オーマイキャット。

 私は二十五歳の猫を飼っている。
 といっても、びっくりするほどご長寿のよぼよぼおじいちゃん猫ではない。まだまだ若くて元気な、人間でいえば働き盛りの青年だ。
 本当のところ、この猫は三年前までは人間だった。ひとり実家を離れて東京の大学に通い、そこそこ真面目に勉強し、親しい友人を何人か持っていて、まあまあ苦労した末に内定を勝ち取って、もう卒業論文さえ仕上げれば晴れて社会人、というところまで来ていた、典型的だけどとても立派な大学生だった。おまけに顔も背格好も悪くなく、性格にも特に難はなかったから、女の子にも少しは人気があって、そう考えるとどちらかといえば皆に羨ましがられる側の人間だったかもしれない。
 そんな彼は世間的なイメージと違い、特に親しくなった人、要するに恋人には思いっきり甘えたがる癖があった。それはモテる男子を幸運にも獲得した私の、ある種の特権だったのかもしれない。罰ゲームだったといわないのは、私の方もまんざらでもなかったからだ。お互い一人暮らしであるのをいいことに、夜遅くまで二人でそこらをほっつき歩いて、終電もなくなるような時間にばらばらに、あるいは一緒に家に帰るようなこともままあった。
 彼にとって大学の卒業というのは気の重いイベントだったらしい。おこがましい言い方だけれど、それは私の近くで暮らせる時間が終わってしまうことを意味していたからだ。理工系の学科を出る彼は、卒業と同時にどこか知らない地方の工場に行ってしまう。それが私にとって寂しくないといえば嘘になるのだが、彼の受けたダメージはその比ではなかったようだ。
 いつからか、彼はよく「猫になりたい」と言うようになった。「猫になれば、一生君の近くにいさえすればいいのになあ」。
 その期待もしていなかった望みが、ある日突然叶ってしまったのだ。
 初めのことはよく覚えていない。だけどその朝、聞き慣れない猫の鳴き声に私が起こされて、私の部屋で一緒に寝ていたはずの人間が、それに比べたら小さな猫に変わっていたことだけは確かだ。
 唐突なことに驚かされて、これは事件か事故なのか、誰かに通報したほうがよいのか、するにしたって警察か消防か、むしろ週刊誌がいいのか、と慌てている間に、ふと猫が私をなだめようとしていることに気がついた。それは不思議な感覚だった。何と言いたいのかもわからない猫の声だが、明らかに私の行動を制するようなタイミングで発されていたのだ。まるで、誰かが「落ち着けよ」と言ってくるかのように。
 それから私は猫が人語を理解できることを発見した。そして、猫は人語を話すことこそできないものの(声帯の限界か)、人間だったころとほぼ同じくらいの知能は持っていて、驚くべきことにパソコンのキーボードを置いてやるとゆっくりではあるが文章を打つことができることが明らかになった。
 こうして私と彼のコミュニケーションは、かつてとはだいぶ違ったやり方で再び始まることになった。それさえできてしまえば、あとのことは意外とスムーズに進んでいった。
 猫はまず、家族のこと、友達のこと、大学のこと、内定のことを気にした。行方不明になればみんなが心配するだろうと不安になった。だけど猫がみんなの前に出て行って、私は人間の〇〇なんです、と鳴いたところで誰もわかってくれはしない。私がそれを代わりに説明してやったとしても、変な冗談と思われるのがおちだろう。
 しかし、その問題はあっさりと氷解してしまった。まずは親に連絡、と彼の下宿に行ってみると(合鍵が私しか知らない場所に隠してあったのだ)、部屋はなんと空室になっていた。少し調べて、ずいぶん前から居住者が募集されていることがすぐにわかった。それはちょうど彼がそこに住み始める直前の日付だった。
 ここから私たちの立てた仮説は、彼という人間は歴史からすっぱりなかったことにされてしまったのではないか、ということだった。猫が慣れない前脚使いで彼の研究室のホームページを検索すると、そこに名前がなかったことで仮説は容易く立証された。
 もちろん悲しくなかったはずがない。結局、今に至るまで私たちは彼の両親には一度も会えずにいる。彼がこれまでにしてきたいろんなことは大体なかったことにされてしまったし、私もある意味では可能性の高そうな結婚相手を失ってしまった。しかし、一応本人の望んだ結果ではあるからか、猫自身はあまり悲観的ではなかったらしい。
「人間である必要なんて、きっと最初からなかったんだよ」
 そうパソコンに打ちこんで大きなあくびをしただけだった。

