初恋の効用(2)

井出佐麻呂 作

第二回

 なんぼなんでもこんな容赦ない侏離は人には伝わるまいと若者は思うが、侏離に答える次の話し手がまたしても侏離を駆使して捲し立てるため、若者の常識は一時混乱を極める。信濃は英語が苦手ではない。英単語にも文法の理解にも敏いが、ただ人並のリスニング能力しかない引け目がこんなところで顔を出して、『もしかすると僕の聴覚が、英会話よろしく彼等の高度な発声のスピードに追い付いていけないだけなのではないか』などと云う懸念を抱かせた。
 女性従業員に圧せられていつも委縮している六十代の男性従業員がいる。彼は通常マスク着用が免除される揚げ物の番をしている時も使い古しのマスクを一着しているが、これは衛生面の配慮と云うより、前歯が一本しかない歯列の悪さを隠すためにマスクの蒸れに堪えているだけである。
 さてこの男は俗に「パックマン」と綽名されている。某ゲーム会社の顔に手足が生えた一頭身キャラクターを信濃はイメージしたが、どうやら由来はもっと直截であった。なにしろ彼は、揚げ物を担当している時も「パックマン」呼ばわりされていた。それは実に精巧な毒を含ませた蔑称であり、要するに「惣菜のパッキングをするくらいしか能のない男」と云うほどの意味である。これを聞いた時、調理場における男性一般の立ち位置を信濃は了解した。男でありながらこんな職場に流れ付いて年老いた女たちに頤使される他ないのだから、十分に虐げられる権利がある。
 調理場に飛び交う侏離のなかでも彼の発音こそ聾唖者の濁音にも聞き紛う侏離の最たるであるものだから、信濃はこの不憫な老叟に男性代表として一臂を仮してやりたいと思うのだが、いかんせん何を言っているのか分らない。もう既に健忘症が亢進している彼は物覚えが悪く、調理場の端から端のチーフに向かって「〇〇さん、この10品目の根野菜サラダって#$&*%@¥!?」と何度も数量を訊き返した。
「え?え?え?なん云ってっけ?」
「10品目の根野菜サラダって#$&*%@¥!?」
「だーみだ。なに云ってるのかわかんねー」
 さすがの俚語的会話を以てしても彼の発音の艾々たることにはお手上げらしく、方言にも許容できるものとできないものがあるとの発見は信濃にとって耳新しいものであった。
 女性従業員の中には未だに学生時代の好色な習性をそのまま還暦まで保持するものまでいる。「弁当屋さん」の異名を持つこの五十女のもとには鮮魚売り場の同僚や元従業員、知り合いの客が傱々と場裡に闖入して来てとりどり話に花を咲かせる。よく見るとラメ入りのフェミニンなアイシャドーが刷かれているし、パウダーファンデーションは紅を点したほどに濃い。こんな色も素っ気もない老婆たちの間でも通りすがりの客の品隲や浮気話が盛んに取り交されるさまは、信濃を甚だ居た堪らなくした。「弁当屋さん」は頻りに往時の自分の殊色ぶりを強意し、その餘の五十女たちがさこそとこれに和した。が、信濃には「弁当屋さん」を仮令四半世紀ばかし更返らせても「殊色」の二文字には到底結び付かないように見えるし、年柄に似げなくタイトなスキニーを召しておられるその下肢も、到底信濃の鑑識眼にかなうものではない。要するに彼女も寸胴である。
 正午近くになると、「弁当屋さん」は頻りに「イケメン、イケメン」と黄色い声を出して、ガラス戸擦れ擦れに上体を側めて、誰にとも知れず手を振った。信濃がその方を目睹してもそれらしい人物は絶えて見えない。これは要するにその所謂「イケメン」がガラス戸越しの照れ隠しにちょいとウインクして彼女の嬌態に応えるだけで、あからさまな反応を示さないために今まで信濃に知られなかった訳だが、後日この「イケメン」の正体が呆気なく明かされた時にはさすがに苦笑した。信濃もまた、その苦み走った、日南ひなた眩げに渋めた目許が「イケメン」の称号を掠めることが屢〻だったから、彼をさし措いて五十女を夢中にさせているその未知の「イケメン」に理ない対抗心を燃やしていたのである。
