黄昏の情景

黄昏の情景


 コンクリートで覆われた地表はコンクリートのビルディングの群であふれている。
 黒っぽい太陽がビルディング群を弱弱しく照らし出している。
 煤けたビルディングは時代を経ていることが一目で判る。
 今五階建てのビルディングの四階の一つの窓がきらっと光った。音は聞こえなかったが、割れるはずのない強化ガラスが砕け散ると下に落ちていった。4階の一室の窓が壊された。ガラスは舗道に散った。五階の窓はすでにすべて破壊され、中がむき出しになっている。
 ビルディングを遠巻きにしていた裸の人々が、日に焼けた顔を上に向け、今壊された窓をみつめている。
 割れた窓から白っぽいものが放り出されると、人々の目はそれを追い、頭上に両手を挙げて落ちてくるところに向かって走っていく。
 壊された四階の部屋の窓からなげだされたものは、仰ぎ見る人々の頭上にくるくると回りながら落ちていく。
 人々の目の前にどさっとおちた。人々は喚起の声をあげ、その周りに集まった。
 それは死体だった。
 あっという間に群がった人々の手が死体の足を、手を、髪の毛をつかみ、細かく引き裂いていく。
 太陽の薄くらい光がその情景を浮かび上がらせる。
 したいから引き裂かれた肉片は、運良く手にした男の、女の口の中にいれられる。一片でも口にした人々はその渦から外にでる。それは不文律だった。
 後ろにいた人々は、砕けた死体の一片の肉にありつこうと、互いにぶつかり合い、押し合いへしあい前に進み、一かけの肉を口に入れる。
 前に来た男が一人、死体の太ももを齧りとった。
 胸の肋骨が割られ、心臓が顔を出した。一人の女が心臓の一部を爪の伸びた指で削り取って口に入れた。女は幸せそうにその場からうしろにさがった。男の手が残った心臓の脇を抉り取った。心臓は何人かの人の手によって削り取られなくなっていった。こうして死体はだんだんとなくなり、後から来た人々には骨が残されていた。それでも人たちは骨をおりしゃぶった。
 
