初恋の効用

井出佐麻呂 作

第一回

 ポリ袋の中身の具材をボウルに空けた時、僕ならこんな物は食わないと信濃は思った。一升五斗は楽々と入るこのステンレスボウルは、学校給食で使い回されている牛乳瓶以上の頻度で盥回しにされ、幾多のペーストとだし汁と御下地、それから水道水を交互に潜って来た百戦錬磨の古兵であるし(尚それだけに新品当時の金属光沢など今は見る影もないが)、洗剤をけちったボロ雑巾のようなスポンジでさっと拭ったっきり、従業員はまた新たな料理のパウチをそこに空けた。余瀝のなかにばらばらと浮いつ沈みつしている茶殻のような若芽をディスポ手袋越しに掬い取って、最後の一パックの帳尻を合わせた時も、僕ならこんなものは食わない、と彼は思った。ボウルそれ自体が残渣で垢じみているなら、況してボウルの縁にへばりついた糸蒟蒻を剥ぎ取って容器に移した時の心持なぞ譬しえもない。惣菜の値段は従量制であるから、解凍したてのしゃびしゃびした小松菜だって碌に水切りもしないでボウルに空けた。出汁で帳尻を合わせるやり方はデリカテッセンのパッキングの常套法である。だから水分の多い中華サラダなんかは無茶に値が張る。
 七月の第四週。高校は疾うに夏休みに入っている。信濃が属しているサッカー部では三年生が引退し、今や信濃ら二年生が新チーム結成に先鞭をつけるべき時期であったが、今夏の溽暑は梅雨明け匆々に猛威を振るった。運動部からは総体二十人の熱中症患者を出し、立て続けに五人が意識不明の重体となった先週末から、P学園では屋内外を問わず全運動部の活動停止が宣言された。いつ解禁になるかの目途は未だ立っていない。
 信濃は春休み以来、偸むべき寸暇も持たなかったスーパーのバイトをまた再開した。活動停止宣言を、彼は口にこそ出さね、これを歓迎している気味もあった。
 別に信濃が部活動に対して不熱心だとか、単純に下手くそだとか云う訳ではない。彼は今年の総体にもフォア―ドで出場すること數度に及んだし、フォア―ドの癖にやたらゴールから後退したところでボールを独占し、わらわらと駆け寄って来た相手の守備陣をまるで戢々と湊まって来た鯉でもあやすように、四五匹の鯉の頭上を越してゆく厭味なパスを出してゴール前をがら空きにさせる、と云うようなプレーが得意だった。マネージャーが冗談半分に信濃がボールをキープしている時間を計ったところ、通常の五倍にも上ったというくらいである。彼の足捌きを見ているとまるでボールの方から彼のスパイクにじゃれついて来て、振り払った方の指から離れもあえずまたしても別の指を煩わせると云うあのヌスビトハギの種子のような際限のなさである。
 だが信濃にとって重大なのはレギュラー争いでも、四回戦進出と云う伝統的誓願をまたぞろ押ッ立てることでも、現在フリーのマネージャーの四番目の寵愛に与ることでもなく、大学進学、差し寄り関西にある大学のオープンキャンパスに参加するための運賃と宿泊代を稼ぐことである。信濃の家は母子家庭だった。
 メッシュのやぐい衛星帽は耳朶まですッぽりと包み込んで、下からはマスクのゴムが押し上げるので、この上眼鏡をかけようものならブリッジが鼻っ柱に食い込んで嘸痛かろう。だがこの作業は息苦しい半面、目だけを出してこちらの匿名性を高めることに役立った。だから仮令、中仕切りのガラス戸越しに同級生と気まずい鉢合わせをしたとしても、大抵の場合、この覆面男が信濃だと気付く者はなかった。だが此方からは同級生の、まさか誰かに凝視されているなどとは露思わない無防禦なしぐさが丸見えである。善し悪しである。ただし信濃の場合、マスクをし続けると酸欠状態に近い症状が顕われて来、その上鼻から下を隠すと見違えるように可愛らしくなる女子のように、信濃は出目ではないし、口許もまことにすっきりしていたから、容器に封をして了うごとにマスクをずらして一息納れた。
 この作業着の匿名性を多として、信濃はガラス戸越しに来客の生態を観察することを道楽にした。偶々陳列棚を覗き込んでいた客の目線と鉢合わせても、先方には信濃の視線の意味が解らない。人は他人の目線を大きに憚るようでいて、しかしそれが目だけとなると案外堪えない。意味が減殺されたこの窓越しのアイコンタクトは水族館の観客と鱗族の間の関係に似ている。どちらが魚だったのだろう?少なくとも自分が観客だと信濃は思っていた。
 それに有体に云えば、信濃の視線の先にあるのは極まって女の下半身である。折も折とて、大胆に大腿部を押ッ広げた若い女たちの脚線美の、さまざまな趣向を目測し、典型化し、評価することがバイト中彼の頭の中を占めている事象の大半である。それほどに、デリカテッセンのパッキングは底の浅い、追求し甲斐のないchoreである。
