雲に梯子をかける時

井出佐麻呂

第一回

 西暦2112年、地球上にありとある百万都市が海の下に没した。これら摩天楼をつくしのごとく聳やかしたかつての遺構は、景気よく海に投げ込まれて、アトランティスは一時供給超過に見舞われた。2112年といえば、かの国民的アニメで過去にさかのぼって一世を風靡したネコ型ロボットが生まれた年だが、こうして彼は自分の帰るべき故郷を失い、あまつさえ親殺しのパラドックスに陥って彼の存在様式ははなはだちぐはぐなものにされてしまった―――さもあらばあれ、地球が水浸しになったのは彼のせいではない。八十年前、月に隕石が衝突したことでこのつがいの惑星と衛星の間で営まれて来た絶妙な均衡が破られ、地球上の潮位運動がより大ぶりなものに変化したためだ。月の軌道はだいたい北半球で接近して南半球で遠ざかるという、楕円形を描いてなおも地球の衛生たり得ているが、やや高地に築かれたアンドラ・ラ・ベリャまでが年を逐うごとに水没したという事実に鑑み、月は今なお接近しつつあると説く学者もある。軌道の半径がせばまっただけ、月は18日で一周期、したがって一年は20カ月として数えられなければならない。水没の憂目に遭ったのは北半球の諸都市、つまり南北問題などという格差は瞬時に解消され、むしろ最後まで人種的優位を信じて来た白人種にとってこの問題は、懐旧の涙をさそう媒にしかならなかった。満潮時、北半球では海抜1500メートルを優に超越する。晦日にかけて潮位が低まる頃のこれら北半球の諸都市は、見るも無残な骨格をあらわにする。この五年来、ほぼ海水に漬けっぱなしにされている海抜二百メートル以下の都市では、すでに住民台帳の種族の欄が書き換えられている―――名詮自性のアトランティスである。
 人類の大半がいまや南半球に移住した。つまり、砂漠の上に海水を撒いたところで地味が肥え立つはずのないアフリカ大陸はさておき、オーストラリアと南米は大人気である。人口密度が半端じゃない。