 
 次の死体が高々と放り上げられ、人々の手にゆだねられた。
 再び群集の渦が動き始めた。音もなく人々は死体の落ちてくるところに集まった。
 死体は舗道に落ち、細かな肉片が飛び散った。
 群がる人々に取り残され、後ろのほうで、年取った女が、そんな様子をぼーっと見ている。もういくばくも無い命を知っているか知らないか分からないが、生に対する執着はほとんどなさそうだ。
 人々の渦の中から、小さなものが弾き飛ばされ、老女の足元に落ちた。
 老女の目がのろのろと足元を見た。
 ほとんど頭骨だけの顔の表面で、垂れ下がった目の下の肉がぴくぴくと痙攣を起こし、老女の萎びた下唇がわなないた。
 「あ、あ、あ」
 声をだしたのは何ヶ月ぶりか、いや生まれて初めてか。
 老女の麻痺した干からびた口からほんの少し涎がもれた。震える手を落ちたものに伸ばした。骨のような指でそれをつまみあげた。目から涙が垂れた。
 老女の手の中には赤い血のこびりついた小指があった。老女は信じられないという表情で小指を見つめ、突然、その小指を握りしめた手を頭上に掲げ、群集の中にのめりこんだ。
 老女の足はもつれ、集まっている人々に突き当たり、よろめきながら、涙で汚れた顔を会う人ごとに近づけて自分の所有物を見せびらかし、目を吊り上げて奇妙な笑い声をあげた。
 誰も老女を相手にしない。
 老女は人々の足の間にうずくまった。死体の小指を口に入れた。しばらく舌でその感触を楽しんだ。小指は血を吸い取られ白くなっていく。老女は目の脇に皺を寄せた。嬉しい。
 老女は小指の爪を歯のなくなった口で剥がし、もぐもぐと噛み砕こうとした。歯のない歯茎から血が滲み出し、噴出し、老女の唇が若き日の赤い色に染まっていく。
 人々は老女などかまっていない。おちてきた死体に群がり、一切れの肉を手にして、輪からさがっていく。
 老女は人々の足に蹴られながらも、赤い自分の血を滴らせながら、小指の肉片を噛みしめた。
 小指の最後の肉を剥ぎ取ると、どこを見るとも無く、飛び出した目玉をきょろきょろと人々の足の中に泳がせ、肉の無くなった小指の骨を口の中に押し込んだ。
 苦しそうに口を動かすのだが、骨は砕けるわけでも溶けるわけでも無かった。
 老女の目はひそかに微笑んだ。この小指の肉は彼女が生れてことのかた、初めて口にするものなのだ。
 『美味しい』
 老女は目を潤ませて、この言葉を頭の中に響かせる。初めての静かな孤独を楽しんでいた。
 老女は生暖かくなった小さな小指の骨をさも残念そうに口から取り出すと、手のひらに載せた。枯葉色の手の上に真っ白の骨が乗った。白い湯気が立つ。この小指が女のものだったのか、男のものだったのか、子供だったのか、老女は知らない。知る意味も無い。
 骨が冷えていく。雨水を飲み、時々コンクリートの隙間から生えてくる草を食べ、やっとおとなになれる人間は少ない。その上、一生のうちに一度たりとも肉を口にせずに死していく人々の中で、死体の小指を食べた。なんと自分は幸せなのだろうか。
 たった一本の小指から過去の人間が想像することも出来ない幸せを感じていた。
 老女はコンクリートの表面に指の骨を置いた。今まで自分の口の中にあった骨は冷たいコンクリートの上にころがった。
 老女はコンクリートの亀裂が眼にはいった。なぜか無性に懐かしい。コンクリートの下はなんだろう。
 そのとき、老女の目の前の骨が消えた。老女が顔を上げると、子どもが一人その骨をぼりぼりと噛み砕いていた。
 『土』この言葉を知っている者は地球上にはいない。コンクリートの固まりが地球、人々はそれしか知らない。
 老女は目をつむり、まぶたの裏の血管が赤く膨れていくのを感じ、静かにうつぶした。老女の血管の中の赤い球の流れは緩やかになり、その場で渦巻くだけになった。
死が訪れた。
 その瞬間、人々は死の匂いを敏感に感じ取った。さっきの無関心とうって変わって、老女の周りに、砂糖に集まる蟻のごとくまとわり付いた。
 がっしりした手が老女の頭をはたき割った。それを期して数知れぬ手が老女のからだをまさぐった。心臓は何人もの男の手によってえぐりだされ、まだ消化しきれない小指のはいった胃袋は小さな少女が切り裂いて、肉片を持ち去った。皮膚は細かく引きちぎられた。
 やがて老女はコンクリートに染みた黒い血の跡にしかならなかった。
 副産物の宴会が終わると、人々はまたビルディングの窓に熱い視線を注いだ。
 ビルディングの三階の一室の窓が割れた。
 人々はその下に集まった。
 ガラス窓が割られ、部屋の中かから子どもの死体が取り出された。死体は地面にたたきつけらればらばらに散らばった。
 子どもの頭が一人の臨月の女にわたった。今子どもが生まれることはほとんどないといっていい。生きることで精一杯の人間に生殖能力は残っていない。だが、時として、生殖能力がかろうじて残っている男と女が出会うことがある。そのとき、さらに希なことだが女が子を宿すことがある。しかし、産むにいたる女はその数パーセントもいない。人間が地球から絶えようとしているときのことである。
 今にも割れてしまいそうな腹を抱えた女はわめきともうめきともつかない声を上げ、その場に子どもの頭を落として割った。頭の中をほじくり、器用になめる。あわててむせてしまっている臨月の女など誰一人振り向こうともしなかった。女の歯が子どもの頭骨に食い込んだ。無我夢中に食べていた女に涙が光った。女の腹が大きく振るえ、苦しそうに胸で息をはずませている。痛みが襲ってきた。
 女は人々の間にしゃがみこむと、上を向いて両足を人々の足に絡ませて開いた。目が苦しそうに白くなり、のけぞったからだが大きく波打つ。
 女の顔に苦痛の波が走った。うめき声が上がった。女は両腕に力を込めた。腰が浮き、低い声が次第に甲高くなる。
 強い痛みが女を襲った。
 おぎゃあという声が聞こえた。男の子が生れた。その声に人々は女に気付き、周りを囲み女を保護した。産後を自分で処理する女の周りに小さな空間ができた。
 女の脇に転がっている赤子は、手をあげ両足をつっぱってばたつかせ泣いた。人々は気づき笑った。生まれる赤子を見る機会などほとんどの人にはなかった。
 女は遅くなった後産の痛みに耐え、臍の緒と胎盤を手に持って周りの人々に差し出した。
 女の周りの男たちが受け取り少しずつ分けて食べた。
 女はそれが終わると自分の子どもを腕に抱え、赤子の口乳を含ませ、その場を去った。
 女が子どもを産んだ小さな空間はふたたび人々によって埋め尽くされた。 

