彼岸の光(3)

尾川喜三太 作

第三章 容貌にまつわる誤解と陰謀(未定稿1)

 『N市獨立のための北区学生連合』は五年前の発足以来、形骸けいがい化が進んでゐた。視察と云ふ名の懇親会が各指定都市の類似団体間で意味もなく勵行れいこうされてゐた。言ふべくんば、公費半濟はんさいの旅行サークルである。然も皮肉なことに、市からの補助金は都市計画課の歳末さいまつ審議会における報告と、選挙広報車の添乗、年三回の勉強会さへ缼かかさなければ途絶えないので、員数はなほ逓てい増ぞうしてゐる。行政はこの会の有名無実化より、政治に託言かこつけた学生たちの空騒ぎに迎合した形だ。
 北区にある大学の合同サークルであるから、百人を越える会員のなかにはN大生も市立いちりつ大の医学生も相当ゐる。付近の女子大からの参加が多いのはこれが爲である。
 惟おもふに、藥子の入つたこのサークルこそ陰謀の坩堝るつぼではなかつたか。彼女の遊興に対する節制は級友の間でも有名だつた。彼女が守銭奴だと云ふのではない。遊興の節約とはそのまゝ容貌の節約と云ふ事である。厳正な審査を経たさる劇的舞臺(必然性がその要件である)にしか彼女は登場せず、容貌の浪費は殊に誡いましめられた。その彼女がこんな善良さの身振りを忘れない模範団体を是ぜとしたのは、彼女が全的に容貌の権威に信頼してゐない何よりの証拠である。
 新人研修と云ふ名のコンパが催行された五月下旬のその日は、入梅前の冷え込みが一層ひとしほだつた。薬子はその危険なほど露あらわな両れうの脚を、透かしの入つた、花曇天はなぐもりが光を藏かくしたやうな、絹きぬ漉ごしの淡い光澤つやのあるストツキングにしっとりと包んでゐた。然しこの妙みょうを得た露出も派手好みの紅葉くれはを前にしては不思議と控えめな印象を與へるのである。二人は早朝のT駅で待ち合はせた。
 またあの時と同じような成り行きにならなければ可いいが、と薬子くすこは思つてゐた。N鉄道の始発は、濃霧のうむのために到着の遅延が危ぶまれた。四人掛けシートの向かひに座つた友人は頻りにその事を心配してゐたが、薬子の懸念けねんはそこにはない。排気管や照明器具がむきだしの天蓋てんがいは陰気な工場街めいて蔭かげ暗く、そんな深い闇から仄明るいプラットフォームへと燕が二羽、蝙蝠こうもりのやうな歪いびつな影を滑らせて霧の深みに紛まぎれてゆくさまが窓から眺められた。
 友人に恵まれてゐると云う自信が薬子にはあった。彼女を呼び物にして栄華の余沢よたくに浴さうと云ふ姦才くろい女は不思議と薬子を避けた。彼女の身に纏う花恥はなはずかしさがあまり正統派に過ぎたためだ。要するに、常綺羅じょうきらを張らうとの見栄なしにこゝが青春の真まッ只ただ中なかだと周知させるあの巧たくまざる磁力、豊麗な笑ひ声に象徴される無邪気むじゃきの発露が、皮相うわべの綺羅きらびやかさとは別の経路を辿つて自然おのずから人を惹きつけるあの一族に属してゐた。彼女達は一様に『見苦しくない程度に整った目鼻立ち』であればそれ以上追及しない実利的な風習に染まつてゐたが、そこに薬子の姿を見出した者ははじめ奇異の感に搏うたれるに相違ちがいない。何か深い企みが無くては不自然な光景である。二重の意味での猫びょ鼠同衾うそどうきんの感、彼女がその集団のなかにゐることゝ、彼女の中になにか同居し難い二つのものが共存していると云ふ、危機めいたものが張り詰めている感じが見者みるものの脳裡に一閃した。
 だが、彼女達が遵奉する『実利主義』の容姿に対する恬淡さに、薬子はそろそろ冷笑雑じりの苦笑を送った。女が自分の器量に恬淡であることは女であることの本質の過半を自ら棄てる行為に等しい。彼女達はその不可能を弁済するために、男子に劣らぬあの小出しの勤勉さと豊麗な笑いとを学んだのではないか。結局この一族に葛藤の二文字はない―――では、女にとって容姿を止揚したところの『実利』とは何だと云うのか、彼女達は一度も満足な返答を寄越さなかった。
