live

はじまりのうた


「…着いちゃった…」

呟くのは、内田唯斗。
ひょろ長い身長、茶髪の16歳。

彼は今、ある建物の前に立っている。

「…イメージより全然…良いとこじゃん」

大きな鞄を2つ背負い直し、自然に囲まれた3階建ての木造の建物に入っていく。

“和良人荘”

ここが、彼の新しい住居だった。



「こーんにーちわー…」

入ると、左手に管理人室のような場所があるが、残念ながら誰もいない。
しばらくそこで立ち往生していると

「……あ」

右側の部屋から、男の子が出て来た。

「…えっと…ここの人?」

唯斗が聞くと、彼は無言でにっこり頷く。

少年、と言った方が良いだろうか、見た目は小学生ほどにも見える、可愛らしい男の子だった。

「今日から越して来た、内田唯斗です。よろしくな」

唯斗が笑うと、彼も笑ってお辞儀をする。
ただし、一切声は発さなかった。

「…でー…さ、あの、管理人さんってか…大家さん、いる?」

すると彼は笑顔で頷いて、そのままぱたぱたと消えていく。
しばらくして、60代くらいの男性を連れて戻ってきた。

「おー、内田くんかな?」
「あ、はい!内田唯斗です!」
「よく来たよく来た。すまんな、今庭仕事してて…。さ、靴脱いで上がりなさい」

やさしそうな初老の男性は、そう言うと左の部屋に消えていく。
唯斗は慌てて靴を脱いでそのまま行こうとすると

「…ん?」

後ろから少年に肩を叩かれた。
振り向くと、彼は唯斗の靴を指し、それから空いている靴箱を指す。

「…あ、…もしかして、ここ俺の?」

唯斗が靴箱を指して聞くと、彼は嬉しそうに うんうん頷く。唯斗は笑って

「さんきゅー」

靴箱に自分の靴を入れた。



「内田唯斗くん…ね。…はい、オッケー。…ここがどういうとこか、知らないよね」

応接室のような管理人室に通され、男性に言われる。
机を挟んで座る唯斗は

「あ、はい。不動産屋さんとは、そういう約束だったんで」

その答えに男性は大きく頷く。そして

「私は関 和良。このアパートの大家です」


関は、唯斗に説明する。

“和良人”と書いて“わらびと”と読むこと。

ここは、元男子校の寮だったため、風呂トイレ共同、食堂もあって断らなければ食事も用意してくれること。

“訳あり”の男性しか住んでいないこと。


「…あ、そうですよね。『訳ありで一人でどうしても家が必要なら…』って、ここ紹介されましたもん」
「そうだろうね。それからもう一つ」
「はい」
「この場所を、誰にも教えないこと」
「……え?」

少し驚く唯斗。関は真面目な顔で

「不動産屋の隠し方を見てれば分かったと思うけどね、ここは誰にも知られずひっそりとやってるし、それを望んだ者たちが住んでいる。キミもそうだろう?」
「…あ、はい…」
「ここが“訳ありの人間が住むアパート”だなんて知られたら、キミはもちろん、他の住人も“訳あり”のレッテルを貼られることになる。それじゃあキミにとっても意味がない」

頷く唯斗。関は笑って

「だから、ここは誰にも知らさないこと。そして、住人たちと仲良くしてほしい」
「…え?」

唯斗が顔を上げると

「一癖も二癖もあるが、ここは寮と同じ、共同生活無しでは話にならない。キミは比較的若いから、よろしく頼むよ」

関は、やわらかく笑った。唯斗もつられて

「…はいっ」

笑顔で返した。


「それじゃあまず、最初に紹介しとこうかな。ハル!」

関が呼ぶとぱたぱたと足音が聞こえ、さっきの少年が入ってきた。

「内藤遥。“遥か”と書いて“ハル”。13…だったな?」

関の問いに、少年―遥は笑顔で頷く。

「こいつは…だいぶ前から声が出ない。精神的ショックでな、出なくなった。まぁ生活に支障は無いから、仲良くしてやってくれ」

唯斗が見ると、遥と目が合う。
遥はにっこり笑って

“よろしくお願いします”

口で言って頭を下げた。

唯斗も笑って

「うん、よろしくな」

立ち上がった。



「今、ここに何人住んでんの?」

荷物を持って階段に向かう。
唯斗が聞くと遥は首を傾げて数えてから、開いた手のひらに3本指を重ねた。

「…8人?」

遥は大きく頷く。唯斗も頷いてから

「どう?みんな…良い人?」

人のことは言えないが、訳ありの人と仲良くしていくのは少し心配な唯斗は、変だなと思いつつも聞いた。
しかし遥は笑顔で頷いて、ポケットからメモとペンを出し

“みんな、やさしくてカッコ良い”

そう書いて見せた。その笑顔を見て

「…そっか、良かった」

唯斗も笑う。それから

(そりゃあさ、こんな可愛い子にはみんなやさしくしちゃうよね)

自分にやさしいとは限らないな、と苦笑した。


2階に上がると遥は走って、3部屋のうちの真ん中に立つ。唯斗に振り返ってその部屋を指した。

「そこが俺の部屋?」

大荷物を背負い直し聞くと、遥は大きく頷く。それからそのドアを開けて入った。

「おぉ、早ぇな」

唯斗が入って見ると、なかなか広い綺麗な畳の部屋だった。
少し浸っていると横に立っていた遥が袖を引っ張って唯斗を呼ぶ。見ると、まず畳の床を指し、それから自分を指して、掃除機をかけるようなジェスチャーをした。

「…キミが掃除してくれたの?」

遥は嬉しそうに頷く。唯斗も笑って

「ありがとね」

遥の頭を撫でた。遥は嬉しそうに笑って、またメモを取り出す。

“したく終わったら隣の部屋きて”

「隣?」

唯斗の疑問顔に、遥は右側を指して自分を指す。この部屋の右隣が、どうやら遥の部屋らしい。

“みんなにあいさつ”

そう書いて、遥は ね?と首を傾げた。

「おぉ!そうだな」

唯斗は納得する。遥も笑って、手を振って部屋から出て行った。



大体のものを整理し終わり部屋を出る。
向かって右側の部屋の前に立つと、表札に“遥”と書いてあった。

「…はーるくーん。終わったよー」

ノックをしながら呼ぶと、すぐにガチャッとドアが開く。
低い位置にある顔が、にこっと笑った。




まず向かったのは、唯斗の部屋の逆隣だった。
表札には“颯太”の文字。
遥が用意していたらしいメモを見せる。

“そうたくんは、やさしくて温厚な人”

へぇ~…と頷いて、唯斗はドアをノックする。
はーいと返事があってすぐに開いた。

「あれ、遥くん……ん?」

遥を見て、すぐに唯斗が目に入る。

20代くらいの、ちょっと間の抜けた感じだが確かに温厚そうな顔をした男性だった。

「あっ、今日隣に越してきた、内田唯斗っていいます。よろしくお願いします!」

唯斗が頭を下げると

「あぁ、新入りさん!僕は片山颯太です。こちらこそよろしくねっ」

にっこり笑った。唯斗もへへっと笑う。

「何か分からないことがあったら、遠慮なく聞いて。休日は大体いるから」

そう言うと、遥が慌てて手を振り颯太の袖を引っ張って、怒ったような顔で自分を指した。

「遥くんが案内するからいらないって」

颯太が笑って言う。唯斗も笑って

「マジで?さんきゅ」

遥の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。



次に向かったのは、遥の向かい側の部屋。

しかし

「…いない、ね」

表札に“孝也”と乱雑に書かれた部屋は、遥が何度ノックしても反応が無かった。

怪訝そうな顔をする唯斗に遥はメモを書いて見せる。

“たかやくんはいつも仕事で忙しいから、いないことが多い”

「あ、そうなんだ…じゃあ、帰ってきた時でいっかな」

唯斗が言うと、遥も頷いて階段に向かう。

孝也の部屋の隣、唯斗の真向かいの部屋は空き部屋だと遥が教えてくれた。


3階に上がると、2階と同じ造りで部屋が並んでいた。
遥は小走りで右奥の部屋の前に立つ。唯斗が追い付くとメモを見せた。

“きょーちゃんは、明るくておしゃべり”

「ははっ、そうなんだ」

思わず唯斗は笑って、“恭介”と書かれた部屋をノックした。

「はいはーい……お?どちらさん?」

すぐに唯斗と目が合う。

同い年くらいだが、身長が思いの外低く、唯斗の鼻ぐらいまでしかない。
上がり目のパッチリした、金髪の派手な人だった。

「あっ、と…今日、202号室に越してきた、内田唯斗っていいます。よろしくお願いしますっ」

ペコッと頭を下げる唯斗。遥がドアを開け放してようやく恭介が遥に気付いた。

「あ、遥ちゃんが案内してんのか。えっと…ユイトくん?」
「あっ、はい」
「俺は安西恭介。よろしくなっ」

ニカッと笑って手を差し出す。唯斗はそれを見て

「よろしくお願いします!」

握手に応えた。



次は、恭介の隣の部屋に立つ。
“敬太”と書かれた表札の前で遥がメモを見せた。

“けーたくんは、関西弁の気さくで豪快なお兄ちゃん”

頷く唯斗に遥はメモをめくって

“でも今日はお仕事で帰れないって”

「あーそうなんだ…。じゃあ、また次回だな」

唯斗が言うと遥も頷いて、今度はその真向かいの、“柊”と書かれた部屋に行った。
そしてメモをめくって見せる。

“しゅーちゃんは、やさしくてカッコいいけど、すごい照れ屋さん”

「へぇ~…」

唯斗は思わず笑う。
その説明だけ見たら、なんだかとても可愛い感じだ。

ノックをすると、足音だけ聞こえてきて

「……誰?」

ドアが開くと同時に目が合った。

自分より少し低い身長、黒髪に垂れた目にやたらと彫りの深い顔。

唯斗は少し詰まって

「…あっ…と…その…202号室に越してきた内田唯斗っていいます!よろしくお願いします!」

バッと頭を下げた。

目をぱちくりして驚く柊。手に持ったドアが勝手に動いて、そこには遥の姿。

「…あぁ、遥の隣か」

柊は軽く頷いて

「瀬戸柊。よろしくな。…高校生?」

顔を上げた唯斗に聞いた。唯斗は

「あっ、はい、高二ッス」
「高二…じゃあ、那緒とタメか」

柊が見ると遥は笑顔で頷く。唯斗が怪訝そうに

「…ナオ?」
「こっち隣の部屋。まぁ、あんま喋るヤツじゃねーけど」

な、と軽く笑う柊に、遥も笑って応えた。

濃い顔に反して、笑うと子どもっぽい。
はにかむって言葉がやけに似合う笑顔だ。

「ユイト、だっけ。…よろしくな」

改めて言う柊に唯斗も慌てて

「よろしくお願いしまっす!」

また頭を下げた。

今度は、はっきり笑われた。


そのまま隣の部屋に移動する二人。表札には“那緒”と書かれていた。

“なおは、クールだけどやさしい人”

メモを見せ遥はにっこり笑う。唯斗は頷いて、そのドアをノックした。

柊と同じように、返事は無くドアは開く。
出て来たのは

「……」

珍しく唯斗より背の高い、男前で眠そうな、でも今は怪訝そうな顔をした人だった。

「…あっ、あの…、202に越してきました、内田唯斗っていいます。よろしくお願いします!」

唯斗は頭を下げる。

何も言わないでそれを見る那緒に、遥がドアを開けて、今書いたメモを見せた。

“ゆいは、なおと同い年だよ”

「…へぇ…」

那緒は唯斗を見る。そして

「…どこの高校?」

興味が無いわけではないらしく、トーンは低いものの唯斗に聞いた。

「っと…一応明日から、西栄高校に」
「…やっぱそっか」

軽く溜め息をつく那緒。唯斗が首を傾げると

「俺と同じとこだよ」

大して喜ばずに言った。唯斗は驚いて

「えっ?!じゃあ明日一緒に…」
「やだ」

としかし那緒は一蹴する。

「ぇえ~?!」

不満そうに口を尖らせる唯斗に那緒は

「明日からってことは、朝早いんでしょ。それに…俺と登校すんの見られて、周りに何て言うつもり?」

冷静に尋ねる。唯斗は一瞬何のことかと頭をひねるが

「…あー…そっか…」

この住居のことは他言無用なんだと思い出す。
なぜ那緒と仲が良いのか聞かれても、この家を言わない限り上手い答えは出せそうにない。

唯斗がうんうん頷いてると

「だから、学校でしばらくは話し掛けてこないで。俺嘘つけないし」

那緒は冷静に言った。唯斗は口を尖らせ

「…わかった」

不満気に応える。那緒は息をついて

「…大河那緒。…よろしく」

軽く会釈をするなり、ドアを閉めた。


「クールだねぇ…」

呟く唯斗に、遥は声も無く笑う。

次に向かった先は、柊の部屋の逆隣、恭介の向かい側の部屋だった。

“最後は、もしかしたら知ってる人かも”

「知ってる人…?」

唯斗が首を傾げると遥はメモを見せる。

“みなとは、歌が上手でカッコいい人”

そして、“湊”と書かれた部屋の前に着いた。

「みなと…。……え?!湊って…」

気付いたように驚く唯斗に微笑む遥。

ノックをするが、返事は来ないし出ても来ない。
遥は首を傾げてノブをひねると、そのまま回った。
一度唯斗の顔を見て、遥はドアを開けて入る。

「えっ…ちょ、いいの?!」

小声で焦るも遥は唯斗を手招きした。
仕方なくついていく。

手前でスリッパを脱いで中に入ると、コンポやらCDやらギターやらピアノやらが綺麗にインテリアされてる真ん中に、部屋の主は小さく寝転んでいた。

顔の前に座る遥の元へ行くと、彼の顔がよく見える。

湊は静かに眠っていた。

今まで会った住人の中で、恐らく一番綺麗な顔立ちをしている。
少し長めの黒髪はサラサラで、寝顔は死んだように動かない。

そしてやはりその顔には見覚えがあった。

「…本物の“ミナト”だ…」

思わず呟く唯斗。

その時

「…んー…」

湊が動いた。

ビクッとしてわたわたする唯斗。
遥はそれに笑ってから湊の顔を覗き込む。

「……はる…?」

目を細く開き、掠れた声で言う湊。遥は頷いて後ろの唯斗を指した。

「…誰…?」

ゆっくり起き上がり、髪をぐしゃぐしゃ掻きながら立ったままの唯斗を見る。
唯斗は慌てて

「あっと…、今日、202に越してきました、内田唯斗っていいます。…あの…、すいません、勝手に入っちゃって」

座って頭を下げる。
湊はそれを見て

「いや、それは別に…。…そっか…新入りか…」

それから、んーっ!と伸びをして

「俺は古谷湊。よろしくな」

まだ少し寝ぼけ眼で微笑んだ。
唯斗は慌てて

「あっ…よろしくお願いします!」

深々と頭を下げる。湊は笑って

「“湊”で良いから。遠慮しないでな」

その言葉に

「あっ、はい!ありがとうございますっ」

唯斗は嬉しそうに応えた。



今度は一階に降りて案内をされる。

まず入ったのは食堂だった。
なかなか広くリビングのように綺麗で、6人テーブルが2つ、細長く繋がっている。
他にもソファや大型テレビ、新聞のラックなども置いてあり、どうやらここに住人たちが集まるようだった。

そして奥まったところにあるキッチンを覗くと

「……あれ?颯太くん」

颯太が何やら料理していた。

「あぁ、唯斗くん」
「何してんですか?」

唯斗が隣に立って覗くと

「うわっ、うまそー!」

まだ赤い牛肉を一口大に切っているところだった。

颯太は笑って

「この状態で『うまそう』って言う人も、あんまりいないと思うけど」
「いやっでも絶対うまいっしょ!間違いないっすよこれは」

うぉー…と目を輝かせて肉を見る唯斗。
颯太と遥はお互い見合わせて笑った。

「あっ、てか、何で颯太くんが?」

思い出したように唯斗が聞くと

「昔から料理が好きでね、ここでは料理担当みたいになってるんだ」
「へぇ…じゃあ、毎日颯太くんが?」
「ほぼね。たまに孝也くんとか那緒とかがやってくれるけど」
「えっ、那緒料理出来んスか!」

意外~…と呟く唯斗。そこへ遥が唯斗の袖を引っ張り、食堂の外を指した。
颯太が笑って

「まだ案内が終わってないみたいだね」
「あっ、そっか!お邪魔しました!」

唯斗は引っ張られるまま遥についていく。


「……デカっ!!!」

入ったところは、かなりの大きさの風呂だった。

「ってゆーか銭湯じゃん…」

脱衣所からして大きいことは分かっていたが、住人全員が並んでも支障無いような浴槽の大きさにかなり驚く。

風呂場の入口横には棚があり、シャンプーやら石鹸やらがいくつも並んでいて、その下の引き出しにはタオルが整然と並んで入っていた。

角には、かなり大きめの洗濯機。

「なるほどね~…。ホントに共同生活なんだ」

唯斗が呟くと、遥は笑って頷いた。


その後、庭とトイレを案内され、7時に食堂で夕食が用意されると知らされる。
唯斗は了承して部屋に戻った。



「…?」

ワンルームを2つ繋げたような造りの部屋で本格的に自分の部屋を作り明日の仕度などをしていると、不意に、開け放した窓から音が聞こえてきた。

(…ピアノ…ってことは…)

湊の顔が浮かぶ。

(…あれ?この曲って…)

前奏だけでは分からなかった。
その曲は、有名な合唱曲の一つだった。

(こんな曲も弾くんだ)

「…ははっ」

思わず顔がほころぶ。

なんだか、あったかくなった。




気付くと、真っ暗だった。

「…………ぅおっ?!」

跳び起きる唯斗。いつの間にか寝ていたようだ。
置いといた腕時計を見ると、7時10分。

「やっべ!」

慌てて部屋を出て階段を駆け降りる。
すると目の前に

「おぉ、来たか」

柊が出て来た。どうやら1階のトイレから出たところらしい。

「あっ、すいません遅れて!いつの間にか寝ちゃってて…」
「邪魔なんだけど」

階段を降りたままの場所で柊に謝っていると、後ろから冷静な声がした。

「あ、わりっ」

振り向いてそこをどくと、何事もないように那緒が通り過ぎる。

「冷たいなー…」

唯斗が口を尖らせると、柊は笑って

「俺からしたら、あんたの明るさの方が分かんねーけどな」
「そっすか?」

首を傾げる唯斗。それに笑って

「まぁ良いや。メシ食おうぜ」

食堂に向かった。


「ぅおー!すっげぇ!!」

食堂に入ると、ホットプレートが2枚に、野菜や肉が生のまま皿に並べてある。
ご飯も箸もコップもお茶も、すべて用意済み。

焼肉スタイルだ。

「今日は唯斗くんの歓迎会ってことでね、みんなも大好きな焼肉にしました」

颯太が笑顔で厨房から材料を運んで来る。

「やったー!」
「ユイ!お前こっち!」

喜ぶ唯斗を恭介が呼ぶ。
遥が奥の誕生日席に、恭介は向かって右側の列の一番奥に座っていた。
その隣に座る唯斗。
対面には、右から那緒、柊、湊、颯太が座ろうとしていた。
唯斗の左2つと入口側の誕生日席は空いている。

「これって、座る場所決まってんの?」

唯斗が恭介に聞くと

「や、颯太くんぐらいかな。颯太くんはいつも一番厨房に近いとこ。それ以外は結構テキトーだよね」

その言葉に、遥も柊もうんうん頷く。

「じゃあ、みんな食べよっか」

颯太の合図で

『いっただっきまーす!』

各々肉や野菜を焼き始めた。

その時

「ぉわっ!めっちゃえぇ匂いする!」

玄関から声が聞こえた。

「あれ?」

みんなが入口を見ると

「なんやなんや!俺おらんのに焼肉か!」

短い黒髪に垂れた目、身体つきも少しがっしりした、気さくそうな男の人だった。

「あれ?敬太くん、今日帰れないって言ってなかったっけ」
「いやそれがな、びっくりするぐらい早く終わってん」

上着を脱いでソファに置き、手を洗いに厨房へ行く。
颯太はそれを見て

「ご飯自分でよそってね」

声をかけると、敬太の大きい声が返ってきた。

「あれが敬太くん。宅配の仕事してて、一応こん中じゃ一番上」

野菜を食べながら、恭介が唯斗に耳打ちする。
へぇ…と厨房の方を見ると

「おっ?何や、知らん顔がおるで」

茶碗に大盛のご飯をよそい、それを片手に敬太がやってきて目が合った。
そのまま唯斗の隣に座る。

「あっ…と…内田唯斗、です。今日から…ここに」
「お、新入りかぁ!俺は三上敬太。よろしくなー」

明るく言って、唯斗が応えるより先に、焼いていた肉を取った。


「あそれ俺の!」
「えぇやんけ別にぃ。名前書いてあるわけちゃうし」
「書けないでしょそんなん!」

恭介が吠え、周りは笑う。唯斗もようやく肉を頬張った、その時

「ただいまー…」

思いっ切り疲れたような声がした。

「あ、おかえりなさーい」
「おかえりー」

食堂に入ってきたのは、黒髪で色白、細目で黒いスーツを着こなした男の人だった。

「焼肉かぁ…」
「孝也くん食べます?」

ジャケットを脱ぎネクタイを外し、鞄と共にソファに置いて

「食う食う。今金無いから何も食って来なくてさ」

颯太の質問に答えた。厨房へ行き、敬太と同じことをする。

「あれが孝也くん。たぶん、編集者かな?なんかそんな感じの仕事」

また恭介が耳打ちし、今度は敬太が焼いていた野菜を取った。

「おまっ!」
「俺の肉取った仕返しですー」
「だからってお前…今取ろうとしてたもん取ることないやろ!」
「じゃ焼肉で肉取るのはどうなんすか!」
「ほらもー…お肉も野菜もまだあるから」

