河童の半次郎
書いた時には本気で文芸誌の新人賞に応募するつもりでした。
原稿用紙100枚です。
一 半次郎に会いたきゃ弦巻川をさらえ
差配の平左衛門老人は右手に持った湯飲みを口元に持って行ったまま、呆けたような目で三人の男たちをながめていた。
「言ってることがよく解らねえなじいさん、そりゃどういう意味だい」
三人の中の一番先頭の男が座敷に両手をつき、しゃくり上げるように平左衛門をにらんで凄んだ。
遊び人風の町人髷を油でてらてらと光らせ、左の頬に向こう傷まである。みるからにごろつき風の若い男だ。
その後ろに居る二人はデブとチビで、チビの方はいかにも気短な青筋を額に浮かべてぎらぎらした目で平左衛門をにらんでいる。デブは大男だが、どう見ても血のめぐりの悪そうな馬鹿面である。
中肉中背の向こう傷の男を加えて、紫色の揃いの半被で三人並ぶと、香具師の芸人のようでどこか滑稽に見えた。
「聞こえなかったかね」
平左衛門は顔色ひとつ変えずに、湯飲みの白湯を一口すすって、「弦巻川をさらってみなよと言ったんだがね」と上目に天井を見上げながら言った。
今年六十になる老人だったが若いころはかなり鳴らしたらしく、穏やかに応えているようでいて、目の奥の光がどこかふてぶてしい。
「じゃあ何か、半次郎ってのは河童だってえのかい」
「このあたりじゃ、そう言っている者もいるがね」
男は「けっ」と言って、座敷についていた両手で床を叩いた。
「おいおい、ほこりが飛ぶじゃないか」
平左衛門は大げさに咳き込んで、湯飲みを覗き込みながら言った。
「住んでるのはこの長屋だって判って来たんだろう、あの先生はほねつぎなんだから、たいがい昼間は居るんだよ、明日もう一度来りゃ居るだろうさ、ここに居ない時にゃあだいたい酔っ払って弦巻川に落っこちてるんだよあの人は」
「このじじいふざけやがって」
後ろで目をぎらぎらさせていたチビが、身を乗り出そうとするのを、先頭の向こう傷が後ろ手に押し戻し、顔は平左衛門をにらんだまま「やめろ」とつぶやく。
「何か用なら伝えておくよ」
平左衛門が飄々と追い討ちをかけるものだから、さすがに顔が赤く膨れだし、顔の傷跡は再び裂けて血が噴き出すかと思うほど赤くなってみみずのようにひくひくと震えた。
「きのう俺っちの弟分がやつの世話になったんだよ、おめえさんなんぞに言ったところではじまらねえのさ」
「なんだい、治療のお礼ならあたしが預かっとくよ、店賃が滞ってるもんでね」
「かわいがってもらったんだよっ」
男は堪りかねてもう一度両手で床を叩いた。
平左衛門はしげしげと三人を見比べて、
「お礼参りだったら、もっと連れて来るんだね、その頭数じゃ足らないよ」
と気の毒そうに頭を振った。
「このじじいっ」
再び後ろから身を乗り出そうとするチビの鼻先きに向かって老人は「こっちから頼みたいくらいだよ」と、鋭く言葉をぶつけた。
「ぜひ一度あの飲んだくれの河童先生を叩きのめして欲しいもんだね。あの腐った性根を叩きなおしてもらいたいもんだよ。でもね、あの先生はなんとか流とかの柔の使い手で、滅法強いから気をつけるんだよ」
「強い」という言葉に力がこもっていたが、老人のいまいましげな言い草からして、誉めているわけではないらしい。
一方、凄むつもりが妙な理屈で諭されて、三人は一瞬ぽかりと口を開けていたが、すぐに傷の男が「くうっ」と犬が唸るような声を搾り出し「邪魔したな」と、くるりと背を向けて出て行き、後の二人は目の端で平左衛門を一瞥してからしぶしぶとついて行った。
平左衛門はしばらく三人の背中を見送っていたが、急に糸の切れた傀儡のように、ダラリと肩を落とし「ふーっ」と溜息をつきながら、肩や首を拳で軽くぽんぽんと叩いた。
ふと目を上げて入り口を見ると、一人の子供が腰を屈めながら後ろ向きに入って来るのが見える。
「こら弥助。人に尻を見せながら入ってくるやつがあるか。まったくお前さんの家じゃどんなしつけをしてるんだ」
弥助と呼ばれた少年は返事もせずに、おどおどと外と平左衛門をかわりばんこに見ながら入って来ると、
「なんてこと言うんだよ大家さん」
と座敷に腰掛けて足を組んだ。
岡場所の近くで育ったためかどうかは解らないが、ませた物腰をする子供だった。
「先生が弦巻川に落っこちたのは四べんだけじゃないか、それを毎日落ちてるみたいな言い方して」
「馬鹿だねお前さんは、お前さんちの店に毎日行ってるなんて本当のことを言ったら、あいつらお前さんちに押しかけるんだよ」
「なんだ、そういうことか」
弥助は目をぱちくりさせて頷いた。
弥助の両親は、この音羽町の五丁目の表店で「ねずみ屋」というめし屋をやっていた。
音羽町は江戸川橋から護国寺に向かってまっすぐに伸びる音羽通りをはさんで東西に、護国寺の門前の一丁目から江戸川橋近くの九丁目まで、まるで豆腐を並べたように連なっている。
しかも「ねずみ屋」はこの平左衛門老人が差配をしている裏長屋と同じ、音羽通りから見て西側の五丁目なので、ここからすぐ目鼻の先の近さだった。
「それにだな弥助、先生くらいのいい大人がだ、三年の間に四べんも川に落ちてりゃあ、そりゃあ立派な笑いもんだよ」
弦巻川はこの裏長屋の西を音羽通りと平行して流れている幅九尺ほどの小川で、一番深いところでも大人の腰ほどである。
水は綺麗で、飲み水に使うほどでもないが、仮に間違えて飲んでしまっても腹を下すこともない。だからといって半次郎のようにぐでんぐでんに酔っ払って四度も落ちて、しかも番たびそのまま人に見つかるまで眠りこけながら、いまだに生きているどころか風邪一つひかないというのもどうかしている。
悪運の強さと体の頑強さは天下一品といってよかった。
「だからって、飲んだくれの河童だとか、叩きのめして欲しいなんて、いくら先生がいないからってひどいよ」
「いないから言ったわけじゃないよ、いつも先生に向かって何度も何度も言ってることを、そのまま言ってやっただけだよ」
確かに弥助も平左衛門が半次郎に、口やかましく説教を垂れたり、時に激しく叱責するところは何度か見ていた。
だがそんな時の半次郎は、困ったような顔で右を見たり左を見たり、首のあたりを掻きながら天井を見たりして、時に意味の解らない薄ら笑いを「えへへ」などと浮かべて、癇癪持ちの老人の顔を余計に血袋のように赤くするのだった。
平左衛門の向こう気の強さと頑固さも並みのものではなかったが、半次郎という男には、どこか他人からそんな風にいじくられやすいところがあった。
良くいうなら女でも老人でも、子供からまで、ものを言いやすい。
だがいくら小言を言ったところで、まるで暖簾に腕押しで、いつも困ったような顔で聞いているのかいないのか、黙ってにやにや笑うだけなのだ。
しかもそんな様子に愛嬌があって、小言を言っている方が決まりが悪くなりしまいには「まあ、いいか」と根負けしてしまうのである。
「今回だって、あんな連中が長屋に押しかけてきて。他の店子がとばっちり受けたら承知しないよ」
平左衛門はまるでそこに半次郎が居るような口ぶりで、一人興奮している。
「先生も早く嫁さんでももらえばいいのに」
「お前ね、ませたことを言うんじゃないよ。そもそもお前の姉さんが・・・」
平左衛門はそう言いかけて止めた。子供の弥助に言うことではないと思ったのである。
平左衛門から見て半次郎の年齢が二十六というのは、ほぼ間違いないと思われる。
三年前、この長屋にふらりとやって来た時に人別帳に書いた歳は二十三だったし、この老人から見てもだいたいそのくらいに見える。
ほねつぎとしての腕は確かなようだったが、どういうわけか嫁をもらわず、小銭を稼いでは見たところその全てを酒に替えて呑んでしまうのだ。
いくら宵越しの銭を持たぬ江戸っ子とはいえ、見かねた平左衛門がいつだったか嫁の世話を焼こうとした時があった。
これははっきりいって良い話だった。
相手は青柳町の大工の娘だったが、父親は腕が良いばかりか護国寺や鬼子母神の修繕を任されている由緒正しい宮大工でその上、その娘は美人で気立てが良いと評判だった。
だが半次郎は理由もいわず固辞をしたのだ。
それもただ断わるだけなら、無理にでもお膳立てしてやるところだったが、その時の断り方が、いつものいい加減な半次郎とはまるで人でも違ったように、畳に両手をつき「せっかくのお心遣いですが、あっしにゃあどうにも身に過ぎたお話ですから」などとのたまわったのである。
その有り様は照れを隠しているわけでも、面倒臭がっているわけでもなさそうで、むしろ切羽詰まって本当に困り果てている感じであった。
それだけではなかった。むしろ問題はその後だった。
縁談の話を聞いた弥助の姉のみつが、平左衛門の家に泣いて転がり込んで来たのだ。
理由を訊いてもただ泣きじゃくるだけで、平左衛門はすっかり閉口してしまったが、それとなく理由を察して、以後それっきり半次郎の嫁の話は禁句のようになってしまったのである。
みつは十七で、半次郎とはやや歳が離れていたが、子供のころから店の手伝いをしているせいか、半次郎などよりは余程しっかりしていて、少しばかり気性の激しすぎるところはあるが、返ってグズの半次郎には、そのくらいの娘の方がお似合いだと実はこの老人も密かに考えているのである。
みつはそれ以来、毎日のように半次郎ににぎり飯や菓子などを持って行っているらしく、誰の目からも半次郎に入れ込んでいるのが見え見えなくらいだったが。当の半次郎は、いつも困ったように軽く笑うだけなのだとか。
「それにしても先生大丈夫かな、あんながらの悪い連中に狙われて」
「お前は先生の一番弟子なんだろう、先生の強さは誰よりお前が知ってるじゃないか」
「そりゃそうだけど」
一番弟子とはいっても、弟子は弥助一人だけである。
おまけに稽古などほとんどせずに、弦巻川で一緒に釣りをしたり、どじょうすくいをする遊び友だちだったのだ。