「おい、いいかいエミール。あんまり正規の文法から外れた・妙ちきりんな話し方をしない方がいいぜ。ちゃんとしたフィン語を話すことだ。とくに助詞の使い方がいい加減なやつほど、信用を失って孤立する」
「解ってるさ、メビウス」
 メビウスは今朝から虫歯を病んでいて、機嫌が悪い。だがクラスメイトの父が開業している歯医者にかかるのも業腹なので、いま帰り道で拾った古い馬蹄の金具を力任せにねじまげて、これを口腔の患部にあてがい、自力で抜くことができないものかとさっきから熱中している。夥しい涎が彼のくたびれたズボンを汚した。
 大気中のオゾンを利活用できるよう、肺構造を遺伝子操作せざるを得なかった中産階級の『疎開者』らは、新人類思想に傾倒しやすい。彼等はいまや払底した石油資源に頼らずとも、オゾンをコックピット内に充満させた過酷な状況下で空を自由に飛ぶことができるかわりに、寿命がいちじるしく短縮された。エミールの一族もまた、南大陸移住の撰に漏れ、いち早く上空に旅立った貧しい血統である。それが祖父の代になって、やっとここフィンランドのわずかに残された陸地に羽を休めることを得たのであった。
 彼とメビウスの間にある温度差は、肺構造の差異にこそ根差していた。なにしろメビウスはこれから百歳になるまで、うんざりするほど長い人生の交睫みを貪ることだろうから。
 新人類思想はなにも今時の若者がかぶれやすい・ちょっとした流行り廃りにしては根が深い。八十年前、北半球に住む多くの人々が南海移住を迫られたが、移住民のごく限られた枠組みは財閥や閣僚、なにがしか政府機関と癒着している民間企業の重鎮とその家族らによって瞬く間に埋まり、残された中産階級、況して貧乏人らは高額な渡航料の納付もままならず、一か撥か、肺ヘモグロビンに関する3つの塩基配列にマイクロニュートロン爆発で加速した中性子をぶつけ、狙い通りの塩基を弾き出す『クロマニヒ羽化術』を受けるか、さもなくば町と地所と財産とともに最後は入水する他なかった。手術の成功率は実に2%だといわれた。失敗した場合、喘息、肺炎、呼吸不全を患って、十年しか生きられない。ために施術を受けたものは限られており、その中で見事『羽化』に成功したものは、地球上で6000人にも満たなかった―――いまや新人類は4世代目にさしかかり、自分達がこの世界の意思によって選ばれたのだという選民思想=新人類思想がかなり普及し、南海在住の旧人類はこれを忌々しき事態と捉えている。新人類はあらゆる人間的慣習の破壊者と化した。バベルの塔を築いた旧人類がたがいの言語理解を妨げられただけで孤独に追いやられた先例とはこと変り、『我々には肺機能の進化だけにとどまらないあらゆる進化が可能であり、事実それを世界の意志が嘉している』という信条ゆえ、なるたけ意味不明な・異言をことさら用いるような輩まで現れた―――メビウスが水を差したのはこの傾向についてである。
 あくまで夢想家であるエミールといえども、自分が容れられない世間を逆恨みして、以心伝心が可能な世界の夢想に浸るというような、現実逃避の夢想家では断じてないから、この指摘はかなり見当がちがった。
「まさかOU(オセアニア連合)のお偉いさん方も、『羽化術』が引き金で人類が二つに分裂してしまおうだなんて、考えても見なかったんだろうぜ。あれはほんとに間に合わせの代替案だった。当時パンコムギの12粒種の開発現場で用いられていた中性子サイレンシングを、まことしやかな手術名ととも応用しただけなんだからな」
 また始まった。メビウスお得意の人類学的うんちくである。彼は自分のズボンに垂れた涎には頓着しないが、人類の歩みの歴史的(したがってどこまでも独り善がりな)解釈だけは放っておけない。朝、歯を磨いた時から、全世界を眺望するコスモポリタニズム的物見やぐらにのぼってからでないと、彼の一日は始まらなかった。
「けどまあ、世界はたしかに新人類の登場に沿って地球環境を変化させてる向きがあるから、選民思想を抱くのも無理はないやね」
「ああ。それだけに一部では耶蘇教でいうところの『最後の審判』はすでに来たとも云われてる。八十年前のあの日は今や宗教的記念碑と化した。そしてなにより酷いのは、この審判で地獄行きの烙印を押された旧人類が、地獄の業火には投げ込まれないで、水責めの生殺しに遭っている点だ」
「なんだ君は、いまさら神を信じるのかい?」
「そりゃ、隕石が月に落ちたんだ、なんらかの意思をそこに読まないものはないだろう。けれど、おれのは神でなくて『世界意志』だ」
「こんどはヘーゲルか。まったくとんだ骨董趣味だな」
「ところがどっこい。この『世界意志』を信ずるかぎり、あの『ノアの大洪水』は百年で退くとの見方ができる。分かるか?残念ながら猛威の海はだんだんと鎮められつつあるんだ。やがて陸地が姿をあらわす。きみたち新人類の大立ち回りもあと二十年そこらで見納めだよ」
 ところで、こんな反現場主義的な会話がどこで取り交されているのかといえば、厳めしい学府の講堂でも、ステンドグラスのモザイクに漉された光が賑やかな教会堂のディヴァンでもない。彼らが腰かけているのは丘陵の草生から迫り出した大きないわおである。ハイジの冒頭、あの叔母がハイジを伴れて山上の爺いのところまで行くみちすがらを想いうかべてみれば、具合がいい。あんな感じである。すぐ傍を、群からすこしはぐれたアイスランディック種が一頭、のろのろと横切るほどにのどかな昼下がりである。
 学校はあっても大体昼過ぎには退けてしまう。彼らにおいては最早、人間同志で知恵比べをする動機に乏しかった。島国よろしく孤絶した山岳地帯の住民らは、将来役立つ見込みのない諸科学を自分の子息に学ばせるより、まずは自給的牧畜を手伝わせることで精一杯だった。ただし歴史学は、過去に類を見ないほど人気を博している。明日のない旧人類が無言のうちに愛好していたのは、じつは末法思想なのである―――自分たちが最後の人類になることは、どことなく名誉で、清々しい。自分一人の、百年足らずの人生が終わっても、人類が平気で存続することに本能的な不満をいだく我々にとって、みずから「最後の人類」を颺言できることは、もうそれだけで幸福なのであった。
 だから忌憚のない意見をいわせると、北半球に取り残された旧人類は南洋移住民がいつか(世界意志に歯向かった報いで)破滅させられることを言外に歓迎してさえいるのである。

雲に梯子をかける時

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