『肉体が魂魄でなくて何だろう』薬子はかの米国建国精神の立役者W・Wの詩の一節を好んで暗誦した。女の存在の本質はすべてこの肉体にかかっていると云っても過言ではない。
 とは言へ彼女達は、自分が容姿に就て恬淡であるとの催眠に自らかかってゐるために、自覚しないところで薬子を妬んでいる点で姦才い女たちよりも厄介だった。そのことを薬子は高校時代の例の事件で学んだ。
「ねえ、今日の藥子なんか艶ッぽいよね…天氣の具合なのか知らね。陰翳が出来てるけど境界が故意に暈されたみたいで、抽象的で―――」
 紅葉くれはは何の他意も嗅ぎ出されない口火の切り方をした。艶ッぽいと云ふ指摘は剴切である。今朝鏡で見たときの自分の顔の上に表はされた効果とこれは符節を合してゐたが、涙嚢に施したファンデーション以上に、唇に刷いた棒紅の色合の所爲である。
「ルージュの所爲じゃない?屹度」
「あ、慥かに。そつか、その一寸暗い色合が上にむかつて深みのある瞑想的な光を照返してゐるのね…どこで買つたの?」
「どこつて、普通の薬局で賣つてるやつよ。何ていったかしら。色はたしかバーガンディ…」
「いゝわよね藥子は。どんな市販品でもまるで一級品なみの變貌ぶりを手にしちゃうんだもの。藥子ッていッつも異ふ顔付してるものね不思議と」
 さう云つた友人の顔立ちも満更悪くなかつた。彼女も彼女で他人を褒め乍ら決して劣らない部分を自覺し、その點に御輿を据ゑたうへで他人を褒めそやすのである。
 紅葉くれははN女子大の文學部生である。藥子に較べれば可愛いと云ふより美人の型で、瞳は徒に大きくなく、端正に刷かれた黛は脊腹左右に程よい距離を保ち、就中自慢なのがその鼻筋の気高さである。横顔が映えるのを大ひに自慢にしてゐるから、藥子に見惚れるやうな眼付をしながらその眼は絶えず藥子の高からぬ鼻を嘲笑的に凝視してゐた。執拗に抒情的な物言ひと云ひ、髪は漆のやうな長髪を束ねもせで背中に流してゐ、萬事古風に取り澄ましてゐた。
『鼻が高いと云ふ事は目の圓かさを弱めると云ふ事にこの人は気付かないのだらうか』と藥子は少し悪戯ッぽく雑ぜ返したい氣がした。藥子は徒らに控えめな鼻ッ柱をしてぐるぐると目を剝く小動物的な顔ではない。飽く迄中性的な整ひ方をしてゐた。
 定刻通りに發車した列車は、一定の加速を果たしてのち竝走する自動車に優るとも劣らぬ速度で鈍行を續けてゐた。こんな朝早くの列車で發つたのも、郡上八幡の山間までの可成りの距離をバス移動しなければならないためである。岐阜驛西口に七時―――
 紅葉は何かしら自分の面長な美人型の容姿の志向を飾るべき装身具を探すことに奔走してゐる氣味があつた。その鼻梁を自信ありげに誇示しつゝも心の何処かで自分の趣向と方角の違ふ持ち前の容姿を卑下してゐた。その藝術専攻もいつか、彼女の最も純粋な動機から乖離する形勢に陥つた。一七〇センチ近い長身と云ひ、美人型の志向を追求するその甫めから彼女は不請したに過ぎず、可愛さへの止み難い僻みを癒すためにますます哲學的なお化粧にのめり込んでいつた。
 藥子の外見の要請(或ひは内面の要請)を正確に讀み取れる者はここでも絶えてなかつた。彼女の容貌はまたしても誤解され、容貌ゆゑに彼女は誤解された。然し、誤解されることに或る種の興味を持つ時代は彼女の裡で疾うに過ぎ去つてゐた。
 容貌に目的を與へねばならないとは云つたが、生活に確たる目的を―――と云ふよりは活計の周到な目途を立てることはこれと一般ではない。十年後を考えること、老後の貯蓄を當込むことは彼女に嘔吐をしか催さ使めない。
 藥子は未来を豫見しない。是が非にも豫見しようとしない。肉體の形式は現在であり、未来にはこの肉體の存在する確たる保証がないからだ。

彼岸の光(3)

彼岸の光(3)

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日 2019-06-12

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