「何にしても朝っぱらから面倒な話が降って湧いて、今日は厄日だよ。お前、師匠がいなくてひまなんだろう、ちょっと将棋の相手でもしなさいよ」
弥助はさも面倒臭そうに「ええっ」と体をくねらせた。
二 色町音羽町に飛ぶ蛍
「へーくしょん」
半次郎は自分のくしゃみで目を覚ました。
―誰か噂してやがる・・・それにしてもやけに寒いな、確かこないだ桜が咲いてなかったっけな、そんなに寒いはずねえんだがな・・・あれ何だこの天井は、俺んちじゃねえぞ、どこだここは―
半次郎は薄手の蒲団から身を起こし、きょろきょろと回りを見回し、「うわっ」と驚いて蒲団から飛び出した。
「誰だこいつら」
隣の蒲団に中年増くらいの女と、その子供らしい男の童が眠っていたのだ。
女は一度「うーん・・・」と伸びをしてから目を開けて半次郎を見つけると「あら」と言って笑った。
「よかった、目を覚まされたんですね」
どちらかと言えば美人の部類なのだろうが、面やつれがひどく、何となく力の感じられない笑顔だ。
「あんた、誰だっけ」
女の顔には憶えがなかった。
女が何から説明したものか思案している間、半次郎はまた部屋をながめ回して「ここはどこだっけ」と首を傾げた。
「ここは七丁目にある宿屋で、あたしはゆうべあんたに助けてもらった女ですよ」
「助けただって。何がなんだか解らねえ」
―ゆうべ俺は確か女を助けられなかったんだったよな―
半次郎はまだ酒のぬけない頭で記憶をめぐらせた。昨夜は九丁目の色茶屋に往診に呼ばれて行ったはずだった。ある遊女が階段を転げ落ちたから診て欲しいという話だった。
おおよその事情は見当がついていたので断わろうかとも思ったのだが、恐らく自分が断わったら茶屋では他の医者を呼ばないだろう、と思い急いで駆けつけたのだった。
嫌な仕事だった。
―だいいちほねつぎの仕事じゃねえ―
色町ではよくある話だ。
客の子供をはらんだ遊女が、子を堕ろす金に困って、わざと子供が流れるように階段を飛び降りたのだ。
色町には子堕し専門の医者がいるが、公儀は二百年近くも前に、子を堕ろす術を業とする看板を出すことを禁じているため、それらは全て裏稼業であり施術代は馬鹿高い。
遊女のほとんどは、焼き鳥の串を秘部に刺し込んだり、腰から下を冷たい水に気が遠くなるくらい長い時間つけたりして流していたのである。
昼過ぎの茶屋に客は居なかった。
遣り手のばばあといっても四十をいくらか出たくらいの狐の面のような顔をした女は、半次郎を見るなりすがりついて泣いた。
「先生、どうか、うちの大事な子供を助けてあげてくださいな」
岡場所では遊女を子供と呼んだ。
患者の遊女は、蒲団部屋に寝かされていて、股間は血と腹の中から出た水で、ぐっしょりと濡れていた。
子供はおろか最早母親の方も手遅れだった。
「あたしが悪かったんですよ、ちょっと目を離した隙に」
数人の遊女が廊下に集まって、障子の陰からこちらを覗いている。
何人かは鈴虫のような声ですすり泣いていて、遣り手だけが半次郎の隣に座っていた。
「こりゃほねつぎの仕事じゃねえよ、女将さん」
「ええっ、そんな殺生な、だって先生だってお医者さまなんでしょうに」
―ふざけやがって―
「俺の専門は骨が折れたとか、肩や肘がはずれたやつだよ、ほねつぎって名前で解かりそうなもんだ」
「そんな理屈を言われても、素人のあたしには何がなんだか」
半次郎は障子の陰にいる遊女たちを振り返り「もっとも」と言った。
「今からじゃ、間に合うかどうかも分からねえが」
女たちの誰かが「ひーっ」と言った。
「そんな、まだ年が明けるまで三年もあるんだけどねえ、困ったねえ」
―やれやれ、尻尾を出しやがったな―
世の中に遣り手ばばあほど不人情な人間はいない。本当は遊女一人の命など、猫の子供が死んだくらいにしか考えていないのだ。
現にこの遣り手もまだ一度も半次郎と目を合わそうとしない。
「そんだけ働かしゃあ、もう充分元も取れただろう」
岡場所には茶屋に抱えられている伏玉と、呼出という通いの遊女の二通りがいて、伏玉のほとんどは借金の抵当に売られて来ていた。二十両の借金に対し七、八年の年季奉公が相場だったが、二十両という金額は、だいたい遊女が百人客をとった額に値した。
つまり一日一人しか客をとらなかったとしても、百日稼げば返せるのである。
残りはその間の遊女の食費や、着物代ということになるのだろうが、そもそも売られて来た遊女と茶屋が対等であるはずもなく。これらの経費は全て実際の金額より、かなり高めに上乗せされ、巧妙で執拗に遊女たちから金を吸い上げる仕組みができているのだ。
「とにかく今からでも本道(内科)とか産科の専門の医者を呼んだ方がいいぜ、同じ死んじまうにしても、もっと苦しまねえようにしてくれるだろう」
「冗談じゃないよ、そんなことやってたらいったいいくらかかるか知れたもんじゃない、だいたい自分から飛び降りるんなら他所でやってくれりゃあ・・・」
「しっ」
半次郎は口の前に人差し指を立てて遣り手をにらむと、遊女の口に自分の耳を寄せた。
「なんだい、おっかさんがどうした」
半次郎は遊女の背中をなでた。
すでに持って来た膏薬などは、まるで意味がなかった。ほねつぎの施術は一通り身につけているつもりだったし、鍼だって少しはできる。本道も少しばかり知識がないわけじゃなかった。
だが、こんな時にできるのは、せいぜい背中をなでることと。
―こんなことくれえだ―
「なんだい、おっかさんがどうしたって。可哀そうだがもうだめだよ、死んじまっちゃあ会えねえよ、生きてさえいりゃ親孝行できたのにな、おい、おい」
半次郎は「おい」と叫んでから、女の脈を診て、ゆっくりと両手を合わせた。
廊下の女たちが堰を切ったように悲鳴をあげ泣き出した。
「治療代、もらうぜ」
半次郎は振り返るなり言い放った。
遣り手は「えっ」と驚いた。「もう金の話かい」とも「患者が死んじまったのに金をとるのかい」とも受け取れるが、恐らくその両方だろう。
「往診代含めて二両寄越しな」
「冗談じゃないよ」
遣り手が初めて半次郎の目を凄まじい形相でにらんで叫んだ。
「奥医師さまだって、そんなにとりゃしないよ」
「慶安の昔にゃあ二千両受け取った奥医師さまの話だってあるんだぜ」
「そりゃ患者がご老中さまだったからだろう、こっちは借金のかたに引き取った遊女一匹、だいいちあんた、医者じゃないほねつぎじゃないか」
半次郎は大げさに「へええ」と驚いて遣り手の顔を覗き込んだ。
「なんでえ、よく知ってんじゃねえか」
遣り手は一瞬「ぐうっ」と詰まった後「さっき自分で言ったじゃないか」、と横を向いた。
「お前さんだって、今回みてえな騒ぎは初めてじゃねえんだろう」
半次郎はできる限り怒りを抑えながら言った。
「お前さん全部知っててやったんだよな、医者じゃ高くつくし、多分俺が貧乏人からは金を受け取らねえって、誰かから聞いたんじゃねえか」
「知ったこっちゃないねそんなことは、そういうあんただって、評判とは全然違う欲の皮の突っ張ったがりがり亡者じゃないか」
遣り手は皮肉っぽい空笑いをしながら吐きすてた。
「噂なんてな勝手なもんさ。半分はこの仏さんの葬式代、残りの半分で、そこにいるお姉さんたちを揚げて、この仏さんを弔って一杯やる。それでどうだい」
遣り手は狐の面を真っ赤にして半次郎をにらみつけた。一応江戸っ子としての矜持くらいはあるらしい。断われば「無粋」と、色町で嗤い者になるのだ。
「おあいにくだけど、たった一両じゃあ、せいぜいちょんの間で五人ってとこだね」
と精一杯の嘲笑をしてみせた。
「おもしろい話じゃないですか」
思いがけない声は廊下から聞こえてきた。
「蛍」
泣きじゃくる遊女たちの後ろから現われた声の主を、遣り手がいまいましげにそう呼んだ。
「来てたのかい、あんた」
「お松ちゃんが死にそうだって聞いて、飛んで来たんですよ」
半次郎は急に眩しくなったような気がして、思わず目を細めた。
「そのお話、あたしがお受けしましょう、姉さん、ようござんしょうあたし一人だったら、仕舞いまでってことで」
よく通る綺麗な声である。
こんな声で小唄でも歌われたら、たいていの男は体が溶けそうな気分になるだろう。
歳は半次郎より少し下くらいか。さりげない根下がり銀杏の髪に、鰹縞の小袖が良く似合う、意気を絵に描いたような美人だった。
一重の切れ長の目は、利発さと意志の強さをはっきりと表し、小ぶりだが筋の通った鼻の下のふっくらとした唇は、いかにも情が厚そうである。
―蒲団部屋が明るくなったぜ―
半次郎はいつの間にか、その女の立ち姿に見とれていた。
「仕舞いまでじゃあ、お前さん一人だって一両じゃ足らないよ」
遣り手の言葉には力が入っていない、どこか及び腰である。
「足らない分はあたしが払いますよ」
「新入りのくせに、生意気言うんじゃないよ」
返って遣り手の方が追いつめられたように、声を荒げた。
だが蛍はまるで意に介さず遣り手に向かって、ねっとりと流し目をしながら、
「それじゃあ、あたしがこの先生を弦屋にでもお誘いしますけどねえ」
遣り手はまるで本物の狐のように「くうっ」っと、甲高く喉を鳴らした。
「冗談じゃない、自分ちの子供に他の店でそんなことされたんじゃあ、いい嗤いもんだよ」
弦屋とは同じ九丁目にある待合茶屋である。
「それじゃあそういうことで」
蛍はにっこりと笑った。
―どうも据わりが悪りいな―
とびきりの美女の酌を受けながら、半次郎は体中がくすぐったいような気分になり、もじもじしていた。
本当は数人の遊女が、自分のことなどそっちのけで泣いたり騒いだりしているのを、一人ながめて飲もうと思っていたのだ。
「先生があのおさと姉さんをへこませてくれて、お松ちゃんも少しは浮かばれるでしょうよ」
「おさとってのは、あの遣り手かい」
