Fate/Last sin -27
「……おい、小僧」
呼びかけられて、ラコタはようやく開いていた本のページから目を上げた。いつのまにか目の前に立っていた黒いトレンチコートの男に見下ろされていることに気づき、思わず座っていた古ソファーから腰を上げかけたが、それがライダーだとすぐに思い出して再び座り直す。詰めていたような息を深く吐き出してから、ラコタはようやく声を出した。
「驚かさないでください。せめてノックくらい……」
「三回はした」
「……すみません」
肩をすぼめて本を閉じるラコタに、ライダーは一瞥を投げかけてから、黒いトレンチコートを脱ぎ、適当に畳んで椅子の背に掛ける。その椅子の背に鈍い日光が差しているのを見て、もう昼を過ぎたのだと初めて気づいた。ラコタが今こうして拠点にしている風見の北端の小さな家に帰ってきたのは二日ぶりだったが、この家の主人にかけた暗示は未だ健在なようで、誰かが入った形跡はなく、二日前に出たままの状態だった。
「それで、どうでしたか」
ラコタにそう尋ねられたライダーは、いつもの仰々しい軍服姿で、ソファーの向かいに置かれた置物のような椅子に深く座ると、それだけで肖像画のような威圧感のある佇まいになった。ライダーはソファーに縮こまるように座っているラコタを見て、その隣にある本――つい先ほどまで開かれていたそれに目を移す。
「それは、何を読んでいたんだ」
質問を逆に質問で返されたことがやや不満だったが、ラコタは素直に答えた。
「歴史書です。ボクの国の」
「ほう。勉強が好きなのか」
「好き、と言っていいのか……」
ラコタはそこで眉をひそめた。
「特に好きではないけど、必要な事だから……これしか、やるべき事がないので、本を読みます」
それはかつて、先生に教わったことだった。そう口にすると、ライダーは身じろぎ一つせず、「先生とは、学校の教師か?」とまた質問を重ねる。
「いいえ。先生というのは、ボクと暮らしていた人で……」
話の流れるままライダーにこれまでの自分の生活の事、先生の事を語る。目の前の誰かに自分のことを語るのは、思えば先生に初めて会った時以来かもしれない。ライダーはラコタが何を語っても表情を変えず、余計な口も挟まず、ただ黙ってその話を聞いていた。それこそ、先生に初めて自分の身の上を喋った時のように。
そう思った瞬間、不意に目の前のライダーが、遠い故郷にいる先生の姿と重なったような気がして、ラコタは言葉を止めた。
「どうした」
「……いえ」
だが、それ以上は何も出てこない。
ライダーはその様子を見て、今度は自分が口を開く。
「あの槍兵は死んだ」
唐突に投げられた答えに、ラコタは一瞬戸惑った。だが、つい先ほど自分が開口一番に尋ねた「それで、どうでしたか」という問いの答えだと気づいて、頷く。
「そうですか。わざわざ、ありがとうございます」
「当然だ」
ライダーの返事を聞きながら、感傷や哀傷といった情は少しも湧いてこないことに安堵する。当然だ、とラコタは思った。最初か、最後か、いずれにしろ倒さなければいけなかった敵だ。むしろ幸運だと思わなければならないくらいで、聖杯戦争とはそういう儀式で、魔術師の世界というのは往々にしてそういうものだ、と知っていた。
「それで、他に何かわかりましたか」
「ああ。昨夜に退去したサーヴァントは二騎。槍兵と、おそらく狂戦士で間違いないだろう。半日間探りを入れたが、この街のどこにもそれらしい気配は無かった」
「なるほど……」
ラコタはソファーの上で膝を抱えながら、床に視線を落とす。
「つまり、今日の時点で残っているサーヴァントは四騎。退去したのはランサー、キャスター、バーサーカーで間違いないですね?」
「そういう事になる」
しばらく、二人のいるリビングに沈黙が訪れた。ラコタはじっと一点を見つめたまま、考える。これからどう生き残るか。魔術師としては半人前で、頼れるのはライダーだけ。しかしバーサーカーという大きな障害は除かれた。ここで次に問題になるのは―――
「尋ねないのか」
ライダーが突然投げた質問に、ラコタはたじろぐ。
「何のことですか?」
「あのランサーのマスターの事を」
その単語が出てきたとき、一瞬だけ、幼いマスターの顔が引きつるように表情を変えたのをライダーは見逃さなかった。しかしラコタはすぐに真顔に戻り、目を伏せる。