颯太がなだめた時、孝也が厨房から帰ってくる。

「…おろ、イケメンがいる」

唯斗に気付いた孝也が敬太の隣に座りながら呟くと、正面の颯太が笑って

「新しく入った内田唯斗くんです。那緒と同い年だって」

説明すると、孝也は へぇ…と頷いて

「ユイト」

後ろに反って、敬太の隣に座るイケメンを呼んだ。唯斗は少し驚いて、それから同じ態勢になる。

「俺、横井孝也。よろしくな」

孝也が笑って言うと、唯斗も

「はいっ。よろしくお願いします!」

笑顔で応えた。

「ね、みんな揃ったしさ、乾杯しよーよ」

恭介の言葉に

「おぉ、えぇやん」
「そうだな」

各々グラスを持つ。

「じゃあ、代表して俺が」

恭介が立ち上がり

「新しい仲間、唯斗の加入を祝して!」
『かんぱ~い!』

みんな、グラスを掲げた。

「あっちょっ…それ俺の!」




新しい家は、

予想に反して、笑顔に溢れていた。


こうして、唯斗の新しい生活が始まった。

新しい場所

「……」

眩しくて、うっすら目を開ける。

まだカーテンが無いため、朝日が直で部屋を照らしていた。
そのおかげで目覚めも良い。

部屋にあった布団から起き上がり

「ん~っ!」

思いっ切り伸びをした。

ケータイを見ると、5時15分。
まだ時間までかなりあるが、唯斗は起きることにした。

(転入初日に遅刻はまずいしなー)

布団をたたみ、押し入れにしまう。
廊下に出て洗面所で顔を洗い、部屋に戻って制服に着替えた。


1階に降りていくと、良い匂いがした。
と同時に、食堂の方から音がする。

ひょこっと覗くと

「…遥?」

食卓で、ワイシャツ姿の遥が何かをしていた。
遥は一度驚いて、それから笑顔で

“おはよう”

口だけで言う。

「おぉ、おはよ。何してんの?」

唯斗が寄ってって見ると、そこには弁当が5つ並んでいた。
遥はそれらにおかずを詰めているところらしい。
その中の一番端にある弁当を指し、そのまま唯斗を指した。

「…え?…これ俺の?」

びっくりした顔で聞くと、遥は笑顔で頷く。
そこへ

「早いね~。おはよう」

厨房から、フライパンを持って颯太が出て来た。

「あ、おはようございます。…あのこれ、もらって良いんスか?」

唯斗が弁当を指して聞くと、颯太はフライパンを鍋敷きの上に置きながら

「うん。毎日みんなの作ってるから、一応要るかなと思って。…もしかしてパンとか買う派だった?」

不安そうに聞く颯太に、唯斗はぶんぶん首を横に振って

「いやっ!もー、チョー嬉しいっす!マジで昼飯どうしようかなって思ってたんで。やー…助かります!ホンっトありがとうございます!」

思いっ切り頭を下げた。颯太は笑って

「そんな…たいしたもん作ってないから、ホント気にしなくていいよ」

持ちつ持たれつ、ね、と向こうへ行った。

唯斗は少しそれを呆然と見てから

「…弁当…久しぶりだな」

遥がせっせと詰める弁当を見て呟いた。

微笑んでいた。



「んじゃ、行ってきまーす!」

朝食を一緒に食べられたのは、颯太、遥、柊だけだった。

まだ自転車も無い唯斗はかなり早めに家を出る。
一時間に多くて3本しか出ないバスに20分乗り駅まで行き、さらに鈍行しか無い電車で30分かけ大きい駅に行き、それからさらに電車に乗ってようやく学校最寄りの駅に着く。

かといってそこも、そんなに都会なわけではない。
和良人荘が相当田舎にあるだけだ。

西栄高校。
ようやく辿り着いた。

まだまだ始業時間に余裕があるので、登校している生徒はちらほらとしかいない。
校舎はよくあるような見た目で、唯斗が以前通っていた学校と大差無かった。

職員玄関へ向かって歩く途中、同じ制服を着た生徒にちらちらと見られるが、見慣れない顔に不審に思っているだけだろうと、唯斗はあまり気にしない。

実際のところ、長身に精悍な顔立ち、自然に染めてある茶色い髪、黙っていれば王子な唯斗が目立つため見ているのだが。



職員玄関で上履きを履いて職員室に行き、2年D組担任、宮下から学校生活に関する色々な説明を受ける。

「で、これがお前の教科書な」

本が積み上げられた状態で入っている袋を叩く。
確実に重そうだ。

「げぇ…こいつ相当体重ありますよ」
「しょーがねーだろ。一年の時から使うもんも入ってんだから」

宮下に言われ、唯斗は渋々教科書の山を引き寄せる。
ビニールの袋は二重にしてあるが、長時間持てば破れそうだ。

「ま、あと分かんねーことがあったら友達作って聞いてくれ。ちなみに俺は国語担当だから」
「あ、そうなんスか…つかいきなりいい加減ッスね!」

今までたいして細かくもなかったが、突然丸投げした宮下に驚いて突っ込む。すると

「ちょっともう、めんどくさくなった」
「何スかそれ!めっちゃテキトーじゃないッスか!」

ソファに寄り掛かる宮下に突っ込むと、相手はいきなり笑い出す。

「…何スか?」
「いや、お前、見た目とイメージ違うな」

膝に肘をついてくつくつ笑う。

「…え、そうスか?」
「いやさぁ、見た目は何か、スカしたイケメンヤローって感じなんだけど、喋ったら意外とお前、バカっぽいじゃん」

何か良いよな、と言いながら笑う宮下。
唯斗は不満そうに

「良いんスか?」

口を尖らせるが、宮下はソファに踏ん反り返って

「前の学校でさ、お前かなりモテただろ」

失礼にも指を差す。唯斗は首を傾げて

「どー…っすかね…そうでもないと思いますけど」
「じゃあ、高校入って何人に告られた?」

前のめりに聞いてくる担任を見て、この人ホントに先生かな…と思いつつ

「…5人…スかね」

素直に答えた。すると

「ほら見ろ。一生かかったってそんな人数ならない奴だっていんだからな。普通一年でそんないかねーよ」

少しイラついたように言った。それから

「なぁ中田。こいつ絶対モテるよなぁ?」

近くにいた違う教師に話しかけた。

「…あぁ~ぽいですねぇ。うちの“王子”と良い勝負なんじゃないですか?」
「あぁ、3Dのな!確かにあいつも人気あるよなー」

うんうん頷く宮下。中田と呼ばれた教師は

「あ、俺は日本史と3D担当の中田ね」

よろしく、と唯斗に言った。若いが顔がデカく、気さくな感じで決して頭が良さそうに見えない。
唯斗はそれに応えてから

「あの、“王子”って?」

中田に聞くと、宮下が

「まぁすぐ分かるよ。3年で一際騒がれてる奴がいるから」

頭の後ろで手を組んで言った。


宮下に紹介されて、座った席は窓側の一番後ろ。
席につくなり、前の席の男子が振り向いて

「よ。俺、桐谷朝兎。よろしくな」

ニッと笑った。
黒髪で目が細く、何か動物っぽい印象を受ける。

「アサト…?」
「おぅ。朝昼の“朝”にウサギの“兎”。ちなみにほとんどの奴らが“ウサギ”って呼んでるから、別にそれでもいーよ」

少し肩をすくめて言う桐谷に、唯斗は笑って

「ウサギね。似てるかも」

言うと

「よく言われる」

桐谷も笑った。



そして、昼休み。

「お疲れっ!どーよ、授業平気そう?」

桐谷が身体ごと振り向いて聞いてくる。
そのまま唯斗の机に自分の弁当を載せた。

「まぁ、意外とね。二年になってからそんな経ってないし、ついてけそう」

唯斗は答えながら、自分も颯太の作った弁当を出す。桐谷は弁当を開けながら頷いて

「あっそういやさぁ、部活何やってた?」

思い出したように聞いた。
唯斗は いただきまーすと卵焼きを口に運んでから

「いちおー陸上。短距離やってた」
「あ~陸上かぁ…陸上な。まぁ言われてみればぽいよな」
「でも俺、部活入らない予定だから」
「…えっ?!」

悔しそうな顔をしていた桐谷が、一瞬で目を見開く。
面白い奴だな、と笑いながら

「バイト、しようと思って」

素直に打ち明けた。

「…あそっち?え、でも前は陸上やってたんでしょ?」
「まぁ、…家庭の事情?お金必要でさ」

もぐもぐ食べながら、特に気にしてないように話す唯斗。
桐谷は残念そうな顔をして

「そっかー…ユイ結構タッパあるから、うちに是非欲しかったんだけど」

唐揚げを口に放り込む。唯斗は

「え、何部なの?」

聞くと

「サッカーっ!」

やたらと嬉しそうな顔をした。

「あー、なんかぽいな!」
「マジでっ?」
「うん。サッカーやってるって感じ」

そんな他愛のない会話をしていると、突然少し遠くで固まって昼飯を食べていた女子たちが、微かに色めき立った。

「…?」
「あー、王子の登場かな」

不思議そうな顔をした唯斗に桐谷は若干呆れたように言う。
唯斗は少し驚いて

「“王子”って、3年の?」

中田、宮下が言っていたのを思い出す。
ホントに有名なんだな…と思っていると

「あぁ、まぁそれもあるけど…たぶん今は2年の王子」

見てみ、と入口を指す。唯斗が教室の後ろのドアに顔を向けると

「…!」

一瞬だったが、制服姿の那緒が通った。

「A組の大河那緒。毎年文化祭で、各学年の“王子”と“姫”を決めてんだけどさ、去年のうちの学年の王子があいつで」

野菜を押し込むように食べながら言う。
唯斗は へぇー…と頷きつつ、驚きをごまかした。

まさか、那緒が有名人だなんて。

まぁ確かに言われてみれば、唯斗より高い身長に整った顔、クールな性格も王子っぽい。

「断トツだったんだよ。うるさいの嫌いらしいからあんまおおっぴらじゃないんだけど、ファンとか多いし。男子票も多かったって」
「へぇ…」
「ま、何かオーラが違うんだよな、まず。抜きん出て“王子”でさ」

ご飯をガーッと掻っ込んで、弁当をしまい始める桐谷。
唯斗も、ふ~ん…と頷いて最後の追い込みをしながら

「…文化祭っていつ?」

聞いた。桐谷は笑って

「9月半ば。マジでめっちゃ楽しいよ。どのクラスもクオリティ高いし、あと体育祭もその一週間くらい前にやるんだけど、めちゃくちゃ盛り上がんの。もうそろそろ話し合い始まるからさ、楽しみにしていいと思うよ」

本当に楽しそうに言った。



「なーなーなーなーっ!頼むからさ、見学だけでもっ!」

6限目の体育が陸上で、他の男子生徒より少し速い唯斗を見た教師が、唯斗に何部だったか尋ね、それによりクラスの男子全員に元陸上部だったことがバレ、さらにクラス唯一の陸上部員に勧誘されることになってしまった唯斗は、放課後になっても解放されないでいた。

桐谷は気付けば部活に向かってもういない。
教室を出て階段を下り、玄関に向かいながらクラスメートの陸上部員を説得する。

「だからな、俺バイトしなきゃいけないんだって」
「それは聞いたけど!」
「しかも短距離だし、俺」
「だから何!」
「短距離って結構いるだろ?」
「いるけど!より速いのがいた方が良いに決まってんじゃん!」
「俺別にそんなに……」

その時、右側から キャーッ!と黄色い声援と拍手が聞こえた。
反射的にそちらを見る二人。

そこは校舎と校舎の間、タイル詰めの小さな広場になっていて、可動式のバスケットゴールがちょうどコートの位置で向かい合っている。
そこが、十数人の女子の観客で囲まれていた。
上を見れば、教室の窓から覗いてる女子もいる。
女子の向こう側では、どうやら男子が遊びでバスケをしているようだ。

「なにごと…?」
「あぁ、3年の王子だよ」

そいつは即座に答える。

「2年の王子は昼見たっしょ?」
「…あぁ、うん」
「あいつはクール系だけど、こっちは…何かキラキラしたアイドル系?ま、どっちも断トツで“王子”なんだけどさ」

その言葉に、唯斗は頷きながら女子の壁を見た。

確かに那緒の時のひそやかな声援と違い、こちらはやたらオープンに騒いでいる。

あの那緒と張れるくらいの“王子”…

どんな人なのか、唯斗は見たくなった。
何の気なく女子の壁に近付いて、女子の間からコートを見る。
陸上部のクラスメートもついてきた。
そして、10人ほどでバスケをする3年男子の中に

「……えっ…?!」

恭介らしき人を見付けた。

「ん?どした?」

思わず声に出た唯斗に、クラスのそいつも前に立っている女子数人も振り向く。

「…あっ、いや…何でもないッス」

へらっと笑って小さく手を振ると、全員が顔を赤くして前に戻った。
唯斗は特に気にせず、目の前のバスケに目を戻す。

金髪にぱっちりした吊り目、その中でも特に低い身長なのに、それをカバーするかのような運動神経。
ディフェンスをかいくぐってレイアップを決めた時には、思わず拍手をしていた。
周りの女子の声援に弾けるような笑顔で応える彼。
恐らくあれが…

「…あれが王子?」
「ん?あぁ、そう。目立つっしょ?」

あれが3年の“王子”で、そしてたぶん、間違いなく

(…恭介くんじゃん…!)

同じ家に住む、恭介そのものだった。


(恭介くんもこの学校なんだ…ってゆーか年上?!)

同年代だとは思っていたが、まさか年上だとは思わなかった。

(確かに“王子”だけど…)

キラキラした恭介を見て息をつく唯斗。
その時、パスをした恭介が、ふっとこちらを見て目が合った。

「…!」

恭介は一瞬驚いて目を見開き、それから、周りに分からないように微笑む。

(すげぇ…確かにカッコ良い)

半ば感心する唯斗。その時

「あれ、森屋じゃん!」

バスケをしていた3年の一人が、唯斗の隣に立つ陸上部員、森屋に気付いた。そいつはそのまま寄ってきて交代し、女子たちの注目も自然と集まる。

「ちゃーっす!」
「お前部活は?須賀もうとっくに行ったけど」
「いや、俺ちょっとこいつ勧誘してて」
「…誰?」
「こいつ転校生なんすけど、短距離やってたらしいんすよ」

へー…と頷き、それから

「ちょーイケメンじゃんか。てか正直、こっちに目行って最初お前気付かなかった」
「はぁ?!ちょっと!可愛い後輩でしょ!」
「元、な」

周りの笑いをとる二人。どうやらこの先輩は元陸上部らしい。

「そっかそっか、キミが噂の転校生…」
「ウワサ?」

怪訝そうな顔をする唯斗に

「担任が言ってたんだよね。『うちの王子と張れるヤツが転校してきた』ってさ」

中田先生、話したんでしょ?と言われ、顔の大きな先生を思い出す。

「あぁー…」
「そっか、短距離の人だったんだ」
「あ、でも俺、バイトする予定なんで」
「そうなんすよ!それで!頑張って勧誘してるんすけど!」

熱を入れて話す森屋。そこに

「ねーっ!どうせならさ、その転校生くんも一緒にやろーよ!」

バスケットコートから声がした。
見れば、恭介がボールを持って大きく手招きをしている。

「え…俺?」
「あー、良いかもな。お前タッパあるし」
「え、いやでも…」

渋る唯斗に、恭介自ら寄って来て

「だいじょーぶ。みんなバイト組だし、2年生もいるよ」

唯斗の手首をとってコートへ引っ張った。
瞬間、周りから淡く黄色い悲鳴。

「…ここで仲良くなっとけば、これから先困らないっしょ?」

恭介は小さく言って笑った。

「……そッスね」

唯斗も思わず笑う。
何故かまた、悲鳴が起こった。




「…バイト?」
「はい。何か、良いの無いスかね」

夕方、“同じ方向だから”と一緒に帰る恭介と唯斗。
電車の中で唯斗が聞くと

「まぁうちの人たちはみんな働いてるからねー、誰かんとこでやるのはアリだと思うけど…とりあえず、学校じゃない時は敬語やめよっか」

恭介は笑って言った。

「……え?…あ、いや、でも…」

一瞬話が繋がらなくて驚く唯斗は困った顔をして

「やっぱ、先輩ってゆーか…年上だし」
「その心持ちはすごい大事だし、偉いと思うけどさ、“家族”に敬語はあんま使わないっしょ?」

そう言うと、ニカッと笑った。


…よく笑う人だな


単純に、そう思った。

そして

「…だな」

つられて笑った。



“家族”なんて言葉、

久し振りだった。



「……え?ちょっ…恭介くん?」

登校の時は乗り換えに使った、大きな駅。

だが、恭介は気にせず改札を通って出てしまった。
慌てて唯斗も追い掛ける。

駅の外の大きな広間に出たところで、ようやく恭介は歩きながら振り向き

「な、今いくら持ってる?」

カツアゲ少年みたいなことを聞いた。

「え?…っとー…3万ちょい、かな」
「おぉ!結構持ってんね」
「や、今日は色々、家のもの揃えようと思って」

と、唯斗は言ってから

「……あ、そっか」

恭介を見て納得した。

「なっ?ここじゃないと揃わないし、ここなら大体のもん揃うからさ」

ファンの女の子たちに振り撒いた笑顔とはまた違う笑顔で言う。

「…さんきゅ」

唯斗は、何も言わず付き合ってくれる恭介に礼を言った。


そこは本当に大きい駅で、唯斗は恭介にアドバイスを受けながら買い物をする。

入浴関係、洗顔関係、タオル類、机、棚、イス、卓上電気、カレンダー、自転車…

「…自転車っ?!」

両手いっぱいに荷物を抱えて驚く唯斗。
恭介は笑って

「そー。買っといた方が良いっしょ、通学用にも」
「え、でも…こっから帰れんの?」
「帰れるよ。俺もここにチャリあるし」
「へっ?!」
「ってゆーか、こっからだとチャリのが早いよ。那緒も柊もここにチャリ置いて学校通ってるし」

無料駐輪場があんの、と恭介は嬉しそうに笑う。


はぇー…そうだったのか…

どうりで二人が遅く起きるわけだよ

あのバスとあの電車に乗って間に合うには相当早起きしないとだもんな


唯斗が一人納得していると、恭介は ちなみに、と言って

「もう今から電車乗ったところで、バス無いしね」

おどけた風に言った。

「…はぁっ?!もう?!」
「うん。終バス間に合わない」

ひひっと笑う。
是が非でも、自転車を買わなければならないようだ。

「…しゃーないなぁ。ま、どうせバイトするしな」

息をついて、唯斗は腹をくくった。

すると恭介は

「じゃぁチャリ買って、駐輪場に停めて、荷物ロッカーに預けたら、…行こっか」

鞄を背負い言った。唯斗はきょとんとして

「…どこに?」

聞くと、恭介はまた笑って

「おすすめのバイト」

ピースサインを出した。


「こーんちはーっ!」

駅から少し離れた路地の一角、地下にある古着屋に入るなり、手をピーンと挙げて挨拶をする恭介。

すると、奥から黒ぶちメガネをかけた若い男性がひょこっと顔を出して

「おぉ?お前今日非番だろ?」

やけに高い声で言った。

「冷たいなー。今日はお客さんですー」
「制服で来んなっつったろが。一応ここは学生バイト禁止なんだよ」
「俺を雇ったのは店長でしょ」
「古谷がどうしてもっつーからな」

あっという間に弾む会話に、恭介の後ろにいる唯斗はついてけない。
それにやっと恭介が気付いて

「あ、ごめんごめん。ここね、俺と湊がバイトしててさ」

申し訳なさそうに謝ってからメガネの男性を指し

「この人が、一応ここの店長の藤岡さん」
「どぉもー」

藤岡はやけに明るく手を振った。

「あ、ども…」
「って言ってもまぁ、ここじゃユイはバイト出来ないから、お店の紹介と、あと俺らが働いてるよーって報告だけなんだけど」
「…あ、そうなんだ」
「ん。じゃー本命行こっか」

そう言うと、すぐに出口に向かっていく。

「ぉおい!どーせなら何か買ってけよ!」

藤岡の高い声が響くが

「今日はそーゆー日じゃ無いんだよねー」

恭介はひらひらと手を振って出て行った。慌てて唯斗も会釈をし、その背中を追いかける。

「…何しに来たんだよ」

藤岡は軽く溜め息をついた。



駅中にある大きな本屋の隣の、チェーン店なのに客のまばらなCDショップ。
恭介はそこに入っていくと

「時間的にまだいるはずなんだけど…あっいた」

奥の方にいる店員の後ろ姿を見付け、背中めがけて

「どーんっ!」

タックルをした。

「ぅおっ!」
「えっちょっ…!」

店員さんに何やってんだ、と焦るが、それもつかの間

「あっ…ぶねぇなー…中身もケースも壊れモンなんだぞ」
「へへっ、ごめんごめん」

振り向いたのは、柊だった。

「…えっ?!」
「おぉ。…どした?二人揃って」
「ユイがバイト探してるってゆーから、ここはどーかなーって」

説明する恭介に柊は あぁ~と納得して

「まぁ音楽に興味あるんだったら、だいぶ良いとこだと思うけど」

唯斗に向いて言った。

「あ、音楽は結構…聴くのは好きッスね。 CDとかも売らなかったし」
「じゃー良いじゃん!ね、柊ちゃん」
「まぁ…人手も足りないとこだったし」
「ユイは?どっ?」

満面の笑顔で聞いてくる恭介。
唯斗は店をぐるっと見回して

「…柊ちゃんいるんなら、安心かも」

柊を見て笑った。

初めてのバイトで、知ってる人…しかも同じ家に住む人がいることはかなり心強い。
すると柊は、驚いたように目を見開いて

「…いきなり呼ぶなバーカ。…店長呼んでくる」

軽く顔を赤らめて、口の端を上げながらも悪態をついてカウンターの方へ行った。

「照れちゃってー」
「…すげぇ分かりやすい」

唯斗と恭介はお互い顔を見合わせ、笑ってから柊を追った。


「いやぁ~…バイトは決まるし、旨い飯は食えるし、こんなデカい風呂に入れるし。…幸先良いなぁ~俺っ」

銭湯風な、エコーのかかる風呂。

浴槽に浸かりながら、唯斗は笑顔で頭に濡れタオルを載せる。
先に遠くに入っていた恭介は

「ほーんと、ユイって異端児だよねー」

こちらにスーッと泳いで来る。

「へ?何で?」
「何でってさぁー…」

恭介の頭が唯斗の肩にぶつかり

「ま、むしろ助かるんだけど」
「ぇえー?」

口を尖らせる唯斗。恭介は笑って

「無理だけはしないでよ。ここにいるヤツはみんな、…色々抱えてんだからさ」

唯斗の頭をぽん、と叩く。その言葉に

「…うん」

微笑った。




横開きのドアを、ガラガラと開ける。


どうやら風呂には先客がいて、風呂場からは楽しそうな声がした。
脱衣所にある服からして、中にいるのは恭介と新入り。


着替えの服を持ったまま、那緒は脱衣所をあとにした。



新入りを、まだ信用しきれていなかった。




それから、4日。

新生活にも、少しずつ慣れてきた。


恭介と登校するだけで騒がれたりとか、
廊下を歩いてるだけで見られたりとか、
授業の間の休み時間に、他クラスや他学年の人まで見に来たりだとか。

転入生ってのはこんなに注目されるもんなのかぁ、とか思いながら、それでもこの生活は楽しいものだった。



そんな日の、昼休み。

桐谷がミーティングでいないので、森屋に捕まって愚痴を言われる前に急いで弁当を食い、逃げるように教室を出る。

まだ見てないところを歩いてみようと、2年の教室のある棟から、一番端の棟の1階まで下りた。

そこはあまり誰も通らないらしく、廊下を見渡しても人一人いない。

見てみると、ここは準備室やら倉庫やらが並んでいるだけで、常駐の先生は唯一カウンセラーの先生だけだった。

その人でさえ、カウンセリング室に篭りっぱなしだから

「静かだなー…」

自分の歩く音が聞こえるだけだった。

ふと、気付く。
左側には窓が並んでいて、外は緑の広がる裏なのだが、一つだけ窓が開いていた。
カウンセラーの先生が開けるにしては、少しその部屋から離れている。

何気なく寄って、その窓から外を見ると

「………あ」

草が刈り取られ、芝生のようになっているところに、教科書を顔にかけて寝ている男子生徒がいた。

(…ってゆーかこの人…)