「そう、煮ても焼いても喰えない牝狐」
蛍はそう言って、くすくすと笑った。
「やっぱりね」
蛍が隣に座って体をくっつけているため、笑うと余計に息遣いなどが伝わってくる。
あの後、結局蛍持ちで座敷一つをあてがわれるということで、折り合いがついたのだった。それが半次郎を余計に居心地悪くさせていた。
「あんたはどうやらここじゃ特別みたいだね」
海千山千のおさとが、蛍にだけは一目置いているようだった。
「あたしは通いの出居なんですよ、この店には義理も借金もないんです」
出居とは茶屋にも置屋にも抱えられない、独立した遊女だった。
「娘時代あるお方にずっと囲われていたんですが、その人が死んじまって、子供のころから他の仕事なんてやったことなかったから、気がついたらここに居たんですよ」
「遊女にもいろんなのが居るんだな」
「お医者さまにも、いろんな人が居るんですねえ」
蛍は半次郎の目を覗き込んで言った。
「お医者さんって、お金の勘定と女が大好きな人ばっかりだと思ってましたよ」
顔が近い。
「俺は医者じゃねえよ」
半次郎はそう言って、少し体を引いた。
「じゃあ役者だ」
蛍は可笑しそうにころころと笑いながら言った。
「お松ちゃんはね、おっかさんの顔、知らないんですよ、あの子を産んですぐに死んじまって」
「なんでえ、ばれてたのかい」
とっさのことで、自分でもよくあんな三文芝居をしたもんだと恥ずかしくなる。
「本当はあの時、お松ちゃんって人はもう死んでたんだよ、だが、ああでもすれば、他のお姉さんたちも命を粗末にしなくなるんじゃねえかと思ってね、生まれてくる子供だって、何のために生まれてきたんだか解かんねえじゃねえか」
半次郎は恥ずかしさからつい饒舌になった。
「ほねつぎなんてのは、気の利いた薬なんて持ってねえし、あんな時には、からっきし何にもできやしねえ、せいぜい背中でもなでて、あんな風に臭せえ芝居をするしかなかったのさ」
ひとしきり講釈して猪口の酒を呑み干したが、蛍は何も言わない。決まりが悪くなってちらと蛍を覗き込んでみると、さっきまで笑っていた蛍がじっと目を閉じていた。
「な、なんだよおい、俺、悪いこと言ったか、何か」
蛍は少しおいてから、「いいえ」と大きく溜息をついて、袖で目を押さえながら言った。
「あれ以上の薬なんかありませんよ」
三 河童どうしも他生の縁
―あの後、べろんべろんに酔っ払っちまったんだっけ。するってえと―
「あんた、まさかお松って人と腹にいた子の幽霊じゃねえかい」
半次郎が首を傾げながら恐る恐る訊くと、女はひどく困った顔で、「誰ですかそれは」と逆に訊いてきた。
「お松って人は知りませんが、幽霊じゃないのは確かです、あたしはゆうべ、ごろつきに絡まれているところを通りすがりの半次郎さんに助けられたお香って夜鷹ですよ」
半次郎はそこまで聞いても、まだ首を傾げて考えてから、やっと「ああ」と手を叩いた。
半次郎が大きな声を出したので、男の童も起きだしてきた。
そういえばゆうべ帰りがけにそんなことがあった。蛍とさんざん酒を飲んで歌って、弦巻川の端を帰って来た時のことだ。
湿っぽい話の嫌いな半次郎だったが、蛍の細やかな気遣いですっかり鼻歌気分だった。
その帰りがけに道の真ん中に立っていた若い男と肩が当たってしまったのだ。
その時にこのお香らしき女が隣に立っていたのも、おぼろげに憶えている。
「お楽しみのところを、すまねえな」
半次郎は上機嫌で笑ったが、男は半次郎の提灯を叩き落して怒り出した。
がみがみと、かなりしつこく怒鳴られ、胸ぐらをつかまれたので、ついその手首を捻り上げてほん投げてしまったのだった。
―それで、何で俺、宿屋で寝てたんだ―
その上いつの間にか、服もいつもの垢じみた筒袖から、糊の利いた宿屋の浴衣に着替えている。
「俺、あんたのこと買ったんだっけ」
―それも、男の子供ごとか―
お香は悲しげな顔で「いいえ、そうじゃないんです」と言って両手を着き、深々と頭を下げた。
「本当に何から何までごめんなさい」
女の下げた頭越しに、童が人差し指をくわえながら、ぼうっ、と半次郎を見ているのが見えた。年のころは弥助と同じくらいに見えるが、仕草はよほど幼い感じである。
「半次郎さんがごろつきを勇ましく投げたのを見ててこの三吉が、すっかり興奮してしまって、半次郎さんに飛びついたんですよ」
お香は童を一度ふり帰ってそう言った。
仕草といい話しぶりといい、夜鷹にしては品がいい女だと半次郎は思った。
お香の話は、こんな感じだった。
ゆうべ夜四つを過ぎたころ、例のごろつきの男があらわれて「場所代を寄越せ」とお香に迫った。「まだこの町に来たばかりだから」とお香が言っても聞いてくれない。そこへ半次郎が男の肩にぶつかり、口論になった末、男を投げて追い払ってしまったわけだが。
その様子を草陰から隠れて見ていた三吉が、半次郎の背中に飛びつき、弦巻川に落としてしまい、半次郎がそのまま気を失ったため、お香親子でこの宿屋に担ぎ込んだのだそうだ。
「この子は、同じくらいの年の子に比べると、その、何て言ったらいいんでしょう、知恵が幼いというんですか」
お香は恥ずかしそうに、また三吉を振り返った。
「なるほど、川の端で男を引き込む母親と、相撲をとりたがるその子供、文字通り河童の親子ってわけかい」
半次郎はわけの解らないことを口で言いながら、みるみる情けない顔になり頭を抱えた。
―そんなことより、まいったな、俺、また川に落ちたのか。平左じいさんに知れたら何て言われるか―
だが急に思いついたように、「そうだ、宿賃」と血相を変えた。
「あんた、こう言っちゃあなんだが、この町に来たばっかりで、金なんか持ってねえんだろう、俺のせいでこんな立派な宿に泊まって、その上俺の分まで宿賃払ってもらうわけにはいかねえよ」
そのくせ、言ったそばから「あっ」と自分が一文無しなのを思い出した。
ゆうべ泊まっていけと言う蛍を振り切り、女の金で飲んだばつの悪さに、おさとに渡された治療代と有り金合わせて、全て無理やり握らせて帰って来たのだった。
「まいったな」
「いいんですよ、親子して助けてもらっといて、恩を仇で返すような真似をしてしまったんですから、宿賃くらい払わせてくださいい」
「いや、そうはいかねえ、今たまたま手持ちがねえんだが、明日にでも払いに行くからよ」
「どこに行きゃあ会えるかい」半次郎はそう訊こうとお香の顔を見て思わず息を呑んだ。
「あんた、一度医者に診てもらった方がいいぜ」
お香は「えっ」と、頬に手をあてて困ったように目を伏せた。
「どうやら自分でも解ってるようだな。顔色は白粉でごまかせるかも知れねえが、白目が黄色過ぎる。そりゃ黄疸って言って肝臓が悪い証拠だよ、ほら、もうちょっと明るい所に来てみなよ」
半次郎がお香の顔を障子の方に向けようと、手を差し伸べると、お香はそれを強く振り払って声を荒げた。
「なんだい、あんた医者だったのかい、金ならないからね、余計なお世話しないでおくれ。医者なんて、人の顔見りゃ病気だなんだって脅かして、金ばっかりとろうとしやがって、こっちは体一つで馬鹿な子供食わせなくちゃならないんだよ」
そして大儀なのか急にぐったりとして、今度は低く咳き込んだ。
さっきまで猫のように黙り込んでいた三吉が、初めて「おっかあ」と喋ってお香の背中をなでた。
「その様子じゃ結構進んでるぜ。だが俺は医者じゃねえ、それに小石川だったら金はとらねえぜ」
お香はいかにもだるそうに咳き込みながら、
「だけど、この子まで預かってくれないんでしょう」
と目を伏せた。
「へっくしょん」
半次郎は大きく、ぶるぶるっと身震いした。
筒袖と裁付袴はまだ乾いていなかった。
気持ちの良い五月晴れだが、濡れた服を着て歩けるほど暑い日ではない。
「まあ、おんなじ河童同士のよしみってやつだよ」
先を歩く半次郎はそううそぶいて一人莞爾と笑ったが、お香たちには意味が解らない。
黙って裏通りの川沿いの道を、半次郎の後から歩いていた。結局お香は半次郎の強引な説得に負け、半次郎の長屋にしばらく泊まることになったのである。
「俺はほねつぎだが、鍼と灸だって少しくれえはできるしよ、だいいちこの弦巻川にはしじみが唸るほどいるんだぜ」
半次郎は横を流れている弦巻川を指して笑った。
すっかり緑の陰影が濃くなった川の両岸に、たんぽぽや菜の花の黄色が眩しい。
基本的に音羽通りと平行して神田川に向かって、真っ直ぐ流れている川だが、本来川というものは放っておくと勝手に蛇行するもので、所々できた小さなうねりが作る淵は幻想的な渦を巻いている。
夕刻などにそんな渦をながめていると、本当に水の中から河童が顔を出すのではと思うこともあるし、実際に蟇蛙の背中や亀の甲羅が浮いてるのが河童の皿にも見えたし、草陰からじっとこちらを伺っているいたちが暗がりでは河童そのものに見えることもあった。
そしてこの川は、真冬になると九丁目の遊女が時々腰から下を水に浸け、子供を堕ろしたりするため、水子の影を見たなどという噂もいくつかあった。
もともと音羽町という町は全体に影が濃く、どこか幻想的である。
護国寺から南東に向かって真っ直ぐ伸びる音羽通りが、東の小石川台地と西の目白台地に挟まれた谷底になっているため、朝日が遅く夕日が早い。
夏の夜にこの川に飛ぶ蛍を水子の人魂だと、本気で信じている者もいた。
―河童と蛍か―
半次郎は歩きながらゆうべのことを思い出して含み笑いをした。
いい女だった。岡場所の女にしては飛びぬけて美人だし、三味線も唄も巧い。
よく笑うし知識も諧謔もあって話が面白く、人の話を聞くのも上手い。
そして、芯が強そうだった。
吉原の呼出しとか花魁には、あんな女がよくいるのだろうか。
―いや、そうじゃねえ―
蛍の場合、色町に居る女たちとは基本的に何かが違うような気がする。
襦袢の裾から時折覗き見えたふくらはぎの筋肉がばねのようだった。
普通町娘でもあそこまで発達してはいない。
―体さばきをやらせても上手いんじゃねえか―
柔の心得のある半次郎には良く判る。
よく斬れる匕首を敢えて女性的で華美な拵えで包んだような。そんな塩梅の悪さがまた、ひどく意気で色っぽく思えた。
―例えば、こんな弦巻川くれえだったら、こう、裾をからげて飛び越えちまうんじゃねえか―
年頃になって嫁も娶らぬ男の想像力などというのは止めどもないもので、半次郎は人知れず弦巻川をながめてそこに居るはずのない蛍の白い脚などを想像してにやにやしていた。
もともと深窓に座してお取り澄ましている女などより、そういう女の方が好きなのだ。
そんな風に前も見ずに歩いていたものだから、向かい側から歩いてきた男ともろにぶつかってしまった。
「痛ってえな、おい」
相手の男は、ぶつかるのとほとんど同時に叫んだ。
だが、むしろ非は向こうにあると言ってよかった。相手の男たちは三人組で、狭い道幅一杯に広がって肩で風を切って歩いて来たため、それを避けるにはこちらはほとんど一度立ち止まって道を譲らない限りぶつかるのは目に見えていたのである。
もっとも半次郎も半次郎で、真ん中の男にぶつかったのだが。
「ああ、すまなかったな、勘弁してくれ」
手を挙げて歩き出そうとする半次郎の前に、ぶつかった男は素早く回りこんで道を塞ぎ、残りの二人は後ろに回って半次郎を囲んだ。
「てめえ、人にぶつかっといて、そんな言い草ですむと思っていやがんのか」
「こいつあ悪かったな、今考え事してたもんだから」
遊び人風の町人髷を油でてらてらと光らせ、趣味の悪い紫色のお揃いの半被を着ている。
半次郎の前に立っている男は顔に向こう傷まであり、その傷がみるみる赤く染まっていった。
「考え事は仕方ねえが、ぶつかった時にゃあ詫びの入れ方ってもんがあるだろ」
男は唾がかかりそうなほど、半次郎に顔を近づけて凄んだ。
「兄貴、こいつもしかして、半次郎って野郎じゃねえですかい」
半次郎の後ろの一番背の低い男が言った。
「なんだと」
向こう傷の男はそう言いながら、どういうわけか一歩退がった。
「何で俺の名前を知ってるんだよ」
今度は半次郎の方がひどく不機嫌そうに訊いた。
耳元で怒鳴られて頭が痛くなり、自分が二日酔いであることを思い出した上、相手が自分の名前を知っていることが面倒に感じられたのだ。
「ほら、この女も例の、ゆうべの夜鷹じゃねえすかね」
背の低い男がそう言うと、傷の男は半次郎を上から下までながめて、
「なんでえ、どんな大男かと思やあ、大したことねえじゃねえか」
と聞こえよがしに呟いた。
お香は背の低い男に袖を強く引っ張られて震え上がってしまい、三吉はお香の腰にしがみついて、チビの男をにらみつけている。
そんな健気な親子を見ていて半次郎もだんだん腹が立ってきた。
「ここで会ったが百年目ってやつだ。俺たちゃ朝からずっとおめえの長屋の近くで待ってたんだよ」
「誰だっけ、あんたたち」
「俺は百足の十郎ってもんだ。おめえ、ゆうべ俺っちの弟分をかわいがってくれたそうだな、知らねえとは言わせねえぞ」
半次郎は「ああ」と頷いた。
「知らねえとは言わねえよ、だが俺も憶えてねえくれえ酔っ払ってたんでな、酔っ払いと喧嘩するなんざ、その辺の犬の糞でも踏んだと思って勘弁してくんねえかな」
半次郎が下手に出ると十郎は調子に乗ったようで、半次郎の胸ぐらを掴んで息巻いた。
「話はおめえのことだけじゃすまねえんだよ」
「この女はまだ金を払ってねえ。この町で商売したかったら、夜鷹の相場客一人頭二十四文のうち十文俺たちに払う決まりになってんだ」
半次郎は「えっ」と目を見張った。
「夜鷹の相場って、そんなに安いのか。俺、去年年増の夜鷹から四十文も取られたぞ」
男は一度「ん」と目を泳がせて考え込んでから我に返り、
「そりゃ、おめえがぼったくられたんだろ」
とよけいに腹を立てたようだった。
その時「ぎゃっ」という悲鳴が半次郎の背後から聞こえた。
「痛てえっ」
悲鳴をあげたのはチビの男で、お香の袖を掴んでいる手を三吉に噛み付かれたのだ。
「馬鹿、やめろ三吉」
半次郎が叫んだ時には遅かった。三吉はチビに突き飛ばされ、道にごろごろと転がった。
だがその時には今度は十郎が悲鳴をあげていた。半次郎が胸ぐらを掴んでいる十郎の手首を捻ってうつ伏せに叩きつけたのだ。そしてそのまま身を翻し、振り向いたチビの顔の真ん中に拳を叩き込んだ。チビは仰向けに三吉より派手に転がった。
とても二日酔いとは思えない速さである。
ようやくその時になって横から殴りかかって来たデブの拳をかわし、そのままその拳を殴ってきた方向に引っ張ると、大木が倒れるようにうつ伏せに這いつくばる。半次郎は容赦なくその背中を踏んずけた。
「ぐえ」
デブは蟇蛙のように呻き、半次郎の足にもその肋骨が折れた感触が伝わってきた。
「この野郎」
声の主は十郎だった。デブを引き倒した時には、半次郎の目は既にそちらを追っていて、起き上がった十郎が懐から短刀を出したため、デブの肋骨を折って動けなくしたのである。
十郎がわけの分からない言葉を叫んで突いてきた次の瞬間、その体は宙に飛んで川に落ち、短刀は半次郎の手にあった。
「これが短刀取りってんだ」
手で鼻を押さえながら起き上がろうとするチビの鼻先に短刀の刃先を向け、半次郎は半眼でうそぶいた。
チビはお女郎座りでじりじりと後ろに退がって行く。鼻を押さえている指の間から、血が糸を引きながら流れ落ちていた。
「こんなもん出しやがると、高くつくぜ」
半次郎はゆっくりと追いかけて、刃先でチクリとその指を刺した。チビは黒目を小さくして「ひいっ」と声を裏返した。
「後ろに寝てるデブは、あばらが三本折れてる、俺は今金は持ってねえから場所代は立替えられねえが、治療はただでやってやるからよ、それでおあいこでいいだろ」
チビは震えて声も出ないらしい。
「ただし、治療以外で今後一切関わるのはごめんだ、町で会っても話しかけるなよ」
半次郎は「解ったな」と短刀でチビの鼻先を横薙ぎにした。斬るつもりではなかったらしく、短刀は半次郎の手を離れ、川に落ちた。
チビは小刻みに何度も首を縦に振った。
四 地獄に仏は長屋の人々
「ふーん」
みつは半次郎が何を言っても「ふーん」としか応えない。
「だからさあ、おみっちゃん、世間には一宿一飯の恩義ってもんがだね・・・」
「ふーん」
―だめだこりゃ―
半次郎は三吉の頭や顔の傷を酢で洗い、蟇蛙から採った薬を塗りながら、口では必死にみつの機嫌をとっていた。
蟇蛙を煮て浮いてきた脂肪を冷やして薬にしたものだが、これは切傷や火傷によく効いた。ちなみに香具師が売る「ガマの油」は、これとは全く別物である。
「心配いらねえよお香さん」
みつには何を言っても無駄だと思い、半次郎はお香に話しかけた。
「傷はちょいとぶつけて血が出ただけだし、蝦蟇の薬くれえならうちは隣の川からいくらでも捕れるからよ・・・おい、ちょっとじっとしてろよ」
三吉は薬が沁みるというより、始めて会う大人たちに囲まれて恥ずかしそうにもじもじと落ち着きがなかった。
恐らく三吉は過去に何度か、知らない大人から投げ飛ばされているのだろう。投げられ方が上手で、怪我は大したことはなかった。
母親の仕事中に閑を持て余して、見知らぬ酔っ払いを相撲に誘ったりしていたに違いない。無論優しく投げてくれる大人ばかりではないだろうから、あちこち小さな怪我をしながら受け身が上手くなっていったのであろう。
「でも半次郎さん、いくら親切にしてもらったところで、あたしたちにはとてもお返しなんてできませんよ」
「いいんだよ」
半次郎の代わりに外で弥助と将棋をしている平左衛門が中を覗いて返事をした。
「どうせその先生にはお金の価値なんて解らないんだし、放っとけば全部酒に換えちまうんだし。それに、その先生はそうやって人に親切にした分、迷惑もしこたまかけるんだから、おあいこなんだよ」
「ごもっともで」
半次郎は身を縮めて言った。
平左衛門と弥助はいつの間にか古ぼけた樽を三つ並べて、そこに座って将棋を指していた。
「いいなあ、おいらも先生があのごろつきどもをやっつけるとこ見たかったなあ」
戸口の陰から弥助の声だけが聞こえてきた。
九尺二間の棟割長屋は四畳半の座敷に土間と流しと竃の二畳分の広さがあるだけで、この狭い所に怪我人を含めて四人もひしめいているため、老人と子供は外で遠慮しているのである。
「馬鹿言ってんじゃありませんよ、この先生の真似なんかするより、お前はおとっつあんのめし屋を継ぐことを考えなさい」
「おら、あんな風に町中にぺこぺこしながら生きるなんていやだよ」
「なに言ってんだい、それが一番立派なんじゃないか」
平左衛門の顔が赤くなってくるのが、戸口の向こうに見えた。
「その町中にぺこぺこしてるめし屋につけを溜めてるのは誰だと思ってんだい、そのうちこの先生だって見ててごらんよ、朝起きたら弦巻川にぷっかりと浮かんで・・・」
「大家さん縁起でもないこと言わないで」
黙ってさらしを巻くのを手伝っていたみつが鋭くさえぎった。
「先生がなにも言い返さないからって、あんまりひどいじゃありませんか」
平左衛門は一度「うっ」と詰まったが、
「なんだい、おみつまで」
と、ますます頭から湯気を立てそうなほど赤くなった。だがみつも負けていない。
「先生はね、親切心でこの人たちを家に寄せて、こうやって治療してるんじゃありませんか、それを座って将棋なんか指しながらそんな言い方して」
「おみっちゃん」
半次郎が見兼ねてみつの肩に手を置いた。
「気持ちは嬉しいが、おみっちゃんこそ言いすぎだよ、今回のことだって、平左衛門さんには迷惑かけっぱなしなんだから」
すると今度はみつが「うっ」と詰まった。
平左衛門は息を整えながら、みんなに言って聞かせるように語った。
