる主は身動きひとつせず、呼吸の音も聞こえない。
主が中古で買ったこの青いワゴンは、高価な棺桶となるようだ。
私は、私の居場所から転げ落ち、ガラスの割れ落ちたリアゲート越しの狭く遠い空にある月を眺める。
望月まであと一夜といった月が煌々と輝いている。
あの僅かな欠けが満ちた時の光は、もっと素晴らしいものなのだろう。
主の魂よ、あの月を見られよ。
主はずっと下を向いたままでいる。
開け放した口からどろどろした黒っぽい液体が滴っている。
このどろどろは主の命そのものなのだろうかと思う。
だから、出切った時に、主は死んでしまうのだ。
この主は、私が仕えるに相応しくない下劣な男であった。
奥方とご子息がいるにもかかわらず、若い女に夢中になっていたのだ。
だからその所為でこの様となってしまったのだろう。
さらさらで透明なナフサが私の命と言っていいものであるから、私の主人たる者の命も、それと似た透き通って輝く何かだとばかり思っていたが、その実、黒いどろどろであったことは当然といえば当然なのだろう。
しかし主よ。
あなたは昔からそうだったわけではあるまい。
そうではなかったからこそ、美しい奥方を娶り、優しい眼差しのご子息が生まれ、見た目だけは可愛らしかったあの娘も、あなたに夢中になったのだ。
それからあなたに何かが起こり、何かが変わってしまったのだろう。
あなたが持っていたはずのきらきらと輝く何かが、黒いどろどろに取って代わられた時から、奥方もご子息も、あの馬鹿な娘ですらもあなたから離れていってしまったのだ。
主よ。
あなたは、やっと気付いて、いや、変わりかけていた時から気付いていたのではないか。
そして自分を取り戻そうともがいていたのではないのか。
どこかで無くした何かを取り戻そうとして、私を手に入れたのではないのか。
希望という名の私を。
おそらく、再び。
ならば主よ。
私はいつまでもあなたと共にあろう。
希望の灯りを点すことはもう叶わなくとも。
名も無い一塊の合金に戻ろうとも。
※
職場からの帰り、カーラジオから垂れ流されるどうでもいい芸能ニュースに辟易しきった頃、主は家に向かう真っ直ぐな道から、峠に向かう道へと折れた。
見通しの良い陸橋を渡っていると、西の稜線の向こうに橙色と群青色が織り成す帯が見えた。
少しずつ昼が長くなっている。もうすぐ春が来るのだ。
主はカーコンポにジョージ・ウィンストンによるピアノ演奏のMDを差し込んだ。
『十二月』という名の白いアルバムだ。
奥方以外、女を見量る眼が無かった主だが、音楽の趣味だけは悪くなかった。
制限速度を少しだけオーヴァーしたスピードで、主は青いワゴンをスムーズに走らせた。
後続車も対向車も無かった。
一曲目が中盤に差し掛かったところで、主はあの表情をした。
歯を噛み締め、眉間に皺を寄せ、何かを思い出すように遠くに視線を向け、まるで泣くのを堪えているように見えた。
主は『十二月』の一曲目で必ずあの表情をする。私はその表情が好きではなかった。
アプローチの短い峠は、カーブがきつくなってきていた。
青いワゴンのスピードは、いつの間にかずいぶん上がっていた。
タイヤが鳴き始め、車体のおかしな挙動が収まるのに時間がかかるようになってきていた。
更に道路はところどころに薄氷が張り始めていた。
ワゴンを馭する主は、相変わらずあの表情だった。
※
あれからほんの数分後、そして今からほんの数分前、峠の頂上に近づいた頃、つまり、もっとも谷底から高い位置で、主はハンドルをカーブとは逆に切った。
そして、アクセルを思い切り踏んだのだ。
私は、墜落する感覚を初めて知った。
主は視線こそ空虚に向けられていても、眼はきちんと見開かれていた。
しかし、その表情はあの泣き顔ではなく、安らかであり、唇には笑みすら湛えていた。
しばらく忘れていたことを思い出した。
私は、主のこの優しい笑顔が大好きだったのだ。
主よ。
リアウィンドウから月は流れ、谷の底にある車内に光は届かなくなった。
代りに、私の横で爆ぜる火花があなたを照らしている。
思いのほかきれいな顔でおられて良かった。
主よ。
あなたが優しい笑顔のままで死ねたのはいいとして、奥方とご子息はどうしたものか。
あなたが生涯働いて稼げる賃金の数倍になる保険金と、共に暮らした僅か数年の思い出だけ遺せばいいという話ではなかろう。
かといって、我々にはもう、何をどうすることも出来ないのだが。
主よ。
私もそろそろこの世とお別れらしい。
あなたにはもう見えず、もう感じもしないだろうが、車内に流れる臭いの素が私を浸している。
それはもちろん、私自身に滲み込んだナフサによるものではなく、あなたが昨日満タンにしたガソリンの臭いだ。
あなたを照らす火花を、したしたと滴るガソリンが溜まって伸ばす舌が舐めようとしているのだ。
主よ。
私はもう一度、あなたに小気味良い音と共にリッドを開けられ、その律動を乱さずにホイールを弾かれ、金色の火花を飛ばして、渋く煤けたチムニーに灯を点したかった。
希望という名の私が点す希望の灯りで、あなたを照らし、あなたの導きの手伝いをしたかった。
主よ。
共に参ろう。
地の底から天の果てまで。
※
主よ見られよ。
私たちが灯した絶望の炎を。
しかし、爆発こそ勢いがあったものの、私たちを燃やす炎は谷底深く木々に埋もれ、なんと目立たぬことだろう。
それでも、あなたをきれいに焼いてさえくれれば、他は望まない。
主よ。
希望という名の私を、いつもポケットに入れていたにもかかわらず、あなたの現し身は随分な最期だった。
なぜこうなったのだろう。
主よ。
どうだろう。
彼の世での私は、あなたと遍く会話が出来るような気がするのだ。
もし出来たならば、あなたに何があったのか私に聞かせてくれないか。
あなたと共に天涯を越える私に、せめて聞かせてくれないか。
奥方との出会いを。
ご子息との夢を。
あの娘との蹉跌を。
唇を噛み締める訳を。
涙を堪える訳を。
最期の笑顔の行方を。
誰にも気付かせず、誰にも明かさなかった、あなたの物語を。
了
PRIVATE STORY《 Requiem #5 》 天涯のタルタロス