快活の哀しみ(5-2)

尾川喜三太 作

第五章 月下氷人(未定稿2)

 たとえば祖父が、己が体臭で薫ぜられた褥から離れがたさに、生まれたままの生活圏を死守する精神的怠惰者であるとするなら、上京すればあらゆる幸福が向こうからやって來ると空想していた浜緒の少女時代も怠惰の謗りを免れなかった。
 凡そ農業者はその性情ゆえ褒められたものではない。彼等は退嬰の血を引く不活発な職蟻どもであり、弁証的な自己と云うものを持たないあはれな自意識だ。その農業者が職業多様化に際してその場を動こうとしない出不精な連中で占められるようになったのも道理である。どうして新たな職を手に付けることなく、親重代の耕作に彼等が甘んじたのか?彼らが勤勉だからではない。不勉強で、精神的に怠惰だったからである。
 若い身空で上京し、芸界や狭斜やそれに類する賤業に身を落としてゆく少女たちの心理に、浜緒のそれは酷似していた。女は愛されるために生まれて来る。彼女たちにとって愛されるための努力以外の努力は理解の外であり、一体、人に見られていないところで流す汗や涙に何程の価値があるのかしらと齊しく首を傾げた。彼女たちが支払う努力とは、二の腕や太股に余計な筋肉をつけないため、乳児のような柔膚を今度は石膏に見紛うまでに瑩ずるため、日がな一日按摩やグルメやショッピングなどの気保養に費やすことに尽きている。そして田舎風の料簡で変わり種扱いされている自分を、都会風にソフィスティケイトされた審美眼が正当に評価し、埋もれ木となる前に引き揚げてそれ相応の栄耀をさせてくれるはずだと彼女たちは信じて疑わない。
 浜緒は自省をする習慣を持たないし、とかく呵責などと云うものは徒らに彼女ののびのびとした発育途中の体躯に一点要らざる墨液を滴らすことに役立つだけだ。精神をのどかに扱って、肢体はそれ以上にのどかに扱い、憂鬱な翳りから身を守ること。このどの角度から見る目も眞秀な、生ひさき見ゆる容姿を早く都人士のお目にかけたいのである。
 到頭の極、待つ者には「死」すら訪れない。仮令訪れたとしてもそれは本人が気付く間もなく生命から奪い去るところの排中的な死であり、彼の人生を圓かに完結させるところの充足的な死ではない。女は愛されるために生まれて来る。併し人間的実存はひとえに独創的な死を死ぬるために生まれて来るのだ。

 一九七八年から八十年にかけて主に日本海沖で謎の失踪者が相次いだ。北朝鮮工作員による一連の拐取事件である。T市にもまた在日朝鮮人のいわゆる土台人が数十人単位で潜在しているとの試算もあり、一九七四年に勃発した小学生児童五人の集団拉致がこの町における失踪事件の皮切りとなった。彼等はいずれもことぶき第三児童会(青空クラブの前身)に儔なる児童であり、その夏は保姆を含む同勢三十二名で加茂港辺のとある水族館を訪れていた。時に土台人である水族館職員の一人は「マンボウの飼育槽を特別に見せてあげる」との甘言を弄して―――と云うのも、当時経営再建まッ只中の当館はなかんずく飼育の難しいマンボウに人件費を割いている余裕などなかったため―――五人を資材搬入路に誘き入れ、そのまま活魚コンテナに封じ込めると、階下で待機していた工作員の運転するトラックの荷台にホイスト式クレーンで迅速に降下させこれを拉し去らしめたと見られる。この職員の行衛はその後杳として知れず、児童ら五人も未だ帰国を果たしていない。
 翌一九七五年には十里塚海岸沖二〇浬で不審船が出没する事件が起こった。この船は中国漁船に偽装し遭難をよそおって接岸を試みようとしたが、充実した無線装置や船尾の観音開き、船体に記された漢字にまじってハングル文字が確認されたことから、酒田海保は直ちに巡視艇を派出し、威嚇射撃を以てこれを経済水域外まで後退させた。事件はこれで落着するかと思いきや、翌朝になると十里塚から幾許も距らない浜中聚落の浦漵(ほじょ)に打ち棄てられている一艘のボートが発見された。が、船体に真赤な日の丸が染め抜かれたこの船舶は紛れもなく日本製であり、レイテ沖海戦ではじめて実戦配備されたマルヨン艇「震洋」であることが判明した。なぜ今になって戦闘艇がしかも無疵のまま漂着したのか、街談巷説區々あったものの、昨年拐取事件が起きたばかリのことではあり、警察当局は外事を含む警備課職員延べ二十人を動員して不審人物の捜索に充たり、非常を警めた。上陸したと覺しき人物の目撃情報が多数寄せられたが、この男は一向市街地に興味を示さず、庄内沖を浦伝いに南下して温海、鼠ヶ関、府屋、やがてこの狭隘な一筋道が開敞ける村上に臻るとその後は弗つと消息を絶った。その間捜査隊は何をしていたのか。証言を総合すると、この男が目撃されるのは一定宵の口からであり、かと云って日中どこかに身を潜めている訳ではなく、晝夜を舍かず毎時一粁の速度を正確に刻んで蜑戸の誰某に目撃されているため、警察は最小限の人數を割いて、時間と場所をピンポイントで指定してこれを要しても迯す憂慮はなかったはずだが、予測した時刻には竟に顕われず、しかも良あって捜査隊の脇を通過した羽越線の乗客が車中からこの男を見かけたと云う情報が寄せられたりしたので、捜査隊一行狐につままれたような気がした。警察の目に一度も止まらなかったこの男は、かつての大日本帝国軍三式の防暑衣に夏短袴を穿ち、銹朱の衿章、頭には九〇式鉄帽を戴いた全身鈍色の男だったと云う。

快活の哀しみ(5-2)

快活の哀しみ(5-2)

金子家一統の系図(2)

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-06-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted