茶碗茸

茶碗茸

茸不思議小説です。縦書きでお読みください。


 八月になった。ここに越してきて一月になる。家の中はだいぶ片付いて、生活にもなれて来た。
 家の周りの人たちの顔も少しは分かるようになったのだが、ここのところ、ちょっとおかしなことに気がついた。隣には子ども二人の夫婦が住んでいるのだが、家族はいつも火照った顔をして外に出てくる。
 奥さんは丸いふっくらとした顔をした女性である。どちらかというと愛嬌のあるかわいらしい顔の持ち主である。肉まんに似ていないこともない。
 月曜日の朝のことであった。私がバス停に行くために、通りのゴミ捨て場脇を通ったとき、ゴミを捨てようとしていた奥さんの、長い真っ黒な結わえた髪がゆるゆると揺れながら頭上を漂い、白湯気をあげているのをみた。顔は真っ赤だった。
 亭主ですらそうだ。亭主は私よりかなり早く仕事にでるため、朝に一緒になったことはないが、ときどき、帰りに出会うことがある。軽く会釈する程度であるが、都会的で感じがよい。細長い顔に赤っぽいめがねをかけているのは珍しいが、いかにも事務職の優秀な顔である。
 八月も終わろうとしている、少し涼しい風が吹き始めた日曜日のことである。彼が庭にでてきたときに、めがねを曇らせ、細長い顔を赤くして鼻の頭から湯気を上げていた。
 子どもはもっとすごかった。玄関からでた少学校五年の男の子と、小学校二年の女の子の頭の天辺から白い煙が立ち上っていた。顔も真っ赤である。
 目の錯覚ではない。目は若い頃からよいほうで、まだ老人性の目になる歳でもない。両親、祖父母とも目はとてもよい。だから、本当に湯気を立てていたのではないだろうか。家内に聞いてみたのだが、知らないと首を横に振った。今度会ったときに見てみるといっていたが、その後、なにも言っていないところをみると、気が付いていないのだろう。
 そんなある日、隣の家の茶色っぽいトタン葺きの屋根から、蒸気が立ちのぼっていた。むんむんと蒸し暑さが伝わってくる。私の家の庭から、隣の家の台所が見える。カーテンが開けられているので、隣の家族がテーブルについてお茶を飲んでいるのが見えるが、部屋の中が蒸気で満ちていて、なにやら靄っている。
 窓がいきなり開けられて、隣の奥さんが、庭の草取りをしていた私に声をかけた。
「今、家族でお茶飲んでますの、いかがですか」
「家内は今買い物に行っていまして」
 わたしは断ろうしたのだが、
「草片(くさびら)茶をいれましたのよ、お一人でもどうぞ」
 とかなり強く誘ってきた。奥さんの頭から白い湯気が立っている。
草片茶とはなんだろう。今は何でもお茶にしてしまう。草片は茸のことではなかっただろうか。茸茶ということだ。一時紅茶茸と言うのがはやったが、あれはとうとう飲まないうちに姿を消した。あれは本当の茸ではなく、紅茶を発行させて生じた茸のような寒天質のものだったらしい。外国では飲まれていたようだ。ともあれ、何を飲ましてしてもらえるのかちょっと卑しく興味を持った。私は、
 「それじゃ、遠慮なく」と答えていた。庭から出て、隣の家の玄関に行った。呼び鈴を押すと「開いてますのでどうぞお入りください」と奥さんの声がした。
 玄関を開けると、むーっと暑い湿った空気が押し寄せてきた。植物園の熱帯植物コーナーに入ったときのようだ。
 玄関にはご主人がでてきた。主人の両耳のあたりからやはり白い湯気が立ちのぼっている。
 「いらっしゃい」
 「どうも、おじゃまします」
 廊下も台風の時のように湿気の多い暑い空気に包まれている。
 食堂に通されると、もっと蒸し暑かった。
 子供たちがにこにこと私を見た。やはり鼻の頭から白い蒸気をあげている。
 「こんにちわ」
 礼儀をわきまえた明るい子供たちだ。きっと、よい躾けをしているのだろう。
 私が、テーブルにつくと、奥さんがノリタケの白い紅茶カップに黄緑色の湯気の立った飲み物を持ってきた。
 「どうぞ少しずつお飲みください、その方が効果がありますのよ」
 「なにに効くのですか」
 カップ口に運び、ちょっと飲んだ。熱いが喉ごしがよく、とてもとすっきりとしている。薄い酸味と甘みが舌に残り、草のような青臭ささが、口中に広がった。
 「からだがしなやかになりますのよ」
 奥さんは自分のカップを口に運んだ
 奥さんの頭の毛から白い蒸気が湧き上がってきた。
 並んで腰掛けているご主人もカップを持ちあげた。ご主人の鼻の頭からもやっと蒸気が立ち上がった。
 からだがほてってきた。
 子供たちがカップから草片茶を飲んだ。二人の頭の周りから水蒸気が上がった。
 「さっぱりしていますね、何の茸ですか」
 かすかに、何にたとえていいのかわからないが、なつかしいすっきりした香りがある。甘みはほとんどないにもかかわらず、なぜか満足する。
 「茶碗茸ですよ」
 「珍しいですね」
 「このあたりじゃ、なかなかでないでしょうけど、茸の採れるところならどこでも出る茸です」
 「干して煎じるのですか」
 「まあそんなところです」
 私が草片茶を飲み乾すと、奥さんが立ち上がって、ポットから茶をついだ。ご主人や子供たちのカップにもつぎ足した。最後に自分のカップにつぐと、
 「さあ、お飲みください、みんなも、さあ」とカップを持ち上げた。
 と、家族たちは一斉にカップを持ち上げて口に運んだ。私も同じようにカップを口に持ってくると、草片茶を一気に飲んだ。
 みんな同時に、カップをテーブルに置いた。
 なぜか癖になりそうでもある。
 カップの底には、草片茶が本の少し残っている。
 奥さんがまた茶を銘々のカップにたっぷり注いだ。さて、またの無の科と思いながら、手を伸ばそうとしたのだが、奥さんも主人も、子ども達も手を動かそうとせず、カップの中を見つめている。私も手を引っ込めてカップの中を覗いた。草片茶は本の少し草の色をしている。さて、飲もうかなと思ったとき、カップの中から、白い蒸気がのぼり始め、もやもやと、私の顔の前に渦を巻いた。おやおやと思っていると、蒸気はさらに立ち込め、私の顔を包み込んだ。前に座っている主人の顔が見えない。
 顔を下に向けると、カップははっきりと見ることができた。私はカップの中を覗きこんだ。カップのそこでは、隣の家族が私を見上げて、いらっしゃいと手を振っている。どうしたらいいのかと思っていると、
 「とびこんで」
 と奥さんが叫んだ。私はカップの中に向かって、頭から飛び込んだ。

 カップの中から、見上げると、抜けるようにきれいな青い空が見えた。
 家内の顔が見える。上のほうから私を見ている。
 家内の隣から聞きなれた声がする。
「どうして、あの子はいなくなのかしらね」
 私の母親の声だ。家内が答えている。
「そうですの、退職した一週間後ですから、何かあったのかしら。急にいなくなってしまうなんて、何処に言ったか、全く分かりませんの。旅行なんてしない人ですし、大学でてからひたすら生物の研究をしてきたのですもの、退職がよほどこたえたのかしら、でも不思議」
「何を見てらっしゃるの」
 九十になろうとするしわくちゃの母親の顔が見えた。母親もカップの中を覗きこんだのだ。
「おや、茶碗茸ね、しかも五つも生えている」
 「そういえばあの人おかしなことを言っていたわ、隣の奥さんの頭から湯気が出てたとか、ご主人の鼻の頭から湯気が出ていたとか、子供たちの頭の天辺からも湯気が出ていたとか」
 「隣って、どちら」
 「おかしいのよ、お隣は私たちと同じに退職した老夫婦でしょ、こっち側は空き地だし」
 家内と母親の手が私たちの入っているカップに伸びてきた。
 「やぱっり、退職がこたえたのかねえ、あの子は研究しかできない子だから、でも、いつか戻ってくるわよ、しばらく待っていましょう」
 「はい、お母様」
 「切り株の上に、こんなに大きな茶碗茸が五つも生えるなんて珍しいわね、このあたりではあまり生えないのに」
 「茶碗茸は食べられないのかしら」
 「聞いたことはないわね、そのままにしておきましょう」
 その日から、晴天が五日も続いた。
 茶碗茸はみな萎びてしまった。
 私はもう家に戻る事は無いだろう。

茶碗茸

茶碗茸

越してきた家の隣の家族は、皆赤い顔をして蒸気をだしている。誘われてその家でお茶を飲んだら自分はどうも彼らの仲間になったようだ。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-06-07

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