「あたしだってあんまりきついことは言いたかないよ、だけどね、あたしは大家だから店子みんなのことを考えなくちゃならないんだよ、いつも呑気に将棋を指しているように見えるだろうが、頭ん中じゃそれこそ元旦から大晦日まで長屋の誰かのことを心配してるのさ、まったく、気の安まることなんてありゃしない・・・なんだい、なに泣くんだい、泣くことないだろう、こら泣くな」
みつの目から大粒の涙がこぼれ出したのを見て、老人はうろたえた。
大家と店子は親子の交わりと云うが、平左衛門にとってみつと弥助は孫のようなものである。実は可愛くて仕方がないのだ。
「でも、あいつらまた仕返しに来ないかな」
泣き出した姉に慣れっこなのか、弥助一人妙な期待を込めてそんなことを言い出した。
弥助としては半次郎の武勇を生で見たい無邪気さが言わせたことだが、これは一同の空気を重くした。
「やっぱり、あたしたちがここに居る限り、あの人たちまた来ますね」
お香がいかにも申しわけなさそうに呟いた。
平左衛門は「ふん」としかめっ面をして。
「今度はあたしが追っ払ってやるよ」
と息巻いた。
「大家さんはせいぜい川柳でへこませるくらいだろ、あははは、痛てえっ」
ぴしゃりという音が聞こえて一同が外を見ると、平左衛門が扇子を木剣のように上段に構えていた。
「あたしはこれでも、若いころは剣術の道場に通って稽古に励んだものでね。あと十年若きゃあたしだって」
そう言ってもう一度弥助の頭に扇子を振り下ろすまねをした。
弥助は「うわっ」っと頭を抱えて首をすくめ、
「痛いよ大家さんひでえな」
と老人をにらんだ。
「それにしてもあいつら、俺の住んでる長屋なんて、どうやって調べたんだろうな」
半次郎はしきりに首を傾げた。
「ゆうべ半次郎さんがごろつきを投げたあと、自分で教えたんですよ。俺は五丁目の裏長屋に住んでる半次郎ってんだ、って」
お香は何故か自分の責任であるかのように、すまなそうに応えた。
「な、なるほど、道理であんたも最初から俺を名前で呼んでるな」
「まったく、ご親切、ご丁寧なこった。つくづく頭が下がるよ」
平左衛門は駒を動かしながら毒づいた。
三日もすると三吉の傷はかさぶたに変わったが、何といってもこの少年の場合、傷が塞がりそうになる度掻いて傷口を開けてしまうため、相変わらず頭のさらしは取れない。
だがそのころになるとじっとしていられないのか、弥助と相撲をとったり釣りをしたりして遊ぶようになっていた。
歳は弥助より一つ下の九つだが実際にはそれよりずっと幼い感じで、まるで本当の弟のように弥助のあとをついて歩くのだった。
「ほら、もういっちょう来い」
弥助はさすがに半次郎の弟子らしく、一つしか歳の違わない三吉と相撲をとっても、三吉の突進を受け止めてからいなしたり、手加減して投げるほどの余裕がある。
だが、三吉のような子供の特徴として、何度投げられても懲りずに、自分が勝つまでかかって行き、弥助もきりがないため、しまいには根負けしてわざと負けてやるのが決まりのようになっていた。
そしてこれまた三吉のような子供の特徴なのか、性格はきわめて素直であり、いつまでも子供のようなことをするので、長屋の女たちもすっかり三吉が気に入ったようで、毎日水飴などをくれたしりて可愛がるのだった。
特に隣に住んでいるおせんは三人もの子供に死なれているためか、ことの他三吉を可愛がり、亭主の重吉が夜鳴きそばの仕事で出かけている間、三吉を夕飯に招いたりして、
「ずっとこの長屋に居てくれたっていいんだけどねえ」
なんて目を細めるのだった。
今も弥助と三吉は半次郎の部屋の前で相撲をとっていた。
二人の声に紛れて半次郎の部屋からは「あっ」という女の吐息が、間を置いて何度も漏れ聞こえていた。
半次郎がお香にお灸を据えているのだった。
「あっ・・・」
お香はもろ肌を脱いで、蒲団にうつ伏せになり、お灸の火が消える寸前に、熱さに耐えながら「あっ」とせつなげな声を漏らした。
黄色がかった白い背中がお灸を燃やしたところから薄桃色に変わり、汗ばんでいく。
治療は朝昼晩、背中、足、腹部とつぼの場所を変えながら行っていた。
「あんたの肝臓病は、客からうつされた病気かも知れねえよ」
「あっ・・・じゃあ、梅毒なんですか」
「梅毒とは違うが、やっぱり恐ええ病気さ。滅多にうつらねえがな」
お香はしばらくためらってから、恐る恐る訊いた。
「三吉にもうつってるんでしょうか」
「そいつは判らねえが、もし、まだうつってねえとしたら、可哀そうだがやっぱり一ぺん三吉と離れて、小石川で診てもらった方がいいぜ」
「でもそれじゃあ三吉が一人になってしまう」
外で三吉が弥助に投げられたのか「うわっ」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「心配するなよ、その間くれえうちで預かっといてやるよ」
三吉はすぐに起き上がったらしく「もういっかい、もういっかい」とまたかかって行く。
「それじゃあ、あんまりご迷惑でしょうに」
「大丈夫だよ、この長屋のおばさんたちもすっかり三吉が気に入ったみてえだからな」
「あっ・・・」
お香はお灸が熱かったのか、両手で顔を覆い、しばらく何事か考え込んでいるようだったが、やがてぼそりとつぶやいた。
「あんまりあたしたちと関わっても、本当にご迷惑をおかけするだけなんですよ」
それはあまりにも小さなささやき声だったので半次郎は相槌も返さなかった。この時の半次郎にはお香のこの言葉が、夜鷹の身を卑下して言っているものとしか思われなかったせいもあったのだ。
五 鉄砲坂の決闘
半次郎のもとに一人の小僧がやって来たのは、それから三日ほど経ったころだった。
暮れ六つに鉄砲坂の傍にある蛍草という居酒屋に来てくれという言伝を持って来たのだった。
相手はそう言えば解ると言ったという。
―蛍草だって、するってえと蛍かな―
「その人は女の人だったかい」
半次郎が尋ねると、小僧は「うん」と言った。それでもまだ、しばらく考えてから「ああ」と思い出した。
―そういえば近々自分の店を出すって言ってたな―
早くても来年あたりの話だとばかり思っていたので驚いたが、めでたい話は早い方がいい。
みつに聞いて、このあたりで一番美味いという店の羊羹を買い、ほとんど有り金全部をご祝儀に包んで長屋を飛び出すのだった。
―妙だな―
ふと、人の視線を感じて半次郎は振り返った。
長屋の向こう側の辻の陰から、誰かがこちらを覗いていたような気がしたのだが。
実は気のせいか今朝から時々誰かに見られている気がしてならなかった。
―十郎の一味か―
だがやつら相手なら平左衛門でも追い払うくらいはできるだろう、と判次郎はみていた。
いつも冗談めかしているが、あの老人の剣術の腕前は確かなものだろうと半次郎も思っている。
杖の一本でも持っていれば、あの歳でも町のごろつきなど敵ではないだろう。それに十郎一味の狙いはすでにお香親子ではなく、半次郎に対する報復に替わっているはずである。
―やっぱり念には念を入れておくか―
半次郎はもう一度自分の部屋に戻って、自分が帰るまでくれぐれも外に出ないようにと、お香親子に言い含めて出直した。
みつには行き先だけは教えてあった。
というより白状させられたといった方がいいか。
羊羹の件を訊いた折、この年ごろの娘は妙な勘が働いたようで、根掘り葉掘りしつこく詮議されたので、仕方なく行き先だけは教えておいたのだった。
元遊女に会いに行くとは口が裂けても言えなかったが。
的場の橋を渡り、武家屋敷の高い白壁を左に見ながら、鉄砲坂を駆けるように登った。
教えられた店の場所は半次郎の長屋からそれほど遠くはなかったが、音羽の谷の西側にあたる鉄砲坂は、すでに夜の暗さだった。
振り返ると谷底の音羽町はすっかり夜の闇に沈み、谷の向こうに見える安藤邸の広大な敷地が若干残った夕日に照らされ、闇にぼんやりと浮いているように見えた。
谷をはさんだ東西の台地には、ほとんど武家屋敷しかないため、夜はよけいに真っ暗になるのだった。
坂を道なりに左に小さく曲がると、ほとんど正面に蛍草と書かれた提灯が闇に浮かんでいた。小さいが二階建ての一軒家で、二階は住まいに使っているらしい。
からりと障子を開けると、つけ台の向こうで手を動かしていた見覚えのある顔がぱっと輝いた。
小ざっぱりとした店はつけ台の前に、空樽に座布団を敷いた腰掛けが八つ並んでいて、そこから五尺ほどの土間をはさんだ反対側の壁際には人が二人、向かい合って座れる足のついた長板が縦に二つ置いてあった。
「ちょっと待ってて」
蛍は半次郎と入れ違いに外に出て行くと、火の消えたさきほどの軒提灯を手にすぐに戻って来た。
「おい、いいのかい」
「いいの、今日呼んだのはあんただけなんだから」
大きく左右に振って見せるその手の向こうにある化粧気のない顔は、とてもあの色茶屋にいた時の遊女と同じ女とは思えなかったが、むしろこちらが本当なのではないかと思えるほど、淡い黄色の小袖と茜色のたすきがよく似合った。
「俺だけだって、なんでまた」
「ほんとのお披露目は明日なんだけど、その前にあんたに料理の味見してもらおうと思って」
思ったとおり身のこなしの速い女で、ひょいとつけ台の向こうに戻ろうとするのを「おいおい」と半次郎は呼び止めて、
「まいったなあ、それじゃあ、これっぽっちじゃ少なくて悪いんだけどよ」
と、包んで来たご祝儀と羊羹を差し出した。
「何言ってんの、あんたこないだ強引にあんなにたくさんのお金置いて行っちまっといて、今日の分なんか要らないわよ」
本気で苦い顔をして言うものだから半次郎はつい、それ以上言えなくなってしまった。
すると蛍はすぐに笑顔になって、
「それじゃあ羊羹だけはもらっておくわ。あたしこの店の羊羹大好きなのよ」