 信濃も遅れて休憩に入った。縦に長い食堂のような二十帖部屋の隣には喫煙室が設けられていて、残り五分で売り場に出てゆかねばならない従業員が最後の一服をつけに殺到するので、出入りが劇しい。
 このスーパーはさざえさんを広告塔に据えて、食育だのいわゆる「5ADAY」だのに就いて口上を云わせている。さざえさんの声質と云えば「溢れんばかりの善意」が少し執拗しつこいくらいだと感じる信濃だったが、この慈愛に満ちた声の主すら、口上言いに対するスーパーの要求高さに終には辟易して、抑揚頓挫のない白けた放送が冬になると流れたりする。長い口上を云わされている最中に心底興味が失せたような、一時喪心したような彼女の地の声が紛れ込んだ時、信濃は同情を禁じ得なかった。スーパーマーケットに漾う独特の悲哀。恐ろしく単調に物品を搬出しながら、恐ろしく勤勉に働き続けなければならないひとつの工場の、従業員一人ひとりの歯車のような悲哀。
 若干の生気を取り戻したさざえさんの口上の後に、今が旬のメロンのテーマソングが続いた。題して「まめみむメロン」と云うらしいが、この自主制作の楽曲は御世辞にも上手いとは云えない。店内で垂れ流されているこうした放送は遮蔽物ひとつない野末に向かって声を枯らせるようなものでよく聞き取れないが、種々の雑音の背後で基底音のように鳴っている「まめみむメロン」のほとんど聞き取れない歌詞は従業員の神経をいやが上に苛立たせた。何しろ一日のうちの「まめみむメロン」のリピート回数は百回を下らないだろうし、客ならいざ知らず、バックヤードでも「まめみむメロン」はところ嫌わず唱えられているのだから、BGMとしてこれ以上不快なものはあるまい。信濃が休憩中便所に立つと、タイル張りの陋室のなかに琳瑯として楽曲は鳴り響き、歌詞がつぶさに聴き取られた。その驚くべき謭劣!これは非道い。まるでその辺の従業員を取ッ捉まえて歌わせたくらい聞きにくい破鐘聲だ。サビの高い音なぞほとんど裏返ったまま立て通している。これなら雑音の背後に埋没させて、底気味の悪い地鳴りとして聞いた方がましだと彼は思った。
『アルバイトの有意義な点は』と信濃は、休憩室での所在無さに飽かせてしばし当座の必要から離れた、迂遠な思考を試みた。『低所得者の過酷な労働環境を覿面にして自分の将来を深刻に見つめ直す契機きっかけを与えることにある。学生ならまだ可い。こんな死ぬほど単調な作業は食後の運動、気分転換、勉強の合間のちょっとしたエクササイズくらいなもので、生活の薬味のひとつとして興味は尽きない。が、この薬味を今後一生、三度三度のご飯のうえにふりかけて食べねばならないとしたら、僕なら一月で食傷する自信があるし、こんな単純作業が生活のために、単純作業がほとんどの生活のために単純作業に従事すると云う循環論法に陥った人生を埋め尽くすだろうと悟った瞬間、僕なら自決する。そんな人生は恥辱と、自己冒涜以外の何物でもない』
 だがそれを自己冒涜だと考えない者が従業員を構成しているのであり、例外はない。信濃にはこのあたりの消息が納得できない。総菜部門のチーフなんぞ何年勤めているか知れないが、ほぼ惣菜を容器に詰めるためだけに生まれて来たようにも見え、惣菜充填を頂点とした生態系をすでに確立しているようにも見える。彼女たちは夥しい種数の充填ノルマをこなすことに手一杯なので、盛り付けの精度が売れ行きに響くことなど顧みる余裕がなかった。あらゆる年長的嗜みや見栄が、この充填ノルマのなかに解消せられているために、信濃ら若者を前にしても一向に悪態を吐つくことをやめないし、男性従業員を口穢く罵ったり、人間を選って思うさま陰口を叩いたりした。