 人々の目が太陽を見た。西の彼方のビルディングの谷間に沈もうとしている。
 人々はざわざわとその場から去り、自分のねぐらに帰っていった。
 ビルディングの残骸はたくさんある。今生きている人たちの住居となっている。
 夜が訪れた。静だ。
 人々は半分崩れたビルディングの一室で寝る。一人で寝るものもあり、何人かでより寄り添い暖をとって寝る者たちもいる。
 太陽の無い夜はコンクリートが凍りつきそうになるほど冷える。だが、壊されたビルの中には一万年も前のベッドがあり、布もあった。
 ビルディングの間から光が上がりはじめると、人々はもそもそとからだをうごかす。光が強くなってきてもなかなか動こうとはしない。太陽がビルの間に顔を出し空の上に昇ると、人々は壊れたビルから這い出してくると、溜まっている水を飲み、草を見つけて歩き、食事をする。地球には酸素を作る植物は少ない。食べるのにも苦労している。それは人々が今使っている酸素が第に消えていく運命にあることをものがたっている。
 その頃、川には海の水が流れていた。山からしみだす水も塩水であった。唯一雨の水が命を支えてくれていた。
 そのような状況でも、人々は朝の排出という儀式を忘れていない。たとえ、一片の肉を齧っただけの男も、髪の毛をつかんだだけの女も、何も食わないやつも、朝は彼らの習慣と名づけられた場所に集まり、形だけの排出を行う。なぜそうするのかわかっていない。その場でほんの少しの排出物が堆積し、干からびているその上に、茶色の小さな茸が生えていることがある。
 人々はこの茸を食べたりはしない。太陽で萎びていく茸をみて、じぶんたちにその魂をもらうのだ。彼らはしおれていく茸の生気が自分たちに移ると信じている。
 それがかろうじて残っている信仰というものだ。
 一人の男が習慣の場でベージュ色の小さな茸を見つけた。彼はその場に座り、顔を茸に近づけ、少しでも生気を吸い取ろうと口を開けた。ベージュ色の茸は太陽の暑さに身を震わせ首を傾け、男の見ている間に首をだらんと下げた。白い胞子が散った。そこを見計らって、男は思う存分息を吸い、立ち上がると踊るように人々の中へ戻っていった。習慣の場では乾いた排出物がかさかさと音を立てる。ハエがとんでくるわけでもない。
 そのビルディングは一階の一つの部屋をのぞいてすべて破壊された。人々はビルディングを囲む柵を乗り越え、その部屋をのぞこうとする。
 部屋の窓は厚い硝子で覆われ石でたたいても容易に割れるようなものではない。余りにも長い時間が経ち、硝子の表面は煤けていて中を覗くことも難しい。しかも遮光機能により硝子は濃い茶色であった。それでもたどり着いた男や女は、硝子に目を寄せて中を覗こうとする。
 ビルディングの各階に部屋を管理するロボットがいる。中で眠る人々を介護するロボットである。普段はビル内の衛生を保つ役割を持ち、虫など生き物の死体があると、ビル内のごみ処理機にかけるようにプログラムされていた。人のいない部屋に大きな死体があった場合に関してはプログラムされておらず、ロボットの判断にまかせるようになっていた。ロボットはその部屋に死んだ人間がいると、窓を破壊しその死体を外に放り出すのはそのためである。
 中を覗いていた人々も何も起こらないとわかるとそこから離れ、後の者たちが窓ガラスに目をつけて中を覗こうとする。硝子の具合により中が見えることがある。そこを見つけた人間はなかなかそこを動こうとしない。
 もし中にはいれたら驚くに違いない。
 広い部屋の真ん中にはたった一人の女がベッドの上に寝ている。その不思議な光景は彼らにとって理解できないだろう。部屋の真ん中にある特別な寝台、その上で何の夢を見るのか女は氷に包まれて静に横たわっている。
 ただのぞいている男の目にその女が凍っていることなどわかる由も無く、ただ静かに寝ていると思うしかなかった。
 今、窓ガラスに三人の人間が目をくっ付け見つめている。
 カチ、部屋の中で半永久のタイマーの解ける音がした。その音も外のものに聞こえることはない。その音で部屋の中の空気がガラッと変わる。時間が来たのだ。この女がもうすぐ目を覚ますのである。
 女をくるむ氷は水滴となり寝台に吸い取られ、寝台の床から暖かな空気が噴出し女を包み込む。 
 室内の温度計はマイナス300度から上昇し4度まで上がってきた。温度の上昇はゆっくりである。女の白い乳房が少し揺れた。しかし、唇はまだ紫色のままである。痩せた腹がふっと膨らむ。心臓が緩やかに動き出したのに違いない。
 女のからだの色に赤みが差すには相当の時間がかかった。唇が紫色から茶色に変わり、少し赤味がかかってきた。胸の大きな動きが外からのぞく男と女にもわかったようである。