唯斗は、廊下の右を見て、左を見て、誰もいないのを確認してから窓を乗り越える。

草の上にスタッと降りると、寝ているそいつは物音に気付いて反応した。

教科書を少し動かして、けだるそうに唯斗を見る顔は

「お、やっぱ那緒だ」

予想通りだった。

「………」

眉間に皺を寄せてあからさまに嫌そうな顔をする那緒。

「んな顔すんなよー。誰もいないし、ここで会ったことにすればさ、これからも話せるじゃんか」

唯斗が隣に座って言うと

「……お前目立ちすぎ」

那緒は起き上がってぼそっと言った。

「え?」
「…なんでも」

会話のキャッチボールが全く成り立たない那緒に、唯斗は少し口を尖らせるが、すぐに

「あ、そーいえばさぁ、恭介くん言ってたよ。那緒が学校で話してくんないって」

恭介と話したことを思い出し言う。

基本的に恭介は人懐っこく、誰とでも話したがりなので、学校でも那緒に話し掛けようとするのだが、那緒の方はすぐに逃げてしまうらしい。

那緒は軽く溜め息をついて

「…学校であの人と一緒にいたら、目立つっしょ」

唯斗を見て言った。

「……目立つのヤなの?」

きょとんとして聞く唯斗に

「あんまり好きじゃない」

那緒は教科書に目を戻して答える。

「…へー…。まぁ確かに恭介くん目立つもんなー」

うんうん頷く唯斗。それを見て

「……ホント変なヤツ」

溜め息をつくように那緒が言うと

「…俺さ、恭介くんにも“異端児だ”って言われたんだけど。…俺そんなに変?」

唯斗は不満そうに聞いた。

すると那緒は

「二人に言われたんならそうなんじゃないの」

呆れながら答える。



そこに

「王子ー。そろそろ予鈴鳴るぞー」

さっき唯斗が入ってきた窓から、男子生徒がひょこっと顔を出した。
二人がそちらを見ると

「…あ、転校生」

彼は唯斗に気付く。那緒は気にせず

「王子言うな」

軽く溜め息をつきながら立ち上がり、彼の元へ向かった。

「…いつの間に転校生と仲良くなったんだよ」
「仲良くなったつもりはないけど。あいつが勝手に俺んとこ来ただけ」
「…へぇ…」

慣れた様子で那緒がひょいと窓枠に飛び乗り、あっという間に廊下に入る。
唯斗も慌てて後を追って中に戻ると、右側から

「あれ、ユイー?」

桐谷が来た。

「ウサギ…」
「アツシも王子も…なにこのメンツ!」

驚く唯斗をよそに、興味津々に寄ってくる桐谷。
テンションのままに那緒と唯斗の間に入ると

「そっか、朝兎と同じクラスだっけ」

那緒の隣にいる彼が唯斗に向いて言った。

「あぁ、うん。…あんたは?」

唯斗が頷いて聞くと、彼より先に桐谷が

「こいつは仲山淳!俺とおんなじサッカー部で俺の相方で、キャプテンやってんの!あだ名は“あっくん”!よろしくね!」

テンション高く答えた。

「あっくん…」
「いや呼ばれてないから」

意外そうに驚く唯斗に、仲山は即座に否定する。
少し散らした赤みがかった茶髪は、それでも彼を桐谷より大人に見せた。

「仲山でも淳でもいーよ。俺、那緒とずっと同じクラスで、よくつるんでんの。よろしくな、内田唯斗くん」

仲山は笑って言う。唯斗は少し驚きながら

「あぁ、よろしく…あ、ウサギから?」

名前を知ってることを聞くと

「いや。あんた有名人じゃん」

可笑しそうに言った。



「…なぁ、俺って目立つかな?」

その日のバイト。
今の時間は客もまばらなので、唯斗は棚の整理をしながら柊に聞いた。

「まぁデカいからなー」

レジに立ち仕事をする柊は、話半分に答える。

「え、そーゆーこと?」
「…何が?」

柊が怪訝そうに見る。唯斗は手を動かしながら

「学校でさ、知らない人が俺の名前知ってんの。那緒にも“目立ちすぎ”って言われたし」

それを聞いて、柊は笑う。

「そりゃ、田舎学校に王子が来たら有名になるだろ」
「…王子?あっ、そういやさ、柊ちゃんも去年まで西栄の“王子”だったって聞いたんだけど、ホント?」

どうやら自分が王子並だという自覚は無いらしい。
柊は嫌そうな顔をして

「誰に聞いたんだよ。恭介?」
「いや、クラスの人に。すっげーよなー。家に王子が3人もいるんだもん」

すげー、と楽しそうに笑う唯斗。
それを見て

「もう良いから。これ、向こうの棚にやっといて」

ばつが悪いような顔をして、自分の持つCDの箱を渡した。

「はーい」

唯斗は笑って箱を受け取り、少し奥にある棚に向かう。
ふ、と箱の中に並ぶCDを見ると

「……あ」

自分も持っているものがあった。
棚の前に着くと、床に片膝をついてその上に箱を載せる。そのCDを取って眺めた。

(…やっぱそうだよな…)

ビニールで封をされているため中身は見えない。
アルバム名は“smile”。その名の通り、ジャケットには手書きで丸い笑顔が描かれている。
アーティスト名は“ミナト”。このアルバムは4枚目になる。

(…確か…このアルバムに写真載ってたよな。…家帰ったら見てみよ)

それも含め、商品を棚に並べながら

(なんとなく聞けなかったけど…柊ちゃんも知ってるんだろうな。音楽好きの間では結構有名だし)

柊がいるレジをちらと見る。
ちょうど客が来て応対をしていた。

唯斗は視線を棚に戻し、仕事を再開させながら、家で会う湊を浮かべて

(つーか…イメージより全然、良い人だしカッコ良いよなぁ…湊って)

あのはにかむような笑顔は、ライブ映像でも見ない、リラックスした表情で。

(元々ファンだったけど…なんか俺、ツイてんなぁ)

思わず顔がほころんだ。



「たっだいまー!」

唯斗が大声で言うと

「おかえりー」

食堂の方から颯太が返してくれる。
少し遅れて入った柊にも

「ただいまー…」
「おかえりなさい」

笑顔の声で返してくれた。

「わ、ちょーいい匂い。今日の晩飯は?!」

台所に入り、唯斗が鞄から空の弁当箱を出しながら颯太に聞く。

「今日は中華だよ」
「中華!っしゃー!俺めっちゃ好き!」

その場で万歳をして喜んでいる横で、柊も同じように弁当箱を流し台に置く。

「俺颯太くんの中華好き。めっちゃ旨い」
「なに言ってんのっ!颯太くんは何作っても旨いじゃん!」
「いやそーゆーこと言ってんじゃない」

バカみたいに反論する唯斗に冷静に突っ込む柊。
その様子を、作業をしながら聞いていた颯太は

「あはははっ!ホント面白いねーユイは」

笑い出した。

「え、そう?」
「うん。変わってる」

颯太のその言葉に、唯斗は口を尖らせ

「あ、またー。俺そんな変わってる?」

柊に聞くと

「んー、まぁ、変わってんじゃん?」

台所を出ながら答えた。

「ぇえ~?俺ここでしか言われない…けどここではみんなに言われる…」

唯斗は首を傾げながら柊のあとを追った。

それをやさしく見送る颯太。


唯斗が来てから、和良人荘が明るくなった気がした。

那緒

冷たい手

ぬくもりを探した


縋りついては突き放されて

涙なんか出なかった


悲しい?

いてくれるだけで良かったよ

いつか見てくれるって、思ってたから


だから

失った時さえ気付かなかった


いつか帰ってくるって

信じてたから




「…よっ」

目の前のイスに座ると同時に、軽い声。

これから使うために皿を拭いていた顔を上げると、そこにはスーツ姿の孝也がいた。

「いらっしゃいませ。何にします?」
「とりあえず軽めので。味は任せる」
「かしこまりました」

普通の客に接するのと同じ言葉ではあるが、それよりやはりテンションや扱いは軽い。

ここは、大きな駅の路地裏、小さなレストランの地下にあるバーであり、那緒のバイト場所でもあった。

「仕事終わったんすか?」

注文された酒を作りながら那緒が聞く。
孝也はジャケットを脱いでイスにかけて

「あーまぁ一応な。編集長の奢りでどっか飲み行くっつってたから、電車で行ったんだけどさ、仕事が全然終わんなくてよ。結局寿司の出前奢ってもらって、飲み会は延期。仕事だけ終わらせてこっち来た」

はあぁー…と溜め息をついてカウンターに頭を突っ伏す。
那緒は軽く笑って

「大変っすねぇ。はい、どうぞ」

薄い黄色で透明のサワーを出した。

「お、サンキュー。これなに?」
「ベースはマスカットです。最近ブドウ系に凝ってて」
「へぇー…」
「味が落ちない程度に、レモンとリンゴも若干入れたんですけど」
「…あ、うまっ。いや旨いよ。俺これ好きだな」
「おー大絶賛。店長に報告しときます」

嬉しそうに笑う那緒。

彼のこんな顔は、学校の連中は見たこと無いだろう。

孝也は笑って

「どーよ、新入りは。ユイトくん」

肘をつき顔を載せて楽しそうに聞いた。

「…どうって…」
「俺最近忙しいから全然話せてなくてさ。お前学校も学年も一緒だろ?」

酒のつまみを出し、那緒は考える。

「学校では…あの顔だし、やっぱ目立ってますよ」
「ははっ、そりゃそうだろなー」

孝也は笑って、サワーを一口飲む。
置いたグラスに残りの酒を注ぎながら、那緒はぼそっと

「…でもあいつ、自覚無いんすよね」

怪訝そうに言った。

「え、無いの?」
「はい。ちょっと変でしょ」

孝也は驚いて

「へえぇー…そりゃ確かに変わってんな」

つまみを食べる。

「うちに来る奴らはみんな、自分のこと嫌でも分かってるからな」
「でしょ。だから、アイツは変なんです。変なヤツです」

言ってから、那緒は後ろの棚から少し強めの酒を出してシェイカーに入れる。

それを見て

「へぇー。で、どうなのよ」

孝也は少し楽しそうに言った。

「…何がですか?」
「言えそうか?」

サワーを飲み干し、つまみを食べる。

那緒は黙ったままシェイカーを振った。

その場には珍しくない音が響き、那緒はよりバーテンダーらしく見える。

ゆるやかだった動きが段々早くなり、最後カカンッと振ってシェイカーを開けた。

新しいグラスに注ぐと、中からは赤いカクテル。
それを出すと同時に、さっきまでのグラスは下げた。

「サンキュー。これは?」
「当ててみてください」

いたずらっぽく笑う那緒。孝也は一口飲んで

「……何だこれ…旨いけど…あ、グレープフルーツ」

後味がしたので答えると

「半分正解。メインはアセロラで、少しだけピンクグレープフルーツを入れてみました」
「あぁアセロラな!何か懐かしいな」

孝也は笑う。

それを見て那緒は

「…言えるかどうかは、まだ、アイツ次第です」

呟くように言った。孝也が見ると

「…まだ、何も分からないんで」

頷いて、皿を拭き始める。


少し、楽しそうだった。




次の日。

日曜日の、朝。


(…ねっむ…)

毎週土曜日は、繁忙期のレストランでのバイトの後、そのままバーでのバイトが夜10時までのシフトにしている。そこから2時間近くかけて帰宅するため

(明日学校…やっぱキツいわ)

那緒は部屋を出て廊下の洗面所で顔を洗い

(…ま、いっか。時給良いしな)

顔を拭いて、軽く息をついた。


階段を下りていくと、まだ7時半だというのに食堂から声がする。
那緒が入って見ると、颯太と遥が朝食をとっていた。

「あ、おはよう。早いね」

遥も笑顔で

“おはよ”

口だけで言った。

「はよ…。颯太くん今日出勤ですか?」

聞きながら、那緒はソファの上に掛けてあるホワイトボードに向かう。

「そう、昨日突然入っちゃって。…那緒、今日の夜家いる?」
「夜?いますよ」
「じゃあ夕食頼めないかな。今日、全日になっちゃってさ」
「あぁ、良いっすよ。昨日何でした?」
「昨日は…あ、天ぷらだよね」
「じゃあ揚げ物以外が良いな…。遥何が良い?」

悩む遥。そこへ

「はよーざいまー……あっ、那緒!ちょっ…今日バイト何時まで?!」

唯斗が来た。

「…なに」
「あの、数学教えてくんない?!前の学校とやってる範囲が全然違うとこでさ、ホント分かんなくて!しかも明日小テストなんだよ!頼むっ!」

食い気味に説明し、両手を併せ頭を下げる唯斗。

「…何で俺?」
「ウサギは今日試合だし俺よりバカだし恭介くんはもう忘れちゃったから分かんないとか言うし柊ちゃんは文系だから覚えてないとか言って誰も助けてくんないんだよ!那緒しかいないんですホントに!頼む!」

さらに頭を下げ併せた手は上げる。

朝からこのテンションってすげぇな…とか那緒は一人で感心し、それから軽く溜め息をついて

「…皿洗いな」

ホワイトボードの自分の欄に“R”と書きながら言った。

「……はっ?」
「交換条件。今日俺夕飯当番だから」

最低限の言葉しか発しない那緒。それにも唯斗は

「…ぉおっけ!俺何でもやる!サンキュー那緒っ!」

理解して嬉しそうにガッツポーズをした。

それを見て

「…颯太くん、新しい皿2、3枚買ってきてください」
「ちょっ、俺割らないし!」
「……」
「何その目は!仮にも毎日CD扱う仕事してんだけど?!」
「全然カンケーないし」

言い合う二人。それを見て、颯太が笑う。

「ちょっとぉ、颯太くん笑ってないでフォローしてくださいよ」
「ははっ、ごめんごめん。お皿割らないでね」
「ほらー……ってぇえ?!俺そんなガサツに見える?!」

唯斗の驚きながらの質問に、遥が笑いながら親指と人差し指で“ちょっとね”とジェスチャーすると、那緒も思わず ぷっ、と笑った。

「あ、今笑ったな?!遥も笑いすぎっ!」

もー…とふてくされる唯斗。

広がる笑顔。

颯太は、那緒をやさしく見つめていた。


「…ちわーっす…」
「おっ、来たなナオタロウ」

恐ろしくクオリティの低いギャグに1ミリも反応せず、那緒は店長をすり抜け更衣室に向かう。

190を越えるであろう身長に整った顔立ち。スタイルも抜群に良く、少し顔が長いことを除けばかなりのイケメンと評判なのに、どうもこの人はふざけたがる性質がある。

「相変わらずクールだねぇ~…相手にしてくれないと、今日ホールにしちゃうぞっ」
「おはようございます、要一さん」

即座に踵を返して頭を下げる那緒。

その様子に

「はははっ、お前そんなホール嫌かよ」

店長は笑った。

「嫌です。学校近いし」
「別にいーじゃねぇか。宣伝して来てもらえば、近い将来お前のバイト代も上がるかもしんねぇよ~?」

つんつんっ、と那緒の肩をつつき言う店長を那緒は払いつつも

「別にいりません。学校でバイトのこと説明する方が面倒なんで」

そう答え、更衣室に向かう。

店長がその背中に

「なんでもかんでもめんどくさがってちゃあ、良い出会い無いぞー」

声を掛けると

「…出会いならありますよ」

聞こえるか聞こえないかの声で、那緒は言った。



「あ、那緒」

上がりの時間。店長の要一から声がかかる。
ちょうど一段落着いて、那緒は厨房からスタッフルームに移動しようとしていた。

「なんすか?」
「これ、土産にやるよ」

ビニール袋とビンを片手ずつに持って那緒に渡す。

「オリーブオイル…と、トマト?」
「トマトは発注ミス。オリーブオイルは…餞別だ。ありがたく受け取れ」

いやにカッコつけて言う要一に、那緒は

「…俺別に辞めないッスけど」

首を傾げた。



「ただいまー」

スライド開きのドアをガラガラと開ける。
と、すぐにぱたぱたと足音がして

「…」

ひょこっと顔を出したのは遥だった。

「ただいま」

言い直すと

“おかえり”

にっこり笑って迎えてくれた。

「みんなまだ?」

靴を脱ぎながら聞くと、遥は こくんと頷く。

「そっか…じゃあ宿題やっちゃうかな」

靴箱に靴を入れ呟くと、遥は寄ってきて那緒の袖を引っ張り、寂しそうな顔で食堂を指した。

「ん?…あぁ、居間でやるよ」

那緒はそれにやさしく微笑み、遥の頭に手を載せる。
遥は嬉しそうに笑った。



部屋に戻り、上着を脱いで勉強一式を持つ。

ふと気付いたのは、今、自分が動く以外の音が聞こえないこと。

(…みんな仕事か)

日曜日は学生は働き時で社会人は稼ぎ時。
普段は颯太や孝也がいるが、颯太は今日のように時々仕事があるし、孝也は最近忙しいらしく休日そのものが返上されている。

つまり、朝から夕方までずっと

(この広い家に遥一人…)


一人は、怖い

独りになった気がするから


誰もいない、音の無い世界は

人の無い空間は

いつになっても慣れなくて


階段を下りる。居間に入る。

机に向かう小さな背中。
誰かを待つ後ろ姿。


いつかの自分と重なって


「…遥」

振り向く。

「ココアでも作ろうか」

笑顔で言うと


笑顔が返ってきた。



「たっだいまー!」
「ただいまー」

テンションの高い声と低い声。
唯斗と柊だ。

すぐに居間で出会う。

「お、なんか珍しい組み合わせ」
「…でもなくね?」

唯斗の言うことに柊がツッコむ。遥は笑う。
遥と那緒がどうやら夕飯の仕度をしているのを見て、唯斗は

「メシこれから?手伝おっか?」
「……つーかその間に数学やっとけば?」
「ぅわっそうだった!俺余裕無いんだ!」

那緒の冷静な提案に ぅわああー…と悲痛な叫びを残し、唯斗は階段へと慌てて走る。
その背中に柊は

「手洗いうがいしろよー」
「はーい!」
「ったく…騒がしい奴だな」

思わず苦笑。それを見て那緒は

「…の割には楽しそうっすね、柊くん」

食事の用意をしながら呆れたように言う。
柊は少し目を見開いて驚くと、すぐに ニ、と笑って

「お前もな」

楽しそうに言った。




「ごっちそーさまーっ!」

唯斗の声が響く。や否や

「今日は俺が洗いもんします!」

立ち上がって元気よく敬礼した。

「元気やなぁ~」
「あれ、そうなの?」

半ば感心する敬太と、言葉に疑問顔の恭介。
聞かれた那緒は首を傾げ

「なんか今日はやりたいって」
「ちょ?!違うっしょ那緒!数学教えてくれるんでしょ!」

本当にびっくり顔をする唯斗に、事情を知る遥と柊は笑う。

「那緒の冗談はリアルだからな」
「じょーだんかよ!真顔で言うな真顔で!」

もー!と叫びながら調理場に向かう唯斗。
それを笑いながら

「確かに変わってんな」
「おもろいやっちゃわー」

孝也と敬太は興味深そうに見る。

那緒はため息をついた。
笑顔がこぼれた。



「だからこれがさ、この式になるじゃん」
「ぅん~?……ぁあ!これがこうでね!」
「そう」
「おおぉー!!なるほど!あ、だからこれもこうなってんのか!」
「うん」
「はぁーっ!なるほどね!ちょー分かった!那緒めっちゃ分かりやすい!」
「そりゃどーも」

那緒の部屋で唯斗の声が響く。
数学を教える那緒は自分の部屋の時計を見て

「もう分かったんじゃない?」
「いやっ!あとこれがまだ分からない」

なぜか自信満々に言う唯斗。
那緒はため息をつき

「…どれ」
「この“応用”ってやつ」

教科書を受け取り内容を見る。

そこでふと、思った。

「…何で…」
「ん?」

教科書越しに目が合う。
一瞬見つめ合うが、那緒はすぐに教科書に目を戻して

「…何でそんなんなの?」

かねてからの疑問をぶつけた。
やはり分からないようで、唯斗は

「…はい?」

ぽかんとした顔。

笑える。

「あんただけらしいよ、“ここ”に来てそんな明るいの」

その言葉はさすがの唯斗も理解したらしい。
あぁー…と仰ぐと

「あ、もしかしてそれで?みんな俺のこと変わってるって言うの」

こちらを見てくる。

「…でしょ」

他にもあると思うけど、とは一応言わないでおく。
すると唯斗は

「なるほどねー…。まぁ、そうかもしんないけど」

苦笑した。


困ったような、なんだか大人な

少しだけ過去かなにか、傷かなにかが見えるような


唯斗のそんな顔は初めてだった。


「…」
「今がさ、すごい楽しいんだよ」


やさしい
なのにどこか哀しい笑顔



あ、ヤバい

傷えぐったかも



「俺単純だからさ、楽しいとテンション上がっちゃうんだよね。みんなにとっては変かもしんないけど」

しょーがねーじゃん?と笑う。

いつもバカみたいに明るい唯斗のそんな顔は、確かに見たくなかったかもしれない。


ずっと笑ってればいい

変じゃないよ、みんな嬉しいんだ

お前がそうやって底抜けに明るいと、家そのものが明るくなるから


絶望の行き着く先でしかなかったこの家が、

本当の家族が住む家みたいになるから


俺はずっと欲しかった

本当の家族ってやつが
しあわせな家庭ってやつが

笑顔があふれる、
あったかくて、
やさしさに満ちた、

愛情ってやつが


「……」


お前は知ってんのかな?
お前は持ってんのかな

だからそんな風に、今を楽しく思えて


羨ましい
まぶしいんだよ


でも、だから。

お前が無理して笑ってるわけじゃなくて良かったなんて

ガラにもなくそんなことを思ったりして



「…那緒?」

名前を呼ばれる。


あぁ、そういえば
少し前まで、家で名前を呼ばれるなんてことがあっただろうか


…そうだな
今は、確かに

「…楽しいよ」


笑えるんだから


変な顔をして驚く唯斗を、那緒は笑う。

「ありがとな、ユイ」

その言葉になぜか泣き出しそうになった唯斗を、今度は声に出して笑った。



笑えた

心が繋がった気がした


着替えを持って脱衣所に入ると、風呂場から機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえる。

笑える。
能天気、なんて言葉がよく似合った。


服を脱ぎ洗濯機に放り込み、一式を持って風呂場へ。
その際、鏡の中の自分と目が合った。

そこには傷だらけの姿があって

「…」

でも、見られるだけ成長だな、なんて。


傷だらけなのは、身体だけだから。



風呂場の扉を開け、中に入る。
身体を洗っていた唯斗がこちらを見て

「お……」

笑顔が、瞬時に変わった。

那緒は慣れた様子、むしろそれが当たり前かのように歩き、唯斗が洗う台の二つ隣へ。
浴槽に一番近い端っこ、いつもの場所に座った。

何事も無いかのようにシャワーをつけ、頭からかぶる。
身体中の傷痕に驚いていた唯斗は、それでも身体を洗うことを再開する。


少し気まずそうな空気を感知し、シャワーを浴びたまま那緒は軽く笑った。
それに唯斗はびっくりしたように

「なっ…なんだよー」

ばつが悪いように言う。
那緒はシャワーを止め

「俺、虐待されてたんだよね」

どこまでも穏やかな表情をして、手の平で顔をぬぐいながら言った。




一番古い記憶は、たぶん風呂場。
水の中から誰かを見上げて手を伸ばす記憶。

冷たい記憶と苦しい記憶はない。
あまりに小さかったからかもしれない。

ただ、ゆらゆらとした空間の中で、人のような形のものを必死で掴もうとした、その視覚だけが脳裏に焼き付いている。



暴力は毎日だった。
といっても、当時はそれがいけないこと、普通じゃないことだなんて微塵も思わなかった。

それが日常だった。


父親は今思うとアルコール中毒で酒乱で、仕事をしている様子は無かった。

学校から帰ると酒の缶がそこら中に散乱していて、その中にいる父親は俺を見ると、すぐに大きな声を出して俺を呼び、まずは服を着ている部分を拳で殴りつける。

俺がランドセルを降ろすと、父親はそこにある酒瓶で背中を叩きつける。
倒れたところを何度も踏み付けると、つま先で脇腹を蹴り俺を吹っ飛ばす。

そこで俺が声を出せばさらに殴られ、声を出さず見れば「何見てんだ」と殴られる。

何度か繰り返すうちに学んだのは、吹っ飛ばされてそのままでいれば終わることが多いということ。

それでも終わらないことが、もちろん何度かあったけれど。



それが、毎日毎日続いた。

ギリギリまで学校で遊んで、でも夕方の鐘が鳴ったら帰らないとさらに殴られた。


先生は何度か俺に質問してきた。心配そうな顔をしていた。

先生ではない、優しそうな女の人もたまに俺のところに来た。今思えば児童相談所の人だったんだろうと思う。いろんなことを聞かれた。


だけど、俺はどの質問にも答えなかった。

何となく分かっていた。
先生もこの女の人も、警察を嫌う父親の敵なのだろうと。

答えたらまた殴られるかもしれない。
だけどそれより、父親を裏切る気がして嫌だった。

善悪でなく、絶対的な存在。
それが俺のすべてだった。




母親は滅多に帰って来なかった。どうやら働いているらしかった。

食事はろくに作らなかったが、材料だけは買い足しされて、それはたまに弁当だったり惣菜だったりしたけれど、俺も父親もいない時に冷蔵庫に入っていた。
俺は父親がいない時や寝入ったあとに一人でそれを食べた。

食材だけがある時は、あるもので自分で作った。
最初はとても食べられるようなものではなかったけれど、それでも食べるしか生きる術が無かった。
料理は段々慣れて、そのうち大抵のものは何でも作れるようになった。


母親は常にいなかった。
だから顔なんてほとんど覚えてない。
母親との記憶だって無かった。


俺が中学2年になった頃、突然、家から母親の荷物が無くなった。
家に帰ると、母親のものが一切無くなっていた。

それなりに身体が大きくなってからも続いていた父親の暴力は、その日はいつまで経っても終わらずさらに激しさを増した。


顔も頭も殴られた。

そのうち父親は台所から包丁を持ってくると、俺の腕や手をいくつも浅く切り付けた。

吸ったこともないタバコを持ってきては、火を点けて俺の背中に押し付けた。

ベルトではたき、足に熱湯を浴びせた。


次に気が付いた時、俺は床で転がっていて、気を失って倒れたのだと分かった。

死ななかったことに驚いた。

家の中に父親の姿は無く、暴力の残骸だけがそこら中にあった。



起き上がれない。
そのまま眠りについた。

死んでもいいと思ったから、応急処置もしなかった。



俺が悪い、俺が悪かったんだと
何度も何度も言い聞かせて


意識を飛ばすように落ちた。


目を覚ますと、なんら変わりない景色がそこにあった。

手を握り、腕をゆっくり動かし、固まったようなその感覚が、寝ていた時間が1日どころではないことを物語っていた。

自分のものではないような身体を何とか起き上がらせ、確認するように動かしていく。

(…生きてるもんだな…)

ひしひしと現実を感じるのは、家が悲惨な状況のままだから。

天国だろうが地獄だろうが、とりあえずこんな場所ではないだろう。


腕の傷は、血が流れ固まり貼りついていた。
脇腹は骨が折れたかのように痛く、身体中に細長いミミズ腫れが何カ所も出来ていた。
熱湯をかぶった足は片足だけただれていた。


それでも、生きていた。

息を吸い込むと、肺は痛んだけれど空気が入った。

心臓に手を当てると、鼓動を感じた。



生きている。



その事実に、現実に

悲しさか怒りか嬉しさか安心か、
涙が止まらなかった。



次の日、身体は徐々に回復してきた。

俺はまず家の惨状を何とか元に戻し、掃除をし、残っていた材料で何日かぶりの食事をとった。

テレビはだいぶ前に父親が壊して見られないから、その日が何日かも分からなかった。

この傷の状態では外には出られない、学校など行けないと思い、それから家にある食材でなんとか繋いでしのいだが、それでも一ヶ月ほどで底をついた。


でも、そんなことより
父親があれから、いつまで経っても帰ってこないことが気がかりだった。



どうしてだろうか
今までは嫌でも家にいたのに

嫌ってほど家にいたのに


帰ってこない
誰もいない
音がしない

一日、一日と過ぎる
太陽がのぼり、沈んでいく



金なんかない
食べるものもない

誰もいない


なにも、ない

なくなってしまった



生きていて、これか
生きていても、何もないのか

何の意味があるんだ
この命に、何の意義があるんだ


あの時と同じ場所に横になる。

本当に死ぬんだと感じた。
散々な人生だったのに、意外にも死にたくないと感じた。


いや、死にたくないと言うよりはむしろ、
もっと生きたかったと

生きて
笑って

幸せになりたかったと



「大丈夫か?!」


音の無いはずの空間に、声がした。


「すぐ救急車来るからな!しっかりしろ!」


誰もいないはずの部屋に、人のぬくもりを感じた。


うっすら目を開けると、とてもやさしそうな中年の男の人がいて



あぁ、ここは天国か、なんて

薄れる意識の中で思った。



家に不法侵入してまで俺を助けた男の人は、名前を関と言った。

説明によると関さんはどうやら児童相談所の関係者で、学校に何日も来ない俺を心配した担任がそこに相談をしたらしかった。
家の電話は、もうだいぶ前から父に壊されて使えなくなっていた。

関さんは俺の治療費から入院費まで何もかも払い、挙げ句には

「私の所に来るといい」

そんな提案までしてきた。


あの家にいたところで、どうせ父親は帰って来ない。そんな気がした。
それはまるで決まりきった事実のように、胸にストンと落ち着いていた。

帰って来ないどころか、あの人はもうこの世にいないのではないかという気さえした。


だから。

「……はい…」

関さんの申し出を受けた。
大した説得も無いのに受諾したことを驚いたのか、関さんは自分から提案したくせに少し意外そうな顔をして、でも

「…そうか」

すぐにやさしく笑った。

やさしい、
本当にやさしい笑顔だと思った。



傷痕は大部分が残った。

ただれた足と折れた肋骨は治ったが、重なりすぎた痣や火傷の跡は消えないだろうと言われた。
でも、生活していくのに支障は何一つ無いとも診断された。


家のものはすべて売り払うことにした。使えるものなどほとんど無いから、ほとんどがゴミ捨て場行きだった。
滞納を重ねていた家賃は関さんがすべて払ってくれた。それどころか、俺が引っ越す上で必要となる金銭すべてを賄ってくれた。
払いたくても払えない俺が謝ると、関さんは

「出世払いでいいよ」

と笑った。

そんなに出世するとも思えなかった。


中学は引越し先の所へ転校することにした。妙な詮索は避けたかった。
友人という友人もいなかった。育った家が家だったから、人との関わり方が分からなかった。未練は何もなかった。
とにかく、あの家から離れたかった。



引越しから転校、生きていくのに十分すぎるほどの支援を、出会ったばかりの赤の他人である俺にしてくれる関さんを、不審に思わなかったと言えば嘘になるけど

「…ん?」

もう、守るものなんて無いのだと
帰る場所なんて無いのだと思うと

「……なんでも、ないです」

例えこの人に騙されようと
例え殺されようと
どこかに売られようと


何でもよかった。
どうでもよかった。


なにも無い、とは
生きる気力すら無いことを言うのだと思った。


着いた場所は、自然に囲まれた木造の建物。
古く見えるが、近くで見ると意外にも立派でしっかりしていた。

看板みたいな表札には、“和良人荘”の文字。

「……」
「わらびとそう、ね。これ」

関さんが言う。

「今は7人住んでる。みんな癖はあるけど良いコたちだから。仲良くしてな」

にっこり笑う、その笑顔はいつも陰りが無くて綺麗だ。
だから俺はいつもそれが

「…」

まぶしすぎて、俯く。
直視出来なかった。


ガラガラと音をたてながら、関さんがスライド式の玄関を開ける。
なんの心の準備もなく

「……ほ?」

大あくびをする男の人が、ちょうど横の部屋から出てきたところに鉢合わせた。

「あれ、今日休みかい?」
「おー、そうなんですよ。10連勤したんでさすがに休みもらって」

さっきまで寝てました、とまたあくび混じりで関さんに答える。
そしてその人は俺を見ると

「で、このコが例の?」

関さんに聞いた。

「そう。仲良くしてあげてね」

関さんはそう言うと、俺の背中を軽く押す。
その勢いで、家の中に入った。

「…あ…いや、その…」
「どうも、横井孝也です。よろしくな」

玄関での差もあるだろうし、その時の身長差もあるだろうけど。
その時の孝也くんは、今思い返してもやけに大きく、たくましく見えて。

頭を撫でてきた手の平は、
やけに
あたたかくて。

「……、大河…那緒、です」

来て早々、泣きそうになった。

「うん、よろしく」
「孝也がいるということは、今日もしかして珍しく全員いるのかな?」

関さんは俯く俺の背中を押し、靴を脱ぎながら孝也くんに聞く。

「あー、そうですね。夜はたぶん」
「なら歓迎会も出来るな。ほら、那緒も上がりなさい。靴は空いてるところが君の場所だよ」

戸惑う俺を抜かし、関さんは家の中へ行ってしまう。俺も慌てて靴を脱ぎ上がると

「よく来たな」

孝也くんはやさしく笑って言った。



なんだか
ひどくやさしい空間だから
あまりにやさしい空気だから

慣れなくて
むずがゆくて
こわくて

ドキドキした。


そのままの流れで、俺は孝也くんに部屋を案内された。

「今は2階が二部屋と3階が一部屋空いてるけど、どこがいい?」

階段を上がりながら聞かれる。俺は少し悩んだが

「…3階が、いい、です」

人がたくさんいるところの方がよかった。
もう、ひとりは嫌だった。

「ん、おっけー。3階は眺めいいからなー」

孝也くんは楽しそうに言う。
こんな愛想の無い答え方をしても、荷物が一つもなくても、自分から何も話さなくても、何も気にしていないように笑う孝也くんを、俺は少し不思議に思ったけれど

(…そ、っか…“ワケアリ”がいっぱいいるんだっけ…)

俺みたいなのは普通なのかもしれない、と思うと

(……失礼かな…)

少しだけ、安心した。



「はい、ここが那緒の部屋なー。部屋の中はどうしようと個人の自由だから。汚くても綺麗でも物多くても何しても何も言わないし。布団は押し入れん中に入ってると思うから、それ使ってな。共同スペースはまぁ…ルールはそんな無いけど…」

部屋の中央で説明をしてくれていた孝也くんが、いきなり言葉のペースを落とす。入口近くで聞いていた俺がきょとんとすると

「…お前ら…入るなら入れ、怪しいから」

孝也くんは大きなため息をついて言った。
何のことだろうと思う前に、後ろのドアが開く音がして

「?!」
「あっちゃー、バレてた?」

驚いて見ると、二人の男のコが楽しそうに部屋に入ってきた。

一人は金髪の目立つ、同い年ぐらいの人。
もう一人は小さくて可愛らしい、小学生ぐらいのコ。

「どーもっ!安西恭介でっす!」

自分より少し背の小さいその人は、いやにテンション高く笑顔で自己紹介してきた。

「あ…どうも…大河那緒です…」

気圧されてもなんとか名乗る。するともう一人の男のコが

「?」

くいくい、と袖を掴んで俺を呼ぶと

“内藤遥です。はる、って読みます”

と書かれたメモを見せ

“よろしくおねがいします”

と口を動かしながら、丁寧に頭を下げた。

「…あ…はい、よろしくお願いします…」

俺も慌てて頭を下げる。驚いていると

「遥ちゃんは声が出せないの。耳が聞こえないわけじゃないから、こっちが喋ってるのは聞こえてるよ」

だいじょーぶ、と恭介くんは笑った。
遥を見ると、遥も頷いて笑っていた。



恭介くんと遥に建物を案内される。途中で颯太くんとも自己紹介をした。残りの3人は仕事やバイトで忙しいため、帰るのは夜だと聞いた。


突然、こんなたくさんの人と出会ったのに
俺はなぜかとてもワクワクしていて

ここで暮らしていくことが、ひどく恵まれたもののように感じた。


それを、後で孝也くんに言ったら

「…へぇ、そんな風に思う奴もいるんだな」

珍しそうに笑った。


その意味は、その時はよく分からなかった。



その日の晩、みんなは歓迎会を開いてくれた。

あまりにあったかくて
笑顔があふれていて

それが繕ったもので、傷を隠しながらのものだったとしても

その時は、それが痛いほど身に染みて

俺は食卓で号泣してしまった。


それまでのことを全部吐き出した。
今思えば、俺の体験なんてみんなには重荷にしかならないのに
すべて言ってしまった。涙に任せて、言葉は次から次へとあふれた。



こわかった
寂しかった
暴力は当たり前に痛かったし
ひとりきりの空間は心を蝕んでいった


こわかった、
父さんは俺を見ても殴るだけで

寂しかった、
母さんはいつもいないから

ただ、俺は
笑って生きていたかっただけなのに
理由の分からない孤独はそれさえも見失わせて


毎日こわかったんだよ
毎日寂しかったんだ

抗う術を知らなかった俺は
これが普通なんだと、自分に言い聞かせることしか出来なかった



ボロボロに泣き崩れる俺の話を、みんなは静かに聞いてくれていて

隣に座ってた敬太くんが、大きな手で背中をさすってくれた。
逆隣に座ってた遥は、なぜか一緒になって泣いてくれた。
恭介くんはふざけて声をあげ、柊くんはそれにツッコんで場を和ませてくれた。
颯太くんはやさしい笑顔で声をかけてくれたし、孝也くんは

「大丈夫だよ」

やさしく、笑って。

「もう“家族”がいるんだし」

平然とそんなことを言うから、俺はまた泣いてしまった。



湊には食事の後、ソファで遥と筆談していた時に

「那緒」

呼ばれた。

「?…はい」

立ち上がりそばに寄ると、湊は意外と自分より小さくて、でもそのまま

「…え…」

頭を寄せられ、抱きしめられた。

「……あ、の…?」
「いや、さっき遠かったからさ」

後頭部に添えられた手によって、肩に顔を埋められる。湊は俺より背が小さいから腰を曲げなくちゃいけない。
その体勢は確かに少しキツいけれど

「……」
「な、分かる?」

湊が言うのは、それだけ。
楽しそうに問い掛けて、ただやさしく抱きしめるだけ。

でも分かった。


これが、人のぬくもり。


(……あった…かい…)

欲しかったもの。

抱きしめられた、
手から
腕から
声から
うつる、ような、

あたたかさ。


これが、ぬくもり。
ぬくもり。あたたかい、誰かの体温。

触れる、やさしさ。



ぎゅ、と、抱きしめ返した。
俺の方が大きいから、湊を包み込んだ。

「はは、那緒デカいなぁ」

よしよし、と背中をさすられる。
子どもをあやす母親のように、それはやさしかった。




冷蔵庫から水を出し、コップに入れて一口。
風呂から上がった後の習慣。

調理室の明かりでぼんやりと見える真っ暗なリビングは、もちろん誰もいない。
いないけれど。

(…こわくないし、寂しくない)

あれからまた少し、体は大きくなった。
あれから時間は経って、たくさんの経験をした。

大人に、なった。


不意に、ガラガラガラ、と玄関から扉の開く音。さすがにびくっとする。
リビングの電気を点けて玄関を覗くと、そこには

「あ、ただいま」
「…おかえりなさい」

颯太がいた。

「遅かったっすね」
「まぁ、親御さんの仕事次第だからね。那緒は今お風呂上がり?」

玄関で靴を脱ぎ颯太は笑顔で聞いてくる。仕事の疲れを微塵も感じさせない。
那緒は頷いて

「約束通り、ユイに数学教えてたんで」

答える。答えてから、無意識に“ユイ”と呼んでいる自分に気付いて

「…、え、あ、いや」

きょとんとした颯太の反応も相俟って、なんだか妙に恥ずかしくなる。

なぜか言い訳しようとする那緒に、颯太は笑って

「そっか、お疲れさま」

でも、触れなかった。

颯太は一度リビングに入り、ホワイトボードに明日の予定を書き込む。書きながら

「今日ありがとね、夕飯」

那緒に礼を言った。

「あぁ、いえ」
「何にしたの?」
「店でトマトもらったんで、パスタ作りました」
「おぉ、さすが」

書き終わり、ペンに蓋をする颯太。
目が合って

「……あの」

那緒は、呼び掛けた。

「うん?」


身長は、実はあんまり変わらない。
俺の方が少し大きい。

でもこの人は、本当に大人で
今だって、
言いたいことを分かってくれてるような
それでいて、俺が言うまで待ってくれているような
言う勇気をくれるような

そんな、やさしい笑顔で



「……俺、あいつに、話しました」

那緒はゆっくりと報告する。

「…ただのわがままだって…知ってるけど、…でも俺…俺も、あいつの力になりたいって…思って」


垣間見えた、悲しげな笑顔は
傷の深さを物語っていた

いつも見せる無邪気な笑顔は
今を心から楽しむからこその笑顔だった

この場所を、この環境を
悲観せず肯定的に受け止める唯斗の気持ちが
俺には痛いほど分かるから


ツラい時は、吐いてほしい
悲しい時は、泣いてほしい
楽しい時は、笑ってほしい
できれば、
いつだって笑っていてほしい

それが、
俺にとっても
みんなにとっても
また唯斗自身にとっても
大切なことだと思うから


傷を見せてもらうには、
俺の傷を見せる必要があると思った

痛みを分かるには
痛いことを知ってる必要があった

俺は
唯斗に救われたから
俺も唯斗を救いたいと思った



「……まぁ、結局重荷でしか…ないんですけど」

微かに嘲笑う。自嘲する。
そんな那緒を颯太は

「…いいんだよ、那緒はそれで」

やさしく受け入れる。

「ここの人たちはみんな、気遣いすぎて何も話さないから。…那緒がそうすることは、すごく大きなことだと思う」

颯太はそれでも、悲しげに笑って

「僕も、いつか話せるように…頑張るよ」

やさしく言うから

「……頑張る必要は、ない、です」

那緒は首を振る。

「…それも気遣いでしょ」

少し驚いたような顔をする颯太に、那緒は厭うように言った。

「抱えきれなくなったら、吐き出せばいいんすよ」

俺みたいに、と言うと、颯太は一歩那緒に寄って

「…大人になったね」

やさしく言うと、那緒の頭を撫でた。

笑顔と目が合って
二人して笑った。



次の日の、朝。


朝食のために階段を降りていくと、2階で

「!」

唯斗と鉢合わせた。
驚いたようなその顔に、那緒は軽く笑って

「はよ」

言って、階段を降りる。唯斗は慌てたように

「お、おぉっ、おはよう!」

その後ろについて来た。

「昨日教えたこと、ちゃんと覚えてんの?」
「へ?あぁ!覚えてる覚えてる!バッチリ!今日のテストは余裕でいけるっしょー」

にまにまと分かりやすく余裕の笑みを浮かべる唯斗。那緒は呆れて

「言っとくけど、あの人の小テストってそこそこ難しいよ」
「げっマジ?!基本だけとかじゃねーの?!」

途端に焦る表情。
くるくる変わる。素直すぎる。単純すぎる。

「ま、頑張れ」

那緒はひらひらと手を振って、食卓へ向かった。



「あれ、もう出んの?」

玄関で後ろから声がかかる。
振り向くとそこには孝也がいた。

「えぇまぁ。孝也くん早いっすね」

珍しく、と笑うと

「これが普通出勤なんだぞ」

顔をしかめて不満そうに言った。
那緒は笑う。

「お前は?」
「え?」
「なんかあんの?早いじゃん。ユイまだ飯食ってんのに」

孝也は笑って食卓を指す。那緒は

「あいつは朝から食い過ぎなんです。昨日の夜から腹減ってたみたいで。俺はただの日直っす」

呆れたように答えた。孝也は笑って

「そっか。行ってらっしゃい」

やさしく言った。

その、当たり前のような言葉が、
やっぱり泣けるほど嬉しくて

「…行ってきます」

それでも、あふれたのは笑顔だった。


ガラガラと扉を開けると、外の景色が昨日よりいっそう明るく見える。

(…いー天気)