「……特に。ランサーが退去したのなら、彼はもう関係ありません」
ラコタは呟くように言って、それからまた言葉を探した。その唇は何度か正しい言葉をたぐりよせたように開きかけたが、結局何も言わずに貝のように口を閉じた。
その様子をじっと見ていたライダーは、代わりのように口を開く。
「では関係のあるマスターの話をしよう」
「……と、いうと」
「狂戦士のマスターは再契約をした」
淡々とした口調だった。だがラコタは長いまつげを跳ね上げて、勢いよくライダーを見上げる。
「何だって! 誰と……」
「この聖杯戦争の監督役を務めている神父だ」
「………」
ラコタはしばらく呆気に取られて絶句した。
「……どういう、何か他に情報は?」
「これを」
ライダーは軍服の胸ポケットに指を入れる。取り出したのは、髪の毛のように細い針金で編まれた何かの細工だった。薄い楕円のような形で、先端は無理やりねじ切られたかのようにひしゃげている。ラコタは数度目を細めてそれを見、「蛇の頭みたいだ」と呟いた。
ライダーは頷く。
「廃墟になった御伽野植物園の瓦礫の陰にいたのを見つけ、破壊して回収した。おそらく、あの神父の使い魔だろう」
「まさか、監督役がサーヴァントだったと言うんですか?」
「そうだ」
「空閑灯は――それと再契約を?」
「ああ」
そこまで確認して、ラコタは再び言葉を失った。対するライダーはマスターを見つめたまま、淡々と質問を重ねる。
「それで―――お前はどうする?」
*
「魔力の気配を辿るって?」
素っ頓狂な声を上げたのはセイバーだった。昼下がり、望月家の屋敷の食卓に向かい合わせで座りながら、楓は慌てたように「しーっ」と人差し指を立てて、入り口の方の様子を伺った。念入りに誰も来ないのを確認してから、ようやく一息ついたように目の前のスープの皿にスプーンを入れる。テーブルの上には、母親やメイドに見つからないようにかき集めた食事が一通り並んでいた。
「気配を辿るくらいなら出来るはず……この家は、ちょうど風見の霊脈が集まる拠点だし、これにはまだ魔力も残ってるから」
楓は目だけでテーブルの上に置かれた蝶の細工を示した。
「だが、あの神父に会ってどうするんだ?」
セイバーは鎧姿のまま、磨き上げられたテーブルの上に肘をついて身を乗り出す。楓はスプーンを置き、パン切包丁でザクザクとバゲットの欠片を切り出しながら、小さい声で
「聞かなきゃいけないことが、あるから」
と、答えた。
「姉さんのこと、きっと、あの神父なら知っている気がするの」
そう言って、セイバーにバゲットの一切れを差し出す。セイバーは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてそれを見た。
「何だ?」
「食べないの?」
「おい、サーヴァントは食事をしなくても……」
そこでセイバーは唐突に言葉を切る。しばらく考えるように動きを止め、それから楓が差し出した一切れを受け取った。
「……だが、あの神父はどうにも胡散臭いぞ。楓の姉上のことを何か知っているとしても、簡単に喋るかどうか」
硬いバゲットを噛み千切りながら、セイバーはそう言った。楓は残っていたスープを全て二つの皿に取り分けて、一つをセイバーの方に押しやった。
「それでも、あの人に会わないと」
「……分からないな。どうしてそこまで神父に執着するんだ」
ぬるいスープを口に運ぶ楓は、その言葉に動きを止める。
「……アルパ神父じゃないよ」
楓は暗い顔でセイバーに言った。
「姉さんに執着しているの、私は。十一年前の聖杯戦争で姉さんがどうなったのか、それを知らないままじゃ、この聖杯戦争で、ここまで生き残った意味が、無くなる気がして」
私のことは、そのあとでいいんだよ、と楓は呟くように付け加えて、再び食事を続ける。セイバーはしばらくその言葉を反芻するように楓を見ていたが、やがてゆっくりと、慎重に口を開いた。
「もし……楓の姉上が既に、死んでいたら?」
その言葉に、目の前に座るマスターは視線を跳ね上げてセイバーを見た。その表情は硬く引きつっている。だがセイバーは言葉を続けた。
「これは忠告だ、楓。可能性も無くはない。というより二つに一つだ。生きているか、死んでいるか。必ずしも楓の望む結果が真実とは限らない。たった一つの真実が―――」