 十一時ごろから三十分おきに、従業員たちは順次一時間の休憩に入る。昼餉時の混雑にそなえて売り場を整え終えた調理場は却って閑散とした。信濃は悠々とおにぎりを握っていた。これが唯一やりがいのあある作業であり、かつ手腕の見せどころでもある。信濃が握ったおにぎりは几帳面な正三角形を示している。彼が握らない日はルーローの三角形のような・ギターピックのような扁平な形をしていて頗る風采が颺らない。これだから握り飯は値引きされる夕刻まで(冷めはてた握り飯になるまで)売れ残るのだと云われるほどである―――ただこのさして売れ筋でない握り飯は忙しさに紛れて作られないことが往々あり、チーフ不在の日の副チーフは積極的にこれを省略して作業が山積するのを防ごうとした。「信濃君、今日はおにぎりなしでいいから」と云っている彼女の心算ではよかれと思って云っているに相違ないが、おにぎり制作が唯一の慰めである信濃にして見れば、有難迷惑なのである。彼は四種十五個のおにぎりを握るのに自分の芸術性の有りッ丈を惜しみなく費消しながら、ガラス戸越しの脚線美の物色を怠らなかった。
 十二時を少し過ぎた頃になると、このデリカコーナーを右から左へ、素見するけぶりも見せないのに必ず前を素通りするひとりの女がいた。信濃はひそかにこのひとときを待ち設けている。この女がどうもP学園の生徒であるらしいことは、何部とも知れないジャージの背中に「P学園〇〇部」と刺繍してあることから察しられたが、この「〇〇」の部分は故意にステッチが剥がされており判読に堪えない。が、この女が涼しげな夏制服をはだけさせて通り過ぎる時など涼風そのものが擦過するかとばかりに思われた。なにしろその脚線美の見事さ。「あれはまず間違いなく陸上部だ」と信濃は懲りずに独白した。膝頭の皮膚は執拗くなく、脛には健康な張りがあり、踝は小鹿のごとく華奢である。なにより、この女は夏がどれだけ盛り上がり、爛熟し、やがて過ぎ去ろうとする頃になっても、相変わらず肌が白かった。この肌膚は鍾乳洞に眠る方解石のように日焼けを知らず顔だった。
 珍しくかの典午の巾幗の音訪れがなかった或る日、これまた珍しく信濃の外にもう一人いる学生アルバイトの女が昼過ぎても居残っていた。顔は衛星帽とマスクの陰に隠れてよくわからないが、目は少なくとも克明な二重瞼ふたえである。背筋はどんな姿勢をとらせてもぴんと伸びていて、エプロン越しでも腰の線の細さがこの齡傾いた女たちの寸胴のような矮躯の間に際立っていた。年輩の女従業員らからは「みすゞちゃん」とよばれているが苗字は知れない。高校生らしいがどこの高校かもわからない。
 彼女は信濃がここへ勤め出す以前から居たらしく、煮物のパッキングから揚げ物の管制、弁当の盛り付けまでを一通りこなした。「みすゞちゃん。ちょっと信濃君にビアソーマリネの詰めかた、教えてやってけろ」と云われて、おそらく二升は下らないボウルにサラダが堆く盛られたものを捧げて、信濃の方へやって来た。
「これ、ちょっと面倒なんですよね」女は思いのほか声質に繊維の少ない、きびきびとした挙措とうらはらな繊弱い声を出した。
「まずこのハムを・・・あれ?これハムでいいんですよね」
「ビアソーだからビアソーって云うんじゃないんですか」
「そーね、じゃあこのビアソーさんを、まず三枚このレタス柄のスチロールトレーに二つ折りにして並べて、55,6グラムになるまでマリネを載せるの」
「ほおほお」
「二回目はハム・・・じゃなくてビアソーを二枚に減らして、計120グラムになるまでマリネを足して」
「こうですか」
「そうそう。で、最後はマリネ一枚に」
「ビアソーですよ」
「あちゃ。で、その、ビアソー一枚にマリネを少々載せて、最後の帳尻合わせはこのボウルを傾けて、サラダオイルを注げば完成」
「なるほどです」
「問題は重ね折りしたビアソーが上からすべて見えるように位置をずらすこと。こうすると中身が多そうに見えるから」
 それ以上の私語は実質禁じられているようなものだ。年輩の従業員は女性で占められ、マスクを外しても可いのは彼女達で、会話をしても可いのも彼女たちである。二人の男性従業員は当然のごとく虐げられている。若者は彼女たちの会話にやや傾聴の態をとって、気紛れで齎される余り物を従順な兎のように頂戴するだけで能事畢れりなのであって、彼女らが口を動かしている分若者は手を動かして全体の進捗に寄与しなければならない。だが如何せん、訛音がきつすぎて話の過半は意味不明である。大抵が今日休みである同僚の悪口か、今し通りがかった知り合いの客の仮借ない詮索であることは確かだが、哄と笑いが起きた時に信濃も透かさず口角を上げて、にやにやして見せる。すると「御覧、信濃君まで笑ってっけ」と指呼され、自分たちの会話に旧世代の僻み根性と口性なさを再発見してますます会話が弾むのである。彼女らの、どこを叩いても染みと皴と抜け毛と老婆心しか出てこない会話に、若者の生温かい微笑と云う対応物を得させて、会話に一点の花を添えるのが信濃の習い性である。大抵のことは微笑を以て報いれば可い。この訛音は在来線にどやどや乗り込んで来る韓国人旅行客の鴃舌以上に解する能わざるものがある。

初恋の効用

初恋の効用

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更新日
登録日 2019-06-06

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