見上げた。青空が広がっていた。


また生まれ変わったような気分だった。

「…あの」
「あ、はいっ」

バイト中、商品棚の整理をしていた唯斗は声をかけられる。
振り向くとそこには、20代後半くらいの男性。スーツを綺麗に着こなし、髪もきちんとまとめられ、見るからに仕事が出来そうな身なりをしている。品のある動作からは育ちの良さも感じられた。
加えて、整った甘いマスク。いわゆるイケメン。

その人はしかし、手に取ったCDを見せると

「この歌手のCDって売れてますか?」

不思議なことを聞いてきた。

「…えっ…と…」

今までに無い質問に唯斗は焦る。
ひとまず見せられたCDを見ると、それは何と

(…ミナトのじゃん…)

“ミナト”のCDだった。

「えぇと…その、…」
「…あぁ、いえ。爆発的に売れてるわけではないことは知ってるんです。ただ結構どこのCDショップにも置いてあるので、そんなに需要があるのかと思いまして」

貼り付けたような愛想笑いのせいで、唯斗にはこの人の意図が読み取れない。店員としての正解も分からない。
だから唯斗は

「そうですね、インディーズの中ではかなり知名度もありますし、人気も高いと思います。メジャーデビューも遠くないと言われてますし、まさに“知る人ぞ知る”アーティストですね」

自分の知っている限りを述べる。それから

「僕自身、大好きですから」

オススメですよ、と素直な感想を伝えた。
すると男性は、ひどく複雑そうな、どちらかと言えば負の感情を少しあらわにしてから

「…そうですか。分かりました、ありがとうございます」

丁寧にお辞儀をして、CDを棚に戻し帰っていった。

「あっ、ありがとうございましたー」

その背中に唯斗も慌てて挨拶をする。

(…何だったんだろ…間違えたかな)

首を傾げ、それから

(あとで柊ちゃんに聞こう)

仕事に戻った。




「へぇ…。まぁ俺は聞かれたことないけど」

変わってんな、と、自転車での帰り道、柊は不思議そうに言った。

「だよねぇ…」
「まぁ可能性としてあるのは、カラオケで歌う曲探してるとか、ライバル会社の視察とか…」

柊の意見に、唯斗も なるほど、と頷く。

「ま、どっちみちお前がそんな気にすることじゃねーよ」

難しい顔でもしていたのか、柊は笑った。
唯斗はそんな柊を見て

「そっか」

やっぱり笑った。

「今日の夕飯何かなー!」
「ははっ、うるせーよ」




***



端から見たら、かなり恵まれた家庭だったんだろうと思う。



頭がよくて人望も厚く、有名大学病院の教授である父。
若々しく美人で友人が多く、帰国子女で才女の母。
父の跡を継ぐために医大に入学し、将来を有望視されたイケメンの兄。

周りから見たらその人たちはみな完璧で、羨ましがられるほどの“理想の家族”だった。


だからこそ俺の落ちこぼれっぷりは際立ったし、
何を言っても信用されないのは当然のことだった。


小学生の頃から、歌うのが好きだった。
将来のためにする勉強なんてつまらなくて、それでも音楽だけは好きだった。

中学の時に、楽器を使う楽しさを知った。
ピアノに始まり、ギター、ベース、ドラム、色んな楽器に触った。

高校の時に曲を作る楽しさを知ってからは、俺はもう、この道で将来を生きていきたいと思うようになった。



俺の中では何の迷いも矛盾も無かった。

ただひとつあるとすれば、その進路は親の希望とはまるでそぐわないものだということぐらいで。



「……何を言っている?」

高校2年の秋。
父がこんなに心底驚いた顔を見せたのは、後にも先にもこの時だけだろう。

本気で、わけがわからない、という顔。

「だから、…俺は医大には行かない」

それまでずっと避けてきた言葉。
曖昧にしてきた分、親からすれば信じられないのかもしれない。


父親と同じ医大に行き、父親と同じように医者になり、父親と同じように教授を目指す。

それが、この家の子どもにとって“当たり前”のことで、そこには何の疑問も不満も無いはずだった。


だから、父にも分からない。
“医大に行かない”という選択肢があることすら、父には理解出来ないのだろう。

それ以外の未来など、有り得ない。


「…湊、俺は別にプレッシャーを与えてるわけじゃない。ただ勉強は進んでるかを聞いただけだ。お前はそれに答えればいいだけだろう」

妙に諭すように言う父。



“勉強は進んでるか?”
“いくらお前でも楽に受かるところじゃないからな、今のうちからしっかり勉強しておけよ”
“今どんな調子なんだ?そうだ、模試はどうだったんだ”



1つしかない選択肢。
生まれた時から敷かれていたレール。

いくらそれが一般的に幸せで、成功した、カネとモノにあふれた生活だとしても
そんな生活が待っていることが保証されていても



「……もう、…」


うんざりなんだよ


「…俺は、医大には行かない。医者にもならない」


俺は、
俺の道を歩きたい。


「いい加減にしろ!!」

身体が強張るくらいの大声。反射的に目をつぶり、再び開けて見た父親の顔は

「甘ったれたこと言ってんじゃない!勉強なんか出来なくたって、お前なら俺の顔使ってあの大学に入れるんだぞ!」


裏切られた、みたいな顔で


「もっと冷静になれ!医者の何が不満だ!医者以外なんてみんなろくでもない…。いいか、父さんは許さんぞ!」

吐き捨てるように言うと、父親は怒りをあらわにしたまま部屋を出て行く。

出て行った瞬間、ため息が出た。


あんなに恐くて、あんなに大きかった父親が初めて、小さく、また幼く見えた。




それからしばらく、父親とは顔を合わせなくなった。
母親は相変わらず趣味に忙しそうにして、たまに顔を合わせたと思えば

「勉強が嫌ならお父さんに謝りなさい。すぐに入学を保証してくれるわよ」

あまり興味なさそうにそう言った。
母親としてはおろか、医者の妻としてもほとんど働かない彼女にとっては、落ちこぼれの俺の進退など地球の裏側の情勢よりどうでもいいことなのだろう。


だから俺は、この放っておかれた状況をむしろ最大限利用して、毎日バイトに明け暮れ、夜は路上で音楽活動をしながら、独り立ちするための資金を稼いでいた。



***



「…なと…ミナト」

意識が浮上する。
目の前にはマネージャーの樫井。

「あ…すいません…」

いつの間にか寝ていたらしい。

「珍しいな、お前が寝るの」

最近忙しいのか?と樫井はむしろ楽しそうに聞く。
思わず笑って

「それは樫井さんが一番知ってるでしょ」

言うと

「アホか。俺が持ってきた仕事程度でうたた寝されちゃ、この先が思いやられるんですけど」

大袈裟に呆れたそぶり。湊は笑って

「努力します」

さっき書き上げた詞を渡した。


「ミナトは兄弟いるんだっけ?」

プロデューサーが何の気なしに聞いてきた。
昼休憩の合間に出た話題が家族の話で、当たり前のように来た流れ弾だ。

「…え?」
「そういや聞かないな」
「いるんですか?兄弟」
「なんか兄ちゃんいそう」
「いや妹って線もありじゃないですか?」
「それ絶対可愛い!」

盛り上がるスタッフたち。
どう答えようか戸惑っていると、外から来た樫井が

「ミナト、ちょっと確認いいか?」

助け舟になった。

「あ、はい」
「来月のライブのことだけど…」

樫井は昼休憩で騒がしい室内を見回すと、さもここでは話しづらいと言うように

「ちょっと廊下出るか。飯は?」
「もう食べました」
「オッケ」

その部屋から出る。
湊もついて廊下に出て、話しやすい場所に移動を始めると

「お前さ、ああいう時どうすんの?」

樫井は聞いてきた。

「え?」
「兄弟とか家族とかさ。周りにはどう言ってんの?」

樫井は、湊の事情をすべて知っている。湊は

「笑ってごまかすか、いないって言いますよ」

少し、苦笑して。

「一応、勘当されてますから」

遠くを見た。
過去を笑った。




***


ひどい雨の日だった。

雨の音と、家路を急ぐ人の足音。
喧騒、なのに静寂。

そんな中で、湊はため息をついた。

いつもの場所は当たり前に水で溢れ、屋根のある場所は雨宿りをする人で埋まっている。
歌う場所がなかった。

(まぁ、今日はこれから荒れるって言うし)

傘が壊れる前に帰ろう。

その程度だった。



いつもより早い帰宅。
いつも通り静まり返った自宅。

バカみたいに広いリビングを抜けて、2階にある自室に向かうために階段を上がる。
その途中

「……?」

物音がした。

(誰か帰ってんのか?)

21時過ぎ。お手伝いさんが帰った今の時間、普段なら誰もいないはず。

階段を上りきると、父親の書斎、兄の部屋、自分の部屋が並び、さらにその奥に両親の寝室がある。音はどうやら、その寝室から聞こえるようだった。
しかし、明かりは無い。どの部屋も真っ暗だ。

(まさか…泥棒…?)

セキュリティは万全のはずだ。だが穴が無いとも限らない。
湊は息を詰めた。音を立てないよう寝室に向かう。

部屋の前に立った。やはり中からゴソゴソと音がする。
何かを漁っている。

湊は覚悟を決め、ドアを思い切り開けた。同時に電気を点ける。

そこにいたのは


「……兄貴…?」

兄の満だった。

満は湊を見て、ひどく驚いた顔をしたまま固まっている。その手には

「…!な、んだよそれ……」

一万円札が数枚。
近くには開いたままの引き出し。
真っ暗だった部屋。
驚いた満の顔。戦慄。

状況証拠は十分だった。

「兄貴……まさか…っ」

瞬間、満は手に持っていた一万円札をすべて湊に押し付ける。

「っ、おい!」

金だけ受け止めて呼び止めるも、満はそのまま横をすり抜け部屋を出て行ってしまった。

「兄貴!!これなんなんだよ!」

廊下に出て怒鳴ったが、兄はすでに階段を駆け降りていて

「…っ、なんだよこれ…」

握りしめた一万円札は4枚。
満が慌てて閉めていった棚を見る。そこに金が入っていること自体知らなかった。

(…父さんたちの金を…兄貴が…?)

信じられない。

兄の満は本当に優秀で、通い続けた有名私立学校は初等部、中等部、高等部すべて首席で卒業、有名医大にも見事現役合格、甘いマスクに柔らかな物腰、いたく真面目で、スポーツや音楽が苦手なことなどまるで短所にならないほど“よく出来た人”で。


その兄が、まさか、親の金を盗む、なんて。


(……とりあえずしまっとこう)

信じられないが、手元にあるこの金が何よりの事実だ。しかし親に言わず元に戻しておけば、何も無かったことになるだろう。
湊は先程満が開けていた棚に寄り、引き出しを開けた。中には分厚い封筒が入っていて、それには確かに札束がぎっしり入っていた。

(なんの金だよ…)

嫌なにおいしかしないその金の中に、持たされた4万円をなんとか入れる。あまりにぎっしり入りすぎて、たかが4枚入れるのに手間取った。


それが、まずかった。




「……湊…」


声がした。
振り返るとそこには父と母と、その後ろに兄。

「お前…何をしている…?」

目を見開いて怒りと焦りをあらわにする父。

「…何って…」
「そうか…最近そこの金の数が合わないのはそういうことだったのか」

一瞬、父が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
でも

「医者にならないどころか親の金まで盗むようになったのか?人間として最低だな」

嘲笑い、放った言葉。



嘘、だろ

これは、まずい。
誤解だ



「ちょ…っ、これは兄貴が…」
「兄貴?お前、こんな状況で満のせいにするのか?!満が俺に言いに来たんだ、お前が盗む以外何がある!!」

罵倒、怒声、投げつけられる理不尽。


あぁ、これは、
もう無理だ

直感的に分かる。
何を言ったところで言い訳にしかならない。


「……本当に…信じてくれないのか…?」

ひとつだけ問う。
すると父は

「…お前を信じて満を疑えと?馬鹿な…愚問だな」

ひどく冷徹に笑うと

「もういい。出ていけ。お前は勘当だ。二度とこの家に戻ってくるな」

外を指して

「荷物をまとめろ。今すぐにだ。お前にくれてやる富も名声もない」


そこには、いつもの冷静な父親と
家庭に無関心な母親と

怯えたように俯く兄。


それが、この家族が揃って顔を合わせた、最初で最後の日になった。



簡単なことで信頼は崩れることを知った。
交わされた言葉なんてほとんどなかった。

だけど

あそこにいることで得られる富や名声など俺には何の意味もないもので
むしろそれを捨てて手に入れたものの方が

よほど大きく
よほど価値があり

よほど、大切になった。



***


バイト先に行くと、案の定いた。
明るい金髪。

「きょー」

しゃがんで箱の中の商品を確認していた恭介が声に振り向く。すぐに破顔した。
それから

「あれっ、お仕事は?」
「早めに終わったから来た。店長は?」
「奥で売り上げ票とにらめっこしてる」

少し呆れたような笑いに湊もつられる。

「じゃあ挨拶してくるかな」
「上がりまでいる?」
「俺?うん」
「お、じゃあ一緒に帰れんね」

今度は嬉しそうに笑う。


そう、こういうのが


湊は恭介の頭に手を置いて

「そうだな」

くしゃっと撫でた。



「あ、そーいえばさぁ」

夕食後、ソファでくつろいでいると、唯斗とゲームをしていた恭介がこちらを振り向いた。

「今日変なお客さん来たよ。湊が来る前」
「あっちょっ、ずるっ」
「ははっ、ユイよわー」

話しかけながらもゲームの手を緩めない恭介に唯斗はボコボコにされ、唯斗の横にいる柊はそれに笑う。
湊は恭介の言葉に

「変?」
「うん。なんだっけ、“ここで歌手のミナトが働いてるって聞いたんですけど”って」
「え、それファンじゃなくて?」

柊も反応する。
確かにその手のことはこれまでも何度かあった。
どこからか流れた噂を聞き付けわざわざ確かめに店まで来るファンに、恭介含め店員は

「まぁね、俺もそうだと思ったから、一応“他のバイトと関わりないんで分かんないです”って言ったんだけど」

そうやってかわすことになっている。
自分が出会ってしまった場合は他人の空似を貫き通すが、どうしても折れない場合は認めて事情を話し、黙っていてもらう。

仕事が忙しくなってきた最近は店に顔を出すことの方が少なくなってきたけれど、その分店を訪れるファンも少なくないらしい。
だからこの手のことはよくあるのだが、それをわざわざ報告してくるということはよっぽど妙だったのだろう。
恭介も怪訝な顔をしている。

「なーんか違和感あってさぁ。男の人だったんだけど、パリッとスーツ着て、髪もキマってて、めっちゃエリートっぽくてさ。しかも結構なイケメンで」
「どこに違和感だよ」

柊が笑う。まぁ確かに、それだけなら違和感もなにもない。
しかし恭介は

「や、だって店でもすっごい浮いてたし。しかもなんかね、ファンが憧れの人を探して来たっていうよりは、なんかすごい真面目に探してるっていうか、捜査してますって感じで。俺一回刑事かと思ったもん」

肩をすくめ、呆れたように言う。探している様子そのものに違和感があったらしい。
なるほど確かに、パリッとしたスーツを着たイケメンが、わざわざミーハーのように噂を頼りに店まで来ることは少し妙だ。
それは柊も感じたらしく

「んー、名前は?」
「や、なんも。雰囲気的には、周りにバレないように探してる感じ」
「へぇ」

恭介のこういう観察眼はかなり優れている。この家の連中は特にそういうことに長けているが、恭介と敬太の他人を観察する力は群を抜いていた。
嘘を見抜く。本音を見つける。容易く、まるですべてが見えているように。

「心当たりは?」

ふと話を振られて少し驚く。柊と目が合って

「……ない、と…思うけど」

探してくる相手など知らない。探される筋合いもない。
首を傾げると、恭介はますます首を傾げ、柊は

「ユイ、今だっ」
「よっしゃ!」

唯斗に指示を出し、テレビの中の恭介の分身は

「わ、ちょっと?!」

唯斗の分身に吹っ飛ばされた。

「はは、きょーやられたな」
「いやっ、まだ抜ける!」

スピードを上げる恭介の分身。唯斗の分身は必死で逃げる。


あぁ、なんか平和。
食後に居間でレーシングゲームなんて、


「あー負けたぁー」
「次は次っ」
「ユイと恭介は洗いもんだろー」
「あ、そーだった。もう洗いもんできるー?」

台所で、まだ帰って来ていない孝也と那緒のために夕飯の残り物から夜食を用意していた颯太と遥に、恭介が声をかける。

「うん、そろそろお願ーい」
「はぁーいっ。うし、じゃあ行くぞユイ」
「おっけ!はい、柊ちゃん」
「ん」
「どする?湊やる?」
「や、俺は別に。遥がやるだろ」

見てるよ、と微笑むと、恭介は嬉しそうに頷く。颯太の手伝いをしていた遥が戻ってきて

「はいこれ。柊ちゃん負かしちゃって」

恭介はコントローラーを渡した。遥は笑って大きく頷く。
柊はそれを聞いて

「遥にゲームで勝ったことねーからなぁ」

手ぇ抜けよ、と笑った。


***


勘当されたその日は、いつも歌っていた駅にある漫画喫茶で一晩過ごした。

それからは毎日、昼間は駅から駅を歩いて移動し、夕方は駅前で歌って稼ぎ、夜は24時間のファミレスやファストフード、漫画喫茶やインターネットカフェで眠った。

幸いそれまでに稼いだ金や路上で入る金で生活はできたが

(…これからどうすっか…)

それが1ヶ月も続くと、先行きも不安になる。
駅を渡り歩いてだいぶ経ったから周りに知り合いもいないし、土地勘もまるでない。いつの間にか、地元に比べて人の数もかなり少なくなっていた。

(どこなんだろうな…ここ)

家族はいない。友人もいない。高校もあのまま中退になっただろう。ケータイだってとうに切れた。
帰る場所も待つ人も、

言ったら、世の中から必要とされていない。


だけどもう、自分には歌しかないから。


(…ま、しゃーないか)


死ぬまでこうして、歌い続けるしかないから。




パチパチパチパチ
と、軽い音。

顔を上げると、少し緩いスーツ姿の男がたったひとり、湊に拍手を送っていた。思わず頭を下げる。
男は近づいてきて

「いつもここで?」

軽い様子で聞いてきた。
歌った後話し掛けられるのはよくあることだ。別に初めてじゃない。

「いや、今日初めてです」
「だよなぁ。いつも通るけど見ないから」

びっくりした、と笑われる。
はは、と適当に相槌をうつと

「あのさ、リクエストしてもいい?」

男は軽い調子のまま聞いてきた。
少し驚くが

「…まぁ、できる範囲なら」

これも別に、初めてじゃない。
有名なアーティストの有名な曲を歌ってほしいと言われて、適当に伴奏を弾きながら演奏したこともある。その方がウケがいいのも確かだからだ。
路上生活をしている以上、わがままも言っていられない。

「何にします?」

軽く調律をしながら聞くと、男は

「キミが作った中で、一番好きな曲」

笑顔を崩さないまま言った。


「……え?」
「もしくは一番自信のある曲。あるだろ?レコード会社に持ち込む、これぞって曲」

それで、と、言うなり、持っていた鞄を足元に置いて長時間待機体勢。
湊は驚いたまま相手の顔を見る。


どういう意図だろうか

以前、地元で歌っていた時には多少のファンもついていたし、自分の曲をリクエストされることもあるにはあったが
こんな要求は初めてだ。


(……一番好きな…?)