 アルバイトが総菜部門に優先的に振り分けられるのも、人手が足りないためではあるが、よくよく考えてみるとこれは彼女達の自業自得である。信濃が知っているだけでも、総菜部門からはすでに三人の退職者を出している。調理場はチーフを要にして気心の知れた中年女が派閥を形成しており、彼女らの意を迎えない者、少しでも薄鈍い動作をする者は片っ端から爪弾きにされた。彼女たちは何としてでも共通の詬罵の対象を必要とした。いつでも誰かひとりを莫迦にしていないと気が済まないし、生活に張り合いがない。若し雑言することをやめれば、次に莫迦にされるのは自分だと云う無教養の引け目が識閾下に隠顕し、同類が相寄ってひとつの世論を醸成することでこの関係を逆転させると云う企てに彼女らを唆すのである。標的が霽れて退職して呉れれば、あゝ忙しい、やれ忙しいなどと愚痴をこぼしながら次の標的を彼女達は肚裡に一決する。信濃が気の毒に思っている男性従業員が今度の標的にされたのは、彼が不在の一学期の間のことだろうが、この集中砲火、ひとりが「あいつが気に入らない」と云い出した時の彼女らの一辺倒な罵り方には見るに堪えない醜さがある。見た目も醜ければ精神も醜いと云うのは、何とも度し難いものだ。 
 休憩を終えて作業場に戻ってみると、例の若い女が未だいた。衛星帽を被り、マスクをつけ、ディスポ手袋をはめたところで、鴻の毛のような衣擦れをさせて女が狭い通路をこなたへやって来た。そして徐ろに、最前信濃が詰めた容器が並んでいる配膳車を指さして、低聲で云った。
「ねえ、どうでもいいことなんだけどさっきからずっと気になってて」
「どうしたんです?」
「このねばねばサラダなんだけど、よく見るとなめこが一つも入ってないのが三パックもあるんだよね」
「なめこが嫌いな人のためにと思って―――まあ偶々ですけど」
「でもさ。なめこが嫌いなのにオクラだとか長芋だとか、めかぶが好きな人なんているのかしら?」
 これはまた剴切至極であったので、信濃は苦し紛れに
「現に僕が一番苦手なのはなめこなので、そういう人もいるんじゃないですか?ま、僕はどれも苦手ですけど」
「ほらご覧なさい」
「ご覧よ!」このすッ頓狂な声は若い女の背後から聴こえて来たので、二人とも話を腰斬して見返った。
「弁当屋さん、今日もイケメンがお出ましよ」
「え?どこどこ」
 弁当屋さんは渾身の身振りで窓下に駆けつけて、瞳をぎょろつかせ、日の丸の旗を振るような忙しなさで利き手を振りたてた。
 これに目交ぜで応じたのは、何とこの女性と同じ年恰好の、ステテコにTシャツを捲り袖にした漁師風の親爺であった。ちと後退した額際を元に戻せば「太陽の〇〇」や「太陽に〇〇」の主演を務めた元東京都知事の弟御の面立ちに似てなくもない。
「もしかして、噂のイケメンさんと云うのはあの釣り堀帰り風の、ダンディーな、ただちょっと腹の出た小父さまなんですか」と信濃は声を潜めて若い女に訊いた。
「そうみたいね。なんか一昔前のイケメンって感じよね」
「そうですね。一昔前のイケメンのなれの果てって感じですね」
 二人は顔を見合わせて、と云うより、マスクと衛星帽の下からのぞいた雙の眼で心持ち笑い合った。信濃はすっかり胸の痞えが下りて、ばかに晴れがましい清々した気持でボウルを濯ぐためにスポンジを取り上げた。洗剤を射出するスプレーの狙いが笑ったはずみに余所へと逸れて、流し口のすぐ傍に連ねてあったアルミバットの揚げ物の一つに注がれた。洗剤は高圧力で蜘蛛の糸のように噴出され、そのたわしのように衣の厚いメンチカツへと一直線に注がれたので、信濃は二重の意味で笑った。いっそこのたわしでボウルを磨いてやろうかしらと彼は思った。

初恋の効用(2)

初恋の効用(2)

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更新日
登録日 2019-06-09

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