セイバーは軽く握ったスプーンで、薙ぐようにテーブルクロスの上を引っ掻いた。
「辺り一面を傷つけ、全く予想外に変貌させるかもしれない。二度と消えない傷になる。希望論だけを望むなら、知らない方が良い事もある。知ろうとしなくたって、この聖杯戦争を終わらせることはできる。……それでも?」
試すように問うたセイバーに、楓は迷いのない顔で頷いた。
「それでも」
しばらく沈黙がすぎていく。だが楓の表情に何の躊躇いも浮かばないのを見て、セイバーはようやく詰めていた息を吐き出すように笑った。
「何だ。俺が寝返っている間に、随分と肝が据わったじゃないか」
冗談めいた口調に、楓もつられて口元を綻ばせる。
「良い魔術師と話をしたから」
*
昼間は穏やかな空だったが、夕方が近づくにつれて雲行きが怪しくなり、黄昏の頃には西日に覆いかぶさるような暗雲が垂れ込めていた。
風には雨の匂いが微かに混じっている。
文香月は風見市の北端に位置する丘陵地の、ひときわ高い崖の上から眼下の街を見下ろした。すぐ近くのダム湖から南の湾岸へ流れる小さな人工の川と、その途中に群生する繁華街の夜景を眺める。
「いやに、魔力の気配が濃いな」
アーチャーが横で身じろぎをした。香月は風景から目を離さず、「それは」と口を開く。
「昨夜、ここにいた魔術師のせいだ」
「昨夜だって? まだこんなに匂いが残っているのに?」
「……集中してくれ、アーチャー。今夜を逃したら次は無いんだ」
マスターの言葉に、銀髪の弓兵は肩をすくめた。
「分かっているさ。言われなくても視えているから心配するなよ、マスター」
「弓兵の目は恐ろしいな。初めからあなたが『視て』いれば、こんな遠回りは要らなかった」
香月はアーチャーを振り返ることもせずに呟く。アーチャーは反論の代わりに、右腕をゆっくりと滑らせて空を撫でた。その手が通り過ぎたところから、鋳たばかりのように輝く矢が生まれる。アーチャーはそれを固い手のひらの中に掴むと、左手に握った弓につがえた。
「じゃ、今から周回遅れの挽回とするか」
アーチャーは気楽な口調とは裏腹に、矢羽根と共に弓を強く引いた。キリキリキリ、と弦が激しく軋む音と共に、暗く翳っていた赤の虹彩が、にわかに爛々と燃えたかのように見えた。
限界まで弓を引き絞ったとき、アーチャーの鋭い一声が飛ぶ。
「―――――行け!」
その瞬間、香月は助走も無く、跳んだ。
香月の黒い衣の裾を、一筋の矢が音速すら凌駕する速さで掠めていく。アーチャーの放った矢は、ある一点を目指して黒く沈み始めた夜景の中へ消え、香月はその行方を見逃さなかった。弓兵の目は持ち合わせていなかったが、それでもアーチャーの矢は狙い通りに穿たれただろうという実感があった。
薄い唇が、一月の冷気の中を落下しながら詠唱を紡ぐ。
「『紅屍礼装』―――六番」
その脚が地面に触れる直前、皮膚の上を赤い幾何学模様が這うようにうごめく。
地に触れた両脚は砕けることなく、サーヴァントにも等しい力で地面を押し返し、香月の細く病人のような身体を再び空中に浮き上がらせる。
そのまま斜面沿いに並んだ住宅街の屋根のひとつに飛び移ると、香月は矢が消えた方向を睨んだ。
「『紅屍礼装』―――三番!」
加速する。
香月はただ一点を見据えたまま、月の無い闇夜の中をひた走る。
やがてその目が、一直線にこちらへ向かってくる霊基を捉えた。ぽつ、ぽつと落ちてくる雨に、香月は邪魔そうに首を振って、傾いた電信柱を飛び越える。北部に広がる住宅街を滑空するように川に沿って南下し、生身の人間では到底制御できない速度を保ち続けながら、香月はある地点でふと自分の懐に手を差し入れた。
取り出したのは、一本の解剖用メスだった。
たった一本のか細い刃物を利き手に固く握って、香月は前を見据えた。もうアサシンの霊基はすぐそこまで、もはや逃げも隠れもせずに迫っている。
「来い!」
香月は食い縛るように叫んだ。その瞬間、何かに気づいたように踏み出した足の方向を九十度変え、コンクリートの屋根から真横に飛び退いた。三階建ての建物から猫のように狭い路地裏へ飛び降り、すぐに上を見上げる。死角になっていてここからは見えないが、さっきまで自分が進もうとしていた場所にはあのナイフが刺さっているはずだった。
そして、彼女は姿を現した。
「ごきげんよう、アーチャーのマスター」