男の言葉を反芻し、今まで自分が作った曲を浮かべる。


曲を作り始めてから3年ほど経って、曲数もかなり増えた。

明るい曲、暗い曲
優しい曲に激しい曲

様々な色の曲があって、どれもが自分にとって大切な曲で。


…と、いうか。



「……ありません」

弦を押さえて、男をまっすぐ見て答えた。
男は案の定

「…え?」

かなり驚いた顔をする。
湊は押さえていた弦を軽く鳴らして

「…俺にとって歌は…感情、みたいなもんなんで。歌いたいときに、歌いたい歌を吐き出してるだけです」


悲しいときは、悲しい歌を
寂しいときは、寂しい歌を
楽しいときは、楽しい歌を
嬉しいときは、嬉しい歌を

感情の赴くまま、そのときに歌いたいものを
感情と同じように吐き出すだけ
その手段が、ただ歌だっただけで


喜も怒も哀も楽も、
自分にとってはどれも大切な
自分を形作る大切なピースで

だから、
どれが好きとか
ましてやどれが自信があるとか

そんな考えで歌ってないから


「……一番好きなものと言われても…ありません」

すいません、と頭を下げる。
今までリクエストに応えなかったことはないが、こればっかりは仕方ない。
ガッカリさせたかな、と見上げると、男は目を見開いて驚いた顔のまま固まっていて

「…あ、の…?」

呼び掛けると

「あぁ、いや…」

我に返ったように首を振り、それから

「…すごいな、きみは」

初めて、感情の見える笑い方をした。

「…?」
「気に入った。試すようなことしてごめんな。俺、すぐそこで働いてんだけど」

こちらに近づいてくると、こういうものです、と名刺を渡してきた。
大きく“樫井公太”と書かれたその肩書きには

「“E.S.レーベル”って…」
「ん、まぁ、そんな大きかないけどな。一応レコード会社のひとつだよ。知ってんだろ?長いこと音楽やってんならさ」

その言葉に頷く。大きくない、なんて嘘だ。謙遜だ。音楽をやってなくたって、この社名を知っている人は多い。かなりの大手だ。
樫井は少し嬉しそうに笑うと

「俺は今ここで人事担当っつーか…まぁスカウトマンだな。路上ライブ見て回って、有望そうな子にこうして声かけてんの」

会社公認のナンパ、と笑う。
あぁ、だからこんなに軽いのか、と妙に納得した。

「で、俺はだいーぶきみのことを気に入ったんだけど、どう?今からちょっと事務所来てみない?」

親指でくいっと、まるでやっすいナンパ男のようなその仕草に思わず吹き出す。
だから

「いいですよ」

面白そうだ、と
純粋に思った。



歩いて5分もしない場所に、その建物はあった。
思いの外低かったビルは、この土地の基準法に引っ掛かるかららしい。都会にあるようなものとは違い、横に長く縦は短い。5階くらいまでしかない。

そして何より驚いたのは、この田舎にあるこのビルが本社だということ。

「当時は全然金ないから、ここにこれ建てんので精一杯だったんだと。その後都会にいくつか支社も出来て、そっちに本社移すって話も出たらしいんだけどさ。社長がここ気に入ってて」

時間相応に入り口は暗く、自動ドアも反応しなかった。樫井は正面入り口から少し外れた、横にある小さなドアの鍵を開ける。

「どーぞ」

紳士的にドアを押さえ、先に入ることを促してくるが、その様子もどうにも軽くて

「どうも」

思わず苦笑する。中に入ると

「意外と笑うよね、きみ」
「…え?」

樫井は湊を横から抜いて、前を歩きながら

「喋ってるとすーごい固い顔してっからさ。普段からそういう顔すりゃいいのに」

ニ、と頬を指差して笑うなり、また前を向いて歩き出す。
その言葉を反芻しながら

(…そんなこと)

言われたことなかったから


少し、顔が熱かった。




1階は受付と事務所だった。横に長い建物だけあって、普通のビルよりもかなり広い。

「仮眠室もここにあるから、今日はここに泊まってっていいよ」

シャワーも電気も使い放題、と樫井は笑う。

「あ、ありがとうございます」
「ただ明日からは考えないとな。ま、明日社長に直接聞くとして」

とりあえず上行くぞ、と

「え?」
「スタジオ。見たくね?」

エレベーターの前で天井を指し

「このビル、無駄に金かかってんだよ」

樫井は楽しそうに笑った。



エレベーターで、5階まで。
最上階のそこだけでなく、むしろ2階から上はすべてスタジオしかなかった。

「2階から上がるにつれてスタジオが段々デカくなってくんだよ、用途に合わせて。1部屋ごとの機器も最新で、最近はこれ目当てにうちに来るヤツもいるんだよ。で、特に自信があるのが5階の最高級スタジオ」

5階に着いてドアが開き、樫井はすぐに出て左へ。湊もそれについていく。
着いたところは“スタジオ10”。樫井は鍵を開け

「どうぞ」

湊を促した。

「…どうも」

中に入る。
すぐに驚いた。


「…す…っげ…」

コントロールルームから、ブースへ。
そこには何もなかった。

「すごいっしょー。壁一面にマイクが入ってんのよ。どこでどんな風に音を出しても集音可能でね、まぁ主にオケとかバンド入れて録ることが多いんだけど」

真ん中に立って見回すと、樫井は入り口近くから解説してくれる。
確かに、通常中央にあるはずのマイクはどこにもなく、代わりに正八角形型のブースの壁全面がスピーカーのように柔らかかった。説明からすると、これらがすべてマイクらしい。

こんな形のブースは初めて見た。

「ギター1本で歌っても気持ちいいと思うぜー。なんせ、どんな体勢で歌ったって集音すんだから。ちなみにマイクも高性能」

ふ、と目が合う。違う。湊が樫井をずっと見ていた。
その意図は

「…歌うか?」

ここで歌いたいという、欲。
よほど物欲しそうな顔でもしていたのだろうか、樫井は笑いながら聞いてきた。
湊は目を見開き

「はい…っ!」

ひどく喜ぶ。

「ははっ、じゃあ準備しな。一応録音してやるよ」



コントロールルームに入り、樫井は機械の準備をする。
ふとガラス越しにブースを見ると、彼はすでにさっき持っていたアコースティックギターを構えていた。調律をしている。

(逸材だな…)


歌は、ただの表現手段。
好きな歌も嫌いな歌もない。

ただ、歌がないと生きていけないだけ。

きっと彼は、
うまくなるため、聞いてもらうために練習するのではなく
相手により自分が伝わるように、最善を尽くすだけ。

(あんなヤツいるかね…)

今後、どれだけ練り歩いても、きっとこんな人材には出会えない。こんな考え方をする歌い手には出会えない。そんな確信がある。
有名になることや稼ぐことに必死になっていない彼だからこそ、他の音楽会社に売り込むことなく、取られることもなかったのだろう。

(潰したくねーなー…)

手放したくもない。

野放しでここまで育ってきた彼をしっかりプロデュースしたら、果たしてどこまでの存在になるのか。
どんな歌手になるのか。


ふと、彼がこちらを見る。用意が完了したらしい。
手元の機器を見ると、バッチリ立ち上がっていた。手を挙げて合図を送り、レコーディングを始める。

彼は一瞬笑うと

「……、」

歌い始めた。



なんというか

それは、例えようのない感動で

感動、の中に
この感情が入りきれるのかも定かじゃなくて


ただ、言えるとすればそれは

彼の感情に直接触れてみたいと思ったのと
自分が彼の歌に惚れてしまったことと

もうひとつ、一番大きいのは


かみさまみたいだ、と


そう思ったこと。


目が覚めるとそこは見慣れない場所、なのは、ここ最近いつものことだったが。

(……あ、そうか)

いつもの場所よりずっと安心感があった。久々にぐっすり眠れた感覚もある。
事務所の仮眠室だった。

(…何時だろ…)

遮光カーテンを開けるともうずいぶん明るくて、防音を施されたドアの向こうからは微かに人の声がする。
顔を上げると壁に時計がかけられていて、それによると

「……マジか」

10時半を過ぎていた。



「失礼します」

扉を開けて、中へ。
すぐ手前に、向かい合わせで置かれたソファが二対と、間に机が一つ。
その奥に、こちらを向いて座れる椅子と机。そこに一人の男性。

E.S.レーベルの社長室。それと、社長。

「あぁ、どうぞ座りな」
「失礼します」

ソファを指され、樫井は右手前に座る。社長もその向かい側に座った。手には書類。
昨日樫井が社長に送ったものだった。

「今ちょうど見たよー。相当なお気に入り?」
「はい」

即答。社長は少し驚き、それから笑う。

「そうか、すごいな。“古谷湊”?」
「歌唱力、ビジュアル、理念、性格、どれをとっても逸材です。もう二度と、このような歌い手には出会えないと確信しました」
「確信?」
「はい。確信です」

樫井は揺るがない。絶対的な自信が見える。

珍しいことだ。
樫井は非常にリアリストで、その点やけに非情で、音楽に対する熱意がありすぎるからこそ、歌い手に対してはこの会社内で最も厳しい。
だからこそ社長はこの男を人事に移した。仕事はできるし彼自身はプロデュースを志望していたが、厳しすぎて辞める歌い手が続出したせいでもあった。しかし理想が高いおかげで、彼が捕まえてくる歌い手は質もよく売れる者ばかり。ただその分、連れてくる人間の絶対数が相当少なかったが。

その樫井が、ここまで入れ込む歌い手。
社長が気にならないはずがない。

「…よし分かった。あとでデモも聴こう」
「ありがとうございます。それから」

昨日送ったデータの中には、当然、昨日スタジオで録った曲も入っていた。樫井は礼を言う。
加えて

「ん?」

頼みたいことがあった。

「私を、古谷湊付きの専属マネージャーにしていただきたいのですが」



コンコン、と
扉がノックされた。

二人はそちらを見て

「どうぞ」

社長は許可をする。
扉が開いた。

「失礼します…」
「…あ」
「おぉ」

入ってきたのは湊だった。

「え、あ」
「おはよう。よく眠れたかな?」

顔すら見せていないのにそれが湊だとすぐに察したのは、社員のことをほぼ全員把握している社長だからである。
あからさまに戸惑う湊に、社長は笑顔で話しかけた。

「あ、はい。ありがとうございました」
「ちょうどいい。きみも座りなよ」

その言葉に樫井は腰を浮かせ、奥のソファにずれる。
湊はまた戸惑ったが

「…失礼します」

軽く頭を下げると、空けられたソファに腰を下ろした。


社長、というわりには若い。いや、若く見えるだけだろうか。40代前半から半ばほどに見える快活なその男性は、ソファに座った湊を見ると

「ここまでは社員が?」
「…あっ、はい。樫井さんどこかなと思って。聞いたら案内してくれました」
「なるほど。いーでしょ、うちの社員」
「はい…みなさんとても優しくて」


不安なまま仮眠室を出て顔を出したら、事務所にいた社員の一人が見つけて声をかけてくれた。
樫井の場所を聞くと恐らく社長室だろうと、その人が気さくに答えてくれて、そのまま案内までしてくれた。
そこまでの一連の流れを見る中でも、社員の仲が良さそうで、会社の雰囲気もあたたかかった。


「“楽しい会社”がモットーでね。音楽が好きで情熱があって、さらに人との関係がうまくつくれる人間を採用してるんだ。ま、もちろん仕事ができることは前提だけど」

社長はわざとらしく、ちらっと樫井を見て肩をすくめ

「仕事ができすぎて、次第にわがまま言うコも出てきちゃったけどね」

笑うと、樫井はとぼけたように

「誰でしょうね、それは」
「さぁ、誰だろうねぇ」

社長もくすくす笑う。
そのやりとりを見ただけでも、二人の信頼関係が見て取れた。


少し、
いいなぁと
湊は思う。


すると

「で、どうかな」

社長は唐突に湊を見て

「、はい?」
「きみが嫌じゃなければ、ぜひこの会社に入ってほしいんだけど」

唐突に、スカウトしてきた。

「……え、…?」
「樫井がね、どうやらきみに惚れ込んじゃったみたいでさ。社長としては、優秀な社員のあんな熱意を聞き入れないわけにはいかないし、なにより」

そこまで言うと、社長は一度、ばつが悪そうに目を逸らす樫井を見て、それからもう一度湊をまっすぐ見ると

「きみも、音楽が好きだろう?」

射抜くように、
まるで、自分の思いが手に取られているかのように

「……はい」


これは、このひとの魅力だ
この年でこれだけ会社を大きくしただけのことはある


湊は、呑まれた。


「…よろしくお願いします」

樫井が横で驚くのも、社長が笑うのにも気づかなかった。
ただ、ここで、この会社で、この人たちの下で歌いたいと
純粋に頭を下げた。



「よかったのかよ、こんな簡単に受け入れて」

運転しながら、樫井は怪訝そうに聞いた。
後部座席に座って窓の外を見ていた湊は、バックミラー越しに樫井を見る。

「え?」
「や、まぁ、スカウトした俺が言うのもあれだけどさ。こんな一日二日で決めていいことじゃねーだろ、就職なんだし」

外の景色はどんどん緑が濃くなり、一層人影が少なくなる。
静かだ。

「様子からして、家には帰ってなさそうだったからこのまま来たけどさ。親とかは?連絡しなくていいのかよ」

ちらと、ミラー越しに目が合う。湊は軽く逸らす。
一度息をついて、それから

「…いいんです。俺…もう帰る場所ないんで」


それまでのことを、話すことにした。



着いた場所は、山奥の大きな木造建築。看板には“和良人荘”の文字。

「これか…」

樫井はエンジンを止め、外に出る。湊も倣った。

「……」
「社長もすげぇ人と知り合いだな」

樫井がぼそりつぶやいた“すげぇ”の意味は、湊にもなんとなく分かった。
ここに来るまでの所要時間、距離、走ってきた道の状況。すべてを鑑みても、ここが相当な山奥だということが分かる。
そして、そんな山奥に別荘ならぬ貸し物件を所有し、シェアハウス感覚とはいえ破格の値段で提供している人間が存在するのだ。しかもあの社長は、その人と古くからの友人らしい。

住むところに困っているのならと、すぐに紹介してくれた。

「まぁ、社長はあの通り人を見る目があるし、変なところではないはずだけど。とりあえず行ってみっか」

な、と振り向く。
建物を見上げていた湊は

「…はい」

覚悟を決めたようにうなずいた。



呼び鈴を探したが、見つからないので仕方なく

「こんにちはー」

樫井はガラガラと扉を開けた。湊は続いて中に入る。
すぐに来たのは

「あ、こんにちは」

すぐそこの入り口から出てきた、温和そうな青年。湊と同い年ぐらいの、それでも湊よりよっぽど落ち着いた笑顔のその人は

「片山颯太です。いま管理人呼びますね」

こちらへどうぞ、と靴を脱ぐことを促し、すぐ横にある部屋へと案内する。
樫井は礼を言い、湊も会釈をした。颯太は二人が部屋の椅子に座ったのを見届けてから

「関さーん。お客さん来ましたよー」

そう呼びながら、廊下の奥へと消えていく。

「…住人か?若いな…」

樫井は呟く。
湊も確かに、普通に考えても自分は最年少の住人だと思っていた。何せ高校も卒業していない。それがこんな山奥にひとりで転がり込むなど、湊は異例中の異例だと踏んでいた。それは樫井も同じ考えだった。

しかし

「どうもこんにちは。すみませんね、お待たせして」

社長と同世代くらいの男性と一緒に入ってきたのは

「……」
「…」

明らかに中学生ほどの男の子だった。
湊も樫井も黙ったまま驚く。しかし樫井はそれを飲み込み、立ち上がって名刺を取り出すと

「樫井です。このたびはありがとうございます」
「いえいえ。ご丁寧にどうも」

大人のあいさつを交わした。その男性は湊を見ると

「こんにちは。関和良です。よろしく」

品のいい笑顔であいさつをしてくる。
湊は思わず

「…古谷、湊です。よろしくお願いします」

深々と頭を下げた。
軽く笑われる。

「礼儀正しいね。育ちもよさそうだ。ひょっとしたら、ここの人間は全然タイプの違うヤツばかりかもしれないけど、それでもいいかな?」

少し冗談交じりに言うと、関は横にいる少年に目を向けて

「はい、じゃあ自己紹介」

優しく声をかけた。少年はしかし、入ってきたときからの険しい、頑ななまでの表情を崩さず、小さな、聞き取れるか聞き取れないかくらいの声で

「……安西、恭介」

名前だけぶっきらぼうに言うと、また口を閉じてしまった。


***


「リリースイベント?」
「そう」

菓子パンを頬張りながら樫井は頷く。会社の休憩室で遅めの昼食。ここ最近は毎日こんな感じだ。

「次のアルバムでもう5枚目になるし、前回顔出しもしてる。そろそろそういうメディア向けの催しもしていきたい。デビューについて社長はすでに太鼓判押印済みだが、俺がだいぶ慎重にやってきた」
「え、そうなんですか?」

まさかの告白に驚いて、コンビニのおにぎりから目を離す。

「このペースが普通かと思ってました」
「んなわけあるか。普通もっと早く大量に売りたいと思うもんだ、会社側もアーティスト側もな。ただ、早急に売り出して埋もれたり転けたりすることに耐えられないから、焦らして焦らしてファンを増やしてここまでやってきた。結果、お前にはかなりの曲数をかいてもらった」
「いや、それは別に…。…誰が耐えられないんですか?」

俺か?と思っておにぎりを平らげると

「俺が」

平然とした顔で樫井が答えた。
湊は思わず笑う。この人は本当に、自分の歌を買ってくれている。
樫井は特に動じず

「で、次のアルバムのリリースに伴うイベントをやろうかと思ってな。そんで」

一度、にやっと笑うと

「そっからデビューまで怒濤だ」

まるで悪事を企むヒールのような顔をした。


アルバムリリース、リリースイベント、それを皮切りにしたライブツアー、その千秋楽でメジャーデビューの発表と新曲の公開。そこではこれまでに呼んだこともないようなマスコミにも声をかけるらしい。
そのとんでもない仕事量と長期間の企画に

「……まじっ…すか…」

それまでいかにのほほんと仕事をしてきたか、それに甘んじてきたかがよく分かる。
と、いうか

「いつの間に…来月のライブって単体かと思ってましたよ。ツアーだったんですか」
「あぁ、それは思いつき。箱取れる保証なかったから言わなかったけど、全部取れたからやろうと思って」

用意周到なんだか適当なんだかよく分からないこの男は、それでも真剣そのもので

「どうせやるなら全力でやりたいからな。もちろんデビューした後も失速したら意味ねーから、ツアー中もガンガン曲かいてもらう。まだ出してない曲けっこうあるだろ?」
「まぁ…あるにはありますけど…なんか急にすごいですね」

呆気にとられて嘆息混じりに言うと、何言ってんだ、と逆に呆れられて

「急じゃねーよ。満を持してだ」

準備が出来ただけだよ、と軽く叱責された。


その、一連の企画の前に、湊が命じられたひとつが

「……」

バイトを辞めることだった。

「今だって大して行けてないわけだし、これからはさらに露出が増える。世話になった店にこれ以上迷惑かけたくねぇだろ。これ持って詫びてこい」

と、樫井は都会の有名な菓子折りを持たせてきた。それを片手でプラプラさせながら、店の前に立つ。
路地の一角、地下に続く階段の前。小さな看板が置かれている。

(…行くか)

踏み出す。階段を降りていく。



「あれ、今日シフト入ってないよね?」

店長より先に気付いて、声をかけてきたのは恭介だった。

「きょー…」
「…、…店長呼ぶ?」

嬉しそうだったその表情は、湊の手に提げられた紙袋を見て一瞬強張る。それから眉尻を下げて

「そろそろかなとは、思ってたんだ」

へら、と笑った。


「…もういいよ、頭上げろ」

閉店準備を、店長の藤岡と恭介、湊の3人で終わらせてから、狭いスタッフルームに集まる。中央の机に湊が持ってきた箱菓子が置かれ、唯一の小さな丸椅子には藤岡が座っている。湊は机を挟んで向かい側に立ち、頭を下げていた。
藤岡の声を合図に、緩やかに顔を上げる。

「…ま、分かっちゃいたさ。最近ラジオでもお前の曲聴くぐらいだしな」

大きな黒縁メガネをくいっと上げながら、呆れたように笑う藤岡。それに湊は

「…すいません…散々お世話になっといて…なんか投げ出すみたいな…」
「考えすぎだ。バイトなんてそんなもんだろ。本業が波に乗ってきたんならそれはいいことだ。謝ることじゃねーよ」

飄々と言うその様子に、強がる色は感じられない。どうやら本音のようだった。

「ただし、こんな会社側から用意された菓子だけじゃあ納得いかねーなー。突然辞める償いには足りねーんじゃねーのー?」

箱菓子の箱をつんつんとつつきながら、妙にわざとらしく言う藤岡。にやにやと笑っている。

「…え、なにをお望みで…」
「よくぞ聞いてくれた!」

バン!と机を叩いて立ち上がると、戸惑う湊を放ったらかしで

「要望は4つ」
「え、多…」

4本の指を立てる藤岡に、それまで二人のやり取りを聞くだけだった恭介が思わず突っ込む。しかしそれにはまったく動じずに

「ひとつめ、店内で俺とツーショットを撮る。ふたつめ、色紙に…いや、やっぱりTシャツの方がいいな。Tシャツにサインする。みっつめ、それらを店内に飾るのを許可する」

あまりにもミーハー的な要望に、恭介は苦笑、湊は呆然とする。

「まぁ…それは全然…」
「最後に」

4本めの指を立てると

「デビューのライブ、招待しろよな」

とても嬉しそうに笑った。
その顔で、伝わる。藤岡は、全力で応援してくれている。

「……はい。必ず」

湊も笑った。そして、もう一度頭を下げた。

「本当に、お世話になりました」


「メジャーデビューかぁ…」

帰り道。自転車で並走しながら、恭介は夜空を見上げる。

「寂しくなるなぁ」
「なんで」

軽く笑う。引っ越すわけでも、離れるわけでもないのに。
しかし恭介は

「んー、なんだろな。湊が、“みんなのもの”になっちゃうんだなーと思うとさ」

やっぱり寂しいよ、と。風に掻き消えそうな声で言うそれを、湊は横目で見る。

「昔は、俺だけに歌ってくれたこともあったのにね」

さっきも見た、泣き笑いみたいな顔。
少し、懐かしかった。



***


「じゃあ恭介、案内よろしくね」

3人で樫井を見送った直後、唐突に関が言った。恭介がびく、と肩を張る。そのままゆっくりと関を見たその目は、初めて会った湊にも分かるほど、抵抗と抗議の念を込めていた。
しかし関は、まるでそんなことなど気付いていないように にっこりと笑って