と、ちょっと恥ずかしそうに羊羹だけを受け取った。
蛍のそんな仕草を見ていると、半次郎もほんのりと幸せな気分になってくるのだった。
ささやかな欲を見せてくれる女は、男にとっては可愛いものなのだ。
「驚いたな、こんな店買ったのかい」
半次郎は空樽の一つに腰掛けて訊いた。
「まさか、借りたのよ」
蛍は肩をすくめて応えた。
これも意外だったが、蛍の包丁さばきは実に見事で手早く、半次郎はそのあまりの手際の良さに思わず見とれてしまうほどだった。
竃の脇に並んだ焜炉で煮物や焼き物をしながら、銅壺で酒の燗をし、まな板で何かを切っている。
半次郎と談笑しながら、三つくらいの仕事を同時にこなしていた。
「すげえじゃねえか、茶屋で会った時は、他の仕事はできねえって言ってたが」
「裁縫とお掃除は大嫌いなんですよ」
蛍は舌を出して笑った。
半次郎の前にはすでに、山独活の酢味噌和えと冷奴に熱燗の徳利が並んでいた。
焜炉では芝海老を炒っているらしい、半次郎の所まで香ばしい香りが漂ってくる。
「女が料理をする姿ってのは、いいもんだな」
半次郎は蛍の酌で一杯呑み干してから、独り言のように言った。
まるで大根役者が台詞を棒読みするような抑揚のないその言い方が、返って真に迫っていたのか、たこの足の煮物を出していた蛍はちょっと噴き出して恥ずかしそうに笑った。
「女が料理をするところなんて、どこん家だって一緒じゃありませんか」
「俺のおっかあは怠け者でね、俺が子供の時分からまともな料理なんてしてくれなかったぜ、俺は大人になるまで漬物ってのは店で買うもんだと思ってたくれえさ」
やがて芝えびのから炒りと鰹の刺身が出され、蛍の仕事はそこで一区切りついたらしい。
半次郎は鰹の刺身を見て目を丸くした。
「おいおい、こんな初物高かっただろ、なんだか悪いな」
蛍は「いいんですよ」と言って、徳利をもう一本持って半次郎の隣に座り、自分で注いで一息に呑み干した。
きっと魚卸しの店の主人に馴染みの客でもいるのだろう、と思ったが口には出さなかった。それよりも半次郎は、自分が妬いていることに自分で驚き、それが恥ずかしく思えてならなかった。すでに酔ってもいるのだ。
「半次郎さんのおとっつあんも、ほねつぎだったんですか」
蛍は酌をしながら顔を寄せてきた。
「いや、染井で植木職人をしていたんだが、多摩に木を探しに行って、足を滑らせて谷に落ちたらしい」
「らしい、って」
「死体が見つからなかったんだ、そのまんま川に流れちまったんじゃねえかって人の話だ。熊に喰われちまったのかも知れねえ」
半次郎は真顔で言った。
「俺にとっちゃ、どうでも良かったんだよ、とにかくひでえ親父だったからな。よく殴りやがったし」
「そうだったんですか」
蛍は訊いた自分が悪かったかのように、うな垂れた。
「おっかさんはすぐに次のおとっつあんと一緒になった。その人は悪い人じゃなかったが、今度はおっかさんがよそよそしくなってな、そんな俺を預かってくれたのが、近所のほねつぎの・・・俺の師匠だったのさ」
蛍は真剣な顔で、半次郎の話を黙って聞いている。
―どうもこの女に聞かれてると、喋り過ぎちまうな―
半次郎は急に気恥ずかしくなった。こんな話、今まで誰にもしたことはなかった。長屋の連中も半次郎の父母のことを知っている者はいない。
「そういやあ、あの茶屋は辞めちまったのかい」
仕方がないのでそう言って話題を変えてみた。蛍は、いたずらをした子供のような笑顔を浮かべて、「おん出ちゃったんですよ」と言った。
「まだ入って二月も経ってなかったんですけどね、あの狐の姉さんとはどうしてもうまが合わなくって。それでもあと一年くらいはいるつもりだったんですが、ここに丁度いい一軒家が空いたって聞いたもんですからね」
半次郎は「そうかい」と、猪口の酒を呑み干してから、
「遊女なんて、辞めた方がいいぜ。長生きできねえよ」
と、安心したように呟いて、すぐにぎょっとなった。蛍が半次郎の手に、自分の手を重ねてきたのだ。
「だったら、半次郎さんが身請けしとくれよ」
見るとその顔は確かに酔いに染まっていたが、蛍の眼差しは真剣そのものである。
「よ、よせやい、だいいち俺にはそんな金ねえよ、それにお前さんくらいのいい女だったら、もっと金持ちとか、男前の・・・」
「あたしはね」
と蛍は強くさえぎった。
「金持ちとか、面がいいだけの優男なんざ大嫌いなのさ。みんないざとなったら、からっきし度胸なんかありゃしない。それに、あたしは自分でこんな風に勝手に商売をして稼ぐからさ、お願いだからどこか遠い所にでも一緒に連れてっておくれよ、あんただって、いい女だと思ってくれてるんだろ」
蛍の、いつもは涼しげな一重の目が、燃えていた。
―俺の回りに寄って来る女って、なんでみんなこう気が強ええんだよ―
「悪いけど俺は、所帯を持つ気はねえんだよ」
「なんでだい」
蛍は両手で半次郎の袖にぶら下がって見上げた。気丈な女だけに、そんな必死さがよけいに憐れに感じられ、半次郎も本心を話すことにした。
「解ったよ、ちゃんと訳を言うから聞いてくれ、それはだな・・・」
その時、入り口の障子が勢いよくからりと開いて、「先生」と言った。
見るとそこにはみつが立っていた。
だが、みつは障子を開けたきりそこに立ちすくんで、半次郎と蛍の顔を見比べている。
蛍も半次郎とみつを交互に見て、大きく息を吐き出し、半次郎もそんな蛍とみつを見比べていた。
「どうしたい、おみっちゃん」
みつは「はっ」と我に返ったように「お香さんが、お香さんが」と二回言った。
「お侍が長屋に来て、それで血を吐いて」
「なに言ってるのか、よく解んねえよ」
半次郎は蛍に向かって「すまねえ、また来るよ」と短く言って、みつと一緒に長屋に向かった。
真っ暗な鉄砲坂を半次郎はみつを背負って駆け下りた。みつは提灯を持った右手を精一杯伸ばして、半次郎の足下を照らしていた。
「・・・夕方お客さんからいただいた大福を半次郎さんの家へ持って行ったら、半次郎さんの部屋でお侍二人が斬り合っていて」
みつはよほど恐かったのか、息をはずませ、つっかえながら説明した。
「そしたら、大家さんが来て・・・あたしそれからすぐにこっちに来たの」
「平左さんがかい」
―まずいな―
いくらあの老人でも侍二人が相手じゃ、分が悪過ぎる。
「侍は斬り合ってたのかい」
みつは「うん」と言って、
「二人とも覆面してた・・・でも、あたしだけ逃げて来ちゃって、あれじゃあ大家さんが・・・」
みつは自分で説明しながら事の次第を理解したらしく、最期は泣き出してしまった。
「おみっちゃんは逃げて良かったんだよ、居たって邪魔になるだけだ」
そろそろ弦巻川に差しかかろうという時、的場の崖の陰から二人の男が現われ道を塞いだ。
「お主が半次郎か」
二人とも覆面をしているため、どちらがそう訊いたのかは判らない。二人とも羽織袴に大小を差している。
「誰だい、あんたたちは」
半次郎は二人を見比べながら、みつに「提灯を棄てな」と囁いた。
「誰だっていい」
二人がそう言って、すらりと太刀を抜いた時にはすでに半次郎は三丈ほど後ろに退がって、みつをおろしていた。
つい今しがた半次郎の立っていた場所では、みつの落とした提灯が輝いている。二人の武士は追って来たその足で、一気に間合いを詰めてきた。
―落ち着け、やつらには俺が良く見えねえはずだ―
提灯の明かりは半次郎には届いておらず、逆に半次郎から二人の姿はよく見えていた。
最初に斬りつけて来た男が上段に振りかぶった瞬間、半次郎は相手の目を狙って手に握っている物を投げつけた。
「ぐわっ」
「俺が丸腰だと思ったかい」
半次郎がわざとそう言うと、後から来た男は一度斬りかかるのをためらった。
「ぐわあっ」
最初の男は倒れこそしないが、最早戦闘不能だった。
恐らくまだ何をされたのか解っていないだろう。今朝から身の回りに妙な視線を感じていた半次郎は、用心のため普段塗り薬に使う唐辛子の粉を懐に入れていたのである。
―とにかくこれで、おみっちゃんだけは逃げられそうだな―
奇襲は一度きりである。もう手持ちの武器はなかった。だが。
「さて、次は何を出そうかな」
半次郎は何もない懐に手を入れてみせた。
「お、おのれ」
男は闇雲に太刀を横に薙いだ。
半次郎の懐の中が気になるのか、太刀は半次郎に届かないが、二度三度繰り返しても半次郎が何もしないため、だんだん踏み込みが深くなってくる。
―やばいな、もたもたしてると最初の男が回復しちまう―
いくら半次郎が柔の名手とはいえ、剣術の修行を積んだ武士はさすがに別格である。
先日の十郎の短刀などとは、比べようもないほど太刀の振りが速く、腰も据わっている。
体の中心がぶれないため、柔の技がかかりにくいのだ。
「だめだよおみっちゃん」
不意に半次郎は男の後ろに向かって叫び、男は釣られて「えっ」と振り返った。
―引っかかったな―
半次郎は一気に間合いを詰め、男の顔に拳を叩き込もうとした。だが。
ひゅるりと風を鳴らして、男の太刀が半次郎の前をかすめた。半次郎はすんでのところで踏みとどまったが、その前腕からは血が滴り落ちていた。
―くそっ―
男はすでにこちらを向いていて、逆に半次郎が丸腰であることを知ったためか、太刀を振り上げ一気に飛び込んで来た。
「ぐあっ」
しかし悲鳴を上げたのは男の方だった。
見ると男の右の肩に小さな懐剣のような物が突き立っているのが、提灯の反射で光って見えた。
男の右手がほんの寸刻、太刀の柄から離れ、その時にはすでに半次郎の右手がそれを握っていた。
そしてその柄を梃子にして男の左の肘と肩を一気に捻り上げて、「ごきり」といわせた。
男はよほど痛かったのか、獣のような鋭い悲鳴を上げた。
最初の男に振り向くと、すでにかなり回復したらしく、よろけながらだが小走りにこちらに近づいて来る。半次郎は奪った刀をその足下に投げつけた。刀は男の足にまとわりつくようにして男を転倒させた。