その声は上ではなく、横から届いた。見れば、蛇のように細い路地の先に、見慣れた黒いベールの少女が立っている。
「足、とってもお速いのね。まるでサーヴァントのようでしたわ」
ふふふ、と少女は笑った。いつも通り以上に穏やかで可憐な表情だったが、香月はその右腕の手首から肘にかけて、一筋の裂傷が入っているのを見逃さなかった。
「……アーチャーは、ようやく仕事をしたか」
香月はメスを握り直す。
アサシンは血の滴る右腕を隠さずに、その手に黄色いリボンを巻き付けてナイフを握る。
「いやだわ。お見苦しいものをお見せして……ああ、でも」
アサシンは不意に表情を変えた。可憐な少女そのものの微笑みに、一滴の悪意が差す。
「でも――――陽を九つも落としたのに、わたくし一人射抜けないなんて、あのひと、本当にお馬鹿になってしまったのね」
その言葉が皮切りだった。香月は礼装で強化した脚を一歩踏み込み、アサシンに躊躇いなく飛びかかる。右手に握りこんだメスが空を切って、アサシンが大きく後ろに飛び退く。
「貴女も相当におかしな方ね! そんな小さな刃物でわたくしを殺すおつもり?」
アサシンのけたたましい笑い声に、香月はわずかに眉根を寄せた。
「言っていろ」
細く暗い路地裏に、小さなメスと分厚いナイフがぶつかり合う音が響きわたる。香月は全ての意識をアサシンに向けて、ひたすら急所を狙い澄ました。サーヴァントとはいえ、首を斬られれば死ぬし、心臓を失くせば、やはり死ぬ。短期決戦を前提に、超人的な身体能力と気配遮断さえ克服してしまえば、暗殺者など取るに足らない存在だ。
そしてアーチャーの最初の一撃は、確実にアサシンの能力に影響を与えている。
アサシンは強気な姿勢を崩さなかったが、その身のこなしは刻一刻と鈍っていた。もともと吹いたら消えそうな霊基だ。英霊として座に迎えられることが異例なくらい、このアサシンは素質に欠けている。―――この日まで、幾度となく接触していれば分かる事だった。
組み合いながら進んでいた街灯の少ない路地裏も終わりそうな頃合いになって、アサシンの表情がはっきりと変化した。他でもない、焦燥の情がくっきりと顔に刻まれていく。
「……どうして……わたくしはサーヴァントで、貴女はただの人間なのに!」
とめどなく流れる血で、アサシンが右手に結んだリボンは真っ赤に染まっていた。それでも香月の攻撃を受け流しながら、アサシンは声を上げた。
「違う。だから貴様は、私に勝てない」
「何を……!」
「私は人間じゃない」
香月の言葉に、アサシンは一瞬虚を突かれたような顔をした。
「私は、魔術師だ」
「……!」
短く息を吐き、香月の右腕が一閃する。アサシンは苦し紛れにナイフを突きつけたが、その腕の隙間を縫うようにメスがアサシンの白い首に向かって翻った。
鮮血が飛ぶ。
「いや―――――」
アサシンの短い悲鳴に覆いかぶさるように、遠くから何かが風を切る音が聞こえた。
瞬き一つするより速く、その体に雨のように鉄の矢が降り注ぐ。
「いや、いや、いや―――――!」
アサシンは悶えるような鈍い動きで、かろうじてアーチャーからの攻撃を躱しながら、首の根元を押さえて叫ぶ。華奢な指の隙間から漏れ出る血が収まることはない。
だが香月はアサシンを睨んだまま、血に濡れた解剖用のメスを握り直す。その死んだような視線がはっきりとアサシンの蜂蜜色の瞳とぶつかった時、アサシンは初めて、はっきりとした敵意を目に浮かべた。
「―――嫌よ。貴女のためになんか死んであげない」
黒いベールがひるがえったと思ったら、もうそこにアサシンの姿は無かった。香月は目を見開き、一息で路地裏の終わりまで駆けたが、その先の閑散とした通りには等間隔に白っぽい街灯の光が並んでいるだけで、影一つ見当たらない。
降りやんだ矢羽根の雨の代わりに、水滴がまばらに落ちてきて、あっという間に本降りの雨になった。
『見失ったか?』
頭のなかに、直接アーチャーの声が響いてきた。香月は髪や肌を雨が伝っていくのをそのままに、うるさそうに首を振った。
「まさか」
雨水の染みだした黒い靴の爪先を二度、アスファルトに軽く打ちつけて、次の瞬間には暗い道路を一歩で飛び越える。雨を吸って重たくなった外套を脱ぎ捨てて、香月は明かりの少ない住宅の裏道を、アサシンの残した濃い血の匂いを追って再び走り出した。
Fate/Last sin -27