「自分がしてもらったようにすればいいから。まずは湊の部屋を案内しておいで」

全身で拒否する恭介など意に介さずに言った。
恭介は

「……」

肩を落としてため息をついた。



「……なんで恭介くんに?案内なら僕がしますけど」

2人の背中を見送る関に、颯太が近付いて小声で聞く。

「彼はまだ…人と関わることを拒否してますよ」

その颯太の言葉に、それでも関は目線を外さないまま

「うん、でもたぶん、大丈夫だよ」

穏やかに笑う。
そして

「ほら、あの2人、なんか気が合いそうじゃない?」

颯太を見て2人を指した。
その並んだ背中は

「……んー…そうなんですかねぇ…」

たしかに、身長は同じくらいだけど
妙に自信をもった関に、颯太はそれ以上何も言えなかった。



「…ここ」

階段を上がって2階の奥の部屋の前に立つ。恭介がぶっきらぼうに一言発して、ようやくそこが自分の部屋であることが分かった。

「あ、はい」

先ほど関から受け取った鍵を使って扉を開ける。和室の部屋に入ると、恭介も後ろからついてきた。中央に立って振り返ると、恭介は押し入れを開けて

「布団はここ。部屋の中は何しても自由。食事は何も言わなかったら勝手に用意される。昼は弁当。いらない場合は事前申請」

小声でぼそぼそとしたしゃべり方だが、簡潔で分かりやすい。誰かがそのように教えたのだろうか。湊は頷く。

「食事は1階の食堂。風呂も1階の大浴場。洗濯機もそこ。自分の洗濯物は自分で。洗剤はある。トイレは各階。掃除は担当制。今の入居者はあんた入れて6人。……他に質問は?」

それまでずっと押し入れの方に顔を向けていた恭介が、最後にようやく湊を見る。長い前髪からは、大きいつり目が覗いていた。

「…ない、と、思います。丁寧にありがとう」

ぺこりと頭を下げると、恭介の目は少し驚いたように開いて

「……ため口でいい。年上でしょ」

ぷい、と、ばつが悪いようにそらす。少し驚いた。コミュニケーションがとれないわけじゃない。完全に拒否されているわけでもない。湊は微笑む。

「うん。ありがとう」

礼を言うと、今度は分かりやすく照れくさそうな顔をした。



「……それ」

ずっと気になっていたのか、おろした荷物を指して恭介が言う。

「ん?……あぁ、これ?」

特殊な形のケース。湊はそれをもう一度持ち上げて中身を出した。

「ギター。弾く?」

差し出すと、恭介は驚いて半歩下がる。

「いや、無理…」

何言ってんだ、そういう意味じゃない、という反応に思わず笑う。だんだん分かってきた。
湊はギターを持ち直し、緩んだ弦を調節する。軽く音を鳴らすと、恭介の肩がびくりと跳ねた。

「あ、ごめん」
「……弾けんの…?」

突然音を出したことに詫びるのと、恭介が驚いて尋ねてくるのがほぼ同時だった。湊は一度目をしばたたかせると

「リクエストある?」

その場にあぐらをかいて座る。恭介を見上げると

「……なんでも」

恭介もその場に座った。
思わず笑顔がこぼれた。



***


リリースイベント当日。
場所は、いつも使う大きな駅直結のショッピングモールにある、広場のステージで行われることになった。
ステージ横には新しいアルバムを含めたこれまでのCDが並び、それを売るのは

「くー……俺も見たかった…っ!」

唯斗と

「お前それここに来てから何回言うの」

柊だった。バイト先のCD店にイベント物販の依頼が来たため、その日ちょうどシフトの入っていた2人が売り子に駆り出されたのだ。

「ま、偶然とはいえ仕方ねーだろ」

現在はイベント開始前。物販スペースの準備はレコード会社側がすべて済ませていたため、2人の仕事は搬入と陳列だった。

「うちから出してるCDだから店としては儲かるし、臨時ボーナスくれるって言うし、損はないんじゃねーの」

冷静に言う柊に、唯斗は口を尖らせて

「いやそれでもぉー…ミナトのイベントなんてレアだしぃー…」

元々ミナトのファンだったが、ライブなど実際の生演奏は観たことのない唯斗。内容までは知らないが、すぐ近くで初のリリースイベントが行われるというのに、仕事をしていたら観られない上に角度的にもまったく見えない位置という残念な結果。

「しかも、恭介くんは招待されてるって……」
「そりゃ本人と同じバイト先なんだから仕方ねーな」

あまりの落ち込みように、柊は思わず笑う。
そこへ

「お疲れさま。準備済んだか?」

スーツを着て関係者を示す名札を提げた樫井が、2人の元へとやってきた。
湊の送り迎えをすることもあるため、樫井は2人とも顔見知りである。

「お疲れさまです!万全です!」
「そりゃよかった。悪いね休日に。これ、俺からの差し入れ」

唯斗の元気すぎる返事に笑いながら、ペットボトルのお茶を2本手渡す樫井。柊はそれを受け取って

「ありがとうございます。大丈夫なんですか?今ここに来てて」

マネージャーなんだし忙しいんじゃ、と言いかけて、口をつぐんだ。樫井が手のひらでそれを制して笑っていたからだ。

「ところで、いま時間ある?」
「…へ?」

顔を見合わせる柊と唯斗。2人がもう一度樫井を見ると

「今からリハなんだけど」

ナイショな、と、子どもっぽく笑った。



合図をもらってステージに立つ。いつものライブハウスなんかと違って、だいぶ開放的な場所だ。

『聞こえますかー』

マイク越しの樫井の声。自分を含め、今日のスタッフ全員に向けた言葉だ。それぞれは無線で、自分は

「はい、聞こえます」

目の前のマイクで応じる。

『ほいじゃま、そんな時間もないんで、サウンドチェックがてらささっと流しちゃいまーす。イントロとひと回ししたら次って感じで、さくさくよろしくお願いしまーす』

相変わらず軽いノリのような言い方。湊は軽く吹き出す。
プレッシャーを与えすぎない、樫井なりの気遣いだ。楽しもう、音楽なんだ。楽しみ、楽しませなければ音楽になり得ない。
だから、樫井はいつもこんな感じだ。周りもひっくるめて楽しくやろうと率先して努める。それも実は湊と組むようになってからだということを、湊は社長から聞いて知っている。
だから、笑えた。

『おい主役ー、笑ってないで始めるぞー』

しまったバレた、と思わず客席後方に目を向ける。そこには樫井と

(……おぉ)

スタッフを示す名札を提げた、唯斗と柊がこちらを見ていた。唯斗のキラキラした目に、思わずほころぶ。

「んじゃ、いきまーす」

かき鳴らした。


「リハはいい感じ。あとは時間まで問題なければ予定通りスタートする。なんかあるか?」

控え室に戻って樫井が尋ねる。湊は首を振って

「いや、今のところ何も」
「よし。じゃあしばらくここで待機だな。10分前になったらステージ横のテントに移動するから、それまでここで準備しててくれ。弁当買ってくるけど、リクエストあるか?」

いつもと違ってここは店がいっぱいあるぞー、と嬉しそうに言う樫井。湊は笑って

「樫井さんのおすすめで」

軽めでお願いします、と頼んだ。樫井は少し不満そうな顔をしながらも

「まぁここだとお前の方が詳しいだろうしな」

文句言うなよ、と釘を刺して、部屋から出て行った。



樫井の買ってきた昼食をとり、今後の打ち合わせを進める。デビューまでの企画を中心に、プロモーション活動や新曲の方向性など、話し合う内容は多岐に渡った。

その最中、控え室の扉がノックされ

「すいません、本日招待された方が、ミナトさんにご挨拶をしたいといらっしゃいました」

スタッフの声が聞こえた。樫井と湊は顔を見合わせる。

「招待…?店長さんたちか?」
「ですかね…でもわざわざ挨拶なんて…」

こちらまでしに来るだろうか、と首を傾げる。樫井も違和感を抱いた顔をしながらも、立ち上がってドアに向かった。
今回のイベントは、そこまで大きいものでもない。店長と恭介はバイト場所も近いし、辞めたばかりのため招待したが、家の人たちは呼んでいない。ライブツアーでは関係者として招待しようか、と考えてはいた。
だから、この訪問者は

「はい」


誰だ…?


得体の知れなさに顔を向ける。
開いたドアから覗いた顔は、先ほど顔を合わせたスタッフと

「どうも、こんにちは」

穏やかな笑みをたたえた

「……!?」

思ってもみない男だった。



見慣れない顔だった。招待、というからには、必ず知り合いであるはずだった。交友関係の狭い湊の知り合いなど、樫井は全員把握しているはずだった。
だから

「すみません、関係者以外は立ち入り禁止ですが」

そのスーツ姿の男の前に立ちふさがる。湊を隠すように、体を一歩前にすべらせた。その樫井の言葉に、男を連れてきたスタッフは驚いた顔を男に向ける。すると男は、しかし余裕の笑顔のまま

「関係者ですよ。その、中にいる“ミナト”の」

淀みなく応える。
なんだこいつ、新手のストーカーか?
自信満々の立ち姿に、得体の知れない恐怖が背中を走る。とっさに相手の両手とすべてのポケットに目を走らせた。が、凶器らしきものは特に何もなさそうだ。
改めて全身を見る。中肉中背、スーツがよく似合っている。育ちのよさそうな雰囲気、身のこなし。身につけているものも高級そうだ。さらによく見ると、いやよく見なくても、よく整ったやさしい顔立ちをしていた。
ただ、やはり見覚えはない。いくら自信があってもこの中に通すわけにはいかない。
さて、どうやってご退場いただくか、と考えを巡らせる前に

「……樫井さん」

すぐ後ろから声がした。驚いて振り向くと、湊はすぐそばに来ていた。

「おま、離れて…」
「……この人」

ぐ、と睨むようにこちらを見上げる。止めようとした樫井は黙る。
湊はスーツの男に目を向け、スタッフには聞こえないくらいの小声で

「俺の……兄、です」

眉間にぎゅっと皺を寄せて、大きな戸惑いを含んで言った。
その言葉を

「……は…?」

にわかには信じられなかった。



連れてきたスタッフには持ち場に戻るよう伝え、その場に3人が残される。

「兄…」
「はい。古谷満です。免許証見せましょうか?」
「いや、結構です」

本人がそうだと言うならそうなのだろう。確かめるまでもない。しかし、だとしたら余計に

(今さら、兄貴が何しに……)

話はすべて聞いている。ということは、“あの兄”だ。親の金を盗み、それを湊のせいにして逃げた兄。湊が家族を、居場所を失った、その決め手となった張本人。

「……湊から」

目の前の訪問者―満を見る。誰かを嵌め、陥れるような人間には見えない。むしろ、人のよさそうな顔をしている。医者、だったか。なるほど、人気のありそうな医者だ。

「湊から話はすべて聞いています。だからこそ、あなたを招待することはあり得ない。彼に何の用ですか?」

なるべく隠そうとしたが、嫌悪感が滲み出てしまったのが分かった。しかし満はまったく怯まず

「あぁ、すみません。ああでも言わないと湊に会う機会が作れないと思って。連絡先も知らないものですから」

申し訳なさそうに、さらに少しの憂いや悲しみをはらんだ表情をする。それはまるで、本当にそう思っているような口振りで

(改心した…とか…?)

聞いていたイメージとそぐわず、湊をちらと見る。しかし俯いていて、表情は読み取れなかった。

「でも、そうか、なるほど」

納得したような呟きが聞こえて、再び満に目を向ける。満は微笑みを崩さないまま

「“すべて聞いている”、だからこんな大手の会社に拾ってもらったんですね」

よく聞いていなければ分からないほど、表情と口調はそのままに、しかし言葉は

(同情で拾ったってか…!)

どこまでも湊を蔑んだ内容だった。怒りが抑えきれず喉まで出かかる。
すると

「…!」

裾を引っ張られた。驚いて振り向く。湊が

「……」

覚悟を決めた顔をしていた。

「…わざわざ、こんなところまで来たってことは、何か用事があるんでしょ。いいですか」

前半は満に、最後は樫井に向けて言う湊。樫井は悩む。
大事な本番前に、初めてのリリースイベント前に、こんなトラウマの象徴みたいな男と話させていいのか。「いいですか」、ということは、自分を交えず、2人だけで部屋で話そうとしている。危険はないのか。満が危害を加えないという保証は。精神的に攻撃されないという保証は。どこにもない。全くない。だが。

「……くっ…そ……」

湊が、まっすぐ自分を見ていた。
立ち向かう、負けない、そんな眼だった。

「……本番まであと1時間。準備もある、30分前には切り上げろ。俺はドアの向こうにいる。…いいですね?」

最後は満に向けて言う。満は涼しい顔をして

「構いませんが、別に何もしませんよ」

軽く笑った。
湊は、相変わらず硬い表情をしていた。



「久しぶりだな。元気そうでよかったよ」

机を挟んで向かい合わせに座り、満は先ほどから見せている穏やかな表情のまま言う。

「しかもお前、すごい人気なんだな。会場すごかったよ、もう人が入ってた。よっぽど…」
「…いいから」

これ以上何かを喋ろうとする満を遮る。睨み付けた。

「用件は何?こんなところまで何の用?」

本当は、1秒だってこの男と喋っていたくない。でもわざわざこんなところまで、実家から遠く離れた いなか町まで、今日のイベントに合わせて来たのだ。そうだ、イベントの情報だって、公式ホームページでしか知らせていないはず。わざわざ調べて、それに合わせてここまで来た。なぜ?何しに?
その、執着ともとれる行動の原動力は。

「……ま、そうだな。世間話する仲でもないか」

浮かべていた微笑みを崩し、すっと真顔になる。それからすぐに作られた表情は

(……あぁ、これだ)

どこまでも自分を見下した、侮蔑の色。

「お望み通り単刀直入に言う。金を貸せ。300万」

その色を目一杯たたえたまま、満は

「…………は……?」

湊が予想だにしなかった台詞を吐いた。



樫井はイライラしていた。腕を組み、ドアを背もたれに立つ。

(くっそ…なんも聞こえねぇ……)

大きな声を出さない限り、中の会話など聞こえないのは当たり前だった。だが、そんな当たり前のことにすら樫井はイライラしていた。
あの言葉、その意味。満という人間を大して知らなくても、あの言葉だけで十分だった。
湊を、自分を、会社を、侮辱した言葉。

(ムカつく…!なんだあいつ…!)

初対面である樫井に対しあれほどの無遠慮な言葉。それとは対照的なまでの、優しげな表情、声色、仕草や佇まい。つまりは、完全に擬態ができる人間だということ。だというのに樫井に対してそれをしなかったということは、それだけ湊のことを嫌悪、あるいは敵視しているということだろう。

(本当に大丈夫なんだろうな……)

背中にあるドアを睨む。当然、見えないし聞こえない。それが樫井を余計にイライラさせる。

と、そのとき

「おー、お疲れさん」

呑気な声で近付いてきたのは

「……は……え、なんで……あ、お疲れさまです……」

驚きつつも、とりあえず挨拶。
呼んでいないはずの社長だった。

「今日来るって言ってましたっけ…」
「言ってないね」
「ですよね?!あーびっくりしたぁ……。え、どうしたんですか?」
「たまたま時間が取れたからね。ミナトのバイト先にも挨拶したかったし。して、君はそこで何を?」

小首を傾げてドアを見遣る。樫井もそちらを一瞥してから

「…実は…湊の兄が来て…」
「兄?家とは縁を切ったんじゃなかったか?」
「そうなんですけど、調べて来たみたいで…」
「わざわざ?」
「はい…何か用があるみたいでしたけど…」

樫井の言葉に、社長は ふむ…と腕を組む。それから

「ちょっと、頼まれてくれるかな」

何かを思い付いたように微笑んだ。


「…は…300万…?」

呆気にとられる湊。満は腕をくんでふんぞり返り

「あるだろ?それくらい。“大人気のミナトくん”なら」

言いながら鼻で笑った。
とても金を借りる人間の態度ではない。そんなことは満にも分かっているはずだ。だが、それをしない。おそらくできない。湊相手には、こういう態度でしか接することのできない、歪んだプライド。
湊は奥歯を噛み締める。

いかれてる

「…ふざけんな…」
「ふざけてないよ。現実を見てる。とても合理的だ。お前は貸すしかない」

余裕の表情、いびつな笑顔。
兄と、こんな風に向かい合って話すなんて、これまでにも記憶にない。こんな奴だったか。
こんな奴、だったのか。

「だってほら、お前は“前科”がある」

その言葉に、思わず眉間に力が入る。意味が分からない。
その表情を読み取って、満はさらに口角を上げた。笑いを押さえきれない、みたいな顔。

「父さんの金、盗んでただろ?」


瞬間、フラッシュバック。

寝室
怯えた顔
4万円

侮蔑の眼
無視

重苦しい、家族


ガタン、と音が鳴る。
パイプイスを倒し、机に手をついて
湊は立ち上がっていた。

「勉強に集中できず医大に受からないことが分かり、諦めたと同時に逃げるために音楽の道へ。ただ小遣いはストップし、生活は苦しく、医者である父の金を盗んでいた。それが親にバレ、追い出された。これが“大人気のミナトくん”の真相!父さんも見てるからね、証言だってしてもらえる。週刊誌にでもタレコミすれば、高く買ってくれるんじゃないかなぁ」

わざとらしく両手を広げ、嘲笑う。どうやらこれをネタに、金の無心に来たようだ。


いかれてる、どうかしてる

これが、兄
自分の、まごうとなき兄

腹立たしい
悲しい
こんな人間が、自分の家族
家族にこんなことをする人間が


たとえば今、300万を渡したとして、それで終わるはずはないだろう。一度渡してしまえば、何度でも同じ手法で金をせびりに来る。
ここで、絶たねばならない。確実に。


血とか、関係ないっしょ



(……え…)

唐突に浮かぶ。
これは、

(……柊…?)



それより、目の前の人を大事にしたいかなぁ……俺は



はにかみながら、それでもはっきりと
伝えてくれた言葉は、きっと
自分自身への慰めだったのかもしれないけれど


(……そうだね、柊)

スッと、怒りが消える。
浮かんだのは、あたたかい気持ちと、

微笑み。


(……何笑ってんだこいつ…)

さっきまで露にしていた怒りは唐突に失われた。その笑顔は、満が今までに見たことのない表情で

(というか…こいつの笑顔なんて)

家で見ていた湊は、いつも俯いて自信がなくて、不安そうで
記憶の限り、笑顔なんてものは覚えがない。
それが作ったものにしろ。



(出来の悪い、弟)



それは、満にとってもそうだった。



***


4人家族。だが、家族としては大いに崩壊していた。その自覚はあった。
物心ついたときから家には何人もの使用人がいて、弟がその人たちに育てられているのを見ていた。それで察する。

父も母も
自分たちに興味がないのだと


幼い頃から、顔色を伺ったり察したり、人と関わるのが器用なタイプだったように思う。相手が何を求めているのか、いま何をすれば物事が円滑に進むのか、どうすれば自分が得をするのか、そういうのを考えるのが得意だった。だから、学校の学習なんて手に取るように理解できたし、苦労もしなかった。少しの努力で結果はすぐについてきた。
それが、自分の生きる術だった。

勉強が、できれば。
人から信用されれば。
自分の価値が上がり、生きていける。家の中での存在意義がある。

父の求める姿は容易に想像できた。
同じ道を歩く。父の栄光を浴びながら、父を越えぬようにしながら。
そうすれば、地位も、金も、確約されていた。

不自由はない。不満もなかった。
小学校、中学校、高校と進学するにつれ友人の幅は増えていったが、増えれば増えるほど、自分がいかに恵まれた家で生まれ、才能をもち、それを使える場にいるのかを目の当たりにした。
世の中には、「そうではない」人があまりに多かった。
だからといって、それをひけらかすようなことをすれば、人が離れていくのもまた知っていた。

体裁よく、外聞よく。
生きていくためには、必要な所作だった。



それがまったく出来ないのが、弟だった。

同じ家に生まれ、同じように育てられたのに、弟はどこまでも生きるのに不器用だった。
今思えば、弟はそういう意味では「普通」の子どもだったのだ。
わがままを言って大人を困らせ、注目してほしくてヘタクソな絵を見せびらかし、何度も何度も親の名前を呼び続ける。そして、それがすべて受け入れてもらえない。だから、求めなくなる。諦めていく。
常に兄と比べられ、叱られ続けた弟は、俯き、笑わなくなった。

頭が悪いんだ。
自業自得だ。
そんな風にするから怒られる。
しなきゃいいのに。うまくやればいいのに。

でも、弟にはそれが出来なかった。



順風満帆だった自分の人生に影が落ちたのは、大学生のときだった。
弟が、初めて父親に反抗した。

その日は珍しく、家に帰ってきた父がそのまま弟の部屋に行った。隣の部屋でそれが分かって、少し気になって自室のドアをわずかに開ける。
聞こえたのは
「医大には行かない」
という弟の声と、父の怒声。
憤慨して部屋を出た父に慌ててドアを閉めた。

父の言葉は覚えていない。それだけ衝撃的だった。
“父に背く”という選択をした弟の行動が。


医大に行かない?
医者にならないということか?
まさか
そんな選択肢が有り得るのか

心臓が逸る。
背筋がうすら寒い。
恐ろしい。
同時に
強烈な羨望。


嘘だろ
自分は何をしてきた
何を選んだ

何もしてきていないみたいな
それを突き付けられたような
恐怖


やりたい
自分も
何か
自分で決めたことを

父を
母を

裏切るようなことを



有名私大で、医学部。
金も学力も持ち合わせた人間が集まったように見えても、どうしようもない屑は潜んでいる。
むしろ、金も学力も持ち合わせたからこそ、かもしれない。

「古谷くんも行く?トランプバー」

これまで笑顔でかわしてきたそういう連中に、いつものごとく声を掛けられた。
たまたま講義が一緒で、たまたま近くに座っていただけだったから、社交辞令的に誘ってきたのだろう。この後は講義もないので帰るのみだが、普段であれば丁重に断っていた。奴らもそれを想定しているような口振りだった。

