ゼーレ交通局
柔らかな光を帯びて温かに、或いは冷笑的に月が見下ろしているのか否か、黒の外套と同色のハットを目深に被るという出で立ちの深い霧に包まれた青年は知り得ないし、特に興味も抱いてはいなかった。白と薄紫が混ざった静寂の場、密やかに浮かぶバス停留所。咥え煙草で時刻表を指先でなぞり、遠くないうちに目的が訪れると知った彼は、行先を示す看板に寂しく寄り添う古く錆びついたスタンド灰皿で煙草の火種を潰し消した。
最期に吸い込んだ烟を霧の中に薄く広く漏らし、遺書のあれからの扱いを思う。記憶の限り、誤字は一つで済んでいると思うのだけれど、それもどうか。這々の体であの場から去れたのだ、今更恥がどうだとか気に病み過ぎる必要性もあるまい。
ぼんやりと何を映すでもなく放り投げられた青年の瞳の中央へ、気配も音も寄越さず滑り込んできたバスが映された。明瞭でない視界で正体を確かめるのは難しいが、様々な絵具を乱雑に混ぜて出来た塗装を施された車体と、遠慮がちに、然し確かに青年を歓迎する姿勢で開かれた後方の扉が呼吸を合わせ、彼を車内に招く。いざなわれるまま、青年は外套の襟を立て、首を縮めながらそれに乗り込んだ。
緩慢に革靴を車内に進め、眼を擦る。車内灯はいかにも小さな蛾が好みそうな、不潔な月のような光り方をしていた。訪れる安堵。肩と頬の緊張を解こうとした、そのとき。
有る筈もない気配。未だ開き放しであった乗口扉の枠内の観察を図る。まだ、今日の客が居たのか。此方へ向かってくる忙しなく揺れるプリーツ・スカートの裾。あれは、女子学生の制服に似ているが、果たして。自分には関係ない事だ、と思いを非情の鋏で裁ち切り、後方に広がる座り心地の悪そうな椅子へ腰を落ち付けようとした。が、駈歩の靴音が止んで彼の背中に、乗り込んだ少女が衝突し、阻む。
運転手と青年、少女しか居ない空間に鳴り響く発車ベル、運転手の篭りがちな声のアナウンス、閉ざされる扉、ぐわりと揺れる車体、再び音も無き運転がなされるバス。それらの異変を物ともすまいとしたがる少女は青年が羽織る外套の背を必死に華奢な両手で掴み、布地に大きな皺を作っていた。
「ボクはっ、僕は、良い子ですか、っ」
タールの匂いが沈んだ外套に顔を埋め、少女は息切れの狭間を塗って問うた。悲壮感を孕む響きは何処か、嗚咽にも似ていて。咄嗟の対処も拾えないまま青年が軋みを帯びそうな不器用さで振り向くと、面を上げた少女と視線が合った。
泣き出しそうに歪められた少女の眼を知り、青年はひととき呼吸を忘れた。綺麗だと呼べば良いのか、恐ろしいと呼べば良いのか。判らない、判らないから、走行中に関わらず碌に振動もしない床に革靴が張り付く。下手に踏み出そうにも、知ったばかりの不可思議に足を取られて上手く運ばないかもしれない。彼女の右の眼は、睫毛に囲まれて夜色に幾多の星が瞬いている。まるで、満天の星空を切り取ってきたような。吸い込まれてしまいそうだ。吸い込まれてしまってたまるか。抵抗を試みて眉を詰めた青年の表情に気が届いた少女は、ごめんなさい、と小さく零して手を離し、恥ずかしげに俯いた。
「無賃乗車だろう」
指摘に肩を跳ねさせたあからさまな動揺に確信を得て、青年は微かな隙を突き少女の襟首を掴んで運転席の隣へと引き摺ってゆく。青年の顔付きは、哀しみとも落胆ともつかない。
「離して! はなせ!」
手足をばたつかせる少女は、今度は片腕で抱え直されて逃げる事も叶わず終い。対してしんと冷静な態度の青年は、運転手と二、三の異国の言葉を交わした。その間にも少女は無垢な反抗心を言動で目一杯に表現したが、バスは間も無く停車した。やはりそれには、何の音も伴わなかった。
ぱくり、車内前方扉は霧に覆われた地に向けて口を開いた。賺さず青年はその枠内に少女を思い切り突き飛ばし、外に追い出した。呆気なく霧の中に転がされた少女の口が、いやだ、どうして、なんで、と続けざまに嘆きを象る。
「君は、良い子だ。私とは違う。だから、長生きをしなさい」
徐に青年は帽子を外し、胸に抱えて車外の少女に微笑み掛けた。伸ばし放しの前髪の隙間から窺える彼の瞳は、雨雲に覆われた丑三つ刻の色。星々などとっくに愛想を尽かしてしまった冷たい夜の色だった。
嫌、という甲高い悲鳴を置き去りに、青年を閉じ込めたバスは今度こそ滞りなく目的地に向かうべく走り出す。帽子を被りなおした青年は後部の大きな窓から少女の姿を探そうと首を伸ばしたが、霧は都合の良い優しさなど示す素振りも見せはしなかった。
沈黙。運行にエンジンの揺れが伴わず、二人きりでも運転手は無口。青年は外套のポケットを探ったが、此処は車内であるし、煙草はいけないか、と、思い直して用を失くした手で拳を作った。口寂しさなら、着いてから存分に埋めてやるでも良いだろう。それにしても、静かだ。彼が持て余す暫しの退屈を少しずつ炙るのは、先程視たばかりのきらめきだった。
彼女が宿していた星空には、憶えがある。何処だったか、いつだったか、忘れたけれど。多分、遠い昔の。
「すみません、私、忘れ物を」
声帯を使って強引に空想を押し込めた青年が運転手を向けば、あちらは白紫に覆われて青年には何も見えない進行方角へ顔を合わせたまま剽軽に肩を竦めてみせた。
「あの娘ですか」
「まさか」
帽子の淵をつまむ仕草に対し、揶揄う調子で運転手は愉悦に口角を躍らせる。
「嘘吐きは、このまま地獄に直行ですね」
声色にも滲む機嫌の良さ。観念して青年は、はは、と擽ったげに笑い上げた。
「かなわないな」
その返答を拾っているのだかいないのだか今一つ明らかでない運転手がブレーキをかけようとのっそり動くと、青年は「いや、いい」と直様制して元通り車内後方の座席へと踵を返した。
外套のポケットに左右の手を突っ込んだ青年が腰を預け、脚を組んで溜息を逃した座席は何人掛けだろうか、よくて四人か。車内には、例えば普通のバスと遜色無い数の座席が用意されているが、満席になる事はあるのだろうか。青年は、ポケットの中で不意に指がぶつかった物を取り出した。安物のライター。それを幾らか弄んでやると、車内照明に反射して内部で傾くオイルが鈍く光る。
この程度の輝きでは〝あれ〟とは雲泥の差だ。〝あれ〟は、自分が遠い昔の鏡の中に、置いてきた、夢。つい、守りたくなって。つい、懐かしくて、手を握りたくて。何にせよ、遅い。隣に座らせようとの気を振り切れて、良かった。
一つのゼーレが運ばれる先は、行先通りであるか、最期の最期に己の意思に反する言動を選んだ者に似合いの地へと変えられてしまうのか。運転手がいづれの方角へハンドルを切ろうとも、この霧の中では着いてしまうまで青年には判らない。
ゼーレ交通局 完
ゼーレ交通局