 諦めてしまえば話は早かった。私のアパートはペット禁止だったけれど、幸い私の飼い猫は猫並み外れて賢かったから、変な騒ぎ方をして周囲に存在が知れてしまうようなことはなかった。
 私は用事から早く帰る癖がついた。猫は料理をできないし、冷蔵庫を開けることもできないから、私がごはんを用意してやらなくちゃならない。さすがにペット用の餌で済ませてしまうような気持ちは私には起こらなかった。昼ごはんは朝の用意で我慢してもらうとして、そうなると夜はできるだけ早く作ってやれるようにしなければならなかったのだ。
 猫用のおもちゃも要らなかったし、散歩に連れて行ってくれともせがまなかったから(休日は一人で外に出してやっていたのだ)、むしろ本当に人と一緒に暮らしているのに近かったのかもしれない。それはそれなりに幸せな生活だった。家に帰れば私を待ってくれる猫がいる。毛並みの良い頭をなでで缶のお酒を飲みながら、新婚生活とはこういうものか、と密かに思ったくらいだった。
 やがて私が働き始めると、収入が入るようになったことから生活に少し余裕ができた。家は社員寮だったが聞き分けのいい猫一匹を忍びこませることなどわけはない。冗談交じりで鮪の刺身とツナ缶を買ってきてやることもできるようになった(もちろん二人で半分ずつだ)。飲み会がある日は帰りが遅くなったが、猫は自由にテレビでも見て待っている。その代わり土日はかなり空くようになって、一緒に過ごす時間は長かった。
 二年が経った時、ようやく念願のペット可のアパートに引っ越すことができた。それからは学生時代のように、二人で一緒に外出することができるようになった。夜に私が一人で喋って変な人と思われる心配が要らなくなった。猫も猫らしい振る舞いを徐々に身につけ、お隣さんの三毛猫とも違和感なくじゃれあえるようになっていた。聞きたいときに鳴き声が聞けるようになった。手綱のいらない私たちの関係は、ご近所さんの憧れの的となっていたらしい。
 そんな生活がいつまでも続くかと思っていた。しかし世の中は良い事ばかりではないようだった。

 いつごろからだっただろうか。猫がパソコンを触らなくなったのは。
 私たちは三年も別の生き物として暮らしているうちに、パソコンを介してコミュニケーションを行うことに疲れてしまっていた。猫は私の判断に全幅の信頼を寄せるようになり、パソコンはときどき主張がある場合にだけ使う道具になっていた。
 ある秋の暮れの一日。その季節で一番寒い夜が近づいていた。私は猫が寒そうにしていることに気づき、毎年使っているヒーターを入れてやった。そのスイッチを入れるときにふと、なにかおかしいな、と思った。去年までなら猫はこういうとき、パソコンに駆け寄っていって、「寒い。暖房入れて」と打ち込むに決まっていたのだ。
 私は怖くなった。ヒーターを入れると猫は暖かい方へ寄ってくる。しゃがみこんだ私の懐に飛び込んできた猫と私は、数秒、目を合わせた。
「今週末、どこに行きたい?」
 少しの間が空いた。その短い時間が私には永遠みたいに思えた。じっと考えるような顔つきをした後、急に猫はくるりと身を翻して、パソコンの電源を入れた。私は溺れかけたところを助けられたように深く深く安心した。そして、心なしか頼りないスピードで近所の公園の名前を書いた。よし、行こう行こう、と私は言って料理の続きに取り掛かることにした。その日は温かい魚料理を食べながら、不思議な不安が拭えずにいた。
 それからも、私は猫と見かけ上は平穏な日々を過ごした。だけど心の内は恐怖がいっぱいで、仕事が手につかなかったし、夜も寝付けなかった。苦しそうに寝返りを繰り返す私に猫が優しく寄り添ってくれると、その夜はよく眠ることができた。猫は自由気ままな生き物と聞くが、その人間のような思いやりは、いつまでも消えないままだった。
 そうして、私は無意識に猫に返事を求めることを避けるようになっていた。返事が返ってこなくなる瞬間が怖かったのだろう。晩ごはんのメニューも、週末のデート先も、完全に私が提案するようになっていた。猫は一度もそれに反対してくれなかった。
 ある日、猫が初めて、私の作ったごはんを残してしまった。「どうしたの?」と聞くのが怖くてたまらなかった。本当は、何も言わずに残している時点で、何かが起きているのは間違いないとわかっていたのだ。彼だったら、ごはんを残された私の顔を見て、いや見ないうちから、私が悲しむということくらいわかるはずだったから。
 私が縋るように食卓を片付けずにいたら、真夜中になっていた。ソファに座る私の隣にはいつものように猫がいる。私は寂しくて猫の背中をなでた。いつもと同じ毛並みのいい背中だった。猫は気持ちよさそうに鳴いた。
 私は猫と抱き上げてお腹に抱いた。思わずぽろぽろと涙が零れてきた。落ちた雫は猫の鼻先に落ちた。初めて気が付いたように猫が顔を上げて、私と目を合わせた。
 猫は少し目を丸くして、小さく鳴いた。それを聞いて私は思わず可笑しくなってしまった。それは人間の「どうした?」という声と同じようなタイミング、大きさだったから。
 その日、私は結局食卓を片付けないまま布団に潜り込んでしまった。猫は片時も離れずにそばにいてくれた。結局、一度もパソコンに向かってくれることはなかった。
 泣き止んだばかりの私が赤い目で猫をなでてやると、そのたびに猫は優しい声で鳴いた。その声を聞いているうちに私はさらに泣けてきた。そうすると猫は焦ったように起き上がり、顔を舐めてくれた。そうしたことを何回も繰り返すうち、いつしか私は眠りに落ちていた。
 朝起きて初めに見たのは、猫の幸せそうな寝顔だ。この顔を毎朝見るようになってもう三年以上経つことになる。いつもその瞬間は幸せだった。
結局、猫はそれから一度もパソコンに触らないままでいる。その代わりに、毎晩必ず猫は私に寄り添い、たいてい私が眠りに落ちるのを見守っていてくれる。私が落ち込んでいる時にはお腹の上まで来て慰めてくれる。この優しさが、どのくらい昔の彼のものなのだろうかと、私は時々疑問に思う。そしていつも最後には、何も人間である必要なんで、最初からなかったんじゃないのか、と清々しく思って終わるのだ。

オーマイキャット。

オーマイキャット。

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更新日
登録日
2019-06-10

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