だが、弟の“反抗”を見てからの自分は、それまでとは違っていた。

「…いいね。行ってみようかな」

案の定、相手は非常に驚いた反応をした。


“良い子”でやってきた。
周りから見てもそうだった。
それが生きる術で、それが楽だったから。

だが、それだけだった。
父の決めるまま生きてきた自分は、“父の息子”以外の何者でもなくなっていた。

破りたい。破ってみたい。
少しでいい。ずっとじゃない。
この安定と周りからの羨望の眼差しは、易々と捨てられるものじゃない。
いま、ほんの少しだけ、
外れてみたい。

少しだけだ。


楽しかった。
金に困ってはいないから、ギャンブルというよりはむしろ、純粋にトランプを楽しんだ。
負けると腹が立った。
勝つと嬉しかった。

次だ、
次、
もう一回
もう一回



気付けば、残高は底をつきかけていた。


まずい
親からの小遣いは、銀行の口座に振り込まれる。学業に関しては臨時で払ってくれるが、遊びに関して追加を申し出たことはない。何しろ、十分すぎるぐらいもらっていたからだ。

今さら足りないなど
何をしたか問われる
それはまずい

どうする
どうする
どうする


(……あ)


心当たりがあった。



「古谷くんヘーキ?今日も行ける?」
「あぁ、先に行ってて」
「でも昨日けっこー負けてたよね?お金大丈夫なの?」

笑いながら、大負けした自分を思い出している。
癪にさわる。こんな奴らに、俺が負けるはずないんだ。

「大丈夫だよ。一回帰って荷物置いてくるね」
「はいはーい。じゃ、あとでねー」


ムカつく
負けっぱなしで終われるか
俺より下のくせに

金ならあるんだ



両親の寝室。と言っても、そこでは父しか寝ていない。母は随分前から家ではほとんど夜を過ごさない。いたとしても、自分の部屋で寝ているらしい。それが何を意味しているのか、分からないような年齢でもない。
その寝室の引き出しに、現金が入っている。鍵付きだが、鍵の在処は知っていた。以前の使用人が教えてくれていた。
その現金は恐らく公表できないもので、だから例え無くなったとしても、警察に届けることはできないものだということも。


金の確保をしたことで、ますますギャンブルにのめり込んだ。

そしてあの日
弟に見つかった。


***



「断る」

はっきりとした真っ直ぐな声が、顔面にぶつかる。
これまでとも、今までともまるで違う、迷いのない確かな言葉。
驚く。

「…さっきの話、聞いてなかったのか?」
「タレコミでもなんでもすればいい。事実無根だ」
「父さんだって見てるんだぞ?あの人の影響力が分からないほどバカじゃないだろう」
「あの人は言わない」

視線が刺さる。
力強い眼。

こんな顔、だったのか

「あの人にとって、俺はもう息子じゃない。俺と関わりをもつ方が嫌なはずだ。俺を陥れるために自分が発言するなんて、そんな小さいことをするはずがない。プライドが許さない」

思わず黙る。その通りだった。父が、こんなことのために発言してくれるはずもない。名前だけ使おうものなら、記事そのものが潰されかねない。
あの人はそういう人だ。

「大体、あんただって金に困るような生活はしていないはずだ。それがこんなところまで、縁を切った俺のところまで来るなんて、それこそあの人には言えないんじゃないか?本当に困った金なら、あんたにはあの人は払う。でもそれをしない、できないのは、あの人には頼めないってことだろ。あの人に頼めない金なんて、用途もたかが知れてる」

ギャンブルか女か、ヤミ金か
用途まで当てられて、何も言えなくなった。圧倒された。
気迫、眼力、声の強さ。
自信に溢れている。
自分にはない、確固たる信念に裏付けされた自信。

あの頃とは違う。
違う人間が目の前にいる。

たくさんの人に愛されて育った、湊という人間は
もう、自分の弟ではなくなっていたのだと


ようやく気付かされた。


「二度と来るな。俺は、あんたとは何の関係もない。そうしたのは、あんた自身だ」

触れてもいないのに
殴られたような痛みが、胸にじんじんと残った。




ガチャリ、ドアが開く。
樫井は咄嗟に振り返った。

「…み…」
「樫井さん、先にテント行ってていいですか」

声を掛ける前に、勢い込んで言われる。憤りに満ちた眼だ。珍しい。呆気にとられた。

「あ、おぉ…まだちょい早いけど…」
「いいんです。バンドの皆さんそちらにいますよね」
「あぁ…いるいる…」
「じゃあ行ってます。もう終わりましたんで、よろしくお願いします」

ぶっきらぼうな言い方ではあるが、はきはきとしていて言葉尻は相変わらず丁寧だ。そのちぐはぐな感じがなんとも不自然で、樫井は戸惑う。湊はそんな樫井を置いて、さっさとステージの方へ向かった。

「……なんなんだ…」

樫井は呟き、開いたドアから中を見る。満は唇を噛みしめ眉間に皺を寄せ、険しい顔で俯き座っていた。満が来たときに湊がしていた表情を、今度は満がしている。
よくわかんねぇな、と首を傾げた樫井に、また

「樫井さん」

少し離れた場所から湊が呼ぶ。そちらを見ると

「セトリ、変えてもいいですか?」

覚悟を決めたような顔で聞いてきた。
樫井はよく分からないまま

「あぁ…まぁ、バンドがよければ」
「分かりました。ありがとうございます」

打ち合わせしてきます、と言葉を残し、改めて踵を返した。
その背中を、樫井は呆然と見送る。見えなくなってからようやく

「…あー、まぁよく分かんないんスけど」

部屋の中の満に声を掛ける。満はのろのろと頭を上げ、苦しそうな表情を向けた。

「来てもらってもいいですかね。業務命令なんで」

樫井は頭をかき、至極めんどくさそうに言い放つ。満は分かりやすく疑問符を浮かべた顔をした。


満が樫井に案内されたのは、客席、しかも関係者が座るステージの目の前の席だった。

「……」
「あ、いた。社長、連れてきましたよ」

ため息混じりに不本意そうに、樫井が声を掛けた先は

「おぉ、ありがとう。満くん?どうぞ座って」
「……あ…」

満もメディアで顔を知っている、“E.S.レーベル”の社長だった。

「初めまして。E.S.レーベルの春海です」

丁寧な所作で名刺を渡してくる。受け取って慌てて

「すみません、いま名刺は…」
「あぁ、いいよいいよ。仕事じゃないし、持ってなくて当然」

にこりと笑う、そこには何の裏も見られない。柔らかく、愛と情に満ちた笑顔だ。初対面の満にもそう見える。
そのやり取りを待ってから

「じゃあ、持ち場に行ってますので。何かあったらすぐ連絡ください」

樫井は堅い表情のまま春海に言う。一方で春海は穏やかに笑って

「分かった。頑張っておいで」
「…行ってきます」

その顔と言葉で、樫井の表情が少し緩んだ。またぺこりと頭を下げると、満には一瞥もくれずにその場をあとにする。春海は苦笑した。

「申し訳ないね。悪い子じゃないんだけど、ちょっと頑固でね」

社長として、というよりは、まるで保護者のような口振りと謝罪。あぁいえ、と満は首を振る。
敵意を向けられても仕方ない。そう仕向けたのは自分だ。
つい樫井の後ろ姿を目で追う。すると横から

「彼、樫井はね、学生時代に友人を亡くしてるんだ」

思わぬ内容の話が飛んできた。驚いて春海に目を向ける。春海は変わらず穏やかな表情だったが、それでも少し悲しげだった。

「その友人は、小さい頃から病気で体が弱かったみたいでね。それでも音楽が大好きで、しょっちゅう路上に出てはギターで弾き語りをしていた。それを、樫井はよく聴いていたみたいでね」

話し方、声。
まったく興味のない話であるはずなのに、不思議と引き込まれる。周りの喧騒など耳に入らなかった。

「余命幾ばくもない人間が生み出す音楽だ。人は知らずともそれに心奪われる。私もその一人だった。会社はまだ起動に乗ったばかりで、もう少しアーティストが欲しい時期だった。偶然、路上で出会った彼に、私は声を掛けたんだ。もちろん、病気のことなんか知らなかった」



青年、というよりは、少年のようなあどけなさを残した顔で、彼は笑った。

僕、もう“ながくない”んですよ

私は驚いた。同時に納得もした。だからこそ、動かされたのだと。余計に食い下がった。

ならば、君の名前を残したいとは思わないか?

困ったように笑う彼の横から出てきたのが、当時の樫井だった。

おいおっさん、違うだろ



「その時から口が悪いのは変わってないね。まぁ、友人をスカウトしようとする怪しいおっさんを敵視していただけなんだろうけど」

春海は当時を思い出して笑う。笑いながら、はいこれ、と差し出してきたのはペットボトルのお茶。

「え…?」
「差し入れ。一応、お客さまだからね」
「あ、いや……すみません…」

断る余地を与えない差し出し方に、満は渋々受け取る。開けて飲む。飲んでようやく、自分がとても喉が渇いていたことに気が付いた。



あからさまな敵対心を寄せる青年の樫井。そちらを見ると

おっさんが欲しいだけだろ。こいつの歌と名前

そう言い放ってきた。
図星だった。というか、気付かされた。
彼のためだと言いながら、本当は誰よりも自分のため、自分の会社のための行動だった。恥ずかしくなったね。だから、素直に謝ったんだ。

そうだね、ごめん。私が君の歌に惚れてしまったんだ

そうすると、樫井はきょとんとしていた。友人の彼は、声を上げて笑っていた。そして

スカウトは受けられませんけど、リクエストなら受け付けますよ

そう言って、私自身を受け入れてくれた。



「彼の歌は素晴らしかった。純真できれいな、誰にも媚びない、まっさらな歌だった。樫井はそれを、横でいつも聴いていた。彼が亡くなったのは、それから1年後くらいだったかな。本当に残念だった。そして数年後、樫井がうちの会社に来た」



就職先の選択肢の1つだったのだろうが、その面接では並々ならぬ決意と熱を感じた。音楽への理想、情熱、愛が伝わって、もちろん採用した。第一志望だったようで、二つ返事でうちに来た。
最初に挨拶に来たとき、樫井は迷いもせずにこう言った。

あいつのようなアーティストを生み出します



「それ…って…」
「そう。困ったよね。もちろん彼は素晴らしいアーティストだった。でも、“彼のような”アーティストを目指す時点で、元のアーティストの人間性は失われていく。アーティストを育てたりプロデュースしていくとき、“誰か”を目指してはうまくいかない」

春海は困ったように肩を竦める。

「何度か言ったんだけどね、あまり効果がなかった。……亡くなった人は強い。それがプラスの思い出であればあるほど、その人はどんどん美化されていく」



彼を目指す樫井の方針は、若手アーティストをどんどん追い詰めていった。樫井も苦しそうだった。樫井の思いに応えられないアーティストも、アーティストの思いと良さに気づけない樫井も、どちらにとっても不幸だった。

だから



「樫井を、スカウトに異動したんだ」



不服そうな表情だった。だが、これ以上前途ある若手が潰されるのは会社にとって痛手であること、そして樫井が自身でアーティストの卵を見つけ、それを育てるのであれば、何かに気づくのではないかと思ったことから、業務命令を押し通した。

理想を追うなら、追える人材を自分で見つけてきなさい

そう言うと、樫井も苦々しく頷いていた。壊しかけている自覚はあったんだろうね。でも、どうしたらいいのかは分からないみたいだった。
そこから少し、樫井は落ち着いた。全国の色々なアーティストたちを見て、それぞれの違いや良さに気付いてきたのかもしれない。



「樫井が連れてくる子たちは、本当に才能溢れるアーティストばかりでね。我ながら適材適所だと思った。知ってるかな、最近うちから出たバンド。彼らも樫井が見つけた子たちだよ」

バンド名を聞いて驚く。ここ最近、新曲を出すたびにランキングを占めている超人気バンドだ。
その他3組のアーティストを言われるが、音楽に詳しくない満でもすぐに曲が浮かぶような有名アーティストばかり。唖然とする。それを、デビュー前に見つけてスカウトする、その観察眼。

「すごい…ですね」

世辞でもなんでもない、正直な気持ちだった。それを聞いて春海は笑う。

「そう、すごいよね。向いていると思った。樫井自身もその仕事にだいぶ自信をつけてきたし、誇りをもち始めた。自分が見つけた原石が、磨かれて社会で輝いていたら、そりゃあ誇らしいよね」

満は頷く。そこでようやく、春海は満を見て

「そんなときに、湊と出会った」

核心を突くような言い方だった。


初めは、声。
突き抜けるような、強さと真っ直ぐさ。

次に言葉。
染み渡るような、シンプルで洗練された歌詞。

そして、思想。
表現方法の一つとして、息をするように音楽を操るその理念。


逸材だった。


「驚いたよ。もちろん湊の才能にもだが、何よりあの樫井が、“逸材だ”とはっきり言った。“もう二度と出会えないと確信した”って」

樫井のこれまでを聞いたからこそ、その言葉がいかに希少で、覚悟の伴ったものであるかが分かった。
それだけ、湊の歌は樫井の心を掴んだのだ。

「さらに驚くことに、自分から希望してきたんだよ。“専属マネージャーにしてくれ”って」

思わず春海の方へ顔を向ける。それが分かって、春海は笑った。

「すごいでしょう?湊の歌は、人を動かす力があるんだよ」

この人たちも、きっとね
そう言うと、後方に目を遣る。つられて見た。
ステージを楽しみにしている、いくつものキラキラした顔。何が始まるのか分からないような人もいるが、その人たちもきっと、湊の歌を聴けば変わらずにはいられない。
それを、春海も確信しているのだ。

「トランプバー“ace”」
「…!?」

呆けていた満の頭は、唐突に放り込まれたその言葉に一気に現実へと引き戻される。
春海の顔は、先ほどまでと何ら変わりない。

「だいぶハマってるみたいだね。負け金額言おうか?分かってるかな?」
「…な………」

息がしづらい。
鼓動が逸る。
あつい
さむい
汗がつたう。

バレている
なぜ
初めて会った人間に
なぜ

「ヤミ金に借りた額は100万。でも今はもっと大きくなっちゃってるよね。借りたところが悪かった。その筋の人もそろそろ出てくるんじゃない?」

春海の呆れた顔が遠い。けれど声だけは頭の中で大きく響く。
胃液が逆流しそうな不快感。座っていなければ倒れそうだ。

「顔色悪いよ。大丈夫?」
「…なん…で…?」

振り絞った疑問。聞かなければ落ち着けない。なぜ、知っているのか。
春海は軽快に笑い

「あぁ、心配しなくてもこんな情報、“調べなければ”誰にもバレないよ。私は湊が来たときに、素行調査を兼ねて知り合いに調べてもらったんだ」

アーティストの採用のときには全員やってるの、と何ということもないように言う。

「この業界、あることないことマスコミに書かれるし、ちょっとしたことでも足元を掬われることがある。だから芽は小さいうちに摘んでおきたくてね。マスコミのエサになりそうなものはこちらで把握しておきたいんだ。そうしたら…」

ふと、何かを思い出したように春海はくすくすと笑った。満は怪訝な顔を向ける。

「いや、縁切られたって言うからどんな親かと思ったらさ、両親も君もすごいね。表は真っ白、裏は真っ黒。あ、物的証拠は何もないから安心して。どこかにリークするつもりはないよ。私は湊を守るために調べただけだから、君やご両親には興味ない。言うなれば、自首を勧めるよ」

本当に興味のないように春海は言う。呆気にとられた。

なんだ、この人は
目的と手段がはっきりしている
それを間違えない、取り違えない
そこに私的感情を介さない
先ほどの樫井とは違う

笑っていても
冷徹なまでの


「私はね、君に感謝してるんだよ」

穏やかな声は変わらない。だが、そこに優しさのようなものは感じられない。
恐怖にも似た感情で見ると

「君が“やらかして”くれたから、湊は巡りめぐってうちに来た。ありがとうね」

にこり、笑ってはいたが
そこに込められたメッセージは

えげつないほどの軽蔑。
同時に、脅迫。

湊に手を出せば、この社長が黙っていない。握りつぶされるのはこちらの方だ。マスコミ操作など、春海にこそ分がある。

自分の身が可愛いなら
二度と現れるな


まるで
首にナイフを突き付けられているような殺気だった。





まずステージに出てきたのは、ドラムやベース、キーボードなどのバンド隊。だが、位置につくだけで演奏はしない。
少しの間があいて、ギターを持った湊が現れる。
途端、沸き上がる歓声と拍手。湊はステージ中央のマイクの前に立つと、それに応えるように深々と頭を下げた。観客はさらに盛り上がる。

湊が顔を上げた。マイクに手を添える。
何かが始まる気配に、観客は静まる。


大きく吸い込んで

放った。


「……あれ?」

聴こえてきた歌。違和感を抱く。
唯斗の言葉に反射的に

「なに?やらかした?」

柊が反応する。
演奏が始まるため、客足が少し引いたCD売り場。今のうちにと、慌ただしく散らかった机上や売り上げ表を整理していた最中の唯斗の言葉だったから、柊が焦るのも当然だった。それが分かって、唯斗は首を振る。

「いや、そうじゃなくて…」

顔を向けたのはステージ。ここからは見えない。だが、音はよく聴こえる。

「セトリ変わってる」
「…せとり?」
「セットリスト。リハーサルのときと違うから…変えたんだなと思って」

唯斗のその言葉に、柊も売り上げ表に向けていた目を上げて曲に集中する。
言われてみれば。

「……あぁ、確かに。この曲無かったかも。なんだっけこれ」

売り物のCDに目を向けた。どのアルバムの曲か、と思い出す前に

「最初のアルバム…『あい』の1曲目。俺これ好きなの」

唯斗が4種類の中から1枚を出し、柊に見せる。真っ白いジャケットに、黒い手書きの文字で『あい』。ミナトのインディーズデビューアルバムだ。

「1曲目…てことは、最初のほんと最初なんだ」
「そう。これ聴いてファンになった人多いって聞くよ。俺もそうだし」

唯斗は笑う。柊も同じアルバムを手に取った。裏返す。アルバムに収録された曲名が並んでいる。
その1曲目。



『訣別』


「……は、マジか…」

思わず笑みがこぼれる。セットリストをどう変えるか聞かなかったら、まさかのこの曲。しかもド頭。さらにアカペラ。

「…さすがだよ、ミナト」

樫井は感服する。
どう考えても最高の演出。
敵わない。

「忙しくなりそうだなぁ」

くつくつと
笑いが止まらなかった。




声に呑まれる。


大きい波のような
強い光のような
圧倒的な力に気圧される。


これが、湊。
湊の歌。

知らない。
こんな姿も、声も、顔も

知らなかった。


言葉が飛んできてぶつかる。
最後のフレーズが、やけに耳に残った。


今日など 捨て置け
過去など いらない

明日へ 明日へ
飛び出せばいい

さあ 呪いをとけ






「ミナト、お疲れさん」

テントに捌けてバンド隊と互いを労っていたら、そこに入ってきた顔に驚いた。

「え…社長?!」
「いやーよかったよ。いいステージだった」

にこにこしながら寄ってくる春海に、湊は慌てて頭を下げる。

「あ、ありがとうございます」
「満くん」

下げた頭のすぐ側、耳元で落とされた小声。驚いて顔を上げる。春海は笑顔だった。

「自首するってさ」
「……え……」

まんまるく見開かれた目に、春海は ふふ、と笑う。湊が聞きたいことはたくさんあるのだろうが、それは樫井に任せよう。
今はとりあえず

「お疲れさま。これからもっと忙しくなるよ」

頑張ってね、と言うと、湊はあからさまに戸惑った表情で

「…あ、…はい……がんばります……」

それでもうなずいた。


「はぁ…そんなことが……」

帰りの車内。運転する樫井から、春海が言っていた事の顛末を聞いた。
驚いた。

「な。俺も社長から聞いてびっくりしたよ。自首したんなら、ひとまず安心だな」

ふぅ、と息をつく樫井。湊もうなずく。

「…色々、すみませんでした。迷惑かけて」

ぎゅ、と目をつぶる。
すると、樫井の笑い声が聞こえた。バックミラーを見ると、樫井の朗らかな笑顔が見えた。

「何が迷惑?お前はただ、自分の過去に決着をつけただけだろ。それは俺にとっても会社にとっても良いことだ。結果オーライ」

軽快に言う樫井に、湊は思わず笑う。
本当にありがたい。

これまでもらえなかった一生分の愛を
いま、こんなにももらっている

「ありがとうございます。…樫井さん」
「ん?」

ちらと、バックミラー越しに目が合った。

「これからも、よろしくお願いします」

こぼれた笑顔。樫井も笑って

「おーよ」


車は、山道を進む。



「じゃ、皆さんによろしくな」
「はい。お疲れさまでした」

車の窓から手を出し、ひらひらと振る樫井を見送る。車が見えなくなると、湊は後ろを振り返った。
大きな木造建築。和良人荘。

帰って来た、我が家。

「ただいまー」

扉を開ける。ガラガラと音が鳴る。
同時に

「おかえりー」
「おかえりなさい!お疲れさま!」

声と、顔。
脱衣所から出てきた柊と、居間からわざわざ顔を出した唯斗だった。

「今日はありがとね、二人とも」
「いやいや、仕事ですし」
「てか最高だった!見えなくても最高だった!」
「マジでね、演奏始まってからの仕事ぶりほんとひどくて」
「やーそれは本当に申し訳ない!ごめんて!」

謝る唯斗に笑う柊。
その賑やかな会話を聞きながら、靴を脱いで靴箱に入れて

「…?!?!」
「?!?!」

柊を抱きしめた。

「…ありがとう、柊」


きみのおかげで
大切なものを失わないで済んだ


固まる柊。唖然とする唯斗。
柊は目線で(なに?なにごと?)と聞くが、唯斗も分からずぶんぶんと首を振る。
湊は ぽんぽん、と柊の背中を叩いて

「ありがとね」

もう一度言った。
それで唯斗は我に返り

「えー柊ちゃんだけ?俺も頑張ったよ!」
「ごめんごめん、ありがとなー唯斗」

柊から離れ、今度は唯斗をハグする湊。残された柊は訳が分からないまま、わーい、と言いながらハグする二人を見る。

(なんだったんだ…?)

疑問顔のまま見ていると、ふと湊と目が合った。湊は

「…!」

柊も面食らうほどの笑顔だった。

live

live

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-06-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. はじまりのうた
  2. 新しい場所
  3. 那緒