間一髪だった。
―誰が投げたんだ―
半次郎は的場の崖の上を見上げてみたが、そこには何も見えなかった。
「おみっちゃん」
坂の上に向かって呼んでみたが返事はなかった。
坂を駆け下りながら何度も呼ぶと、橋の向こうから人の塊が駆けてくるのが見えた。
「先生」
塊の一番後ろから、みつが半次郎を見つけてそう叫んだ。
数人ほどのその男たちは、手に杖や天秤棒を持っていて、近づくとそれが五丁目の連中だと判った。
「先生」
「あっ、血が出てるぜ」
駕籠屋や大工や、みんなねずみ屋の常連で半次郎も知っている顔ばかりである。
半次郎も気づかなかったが、みつは半次郎たちの横をすり抜けて、五丁目に帰っていたのである。
つくづく気丈な娘だと、半次郎は感服した。
六 武士の世界もまた地獄
「お前もこれで少しは懲りただろう」
平左衛門老人は座敷の上がり口に腰掛けて、珍しく赤くもならず諭すように言った。
「はあ」
今度ばかりはさすがに半次郎も神妙な顔で話を聞いている。
開けっ放しの戸口の外から、弥助と三吉が相撲をとる声が聞こえていた。
あれ以来外にも出してもらえず、すっかり元気のなくなっていた三吉を見兼ねて、弥助が久しぶりに誘ったのだった。
みつは半次郎と並んで座り、時折二人の声に釣られるように首を伸ばして外を窺っている。心配でたまらないのか、さっきから何度も外と中を行ったり来たりしているのだった。
「死人が出たって不思議じゃないくらいの騒ぎだったんだ、怪我をしたのがあたしとお前だけで、それもかすり傷ですんだなんて、めっけもんだよ」
そう言って自分と半次郎の腕のさらしを見比べた。
お香が血を吐いたのは、外傷によるものではなかった。半次郎の見たところ、もともと悪かった肝臓の病気によるものだった。
健康な肝臓にはふつう、大量の血が蓄えられているもので、肝臓が病気になるとその血を抱えきれなくなり、体中の血管にその余計な血が流れる。
そこへ急激に血圧が高くなると、弱い血管が真っ先に破れ、出血するのである。
破れるのは喉の血管であることが多い。
恐らく初めて目の当たりにした斬り合いで、ひどく緊張して血圧が急激に上がったに違いない。
「あたしもこの歳になって、御先手組のお白州に座らされるとは思わなかったよ」
平左衛門は疲れ果てたような顔で漏らした。
「ほんとうに面目ありません」
半次郎は床に両手をついて頭を下げた。
御先手組とは火附盗賊改である。侍が起した事件だったため、火盗が乗り込んで来て、お香親子とこの三人を呼び出したのだ。
お香はあの後、半次郎の手当てで意識を取り戻したものの、とても火盗の取調べを受けられるような状態ではなかったが、鬼の火盗にそんな理屈は通じなかった。
もっとも、この五人は被害者だったため噂ほど荒っぽい取調べは受けなかったが、数日にわたり組頭の屋敷に呼ばれ、しつこく詮議を受け、しかもお香はまだ戻っていなかった。
火盗も焦っているのだろう。結局手がかりは何もないのだ。
半次郎を襲った二人の侍も、すぐに現場から消えてしまったらしい。あれから長屋の連中の中でも血の気の多い駕籠屋の源太と大工の留吉が、半次郎が止めるのも聞かずに鉄砲坂を登って行ってしまったが、その時にはすでに二人の姿はなかったという。
平左衛門が白州で述べた供述によると、平左衛門が駆けつけた時には、みつは戸口の外で尻餅を突いていて、中を覗くと頭巾をした侍二人がつばぜり合いをしていたのだという。
平左衛門の見たところ片方の侍が、お香と三吉を斬ろうとしていて、もう片方がそれを守っていたように見えたのでわけが解らないまま、守ろうとしている方の侍に加勢して杖を振り、その時に手首を斬られ、間もなく騒ぎを聞いた長屋の住人が集まりだすと、斬ろうとしていた侍がすごい勢いで逃げ出し、もう一人もそれを追って駆け去ったのだそうだ。
お香はずっと三吉を抱いて侍に背中を向け庇っていたが、声をかけてみるとすでに血を吐いて気絶していたということである。
「でも大家さん、先生は間違ったことをしたわけじゃありませんよ」
みつはまだ半次郎の弁護をするが、言葉に力はこもっていない。
「確かに、どちらかと言えば正しいことをしたさ、だが、結果的に長屋の連中にも、あたしやおみつにもこれ以上ないくらいの迷惑をかけたんだからね」
平左衛門が静かに言うと、
「でもお香さんだって被害者だったのにあれじゃああんまり可愛そうで。それにどうしてお香さんだけまだ帰って来れないのかしら」
みつは泣きそうな顔になって言った。
「まあ、命を狙われた張本人だからね」
どういうわけかお香は火盗の屋敷でも、何も話そうとしなかった。
命を狙われるほどの理由を本人が知らないとは到底考えられないから、恐らくよほどの事情があるのだろう。
一体何をそんなに必死になって隠しているんだろうと半次郎は首を捻った。
お香たちを襲った侍と、半次郎を襲った二人組みは、組んでいると見ていいだろう。一方でお香たちを助けた侍とは誰なのだろうか。
それに、あの懐剣を投げたのは。
その時、入り口の前に一人の男が「ごめん」と言って現われた。
男の服装や髷は町人のいでたちだったが、立ち姿や目の動かし方は、どう見ても町人には見えない。歳は四十に届かないくらいか、真っ黒に日焼けして、肉の削げ落ちた頬が鋭い眼光をよけいにきつく見せていた。
「半次郎とはそなたか」
言葉遣いも町人とは思えない慇懃さである。
「あんた誰だい」
半次郎が首を伸ばして尋ねると、男は平左衛門とみつにちらりと視線を走らせ、気にするそぶりを見せた。
「こっちは大家さんの平左衛門さんと、表店のねずみ屋の娘のおみっちゃんだよ」
半次郎が訝りながら紹介すると男は「これは失礼した」と深々と頭を下げ、自分は佐々木源之信というある藩の元藩士だと名乗り、二人に向かって丁寧にお辞儀をした。
「この度はそなたたちにも迷惑をかけた」
三人とも事の次第が飲み込めず、ぽかりと口を開けてそれを見ていた。
「時に菊千代さまは、どちらにおられるかな」
佐々木は丁重な言葉とは正反対な鋭い目で無遠慮に狭い部屋をながめ回した。
三人は顔を見合わせ、半次郎は首をかしげながら尋ねた。
「菊千代さまって、誰です」
「そなたたちが三吉と呼んでいるお方だ」
「三公なら今そこで相撲をとってますが」
「な、なんと」
佐々木は目を丸くして、見ていて可笑しくなるくらいうろたえて外に出て、三吉を引っ張って来た。
その際、弥助から「なんだい、おっちゃん」などと罵声を浴びせられ。
「いいからお前は帰っておれ」
と言い合う声が半次郎のところまで聞こえてくるのだった。
「単刀直入に言う」
佐々木は三吉を座敷に座らせるとそう切り出した。
「今日拙者は菊千代さまをお迎えに参ったのだ」
「な、なんだって」
半次郎は床から尻が離れるほど驚いた。
「大殿の仰せなのだ」
「ちょっとお待ちくださいませ佐々木さま、手前どもには一体なにがなんだか解りませぬ、迷惑をかけたとは、もしかして先日の騒ぎのことをおっしゃっておられるのですかな」
平左衛門老人はさすがに歳の功で、落ち着いてそう訊いた。
佐々木が「いかにも」と言うと、半次郎は弾け飛ぶように腰を浮かせて身構えた。
佐々木もそれを予想していたように、「いやいや」と鋭く打ち消した。
「心配いたすな、我らは菊千代さまをお守り申し上げていたのだ」
そして順を追って説明した。
三吉の母お香は若いころ、佐々木の仕えていた藩に女中として働いていたことがあり、その時大殿からたいそう気に入られてお手つきとなり、三吉を身ごもったのであった。
しかし後々の継承問題が揉めることを案じた当時の家老たちは、大殿には秘密裏にお香にひまを出し、藩ではこの事実そのものが忘れられていたのだった。
そして時は経ち、大殿は隠居して今の藩主が跡取りとなったわけだが、若殿は酒色に耽り全く政を顧みず、しかもその若殿の継承の際に後ろだてとなった杉山某という今の老中の専横が甚だしく、領民は困窮を極めているという。
「そんなの、あなたがたの藩の中で正しゃようござんしょう」
「いかにも、我々とて黙って見ていたわけではない、だが政争の結果、拙者も含めて我らの同志のほとんどは失脚させられてしまったのだ。しかも」
佐々木は苦々しげに「恥ずかしい話だが」と続けた。
「若殿は心の病に罹っておられるのだ。酒を飲まれると度々乱心を起こされ、既に女中が何人か斬られておる。このようなことが発覚したら、我が藩はお取り潰しになってしまう」
そこで、困り果てた大殿が三吉のことを思い出して、内々に探させていたのだという。
三吉は飽きてきたらしく、みつの袖を引いて膝の上に乗ってしまった。
小柄なみつは大きな三吉を持て余して困ったような顔をしていたが、三吉は遠慮なくみつの胸に顔を押し付けて、何か自作の歌のようなものを口ずさんでいる。
「だが、杉山さまの一派も必死だった。かろうじて我々の方が先んじて菊千代さまを見つけ出すことができたが、彼らも数日と遅れることなく探し当てていたようだ」
佐々木は半次郎に向き直って言った。
「鳥見佐奈子という女の隠密がそなたに近づいたはずだが」
―女の隠密だって―
もしかして蛍のことを言っているのか。と思い当たり半次郎は愕然となった。
確かに事件は蛍が半次郎を呼び出した晩に起こり、しかも蛍はそれ以来行方をくらませているのだ。
半次郎は気になって火盗改頭の屋敷から帰された後、蛍草に何度か行ってみたが、店は閉まっていて中に人の気配はなかった。
「大殿は今年の正月病を召されてな、御継嗣のやり直しと重職の刷新を急ぐよう、強くお望みなのだ」
「ちょっと待ってください」
みつが悲痛な声でさえぎった。
「さっきから聞いていれば、一度放り出した子供が必要になったから渡せだなんて、それも、みんなして命を狙ってるようなところに連れて行くだなんて、この子は道具じゃないんですよ」