 白かった手の指先がピンクがかり開かれていた手のひらが閉じられてきた。
 びくびくっと女の全身が痙攣をした。目が開いたようである。フォーカスは合っているわけはないが、それでも光を感じているように、眼球が動く。それをどこかで監視していたかのように、室内に明かりが灯った。強い明かりが部屋を満たす。外にいる人々にいくらかではあるが中の様子が見えるようになった。
 寝台の上の女は首を左右に動かし、腕を少し上に持ち上げた。なかなかからだはいうことをきこうとしない。長い足を持ち上げ、たち膝の状態になった。やっと動かした足と手を自分の目で確かめている。
 女は上半身を持ち上げようとしている。首をゆっくりと窓に向けた。窓から外はあまり見えない。弱弱しい光が入ってくるだけである。
 まだ太陽が橙色のコロナを発して元気に輝き、熱い光を放っていた頃の女が、その時の大氣を押し包んだビルディングの一室で蘇った。
 外から目を押し付けて中を覗いていた何人かは、裸の女がゆっくりと寝台の上から立ち上がるのを見ることができた。女は音もなく起き上がり、一見、昨日の目覚めと同じように、腰まである長く伸びた髪をかき上げた。女は寝たときには丸坊主にされたことを思い出した。長く寝ていても髪の毛だけは伸びていく。
 女は白い乳房を揺らして床に足を突き、寝台にしがみついたかっこうで立ち上がった。一歩を踏み出そうとしているのだが筋肉がほぐれておらず、寝台のてすりを頼りに片足を横にずらした。
 女はちょっと手を離して背筋を伸ばした。
 両足でたったことを嬉しく思ったのであろう。女の目元が綻んだ。
 一歩を歩んだ。できたと思った女はほっとした様子で次の一歩を試みた。今度はスムーズに足が出た。女は壁に埋め込まれた大きな鏡の前に歩みを進めた。痩せても胸だけは大きく張った自分の白いからだを見て、少し驚いた様子で顔を触った。ほほはこけ、そのむかし有名だった画家のムンクの書いた叫ぶ少女のように、悲惨な顔をしていた。
 自動に動いてきた年号カレンダーが鏡の脇に埋め込まれている。赤い光で15000をさしている。西暦5000年に眠りに付いた女は、一万年の月日が経っていることが信じられない様子で辺りを見回した。女は寝台の脇に戻り、用意されていたローブを身にまとった。
 一歩一歩ゆっくりと歩き、その動きはだんだんと自然になっていった。
 女は茶色のガラスの窓のところに来た。なにやら影のようなものが動くだけで何も見えない。遮光のための電気を切れば透明になり外が見える。女は窓の脇にある「遮光」と書かれているボタンを押した。
 硝子が透明になった。
 そのとたん、女はまだ赤く充血した目を大きく裂けんばかりに見開き、すぐさま白眼になって卒倒した。女は床の上に崩れピクリとも動かなかった。
 窓ガラスに連なるいくつもの顔、血走った目が窓ガラスに張り付いていた。一万年を過ごした後に女に待っていたものであった。死である。女が倒れるのを見た顔は喜びの皺を寄せた。太陽が元気の頃に生を受けた女は、一万年後の空気を吸うことも無く、また新しい目覚めに一言も発することも無く死んでいった。
 部屋の戸が開くと、ロボットが部屋に入ってきた。人型をしたロボットは、右手で窓ガラスをぶち割った。余りにも近づいてみていた人々の顔が血に染まった。叫び声と共に窓から離れた人々は血を滴らせながら窓から離れた。
 ロボットが死んだ女の片足をつかんだ。ローブが脱げ裸になった女の死体は窓から遠くに放り出された。
 人々の歓声が上がった。
 人工冬眠解除の際の注意書きが壁に張られていた。それにはこう書いてあった。解除の際は肉体的には問題が無いが、極度の精神不安定にあるため、ショック死の危険多大なり。その点よく注意すること。
 女を放り出した介護ロボットの顔はにっこり笑った女性の母の顔であった。

 目覚めの、いや、終りの年号を黒々と記されたビルディングの列は、寒そうにまだまだ続く。そこに眠る人たちは、春のおとずれを信じて眠りについたはずであった。夢に見る未来、それは宇宙の果てに旅立ち、新たな星をみつけることだった。
 だがそれは、人々の食糧倉庫となったのである。

黄昏の情景

私家版初期(1971-1976年)小説集「小悪魔、2019、276p、二部 一粒書房」所収 挿絵:著者 

黄昏の情景

ビルの一室から死体が外に放り出された。そのビルは一万年も前の人間が未来に目覚めることを夢見て眠っているところであった。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-06-07

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