佐々木は、めし屋の娘の無礼を咎めるどころか、目を閉じて黙って聞いていた。
みつも感情が昂ぶってきたのか、さらに語気が強くなっていく。
「それにこの子は、普通の子じゃないんですよ。こんな風に、赤ちゃんみたいな子なんですよ、殿さまの仕事なんて、できるわけないじゃありませんか」
そう言って自分の腕の中の三吉を覗いた。
三吉はいつの間にか眠ってしまっていた。
「その件に関しては、我らが一命を賭して三吉さまを盛り立て、お助けしようし、お命もお守りするつもりだ」
「でも、とどのつまりは、一生傀儡になる、ということでござんすね」
半次郎が詰め寄るように尋ねた。
「現実にはそういうことになろう、だが、五万石の藩士と領民の暮らしが、今やこの方にかかっているのだ」
そして今度は佐々木が語気を強めて「それに」と言った。
「今回の件ではすでに我々の同志の何人かが命を落としている、その者たちの全ては私的な政争や権力闘争のためではない、領民の暮らしを安んじるために志に散ったのだ」
佐々木がそこまで言うと、一同は何もいえなくなってしまった。しばらく沈黙が続いた後、半次郎が口を開いた。
「ですがね、ご存知とは思いますが、肝心のお香さんが今ここにおりませんからね」
その時、戸口の障子がからりと開いて、一人の小僧が入って来た。
―なんだよ今日は客が多いな―
その小僧は、火盗頭のおつかいだと名乗った。
「なんだと」
その場に居た全員の視線が小僧に集まった。
「なんだい、話してみな」
「お香という女が死んだけど人別帳を外れてたから、こちらで片付け・・・」
小僧は最後まで言い終えることができなかった。半次郎の顔が、あまりにも凄まじい形相に変わったので、怯えてしまったのだ。
「なんてこった」
三人同時にゆっくりと三吉を振り返った。
三吉は何も知らずに眠っている。
「どこかの寺にでも放り込まれて、無縁仏になっちまったか。これじゃあ墓参りもできんな」
平左衛門がぼそぼそと、だが、憎しみとも哀しみともとれる感情を込めて呟いた。
「まったく侍ってやつは、人が一人死んだってのに、小僧のお遣いですませやがって」
半次郎が珍しくはた目も構わず感情をむき出しにして吐き出した。やはりお香には最早、取り調べに耐えられる体力はなかったのだ。
七 暗闇に向かって旅立つ三吉
佐々木源之信が三人の侍者を連れて改めて三吉を迎えに来たのは、長屋の住人たちが寝静まった深夜だった。
三吉は四人の侍にかしずかれ、眠そうな目できょとんとしたり、慣れない羽織の袖をいじくりまわしたりして落ち着きがない。
見送っているのは半次郎と平左衛門と、みつと弥助だけである。
弥助はすでに三吉のことを本当の弟のように思っていたから、三吉の回りをぐるぐる回って三吉の羽織を珍しそうに眺めたりしているが、どこか四人の侍に遠慮しているようで声をかけあぐねている。
「この度は本当に迷惑をかけた、こんな形の謝罪しかできぬがとっておいてくれぬか」
佐々木は懐から小さなふくさの包みを取り出して差し出した。
中が金子で大きさからいって百両ほどであることが、半次郎にも解った。だが。
「せっかくですが、あっしには必要ねえもんですよ」
半次郎はぺこりと頭を下げ、下げた頭をそのまま三吉の顔の高さに持っていって、三吉に話しかけた。
「いいかい三公、みんなから可愛がってもらうんだぜ、朝早く起きて、みんなが嫌がる仕事を進んでやるんだぜ」
「おい、半次郎とやら」
侍者の一人が堪り兼ねて身を乗り出そうとしたが、佐々木が片手を挙げてそれを制した。
「先生、三ちゃんは殿さまになるのよ、どこかの奉公に出るんじゃないんだから」
みつが顔中を涙で濡らしながらそう言った。
「ちゃんと飯を食うんだぜ、風邪ひくなよ、寂しいだろうけど負けるんじゃねえぜ、それから」
「先生、そんなにいっぺんに言ったって憶えきれないよ」
今度は弥助が目に涙を浮かべながら笑った。
半次郎は「解ってるよ」と応えたが上の空である。
三吉は指をくわえながら聞いていたが、きょろきょろと回りを見回して「おっかあは」と訊いた。
「後から行くってよ」
半次郎は真剣な顔でそう応えた。
佐々木に出発を促されて三吉はそこではじめて半次郎たちと別れることが理解できたらしく、回りを取り囲んでいる侍者を押し分けて戻って来て、半次郎にしがみ付いて泣いた。
半次郎は体のどこかのひどい痛みを堪えるように目を閉じて一度天を仰ぎ、それから三吉をにらみつけるように正面から見て言った。
「いいか、よく聞きな三公。人間の体には二百個の骨があるんだ、こいつは殿さまだろうが貧乏人だろうがほとんど変わらねえし、案外簡単に折れちまうところもそう変わらねえ、だがな、あともう一本、絶対に折れねえ骨ってのがある、それは土性骨って骨だ、こいつだけはどんなことがあっても折っちゃいけねえぜ、解ったな」
三吉は泣きながらどういうわけか「うん」と言った。
五人の主従の黒い羽織は、すぐに裏路地の闇の中に見えなくなっていった。
「ほんとにこれで良かったのかしら」
みつが泣き疲れて放心したようにつぶやいた。
「子供ってやつは親を選べねえからな」
半次郎は突き放すように言った。
「夜鷹の子でいるよりはいいんじゃないかね」
平左衛門が言葉とは裏腹に、吐き捨てるように言った。
「お香さん、その大殿さまのことが本当に好きだったんじゃないかしら」
みつがそう言って半次郎を見つめた。
「だから死ぬほど苦しかったのに、三ちゃんのお父さんのこと誰にも言わなかったのよ」
半次郎は「まあな」とだけ言って、いつまでも果てしない暗闇を見送っていた。
「雨が降ってくるかな」
半次郎は独り呟いて竿を上げた。いつの間にか季節は梅雨に近づいていた。半次郎は蛙の鳴き声の賑やかな弦巻川で鯉を釣っていた。
三吉が居なくなって以来、弥助はどういうわけか自分からめし屋を手伝うようになったため、半次郎は一人で居ることが多くなった。
―そろそろ蛍が飛ぶころだな―
そんなことをぼんやりと考えながら魚篭の水を切って引き上げ振り返ると、夕暮れの薄暮の中に武家風の小袖の旅装束で市女笠を被った女が半次郎を見下ろしていた。
半次郎はいぶかるような顔で笠を覗き、目を見開いて驚いた。
「・・・なんだよ、久しぶりだな」
全ての景色が灰色に染まる中、笠の下から覗いている蛍の唇だけが紅く、その唇がにこりと笑った。
「藩に帰るのかい」
「まさか、あんなことをして、あたしにはもう、行く場所なんざありませんよ。しばらくほとぼりがさめるまで旅に出て来ようかと思ってさ」
「そうかい」
半次郎は悲しげな顔で頷いた。
「あの懐剣はおめえさんだったんだな」
「あんたがお香さんたちを家に泊めちまった時には本当に困ったよ。だから大急ぎでお店を借りてあんたを呼び出して巻き込まれないようにしてあげたのに、あいつらあんたまで襲いやがるから、我慢できなくなっちまってね」
「お前さん、ほんとにそんなんで良かったのかい」
蛍はぼんやりと弦巻川をながめながら苦々しげに嗤った。
「子供一人に大人が寄ってたかって。武士ってものにも嫌気がさしてたからねえ」
「それで今度は俺を殺しにきたのかい」
蛍は半次郎の冗談には乗らず、
「話の続きが聞きたかったんですよ」
と半次郎を真っ直ぐ見て言った。
「続きって」
「あんたがなんで所帯を持たないのか、聞いてなかったじゃないか」
半次郎は「ああ」と言って、
「俺の親父もおっかさんも、ひでえ親だったからな、俺はこの体ん中にあいつらとおんなじ血が流れてるってのがどうしても気に入らねえんだよ。だから俺に所帯を持つ資格はねえのさ」
そう言うと蛍は噴き出して、
「そんなこと、あんたに限って自分の子供にひどいことするなんて、ないだろうさ」
と笑い出した。
半次郎も思わず苦笑するしかなかった。
ひとしきり二人で笑ってから、蛍は悪戯っぽい目で半次郎を見て、「ねえ」と言った。
「今度あたしが江戸に戻ってきた時、あんたがもしあの娘と一緒になってなかったら、あたしがあんたの長屋に押しかけるよ」
半次郎はしばらく本気で考え込んでから、「考えとくよ」と笑った。
蛍は大きく溜息をついて、
「こんな出逢い方したくなかったんだけどね」
それだけ言うと、半次郎にくるりと背中を向け歩き出した。
「たっしゃでな」
半次郎の声に蛍は右手だけ挙げて応え、そのまま振り返らずに前を向いて歩き続けた。
半次郎は竿と魚篭を提げたまま、それを見送っていた。
「あれ」
蛍の向こうから、紫の半被を着た三人組が歩いてくるのが見えた。
三人揃って蛍の顔を不思議そうな顔でじろじろと見て、すれ違った後も、何度も首をかしげては振り返った。
「おい、蛙の権三じゃねえか、久しぶりだな」
半次郎はなぜかひどく懐かしい気分になり、三人の男に駆け寄った。
三人は「あっ」と、急に怯えた顔に変わり、
「俺は百足の十郎だ、誰でえ蛙の権三ってのは」
と先頭の向こう傷の男が声を裏返した。
「なんでえ、声をかけるなって言ったのはおめえじゃねえか」
チビの男がいかにも迷惑そうに言った。
「そう固てえこと言うなよ、一杯付き合わねえか」
「げえっ」
三人は蛙のようにぴょんと跳ねながら、声を揃えて悲鳴をあげた。
弦巻川には気の早い蛍が一匹だけ、何かを探すように飛んでいた。
了
河童の半次郎
最後まで読んでくださったかた、ありがとうございました。
無理やり100枚に押し込んだので、読みにくかったかと思います。
気合だけが空回りして、結局凡庸でお約束な話になってしまいました。
なので位置づけは習作ということになりますが、もうそろそろ習作は卒業したいです。
尚、この話、シリーズ化も視野に入れていまして、作中に登場した十郎を主人公にした次回作の構想もあるのですが、いつ書きあがるか私にもわかりません。